平安後宮身代わり姫君伝

 「わたくしは雪子様を尊敬します」


 次の日、杏子の姿となった雪子が淑景舎に来たことに対して、杏子が最初に放った言葉だった。


 「えっと、その、どういうことですか、杏子様?」

 「雪子様の努力に感動しました!着物の直し、中心が薄い木簡、書物に挟まっていた紙、全て拝見しました」

 「見たのですか。......それらは全てわたくしの練習で、心が動くような物ではございませんよ?」

 「でも、何度も書いたり、針を刺したのは事実ですよね?」

 「それは......」


 雪子の言葉は続かなかった。

 事実なんだろう。

 きっと杏子が見たこと以外も努力しているのだろう。


 「私の主は大変努力家で忍耐強いのです。前に」

 「玲子、わたくしのことはいいので、昨日何があったか教えてちょうだい」

 「昨日は杏子様のおかげですっきりした日でした」

 「杏子様、何をしたんですか?」


 卯紗子からのジト目が痛い。


 「弘徽殿様とおしゃべりしただけよ?」

 「弘徽殿様とおしゃべりですか......。わたくしはそのようなことはできませんね」

 「淑景舎に行くまでにあいつからのちょっかいを受けたり話しかけられたのですが、杏子様のおかげで今頃、あいつの評価は下落ですね」

 「私がいない半日の間に何をしたんですか⁉ただのおしゃべりではないでしょう。今、この場で全て話してください」

 「ほんとに話していただけなんだけど......」


 杏子の口から出たのは、昨夜に起こった出来事。

 弘徽殿のすぐ横にある渡殿に撒菱が散乱していたこと。

 麗景殿の前を通ったら水をかけられたこと。

 弘徽殿と話したこと。

 全て話終わると、


 「色々やりましたね......」

 「わたくしの方でも色々ありましたが、ここまでではありませんでした」


 卯紗子が呆れ、雪子は驚いたようだった。


 「雪子様、そちらは何があったのですか?」

 「杏子様と柏陽様と右近様、玲子が出て行かれた後、一曲弾いていたのですが、東宮が来られたのです。わたくしが失態をする度に卯紗には助けて頂きました」


 (東宮が来るなんて......)

 入内して一度も来なかったから、油断していた。


 「大丈夫でしたか?」

 「緊張で動けなくなってしまったり、普段とは違うとおっしゃられた時は焦りましたね」

 「東宮は不思議がっていませんでしたし、おそらく大丈夫だと思います」

 「それなら安心だけど、東宮は雪子様のことを何と言ったのですか?」

 「慎ましい、と。わたくしはそんなことないんですけどね」


 普段と違って慎ましい?


 「......東宮はわたくしのことを図々しいとでも思っていらっしゃるのですね」


 いずれ離婚して後宮から出るつもりだが、今は東宮の妻である。

 妻を図々しいと思っているとは。

 杏子の機嫌が悪くなってくる。

 もちろん、そんな雰囲気は微塵にも出さないが。


 「そんなことは思っていないと思いますよ。むしろ、あれは......。わたくしが話しても良いのでしょうか?」

 「雪子様は気づいていらっしゃるのですか?」

 「東宮の顔を見れば分かりますよ」


 (雪子様と卯紗は何を話しているの?)

 頭の中が?で満ちていた。

 (全く話に入らない玲子もわたくしと一緒よね)

 そう思って玲子を見ると、空気になっていた。

 普段も影が薄いが、もっと薄い。

 そして、玲子の瞳を見ると、雪子しか映っていなかった。

 (わたくしの仲間ではなさそう......)

 ちなみに、仲間というのは今目の前で繰り広げられる話の内容が全く分からない者である。


 「二人は何を話しているのですか?」

 「杏子様、これは東宮から聞いて下さい。わたくしからは、話せませんね」

 「杏子様が東宮のことをよく見ると分かるんじゃないでしょうか。あ、そういえば、杏子様宛の文が届いてますよ」


 卯紗子から貰った文を開けると、目が点になった。

 (何を考えているんだろう?)

 杏子と弘徽殿のおしゃべり?の前に書かれた手紙なんだろう。

 差出人は李承、弘徽殿の兄からであった。

 『日 照 香 炉 生 紫 煙』

 意味は太陽は香炉峰を照らし、赤紫の霧が立ち上っている。

 この間の銀台金闕夕沈沈よりはましであるが返答に困る。

 この次の文は遥 看 瀑 布 挂 前 川。

 はるか遠くには滝が前方にある川に罹って流れ落ちているのが見えるとでも書いておけばいいのか?

 昨日、弘徽殿に送られた文には返歌をすると言ってしまった以上何かしなければならない。

 だが、何を書けば良いのか分からない。

 せめて学がある者だったら......。


 「杏子様、そちらの文には一体何が書かれていたのですか?」

 「漢文よ」


 (これ、勉強の題材に使えるかも)

 今は杏子の想像通り女子会になっているが、本当は勉強会である。


 「それでは、卯紗、玲子に問題です。こちらの文の内容を当ててみて」


 杏子は文をみんなが見えるように広げた。


 「全部漢字ですね......」

 「手がかりを下さい......」


 女房二人は答えを出すのが難しそうだ。

 既に、手がかりを欲している。


 「漢字の意味を考えると分かるようになるかな。そうですよね、杏子様?」

 「ええ。ですが、香炉は地名ですので、意味を取るのはそれ以外の五字ですよ」

 「そこはどこにあるのですか?」

 「海を渡った国にあるそうよ。卯紗、手がかりはあるのだから後は頑張るだけよ」


 今の世には空を飛ぶ乗り物など存在しない。

 海を渡るのは船である。

 香炉というのは海の向こうにある町らしい。

 この漢詩以外にも香炉という地名は出てくる。

 こちらで言う歌枕のようなところだろうか。


 「日が照る......香炉に......生まれる...紫煙?」

 「日が照る香炉に紫の煙が生じる......ということでしょうか?」

 「正解!」

 「お疲れ様です、二人とも」

 「漢文って面白いですね!でも、これ、文なんですよね?返答どうしますか?」

 「どうしよう?」

 「あいつの時と同様に言葉で取り繕うのはどうでしょうか?」

 「それ良いかも」


 卯紗子が文と共に持ってきた紙に、杏子は文字を綴っていく。

 横で見ている卯紗子や雪子の顔が引きつっていく。

 周りのことは気にせずにどんどん書いていく。


 「あの、杏子様。これ、本当に送るんですか?」


 杏子が書いた言葉は綺麗な言葉で飾られまくっているが、全て外すと問題しかない言葉で埋め尽くされていた。

 ......具体的には、学がないとか、漢文の知識を増やしてほしいとか、返事をする方も考えて欲しいとか、などなど文句......もといお願いである。

 全て事実であるが、殿上人相手にこれは怒られる。

 ......意味が分かればだけど。


 「送るよ。わたくし、弘徽殿様に約束しちゃったんだよね。手紙は全て返事を書く、と」

 「何をしているんですか......」

 「あいつをずたずたにした後に届く文としては最高ですね」

 「わたくし、元に戻った時できるかしら......?」

 「大丈夫です。雪子様にちょっかいを出さないように言ってきたので、しばらくは静かです」

 「それは嬉しいですね。あの、杏子様、実はもう一つ文がありまして」

 「実家からですか?」


 (文なんて珍しい)

