翌日の土曜日の午前中、中学生になってから初めて部活を休んだ文音と二人で曜子さんの家に行った。自転車を置かせてもらって誠司さんの車で病院に向かうためだ。ちなみに文音が部活を休む時に言った理由は「親戚の引っ越しを手伝いに行くため」だそうだ。あながち間違いではない。
 荷物のほとんどは昨日のうちに運び出しているので残っている荷物はごくわずかな日用品とノートパソコンくらいだ。日用品を詰めた鞄を持ってあげると見送りに来てくれていた杉本さんから「優しいね、彼氏予定君」とからかわれたが悪い気はしない。結局曜子さんが書いていた小説がどのくらいまで進んだのかは訊けていないがそのうち分かるだろう。僕らにはこれからがある。明日を乗り越えてこれからもずっと一緒にいるのだから。
 曜子さんの家に戻ると、曜子さんはまっすぐに文子さんの仕事部屋に向かい、仏壇の前に座って手を合わせた。
「ただいま。ママ、パパ」
 まさに最愛の人に再会したようなその姿を僕も誠司さんも、事前に事情を説明しておいた文音も静かに見守った。神聖で純粋な死者への祈りの時間と空間がその場に広がっていて、パパにはなれないと言った誠司さんの気持ちが少し分かった。
 ママとパパに挨拶を終えた曜子さんはキラキラとした目で、はつらつとしたいつもの表情に戻る。二人の死はしっかりと乗り越えたと体現しているようだ。
 曜子さんは昨日誠司さんが運んだ荷物を整理すると言って自分の部屋に向かい、文音も手伝いについて行く。誠司さんはお昼ご飯を作ると言ってキッチンに向かう。僕は下着なども整理するであろう曜子さんを手伝うわけにはいかないので誠司さんの手伝いをすることにした。キッチンにてお米を研いでいる誠司さんの横で人参、ジャガイモ、玉ねぎといったごく一般的なカレーの材料を切る。
 鍋に食材とカレールーを投入し煮込み始め、やはり料理となると少し上機嫌な誠司さん。その隣で手持無沙汰の僕は少し大きく切り過ぎたジャガイモを見つめながら尋ねた。
「今日の隠し味は何にするんですか?」
「曜子がうちに帰ってきてから初めてのカレーだからね。曜子が一番好きなコーヒー牛乳だよ。悪いね、次は別の隠し味をご馳走すると言っていたのに」
「いえ、ご馳走になる身で言えたものじゃないですけど、僕も好きでしたし大歓迎ですよ。でもコーヒー牛乳を入れてるってこと、どうして曜子さんに言わないんですか?」
「え? 言っていたと思うけど……」
 冷蔵庫から紙パックのコーヒー牛乳を取り出しながら誠司さんが答える。
「わー! やっぱりいい匂い。美味しそうな匂いしてたもんね。え? コーヒー牛乳入れるんですか? 曜子さん、コーヒー牛乳だって。私初めてだ。曜子さんは食べたことある?」
 荷物の整理を終えた曜子さんと文音がキッチンの方に歩いてくる。無邪気に喜ぶ文音に尋ねられた曜子さんは小首をかしげながらしばらく考えた後に頷いた。
「うん。とっても美味しいんだよ。きっと文音ちゃんも好きになる」
 誠司さんと曜子さんにとって二ヶ月近くぶりの同じ食卓、二人はもちろん文音もとても楽しそうで、僕も一瞬だけ抱いた違和感なんて忘れてしまった。

 翌日の朝、九月一日日曜日。僕は両親と文音に自殺未遂のことを除いてすべてを話した。曜子さんの身に起きている現象のことも彼女の能力のことも、僕が八月に入ってから毎日何をしていたのかもだ。
 僕が何かしていると察していた両親も、曜子さんが普通でない事情を抱えていると心配していた文音も、僕が明かした内容は予想を大きく超えていたようでたいそう驚いていた。今日で全て終わること、後々きちんと曜子さんのことを紹介すること、曜子さんの家には父親もいることを話すと両親は今日僕が曜子さんの家に泊まることを許してくれた。
 自分も行きたいと駄々をこねた文音には今日は曜子さんの誕生日だということを教え、買い物に付き合ってもらうことで溜飲を下げた。僕はすでにプレゼントを用意していたのだがおまけでもう一つ買うことにした。
 一度自宅に帰り夕食を食べてから曜子さんの家に向かう。大丈夫、道筋は見えている。録画した映像を何度も見て展開は覚えた。相手はスパイの思考を持った女性だが今の身体能力は普通の女子高生、いざとなればなんとでもできる。僕は大きく深呼吸をしてからインターホンを鳴らした。
