「あ、シバイヌさーん!」
 集荷先で声をかけられた。カウンターに置いてあった封筒の伝票に、荷物のサイズを記入していたときだった。追加の荷物でも持ってきたのかなと思いながら、僕は声のした方を向いた。声をかけてきたのは、事務員の女性だった。黒縁の眼鏡をかけていて、見た目は五十代くらいに見える。化粧っけは薄く、長い髪を後ろでひとつに束ねている。彼女は手にはなにも持っていなかった。胸元の名札には、『有瀬 真澄』と記載されている。
「ごめんなさいね、忙しいのに。少し聞きたいことがあって、ちょっとだけ時間、いいかしら」
「あ、はい。なんでしょうか」 
頷いたとき、有瀬さんの左手の薬指にはめられている指輪が目に入った。有瀬さんはその左手をすっとあげて、「ちょっとこちらに」と、小声で僕を促した。事務所を出て、人気のない廊下に二人で向かい合う。
「木嶋さんっていう事務員がいたんだけど、おにいさん、面識あった?」
「ええ。最近見ないなとは思っていましたけど、以前は毎日のように荷受けをしてくれていました。それがどうかしましたか?」
 僕は有瀬さんの「事務員がいたんだけど」という発言が引っかかった。過去形。それはつまり、木嶋さんがもうこの会社には在籍していないことを示唆している。
「彼女から、飲み物をもらったことはない?」
「いつも僕のために、コーヒーを用意してくれていました。すみません」
 わざわざそんなことを聞くのだ。なにか社内で問題になったのかもしれないと思って、僕は詫びの言葉を付け加えた。有瀬さんの表情が変わる。ほんの一瞬、視線をそらして、まるで言葉を探すように虚空を見つめていた。
「それを飲んだあと、体調を崩したりしなかった?」
「えっ?」
 予想していなかった質問に、僕は思考がストップした。今までお客さんから差し入れをもらって、それを口にしていたけれど、僕が体調を崩したことはない。だが、木嶋さんに貰っていた缶コーヒーが、僕の口に入ったこともない。
「実はね」と、有瀬さんがさらに声を潜めて言ってきた。周りには誰もいないのに、まるでそのことを誰かに聞かれるとまずいというような雰囲気だった。
 木嶋さんは、自分の気になった男性社員によく飲み物を差し入れていたが、中に下剤を注入して飲ませていたとのことで、警察に逮捕されたらしい。彼女は供述で、「自分の好みの男性が、体調不良になって苦しむさまを見たり想像したりすることに、性的嗜好を抱いていた。会社で実際に自分が手をかけることによって、男の人がぐったりしているのを見るのが快感で、ストレス解消になっていた」と言っているそうだ。
 有瀬さんの話を聞き終えたとき、僕は絶句していた。たぶん、口がぽっかりとあいて、間抜けな面になっていただろう。僕は木嶋さんに貰ったコーヒーを飲んだことはないから、体調不良になったことはないけれど、貰ったのがコーヒーではなくお茶やジュースだったりしたら……。そう考えたとき、ハッと僕は気づいた。
「あ、あの、僕はコーヒーが苦手なので、木嶋さんからいただいた缶コーヒーを飲んだことはないんですけど、それをいつも同僚に渡していまして……。それが原因かはわかりませんが、お腹を壊してトイレに行ってたことならありました」
「やっぱり……」
 有瀬さんは驚いたように目を大きくしてそう言ったあと、凄まじい勢いで僕に頭をさげてきた。「申し訳ございません!!」
 さっきまで辺りを憚るように声を潜めて話をしていた人の出す声量とは思えなかったから、こんな状況だというのに、僕はすこし笑いそうになった。だが、ここで笑ってしまえば、非常識極まりない人だと思われそうなので、必死で表情を取り繕う。
「いや、僕はべつに……」
 そりゃあ、おまえは被害を受けていないんだからと自嘲する。
「重ね重ね大変申し訳ないのですが、もしよろしければ、城谷さんから、その被害に遭われた同僚の方に、話をしていただけないでしょうか。本来ならば、わたくしどもが直接謝罪に行くべきなのでしょうが、今はこのことで社内がごたついておりまして……。それに社外の方にまで被害が出ているとなると、弊社の対応も一度社内で協議する必要がありますので」
 自分が犯したことではないだろうに、木嶋さんの代わりに僕に頭を下げるというのは、ひどく屈辱的だろうなと、僕は思った。自分が被害を受けていないのに、謝られるのも忍びないけれど。
「わかりました。ただ、僕の同僚の体調不良が、本当にコーヒーを飲んだことによるのかはわかりませんので、それを含めて確認してみます」
 僕はそう言って、再び低頭する有瀬さんに名刺をもらったあと、その場をあとにした。有瀬さんの名前が書かれた名刺には、総務部 部長と肩書きが書かれている。おそらくは木嶋さんの上司にあたる人だったのだろう。部下の尻拭いをしなければならず、そのためならば下げたくもない頭を下げなきゃならないなんて、管理職って大変だなあと、僕はのんきに考えてトラックに乗り込んだのだった。