 実家との情報交換は兄二人で可能。

 緊急だったら、鶴を飛ばせば良い。

 文は間に何人もいるので、情報を渡すにはあまり向いていないのだ。


 「いえ......。それが、襲芳舎の者からの文なんです」

 「襲芳舎、ですか?」


 杏子の館である飛香舎から凝花舎を挟んだ奥にあるところ。

 清涼殿とはそれなりに離れているので低い女御や更衣が住んでいる。

 だが、妃との関り会いが少ない杏子は誰がどこの館の主なのか把握できていなかった。


 「杏子様、弘徽殿様だけではなく襲芳舎様まで喧嘩をうったのですか?」

 「まさか。わたくしと関りがあるのは雪子様と不本意ですが、弘徽殿様と......麗景殿様ですね」

 「襲芳舎様と関りがなくて安心しました」

 「雪子様、こちら開けてもよろしいですか?」

 「もちろんです」


 季節外れの鬼灯が描かれた文を開いて読んでみると、


 「読みやすいわー」


 この一言に尽きる。

 貴族特有の遠まわしで敬語が多く使われているが、前によんだのが意味不明の物だったので、大変読みやすい。


 「雪子様、ここの女子会に一人増えても大丈夫ですか?」

 「もしかして、襲芳舎様、ですか?」

 「はい。わたくしの琴に触発されて、琴を教えて頂きたいと」

 「わたくしと一緒ですね。ですが、襲芳舎様は弘徽殿様のような方なのでしょうか......?」

 「では調べましょうか」

 「どのようにして調べるんですか?」

 「卯紗、それはね、こうするの」
 「はじめまして、飛香舎様!私、襲芳舎様に住んでいる芳子と申します~。こちらは私が育てている鬼灯です」

 「とてもきれいですね。卯紗、こちらを飾っといてくれる?」

 「かしこまりました」



 数日経った飛香舎にて、襲芳舎の主、芳子との面会が始まった。

 初対面の人に交換した状態では何かとぼろが出てしまうので、元に戻っていた。


 「飛香舎様。お隣にいらっしゃる方は?」

 「淑景舎の主ですよ」

 「よ、よろしくお願います......」

 「淑景舎様って女御の弘徽殿様をねじ伏せた方ですよね。とても美しく優雅だったと聞きました~!今、噂の的である、淑景舎様とお話できるなんて嬉しいです。私も更衣なので、身分の差を乗り越えた淑景舎様は尊敬してます」

 「そのような噂が流れているのですか......」


 あれはただのおしゃべりで、ねじ伏せてはいないのだが......。

 誰も思ってはくれなかった。

 こちらを見る視線が痛い。


 「聞いたことございません?女房伝えできっと殿方も知っていると思いますよ。私もその現場を見てい見たかったです~。お姉さま方の素晴らしい活躍をこの目で見たかったです。ああ、すみません。お姉さまなどと呼んでしまって......」

 「わたくしは構いませんよ。淑景舎様はどうかしら?」


 良く知らない人物に自分ではなく、友人である雪子の真名を教える必要はない。

 外用のおしとやかな姫君になっていた。


 「わたくしも構いませんよ」

 「わぁ~、ありがとうございます!お姉さま方は琴の名手なのですよね。あの、もし、良かったら、演奏していただきませんか?」


 口元に手を添えて、目をうるうるさせている芳子に杏子と雪子は断ることができなかった。


 「そういえば、一緒に弾いたことはありませんね」

 「この機会に弾いてみましょう」

 「やったー!ありがとうございます」


 (小動物みたい)

 手を上にあげる動作も感情がすぐに出ることも幼い。

 だが、母性くすぐられる小さい体に庇護欲を注ぐ可愛らしい顔にはとても似合っていた。


 「弾きたい曲とかありますか?」

 「そうですね......。まだ先ですが五節の舞の曲はどうでしょうか?」


 五節の舞とは一年の収穫を祝う宮中行事、新嘗祭に合わせて行われる舞踊。

 神楽笛、和琴の他に海を渡って来た管楽器、弦楽器、打楽器が使われている。

 今回は琴だけで行う。

 楽器が少ない分、音の重なりは減ってしまうが琴の音だけを聞くことが出来る。

 伸ばし音が多く、ゆったりとしている。

 そこには厳かで雅な雰囲気が詰まっていた。

 同じ曲を弾いているはずだが、音色は全く異なる。

 しかし、杏子の華やかさと雪子の繊細さが混ざり合って筆舌し難い環境を生み出していた。

 (もっと弾いていたい!雪子様ならこの音にどのような音を合わせるのだろう)

 原曲にはない音を出すと、すぐに反応してきた。

 すると、雪子の方からも音が飛んできた。

 (そのような音をだすのね。なら、こんなのはどう?)

