平安後宮身代わり姫君伝

 何か悪い予感がするが、俺、柏陽は杏子の元へ戻らずに一人の元へ訪ねた。

 もちろん、杏子のところには別の武官が護衛をしている。


 「右近、実は杏子から」

 「兄上、杏子はもう女御で我々よりも位は高いのですよ?」


 別に良いじゃないか。

 今いる場所は右近の部屋。

 周囲の人間には聞こえなくなっているのに、わざわざ気にする必要があるのか?


 「兄上、もしかしたらこの呪具に問題があって、誰かに聞かれたらどうするんですか?位が高い者を下げたい者は大勢いますよ。まあ、私なら、下げたい者を返り討ちにして集めた情報を元に、逆にこちらが位を下げますけどね」


 にっこり笑っているが、言っていることはかなり物騒だな。

 誰からも好かれそうな気を放ち、知的な見た目をしているが、中身は違う。

 つくづく味方で良かったって思ってしまう。


 「そんなことして目立つようなことはしないでくれよ。父上が左大臣。母上が内親王。杏子が女御。これ以上看板はいらないから」


 ただでさえ、高い位が多いせいで知らない人から急に絡まれたりするのに、これ以上仕事を増やすな。


 「言ってみたかっただけですよ。東宮からの仕事と同僚の文で忙しいのに、仕事なんて増やせませんよ」

 「話したいことがあったが、その前に同僚の文って?」

 「同僚の文官から文を代筆するように言われたのですよ。でも、これが中々に面白くて、やめられないんですよね。今では大半の若い文官と一部の武官の女性関係を把握しました」


 見た目だけは知的だからな。

 頼むには打ってつけだろう。

 だが、こいつに情報を渡していることになるが。


 「それで、話とは何ですか?」

 「さっき、杏子......女御から弘徽殿殿と淑景舎殿について調べるよう頼まれた。どうやら、後宮では調べるのが難しそうでな。一応、式を作っているが、どこまで集められるかが分からない。そこで、右近にも手伝ってもらいたい」

 「弘徽殿様と淑景舎様ね。文官の中で噂になっているのは更衣の淑景舎様が女御の弘徽殿様に恥をかかせたっていうやつ」

 「それは聞いたことがある。ついでに杏子女御と東宮が演奏したっていうのも」


 宮中にいる官なら誰しもが知っている噂。

 先日行った東宮主催の遊びで弘徽殿様が恥をかいたっていうやつか。

 それと一緒に飛香舎様と東宮がこの世とは思えないほど素晴らしい演奏をしたって言うのも聞いた。

 一体何があったんだ?


 「おそらく杏子の噂は後宮の女房から出ていますね。これはその場にいた後宮の者から興奮気味に聞いたので」

 「仕事が早いな」

 「大半の噂は嘘ですが中には本物があります。噂の発信源の様子を見て本当がどうか調べるのが楽しいのですよ」


 意味が分からない。

 情報集めは確かに楽しいが、ここまで情報に執着はしていない、と思う。


 「弘徽殿殿の噂については?」

 「嘘ですね。発信源が弘徽殿様の兄君と弘徽殿の父親だったので。後宮の者に聞いたところ、淑景舎様の姿はなく、身分の高い順に弾いていったと。杏子の演奏は熱烈に話していましたが、弘徽殿様の話になるとみんな歯切れが悪くなっていましたよ」

 「杏子の次に演奏したのか」


 杏子の琴は琴の名手であった母上から教わっていた。

 身内贔屓ではなく、杏子の演奏はこの国一番。

 杏子の見た目効果もあるが、演奏技術が高い。

 全員の意識を向けさせて、感情移入させて来る。

 あの演奏の後はどんなに上手くても見劣りしてしまう。

 弘徽殿殿には同情するな......。

 弘徽殿殿は杏子の次に演奏をしたのだからきっと位は高い。

 直接的に言われてはいないが、空気で分かるだろう。


 「でも、なんでそこに淑景舎殿が来るんだ?」

 「ほら、淑景舎様には後ろ盾がいないんですよ。私は入っていないんですけど、基本、父親はどこかしらの派閥に入っています。濡れ衣にさせたら、噂が回って立場が無くなりますからね。その点、父親がいない淑景舎様はちょうどいいんですよ。しかも実家は没落していますので」


 そんなことを言いながら、右近は茶を啜っている。

 おいしいですね、とか言っているがよくこんな情報を言った後に言えるな。


 「これはどこからの情報なんだ?」

 「父上からですよ。ちょうど、兄上がいなかった時ですね。昔、仲が良かった大納言には一人の娘がいて何とかしてやりたいと言っていましたので、そこから集めました」

 「はあ。でも、なんで杏子は調べるように言ったんだろうな?」

 「そうですね......。目的があるのとないのでは集める情報も変わります。といことで兄上、私が流した情報を渡して、目的を教えて下さい。こちらでも集めるので」

 「分かった。明日でいいか?」

 「できれば今日が良いですね。もちろん杏子が起きていれば、ですけど」

 「こんな夜遅くまで起きているわけないだろう」

 「では起きていたらこの後下さい。寝ていたら、連絡お願いしますね」

 「分かった」


 きっと杏子は寝ているぞ?

 そんなことを思って、部屋から出たがそれは甘い考えだった。





 「あ、柏陽お兄様。お帰りなさい。どこまで洗いに行ったのですか?帰りが遅くて心配でしたよ」


 杏子の目は眠気を感じさせなかった。

 その横にいる卯紗子も同様。

 今は作業を止めているが、机の上には筆と書きかけの紙があった。

 なぜかその横には和歌集と漢詩があったが。


 「何をやっていたんだ?」

 「勉強です」

 「昼間でもできるだろう?」

 「......夜だからこそ良いのです」

 「何一人でやっているんだ⁉」


 一つの紙には漢詩が書かれていていかにも勉強していたって感じがするがもう一方は違う。

 呪いが書かれた紙とぎっしり書かれた紙が散乱していた。

 これはやってたな。

 呪いは昼よるも夜の方の方が強くなる。

 俺も呪いを書くときは夜にしろと言われ続けた。

 必死に隠しても、本当に分かりやすい。

 素直なことは美点だけど、後宮で生きて行けるのか?


