声を掛けても出なかったので杏子と卯紗子は無断で入った。

 外から見て分かるほどの派手......華やかさが漂う空間はたった数刻だけで変貌した。

 さっき入った時とは違う。

 女房が減って人の気配を感じさせないのもあるが、主が座る褥、畳など床には陶器の破片が散らばっていた。


 「この破片......。つるつるしているし、この国のではなく渡航品みたいね。割るんだったら、わたくしが貰うのに......」

 「杏子様、破片は危ないのでそう触らないでください!灯りがほとんどないせいで、足元は見えづらいですね」


 杏子が場違いなことを言っているのを卯紗子は無視して足元を見ていた。

 杏子は気で破片がどこにあるのか分かる。

 だが、几帳や御簾で光が遮られたこの場では落ちかけた日の僅かな光のみが頼りであった。


 「今から灯りを出すよ。足に怪我でもしたら悪いからね」


 暗い部屋に灯りは目立つのであまり使いたくないが、躊躇して卯紗子が怪我するのは別だ。

 杏子は蝋燭より一回りほど大きい呪具を出すと、


 「火を灯せ」


 その一言だけで、蝋燭に火が灯った。

 どんな言葉でも発した者が所有し、意思が込められている。

 この蝋燭のような呪具は、『火を灯してほしい』という意思を具現化することができる。


 「ありがとうございます、杏子様!おかげで視界が良くなりました!」

 「それは良かった」

 「その声は杏子様と卯紗ですか?」

 「雪子様、そちらには破片があります。お気をつけて」


 (この声って)

 杏子そっくりな声と感情が全く乗っていない低い声。

 几帳と屏風に囲まれたところから出た先、杏子達が無断侵入して御簾が上がっているところに女房姿の雪子と玲子がいた。

 紅い日が当たって、二人の長い影が白練の破片を黒くしていた。


 「どうして、ここへ?」

 「弘徽殿から戻った杏子様とわたくしたちが飛香舎に戻ってしばらくしないうちに攻撃されるなんて、相手はこちらのことを知っている方で何かしらの思いがある方は一人しかいませんでしたから」


 杏子とは別の方向で雪子は弘徽殿が怪しいと考えたらしい。


 「また攻撃されるかもしれませんよ?こちらにいるより飛香舎にいた方が安全ですよ?」

 「確かにこちらへいるよりは安全でしょう。ですが、この件はわたくしも関係しております。一人だけ安全地帯にいるわけにはいきません」


 僅かな隙間から覗く黄金、紅緋、紺瑠璃。様々な色彩帯びた空を後ろに杏子よりもほんの少し白くて穏やかに微笑む雪子はすぐにでも散ってしまいそうな儚さがあった。

 だが、こちらを見る長い睫毛に縁どられた瞳からは揺るぎが無い信念を感じた。


 「分かりました。中へ入るとすぐに暗くなりますから。卯紗がもっている灯りを頼りに来てください」

 「ありがとうございます......!」


 杏子とよく似た顔には感情的で一体を明るくさせる笑みではなく、花がほころぶような美しい微笑みを浮かべていた。


 「こうしてみると杏子様と雪子様が別人であることが良く分かりますね」

 「雪子様のそのような笑みは久しぶりに見ました。後宮に来てからは初めてではないでしょうか?」

 「え、えぇ......。玲子、恥ずかしいです.........」


 扇で顔を隠しているが、真っ赤な耳が隠れていない。

 そんな姿をほほえましく見ていると、物音がした。


 「雪子様、玲子、隠れて下さい。誰か来ます」


 杏子の声で各々屏風や屏風の後ろに隠れた。

 無断侵入組が入った御簾ではなく、別の御簾が上がった。


 「弘徽殿から黒魔術の気配がするのは本当か?」

 「はい。強い気を感じました。ですが、わたしの妹である飛香舎の女御様の気配も感じるので、女御様が返したと思います」

 「無事だと良いんだが......」

 「東宮。女御殿はやられたらやり返すよ。一方的にやられるようなやわな女ではありません」

 「東宮と、柏陽兄様に右近兄様⁈どうしてここにいるんですか?」


 声の主が分かると否や杏子は几帳の後ろから出た。

 只今の杏子の服装は何枚かの袿に長けの短い小袿を重ねた姿だった。

 しかも、強引に入る時か破片で切ったのか分からないが、所々破けていた。

 東宮と会う時はこの姿に裳と唐衣を加えないといけなかった。

 しかし、まさかこんなところで会うなんて思っていなかったので、杏子は日常着のまま東宮と会ってしまった。

 (そういえば、さっき会った時もこの恰好だったしもういっか)

