このところ、里菜の「発作」の頻度が多くなっている。仕事に対するストレスが、今年の夏の異常なほどまでの暑さで助長されているのだろうか。僕は今まさに、里菜の血走った目の中に吸い込まれそうになっている。
「ねえ、なんでいつもより帰りが遅いの?」
「係長に呼ばれてたんだ、相良のことで」
 言い訳はいいのよと、食い気味に叫んで、里菜は僕の髪を掴んだ。帰宅して、玄関でスニーカーを脱いだ瞬間に、すでに家にあがっていた里菜がずんずんと駆け寄ってきて、鋭い目つきで僕を捕らえたのだ。後ろめたいことなどしていない。本当に京島係長に呼び出されていたのだから、とんだ言いがかりだ。
「今日は私が来る日だって、わかってたわよね」
「ああ、だから、遅くなるってメッセージを送ったじゃないか」
「私との約束より、相良くんを優先するんだ!」
 里菜の握力がどんどん強くなる。掴まれている僕の髪の毛は、頭皮から抜けてしまいそうだ。
「痛い、痛いって!」
「うるさいわよ!」
 里菜はそう言って、僕の頭を思いっきり廊下の壁に叩きつけた。ふぎゃっ! と間抜けな声が漏れる。鼻をまともに打ちつけてぐしゃっと変な音がした。折れてはいないようだが、鼻血が吹き出して、ぼたぼたとTシャツに滴り落ちた。僕は慌てて腕で顔を拭う。掠れたような血の跡が付着した。
「里菜、ごめん、僕が悪かった!」
「悪いと思っていないくせに、口から出まかせばかり言ってんじゃないわよっ!」
 僕の謝罪も、里菜は聞き入れてくれないようだ。確かに悪いとは思っていないし、なんで僕が謝らなくちゃいけないんだという思いは抱えていたから、里菜の言ったことは間違っていないんだろうけど、じゃあどうすればいいんだよと頭を抱えたくなった。
 強い言葉を放って、僕も暴力で解決すれば簡単かもしれない。だけど自分がどんな状況に立たされたとしても、女性に暴力を振るったり、貶したりするのは信念に反することだった。
 とはいえ里菜がこうなってしまっては、僕が何を言っても無駄だ。里菜の激情がおさまり、嵐が過ぎるのを待つしかない。それはすなわち、僕が彼女からの暴力をすべて受け入れるほか、手立てはないということだ。無様に虐げられる畜生同然の奴隷のように、自分を演じるのだ。
 僕はその後、リビングで殴る蹴るの暴行を受けた。亀のように丸くなって、体への負担を軽減させようとしたが、耳を引っ張られて、体を起こさざるを得なかったり、体を起こしたその隙に急所を蹴り上げられたり、里菜はついに部屋に置いてあったスティック型掃除機を手にして、そのモーター部分で僕の上半身を殴打しはじめた。
 痛い。防御に徹してみても、そんなもので殴られれば痛いことには変わりない。筋肉がひしゃげ、痛覚が危険だと脳に信号を送ってくる。視界の端に掃除機のパワーノズルが迫ってきて、反射的に頭を庇うと、側頭部に衝撃がはしった。視界がぐらぐらして、気分が悪くなってくる。目に涙が滲んでくる。第三者が見たら、さぞ情けない光景だろう。僕だってこんな姿、誰にも見られたくない。それこそ清志になんて見られたら最後、その場で舌を噛み切って死んだほうがましかもしれない。あるいは清志なら、有無を言わず助けてくれるだろうか。間違ったことが大嫌いな彼のことだから、こんな女、今すぐ別れろよと僕に怒ってくるかもしれない。
 間違ったこと……。これは間違ったことなのだろうか。里菜の「発作」を、この身を呈して受け入れることを否定されるのならば、僕は今、一体何をしているというのだろう。
「うっげええ……」
 鳩尾を殴打され、僕はついにえづいてしまった。胃の内容物が逆流してきて、口の中に溜まる。それでもリビングの床を汚すわけにはいかないと咄嗟に思い、涙目になりながらそれを飲み下した。不快の絶頂に達する。それでも里菜のためだ。僕は我慢しなければならない。
 ガシャンと音がして、掃除機が床に放り出された気配がした。僕は体を丸めたまま顔だけを上げ、様子を伺う。里菜の感情は一旦小康したようだ。ほんの少し安堵する。ズキズキと痛む体に鞭打って、上体を起こした。
「何よ、そんな目で見ないでよ。アキトが悪いんだからね」
 里菜と目が合った僕は、一体どんな表情をしていたのだろうか。言葉に詰まって、目をそらす。その拍子に、鼻血がぽたぽたと床に染みを作った。フローリングで良かったと、こんな状況なのに所帯染みたことを考えてしまう。カーペットなら跡が残っちゃってたかもなと、濃い赤色の斑点を見つめた。