 「これは一種の情報集めです。呪いではないので大丈夫です」

 「杏子様は雪子様のために集めていたのです」

 「雪子とは誰だ?」

 「柏陽兄さま、気になりますか?雪子様はわたくしの友人です。今日、話をしていたら少し反応がおかしいところがあったので、気になって調べていたんです」


 杏子の友人ってことじゃなくて、どんな位についているのか気になるのだが。


 「あー、杏子。雪子殿の位は?」

 「あれ、言っていませんでしたっけ?淑景舎ですよ。柏陽お兄様に調べて欲しい方の一人です」

 「それなら弘徽殿殿も友人なのか?」

 「......いえ。わたくしは友人とは思っていません」

 「......先日の遊びで弘徽殿様は雪子様を落とそうとしたのです。ですが、東宮陛下の一言で落ちたのは弘徽殿様の方でしたが」

 「卯紗子、今日は遅い。明日詳しく教えてくれ」

 「は、はあ。かしこまりました」

 「杏子。今日はそれくらいにしとけ。明日、右近も連れてくる」

 「分かりました。おやすみなさい、柏陽兄さま」

 「ああ、お休み」


 これは、今日寝られないな。

 まだ俺の長い夜は始まったばかりだった。
 一方でその頃、徹夜が決定した杏子は


 「さて、柏陽兄様がいなくなったことだし、調べとこう!」


 深夜テンションで気分が高揚していた。


 「あの、調べるってどうやるのですか?今は深夜です。こんな時間にいるのは変な男で姫君はいらっしゃいませんよ」

 「部屋の中に入ってもらうの。さっき雪子様のところに式を飛ばしたでしょ?もう少ししたら、火から見えるようになるよ」

 「もう少しって、え⁉」


 灯りに使っていた蝋燭から雪子と玲子の姿が映し出された。


 『雪子様、こちらは?』

 『気づいたら部屋にあったのです。きっと風に飛ばされたのでしょうね』


 「雪子様と玲子様の声が聞こえています......」

 「でも聞こえるだけで、こっちからは何を話しても伝わらないよ。さあ、弘徽殿様のところに行く式をはやく作らないとね。貴族の話は夜にすることもあるから」


 杏子は柏陽と同じように、和紙に漢文を綴って血を少々垂らしてから鶴を折る。


 「弘徽殿のところへ」


 これまた同じように部屋から飛んでいく。


 「不思議な光景ですね」

 「卯紗も慣れるよ。さあ、情報を集めるよ」


 二人で小さな蝋燭に映る画面をじっと見つめている。


 『雪子様。杏子様には伝えなくてよろしいのですか?あいつよりも家柄、教養が高い杏子様ならきっと』

 『玲子。......伝えなくて大丈夫です。更衣であるわたくしが帝との縁戚であるからでしょうね。これはわたくしの問題。友人である杏子様を巻き込みたくないのです』

 『ですが、この間の遊びでは渡殿に閉じ込められたせいで行けず、雪子様はさらにあいつからいじめられています』

 『玲子、わたくしよりも上のくらいである弘徽殿様をあいつと呼んではいけませんよ』


 「弘徽殿様が雪子様を閉じ込めたのですか。でも、そのようなことは可能なのですか?」

 「......可能よ。多くの人を味方につければ、だけど」


 それぞれの殿と舎を繋ぐ馬道(殿舎の中を貫通している板敷きの廊下)の両端の戸に鍵をかけることで、閉じ込めることは可能。

 まさかそれを本気でやる人がいるとは、驚きで声が出ない。


 「信じられないですね。帝の縁戚だからって理由だけでするなんて。これが女の世界ですか」

 「弘徽殿様の家は最近成りあがって来た家で皇族の血が流れていないの。だから、更衣でありながら帝との繋がりがある雪子様が目障りなのね」


 杏子のような上に立つ家ならともかく、下に位置する家に皇族の血が流れているなんて考えたくもないだろう。

 自尊心が高い家ならなおさらそうだ。

 でも、これはやりすぎる。


 「杏子様、こちらの蝋燭が光っています」

 「弘徽殿に着いたようね」


 覚束ない蝋燭の火からでも分かる派手なところ。

 外装だけではなく、中にも色彩豊かな布が飾られていた。


 『女御様、噂は宮中の中ではかなり知られるようになりました』

 『ありがとうございます、父上。せっかくわたくしが桐壺に視線を向けて、閉じ込めた桐壺の評価を落とそうとする計画があの言葉のせいで......!藤壺様が、飛香舍様が、国で一番の名手というのが誇張でもなく真実だったんなんて見るまで思いませんわ』

 『落ち着いて下さい、女御様。そのようなこと、誰が聞いているのか分かりませんよ。それで、女御様。東宮の寵愛は?』

 『ここのところないですね。おそらく藤壺様のところへ行っているのでしょう。父上、兄上、東宮の寵愛よりも藤壺様と仲良くなった方が良いかと思います。わたくしでは敵いません』

 『藤壺様は次期中宮最有力候補で父君は左大臣、母君は帝と同母妹の内親王、兄君は帝、東宮からの信頼が厚い武官に文官......。こちらの方が良さそうですね。では私はもう一度藤壺様に文を渡すとしよう』

 『ではわたくしは藤壺様と仲良くなって、従う家の者以外を排斥しようと思います。......更衣のくせに帝との縁があるあの更衣に何をしようかしら?父上は左大臣との縁をよろしくお願いしますね』


 「......卯紗、藁ってある?」


 (ちょっとくらいしても良いよね?)

 大事な友人をいじめた犯人が分かった。

 ちょっとくらい懲らしめないと、この感情を止めることはできない。


 「ありますけど......。何に使うのですか?」

 「呪い。藁と......あと紐も。できれば鋭利な物が欲しいけど、この錐で我慢しよう」

 「杏子様⁉だめですよ」

 「なんで?わたくしの友に手を挙げた者ですよ?」


 丁寧に言わないと感情を抑え込んでいる理性が吹っ飛ぶ。

 杏子は貴族の常識から吹っ飛んだことを考えたり夢見ているが、基本的に性格は温厚。

 権力を振りかざすことはなく、どんな身分でも実力さえあれば仕事を与え、考えが合うのなら雪子のように友人となる。

 世間からどんなにひどいことを言われても気にしない。

 でも、それが、杏子以外だったら?

 杏子はどんな相手だろうと怒り、その者を守ろうとするだろう。

 そんな杏子の姿を知っている卯紗子は杏子を落ち着かせるために必死で答えた。


 「杏子様、ここは様子を見ましょう。杏子様のご友人の雪子様が弘徽殿様にいじめられているのは二人のことを見たから分かったことです。ですが、これは杏子様と私しか知りません。これを弘徽殿様に伝えても信じてくれません。そして、なぜ事情を知っているのか裏で探られます。弘徽殿様が雪子様をいじめているという証拠が集まってからはどうでしょう?」


 卯紗子の必死な提案は受け入れられたのだろうか?

 先程まで笑っていない笑顔を見せていた杏子の顔はいつも通りに戻っていた。


 「......確かにそうね。何も考えずに動いて相手に弱みを見せるわけにはいかない。でも雪子様を弘徽殿様からどうやって防ごう?表立って動いたら雪子様に知られるし、弘徽殿様も分かるよね」

 「それでしたら、杏子様が淑景舎に行ったらどうでしょうか?外にでることはなくなり雪子様は弘徽殿様から多少の攻撃は防げると思います」

 「それは良い考えね!勉強会をするなら卯紗子も勉強したら?少しでも知識があるだけで頭の入り方は変わるよ」

 「そうですね。では、私は玲子様に勉強会についての文を書いて、知識を深めようと思います」

 「頑張って。わたくしは......そうね......。情報の整理かな」


 ここには卯紗子が持って来てくれた紙がまだまだある。

 今知った情報も時間が経ったら霞んで思い出せなくなる。

 雪子の事情、弘徽殿の家の陰謀をまとめている横では和歌集や漢文の心得を読んでいる卯紗子がいた。

 (懐かしい。わたくしもこうだった......)

 実家で教養を叩きこまれていた杏子そっくり。

 和歌や漢文に琴など、貴族女性が知っておくべき知識を得ないと外に出してはもらえず、呪いの練習にもできなかったので、必死に覚えた。

 でもそれらが一番行きたくない場所で役に立つなんて、人生は不思議なものだ。

 感慨に更けているとどこからか声が聞こえた。

 手を洗いに行った兄が帰って来たのでは?

 一人で禁止されている呪いを見つかったら何を言われるか分からない。

 もしかしたら呪いを禁止されるかもしれない。

 別の場所が見える蝋燭の火を慌てて消して、


 「卯紗、勉強中申し訳ないんだけど、柏陽兄様が来たから片付け手伝ってくれる?」

 「それは一大事ですね」

 卯紗子に見られては困る物を隣の部屋に移してもらった。

 片付け?を終えた卯紗子と柏陽が部屋に入ってくるのは同時だった。

 (危なかった......)


