マグカップの淵から、コーヒーが零れてテーブルにまで広がっている。それに気づいたのと、トーストが焼けた音がしたのは同時で、僕は一瞬迷ったあと、キッチンに入り、トースターの扉を開いた。零れたコーヒーは後ででも拭けるけど、焼きあがったトーストは、余熱で焦げてしまうかもしれないからだ。
程良く焼きあがったパンに、マーガリンを塗りながら、これがバターだとしたら、また違った味になるのだろうかと考える。考えるだけで、実際に試そうとは思わない。わざわざそのためだけにバターを買いにスーパーに走る気力もないし、僕はマーガリンでも、充分美味しいと思っている。
休みの日に、こんなに朝早く起きたのは久しぶりだ。夏だというのに、朝は幾分暑さも和らぐらしい。昨晩、冷房をつけ、部屋着にしている黒いハーフパンツしか身に纏わずに寝て、今も変わらずそんな格好でいるせいか、僕はくしゅんとくしゃみをした。
夜中にタイマーで切れたはずの冷房の冷気がまだ部屋に残っている。ずんと重くのしかかってくる暑さを無理やり追い払い、涼しくしてやったぞと言わんばかりのわざとらしい冷気に包まれながら、僕はトーストを一口かじった。
シャツも着ずに食事をするなんてはしたないと、ここに母がいれば口うるさく咎めてくるのだろうけど、生憎僕は、独り暮らしの身で、この家の中で何をしようと、それをとやかく言ってくる人はいない。食器洗いが面倒臭いから、いつまでもシンクにためていても、仕事で着る制服の洗濯を忘れていても、結局最後には僕がそれらをすべて処理しなければならないのだ。
「明日は、仕事か……」
独り言というのは、独りで言うから独り言なのだと、当たり前のことを思う。もそもそと齧っていたトーストは、いつの間にか半分まで減っている。耳をすませば、窓の外から聞こえるのは、雀か何かがさえずっている声と、砂浜に打ち寄せる波の音。とても静かで平和な朝だ。
僕の家は、海沿いに面した高台にぽつんと建っているアパートの一室だ。窓を開ければ海を一望できるそのロケーションが気に入って、下見の際にすぐに契約をかわした。部屋は角部屋で、入居した時は新築だった。不動産屋の担当者によれば、このアパートの入居者第一号は僕らしい。当時二十歳で初めての一人暮らしに胸を躍らせていた僕は、そんな些細でどうでも良いことまでもが嬉しくて、苦笑を浮かべながらも話を聞いてくれる友人たちにしきりと自慢をしたものだ。それから五年。当時と比べて変わったことは、勤務先と、車を買ったことくらい。人間といういきものは、五年という歳月ごときでは、そう簡単に劇的な変化を遂げる生き物ではないらしい。
城谷瑛斗と書いて、ちゃんと僕の名前を読めた人はこれまでに数えるほどしかいない。苗字は「しろたに」と、読んでくれるけれど、問題は名前で、大体が「えいと」と読まれる。本当は「あきと」と読むんですと、今まで何人の人に説明してきただろう。それすらも覚えていない。
トーストを食べ終えたのと同時に、テーブルの上に置いてあったスマホが鳴った。デフォルトのコール音が、遠い波音をかき消す。ディスプレイを見ると「桜庭清志」と表示されている。僕は慌てて端末を手に取り、電話に出た。
「もしもし」
「やあ、アキト。今日は休みかい?」
僕の名前を最初からちゃんと読んでくれた数少ない人の一人でもある清志は、これまた数少ない友達のうちの一人だ。中学のときに知り合った同級生で、その縁はもう十数年変わらず続いている。
「休みだよ。どうかした?」
「か」
「か?」
清志は一体何を言いかけたのだろう……などと、疑問に浸る余韻を、彼は与えてくれるはずもない。どうしたのと言おうとした僕を遮るように、彼は「買い物につきあってほしいんだ」と、勢いよくまくしたててきた。
「……また僕を足に使ってるよね、それ」
「え~、そんなことあるわけないじゃん。オレがオマエを誘わなきゃ、オマエは貴重な休日を家にこもって過ごすんだろ、どーせ!若いんだからさあ、もっと外に出て遊ぼうぜ、親友!」
苦笑する。清志の言う通り、僕は今日一日をこの家の中で過ごす予定だった。普段、仕事で外を駆け回っているものだから、何の予定もない休みの日は家でまったりと過ごすのが大好きなのだ。誰にも干渉されることのない一人だけの城。ああ、なんで一人暮らしはこんなにも楽しいんだろう!
