「いらっしゃいませ、杏子様、卯紗子様」


 先触れもなく淑景舎に訪れた杏子と卯紗子は雪子と玲子に迎えられた。


 「内裏の偏狭なところまでわたくしのために足を運んで頂いて......。次はわたくしが飛香舎へ参ります」

 「飛香舎は弘徽殿の先にありますよ?」


 弘徽殿や弘徽殿に従う家が通り道にある。

 雪子と玲子が歩いて何をされるのかわからない。

 不安の芽は潰して置いた方が良い。


 「この勉強会も今回限りではありません。毎回杏子様がわたくしのところまで来ると他の貴族、弘徽殿様などに軽く見られてしまいます」

 「杏子様、身分上飛香舎に向かうのはわたくしどもです」

 「杏子様、どうしますか?」


 (二人を弘徽殿の方に向かわせたくないけど、これだけ言われてるし......)

 身分が上である杏子が命令という形にすれば、雪子や玲子は引き下がるしかない。

 でも、そんなことをしたら溝が深くなる。

 ただでさえ、身分の溝が深い。

 これ以上深くなると雪子との交流が出来なくなってしまう。

 何か良い案はないのか......。


 「あの......これは......わたくしのひとりごとです。参考にはしないでくださいね」


 あらかじめ予防線を引いた雪子の提案が始まった。


 「杏子様とわたくしは、瓜二つです。卯紗子様も玲子もきっと同じ服装にしたら判断は難しくなるでしょう?」

 「今は別の着物だからこそ分かりますが、同じ着物を着ると見抜くのは大変ですね」

 「ええ。使えているこちらですら卯紗子様の通りです。関係が薄い者からしたら判断できませぬ」

 「無礼で不敬だとは存じています。その......杏子様とわたくしを交換するのはどうでしょうか?」


 近くにいる侍女でさえ、外見で見抜くのは困難。

 性格は反対なので、会話などをすればどちらかは判断できよう。

 しかし、杏子は身内や仲が親しい者以外は猫を被り、見た目通りの反応するので、杏子と雪子の判別はできない。

 (わたくしが雪子様になって、雪子様がわたくしになれば雪子様も行くことができる......)

 毎回、杏子の方から行くことで変な疑いが生じることは防げる。


 「やはり、これは良くないですよね。杏子様今のはどうか忘れて下さい」


 反応がないことで気に食わなかったと思った雪子は直ぐに撤回しようとした。

 だが、その撤回を遮る者がいた。


 「雪子様、撤回する必要はありません!良い案ですね。採用しましょう!」

 「杏子様、興奮しているところ大変恐縮ですが、帝と東宮には大丈夫なのですか?」


 玲子が能面顔で聞いてくるが、杏子にはここでやめるという道はもうない。

 こんなにも面白そうな案があるのに、やめるなんてできるはずがない。


 「玲子様。今、杏子様が考えていますよ。帝と東宮が納得するようなことを。こうなった杏子様を止めることはできませんから」


 口元に緩い弧を描きながら、考えているだろう主の様子を卯紗子は慣れた様子で見ていた。

 でも、その口元が主と同様僅かに弧を描いて、抑えきれていない。

 主が主なら、侍女も主に似てくる。

 杏子と卯紗子は似た者同士の主従だった。


 「ねえ、卯紗。これ、帝からの条件にできないかな?」

 「帝からの条件とはなんでしょうか?」


 帝という言葉で雪子の頬は微かに引きつっていた。


 「わたくしが入内するにあたって、帝が何でも叶えてくれるとおしゃったのですけど、わたくしの願いには条件が必要だったのです。その条件は自分で作らないといけなくて、しかも、それが今日までなのです」

 「今の帝は無茶ぶりはしないと聞いたことがありますが、どのようなことをお願いしたのですか?」


 能面侍女の顔には不安と興味が薄く出ていた。


 「後宮から出たい」


 始めて聞いた雪子は信じられないという様子で玲子にも同様が見られた。


 「......杏子様は時期中宮候補として名が高いですけど、そのような位も全て捨てるのですか......?」

 「雪子様、わたくしはずっと昔からたくさんの場所に行ってみたいのです。この世界はわたくしが知らないことだらけです。まだ見たことのない物を見てみたいのです」

 「そう、なの、ですか......。あの、条件はわたくしが杏子様の身代わりとなるのですよね?」

 「はい!雪子様と入れ替わった状態で東宮にばれないことにしようかなと」


 これには杏子以外が絶句した。

 まさか、東宮を巻き込むことになるとは......。

 誰も考えていなかった。


 「杏子様、東宮にばれたら、どうするのですか?」

 「後宮に居続けることになるかな、卯紗。できれば自由度がまだある女御のままが良いけど、わたくしが女御となれば中宮は弘徽殿様でしょうね」

 「杏子様、全力で中宮を目指してください。弘徽殿様が中宮になるのは問題しか起こりません」


 不敬極まりまく弘徽殿に知られたらどうなるのか分からない卯紗子の発言に玲子も大きく頷いた。


 「弘徽殿様が中宮ですか......。身の安全のために後宮から出てひっそりと暮らした方が良さそうですね」

 「それはどういうことでしょうか?」


 後宮は次期帝である東宮の後宮が開くまでは、今の帝の更衣と女御が住んでいる。

 中宮になった瞬間に後宮を出る必要はない。


 「わたくしは、後ろ盾がなく没落貴族出身であることは杏子様もご存じですよね」

 「はい」


 雪子から聞いたことがあるから、杏子は知っていた。


 「実は、わたくしの母方の祖母と国母様は双子なのです」

 「そうなのですか⁉」


 帝の遠戚であることは知っていたが、かなり近かった。

 これだけ近いと、杏子と雪子がそっくりなのも納得できる。

 杏子と雪子の祖母も杏子と雪子のように瓜二つだったのだろう。

 祖母に似ている二人の母が、母の姿を濃く継いだ杏子と雪子を産んだ。


 「世間って狭いですね」


 卯紗子の言葉は全員の心情を代弁していた。


 「帝は父がいないわたくしの家に十分なお金を渡して、生活に不自由がない後宮にわたくしを入れて下さったのです」


 更衣は妃の中では最も低いが、衣類も食事も住居も充実している。

 それに妃には毎月国庫から生活費として十分すぎるほどの金額が届く。

 金額を実家に送ることで衣食住に困ることはなくなる。

 下級貴族は喉から手が出るほど欲しい案件だろう。

 でも、


 「他の貴族から蔑まれ、いじめられるのですよね」


 後宮は綺麗で明るいだけではない。

 汚くて暗い。

 帝の温情で入内した更衣

 他の妃の羨望、絶望、嫉妬

 抑えることができない感情で狂っていく。

 その矛先は帝ではなく更衣へと向かっていった。


 「杏子様は知っていたのですね」

 「なんとなく弘徽殿様の言動で」


 実際は雪子と弘徽殿の話を聞いたからだ。


 「雪子様。弘徽殿様はわたくしとの縁が欲しいそうです。わたくしが近くにいる時は弘徽殿様は手出ししないはずです」

 「これはわたくしの問題ですのに、杏子様が助けて下さるなんて......。この恩はどのようにお返しをすればよろしいのでしょう」

 「それは、雪子様がわたくしと入れ替わってくれることですよ。それで、本日の夜って空いてます?」