「あ、龍司」
 一日の配達を終え、会社に戻った僕は、事務所の中に田曽井の姿を見つけた。彼は大きな机の隅っこに座って、代金引換の荷物で集金した金の勘定をしていた。
「おう、お疲れ」
 僕を一瞬見やり、すぐに紙幣を数え始めた田曽井のそばに、すっかりぬるくなった缶コーヒーを置く。田曽井はそれにも一瞥をくれると「相良がまだ帰ってきてねえんだ」と、つぶやくように言った。
「電話したんだが、『あとちょっとで終わるから大丈夫っす』って言ってたから、先に帰るぞつって帰ってきたけど、それから一時間は経ってる」
 時計を見ると、二十一時前だった。今は繁忙期ではないから、一時間前に「あとちょっと」という具合なら、どんなに時間がかかっても、そろそろ帰社していないとおかしい時間だ。
「九時過ぎたら、神田川さんに報告すっか」
「いや」
「え?」
 神田川という名前を耳にして、食い気味に口を滑らせた僕を、田曽井は驚いたように見る。
「あ、いや、違う、ええと、うん」
 僕は取り繕うが、明らかに不自然な物言いになってしまい、余計に訝しまれる羽目となる。
「言え」
 田曽井に鋭く言われると、彼との付き合いの長いはずの僕も、その言葉に逆らえなくなってしまう。だから僕は辺りを憚りながら、コソコソと神田川への疑惑を話した。田曽井は黙ってそれを聞いていたけれど、冷凍室のくだりでは眉をピクリとさせ、僕が話し終えると、拳を机に叩きつけた。彼の前に無造作に広がっていた硬貨が、音をたてて飛び上がる。周りで業務をしている社員も、何事かという表情で、僕達の方を一斉に見た。
「悪い。なんでもない」
 田曽井が顔をあげて言うと、他の社員たちは各々の業務に戻っていく。僕はさっきよりもさらに声をひそめて、話を続けた。
「クロだよね」
「相良本人が何も言わねえんだ。証拠がねえ」
「でも……」
「直属の先輩であるはずのオレより、お前に懐いてるやつが、お前にも何も言わねえんだ。大事にはしたくないと思ってるかもな」
「じゃあ、主任に直接聞いてみるとか……」
「お前、マジで言ってんのか」
 鋭い眼光で睨まれて、僕は「いや」と言葉を濁した。
「あいつが相良にパワハラをしているとオレたちが吹聴したとして、それを信じる奴は少ねえだろうな。お前もあいつの評判は知ってるだろ。下手をすると、あいつを蹴落としたいがために、オレたちがあいつを陥れようとしている、と思われかねない」
 里菜から相良のことを聞くまで、確かに僕も、神田川は人望もよく、仕事のできるいい上司なんだろうなというイメージを持っていた。直接の関わりは少ないから、僕などは余計に周りの評判や神田川の見てくれでしか彼のことを判断できない。どんな人間にも、裏の顔はあるというけれど、それはもしかすると、周りの人たちが、その人の一面しか見ていないからなのかもしれない。色々な一面がまとまりあって、その人の多様な人格を形成しているのだ。
「僕たちが直接、現場を目撃するしかないね」
「それが一番手っ取り早い」
 田曽井はしれっとそう言って、机の上に広げたお金をかき集め、僕の元から立ち去っていった。