 日下部さんには曜子さんのスマホを通して事前に【今夜大事な話があります。先にお風呂に入っておいてください】と連絡してある。このメッセージがゲーム内でルート分岐に至る作戦会議イベントが起きるきっかけとなる。
 誠司さんに家の中に招き入れられ、プレゼントが入った大きな荷物を置き、ショルダーバッグのみをかけて曜子さんの部屋の前でさらにもう一度深呼吸をする。ハッピーエンドしか見ていない誠司さんは僕がきちんと誘惑に耐えられるかを心配しているようだが、バッドエンドを見ている僕からするとその心配はない。
「大丈夫ですよ。僕は理性が強いんです」
「……頼んだよ」
 扉をノックすると「はぁーい」という日曜日恒例のセクシーな声が聞こえる。部屋に入り一通り部屋の中を見回してから、ベッドの淵に足を組みながら腰かけてまっすぐに僕を見つめている日下部さんと目を合わせる。背中に月明りを背負っているせいか、普段の曜子さんとは違う妖艶な表情をしているように見える。長袖長ズボンの薄紫色の薄手のパジャマを着て、当たり前のように第二ボタンまで開けているが中は見えない。
「なぁーに? 大事な話って。私、しっかり体も洗って準備万端だからね」
「明日から学校なのでその話をしに来ただけです。お風呂に入るように言ったのは夜更かししないで早く寝てもらうためです」
「相変わらずつれないわねぇ。ほんとは色々期待してるくせに。ま、いいわ、どういう話?」
「……普通の人が四階から飛び降りたらどうなると思いますか?」
「普通は死ぬわね」
「凄腕のスパイ、日下部一華なら?」
 その名を口にした瞬間、日下部さんの眉がピクリと動いた。小さく息を吐いて僕を見定めるような視線を送ってくる。
「四階くらいの高さなら無傷かもね」
「身体能力が元の曜子さんと同じだから捻挫してしまったというわけですか」
「いつから分かっていたの?」
「最近ですよ。それが分かった時、あなたが曜子さんの命を救ってくれたんだと思ったのでお礼を言うために今日は来たんです」
「目が覚めたら落ちていたの。多分三階くらいだったわね」
 ゲーム内に同じようなシーンがあり、その描写はやたらと丁寧に書かれていた。知識や身体能力は曜子さんと同じはずだからそのシーンを曜子さんがしっかりと読み込んでいたおかげで日下部さんの体が咄嗟に動いたのだろう。
「ありがとうございます。あなたがいなかったら僕は曜子さんに出会えなかった」
「別にいいわ。自分が助かるためにしたことだもの。でも、お礼をくれるならもらってあげる」
「その前に聞いてもいいですか? あなたが何者なのか」
「あら,焦らすのが好きなのね? ……もう知っているなら教えてあげる。私は他の子たちと同じ、たまに曜子ちゃんの体に入ってしまう人間の一人。そして、ある組織から命を受けて色々イケナイ活動をしているの」
「自分のいた世界とこの世界が違うものだっていう感覚はありますか?」
「そうね。曜子ちゃんの体に入る時はいつもそう感じてる。だから私は任務を受けているのにも拘らずのんびり暮らしているの。どうせ命令された潜入先も対象の相手もいないだろうって過去の経験から分かっているから」
 自分がゲームの中の存在であることを自覚しているわけではなさそうだ。あくまで別の世界の生身の人間であると思っている。
「でも不思議ね、文也君。あなたは私が聞かされていた今回の任務の相棒の特徴と似ているところがたくさんある」
「へえ、例えば?」
「頑張り屋なところ、優しいところ、可愛いところ、むっつりなところ。あとは容姿や体形も近いかな。私、結構文也君のこと好きよ」
 確かに描写されている身長や体重は僕とほぼ同じだったし年齢も同じだった。脳内では結構スケベなことを考えるが決して表に出さないように頑張っているところもそっくりだと思う。
 そしてそれは僕にとって都合の良い設定だった。
「僕も結構日下部さんのこと好きですよ」
 にやりと笑った日下部さんがベッドに横になって布団を自分の体にかけた。すぐにそれをめくりあげて上半身を晒す。
「難しいこと考えるのは終わりにしよ。私と思い出作らない?」
