「何が起こったのでしょうか?」

 「杏子様.......」


 不安と心配が帯びた視線が杏子に向けられた。

 (結界が反応したみたい)

 結界とは呪師が作る物。

 特定の範囲を呪いから防ぐことができる。

 飛香舎に設置してある結界に攻撃されたのだろう。


 「少し様子見てきますね。皆ここから出ないように」


 杏子はそう言い残し、開放的な屋敷で唯一壁に囲まれた部屋、塗籠に入った。

 元々は寝室だったらしいが、閉鎖的だったこともあり今では納戸として使われることが多い。

 飛香舎の納戸は杏子が実家から持ってきた呪具がそこかしこに置かれていた。


 「えっとどこに置いたっけ......」


 片づけておくべきだったと、非常事態の今物凄く感じる。

 幸いにも、結界を作っていた呪具は見つかった。

 自身の気だけでも結界は作れるが、強度がない。

 そのため、飛香舎の結界は呪具を使用して強度を上げている。


 「よかった!壊れていないみたい」


 まあ、当然の結果である。

 呪師として教育された杏子の結界を割れるのは兄二人か父くらいしかいない。


 「杏子様、大丈夫ですか?」

 「卯紗⁈」


 背後から卯紗子に声を掛けられた。

 灯りがなく、昼間なのに暗い部屋で急に人の声が聞こえるのはそれなりの恐怖である。


 「す、すみません......」

 「あ、卯紗、別に気にしなくていいのよ。わたくしがびっくりしただけだから。それで、どうしたの?何かあった?」

 「いえ。杏子様の帰りが遅かったので」

 「呼びに来てくれたの?ありがとね、卯紗。こっちは大体終わったから、一緒に戻ろ」


 杏子は卯紗子を連れて、皆がいる場に戻った。


 「杏子様、何かあったのですか?」

 「何か攻撃されたみたいですね」


 結界を破ったわけではないので他人事のように答えたが、何も知らない者からすれば恐怖以外何もない。


 「こ、攻撃ですか⁈一体誰が......」

 「杏子様、ここにいて大丈夫なんですか?」

 「相手が分かれば、私が相手をしましょう」


 一人おかしい者がいるが、雪子と卯紗子は不安げに顔を見合わせていた。


 「ここはわたくしが守っていますから」


 安全だと杏子は続けたかった。

 だが、飛香舎に響き渡る鋭い音で遮られてしまった。


 「きゃっ⁈」

 「杏子様、早く逃げましょう!ここにいたら危険です!」


 先程よりも音が大きかったせいで、雪子の腰は抜け、卯紗子は避難させようとしていた。

 玲子は何も言わなかったが懐を探っているのが杏子の視界に映った。

 何を探しているのかは聞きたくない。

 杏子の周りは目の前の異常事態にそれ相応の行動と感情を抱いていた。

 だが、杏子は違った。

 不安と恐怖で動けなくなることもなく、逃げるわけでもなく、武器を探すのではなく、単純に怒っていた。

 上を見上げる杏子の瞳は、天井を通り越してどこからか飛んでくる見えざる攻撃をまるで見えているかのようだった。

 (わたくしの大切な方を危険にさらしたこと、覚えておきなさいな......!絶対に許さないんだから)

