里菜が人を痛めつけることで快感をおぼえるサディストであることに気づいたのは、彼女と付き合い始めて間もなくのことだった。その発作は、不定期に訪れる。標的は今のところ、僕だけだ。
 最初は体をつねったり、甘噛みをしてきたりする程度のものだった。しかし発作が起こるにつれ、その行為は段々とエスカレートしてきた。止める者がいないのだ。自分の快感を満たすためなら、人はどこまでも過激になってしまうものなのかもしれない。
「手を後ろに組みなさい」
 僕はその場に膝をついて、言われたとおりにした。防御することなく、私の暴力を受け入れろと、彼女は言っているのだ。
「あー、ストレス溜まった。なんなのよ、もう!」
里菜は髪を振り乱し、感情のままに声を荒げた。「荷物が来ないからって、私に、文句を、言われても、知らないじゃない! 大体、配達して、もらう、立場なんだから、ちょっとは、辛抱して、待ちなさい、よ!」
 言葉が途切れるたびに、里菜は僕の体に蹴りを入れた。僕は無言のまま、耐え忍ぶことに専念した。男女の筋力の差のおかげで、なんとか我慢できそうな痛みだった。相手がもし、僕と同等の体格の男だったとしたら、僕は今頃、床に這いつくばって惨めな姿を晒しているかもしれない。
 里菜は、仕事で溜まった鬱憤を、僕にぶつけているのだ。物量の多い時期だから、それに比例して、電話の問い合わせも増えているのだろう。中にはどうすることもできない、理不尽なクレームなんかも混じっているはずだ。それらをひとつひとつ、感情を波立たせないように冷静に対応しなければならない。たとえ一件のクレームが小さなストレスだったとしても、それが積み重なれば、心も疲れてくるだろう。そのストレスが最高潮に達したとき、里菜は僕に残虐な一面をみせるのかもしれない。
「うげっ……」
 たかが女の力と、心のどこかで侮っていた僕は、里菜の蹴りが鳩尾にまともに入って悶絶した。うずくまり、空気を求めてひいひいと喘ぐ僕を、里菜は嘲笑う。
 僕は思わずカッとなったが、駄目だ駄目だと、必死で心を鎮めた。どんなに理不尽な目にあったとしても、女に手を出すわけにはいかなかった。僕の信念だ。
「アハハハハハハハ!!!」
 里菜が突然笑い始めた。僅かに顔を上げると、彼女は僕が苦しんでいるのをみて、悦に浸っているのであろう光景が見えた。僕は歯を食いしばった。

 誰にも相談はできなかった。他人に僕と里菜の関係を漏らしたとしても、誰もが異口同音に言うだろう。
 そんな女、早く別れろよ、と。
 言葉で言うのは容易い。所詮は他人のことと割り切り、無責任に自分の意見をぶつけられる。僕が逆の立場だったとしても、同じことを言うだろう。だが、当事者である僕はそうも簡単にはいかない。別れようと言い出す勇気がない。里菜の暴力は恒常的なものではなく、嵐のように襲い掛かり、やがて過ぎ去っていく一過性のものだ。その時に僕が我慢すれば、済むことだ。それに僕との関係が切れれば、彼女は別の男を手中に収めるだろう。そのまだ見ぬ彼が里菜の理不尽な暴力の犠牲になってしまうなら、僕が食い止めなければならない。里菜の良いところも悪いところも受け止めてこそ、僕は彼女と付き合っているといえるのではないだろうか。

「あーすっきりした」
 里菜の満足げな声が耳朶にかかって、僕は一息ついた。彼女は僕のそばを離れ、ダイニングテーブルに置いてあったグラスの水を飲んでいる。僕はそれを横目に見ながら、立ち上がり、よたよたとした足取りで風呂場を目指した。吐き気を堪えていた。かかなくてもいい嫌な汗が、ダラダラと体を流れる気配が不快だった。
 バスルームの扉を閉め切り、一人の空間で流れ落ちるシャワーの水流に、しばらく身を委ねていた。
 人間はこの世界で唯一、言語を操り、感情をもって他人とコミュニケーションをはかる生き物だ。言葉と心は複雑に絡み合い、時に自分の気持ちがうまく言い表せない時がある。僕たちは歳を重ねるにつれて、いろんな物事を知っていく。それでもきっと、生涯を尽くしても知ることのできないことなんて、ごまんとあるだろう。
 現に今、僕は抱いている感情をうまく言い表すことができない。里菜への感情、仕事への不満、将来への不安。そうカテゴライズ出来ても、中身を開けてみれば、言語化することの不可能な思いが、ごちゃごちゃと渦巻いているような感じだ。
 バスルームの扉が開く音がする。鏡越しに、背後に里菜が立っているのが見えた。振り返ることもなく彼女と目が合う。あっと思った瞬間、里菜は僕に抱きついてきた。
「アキト、ごめんね」
 シャワーの湯が、衣服を纏っている自分の体にも流れていることもお構いなしに、里菜は僕の背中に顔を埋め、そう言った。
 僕は鏡に写る、少し赤くなった打撃痕の残る自分の腹と、そこに纏わりついてきた里菜の白い腕を眺めていた。体を流れ落ちるお湯は、どんどんと排水口に吸い込まれていく。僕の心に渦巻いていたものも、心の排水口の蓋を開放したかのように、流れ出していくような感覚に襲われて、その時初めて、自分が抱いていたと思われる感情を、言い表す言葉が頭に浮かんだ。帰宅し、里菜の姿を見た時の絶望感。里菜に暴力を振るわれている時に感じた屈辱と怒り。彼女の発作が思いのほか早く終わったという安心感。次はいつ、同じ目に合うんだろうという焦燥感。そして里菜に謝られ、嬉しくなっている今の僕がいた。
「もう大丈夫だから」
 シャワーを止め、振り返る。僕は濡れた体のまま、里菜を抱きしめ返した。心の中でしぶとく残っているわだかまりを無視して、僕は微笑んだ。
 里菜の全てを受け止められるのは、この世界で僕だけしかいない。
 そんな傲慢な優越感に浸る。ただ、拭き取らないといつまでも体についている水滴のように、本当にこのままでいいのだろうか、という思いは、無視をしようとしても執拗に、滲み出てくるのだった。