 隣合わせに弾いているので、顔を合わせることもなく、声を交わすこともない。

 だが、音で会話をしていた。

 原曲に独創性を付け加えた結果、二人が弾き終わったのはそれなりに時が進んでいた。


 「杏子様、楽しゅうございました」

 「こちらもですよ。まさか、あそこであのような音を出すとは、驚きです」


 演奏に大満足した二人は隠していた本名でお互いを言っていたことに気づいていなかった。


 「お姉さま方のあまりにもの素晴らしさにこの世のものなのか疑ってしまいました。まさに、別に天地の人間に非ざる有り、です」

 「それって......漢文ですよね?」

 「芳子様は漢文の知識があるのですか!」


 芳子が言った言葉の原文は、別 有 天 地 非 人 間。

 ここは俗世間と隔絶した至福の場所である。

 それほど、杏子と雪子の演奏が良かったのだろう。

 杏子は興奮のあまり外用の演技を取っていつも通りになっていた。


 「たしなむ程度ですけど、お姉さま方も漢文の知識があるのですね!後宮では漢文の知識を持っている方が少なかったので、嬉しいです」

 「ひらがなだけではなく、漢字も学んでほしいですよね。学ぶことまで、男女を分けるのは良くないと思います」

 「漢詩には美しい表現もありますからね。和歌の参考にもなります......」

 「雪子お姉さまの通りです。私、漢文の美しさに惹かれて始めたのです」

 「漢字でしか自然の雄大さは表せませんよね」

 「ひらがなは感情表現に向いてますからね。自然の美は表現しにくいですよね」


 (共感しかない)

 漢文・漢字の良さについて話している三人は、初対面特有の緊張と不安は溶けて、熱く語り合う同志となっていた。
 主達が熱く語り合っている横では


 「お初にお目にかかります。芳子様の女房をやっています。近江と申します」

 「杏子様の女房をしている卯紗子です」

 「雪子様にお仕えしている玲子です」


 女房の自己紹介が始まっていた。

 主の熱について行けない三人は部屋の隅にいた。


 「漢文とは、あのように熱くなるのですね。あいにく、わたくしには漢文の知識が無いもので......。あのような姿の芳子様は久しぶりに見ました」

 「雪子様も普段よりも饒舌です」


 雪子は扇で顔を隠しながらも、楽しそうに談笑しているのが分かる。



 「杏子様は......いつも通りですね」

 「卯紗子様。こちらには他の女房の方がいらっしゃらないのですか?」

 「女房は私一人ですよ」

 「そうだったのですか。てっきり他にもいらっしゃるかと思っていました」


 女御がいる飛香舎に仕える女房が一人しかいないことを驚かれたことに卯紗子が驚く。

 なお近江は驚いている顔をしているが玲子は声だけが驚いて顔は微塵も動いていなかった。


 「え⁉他のところはもっと女房がいらっしゃるのですか?」


 杏子の家にいた時は、紀子に仕えていた女房から女房としての知識や行為を教えてもらってた。

 だが、後宮はどうだ?

 卯紗子の主の友人である雪子に仕えている玲子しか見たことない。

 だから、後宮では一人の妃につき一人しかついて行くことはできないと思ってしまっていた。


 「わたくしのところは二人ですが、弘徽殿様はもっと大勢お仕えしていらっしゃるのではないでしょうか?」

 「この間、大勢の女房が見物していたのであり得ますね」

 「卯紗子様はお一人でされているのですよね?どのような経緯で女房となったのですか?」

 「まず、私は皆さんと違って貴族ではなくて、元々杏子様の実家である九条邸の近くにある村出身という前提で話は進みますからね」

 「分かりました」

 「私の家は農民で、小さい子どもでも稲作や畑を耕して暮らしていたんです。今から、もう9年ほど前の春、一人の見知らぬ女の子がいたんです。こちらをずっと見ていたので、田植えの誘いをすると乗ってくれました」


 今でも覚えている。

 農民にはいない日焼けを知らない真っ白な肌の子がずっとこちらを見てきた。

 声を掛けてみると驚きながらも返事をしてくれて、卯紗子が田植えを一緒にしないか誘ったところ、『もちろん!』の一言で手伝ってくれた。


 「それから、二日に一回、私の村に来て、一緒に田んぼの世話をしたり、畑を耕しているうちに、すっかり仲良くなったんです。そして、女の子は私が知らないことをいっぱい知っていました。短い休憩の時に読み書き計算とちょっとしたお作法と華やかな貴族の生活を教えてもらったんです」


 紙も筆も墨もないから、地面とその辺に落ちている木の棒で代用した。

 女の子の話す話はどれもきらびやかで、幼い卯紗子心をときめかせた。


 「えっと、その女の子って......」


 近江の視線の先にはこちらには気づいていない杏子の姿があった。


 「杏子様です」

 「杏子様は農作業にも精通をしているのですか。博識ですね」

 「私と女の子は稲狩りが終わる秋までずっと一緒にいたんです。雪が降りそうな秋の終わり、女の子がいない日に九条家の方が私のところへやって来て、私には縁がない九条邸に連れて行ったのです。中に入って、出迎えたのは私がいつも一緒に遊んでいた子でした。女の子、杏子様は私をこちら側に誘ったのです」


 縁も所縁もないところへ入ったら、出迎えたのが綺麗な着物で飾られた農作業を一緒にやった女の子がいたら、誰でも驚く。

 驚いている卯紗子に杏子は、かつて卯紗子がしたように誘った。


 『一緒に来ない?』


 差し出された手を取った卯紗子は杏子から『卯紗子』という名前と着物と知識、それからたくさんのことをもらった。

 杏子曰く、前に私ももらったから、そのお返し、だそうだが、そのような大層なことを慕覚えはない。

 だが、杏子にとってはそれだけのそれ以上の価値があるのだろう。


 「卯紗子様はそのようにしてお仕えしたのですか.......。玲子様はどのようにして?」

 「私の家は代々雪子様に仕える家系でしたので、私も幼い頃から屋敷を出入りしていました。ですが、その頃は仕事として仕えるという気持ちの方が多かったです」


 普段はあまり喋らない玲子が饒舌だった。

 そして、能面の顔がほんの少しだけ緩んでいる.......気がした。


 「私の母は弟を生んで力が尽きたのか天に召されました。父がいたので生活には支障が出ませんでしたが、その後に来た後妻が問題でした」

 「はい!質問です。後妻とはなんでしょう?」


 (後妻って何?)



