「城谷、ちょっといいか」
業務が終わり、着替えを済まして更衣室から出た僕を、田曽井は待ち構えていたようだ。隣には相良も立っていた。僕を見て、ぺこりと頭を下げる。肩から提げているショルダーバックの紐を、両手でぎゅっと掴んでいた。
僕に拒否権はない。田曽井、相良、僕の順に並んで廊下を歩き、階段を降りる。三人揃って社員証を機械にかざし、退勤の打刻をした後、建物の外に出た。営業所の入り口のすぐ近くには、自販機が並んでいて、ベンチが何台か置かれている。さらには灰皿も設置されているから、業務の合間や終業後に、そこでたむろして雑談をしている社員を見かけることが多い。
田曽井は自販機で飲み物を三本買い、僕と相良に一本ずつ投げて寄越した。
「ありがとう」
「あ、ありがとうございます」
僕には水、相良にはオレンジジュース。そして自分は缶コーヒー。それぞれの好みの飲み物を購入してくれたようだ。
「お前があんなにキレるとは、ちょっと意外だった」
ベンチに腰をおろした田曽井は、缶コーヒーのプルタブを開け、空を見ながらそう言った。相良もそれに倣う。僕も続くと、相良を真ん中にして三人の男が夏空を見上げながら飲み物を飲んでいる光景が出来上がった。
「い、いや、だってあれは」
夜とはいえ、真夏だ。昼間ほどではないが、じめじめと蒸された空気が身体にまとわりつく不快感は、健在だった。時折吹く申し訳程度のそよ風が心地よい。
「おれがもっとちゃんとしてたら、田曽井さんにもアキトさんにも迷惑をかけることはなかったと思います。すみません」
相良が言葉にも缶を握る手にも力を入れて言った。アルミ缶がペコっと鳴る。
「相良、お前はあまり自分を卑下するな。卑屈になると、どんどん病んでいくぞ」
「……はい」
「社会なんてな、理不尽なことしかないもんだ。どこに行っても、どんな仕事をしていても、神田川みたいなヤツはいる。相良がこの先どんどん成長して、俺たちより優秀なドライバーになったとしても、ああいうヤツはお前の揚げ足取りをしてくるだろう。そんな糞みてえなヤツに人生を狂わされるなよ。お前が頑張ってることは、みんな知ってるから。なんかあったら、俺と城谷が守ってやるから、元気出せ」
「……うぅ」
相良が俯いて、ズズズっと長く鼻を啜った。田曽井はぽんぽんと優しく、相良の頭を撫でる。
「僕も班は違うけど、いつでも頼ってよ」
「暴力沙汰は起こすなよ」
間髪入れずに田曽井が茶化してくる。「うるさい」と一蹴し、そっぽを向いて、水をがぶ飲みした。
「リングの上ならあんなヤツ、ボッコボコにしてやるんだがな」
そう言って田曽井は缶コーヒーを飲み干し、その缶をぐしゃりと潰した。僕はぎょっとする。スチール缶を片手で潰せる人間を見たことがなかったからだ。田曽井なら、リンゴも粉々に砕いてしまうんじゃないだろうか。
「お二人とも、ありがとうございます、おれ、頑張ります」
顔をあげた相良に笑顔が戻っていた。目はまだ潤んでいたが、「ちなみに頭の中で、主任を何回もブッ飛ばしてます」と、拳をつくってみせてきた。田曽井がにっと笑い、「オマエもなんかやってたのか」と聞くと、相良が「学生時代は喧嘩ばかりしてたっす」と言ったものだから、僕はまた驚いた。喋り方からしてやんちゃそうな奴だなとは思っていたけれど、学生時代の彼は、僕が考えていた以上のやんちゃっぷりだったのかもしれない。
「よく我慢したな」
「やっぱ、大人になって、真面目に生きようと思ったんで、なるべくキレないようにって決めてました。社会に出たら、ガキの時の喧嘩の強さなんて、なんの役にも立ちませんから。でも、悔しいもんは悔しいし、お二人の優しさに感動して、ちょっと泣いちゃったっす」
「神田川のパワハラを、課長や所長に報告する気はないの?」
「アキトさんはどう思うんすか」
相良がオレンジジュースの蓋を開け、ぐびぐびと飲んでいる間に、僕は考えた。
「僕なら、する、かな」