 「あ、柏陽兄様。お帰りなさい。どこまで洗いに行ったのですか?帰りが遅くて心配でしたよ」


 つい先ほどまでばたばたしていたことを微塵にも感じない優雅でおっとりとした様子で柏陽に挨拶をした。

 部屋に入ってくるまで気づきませんでした風の演技。

 (これなら、誤魔化せる)


 「何をやっていたんだ?」

 「勉強です」


 杏子はにっこり笑って答える。

 別に嘘ではない。

 卯紗子は勉強していた。


 「昼間でもできるだろう?」

 「......夜だからこそ良いのです」


 (夜が深くなるほど気分が上がるという方はいるから大丈夫)

 机の上にある紙。

 大半は情報の紙だったが、一部、慌てたせいで片づけられなかった呪い関連の紙が含まれていた。

 (あ、積んだかも)

 案の定、


 「何一人でやっているんだ⁉」


 と、柏陽の雷が落ちてきた。

 でもここで終わるわけにはいかない。


 「これは一種の情報集めです。呪いではないので大丈夫です」

 「杏子様は雪子様のために集めていたのです」

 「雪子とは誰だ?」

 「柏陽兄様、気になりますか?雪子様はわたくしの友人です。今日、話をしていたら少し反応がおかしいところがあったので、気になって調べていたんです」


 (呪いで)


 「あー、杏子。雪子殿の位は?」

 「あれ、言っていませんでしたっけ?淑景舎ですよ。柏陽お兄様に調べて欲しい方の一人です」

 「それなら弘徽殿殿も友人なのか?」

 「......いえ。わたくしは友人とは思っていません」


 友人をいじめた弘徽殿を友達だなんて誰が思うのか。


 「......先日の遊びで弘徽殿様は雪子様を落とそうとしたのです。ですが、東宮陛下の一言で落ちたのは弘徽殿様の方でしたが」

 「卯紗子、今日は遅い。明日詳しく教えてくれ」

 「は、はあ。かしこまりました」

 「杏子。今日はそれくらいにしとけ。明日、右近も連れてくる」

 「分かりました。おやすみなさい、柏陽兄様」


 今日でも大丈夫という言葉は柏陽に道を塞がれて言えなかった。

 解せぬ。
 「では、第一回後宮情報会議を始めます」


 次の日に会議をする予定だったが全員が寝不足だったため、三日ほどたった今日、飛香舎の中に主の杏子と女房の卯紗子、兄の柏陽と右近が集まった。


 「情報はまだ十分に集まっていませんよ、女御様」

 「でも一度話会うのは大切だろう、右近」

 「そうですよ、右近兄様。それでは......なにから話しましょう?」


 話したいことが多すぎて何から話せばいいのか分からない。


 「東宮主催の遊びで何があったのかに決まっているだろう」

 「兄上、妹である杏子は女御ですよ?」

 「わたくしはいつも通りの呼び名の方が良いです。それにここには呪具があるので、誰にも聞かれません」


 この場の中心には禍々しい形をした呪具が置いてあり、ある一定の範囲の外側では聞こえないようにしてくれている。

 近くを通った者に情報を聞かれる恐れがない。


 「杏子がそう言うのなら」

 「右近兄様が納得していただき何よりです。柏陽兄様には話ましたが、わたくしは雪子様を全力で守ることにしました」

 「どういうこと?」

 「そんなこと言ってたか?」


 いや、そんなこと言っていない。

 これは、柏陽がいない間に杏子と卯紗子によって調べた結果だ。


 「弘徽殿様は更衣でありながら帝の縁戚である淑景舎様、雪子様を排除しようとしています。更衣である淑景舎様は女御である弘徽殿様に抗うのは無理です。そこで、弘徽殿様よりも立場が高い杏子様が雪子様と弘徽殿様に気づかれないように守るのです」

 「今回の会議はそれだけではないんだよね?」

 「一応、申し上げますと、弘徽殿様の家が何か企んでいます」


 (そんなことよりも前者の方が大切なんですけど)


 「へぇ、弘徽殿様の家が......」

 「かなり重要なことだな」


 杏子の気持ちとは反対に柏陽と右近はこちらの方が大切のようだ。


 「弘徽殿様の実家よりも雪子様の話の方が大切なんですけど、弘徽殿様の実家が企んでいるって重要なんですか?」


 弘徽殿の家は強欲。

 権力を得るため、出世するため、大勢の者を消してきた、裏では黒魔術をつかっているのでは、など黒い噂が止まらない。


 そんな家の企てなんていまさら警戒する必要はない。


 「杏子、その企てってな~に?」


 何か不穏なことを考えている黒い笑顔を浮かべて右近は聞いてきた。

 これは、弘徽殿の実家に何かするに違いない。

 大体この顔になっている時にどこかの家が潰されてたという噂が流れてくる。

 いつもだったら、杏子は右近を止めるけど今日はしない。

 だって、雪子の扱いに少しだけ、本当に少しだけ怒っているのだから。


 「こちらに縁を作ろうとしていますね。後宮では弘徽殿様に従わない家は消されて、雪子様をさらにいじめるそうです。うふふふふ......。わたくしの呪いで少し痛い目をみてもらいましょうか......」


 ゆっくりと瞼を閉じて、頭に浮かんでくるのは呪文。

 ほんの少し痛い目にあえば......。

 そんなことを思っていると呪文の内容が過激差を増していく。


 「杏子様。完全に敵の目をしていましたよ?それに呪いをするのはお待ちください。まだ証拠がないですよ」

 「卯紗子の言う通りだ。帝から許可は取れているとはいっても、呪いは裏でやっていること。表立ってやったら、無知な者が真似して処刑台に向かう」

 「それは不味いですね」


 無関係な人には影響を出したくない。

 杏子の頭の中は元に戻った。


 「縁を繋ぐね......。私は無視ですね。李承殿、弘徽殿様の兄君には私の同僚が被害を合っていますので。無視するだけでも、計画は狂います」

 「それでは、わたくしは弘徽殿様の兄君からの文を燃料にしますね」


 (これは炭が節約できそう)



 「俺はとくに関りがないから、杏子の周辺の警護をしよう。そんな男からの文を貰わないように」

 「家柄だけで成り上がった李承殿の紙は燃やして当然です。変なことに巻き込まれます」


 決意表明と李承の扱い方を話してこれから、それぞれ動こうとする時、襖が開いた。


 「これは、杏子に柏陽に右近。今日は集まっているな」

 「「「帝⁈」」」


 慌てて、呪具を片して、頭を垂れる。

 仕事中の帝が後宮にやってくるなど思いもしなかった。


 「そんなに畏まらなくてもよい。今はそなたらの祖父としてやって来たのだから。みなで集まって何を話していたのだ?」


 返答に困る。

 弘徽殿の家の企てに対する対策を考えていました、なんて馬鹿正直に言ったら家が一つ消える。

 いや、弘徽殿派にも影響が及ぶから、消えるのは一つではない。


 「わたくしの生活を心配して来てくださったのです」


 心配ではなく、杏子からの収集で来た。

 でも最後は杏子の心配だった、と思う。

 ぎり嘘ではない。


 「杏子よ、願いは決まったか?何を望む?」


 そういえば、帝が何でも叶えてくれるって言ってたことをすっかり忘れてた。

 もちろん、杏子の願いは


 「後宮から出ることを望みます」


 後宮に来てそれなりに経った。

 あの時は入内した日だったから言えなかったが、もう大丈夫だろう。

 そう思って言ったのだが、帝は何かを考えて、柏陽や右近、卯紗子は頭を抱えていた。


 「分かった」

 「帝⁉杏子の願いとはいえ、これは」


 右近が帝の答えに苦言をしたが、最後まで言うことはなかった。


 「右近、これはじじと杏子の約束。約束をした以上破ることは出来ぬ。だが、杏子、それほど後宮の生活は合わなかったのか?」

 「合う、合わない、ではなく、わたくしは外に出たいのです。数多のところへ出歩いて、そこでしかない物を見る......。これがわたくしの夢です」

 「そうか......。それなら条件がある」

 「条件、ですか?」

 「その条件を達したら、願いを叶えてあげよう。お金を十分に渡すし、供もつけよう。だが、条件はそなたが決めよ。そうだな......期限は二日後だ。二日後にじじがここへ来るまでだ。それじゃあ、じじはここで。まだ仕事がたんまりあるから」