 「後妻とは新しい正室の方です。再婚相手とも言いますね」

 「ありがとうございます。近江さん。あ、話、遮ってすみません」

 「では続けます。私は弟を守るために母の縁を伝って家を出ました。その時、私は弟を世話するために側仕えを辞めたいと伝えたところ、雪子様が十分過ぎるほどの金子を与えて下さったのです。後ほど、こちらの金子が全て雪子様が出したことが分かったのです。雪子様からいただいた金子のおかげで、弟は無事官僚となることができ、平穏な毎日を過ごすことができたのです。その頃、雪子様の父君が天に召されたと風の噂で聞いたのです。私は恩を返そうと向かったのです」



 「玲子様はそうやって、雪子様に仕えることになったのですね」

 「はい。雪子様が最初にかけていただいた言葉は忘れることができません」

 「玲子さん、雪子様はなんと?」

 「『おかえりなさい。元気だった?』です。自身のことで大変なのに私のことを心配して下さったのです。この瞬間、私はこの方に一生ついて行くことを胸に刻みました」


 抑揚のない声が熱を帯びていた。

 (私もこんな感じに説明していたのかな)

 主のことについて熱く語っていたことに恥ずかしく思ってしまった。


 「良い話ですね。最後は近江さんですね」

 「私はお二人のような素晴らしい感動的なことでは無いのですが.......」

 「卯紗子さんと私が話しました。近江さんもお願いします」

 「.......分かりました。わたくしは父の縁で芳子様に仕えることとなったのです。女房名は父が近江の国司だったので、そこからですね」


 女房名と、はお偉い貴族にに出仕する女房が仕える主人や同輩への便宜のために名乗った通称。

 玲子は知らないが、卯紗子の場合、『名前がないと呼びづらいし、本名を言って呪われるみたいな噂があるけど、胡散臭い』と主である杏子から言われたので、女房名はない。

 女房名を考えるのがめんどくさいというのもあるが、卯紗子は杏子につけて貰った名前を気に入っているので、女房名がなくて良かったなどと思っている。


 「近江ですか。確か、琵琶の海があるのですよね。杏子様が行きたい場所ランキング上位に入っていました」

 「近江は良いところですよ。卯紗子様も杏子様とご一緒に行ってきたらどうでしょう」

 「そうですね!今度、相談してみます」

 「卯紗、何を相談するの?」

 「杏子様!?」


 喋るのに夢中で主達の語りが終了したことに気づかなかった。

 それは卯紗子だけではなく、玲子や近江も適応する。

 杏子のそばにいる雪子と芳子の姿を見て驚いていた。


 「近江、お姉さま方に仕えている方と仲良くできた?」

 「はい。面白く興味深いお話を聞けました」

 「玲子が饒舌だなんて珍しい」

 「思い出話を少し」


 主が来たことで女房会は解散となった。

 だが、今日ここに主が主催の知的な?会と女房達の座談会が誕生した。
 芳子と近江が去った後、


 「さあ、雪子様。交換と行きましょう!」


 杏子が立ち上がって、雪子に言った。

 元に戻ったのは芳子がいたからであり、いなくなった今、入れ替わりが可能となった。


 「わたくし、杏子様のように初対面の方と上手に話せません.......」


 この後宮で一番位が高い杏子にはまたいつ来客が来るか分からない。

 男なら、御簾や几帳越しだったり、代理の人が言ってくれるのでなんとかなる。

 だが、屋敷の中に入ることができる妃やその側仕えには誤魔化しがしにくい。


 「大丈夫です!雪子様、初対面の芳子様と仲良くお話していましたよ」

 「それは、わたくしが知っている話題でしたので.......」

 「基本的に会話の内容は今日のようなことですよ」

 「.......それなら、交換しましょう」


 しばらく考えたのか、返答には時間がかかったが了承を貰った。


 「やった!ありがとうございます」

 「杏子様、何か起こさないでくださいね」

 「何も起こさないよ?前回も起こしていないもの」


 心外である。

 (私、何もしていないんだけど)


 「あの報告を聞いて、何も起きていないわけないですよ。玲子さん、杏子様のことよろしくお願いします」


 いつの間にか、様付けだったのがさんになってて、玲子と仲良くなっていることに羨ま.......ではなく微笑えましい。

 (わたくしだって、玲子と仲良くなりたい.......!)

 杏子にはさん付け、または呼び捨てで呼ばれるのは家族と帝、東宮ぐらいである。

 昔は卯紗子も呼び捨てで読んでいたが、いつの間にか様付けとなってしまい、呼び捨てで呼んで、とお願いしても無理の一言で終わる。


 「杏子様、袿と唐衣を交換するので、脱いでください」


 杏子は卯紗子の手によって、袴の姿になった。

 下が紅に上は白練。

 袴は長いが、神社の巫女のように見える。


 「1枚は肌寒いですね」


 同じく袴姿となった雪子は両手を腕に当ててさすっていた。


 「こちらを」


 卯紗子から渡された普段着ている衣よりも少し落ちて、生地が分厚い袿とほとんど模様がない唐衣を着た。



 「雪子様、行ってきますね。卯紗、雪子様をよろしく」

 「任せて下さい!」

 「行ってらっしゃいませ、杏子様。文で報告しますね。頑張って下さい、玲子」

 「はい」


 杏子は雪子の身代わりとして、雪子は杏子の身代わりとして、再び生活が始まった。
 「ねえ、玲子。わたくしたち見られてる?」


 扇で口元を隠しながら、後ろを歩く玲子に聞いた。


 「はい。多くの視線が射抜いています」

 「まるで的のようね」

 「おそらく、先日のことを気にしているのでしょう」

 「そういえば、この間通った時にあった撒菱が見当たらないね」


 杏子と玲子は帝や東宮、中宮が住んでいる清涼殿を通り抜け、弘徽殿が見えてきたところにいた。

 先日はこの辺りを歩いていた時に気の気配がした。


 「これだけの視線と昼間に堂々と嫌がらせはしないでしょう」

 「だよね」


 そう腹を括って、渡殿を歩いていると、何かあった。


 「また撒菱?」

 「あれほど大きな撒菱はございませんよ」

 「.......邪気を感じなくて巨大な撒菱くらいこの世にはあるはずよ」


 しかし、近づいて見ると巨大な撒菱ではなく、衣だった。

 真っ赤な生地に複雑な模様が記されていて、汚れ一つもない。

 衣の布は大きく、畳まずにくしゃくしゃにしている状態では山のように見えた。


 「もったいない.......。まだ、使えるのに」


 ここの渡殿は弘徽殿に面している。

 大方、弘徽殿の物だろう。

 一応弘徽殿からの許可も貰ってから、持ち帰ろうと衣の山に触れると、人の体温を感じた。


 「!?玲子、この衣を広げてちょうだい!」

 「はい。ただいま」


 (ここに人がいるかもしれない)

 もしいたとすれば、放置しておくのは危険である。

 後宮で人が亡くなるなど縁起が悪い。

 それに、ここで放置して本当に人がいたら、杏子の目覚めが悪い。

 良い睡眠のためにも確認は大事だ。

 本当は自分の手でやりたいが、雪子はそのようなことをする人物では無い。

 ただ見ているだけの自分にもどかしさを感じつつ、玲子の様子を見ていた。


 「!?あ.......雪子様。中に人がいます」

 「やっぱり.......」


 雪子の勘は当たったみたいだった。

 (今すぐにでも弘徽殿様に問いたいけど、こちらの方が優先ね)

 だが、どのようにして運ぼう?