「おれはしません。めんどくせーし。いつか、おれにしてきたことが公になって、自滅してくれるのを待つっす。冷凍庫に閉じ込められた時は焦ったけど」
僕は相良のことを少し誤解していたかもしれない。お調子者だけど、少し気の弱い子犬のような奴だと思っていた。だが、実際は違う。子犬も牙を剥く時だってあるのだ。いや、もしかすると彼は子犬のふりをしているだけかもしれない。愛らしく振る舞って、味方をつくり、いざという時には敵を欺く。良い意味で狡猾な獣のように。
「冷凍庫の件、神田川にやられたって気づいてたの?」
「はい。直前におれ、主任に怒られてましたし、冷凍庫に荷物を返しにいく時、近くに主任がいましたから。最初は自分の不注意で鍵が閉まっちゃったのかなと思ってましたけど、そんなことありえないはずだし」
「神田川がやったっていう証拠はあるのか?」
「もちろんっす」
そう言って彼は得意げな表情でポケットからスマホを取り出した。しばらく操作して、僕たちに画面を見せてくる。そこには、営業所の防犯カメラのモニターを映した動画が表示されていた。
「守衛のおっちゃんに頼んで、あの日の防犯カメラの映像を見せてもらったっす。『荷物を無くしちゃったみたいで』って頼んだらすんなり確認させてくれました。おっちゃんがタバコを吸いに行ってる間に、この映像を観ました」
相良のスマホの中の動画に映るモニターには、彼が冷凍庫に入った後、扉の鍵を閉める神田川の姿がはっきりと映っていた。
「おれの切り札っすよ。ちゃんと家のパソコンにバックアップも取ってます。もしスマホを壊されたとしても、証拠は消えないっす」
「すげえじゃん」
田曽井はなぜかとても嬉しそうにそう言った。「オレとしてはすぐにでもその動画を拡散してほしいところだけど、まあ、それは相良の気持ちを尊重するよ」
「田曽井さんが言うなら、考えときます」
相良が言い終えた後、一際強い風が吹いて、僕はぶるっと身体を震わせた。
業務が終わり、着替えを済まして更衣室から出た僕を、田曽井は待ち構えていたようだ。隣には相良も立っていた。僕を見て、ぺこりと頭を下げる。肩から提げているショルダーバックの紐を、両手でぎゅっと掴んでいた。
僕に拒否権はない。田曽井、相良、僕の順に並んで廊下を歩き、階段を降りる。三人揃って社員証を機械にかざし、退勤の打刻をした後、建物の外に出た。営業所の入り口のすぐ近くには、自販機が並んでいて、ベンチが何台か置かれている。さらには灰皿も設置されているから、業務の合間や終業後に、そこでたむろして雑談をしている社員を見かけることが多い。
田曽井は自販機で飲み物を三本買い、僕と相良に一本ずつ投げて寄越した。
「ありがとう」
「あ、ありがとうございます」
僕には水、相良にはオレンジジュース。そして自分は缶コーヒー。それぞれの好みの飲み物を購入してくれたようだ。
「お前があんなにキレるとは、ちょっと意外だった」
ベンチに腰をおろした田曽井は、缶コーヒーのプルタブを開け、空を見ながらそう言った。相良もそれに倣う。僕も続くと、相良を真ん中にして三人の男が夏空を見上げながら飲み物を飲んでいる光景が出来上がった。
「い、いや、だってあれは」
夜とはいえ、真夏だ。昼間ほどではないが、じめじめと蒸された空気が身体にまとわりつく不快感は、健在だった。時折吹く申し訳程度のそよ風が心地よい。
「おれがもっとちゃんとしてたら、田曽井さんにもアキトさんにも迷惑をかけることはなかったと思います。すみません」
相良が言葉にも缶を握る手にも力を入れて言った。アルミ缶がペコっと鳴る。
「相良、お前はあまり自分を卑下するな。卑屈になると、どんどん病んでいくぞ」
「……はい」
