「なあ」と清志が話しかけてきたのは、海について、水着姿で二人並んで砂浜に寝転んでいる時だった。二人とも、レジャーシートだの、ビーチパラソルだのといった、いろんな道具を持ってこなかったから、全身が砂にまみれているし、直射日光がまともに照りつけてくる。ただひとつ持ってきたペットボトルの水は、すでに温くなっている。
ここは僕たちのすむ県では有数の海水浴スポットで、平日だというのに周りはたくさんの海水浴客で賑わっていた。家族ではしゃいでいる人たち、カップルでじゃれあっている人たち、SNSにでも投稿するつもりなのか、スマホで自撮りをしている女のグループ。学生と思わしき集団。みんなそれぞれの世界の中で、このひとときを堪能している。時折吹く風が、汗ばんだ身体を撫でていく。
「ある中年の男がいました。その男には、行きつけの店があって、中でもメニューの水炊きがめちゃくちゃ美味いから、男のお気に入りのメニューでした。男は自分の娘にもその水炊きを食べてもらいたくって、仕事が休みの日に、娘をその店に連れて行きました。店の女将はその二人を見て『あら、今日はいつもと違う人なのね』と、言いました。娘は特に何も言わず、男と美味い水炊きを楽しみましたが、男はその時、女将の発言を娘が蒸し返さないか、気が気ではありませんでした」
清志が、上半身を起こして、そんな喩え話を始めた。首にかけたタオルで、顔の汗を拭いている。僕がタオルすらも持っていないのをみてか、傍に置いてある袋の中から、もう一枚タオルを取り出し、僕の顔の上に置いてくれた。
「サンキュ」
僕も起き上がり、頭にそのタオルをかける。少しは日除けになりそうだ。
「アキトは今の聞いて、どう思った?」
「うーん。その中年男は、不倫でもしてるっていう前提の話か?」
「アキトの思うままで言ってみてくれ」
「その男は、色々と詰めが甘いよね。いくら水炊きが美味かったとしても、自分の家族を連れていくべきではなかった」
「一番多い答えだな」
「量産型……」
そう言った僕をみて、清志はにっと笑った。そして、僕の背中を見やると「砂まみれじゃん」と言って、パシパシと両手ではらってくれる。
「アキトは今の話を聞いて、なんで男が不倫をしているって思ったんだ?」
「え?」
「オレは一言も、男は不倫をしているとは言ってないけどな」
「あ、ほんとだ」
清志に言われて初めて気が付く。僕は、『中年の男』『行きつけの店』『女将の言葉』の三つだけで、中年男がこの店で不倫をしていたのだと思ってしまったのだ。
「この話をいろんなヤツにしてるんだけどさ、みんなおもしれえんだよ。大体が男が不倫をしているもんだって思い込んで、『不倫は悪いことだ』だの、『そもそもそんな店に娘を連れて行ったのが悪い』だの、『前に誰と来たかを仄めかす女将が悪い』だの、口々に言うんだ」
清志のよく焼けた身体に、結露のように汗の玉が浮いている。僕は彼の首筋を流れていくそれを見ながら、言葉の続きを待った。
「オレは、その男が不倫をしていたとしたら、密会現場に、わざわざ家族を連れてくるようなことはしないと思うけどな」
「僕も含めて、みんな物事を一辺倒に見がちだってこと?」
「イッペントウ?アキトはたまにわけわかんないこと言うよな」
「そうかな……。一辺倒って、物事が一方に偏ってるって意味だったと思うけど」
「へええ!」
清志は間の抜けた声をあげた。ちょうど僕たちの前を通った五人くらいのビキニの集団が、全員驚いたように清志を見る。彼女たちは互いに顔を見合わせ、意味ありげに口角をあげて、もう一度清志を一瞥して歩き去っていった。僕には彼女たちが、一瞬にして清志のルックスに好意を持ったようにしかみえなかったが、清志は全く気づいていないようだった。
「まあとにかく、色んなことを、色んな角度から見ないと、物事の本質ってヤツはわからねえってことだ」
「大の男二人が、海に来てする話か?」
「うるせえ」
清志は、僕の上腕にパンチをしてきた。「痛い!」と、腕をさすりながら、僕はふと考える。くだんの中年男が不倫をしていなかった場合、女将の言った『いつもと違う人』の『いつも』に当てはまる人は一体誰なのだろうか、と。それは会社の同僚や部下なのかもしれない。そもそも女将は、その人のことを女性だとも言っていない。
「いつも一緒に来てるのは、奥さんかもしれないね」
「どうしてそう思う?」
「だって『女将の発言を娘が蒸し返さないか、気が気ではありませんでした』ってことは、男にとって、女将の発言がまずかったんでしょ。今までは娘に内緒で、奥さんと店に来ていた可能性もあるよね」