 誘っている。セリフもポーズもゲームの通り。冗談っぽく好きだと言ってあげることがキーになっているのは確認済みだ。僕は無言で見つめる。
「あら? 見つめちゃってどうしたの? いつもなら『馬鹿なことやってないで寝てください』とか言うのに」
 僕は無言のまま日下部さんを見つめ続ける。
「視線じゃなくて腕で抱いて欲しいんだけどな。早くしないと私寝ちゃうよ?」
 日下部さんは催促するようにばさばさと布団をめくったりかけたりを繰り返す。もう少し。
「無言は初めてね……あ、分かった。無防備なところをパクっといきたいのね? もう、最初からそう言えばいいのに。ほら私寝ちゃうわよ。無防備!」
 日下部さんは体全体に布団をかけて仰向けになる。両手だけは布団から出してお腹の当たりに置き、完全に僕から目線を外した。
かけていたショルダーバッグの中身を後ろ手に持ってタイミングを見計らう。この場面、ゲームでは『襲いかかる』という選択肢が一つだけ出てきて選択するタイミングでハッピーエンドとバッドエンドに分岐する。速すぎても遅すぎてもだめだ。
 日下部さんは主人公や学園の裏にいる組織とも別の組織のエージェントであり、主人公の組織に潜入していた。そして大元の組織から主人公の殺害と学園の裏組織の撲滅の任を受けており、学園の件が終わったら主人公を殺す予定だった。しかし学園の裏組織と日下部さんの組織が極秘裏に協定を結んだことにより任務は主人公の殺害だけになり実行に移っていたのだ。
 その美貌や妖しい話術で誘惑し、隙を見せたところで対象を殺害するのが彼女のやり方で、誘いに乗るとそのまま殺される。だが日下部さんは任務がありつつも本気で主人公に思いを寄せており、罪悪感と後悔から組織を裏切り学園の裏組織を一人で潰すため失踪した生徒たちの救出に向かい、失敗して死亡する。これがバッドエンド。
 日下部さんが目を閉じた。今だ。
 このタイミングが速かったり遅かったりすると身体の拘束に失敗し揉み合いの末主人公は死に、バッドエンドと同じ結末を迎える。
「ごめんなさい」
 僕は用意していたおもちゃの手錠を日下部さんの両手にかける。当然日下部さんは抵抗するが、油断していたことと曜子さんの身体能力であるということもあり、仰向けに寝たままの状態で動きを封じることに成功した。僕は曜子さんに悪いと思いつつも日下部さんのお腹の当たりに腕を下敷きにして跨り、左手一本で僕のお尻の後ろ辺りにある手錠がかけられた日下部さんの手を抑えている。ゲームではおもちゃではなく本物の手錠だし、手錠を掛けられた程度で日下部さんの動きは止められないので小競り合いの末の拘束であったが、現実では簡単だった。
 日下部さんは今までに見たことがない、余裕のない表情で僕を見つめている。
「何をするつもり? こういうのが趣味だったの?」
「いいえ。物騒なことは嫌なだけなんです」
 僕は日下部さんの動きを抑えたまま空いた右手を彼女の頭の下の枕、さらにその下に手を潜り込ませ物騒なものを探す。カッターナイフの刃がむき出しになっていることはゲームで知っていたので慎重に探り当て、刃をしまってから取り出して部屋の隅に投げ捨てた。
「僕の体にべたべた触ることが多かったのはどこを狙うか考えていたんですよね。僕に覆いかぶさってもらって、その隙に頸動脈をさっくりやるつもりでしたか?」
 日下部さんは力では僕にかなわないと諦めたのか、無言のままどこかすっきりしたようにも見える表情で僕を見つめている。
「でも、止めて欲しい気持ちもあったんですよね? だから僕に対して少しだけ隙を見せた。どうしてこんなことをしようと思ったんですか?」
「……私の仕事に恋愛感情は不要。その感情は任務の失敗に繋がりかねない。誰かを好きになってしまったら殺さないといけない。今までもずっとそうしてきた。そうしないといけなかった」
 彼女が任務に失敗することは死を意味する。彼女の動機は死への恐怖。だからそれを取り除くことがハッピーエンドになる。
「あなたを監視して、失敗したら殺そうとしている組織は僕の仲間が片付けました」
 仰向けの日下部さんの腕やお腹の上に座った状態から体の位置を調整して上半身を折り曲げ、自分の顔を日下部さんの顔の方へと近づけていく。唇と唇が触れ合いそうな距離になると日下部さんは目を閉じた。