 赤い袴で隠されているが、赤黒いしみができていた。

 怪我でもしたのだろう。

 そんな人を歩かせるわけにはいかない。

 より悪化してしまう。

 だが、普通の貴族女性よりも体が大きい玲子でさえ、成人した女性を抱くのは無理だろう。

 (やるしかないか)

 お守りと同様、普段から持ち歩いている正方形の和紙を出した。

 表面は呪文が書かれているので、裏面を表にして。

 手早く和紙を折って、不気味なほど澄んだ秋空に飛ばした。

 紙飛行機と呼ばれる真っ白な物は、後宮の上空を飛んで、一つの舎にたどり着いた。
 少し時を戻して、飛香舎には、杏子と玲子を見送った雪子と卯紗子がいた。


 「今日はもう来客はございませんよね」

 「杏子様からも聞いていなので、もう来ないと思うよ」

 「では、ゆっくりしていましょうか」


 脇息と言われる肘掛けを使って、雪子は寛いでいた。

 いや、寛ごうとしていた。

 しかし、


 「杏子.......女御様。失礼するぞ」


 そんな声と共に来客が来た。

 来てしまった。


 「「!?」」

 「!?もしや、雪子殿か?」
 
 「兄上、女性の部屋に入るのは.......って、雪子様?」


 さすが、杏子の兄二人。

 女房でさえ、見分け困難な杏子と雪子を一瞬で判断した。

 突然のことで、雪子と卯紗子は几帳に入らず、雪子は慌てて顔を扇で隠した。


 「い、いらっしゃいませ。柏陽様。右近様」

 「衣を変えると見分けるのが困難だな。これでは、東宮が気づくなんて無さそうだな」

 「兄上、そのような失礼なことは言ってはなりませぬ」


 殿上人の会話。

 (見ているだけで風情ある.......)

 会話の内容はかなりどうでもいいことを話しているが、そんなことは耳に入らない。

 この世とは思えない優雅な物仕草を見ている時、かすかに開いている御簾から紙飛行機が飛んできた。


 「これは?」

 「雪子様、何かあったのですか?」

 「紙飛行機が飛んできたみたい」


 雪子は手に取った紙飛行機を卯紗子に見せた。

 紙飛行機には文字のような模様がある。

 裏側に何か書かれているのか?

 (何が書いているんでしょう?気になるけど、恋文てしたら開けない方が良いよね。書いた方にも相手の方にも失礼ですし)

 開きたいのをこらえていると、杏子の兄が話に加わって来た。


 「雪子様。その紙飛行機、見せてくれますか?」

 「え?ええ」

 「右近、俺にも見せろ」

 「見せてます、でしょう?」


 そんな会話もしつつ、紙飛行機を見る二人の目は鋭さを帯びてきた。


 「すまない。雪子殿。杏子が呼んでいるようで、一度席を退出する。後、この紙飛行機、借ります」

 「退出時もばたばたですみません。今度、わびの品を届けます」


 そう言って、雪子の手から紙飛行機を取ってどこかへ投げると、外に出て行ってしまった。

 来るときも急だったが、帰りも急である。

 あっけに取られていたが、我に返ると、杏子と玲子が心配になって来た。

 (杏子様の兄君方が慌てて出るなんて、何かあったのでしょう。二人が心配だけど、わたくしには......)

 雪子には誰かのために矛になるほどの武術はない。

 誰かを庇えるために盾になるほどの権力もない。

 誰かを導くために書になるほどの知力もない。

 役に立つものは何も持っていない。

 いるだけで足手まといになってしまう。

 それでも、それでも、それでも、誰かのために動きたかった。


 「卯紗、行きましょう」

 「どこに行くんですか?」


 雪子がどこに行くのか分かってそうな顔で聞いてきた。

 耳はこちらを向いているが、体は動いていた。


 「杏子様と玲子の元へ」


 体は震えている。

 杏子と玲子のところに行くためには弘徽殿の前を通らないといけない。

 つい最近まで、いじめられていた場所。

 怖くない、と言ったら嘘になる。

 (でも、行かないと)

 杏子の姿となった雪子は一歩踏み出した。
 弘徽殿前の渡殿にて


 「どのようにして運びましょう?」


 玲子は一応聞いてきているが、運ぼうとしていた。

 なんとなく雰囲気で分かる。

 ようやくこの能面女房と意思疎通ができるようになった。



 「......わ......わた......し......は......」


 自分で歩くと言いたいのだろう。

 だが、杏子がその願いを聞くことはない。


 「だめです。あなたは足を怪我しているのですよ。これ以上悪くしてどうするのです⁉今、人を呼んだので」


 (気づいてくれると良いんだけど)

 杏子が飛ばした物は緊急用連絡手段。

 向かった先にいる人まで飛んでいく。

 そして、伝言した相手が飛ばすとこちらに戻って来る。


 「淑景舎様、どうしたのですか?」

 「......兄上、はあ......はあ...何か......あったの......はあ......ですか?」


 突然、柏陽と右近がこの場にやってきた。

 人手が欲しいと願った時に偶々現れた。

 もちろん、偶然ではない。

 柏陽の手には杏子が飛ばした飛行機があり、走って来たのか右近は肩で息をしていた。


 「ちょうど良い時に!柏陽様、右近様。こちらの方を淑景舎まで運んで下さいな」

 「は?」


 『おい。まさか、このためだけに呼んだのか?』

 そんな副音声が目から伝わる。

 もちろん、杏子は無視する。


 「早くしていただけると助かるのですか.......」


 杏子ではなく、雪子っぽくお願いする。

 中身は杏子だが、外は雪子。

 身分は低い更衣とはいえ、東宮の妃の一人。

 そんな方からのお願い。

 断ることは出来なかった。


 「.......分かりました」


 にこやかに柏陽は返事をしたが、額に青筋が出ていた。

 お説教確定演出。

 (しょうがないじゃない。頼めるのが兄様しかいないんだから)

