淑景舎に着くと、玲子がすぐに火鉢を用意してくれた。
「井戸から水と、後はそうね......。薄くて細長い布を持って来てくれる?」
「井戸の水は俺が持って来る。右近、布、持っているだろう?」
何故文官の右近が持っているのか分からないが、右近は無言で白い布を差し出して来た。
「ご自由にお使えください」
「ありがとう。......ねえ、あなたの名は何というの?」
連れてきた女房に指示を出したいが、名前が出なかった。
「......い、伊勢と申します......」
「伊勢、あなたの足を見せてちょうだい。怪我、しているのでしょう?」
「な、何故それを......?」
「あ......雪子様。持ってきましたよ!」
木製の桶にたっぷりと水を入れた柏陽が戻って来た。
「ありがとうございます、柏陽様。柏陽様と右近様は向こう側に行って下さる?殿方がいると緊張してしまうでしょう?」
「「おおせのままに」」
男二人が視界から消えたことを確認すると、伊勢の前に腰を下ろした。
(色々と知りたいけど、この傷の処理が先ね......)
「伊勢、足を出して。今から治すから」
「そのような無礼なこと......」
「伊勢、雪子様が命令しているのだ。無礼など考えなくて良い」
「は、はい......」
「脛辺りまで上げさせていただきますね」
差し出された袴を赤黒いしみがあるところまで上げた。
露わになったのはおびただしい傷の痕。
真っ白な傷がない部分はほとんどなかった。
自然と杏子の顔が厳しくなっていく。
(これは酷い......)
右近から貰った織物を裂いて、桶に浸すと傷口に触れた。
「沁みると思いますが、我慢してください」
傷口を丁寧に拭くと、もう一方の白い布を巻いた。
(今度、軟膏を用意する必要がありそうね)
「もう、戻して頂いて結構です。伊勢、どこが痛い?」
大丈夫?なんて言わない。
高位の者に大丈夫と言われたら、何かあっても大丈夫と答えなければならない。
意見に背くことは許されないからだ。
「脛にある傷が痛みますが、淑景舎様が治して下さったので大丈夫です。私達は淑景舎様に酷いことをしていたのに、淑景舎様は何故私にそのようなことをして下さるのですか?」
「目の前に怪我した人がいるんだよ?助けないとでしょう?」
当然のことでしょう?と杏子は思っているが、これは杏子の家の常識であって世間では非常識である。
身分、政敵関わらず助けるなんて、世の貴族は言わない。
自分の権力と名誉を守るしか頭にはないのだから。
見ず知らずな者に構うことはない。
予想の斜め上の答えに目を白黒させる伊勢に玲子が補足説明をした。
「伊勢。雪子様はとても慈悲深い方なのです。あなたはその心で救われたのです」
「楽な姿勢で構いません。本当は休んで欲しいんだけど、こちらにも事情があって早く知りたいの。伊勢、なぜ弘徽殿様にいじめられているの?」
「それは......」
「安心して。わたくしは弘徽殿様に言うつもりはありませんし、あなたを無下に扱うこともありません」
「そ、それなら......」
ぽつりぽつり、伊勢はゆっくりと話してくれた。
自分より格下の淑景舎に虚仮を回されたこと。
そのせいで怒り狂い、怒りの矛先は女房にいったこと。
自分たちは身分が低く、弘徽殿の実家に属しているので、ただ耐えることしかできないこと。
「ー。私の同僚の一人が......飛香舎様に弘徽殿の現状を伝えようとしたのです。飛香舎様は唯一弘徽殿様よりも上の方ですから......。でも、見つかってしまい、辞任という形で消えたのです......!そうしたら......私に難癖を付けて......教育されて......外に......」
「もう大丈夫。辛かったでしょう?伊勢、休んでなさい。玲子、奥の部屋へ連れてってあげて」
「かしこまりました。伊勢、行くぞ」
「し、失礼します......」
二人が去った後、杏子は几帳の後ろにいる柏陽と右近を呼んだ。
「柏陽兄様、右近兄様。話しは聞いていましたか?」
「もちろんだ。だが、まさか妃が手を挙げていたとはな......」
「正直私は信じられませんね」
杏子が兄二人と話している時、外から声がした。
「雪子様。今、帰りました」
「弘徽殿様から色々伺ってきました」
「お帰りなさい!ゆ......杏子様と卯紗、部屋に上がって下さい」
外に近いこの部屋は誰かに見られるかもしれないということで、部屋の中心部へと移動した。
そして、入れ替わりや弘徽殿の話などが外に漏れないように呪具を置く。
「雪子様、弘徽殿様から何かされていませんか?」
「大丈夫ですよ、杏子様。杏子様として弘徽殿様と面会をしてたら、その、恐怖や不安はどこか行ってしまいました」
「屋敷から出る時の雪子様、とてもかっこよかったんですよ!」