 見た目だけは大人しそうな儚さが漂う深窓な姫君は、激情を胸に灯していた。

 最初こそは驚いたが、こう何度もされると自然になれるし、杏子にちょっかいをかけたことは別に気にしていない。

 ただ、杏子以外に向けられるのは別だ。


 「卯紗、墨を擦ってちょうだいな」


 丁寧に、静かに言わないと、感情が源の炎に理性が包まれそうだ。

 必死に表情を取り繕っているが、その目は全く笑っていなかった。

 誰しもを包み込むような優しさと照らす明るさは消えて、激しい中身を押さえるために杏子から漂うのは人を寄せ付けない冷たさがあった。

 熱と冷

 相反する空気は整った容貌を引き出し、人間を超越した美しさを秘めていた。


 「は、はい。ただいまお持ちします!」


 普段とは全く異なる杏子に命令されたことで、卯紗子は避難するなどといった考えをどこかに捨て動き出した。

 杏子はこちらを見ることしかできない雪子と玲子、墨を準備する卯紗子を横目でちらっと見た後、灯台と紙に刀をすぐに使えるよう自分の側においた。


 「杏子様、準備終わりました」


 卯紗子の声で、始まった。

 杏子は刀で細い指を軽く傷つけて、墨に血を落とした。

 処置することもなく、筆を手に取ると紙に文字を書きだした。


 「災厄を司る神 禍津日神へ  祈りと共に 力を奉納いたします 全ての力を 所有者へ」


 呪文を口吟むことで、文字の色が漆黒から濁った赤へと変化していく。

 全ての文字が血色になったことを確認すると、煌々と光る燭台の上に翳した。

 すると、紙は中心部分から瞬時に燃えていき、灰はどこかへ消えてしまった。


 「これで後は柏陽兄様や右近兄様が何とかしてくれるでしょう」


 周囲には聞こえないほど小さな声を呟いた。

 杏子の呪いが聞いたのか、攻撃は止まり、部屋には静寂が訪れた。


 「杏子様、今のって......」


 杏子が呪いをするところを見たことなく、裏事情を知らない雪子は正解にたどり着きながらも言葉を濁した。

 最初から最後まで全て見られている。

 誤魔化すことはできない。

 そう判断した杏子は雪子が濁した言葉を放った。


 「黒魔術」


 どこからか息を飲む音だけが聞こえた。

 当然だろう。

 黒魔術とは願いの代償に生を費やす。

 その願いとは帝や皇族の呪詛など私利私欲塗れたもので帝に危険があるものとして、全面的に禁止されている。

 未遂で流刑、最悪命を絶つこととなる。

 そんなことを東宮の寵愛が深い姫がしたなど、宮中を揺るがす大事件である。

 しかし、これは杏子以外、九条の者以外がした場合である。


 「わたくしが罪を犯したと思っている方がいらっしゃるかもしれませんが、帝公認なので罪に問われませんよ。むしろ問われるのは先に攻撃してきた方です。仮にも東宮の妃であるわたくしに手を出しているので」


 先日の呪いを見た卯紗子は何となく察しているが、雪子と玲子は納得していない様子だった。


 「えっと、どういうことですか?杏子様が今したことは帝が認めているのですか?」

 「ええ。わたくしの一族は唯一呪い、黒魔術の使用が帝から認められている家ですので」


 帝に害がある者を排除するため、という理由は言わないでおく。

 これは言っては駄目。

 それぐらいは杏子にも分かることだった。

 もし、言ったら宮中に葬られた不審事は九全て条が行ったものされる。

 ......いくつかは事実だが。


 「ところで、杏子様。杏子様の呪文ってどこにいったんですか?」

 「攻撃してきた本人と関係者」


 (感情的になって力入れすぎちゃったけど、大丈夫だったかな......)

 神に祈っているので、関係者はともかく攻撃してきた者が無事か怪しい。

 (あの攻撃は陰陽師が作る式を使った攻撃だった。占いしかできない陰陽師の中ではそれなりに実力がある方だね。ちゃっちくてもできる者は価値が吊り上がるから、わたくしの屋敷に攻撃してきた者は上流貴族か......)

 杏子は思考の海に潜る。

 入内したばかりで妃との交流は少ない。

 雪子の身代わりをしていた時に関わった麗景殿は別で、杏子と繋がりがある妃は

 更衣で父を亡くした雪子

 低い女御か更衣で幼い芳子

 女房虐待している女御、弘徽殿

 杏子が頭の中で列挙した妃の中で、推測と会うのは一人しかいなかった。

 (ちょっと様子見てくるか)

 呪いをして攻撃が止まったとはいえ、犯人が見つからない限りいつ攻撃してくるか分からない。


 「雪子様、卯紗、玲子。わたくし、ちょっと外の空気吸ってきますね」


 (こう言っておけば出歩けるでしょ)

 攻撃してきた陰陽師のところへ行くなんて反対される。

 杏子の筋書きは、空気を吸って来ると外を出歩いていたら、偶然犯人を見つけちゃった。

 どうして外に出たんだ?とか偶然にしては出来過ぎ、という意見は押さえて頂きたい。

 自然に見えるように部屋から出ようとした時、卯紗子が杏子に向けて言い放った。


 「私も行って来ます!雪子様と玲子さんはゆっくりしていて下さいね」


 『いやでも、まだ破綻したわけではないし、卯紗子を丸めておいていけるよ』というちび杏子と『変に疑われるより卯紗を連れて行った方が良いのではないでしょうか?』というちび雪子が頭に出現した。

 杏子がどちらの意見を採用したのかは言うまでもない。


 「ほら、卯紗行くよ」


 自分と友人である雪子

 その天秤は雪子の方へと一瞬で傾いた。