 言うだけ言って、帝は部屋から出た。


 「条件ですか......」


 条件が来るなど思いもしなかった。

 しかも自分で作るなど。


 「帝は離したくなさそうだな」

 「これは、私たちでどうすることもないね」

 「杏子様。雪子様や玲子様に聞いたらどうでしょう?お二人はこのお願いを知りません。知らないからこそ、良い案が浮かぶのではないでしょうか?」

 「確かに。でも、お二人の予定は大丈夫なの?今日、行っても良くのは......」

 「大丈夫です。先日、文を送ったところ、いつ来ても大丈夫です、という返事がきましたよ」

 「それは良かったな」

 「同じ女性同士、繋がることもあるかもしれないね。じゃあ、私はそろそろ仕事へ行って来ます。何があったのか後で報告を」


 右近は仕事をしに行った。

 大方、弘徽殿の家の出方を探りに行ったのだろう。

 もちろん、この時、報告をするようお願いすることを忘れない。


 「分かりました。卯紗、お菓子と琴と紙を準備して。雪子様のところへ行くから。柏陽兄様は、行くとき護衛がてら荷物を持って下さい。帰りもお願いします」

 「かしこまりました、女御様」

 「すぐに準備しますね」


 杏子の言葉で動き始めた。
 「いらっしゃいませ、杏子様、卯紗子様」


 先触れもなく淑景舎に訪れた杏子と卯紗子は雪子と玲子に迎えられた。


 「内裏の偏狭なところまでわたくしのために足を運んで頂いて......。次はわたくしが飛香舎へ参ります」

 「飛香舎は弘徽殿の先にありますよ?」


 弘徽殿や弘徽殿に従う家が通り道にある。

 雪子と玲子が歩いて何をされるのかわからない。

 不安の芽は潰して置いた方が良い。


 「この勉強会も今回限りではありません。毎回杏子様がわたくしのところまで来ると他の貴族、弘徽殿様などに軽く見られてしまいます」

 「杏子様、身分上飛香舎に向かうのはわたくしどもです」

 「杏子様、どうしますか?」


 (二人を弘徽殿の方に向かわせたくないけど、これだけ言われてるし......)

 身分が上である杏子が命令という形にすれば、雪子や玲子は引き下がるしかない。

 でも、そんなことをしたら溝が深くなる。

 ただでさえ、身分の溝が深い。

 これ以上深くなると雪子との交流が出来なくなってしまう。

 何か良い案はないのか......。


 「あの......これは......わたくしのひとりごとです。参考にはしないでくださいね」


 あらかじめ予防線を引いた雪子の提案が始まった。


 「杏子様とわたくしは、瓜二つです。卯紗子様も玲子もきっと同じ服装にしたら判断は難しくなるでしょう?」

 「今は別の着物だからこそ分かりますが、同じ着物を着ると見抜くのは大変ですね」

 「ええ。使えているこちらですら卯紗子様の通りです。関係が薄い者からしたら判断できませぬ」

 「無礼で不敬だとは存じています。その......杏子様とわたくしを交換するのはどうでしょうか?」


 近くにいる侍女でさえ、外見で見抜くのは困難。

 性格は反対なので、会話などをすればどちらかは判断できよう。

 しかし、杏子は身内や仲が親しい者以外は猫を被り、見た目通りの反応するので、杏子と雪子の判別はできない。

 (わたくしが雪子様になって、雪子様がわたくしになれば雪子様も行くことができる......)

 毎回、杏子の方から行くことで変な疑いが生じることは防げる。


 「やはり、これは良くないですよね。杏子様今のはどうか忘れて下さい」


 反応がないことで気に食わなかったと思った雪子は直ぐに撤回しようとした。

 だが、その撤回を遮る者がいた。


 「雪子様、撤回する必要はありません!良い案ですね。採用しましょう!」

 「杏子様、興奮しているところ大変恐縮ですが、帝と東宮には大丈夫なのですか?」


 玲子が能面顔で聞いてくるが、杏子にはここでやめるという道はもうない。

 こんなにも面白そうな案があるのに、やめるなんてできるはずがない。


 「玲子様。今、杏子様が考えていますよ。帝と東宮が納得するようなことを。こうなった杏子様を止めることはできませんから」


 口元に緩い弧を描きながら、考えているだろう主の様子を卯紗子は慣れた様子で見ていた。

 でも、その口元が主と同様僅かに弧を描いて、抑えきれていない。

 主が主なら、侍女も主に似てくる。

 杏子と卯紗子は似た者同士の主従だった。


 「ねえ、卯紗。これ、帝からの条件にできないかな?」

 「帝からの条件とはなんでしょうか?」


 帝という言葉で雪子の頬は微かに引きつっていた。


 「わたくしが入内するにあたって、帝が何でも叶えてくれるとおしゃったのですけど、わたくしの願いには条件が必要だったのです。その条件は自分で作らないといけなくて、しかも、それが今日までなのです」

 「今の帝は無茶ぶりはしないと聞いたことがありますが、どのようなことをお願いしたのですか?」


 能面侍女の顔には不安と興味が薄く出ていた。


 「後宮から出たい」


 始めて聞いた雪子は信じられないという様子で玲子にも同様が見られた。


 「......杏子様は時期中宮候補として名が高いですけど、そのような位も全て捨てるのですか......?」

 「雪子様、わたくしはずっと昔からたくさんの場所に行ってみたいのです。この世界はわたくしが知らないことだらけです。まだ見たことのない物を見てみたいのです」

 「そう、なの、ですか......。あの、条件はわたくしが杏子様の身代わりとなるのですよね?」

 「はい!雪子様と入れ替わった状態で東宮にばれないことにしようかなと」


 これには杏子以外が絶句した。

 まさか、東宮を巻き込むことになるとは......。

 誰も考えていなかった。


 「杏子様、東宮にばれたら、どうするのですか?」

 「後宮に居続けることになるかな、卯紗。できれば自由度がまだある女御のままが良いけど、わたくしが女御となれば中宮は弘徽殿様でしょうね」

 「杏子様、全力で中宮を目指してください。弘徽殿様が中宮になるのは問題しか起こりません」


 不敬極まりまく弘徽殿に知られたらどうなるのか分からない卯紗子の発言に玲子も大きく頷いた。


 「弘徽殿様が中宮ですか......。身の安全のために後宮から出てひっそりと暮らした方が良さそうですね」

 「それはどういうことでしょうか?」


 後宮は次期帝である東宮の後宮が開くまでは、今の帝の更衣と女御が住んでいる。

 中宮になった瞬間に後宮を出る必要はない。


 「わたくしは、後ろ盾がなく没落貴族出身であることは杏子様もご存じですよね」

 「はい」


 雪子から聞いたことがあるから、杏子は知っていた。


 「実は、わたくしの母方の祖母と国母様は双子なのです」

 「そうなのですか⁉」


 帝の遠戚であることは知っていたが、かなり近かった。

 これだけ近いと、杏子と雪子がそっくりなのも納得できる。

 杏子と雪子の祖母も杏子と雪子のように瓜二つだったのだろう。

 祖母に似ている二人の母が、母の姿を濃く継いだ杏子と雪子を産んだ。


 「世間って狭いですね」


 卯紗子の言葉は全員の心情を代弁していた。


 「帝は父がいないわたくしの家に十分なお金を渡して、生活に不自由がない後宮にわたくしを入れて下さったのです」


 更衣は妃の中では最も低いが、衣類も食事も住居も充実している。

 それに妃には毎月国庫から生活費として十分すぎるほどの金額が届く。

 金額を実家に送ることで衣食住に困ることはなくなる。

 下級貴族は喉から手が出るほど欲しい案件だろう。

 でも、


 「他の貴族から蔑まれ、いじめられるのですよね」


 後宮は綺麗で明るいだけではない。

 汚くて暗い。

 帝の温情で入内した更衣

 他の妃の羨望、絶望、嫉妬

 抑えることができない感情で狂っていく。

 その矛先は帝ではなく更衣へと向かっていった。


 「杏子様は知っていたのですね」

 「なんとなく弘徽殿様の言動で」


 実際は雪子と弘徽殿の話を聞いたからだ。


 「雪子様。弘徽殿様はわたくしとの縁が欲しいそうです。わたくしが近くにいる時は弘徽殿様は手出ししないはずです」

 「これはわたくしの問題ですのに、杏子様が助けて下さるなんて......。この恩はどのようにお返しをすればよろしいのでしょう」

 「それは、雪子様がわたくしと入れ替わってくれることですよ。それで、本日の夜って空いてます?」
 月出る夜、飛香舎には、主である杏子と侍女の卯紗子、事情を知る柏陽と右近。