「卯紗子さん。その話、詳しく」
戻った伊勢
玲子が話に食いついてきた。
「それも大事なんだが、弘徽殿で何があったんだ?」
このままでは、雪子の話になると判断した柏陽は元に戻そうとした。
随分と慣れている。
妹の杏子が話をしょっちゅう脱線させているからだろうか。
議題が元に戻ったことで、雪子は口を開いた。
「弘徽殿様は女房をいじめていました」
伊勢から話しを聞いていたが、事実の可能性が高い。
唯一話を知らない卯紗子だけが驚いたような表情になっていた。
「やはり......。わたくしが拾った女房、伊勢は傷だらけでしたから」
弘徽殿には多くの女房がいることは弘徽殿と喋った日に確認済み。
その多くの者が今、虐待されているのか......。
杏子はそれほど弘徽殿に関わりはないが、雪子は今までいじめてきた相手。
助けることに不満を持っているかもしれない。
(全員が幸せになる道はないの?)
黙りこんだ杏子の姿に柏陽は一筋の皺が顔に浮かんだ。
「おい。まさかとは思うが、弘徽殿殿の女房全員引き取るのか?」
「確かにその方法だと全員救えますね!」
「兄上、なんという案を出しているんですか......。杏子が食いつくに決まっているでしょう」
「杏子様、弘徽殿様の女房が全員虐待されているとは限りません。中には弘徽殿様側に付いている方もいますよ?」
「それだと意味がないですね......。でも、わたくしが弘徽殿様の女房を引き取るにしろ、引き取らないにしろ、雪子様、あなたの意見が欲しいです」
「わ、わたくしですか?」
急に話を振られた雪子は動揺が顔に出ていた。
「はい。わたくしは全員が満足する道を選びたいです。雪子様は後宮で弘徽殿様からいじめられていたでしょう?弘徽殿様ではなくても、近い方がいることに何かしら思うことがあると思います。これは雪子様がこれから楽しく暮らすために重要なことです。正直にお願いします」
「杏子様......!杏子様ほど下の者に気を遣って下さる方にわたくしは会ったことございません......。......弘徽殿様の女房の方が傍にいると思うと嫌でもわたくしは思い出すでしょう」
杏子が何か言おうとしたが、遮るように雪子は口を開いた。
「でも、それは過去に起きたことです。今とは関係ありません。苦しんで、傷ついて......。助けがない状況の中、必死に耐えています。その辛さはわたくしも理解しています」
ほんの少し前まではわたくしも同じでしたから、と雪子は付け足した。
少し傷ついた表情で歪んだ笑みを浮かべながらそっと瞼を閉じた。
昔を思っているのだろうか。
閉じられた瞳からは一筋の雫が落ちた。
(雪子様......)
気丈に振る舞っているが、やはり辛いのだろう。
やめようとしたが、目を開けた雪子を見てとどまった。
先程までの弱々しい姿はどこにもない。
長い睫毛に縁どられた目に弧を描く唇。
色気まで感じさせる自分の姿に釘付けとなった。
「......わたくしは女房を救い出そうと思います」
「雪子様。わたくしはあなたの忠実なる下邊。永遠についていきます!」
「え?う、うん。これからもよろしくね、玲子」
「はい!」
二人の間に流れている雰囲気を壊さないよう、四人は静かに会話をした。
「それで、杏子。何か案はあるのか?全員、引き取るのはだめだからな」
「分かっていますよ。それを今から考えるのです」
弘徽殿に仕えたい者を無理やりこちら側に引き取る必要はない。
だが、弘徽殿から離れたい者をどうやって拾うのか。
親の都合もあって動きたくても動けない者も多いだろう。
「東宮に手伝ってもらう?でも、これはわたくしの問題だし......」
何か不穏な単語が聞こえたが気のせいだろう。
「あの、杏子様。こういうのはどうでしょうか?」
「井戸から水と、後はそうね......。薄くて細長い布を持って来てくれる?」
「井戸の水は俺が持って来る。右近、布、持っているだろう?」
何故文官の右近が持っているのか分からないが、右近は無言で白い布を差し出して来た。
「ご自由にお使えください」
「ありがとう。......ねえ、あなたの名は何というの?」
連れてきた女房に指示を出したいが、名前が出なかった。
「......い、伊勢と申します......」
「伊勢、あなたの足を見せてちょうだい。怪我、しているのでしょう?」
「な、何故それを......?」
「あ......雪子様。持ってきましたよ!」
木製の桶にたっぷりと水を入れた柏陽が戻って来た。
「ありがとうございます、柏陽様。柏陽様と右近様は向こう側に行って下さる?殿方がいると緊張してしまうでしょう?」
「「おおせのままに」」
男二人が視界から消えたことを確認すると、伊勢の前に腰を下ろした。
(色々と知りたいけど、この傷の処理が先ね......)