 キスをして愛を語り、恋仲になって全てがうまくいって日下部さんの隠しルートはハッピーエンド。僕と曜子さんの物語もハッピーエンドだ。
 曜子さんとの間接キスを含めないなら、文音が幼稚園年中の頃にして以来のキス。でも緊張はしていない。この終わり方を知った時から毎日のようにイメージトレーニングはしてきたので、その通りにやるだけだ。僕も日下部さんに合わせて目を閉じた。
 柔らかい感触がした。
「駄目よ。この世界にそんな組織がないことは知っているって言ったでしょう?」
 目を開けるとそれは日下部さんの唇ではなく、右手の人差し指だった。体の位置を調整した時に手の拘束が外れてしまい、おもちゃの手錠だから簡単に外されてしまったのだ。
 ゲームのハッピーエンドの流れから外れてしまった。これでは日下部さんを消すことができない。他の人たちは多少流れが異なっても辻褄が合ってなんとかなっていたのに。
「文也君、あなたが好きなのは月曜日の子でしょう? そのために私の誘惑から逃げてきたんだから、今さら私にキスなんて……」
 キスを避けられたことへの動揺よりもここからどうやって流れを戻すか頭を回転させていた僕に、日下部さんは続ける。
「心配しなくてもすぐに消えてあげる。そんなに焦った顔してると本気で私を襲おうとしてるみたいよ?」
「消えてあげるって、そんなまるで消え方を知っているみたいな……」
「知ってるわ。君がどうやって私の素性を知ったかは分からないけど、知っているなら分かるでしょう? 私結構優秀なの。情報収集とか分析とか」
「……曜子さんは他の曜日の記憶も夢で見たくらいには残っているって言っていた。その日の出来事を共有するノートもあった」
「加えて病室には曜子ちゃんの母親、奥空文子の書いた本が置いてあった。それに曜子ちゃんのノートパソコンの中には奥空文子の作品データのコピーが入っていた」
「コピー?」
「私、日下部一華が出てくる物語もあった。あの病室に本はなかったけどね。まさか自分が物語の登場人物だとは思わなかったけど、曜子ちゃんの力に感づいてからは色々あった違和感にも納得がいった。他の曜日の子たちはあまり気にせずにのほほんとしていたわね」
「……今までのことは演技ですか? カッターまで用意して」
「まあね。でも、もし私の誘いに乗ってきたらちょっと怪我くらいはさせようと思っていたわよ? 好きでもない女の子六人に嘘の告白をしていたなんてそんなひどい男を放っておいたら世のためにならないもの」
「それは、言い返せません。曜子さんのためとはいえ、ひどいことをしていたのは事実ですから」
「それでも、あなたと過ごした日々は私という存在を君に認めてもらえた気がして嬉しかった」
 日下部さんは静かに僕の背中に手を回した。抱き寄せられ、顔を枕に埋もれさせられる。表情は見えないが、僕を抱きしめる腕の力の強さで彼女の思いは分かる。
「最後に教えて? あなたが好きなのは誰?」
「曜子さんです」
「本物の? 私たちのような偽物ではなく?」
「あなたたちは見た目は偽物でも、中身は本物でしたよ」
「……ありがとう。これからは本物の曜子ちゃんと仲良くね」
 その刹那、僕を抱きしめていた日下部さんの腕がだらんとベッドの上に滑り落ちる。スマホを取り出して時間を確認する。
「誕生日おめでとう。曜子さん」
 曜子さんの返事はない。僕のことを抱きしめ直しているので意識はあるはずだ。
 これですべて終わった。僕は七海曜子を救うことに成功したのだ。これからは学校で話をしたり、放課後一緒に帰ったり、休日に遊びに出かけたり、夜に寝落ちするまで長電話をしたり、そんな青春の毎日が待っている。灰色だった僕は完全に色付いて。もう灰色に戻ることはない。
 それなのに曜子さんの反応がないのは心配になる。
「曜子さん?」
「……ごめん、ちょっと考え事してた」
「考え事?」
「文也君って演技が上手だなって。将来役者とか向いてるんじゃない?」
「冗談はよしてくださいよ。結構いっぱいいっぱいでしたから、もう何かを演じるのはごめんです」
