僕がもたもたしていて、数日を無駄にしたのち、里菜のほうからアクションを起こしてきた。合鍵を渡しているから、彼女が僕の家にいるのは当たり前なのだけれど、仕事から帰ってきて、玄関に彼女の靴があるのを見て、心臓が飛び出しそうになった。
 僕は、ごくりと唾を飲み込んで、靴を脱いだ。部屋に入る。
「おかえり、久しぶりだね」
 ソファーに座っている里菜は、僕と目を合わそうとはせず、静かにそう言った。
「ただいま、うん、久しぶり」
「私のメッセージに返信もしないで、そんなに仕事が忙しかったの?」
「ごめん……」
「おかしいな。私の国語力が悪いのかな。答えになってないよね」
「忙しくは、なかった、いや、暇だったわけでもないけど」
 僕は背中に汗をかいて、しどろもどろになっていた。
「どうしてそんなにビクビクしてるの?」
 僕は言葉に困り、何も言えないでいた。やましいことなんてないはずなのに。僕は、何をそんなに怯えているのだろう。
 里菜が立ち上がり、棒立ちになっている僕のほうへ近づいてくる。僕は無意識のうちに全身に力を入れていた。里菜の手が伸びてくる。僕はぎゅっと目を瞑る。だが、予想していた暴力は、飛んでこなかった。抱擁。シャツの中をまさぐるように、里菜の腕が僕の体にまとわりついてくる。
「やめろっ!」
 僕は反射的に身を捩っていた。里菜は驚いた表情を浮かべて、僕の顔を見返してくる。行き場のなくなった彼女の腕が宙を彷徨い、やがてだらりと体の横に垂れ下がった。
「アキト……?」
 僕は里菜から目をそらした。彼女の傍を通り、リビングに入る。ソファーに腰を下ろして、ベランダの窓に視線を移した。
「そうやって自分の都合の良い時だけ甘えてきてさ、僕をなんだと思ってんの?」
 それは、僕が里菜に初めて見せる拒絶だった。言ってしまってから、心臓がバクバクしてくる。酒を飲んだときのように鼓動が早くなり、唾を飲み込むことすらしんどくなった。
「アキト、ごめん、違うの」
 里菜が逆上してくる可能性も考えていたが、彼女が感情を乱すことはなく、むしろ焦ったようにそう言って僕の隣に座ってきた。
「私はアキトのこと、好きだよ」
 僕のことが好きなら……なんであんなこと……。
「なあ里菜、それなら、一度話をする必要があると思わない? 僕たちの今の関係は、お世辞にも良いとは言えない。そりゃ、会社の人たちからはお似合いだとか言って持て囃されているけど、実際蓋を開けてみれば、僕は里菜に酷い目に遭っている。僕は里菜の彼氏として、それすら受け止める覚悟でいたけれど、最近ちょっと限界なんだ。……僕は」
 そこで僕は言葉を切って、窓から里菜に視線を移した。