「伊勢、足を出して。今から治すから」
「そのような無礼なこと......」
「伊勢、雪子様が命令しているのだ。無礼など考えなくて良い」
「は、はい......」
「脛辺りまで上げさせていただきますね」
差し出された袴を赤黒いしみがあるところまで上げた。
露わになったのはおびただしい傷の痕。
真っ白な傷がない部分はほとんどなかった。
自然と杏子の顔が厳しくなっていく。
(これは酷い......)
右近から貰った織物を裂いて、桶に浸すと傷口に触れた。
「沁みると思いますが、我慢してください」
傷口を丁寧に拭くと、もう一方の白い布を巻いた。
(今度、軟膏を用意する必要がありそうね)
「もう、戻して頂いて結構です。伊勢、どこが痛い?」
大丈夫?なんて言わない。
高位の者に大丈夫と言われたら、何かあっても大丈夫と答えなければならない。
意見に背くことは許されないからだ。
「脛にある傷が痛みますが、淑景舎様が治して下さったので大丈夫です。私達は淑景舎様に酷いことをしていたのに、淑景舎様は何故私にそのようなことをして下さるのですか?」
「目の前に怪我した人がいるんだよ?助けないとでしょう?」
当然のことでしょう?と杏子は思っているが、これは杏子の家の常識であって世間では非常識である。
身分、政敵関わらず助けるなんて、世の貴族は言わない。
自分の権力と名誉を守るしか頭にはないのだから。
見ず知らずな者に構うことはない。
予想の斜め上の答えに目を白黒させる伊勢に玲子が補足説明をした。
「伊勢。雪子様はとても慈悲深い方なのです。あなたはその心で救われたのです」
「楽な姿勢で構いません。本当は休んで欲しいんだけど、こちらにも事情があって早く知りたいの。伊勢、なぜ弘徽殿様にいじめられているの?」
「それは......」
「安心して。わたくしは弘徽殿様に言うつもりはありませんし、あなたを無下に扱うこともありません」
「そ、それなら......」
ぽつりぽつり、伊勢はゆっくりと話してくれた。
自分より格下の淑景舎に虚仮を回されたこと。
そのせいで怒り狂い、怒りの矛先は女房にいったこと。
自分たちは身分が低く、弘徽殿の実家に属しているので、ただ耐えることしかできないこと。
「ー。私の同僚の一人が......飛香舎様に弘徽殿の現状を伝えようとしたのです。飛香舎様は唯一弘徽殿様よりも上の方ですから......。でも、見つかってしまい、辞任という形で消えたのです......!そうしたら......私に難癖を付けて......教育されて......外に......」
「もう大丈夫。辛かったでしょう?伊勢、休んでなさい。玲子、奥の部屋へ連れてってあげて」
「かしこまりました。伊勢、行くぞ」
「し、失礼します......」
二人が去った後、杏子は几帳の後ろにいる柏陽と右近を呼んだ。
「柏陽兄様、右近兄様。話しは聞いていましたか?」
「もちろんだ。だが、まさか妃が手を挙げていたとはな......」
「正直私は信じられませんね」
杏子が兄二人と話している時、外から声がした。
「雪子様。今、帰りました」
「弘徽殿様から色々伺ってきました」
「お帰りなさい!ゆ......杏子様と卯紗、部屋に上がって下さい」
外に近いこの部屋は誰かに見られるかもしれないということで、部屋の中心部へと移動した。
そして、入れ替わりや弘徽殿の話などが外に漏れないように呪具を置く。
「雪子様、弘徽殿様から何かされていませんか?」
「大丈夫ですよ、杏子様。杏子様として弘徽殿様と面会をしてたら、その、恐怖や不安はどこか行ってしまいました」
「屋敷から出る時の雪子様、とてもかっこよかったんですよ!」
「卯紗子さん。その話、詳しく」