「社会なんてな、理不尽なことしかないもんだ。どこに行っても、どんな仕事をしていても、神田川みたいなヤツはいる。相良がこの先どんどん成長して、俺たちより優秀なドライバーになったとしても、ああいうヤツはお前の揚げ足取りをしてくるだろう。そんな糞みてえなヤツに人生を狂わされるなよ。お前が頑張ってることは、みんな知ってるから。なんかあったら、俺と城谷が守ってやるから、元気出せ」
「……うぅ」
相良が俯いて、ズズズっと長く鼻を啜った。田曽井はぽんぽんと優しく、相良の頭を撫でる。
「僕も班は違うけど、いつでも頼ってよ」
「暴力沙汰は起こすなよ」
間髪入れずに田曽井が茶化してくる。「うるさい」と一蹴し、そっぽを向いて、水をがぶ飲みした。
「リングの上ならあんなヤツ、ボッコボコにしてやるんだがな」
そう言って田曽井は缶コーヒーを飲み干し、その缶をぐしゃりと潰した。僕はぎょっとする。スチール缶を片手で潰せる人間を見たことがなかったからだ。田曽井なら、リンゴも粉々に砕いてしまうんじゃないだろうか。
「お二人とも、ありがとうございます、おれ、頑張ります」
顔をあげた相良に笑顔が戻っていた。目はまだ潤んでいたが、「ちなみに頭の中で、主任を何回もブッ飛ばしてます」と、拳をつくってみせてきた。田曽井がにっと笑い、「オマエもなんかやってたのか」と聞くと、相良が「学生時代は喧嘩ばかりしてたっす」と言ったものだから、僕はまた驚いた。喋り方からしてやんちゃそうな奴だなとは思っていたけれど、学生時代の彼は、僕が考えていた以上のやんちゃっぷりだったのかもしれない。
「よく我慢したな」
「やっぱ、大人になって、真面目に生きようと思ったんで、なるべくキレないようにって決めてました。社会に出たら、ガキの時の喧嘩の強さなんて、なんの役にも立ちませんから。でも、悔しいもんは悔しいし、お二人の優しさに感動して、ちょっと泣いちゃったっす」
「神田川のパワハラを、課長や所長に報告する気はないの?」
「アキトさんはどう思うんすか」
相良がオレンジジュースの蓋を開け、ぐびぐびと飲んでいる間に、僕は考えた。
「僕なら、する、かな」
「おれはしません。めんどくせーし。いつか、おれにしてきたことが公になって、自滅してくれるのを待つっす。冷凍庫に閉じ込められた時は焦ったけど」
僕は相良のことを少し誤解していたかもしれない。お調子者だけど、少し気の弱い子犬のような奴だと思っていた。だが、実際は違う。子犬も牙を剥く時だってあるのだ。いや、もしかすると彼は子犬のふりをしているだけかもしれない。愛らしく振る舞って、味方をつくり、いざという時には敵を欺く。良い意味で狡猾な獣のように。
「冷凍庫の件、神田川にやられたって気づいてたの?」
「はい。直前におれ、主任に怒られてましたし、冷凍庫に荷物を返しにいく時、近くに主任がいましたから。最初は自分の不注意で鍵が閉まっちゃったのかなと思ってましたけど、そんなことありえないはずだし」
「神田川がやったっていう証拠はあるのか?」
「もちろんっす」
そう言って彼は得意げな表情でポケットからスマホを取り出した。しばらく操作して、僕たちに画面を見せてくる。そこには、営業所の防犯カメラのモニターを映した動画が表示されていた。
「守衛のおっちゃんに頼んで、あの日の防犯カメラの映像を見せてもらったっす。『荷物を無くしちゃったみたいで』って頼んだらすんなり確認させてくれました。おっちゃんがタバコを吸いに行ってる間に、この映像を観ました」
相良のスマホの中の動画に映るモニターには、彼が冷凍庫に入った後、扉の鍵を閉める神田川の姿がはっきりと映っていた。
「おれの切り札っすよ。ちゃんと家のパソコンにバックアップも取ってます。もしスマホを壊されたとしても、証拠は消えないっす」
「すげえじゃん」
田曽井はなぜかとても嬉しそうにそう言った。「オレとしてはすぐにでもその動画を拡散してほしいところだけど、まあ、それは相良の気持ちを尊重するよ」
「田曽井さんが言うなら、考えときます」
相良が言い終えた後、一際強い風が吹いて、僕はぶるっと身体を震わせた。