 それに、参加をする雪子と玲子の姿があった。


 「緊張でお腹が痛くなってきました......」


 身分違いな者に囲まれて、まだ帝が来ていないのに雪子の顔は悪く、お腹をさすっていた。


 「大丈夫ですか、淑景舎様?」

 「杏子、淑景舎殿の顔が真っ青だぞ」

 「雪子様、白湯をお持ちしましょうか?」


 杏子、柏陽、右近は兄妹揃って雪子のことを心配して、介護していた。


 「杏子様、大丈夫です。その、まだ、慣れていないんです。これはよくあるので、心配かけてしまって申し訳ございません」

 「それなら、良かったです」

 「......こう見るとそっくりですね」

 「そうだな。まさか、淑景舎様がここまで杏子に似ているとは思っていなかったです」


 微笑みを交わす杏子と雪子に柏陽と右近は見つめていた。

 妹だからどちらが杏子なのかは区別できる。

 世界には自分と同じ見た目の人が三人いると言われているがこれほどだったとは。

 杏子と雪子をただ見つめることしかできない時、襖が開いた。


 「これは、杏子だけではなく雪子もいるのか」

 「わたくしの条件に必要な方なので、同席しています」

 「そうか。それで、杏子。条件とは?」


 ここにいる者の中で知っているのは、杏子と卯紗子、雪子と玲子だけ。

 柏陽と右近は杏子に呼ばれただけで、条件については何も知らない。

 もちろん、帝も。


 「わたくしと雪子様を交換するのです」

 「どういうことだ、杏子?」


 女御である杏子の敬意を忘れて、柏陽は問いた。

 右近と帝は動かない。


 「そのままの意味ですよ。わたくしが雪子様の身代わりとなって生活するのです。この入れ替わりが東宮にばれないこと。これが条件です」

 「淑景舎様。断っても大丈夫です。このような意味不明のことは無視しても大丈夫です。身分とかは気にせずに申し出て下さい」


 右近が大変失礼なことを言っているが、これは雪子がこのような、訳が分からないことをしないようにするためである。

 常に妹である杏子の傍で見ていたからこそ分かる。

 これは、止めることが出来ない。

 だから、まだ実行していないうちに止めようとしていた。

 でも、右近の行動を裏切るような言葉が隣から聞こえた。


 「右近様。わたくしはお断りしません。その、この条件を考えたのはわたくしなので」

 「雪子が考えたのか⁉」


 これには帝も驚く。

 大人しそうで現実をみている雪子がこの条件を考えたのか。

 信じることが出来ないのもしょうがない。


 「帝。この条件の大本は雪子様が考えてくれたのです。わたくしが加えたのは東宮にばれないように、です」

 「なんちゅうものを付け加えているんだ......」

 「やっぱり杏子は杏子だね」


 頭に手を置いて、抱えている柏陽と苦笑している右近の様子が直ぐに浮かぶ。


 「......分かった。この条件を許可する」

 「やりましたね!」

 「おい!せめて、誰もいない時にやってくれ!」


 大興奮して喜びを体で表現していたが、柏陽によって止められた。

 これは一種の感情表現なのに、止める必要はないと思っているのは杏子だけだった。

 杏子の行動は全く先が読めないことに冷や冷やする。


 「柏陽、止めなくても良いぞ。この条件は湊には伝えないでおこう。条件達成できるよう力を尽くせ」

 「分かりました」

 「では失礼」


 そう言ってて帝が出ていくと、どこからともなく溜息が漏れ出た。


 「杏子様は凄いですね。わたくしは帝が目の前にいるだけで緊張してしまい、何もできませんでした」

 「そんなことないですよ。わたくだって緊張してましたから」


 たとえ祖父でも雲よりもはるかに高い帝。

 緊張しないわけない。


 「え⁉何言ってるの?杏子は普通に会話していたよ」

 「何が緊張した、だ。こっちはいつ何かやらかすか体が震えていたぞ!」


 だが、兄二人は信じてくれなかった。

 そして、言葉を発さずとも全力で首を前に振っている侍女二人も信じていない。

 なんでなんだろう?


 「それで、柏陽兄様と右近兄様は協力してくれますよね?」

 「はぁ......。協力するしかないだろう。帝が認めた以上この条件は非公開ながら成立している。杏子はともかく淑景舎様が心配だからな」

 「もちろん私も協力します。女御様のお願いですから。一文官である私は断れませんよ」


 柏陽は呆れながらも協力してくれることとなった。

 右近は真面目そうにしているが、『こんな面白い情報、しがみ付くしかないよね』という副音声が聞こえてくる。


 「では早速今日から始めましょう。兄様方は一旦外に出て下さい」


 男がいなくなった空間で、杏子と雪子は向き合うように座った。


 「では、交換と行きましょうか」
 俺、湊は最近勤務中に抜け出す父上が怪しいと思っている。


 「父上、何しているのですか?昨日も勤務から抜けたでしょう?」

 「ちょっと用事があったからな。それよりも、後宮には行かなくていいのか?」

 「仕事があるんですよ。抜けた分の仕事がこちらへ回ってくるのですよ」


 一体誰のせいでこうなっているんだ。

 勤務中に抜けて滞った仕事は全て俺のところに来る。

 東宮として持っている仕事もあるのに、そこに追加されたせいで後宮に行く暇などないだが。

 ご存じだろうか?


 「それは、すまんな。今日は私が全て行おう。そなたは花々を愛でに行きなさい。これも大事なことだから」


 花は妃の隠喩。

 大事なこととは、子を成すことだろう。

 東宮としていずれ帝に立つ者として、後継ぎは絶対に必要。

 俺の代で潰すわけにはいかない。

 そして、子どもはいつ天に召されるのかは分からない。

 だから、何人でも欲しいところ。

 でも、これは公的な感情。

 東宮としての感情。

 本当は、俺にとっての花は一つしかない。

 そして、この美しい花しか俺は愛でることができない。


 「そうですね。では行って参ります」

 「行ってらっしゃい。......見抜けなければ、逃げてしまうぞ」


 帝の言葉は部屋から出て行った俺には聞こえていなかった。
 「杏子様、顔を上げて下さい。自信もって堂々とですよ」


 杏子と呼ばれた者は見た目こそは杏子であった。

 華美すぎない着物は一見すると地味に見えて貧相にも見えるが、見る者が見たら一級品と分かる。

 肌ざわりが良く、大変着心地が良い。

 でも、これは彼女の物ではなかった。


 「卯紗子様、わたくし、杏子様に見えてますか?」


 今、飛香舎にいるのは杏子......ではなく、杏子の身代わりとなった雪子だった。


 「卯紗、と呼んでください、杏子様」

 「そ、そうだね」


 (わたくしに上手くできるのかしら......)