 後宮は異性と繋がることができる社交場。

 男は美しい女房を、女は麗しい殿方を。

 虎視眈々として狙ってる。

 そんな中に妻がいてそれなりに大きい子どもがいる男は入りづらい。

 当然ながら、屋敷にいる奥様方も入ることはできない。


 「ほら、兄上行きますよ。淑景舎はこちらであっているでしょうか?」


 兄と妹の静かな戦いに真ん中は慣れたように話を変えて、休戦させた。

 あたりに張り詰められた冷たい空気は一瞬で払拭された。


 「ええ。玲子、淑景舎に着いたら、すぐに火鉢の準備を。あと、白湯と厚い着物も」

 「かしこまりました。雪子様はどうするのですか?」


 今、この場には秘密を知っている者しかいない。

 足元には女房がいるが、きっと意識は覚束ないだろう。

 だが、陰で誰が聞いているのかは分からない。

 そのため、玲子は杏子のことを雪子と呼んでいた。


 「わたくし?そうね......」

 「あ......雪子様......」


 淑景舎に行ってこの子の様子を見たら弘徽殿の行く予定と答えようとしたが、か細いながらも最近聞きなれた声が聞こえて杏子の意識はそちらにいってしまった。


 「杏子様!なぜ、こちらへ?」

 「雪子様が忘れ物をしたから、ですよ」


 雪子の代わりに卯紗子が応えたが、言い終わると軽く片目を閉じた。

 片目を閉じるのは、本当のことではない時の合図。

 どうやらこの理由は建前らしい。


 「あの、杏子様。こちらの方は?」

 「今から淑景舎に連れて行きます。ご一緒しますか?」

 「雪子様はこれから何をするのですか?」


 さき程は答えられなかった質問。


 「わたくしはこの方を看て、弘徽殿様に何があったのか聞いてきます」

 「そ......んな......わたし......の......ため......に......」


 無理に体を起こして女房は講義をしたが、喉まで傷めたのか声は擦れて軽い咳をこぼした。


 「わたくしが発見した以上最後まで見ますよ。あなたはただゆっくりすればいいのです」


 女房を見る杏子の瞳には慈愛に満ちていた。

 口調は穏やかで優しい。

 だが、ゆるぎない意思を感じさせた。


 「あの雪子様。......わたくしが......弘徽殿様のところへ行ってもいいでしょうか?わたくしもできることをしたいのです。雪子様は彼女をお願いします。卯紗、行きますよ」


 何かを感じたのか。

 雪子は躊躇しながらも、弘徽殿のところへ行くと言い、弘徽殿の方へ歩き出した。

 躊躇するのは当然だろう。

 かつて自身をいじめた者に会いに行くのだから。

 それでも、雪子は足を運んだ。


 「あ、待って下さい、杏子様」


 こちらに向かって一礼すると卯紗子は来たばかりなのに、戻って行った。


 「俺たちも行くぞ。すまない。今だけ恥じらいを捨ててくれ」


 柏陽は女房を軽々上げた。


 「そうですね」


 (雪子様も手伝ってくださる。わたくしも頑張らなくては!)

 強い決意も胸に抱いて、杏子の止まっていた足が動き出した。
 「わたくしが発見した以上最後まで見ますよ。あなたはただゆっくりすればいいのです」


 杏子の声を聞いた途端、雪子の胸のどこかが動いた。

 身分差を気にしない。

 ただ助けたい。

 その瞳にはとても見覚えがあった。

 雪子の身の上話を聞き終わった時の瞳とそっくりだった。

 優しくて、吸い込まれそうなほど澄んだ目。

 (あのような目を向けられたのは初めてだった......。わたくしと同じ瞳なのに映している物は違った......)

 ただただ後ろ向きで臆病な雪子にはできない。

 でも近づくことができたらー。

 今の雪子は目標である杏子の姿。

 普段なら、『雪子』なら、できなくても、この非日常で『杏子』としてならほんの少し近づくことができるのではないか。

 (今のわたくしは杏子様......)

 杏子ならきっと手を差し伸ばすだろう。

 嘗てしてもらったように。

 今度は雪子の番。

 この場所と現場を考えれば、自ずと何があったのか見えてくる。

 そして、自分が何をすればいいのかも。

 飛香舎から出た時の気持ちを思い出して、雪子は口を開いた。


 「あの雪子様」


 声が出ない。

 (弘徽殿様のところに行くだけでしょう?大丈夫よ、きっと)

 心の中で自分を鼓舞しても、頭の中に流れてくる記憶はこれまでされてきた、いやがらせ。

 一つ一つは小さくても毎日、毎回、となれば、精神にどうしても負荷がかかり、深い傷を負う。

 まだ傷は塞がっていない。

 それでも、下をむいて立ち止まりたくなかった。


 「......わたくしが......弘徽殿様のところへ行ってもいいでしょうか?わたくしもできることをしたいのです。雪子様は彼女をお願いします。卯紗、行きますよ」


 途中で引き返さないように。

 自分で自分の逃げ道を封鎖して、足を動かした。

 動かし続けないと、止まってしまう。

 止まったらもう動けない。

 来た道を引き返して、弘徽殿の前に着いた。


 「当然の訪問、すみません。弘徽殿様はいらっしゃいますか?飛香舎様が面会したいそうです」


 後ろを歩いていた卯紗子が屋敷にいる弘徽殿の女房に伝えた。


 「しょ、少々お待ちください!」


 慌てたように弘徽殿の中へ入って行った。

 予約なしの面会。

 失礼にあたるが、弘徽殿は断わることはできない。

 相手は弘徽殿よりも身分が上の飛香舎の主なんだから。


 「中へお入りください。弘徽殿様がお待ちです」


 (大丈夫......怖くない......)

 派手過ぎる壁代を通り抜けると、畳に座った以前と姿が変わった弘徽殿の姿があった。

 ふっくらとしていた肉が落ち、頬は僅かにこけたように見えた。

 だが、欲にまみれた目だけがぎらぎらと輝いていた。


 「いらっしゃいませ。飛香舎様。お待ちしていましたよ。わたくし、ずっと会いたかったのです。そういえば、飛香舎様は兄上にお返事を書いたそうで。兄が貰ったと自慢して来ましたよ。どこかの女と違ってとても優雅だそうで。そういえば、今日、仕事場で見せると張り切っていました。あの、またわたくしとお話いたしません?ここには、高級で庶民が買えないような物でいっぱいですの。ほら、あちらなんかー」


 (息継ぎしなくて大丈夫なのかしら......?)