「さすが」
清志はそれだけ言って、背伸びをした後、勢いよく立ち上がった。
「干からびる前にひと泳ぎして、飯でも食おうぜ」
ここは僕たちのすむ県では有数の海水浴スポットで、平日だというのに周りはたくさんの海水浴客で賑わっていた。家族ではしゃいでいる人たち、カップルでじゃれあっている人たち、SNSにでも投稿するつもりなのか、スマホで自撮りをしている女のグループ。学生と思わしき集団。みんなそれぞれの世界の中で、このひとときを堪能している。時折吹く風が、汗ばんだ身体を撫でていく。
「ある中年の男がいました。その男には、行きつけの店があって、中でもメニューの水炊きがめちゃくちゃ美味いから、男のお気に入りのメニューでした。男は自分の娘にもその水炊きを食べてもらいたくって、仕事が休みの日に、娘をその店に連れて行きました。店の女将はその二人を見て『あら、今日はいつもと違う人なのね』と、言いました。娘は特に何も言わず、男と美味い水炊きを楽しみましたが、男はその時、女将の発言を娘が蒸し返さないか、気が気ではありませんでした」
清志が、上半身を起こして、そんな喩え話を始めた。首にかけたタオルで、顔の汗を拭いている。僕がタオルすらも持っていないのをみてか、傍に置いてある袋の中から、もう一枚タオルを取り出し、僕の顔の上に置いてくれた。
「サンキュ」
僕も起き上がり、頭にそのタオルをかける。少しは日除けになりそうだ。
「アキトは今の聞いて、どう思った?」
「うーん。その中年男は、不倫でもしてるっていう前提の話か?」
「アキトの思うままで言ってみてくれ」
「その男は、色々と詰めが甘いよね。いくら水炊きが美味かったとしても、自分の家族を連れていくべきではなかった」
「一番多い答えだな」
「量産型……」
そう言った僕をみて、清志はにっと笑った。そして、僕の背中を見やると「砂まみれじゃん」と言って、パシパシと両手ではらってくれる。
「アキトは今の話を聞いて、なんで男が不倫をしているって思ったんだ?」
「え?」
「オレは一言も、男は不倫をしているとは言ってないけどな」
「あ、ほんとだ」
清志に言われて初めて気が付く。僕は、『中年の男』『行きつけの店』『女将の言葉』の三つだけで、中年男がこの店で不倫をしていたのだと思ってしまったのだ。
「この話をいろんなヤツにしてるんだけどさ、みんなおもしれえんだよ。大体が男が不倫をしているもんだって思い込んで、『不倫は悪いことだ』だの、『そもそもそんな店に娘を連れて行ったのが悪い』だの、『前に誰と来たかを仄めかす女将が悪い』だの、口々に言うんだ」
清志のよく焼けた身体に、結露のように汗の玉が浮いている。僕は彼の首筋を流れていくそれを見ながら、言葉の続きを待った。
「オレは、その男が不倫をしていたとしたら、密会現場に、わざわざ家族を連れてくるようなことはしないと思うけどな」
「僕も含めて、みんな物事を一辺倒に見がちだってこと?」
「イッペントウ?アキトはたまにわけわかんないこと言うよな」
「そうかな……。一辺倒って、物事が一方に偏ってるって意味だったと思うけど」
「へええ!」
清志は間の抜けた声をあげた。ちょうど僕たちの前を通った五人くらいのビキニの集団が、全員驚いたように清志を見る。彼女たちは互いに顔を見合わせ、意味ありげに口角をあげて、もう一度清志を一瞥して歩き去っていった。僕には彼女たちが、一瞬にして清志のルックスに好意を持ったようにしかみえなかったが、清志は全く気づいていないようだった。
「まあとにかく、色んなことを、色んな角度から見ないと、物事の本質ってヤツはわからねえってことだ」
「大の男二人が、海に来てする話か?」
「うるせえ」
清志は、僕の上腕にパンチをしてきた。「痛い!」と、腕をさすりながら、僕はふと考える。くだんの中年男が不倫をしていなかった場合、女将の言った『いつもと違う人』の『いつも』に当てはまる人は一体誰なのだろうか、と。それは会社の同僚や部下なのかもしれない。そもそも女将は、その人のことを女性だとも言っていない。
「いつも一緒に来てるのは、奥さんかもしれないね」
「どうしてそう思う?」
「だって『女将の発言を娘が蒸し返さないか、気が気ではありませんでした』ってことは、男にとって、女将の発言がまずかったんでしょ。今までは娘に内緒で、奥さんと店に来ていた可能性もあるよね」
「さすが」
清志はそれだけ言って、背伸びをした後、勢いよく立ち上がった。
「干からびる前にひと泳ぎして、飯でも食おうぜ」