 この部屋には先ほどまでいた杏子と玲子は淑景舎に戻ってしまった。

 右近は仕事に行き、柏陽は外で護衛をしていた。

 (言いだしのわたくしがそんなことを思ってどうするんですか......。杏子様のために頑張らなくては)


 「杏子様、その調子ですよ!」

 「ねえ卯紗、この後何するの?」

 「そうですね......。最近は好奇心に耐えきることが出来ず、明け方まで起きていましたが、基本的には直ぐに寝ていますね。寝られない時は、琴を弾いたり、書を読んだりしていますよ」

 「卯紗、琴を持って来て下さる?」

 「かしこまりました」


 卯紗子が持ってきた琴は杏子がよく使っていたのだろう、調弦がしっかりとされている。

 やはり奏者が違うのか同じ曲でも雰囲気が異なる。

 今、雪子が弾いているのは、この間杏子が東宮と共奏した曲。

 (遠くのところにいる姫君にどのような感情を抱いているのかしら)

 会うことが出来ない悲しみ、辛さだけではない。

 会うことが出来ないからこそ愛を感じることができる。

 (全部、音に乗せてしまいましょう)

 感情表現が苦手な雪子の伝え方。

 それは音に気持ちを吹き込むこと。

 音が気持ちを乗せてくれるから、会話ができる。

 思いが伝わる。

 演奏が終わり、顔を上げると、


 「素晴らしい演奏だったよ。杏子の演奏に釣られてきてしまったよ」


 東宮がいた。


 「あ、ありがとうございます」


 東宮直々のお褒めのお言葉。

 お礼を言うことしかできなかった。


 「杏子、これはこの間遊びでも弾いた曲だよね。あの時とは別の雰囲気を感じたよ。一つの曲がこれほど変わることがあるのは、杏子の努力だよ」


 雰囲気が違うのは奏者が違うからで、杏子の努力ではないのだがそれは言えるはずもない。

 これを言った途端、今の杏子が別の人であることを東宮が知ってしまう。


 「ほんの少し気持ちの入れ方を変えてみました」


 別の人間ならば、気持ちも違う。

 (嘘ではないですよね)


 「杏子、もう一曲聞かせてくれないだろうか?」

 「かしこまりました」


 承諾したが、何を弾くのか迷ってしまう。

 (同じような曲では飽きてしまうでしょう。でも、わたくしは華やかな曲が似合わない)

 華やかな曲を弾いてしまうと、自身の貧しさが浮かび上がってしまう。

 それに、雪子の性格上華やかで雅な曲を弾いても、暗くなってしまう。


 「杏子様、明るい曲はどうでしょうか?杏子様にはぴったりだと思いますよ」


 困っているのを感知した卯紗子は雪子に助け船を出す。

 この卯紗子の発言には『今は雪子様ではなく、杏子様ですよ』という意味も含まれていた。

 (そうですよね。今のわたくしは杏子様.....)

 杏子とはまだ付き合って時間は経っていないが、少なくとも雪子のようにおろおろする人物ではない。

 常に好奇心に任して行動をしている者だ。


 「そうね、卯紗。明るい曲を弾くわ」

 
 雪子が選んだのは、とある物語が元の曲。

 雪子と同様後ろ盾を失い、人里離れた屋敷に住んでいながら、時の権力者の寵愛を受けた姫君。

 しかし、姫君の座を内新王に取られたり、時の権力者は別の女性の元へ行ったりと幸せは長くは続かなかった。

 やがて、心労が祟り、最愛の夫となる権力者の胸で息を引き取る。

 権力者は姫君が天に召されてから、姫君の愛に気づくことになった。

 一人の男に翻弄されていく姫君達の物語。
 
 雪子が弾くのは、姫君が男に寵愛を受けている時を題材にした物。

 (きっと幸せなのでしょうね)

 いつまでもこれが続いて欲しいと願ってしまう。

 人の心は変化は常に変化する。

 ずっとこのまま変化しないのは幻想。

 (感情とは儚いものね......)

 明るさの中に叶うことがない寂しさと儚さが篭っている。
 
 最後の一音を弾いて顔を上げると目の前には東宮がいた。


 「杏子、何かあったのか?」

 「ひぇ......」


 (近すぎます......!)

 すぐ近くには雲の上の東宮。

 雪子の夫であるが、最初の面会以降会ったことがない。

 
 「顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」

 「!?」


 湊は自分の手を雪子の額に当ててきた。

 体温を測る方法としては一般的だが、ほとんど会ったことがない夫にされるのは、雪子の心臓が持たない。

 (他に方法があるでしょう......!)


 「東宮。杏子様は興奮していらっしゃるのです。曲に心を込めたからでしょう」

 「杏子の気持ちが込められていた素晴らしい演奏だった。幸せな姫君と時の権力者の曲だが、壊れそうな切ない思いも感じた。どんなことを思ったのか?」


 雪子は思ったことをそのまま話した。

 ただ幸せだけではない。

 ずっと続くことがない現実の辛さ。

 それでも願ってしまう感情。

 感情に揺れ動く恋。

 人間の儚さ。

 時々言葉が詰まることもあった。

 説明が稚拙なところもあった。

 それでも、湊は最後まで聞いてくれた。

 卯紗子は何も言わず、耳を傾けてくれた。


 「杏子。そなたは表面的なことではなく、深いところまで見るのだな。これは、俺の虚勢が効かなくなりそうだ。隠している本音が伝わりそうだ」

 「恐縮です......」


 (わたくしが東宮の心を見抜く?そのようなこと、できませんよ)


 「今日はいつもよりも、慎ましやかだな」

 「そ、そうですか?」

 「いつもなら、俺に遠慮なく来るのぞ?」

 「あ、杏子様は女御となったからでしょう。ですよね?」

 「はい。後宮に入内した以上立場がありますから」


 卯紗子のとっさの機転により答えることができた。

 だが、東宮相手に遠慮なく話していたとは驚きである。

 (杏子様と東宮は従兄妹どうし、仲がよろしいのでしょうね)


 「それぐらい俺が何とかするぞ」

 「それは命令になります。わたくしだけのために命令をしても、反感を呼ぶだけですよ?」


 一体何をするつもりなのか。

 東宮が何とかするなど、確実に大事になってしまう。

 杏子も望んでいないと思うので、雪子は必死に阻止する。

 もちろん、優雅に。

 声を荒立てずに。


 「そうか?そなたが言うなら止めとこう。だが、いつでも、頼っていいんだから」

 「ありがとうございます」


 頼ることは一生ないだろうが、お礼は言っておく。

 一応の社交辞令である。

 こちらを優しげに微笑んでいる東宮を見てふと思う。

 今は杏子の代わりに雪子が東宮の相手をしているが、東宮は杏子のことを大切に慈しんでいることが見て分かる。

 目が合うと笑みを浮かべて、声はひどく甘い。

 明らかに杏子のことを愛している。

 後ろ盾がしっかりしているのに加えて、帝の深い寵愛。

 次期中宮はまだ決まっていないが、もう決まったのも当然。

 それなのに、なぜ杏子は後宮を出たいなどと言ったのか?

 それほどまで、外の景色は素晴らしいのか?

 美しいのか?

 生活するだけで精一杯な雪子には分からない。

 でも、雪子にとって杏子は初めて正面から見てくれた人。

 一方的に軽んじられることも無く、蔑むことも無い人。

 (わたくしは杏子様の願いを叶えるまで)

 これが何も返すことができない雪子の返し方だった。

 ここに杏子がいたら、全力で否定するがそれには気づいていなかった。
 雪子が東宮の相手をしている頃、雪子の身代わりとなった杏子は玲子と共に、淑景舎に向かっていた。


 「久しぶりの扇ね」


 杏子は顔を隠すように、縁起が良いとされる松や菊に梅が描かれた扇を持っていた。


 「普段は使用していないのですか?」

 「ええ。それこそ、お作法の練習以来よ」


 (懐かしい)