 ずっと言い続ける弘徽殿を前に雪子は不安が飛んで行ってしまった。

 そして、雪子が聞いたことないような猫なで声。

 無駄に高くて、たっぷりの毒が塗られた声しか聴いたことない雪子は弘徽殿の変わりように驚きを通り越して呆れてしまった。

 (この方は下にはきつく当たって自身の優位性を出して、上には媚を売るのですか......。見てしまうと怖くはありませんね)

 権力を笠に攻撃する者。

 強いのは笠になっている方で、攻撃する者はさほど強くない。

 ただ威張っているだけ。


 「弘徽殿様」


 雪子がそう呟くだけで、会話の主が一瞬にして変わった。


 「わたくし、弘徽殿様と内密に話したいのですが、よろしいでしょうか?」


 横目で卯紗子を見ると軽く頷いて、外に出て行った。


 「え、ええ。ほら、わたくしは、飛香舎様と話すから、あんた達はどっかへ行っておいで」


 (随分ときつい言い方......)

 弘徽殿の女御は逃げるようにして出て行った。


 「それで、話というのは?」


 二人だけの空間。

 弘徽殿は雪子が話す内容に全く気づいていなかった。

 大方、弘徽殿の派閥に入るなどと言った自身に都合の良い話を予想しているのだろう。

 だが、現実は違う。


 「弘徽殿様。弘徽殿様は女房を大切にしていますか?」


 最初から本題に聞くわけではない。

 遠回りをしてゆっくりと。

 だが、雪子は発した言葉で弘徽殿の顔は動いた。

 雪子の傍にいるのは表情筋が死んでいる玲子。

 だからだろうか。

 顔の機微には敏感だった。

 瞬きが立て続けに6回。

 嘘を付いてる可能性が高い。


 「......大切にしていますが、それが何かありましたか?」

 「いえ。弘徽殿様のお言葉を聞いた女房の顔には恐怖が浮かんでいたので。気になってしまったのです。それに、ここの女房は随分と朱色がお好きなのですね。後、紺色も」


 胸に宿る恐怖心が消えたのか。

 雪子は自分でも驚くほど、流暢だった。

 この場にいる女房はみんな深い赤か暗色の着物だった。

 汚れが目立つ白磁の衣を着ているのは誰もいなかった。

 まるで、何かを隠しているかのよう。


 「......わたくしが暗色を最近お気に召しているので。妃から流行とは広がりますから」

 「本日の弘徽殿様は明るい黄と花緑青に見えるのですが?」

 「た、偶々ですよ」

 「そうなのですか......」


 (中々出ませんね......)

 苦しい言い訳だが、はっきりとした証拠は全て隠されている。

 話術が得意ではない雪子は弘徽殿から情報を取るのはやはり難しかったか。

 (どうやって......)

 次なる手を考えていると、


 「......そういえば、飛香舎様は自身の女房に教育をしたことはありますか?わたくしの女房達は最近、わたくしに逆らうことが多くて......。もう二度と言わないよう教育をしているんですよね」


 弘徽殿の方から来てくれた。


 「具体的にどのようなことを?」

 「大したことないですよ。少し痛めつけるだけですよ」


 口元を優雅に扇で隠しているが、言葉は隠せない。

 一度聞いた言葉は消せない。


 「......女房を捨てる、とかですか?」

 「捨てるなんて......。ちょっと、外に置いとくだけですよ?衣は置いときましたし」


 昼間とはいえ、薄い長袴の姿に衣一枚。

 あまりにも度が過ぎてる行為。

 それでも弘徽殿の顔を見れば、全く悪く思っていなさそうだった。


 「弘徽殿様。その方はどうなってもよいのですか?」

 「ええ。所詮は下﨟の者ですから。替えは大勢いますし」


 弘徽殿の会話は胸糞悪かった。

 (早く終わらせましょう)

 だが、雪子には言っておきたいことがあった。


 「弘徽殿様。命とは重たい物であります。そして、大きさはどれも同じです。軽く扱わないでください。これは、女房達も同様です。決して、やりすぎないようお願いしますね。それでは、失礼いたします」


 玲子を大切にしている雪子は弘徽殿の行動が許せなかった。

 母を亡くしている雪子は命の重み、散ってしまった後の悲しみを知っていた。

 だから、命を無下に扱う弘徽殿が許せなかった。

 雪子は一度も振り返ることもなく、部屋から出て行った。
 淑景舎に着くと、玲子がすぐに火鉢を用意してくれた。


 「井戸から水と、後はそうね......。薄くて細長い布を持って来てくれる?」

 「井戸の水は俺が持って来る。右近、布、持っているだろう?」


 何故文官の右近が持っているのか分からないが、右近は無言で白い布を差し出して来た。


 「ご自由にお使えください」

 「ありがとう。......ねえ、あなたの名は何というの?」


 連れてきた女房に指示を出したいが、名前が出なかった。


 「......い、伊勢と申します......」

 「伊勢、あなたの足を見せてちょうだい。怪我、しているのでしょう?」

 「な、何故それを......?」

 「あ......雪子様。持ってきましたよ!」


 木製の桶にたっぷりと水を入れた柏陽が戻って来た。


 「ありがとうございます、柏陽様。柏陽様と右近様は向こう側に行って下さる?殿方がいると緊張してしまうでしょう?」

 「「おおせのままに」」


 男二人が視界から消えたことを確認すると、伊勢の前に腰を下ろした。

 (色々と知りたいけど、この傷の処理が先ね......)


 「伊勢、足を出して。今から治すから」

 「そのような無礼なこと......」

 「伊勢、雪子様が命令しているのだ。無礼など考えなくて良い」

 「は、はい......」

 「脛辺りまで上げさせていただきますね」


 差し出された袴を赤黒いしみがあるところまで上げた。

 露わになったのはおびただしい傷の痕。

 真っ白な傷がない部分はほとんどなかった。

 自然と杏子の顔が厳しくなっていく。

 (これは酷い......)