 杏子は二度目だったことに気づいてどこか割り切った気持ちになっていた。


 「それはこちらが言いたい。なぜここにいる?」


 弘徽殿に来た者は同じようなことを言うんだな、と全く関係ないことを思ってしまった。

 そんなどうでもいいことを考えていたが、返答していないことに気づいたので慌てて口を開いた。

 この場に弘徽殿がいるかもしれないので、小声で。


 「弘徽殿様がわたくしの飛香舎に攻撃したかもしれないので、こちらにやってきました。東宮の方は?」

 「弘徽殿から出て帰っている途中、柏陽と右近が弘徽殿で黒魔術の気配がすると言ったので来てみたが、当たったみたいだな」

 「発言をお許しください。こちらへ向かってくる足音が聞こえます」

 「教えてくれてありがとう、玲子。東宮、兄様方、どこでもいいので隠れて下さい!」

 「あ、ああ」


 これまで隠れてなんて言われたことないのだろう。

 少々動きが遅いながらも柏陽と右近と共に東宮は廂に置かれた衝立障子の後ろに隠れた。

 その時、玲子が言った通り、御簾が開いて母屋から人が出てきた。


 「はぁはぁ......体を......動かす......だけで...なぜ......こん...なに...はぁ......疲れるのです......?それに...はぁはぁ......体が......思う......ように...動きま......せん......わ」



 奥からやってきた人、弘徽殿は足を引きずるようにして歩いていた。

 肩が大きく上下するほど息が切れていた様子である。

 どれも気になるが、一番気になったのは弘徽殿を縛っているようにも見える気だった。

 (呪いが成功しているみたい......)

 杏子の元へとやって来た攻撃は呪いをしたことで、攻撃をした者、所有者、の元へ行った。

 そして、杏子が感情のままにやったので、所有者である陰陽師だけではなく弘徽殿も受けたのだろう。

 几帳の裏からうっすらと見える母屋は、真っ暗で床にはこちらと同様に破片が散らばっていた。

 (弘徽殿様がどこか行く前に片づけた方が良さそうね。外に出歩かれて助けでも頼んでいたら、手がだしづらい)

 そう思ったら、杏子の足は動いていた。

 目線で『何やっているんですか⁈』っていう声が隣から聞こえてくるが気のせいだろう。

 気付いたら、几帳から出て弘徽殿の前にいた。


 「弘徽殿様、ごきげんよう」

 「え、飛香舎様⁈」


 そりゃあ驚くだろう。

 いきなり弘徽殿よりも高位な女御、杏子が飛び出したんだから。


 「弘徽殿様、わたくし女房に関して話したいことがあるのですけど、母屋で話しても良いですか?廂で話なんかしたら道歩く他の妃の方や女房、殿方に聞かれてしまいますので」

 「そ、そうですね。ですが、わたくしの母屋は今散らかっていて見苦しい状態なのです。床には陶器の破片、布も引き裂かれ、周囲には物が散乱しています。お茶も準備できないので、飛香舎様をお迎えできるような姿ではないです」


 (母屋には見られたくない物があるのかな?)

 断ることができない杏子の意見に賛同しつつも、母屋にいかないように聞こえる。

 上流貴族は基本的に女房が大勢いて部屋が汚いということはないので、弘徽殿よりも高位な杏子は汚いのを避けてるため母屋に行かないだろうと弘徽殿は判断したのだろう。

 だが、その判断は外れている。

 杏子は左大臣家出身ながら貴族の常識は知識としてあるだけで、全く体に身に付いてはなく、気にしていなかった。


 「廂まで破片が散らばっていますからね。でも、それほど散らかっているなんて何かあったのですか?わたくし見に行って来ますね」


 杏子はそう言って、弘徽殿が入って来たところから御簾に入ろうとした。

 そんな杏子の動きを阻止しようと小袿の袖を引っ張られた。

 (無視するのも良いけど、このまま引っ張られるのはな......)

 寒くなるが、ずっと引っ張られるよりは良いだろう。

 そう思って、小袿を脱いだ。

 力をいれていたのか、引っ張る人、弘徽殿は勢いよく後ろに倒れこんだ。

 ものすごく見たい気持ちを何とか抑えて御簾が上がったところから中へ足を入れると、予想より悪い光景が広がっていた。

 廂とは比べられないほどの陶器の破片。

 日用家具や整容具が乱れて、ざらりとする水で床は濡れていた。

 几帳も屏風も倒れて、妃の部屋とはいえない惨状だった。


 「飛香舎様......見た......でしょう?......ほら......汚いので...ここ...から......出て...くだ...さいな......」


 髪も着物も乱れて杏子の小袿を持つ弘徽殿は、歪んだ笑みを浮かべて入口に立っていた。

 僅かな光を浴びるその姿は人間の姿をした何かだった。

 恐怖すら感じる姿だったが、杏子は何とも思わない。

 ただこちらも見てくるなんて、可愛い方だと思う。


 「これほど乱れた部屋を前にして『出て下さい』?わたくしには無理なことですよ」


 話しは終わりとでも言うように、弘徽殿に背を向けて帳台に目を向けた。

 帳台の前だけ乱れていない。

 これほど品性が落ちた部屋で一部分だけ綺麗なところがあるのは怪しい。


 「そこは......!」


 弘徽殿の反応が決定打となった。

 躊躇なく杏子は帳台に足を入れると、甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

 帳台とは貴人の寝所や座所として使われる空間。

 私的な場所には、塩と人型の形代にそなえもの。

 それに倒れた男がいた。

 畳に落ちていた紙を読んでみると、陰陽師特有の言い回しで詳しいことは分からないが、飛香舎にいる高貴な者を呪ってほしい的なことが書いてあった。

 (これ、証拠じゃね?)