 左手を掲げても、蝋燭の明かりでははっきりと見えない。

 それでも、日焼けを知らない白い手が赤くなっているような気がする。


 「何をしているのですか?」

 「昔のことを思い出しただけ。扇の練習をしている時に母上から叩かれてね」

 「温厚で春風のような紀子内新王が、ですか?」


 玲子の声が驚いたようで少し高かった。

 なお、眉がぴくとしただけで、表情はほとんど動いていない。

 杏子の母は温厚で優しいと世間では言われている。

 杏子が過去を振り返っても怒っているのはその時だけだったと思う。

 誇張でもなくあの時は雷が落ちて頭には角が生えていた。

 あれから、絶対に母を怒らせてはいけない、という家訓が作られたほど。

 家訓が作られたのは置いといて、怒られた時に杏子の左手を畳まれた扇で叩かれた。

 血は出なかったがその後は不気味な青紫に変貌した。

 呪いの刀傷で手を怪我するのは慣れていた。

 しかし、このような色になったのは初めてで表には表さなかったが、内心ではかなり不安だった。

 今ではもう笑い話になっているが。


 「そうよ。母上はお作法に厳しくてね。ちょっと暑いから手に持っていた扇で仰いだんだよね」

 「それは.......確かにいけないことですね」

 「ねえ、玲子。それで、扇って必要なの?」


 いつも手ぶらなので、何か持っていると不思議な感じになる。

 正直扇は必要ないのでは、と思ってしまう。


 「雪子様はいつも顔を隠していますから」


 (まじかよ)

 まじである。

 雪子が顔を隠していたおかげで、杏子と雪子がそっくりであることは、ほとんど知らない。

 だが、雪子に成りきるには、扇が必需品なのか。

 そういえば、いつも持っていた気がする。


 「これからは扇と仲良くしないといけないのね」

 「あの、雪子様。今までどのようにして、お顔を隠していたのですか?」


 女性は親族以外に顔を見せることがない。

 扇は顔を隠すために使われる。

 決して仰ぐためではない。


 「相手から見えないように動いたり、下を向いて袖で隠したりしていたよ」


 (ここでは、だけど)

 実家にいた時は、顔を隠したことはなかった。

 でも、実家では通用しない常識が働く後宮の中ではしている。


 「はあ......。そのようなことよりも扇を使った方が楽なのではないでしょうか?」

 「両手が塞がっていると危ないんだよ。ほら」


 杏子の視界には気が映っていた。

 気は物質では無いので、暗くても見ることができる。

 見え方は明るさではなく、自身の力量。


 「撒菱ですか」


 杏子には暗くてよく分からないがどうやら撒菱らしい。

 撒菱は正確な正四面体になっており、どこから投げても棘が上を向くよう設計されている。

 これは粘土製だが、踏んだら痛いだろう。

 そんな撒菱が床にあった。

 杏子が見えているのは撒菱ではなく、悪意が篭っている気、邪気であるが。


 「弘徽殿様の嫌がらせね。玲子、どこに撒菱があるのか分かる?」


 ここは弘徽殿のすぐ近く。

 十九八九、弘徽殿の仕業だろう。

 (ここは清涼殿の近く.......。他の人が踏んだらどうするつもりなの?)

 自身への嫌がらせよりもそちらの方が気になってしまう。

 やんごとなき方が踏んだらどうなるのか、少し興味がある。

 でも、実際に起こったら、皇族反逆罪で死罪だろうけど。


 「もちろんです」

 「ねえ、玲子。今から女性あるまじき行動をします」


 そう言って、杏子はたまたま持っていた紐でたすき掛けをした。

 そして紅の長袴と衣を持ち上げて、手に持っていた扇を畳んだ。


 「何しようとしているのですか?」


 玲子の問に応えずに動いた。

 気で見えるが、靄のようになっているのではっきりとどこにあるのかは分からない。

 一応濃淡でおおよその位置は把握できるが、いかんせん数が多い。

 床全体が濃くなっている。

 こんな状態で足を踏み入れたくない。

 軽く後ろに下がって、勢いよく飛んだ。

 どこかの時代でいうなら、走り幅跳びである。


 「飛び越えるんだよ」

 「事後報告ですか。私もそちらへ参ります」


 玲子は十二単のまま音をたてずに飛び越えた。

 これにはびっくりある。


 「玲子、あなたって運動神経が良いのね」

 「雪子様を守るために日々精進しています。雪子様、元の格好に戻られた方がよろしいと思います」

 「わたくしもたくさないで飛べるよう練習しようかしら?」


 隣で杏子よりも重い衣を纏った玲子が飛べているのだ。

 杏子の中の対抗心が出てきた。

 練習場所は飛香舎の中庭にしよう。

 中庭なら外から見られないし、広い。

 灯りが倒れることがないので、火事にならなくて済む。


 「しなくて良いです。先を急ぎましょう」

 「しなくて良くはないけど、そうね。弘徽殿様の領域から早く出た方が良いよね。この後何されるか分からないし」

 「位置を特定されないよう、火を消しますね」

 灯りがない空間には、ぼんやりと光る蝋燭だけが目印。

 僅かな蝋燭の灯りだけで人がいるのか分かってしまう。

 玲子が持っている火を消したことで、杏子と玲子は暗闇に染まった。

 真っ暗な渡殿を感覚で歩いていると、また邪気を感じて、足を止めた。

 すぐ横には、弘徽殿様の派閥に入っている大納言家の娘が主の麗景殿があった。


 「どうしましたか?」

 「何か起こりそう」


 胸がざわざわして落ち着かない。


 「渡殿には何もありませんよ?」

 「麗景殿から変な感じがするんだよね。でも、ここから外に行くことは出来ない、よね?」

 「申し訳ございません。私が蝋燭の火を消したばかりに.......」

 「後悔しても仕方ないよ。命に関わるようないやがらせじゃないでしょ」


 (万が一のことが起こっても、特に問題はないんだけどね)

 いつも懐にはお手製のお守りを入れてる。

 どんな攻撃でも一回限りだが、無効化してくれるもの。


 「ほら、玲子、行くよ。ここを通らないと、淑景舎に行けないよ」


 杏子が麗景殿のそばを通った時、水が落ちてきた。

 雨のようなものではい。

 それこそ、桶から放たれた水のような......。


 「え?」


 御簾が巻き上がってできた空間に桶を持った女房がいた。

 躊躇なく水をかけてくる。

 温水だとありがたいのだが、あいにくの井戸水。

 頭から滴った水が衣を濡らしていく。

 冷水を吸い取った着物は重く、酷く冷たい。


 「雪子様、早くここからでましょう!」


 びしょ濡れになった玲子に引かれて、この場から出ようとした。


 「あら、淑景舎様?」


 しかし、そうは問屋が卸さない。

 ところどころに水が溜まっている渡殿に佇んでいたのは、ここの主ではなく


 「弘徽殿様......」

 「あら、そんなに濡れてしまってどうしたんです?随分とはしたない恰好だこと。まあ、没落貴族の淑景舎様にはとてもお似合いですね。そのような様子では帝のお相手をするのは無理でしょうね。そうなってしまったら、形だけの更衣も必要ないでしょうね」

 「っな......!」


 後ろに控えている玲子が言いかえそうとするが、杏子は手で制した。


 「玲子、弘徽殿様に口答えをしてはいけませぬ」

 「しかし......」

 「無能の主には無能の従者がお似合いだこと」

 「お褒めに頂きありがとう存じますわ、弘徽殿様」


 朧気の灯りでさえ分かる、所々ほつれて、色が褪せてしまっている着物を身にまとい、豊かな黒髪は水でびしょびしょ。

 みすぼらしい見た目なのに、どこか気品を感じる。

 扇で隠されていない瞳には恐怖も不安も浮かんでいない。

 ただただ澄んでいた。

 釘付けになるような美しさと感情を感じない不気味さ。

 瞳に映るのは目の前にいる弘徽殿の姿のみ。

 玲子も水をかけてきた女房も視界に入って来ない。

 杏子の視線は弘徽殿を射抜いていた。


 「え?あ、ああ、そんなことはないですよ。そ、それにしても、弘徽殿様は言葉表現が苦手なのですか?」


 弘徽殿のさきほどの発言は、けして良い意味ではない。

 それは、杏子だってわかってる。

 でも、杏子の耳が取ったのは、主と従者はお似合い、の部分だった。


 「そのようなことはありませんよ?そういえば、わたくしは来れませんでしたが、弘徽殿様は遊びで大恥をかいたそうですね。世間では噂でどうとでもできますが、実際に見ていた東宮の意識を変えることはできましたか?」