戻った伊勢
玲子が話に食いついてきた。
「それも大事なんだが、弘徽殿で何があったんだ?」
このままでは、雪子の話になると判断した柏陽は元に戻そうとした。
随分と慣れている。
妹の杏子が話をしょっちゅう脱線させているからだろうか。
議題が元に戻ったことで、雪子は口を開いた。
「弘徽殿様は女房をいじめていました」
伊勢から話しを聞いていたが、事実の可能性が高い。
唯一話を知らない卯紗子だけが驚いたような表情になっていた。
「やはり......。わたくしが拾った女房、伊勢は傷だらけでしたから」
弘徽殿には多くの女房がいることは弘徽殿と喋った日に確認済み。
その多くの者が今、虐待されているのか......。
杏子はそれほど弘徽殿に関わりはないが、雪子は今までいじめてきた相手。
助けることに不満を持っているかもしれない。
(全員が幸せになる道はないの?)
黙りこんだ杏子の姿に柏陽は一筋の皺が顔に浮かんだ。
「おい。まさかとは思うが、弘徽殿殿の女房全員引き取るのか?」
「確かにその方法だと全員救えますね!」
「兄上、なんという案を出しているんですか......。杏子が食いつくに決まっているでしょう」
「杏子様、弘徽殿様の女房が全員虐待されているとは限りません。中には弘徽殿様側に付いている方もいますよ?」
「それだと意味がないですね......。でも、わたくしが弘徽殿様の女房を引き取るにしろ、引き取らないにしろ、雪子様、あなたの意見が欲しいです」
「わ、わたくしですか?」
急に話を振られた雪子は動揺が顔に出ていた。
「はい。わたくしは全員が満足する道を選びたいです。雪子様は後宮で弘徽殿様からいじめられていたでしょう?弘徽殿様ではなくても、近い方がいることに何かしら思うことがあると思います。これは雪子様がこれから楽しく暮らすために重要なことです。正直にお願いします」
「杏子様......!杏子様ほど下の者に気を遣って下さる方にわたくしは会ったことございません......。......弘徽殿様の女房の方が傍にいると思うと嫌でもわたくしは思い出すでしょう」
杏子が何か言おうとしたが、遮るように雪子は口を開いた。
「でも、それは過去に起きたことです。今とは関係ありません。苦しんで、傷ついて......。助けがない状況の中、必死に耐えています。その辛さはわたくしも理解しています」
ほんの少し前まではわたくしも同じでしたから、と雪子は付け足した。
少し傷ついた表情で歪んだ笑みを浮かべながらそっと瞼を閉じた。
昔を思っているのだろうか。
閉じられた瞳からは一筋の雫が落ちた。
(雪子様......)
気丈に振る舞っているが、やはり辛いのだろう。
やめようとしたが、目を開けた雪子を見てとどまった。
先程までの弱々しい姿はどこにもない。
長い睫毛に縁どられた目に弧を描く唇。
色気まで感じさせる自分の姿に釘付けとなった。
「......わたくしは女房を救い出そうと思います」
「雪子様。わたくしはあなたの忠実なる下邊。永遠についていきます!」
「え?う、うん。これからもよろしくね、玲子」
「はい!」
二人の間に流れている雰囲気を壊さないよう、四人は静かに会話をした。
「それで、杏子。何か案はあるのか?全員、引き取るのはだめだからな」
「分かっていますよ。それを今から考えるのです」
弘徽殿に仕えたい者を無理やりこちら側に引き取る必要はない。
だが、弘徽殿から離れたい者をどうやって拾うのか。
親の都合もあって動きたくても動けない者も多いだろう。
「東宮に手伝ってもらう?でも、これはわたくしの問題だし......」
何か不穏な単語が聞こえたが気のせいだろう。
「あの、杏子様。こういうのはどうでしょうか?」