 右近から貰った織物を裂いて、桶に浸すと傷口に触れた。


 「沁みると思いますが、我慢してください」


 傷口を丁寧に拭くと、もう一方の白い布を巻いた。

 (今度、軟膏を用意する必要がありそうね)


 「もう、戻して頂いて結構です。伊勢、どこが痛い?」


 大丈夫?なんて言わない。

 高位の者に大丈夫と言われたら、何かあっても大丈夫と答えなければならない。

 意見に背くことは許されないからだ。


 「脛にある傷が痛みますが、淑景舎様が治して下さったので大丈夫です。私達は淑景舎様に酷いことをしていたのに、淑景舎様は何故私にそのようなことをして下さるのですか?」

 「目の前に怪我した人がいるんだよ?助けないとでしょう?」


 当然のことでしょう?と杏子は思っているが、これは杏子の家の常識であって世間では非常識である。

 身分、政敵関わらず助けるなんて、世の貴族は言わない。

 自分の権力と名誉を守るしか頭にはないのだから。

 見ず知らずな者に構うことはない。

 予想の斜め上の答えに目を白黒させる伊勢に玲子が補足説明をした。


 「伊勢。雪子様はとても慈悲深い方なのです。あなたはその心で救われたのです」

 「楽な姿勢で構いません。本当は休んで欲しいんだけど、こちらにも事情があって早く知りたいの。伊勢、なぜ弘徽殿様にいじめられているの?」

 「それは......」

 「安心して。わたくしは弘徽殿様に言うつもりはありませんし、あなたを無下に扱うこともありません」

 「そ、それなら......」


 ぽつりぽつり、伊勢はゆっくりと話してくれた。

 自分より格下の淑景舎に虚仮を回されたこと。

 そのせいで怒り狂い、怒りの矛先は女房にいったこと。

 自分たちは身分が低く、弘徽殿の実家に属しているので、ただ耐えることしかできないこと。


 「ー。私の同僚の一人が......飛香舎様に弘徽殿の現状を伝えようとしたのです。飛香舎様は唯一弘徽殿様よりも上の方ですから......。でも、見つかってしまい、辞任という形で消えたのです......!そうしたら......私に難癖を付けて......教育されて......外に......」

 「もう大丈夫。辛かったでしょう?伊勢、休んでなさい。玲子、奥の部屋へ連れてってあげて」

 「かしこまりました。伊勢、行くぞ」

 「し、失礼します......」


 二人が去った後、杏子は几帳の後ろにいる柏陽と右近を呼んだ。


 「柏陽兄様、右近兄様。話しは聞いていましたか?」

 「もちろんだ。だが、まさか妃が手を挙げていたとはな......」

 「正直私は信じられませんね」


 杏子が兄二人と話している時、外から声がした。


 「雪子様。今、帰りました」

 「弘徽殿様から色々伺ってきました」

 「お帰りなさい!ゆ......杏子様と卯紗、部屋に上がって下さい」


 外に近いこの部屋は誰かに見られるかもしれないということで、部屋の中心部へと移動した。

 そして、入れ替わりや弘徽殿の話などが外に漏れないように呪具を置く。


 「雪子様、弘徽殿様から何かされていませんか?」

 「大丈夫ですよ、杏子様。杏子様として弘徽殿様と面会をしてたら、その、恐怖や不安はどこか行ってしまいました」

 「屋敷から出る時の雪子様、とてもかっこよかったんですよ!」

 「卯紗子さん。その話、詳しく」


 戻った伊勢

 玲子が話に食いついてきた。


 「それも大事なんだが、弘徽殿で何があったんだ?」


 このままでは、雪子の話になると判断した柏陽は元に戻そうとした。

 随分と慣れている。

 妹の杏子が話をしょっちゅう脱線させているからだろうか。

 議題が元に戻ったことで、雪子は口を開いた。


 「弘徽殿様は女房をいじめていました」


 伊勢から話しを聞いていたが、事実の可能性が高い。

 唯一話を知らない卯紗子だけが驚いたような表情になっていた。


 「やはり......。わたくしが拾った女房、伊勢は傷だらけでしたから」


 弘徽殿には多くの女房がいることは弘徽殿と喋った日に確認済み。

 その多くの者が今、虐待されているのか......。

 杏子はそれほど弘徽殿に関わりはないが、雪子は今までいじめてきた相手。

 助けることに不満を持っているかもしれない。

 (全員が幸せになる道はないの?)

 黙りこんだ杏子の姿に柏陽は一筋の皺が顔に浮かんだ。


 「おい。まさかとは思うが、弘徽殿殿の女房全員引き取るのか?」

 「確かにその方法だと全員救えますね!」

 「兄上、なんという案を出しているんですか......。杏子が食いつくに決まっているでしょう」

 「杏子様、弘徽殿様の女房が全員虐待されているとは限りません。中には弘徽殿様側に付いている方もいますよ?」

 「それだと意味がないですね......。でも、わたくしが弘徽殿様の女房を引き取るにしろ、引き取らないにしろ、雪子様、あなたの意見が欲しいです」

 「わ、わたくしですか?」


 急に話を振られた雪子は動揺が顔に出ていた。


 「はい。わたくしは全員が満足する道を選びたいです。雪子様は後宮で弘徽殿様からいじめられていたでしょう?弘徽殿様ではなくても、近い方がいることに何かしら思うことがあると思います。これは雪子様がこれから楽しく暮らすために重要なことです。正直にお願いします」

 「杏子様......!杏子様ほど下の者に気を遣って下さる方にわたくしは会ったことございません......。......弘徽殿様の女房の方が傍にいると思うと嫌でもわたくしは思い出すでしょう」


 杏子が何か言おうとしたが、遮るように雪子は口を開いた。


 「でも、それは過去に起きたことです。今とは関係ありません。苦しんで、傷ついて......。助けがない状況の中、必死に耐えています。その辛さはわたくしも理解しています」


 ほんの少し前まではわたくしも同じでしたから、と雪子は付け足した。

 少し傷ついた表情で歪んだ笑みを浮かべながらそっと瞼を閉じた。

 昔を思っているのだろうか。

 閉じられた瞳からは一筋の雫が落ちた。

 (雪子様......)

 気丈に振る舞っているが、やはり辛いのだろう。

 やめようとしたが、目を開けた雪子を見てとどまった。

 先程までの弱々しい姿はどこにもない。

 長い睫毛に縁どられた目に弧を描く唇。

 色気まで感じさせる自分の姿に釘付けとなった。


 「......わたくしは女房を救い出そうと思います」

 「雪子様。わたくしはあなたの忠実なる下邊。永遠についていきます!」

 「え?う、うん。これからもよろしくね、玲子」

 「はい!」


 二人の間に流れている雰囲気を壊さないよう、四人は静かに会話をした。


 「それで、杏子。何か案はあるのか?全員、引き取るのはだめだからな」

 「分かっていますよ。それを今から考えるのです」


 弘徽殿に仕えたい者を無理やりこちら側に引き取る必要はない。

 だが、弘徽殿から離れたい者をどうやって拾うのか。

 親の都合もあって動きたくても動けない者も多いだろう。


 「東宮に手伝ってもらう?でも、これはわたくしの問題だし......」


 何か不穏な単語が聞こえたが気のせいだろう。


 「あの、杏子様。こういうのはどうでしょうか?」

平安後宮身代わり姫君伝

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