 「......わたくしの演奏は飛香舎様の演奏をより素晴らしくするためですから。友人である飛香舎様は大変、学があるそうですよ。内大臣の文の返歌が素晴らしいとかで宮中では噂になっているのですよ。他の妃と関りがない淑景舎様はまだご存じなかったと思いますけど」


 普段は言い返すなどせず、じっと下を向いてただ耐えている淑景舎だが今日は違う。

 言葉は丁寧だが、内容は弘徽殿の返答に困るものだった。


 「無知なわたくしに教えて頂きありがとうございます。わたくしは学もなく、教養もないのですけど、弘徽殿様の兄君が飛香舎様に文を送ったという噂をご存じですか?最近、耳にした噂なのですけど、流行に敏感で社交性がある弘徽殿様はこの先をご存じですよね?相手は弘徽殿様の兄君ですし、他の妃と関りがある弘徽殿様はもちろん知っていますよね?無知なわたくしに文の内容と返歌の内容を教えてほしいです」


 突然、性格が変わったかのような淑景舎に弘徽殿は動揺していた。

 杏子はここぞとばかりに叩き込んだ。

 杏子は弘徽殿の兄の文に返歌などしていない。

 あんな求婚しているような文はとっくに燃やした。

 弘徽殿の方も文が返ってきていないことは知っているはず。

 でも、それを知らないと認識している淑景舎が聞くとどうなるのか?

 答えることはできないから答えないという選択肢はない。

 杏子が退路を消した。

 逃げ道を無くした。

 杏子が叩き込むのは、体ではなく精神。

 気付かれないようにゆっくりとじわじわと。

 相手の絡ませていく。

 逃げないように。

 逃がさないように。

 気づいた時のはもう遅い。

 杏子に侵される道しか残っていない。


 「......飛香舎様からの文は届きましたよ。でも、兄上宛で届いたので、わたくしは内容を知らないのですよ。兄上が書いた文は見せてもらったのですが、漢字だらけで難しかったですわ」


 かなり考えたのだろう。

 返答にはおかしいところがない。

 ......知らない者にとっては。

 (弘徽殿様は嘘を付くことにしたのですか)


 「あ、今、思い出したのですけど、飛香舎様の女房が文を出したのは、一つだけだそうで。教養が深い飛香舎様から頂いた文を持っている殿方はきっと宮中で噂になっていましたよね、内大臣とか」


 弘徽殿からも言われたが、杏子は自分のことを無知で教養もなく学もないと言った。

 だから、この忘れてた、発言もおかしくはない。

 周囲には麗景殿の女房だけではなく、他の女房も大勢見に来ていた。

 女房は主に物事を教えるために、主が恥をさらさないように、東宮の興味を引くために、和歌に長けた者、学に長けた者が多い。

 きれいな言葉に隠された事実を知る者は果たして何人いるだろうか。

 女房は情報の伝達が早い。

 そうかからずに、後宮中、宮中に広がるだろう。


 「わたくしはみすぼらしい姿をしているので、席を外しますね」


 目の前には、下を向いて、いつもより小さく見える弘徽殿がいた。


 「あ、そうそう。わたくしとのおしゃべりが足りないのなら、文に送ってくださいませ。返歌いたしますから」


 そう言い残して踵を返した杏子の瞳には弘徽殿は映っていなかった。
 淑景舎に戻ったものの、水をかけられたので、湯あみをしたり、着替えたりして、ようやくひと段落した時、


 「杏子様、ありがとうございます。すっきりしました」


 能面侍女にお礼を言われた。

 よく見たらすこし、目元が下がって、口元が柔らかくなっていた。


 「それは、どうも。でも、わたくしはちょっと仕返しをしただけよ?」


 あれだけ、弘徽殿の評価を落としといて、ちょっと、とはたして言えるだろうか。


 「いつも耐えることしかできなかったものなので。もっと力があれば雪子様をあいつらから守ることが出来るのに、と。いつも思っていました。でも、今日の杏子様のことを見て、身分は関係ないということを知りました」


 身分は関係なくはない。

 この時代、上下関係は意識しないと生きてはいけない。


 「わたくしが弘徽殿様に言えたのは、言葉を取り繕っていたからよ。きれいで美しい言葉に鋭い刃を隠して。意味が分からない者にはただ、喋っているようにしか見えないの」


 杏子の無害でほんわかな雰囲気に騙された者は多いだろう。

 (まさか、ここでこんな風に役立つなんて思っていなかった)

 呪師関連のことは父からだが、教養や作法、弁論術は母から教えてもらった。

 後宮育ちの母から叩き込まれたのは、実家で暮らす分には要らないものだらけだった。

 だが、入内して後宮で過ごすと無駄ではなかった。

 要らない物などない。

 全てが自分と、友人を守るための武器となった。


 「杏子様、わたしに弁論術をご教授お願いします」

 「うーん。玲子は人と話すのは得意?」

 「それほど得意ではありません」

 「人には得意なことと不得意なことがある。わたくしはね、苦手なことを得意にするよりも得意なことを伸ばす方が良いと思うの」

 「得意な方を伸ばす、ですか?」

 「ええ。だって、苦手なことを頑張っても人並みにしかならないもの」

 「それだったら、わたくしは向いていませんね」

 「諦めるのは早いわよ。教え方を工夫すれば、できるようになるかもよ?」


 杏子は興味がないものは頑張っても人並みかそれ以下だった。

 だから、杏子の父と母はどうしたら杏子の興味が出るのか、考えて工夫した結果、教養が高く、琴は国一番の名手、という、今の杏子ができた。


 「わたくしが興味を持たなかった作法に学、琴などができるようになったのは、餌に釣られたからなの」


 全部できるようになったら、外へ行っても良い。

 その餌に釣られて幼い杏子は必死に興味がなかった分野を練習した。

 でも、知れば、知るうちに楽しくなっていき、最終的には、自分で進んでやるようになっていた。


 「工夫された教え方で苦手なことをするか、好きなことを伸ばすか、もう一度、考えてきます」

 「焦らなくていいからね。あ、そうだ。玲子、雪子様に面会状を書いてくれる?今日、何があったのか知りたいから」

 「かしこまりました」


 そう言って、部屋から出て行った玲子を送ると杏子は周囲を見渡した。

 調度品がほとんどない部屋。

 灯りと書物に琴。

 それと木の板しかない。

 畳のすぐ横に積まれてた書物を上から取って、紙を開いてみる。

 昔、後宮に仕えていたとされる女房の随筆だった。

 春はあけぼの

 あまりにも有名な冒頭よりも杏子が気になったのは、書物に挟まれて、綺麗にたたまれた紙だった。


 「これは?」


 粗悪で少しでも力を入れてたら、切れてしまうような紙を開くと、ぎっしりと文字が書かれてあった。

 行間や、紙の上と下にも文字が書かれていた。

 書物の横にある木簡も中心だけ削れてて黒ずんでいた。

 木簡に書いては消して、書いては消して、繰り返していたのだろう。

 ふと気になって着ていた衣を一枚脱いで、よく見ると、至るところで縫われていた。

 杏子は今まで、字の練習をしたいと願えば新しい紙がどんどん出て来て、着物がほつれたり破けたら新しい着物が来る環境だった。

 後宮にいるほとんどの妃は杏子と同じような環境で育ったのだろう。

 だが、そんな環境は特別であったことが今身に染みて分かった。

 雪子は紙を買うお金がないから、木簡に書いたり、一枚の紙にぎっしり書いたんだろう。

 着物を買うお金がないから、一着を何度も直して着ているのだろう。

 そんな中、女性では珍しく漢文の知識があって、しかも世間ではあまり知られていないものまで知っているその教養の高さ。

 何度も針が刺された後が見える着物からも、黒ずんだ木簡からも、大量の字で真っ黒になった紙からでも分かる地道な努力。

 (わたくしも頑張らないと)

 雪子の気づかない努力に触発された杏子は、いつも以上に知識を深めて、芸事の鍛錬に臨んだ。