 「柏陽兄様ー!右近兄様ー!東宮!証拠見つけましたよー!」


 帳台から体を出して紙を持った左手を振っていると、隠れていた全員が姿を現した。

 柏陽と右近は必死に手を伸ばす弘徽殿を捕らえた。


 「弘徽殿、後で話を聞こう。柏陽、右近、しっかり見とけ」

 「「かしこまりました」」

 「杏子様、大丈夫ですかー?」


 そう言いながら、卯紗子は帳台のところまでやって来た。

 後ろには、雪子と玲子が続いていた。


 「杏子様が急に出た時は驚きました」

 「この間のことを思い出しました」


 玲子が言うこの間のこととは、雪子の身代わりとなった時に弘徽殿とおしゃべりしたことだろう。

 誰もおしゃべりとは認めてくれなかったが。


 「話で聞くよりも実際に見ると違いますね。あの、杏子様、中に人がいるような気がするのですけど?」

 「この人?この人はね、寝ているだけだから」


 自分がした攻撃を受けて気を失っているというのが正しい。


 「杏子、そのような男を気にするのではない。それよりも、どこも怪我してないか?」


 卯紗子と会話をしていたら、東宮が入って来た。

 後ろには弘徽殿を抱えた柏陽の姿が見えた。

 右近は通信用の鶴を折ってどこかへ飛ばしていた。



 「怪我なんてしていませんよ?」

 「良かった......!其方がいきなり表に出た時は肝が冷えたぞ⁉」


 声にはださないが、十の視線を感じる。

 全員が共感しているように強く頷いているのが、解せぬ。


 「おしゃべりしただけですよ。それにあの場に出ないと弘徽殿様が逃げると思ったんです。外で助けを求められると動きづらくなりますから」

 「動くのはこちらが行うので、これからは動かないように」


 私的とはいえ、東宮からのお願い。

 (え?無理に決まっているでしょ)

 もし同じようなことが起こっても、今度は屋敷の中にいるように?

 そんなことできるわけない。

 自ら足を突っ込んで身内を助ける。

 こればかりはたとえ相手が東宮だろうと譲れない。

 だが、ここで馬鹿正直に伝えたら、東宮によって監視が付かれて外に行けなくなる。

 (こういう時に使える言葉......)

 多くの知識をため込んだ頭を回転させて見つけだした。


 「善処します」


 物事に最善を尽くす時に言う言葉。

 (できるだけ頑張りますという意味だから、動いても大丈夫)

 そんな裏事情を知らない者は安堵した表情を見せた。

 だが、杏子という人間をよく知っている卯紗子や柏陽、右近は頭を軽く押さえていた。


 「そうか。それで、杏子、この者をどうしたい?」


 甘々の空気が一瞬で変わった。

 湊は大切な者を心配する表情から為政者の顔となっていた。

 それに伴って杏子も気を引き締めて、背筋を伸ばした。


 「わたくしは気にしていませんが、雪子様、玲子、二人はどう思いますか?」

 「え⁉そ、そうですね......。わたくしはお任せします」

 「同じく」


 これまで弘徽殿の害を受けてきた二人がそう言ったので、弘徽殿に関することは東宮に投げられた。

 杏子は特に被害を受けていないので罰なんていらないが、罰するのが政治というもの。


 「弘徽殿、何かいうことはあるか?」

 「......わたくしの前で帝の寵愛を自慢してちょっとした嫌がらせをしただけなのに......!なんで⁉なんで⁉飛香舎様は無事でわたくしが受けているの⁉飛香舎様はわたくしの物を全て奪っているのに!あの根暗で気持ち悪い淑景舎」


 パンッ!


 光がほとんどない部屋で軽い音が響いた。

 弘徽殿の頬は赤く染まっていったが、それ以上に杏子の手は赤くなっていた。


 「わたくしの友人や女房にそのようなことは言わないで下さい!」


 感情をよく宿す整った顔には怒りが見えた。

 呪いなどをしている時を除いて杏子という人物は基本明るくて慈悲深く優しい人物である。

 怒りに任せて手を上げたりなんてしない。

 卯紗子や雪子、玲子が危険にさらされた時、雪子の身代わりとなって言われた時も怒っていたが直接手を出さなかった。


 「この世界には全ての物事に責任があります。その責任を抱えるのが自分です」


 誰に向かって言っているのか分からない。

 先程とは打って変わって落ち着いた感情を排した声だった。


 「弘徽殿様、あなたは責任を取りましたか?わたくしにやった攻撃だけではありません。少なくとも雪子様や玲子様に行ったこと、女房に教育という名の暴力を振るったこと......。自身がやったことを戻って来ると考えて行動してきましたか?わたくしの呪いはあなたがこれまでやってきたことを全てが戻って来る、責任を果たすものです。その身で自身がしてきたことを反省してください」

 「......」


 弘徽殿は口を開かずただ聞いていた。

 御簾から入るおぼろげな光が冷たい屋敷を照らした。