「ちゃんとガソリン代は出すからさあ、お願いだよ、アキトぉ」
清志は決して強要はしてこない。こんなふうに下手にでて、人懐っこい態度で攻めてくる。幼いころからの彼の得意技に何度僕が折れてきたことか。とはいえ、別に出かけるのが嫌なわけではない。
「わかった。いこう」
「そうこなきゃな」
電話の向こうの清志はきっと満面の笑みを浮かべていることだろう。準備が出来て、家を出るときにまた連絡すると伝えて、僕は電話を切った。
とりあえず、服を着なきゃいけないな。そう思ってからの僕の行動は早い。
トーストの粉が散らばっているお皿と、一口も飲んでいないコーヒーが入っているマグカップをシンクに積み上げる。帰ってきたら、今日こそはちゃんと洗い物をしよう。
出かけるために身なりを整え、玄関で靴を履いた時、零したコーヒーを拭き取るのを忘れていたことに気づいたが、まあいいやと、僕はそのまま家を出た。
一人だと、どれだけ僕がいい加減か。
「一人暮らしの男ってそういうもんよ」と言ってくれる彼女の許容範囲も、そろそろ限界に達しているかもしれない。
程良く焼きあがったパンに、マーガリンを塗りながら、これがバターだとしたら、また違った味になるのだろうかと考える。考えるだけで、実際に試そうとは思わない。わざわざそのためだけにバターを買いにスーパーに走る気力もないし、僕はマーガリンでも、充分美味しいと思っている。
休みの日に、こんなに朝早く起きたのは久しぶりだ。夏だというのに、朝は幾分暑さも和らぐらしい。昨晩、冷房をつけ、部屋着にしている黒いハーフパンツしか身に纏わずに寝て、今も変わらずそんな格好でいるせいか、僕はくしゅんとくしゃみをした。
夜中にタイマーで切れたはずの冷房の冷気がまだ部屋に残っている。ずんと重くのしかかってくる暑さを無理やり追い払い、涼しくしてやったぞと言わんばかりのわざとらしい冷気に包まれながら、僕はトーストを一口かじった。
シャツも着ずに食事をするなんてはしたないと、ここに母がいれば口うるさく咎めてくるのだろうけど、生憎僕は、独り暮らしの身で、この家の中で何をしようと、それをとやかく言ってくる人はいない。食器洗いが面倒臭いから、いつまでもシンクにためていても、仕事で着る制服の洗濯を忘れていても、結局最後には僕がそれらをすべて処理しなければならないのだ。
「明日は、仕事か……」
独り言というのは、独りで言うから独り言なのだと、当たり前のことを思う。もそもそと齧っていたトーストは、いつの間にか半分まで減っている。耳をすませば、窓の外から聞こえるのは、雀か何かがさえずっている声と、砂浜に打ち寄せる波の音。とても静かで平和な朝だ。
僕の家は、海沿いに面した高台にぽつんと建っているアパートの一室だ。窓を開ければ海を一望できるそのロケーションが気に入って、下見の際にすぐに契約をかわした。部屋は角部屋で、入居した時は新築だった。不動産屋の担当者によれば、このアパートの入居者第一号は僕らしい。当時二十歳で初めての一人暮らしに胸を躍らせていた僕は、そんな些細でどうでも良いことまでもが嬉しくて、苦笑を浮かべながらも話を聞いてくれる友人たちにしきりと自慢をしたものだ。それから五年。当時と比べて変わったことは、勤務先と、車を買ったことくらい。人間といういきものは、五年という歳月ごときでは、そう簡単に劇的な変化を遂げる生き物ではないらしい。
城谷瑛斗と書いて、ちゃんと僕の名前を読めた人はこれまでに数えるほどしかいない。苗字は「しろたに」と、読んでくれるけれど、問題は名前で、大体が「えいと」と読まれる。本当は「あきと」と読むんですと、今まで何人の人に説明してきただろう。それすらも覚えていない。
トーストを食べ終えたのと同時に、テーブルの上に置いてあったスマホが鳴った。デフォルトのコール音が、遠い波音をかき消す。ディスプレイを見ると「桜庭清志」と表示されている。僕は慌てて端末を手に取り、電話に出た。
「もしもし」
「やあ、アキト。今日は休みかい?」
僕の名前を最初からちゃんと読んでくれた数少ない人の一人でもある清志は、これまた数少ない友達のうちの一人だ。中学のときに知り合った同級生で、その縁はもう十数年変わらず続いている。
「休みだよ。どうかした?」
「か」
「か?」
清志は一体何を言いかけたのだろう……などと、疑問に浸る余韻を、彼は与えてくれるはずもない。どうしたのと言おうとした僕を遮るように、彼は「買い物につきあってほしいんだ」と、勢いよくまくしたててきた。
「……また僕を足に使ってるよね、それ」
「え~、そんなことあるわけないじゃん。オレがオマエを誘わなきゃ、オマエは貴重な休日を家にこもって過ごすんだろ、どーせ!若いんだからさあ、もっと外に出て遊ぼうぜ、親友!」
苦笑する。清志の言う通り、僕は今日一日をこの家の中で過ごす予定だった。普段、仕事で外を駆け回っているものだから、何の予定もない休みの日は家でまったりと過ごすのが大好きなのだ。誰にも干渉されることのない一人だけの城。ああ、なんで一人暮らしはこんなにも楽しいんだろう!
「ちゃんとガソリン代は出すからさあ、お願いだよ、アキトぉ」
清志は決して強要はしてこない。こんなふうに下手にでて、人懐っこい態度で攻めてくる。幼いころからの彼の得意技に何度僕が折れてきたことか。とはいえ、別に出かけるのが嫌なわけではない。
「わかった。いこう」
「そうこなきゃな」
電話の向こうの清志はきっと満面の笑みを浮かべていることだろう。準備が出来て、家を出るときにまた連絡すると伝えて、僕は電話を切った。
とりあえず、服を着なきゃいけないな。そう思ってからの僕の行動は早い。
トーストの粉が散らばっているお皿と、一口も飲んでいないコーヒーが入っているマグカップをシンクに積み上げる。帰ってきたら、今日こそはちゃんと洗い物をしよう。
出かけるために身なりを整え、玄関で靴を履いた時、零したコーヒーを拭き取るのを忘れていたことに気づいたが、まあいいやと、僕はそのまま家を出た。
一人だと、どれだけ僕がいい加減か。
「一人暮らしの男ってそういうもんよ」と言ってくれる彼女の許容範囲も、そろそろ限界に達しているかもしれない。