「いつか私が書いた小説が実写化されることになったら、文也君に主人公をやってもらおうと思っていたんだけどな」
「それはちょっと話が別ですね。ヒロインを曜子さんが演じるなら考えます。あ、キスシーンは入れておいてくださいね」
「しょうがないなぁ。あ、そうだ、今練習しとく? さっきはお預けだったんでしょ?」
「それは魅力的な提案ですけど今日は駄目です。曜子さんを元に戻したらプレゼントを渡して、それ以上何もせずに誠司さんを呼ぶ約束なんです」
「そっか。文也君らしいね」
 曜子さんは心底残念そうな声色で言う。
 今僕は曜子さんの上に覆いかぶさっている状態で曜子さんに抱きしめられており、僕と曜子さんの顔は数センチしか離れていないくらい近くにある。その声は感情とともに僕の耳にもれなく届く。もっとこのままでいたい衝動は理性で抑え込んだ。誠司さんの信頼は裏切れない。
 僕は曜子さんから離れ、少し待っているように言って部屋を出た。
 リビングに置いてきた誕生日プレゼントを持って再び部屋に入ると曜子さんは起き上がってベッドの淵に腰かけていたので、僕も隣に座りプレゼントを渡す。
「改めて誕生日おめでとうございます、曜子さん。まずは僕から」
 上等な箱に一本だけ入ったボールペンを渡した。ペン先と反対側の半分くらいが液体に満たされていて、中に桜の花びらが入っている。
「すごーい。何これ? 綺麗」
「ハーバリウムっていうらしいですよ。日本語で植物標本っていう意味です。綺麗だったし、ノートに色々書くときボールペン使ってけど、インクが切れかけていたのを見たので」
「さすが、よく見てるね。ノートはもう書く必要ないかもだけど、大事に使わせてもらうね」
「ええ、あともう一個あるんです。どうぞ」
「え? いいの? ……これは、バスボム?」
「はい。文音から聞いたんです。曜子さんはお風呂が好きだけど入院中はあんまり自由に入れないって愚痴ってたって。だからこれからのお風呂を少しでも楽しんでほしくて。いい匂いですよ。カボスとかすだちとかゆずとか」
「何それ。区別つかないよ。でも、ありがと」
 最後に文音が買った初心者向けのマニキュアのセットを渡すと、僕が渡したもの以上に目を輝かせていた。どうやら前々から興味があったらしく文音に話していたが、文音は僕を出し抜くために僕には教えてくれなかったようだ。
「誕生日、文也君はちょうど一週間後だよね? 文音ちゃんは?」
 曜子さんはニコニコと嬉しそうに訊いてくる。
「四月三日です。学校が始まってないから皆に祝ってもらえないって毎年嘆いてますよ」
「じゃあ来年は私たちで盛大に祝ってあげようね。ところで来週の文也君は何か欲しいものはある? 私があげられるものならなんでもいいよ」
「なんでも?」
 その甘美な響きに体が反応し、曜子さんに体をグイッとよせると人差し指で鼻のてっぺんを抑えられた。
「もー。今絶対エッチなこと考えたでしょ?」
「……いえ」
「しょうがないねぇ文也君は。じゃあこうしよう。私が叶えられる願いならなんでも一つ叶えてあげるから来週までに考えておいて。ただし、お父さんが知っても怒らないことにして」
 誠司さんが怒らない、か。日下部さんを消すためにキスすることまでは許してくれたから、これはたぶん大丈夫。でも誕生日の権利を使ってキスをするというのは少しもったいない気もする。だってさっきキスの練習に誘っていたし、お願いしなくてもそのうちしてくれそうだ。 
 そう考えると今すぐには何も浮かばない。曜子さんと恋人になれると考えただけで割と満足してしまっていて、特別なことは求めていない。誠司さんに怒られそうなことならたくさん思いつくのに。
 名残惜しいがプレゼントを渡したら誠司さんと交代する約束だったので、明日一緒に登校することを約束して曜子さんの部屋を出た。僕がプレゼントしたものを抱えながら手を振ってくれる姿を見ると頬が緩む。多分僕は今、気持ち悪い顔をしている。
 誠司さんは文子さんの仕事部屋の仏壇の前に座っていた。
「終わりましたよ、誠司さん。結局キスはしませんでした」
「そうか……本当に君がいてくれて良かった」
 立ち上がって振り返った誠司さんの手元には一冊の大きめな本があった。表紙には中学校の名前が書いてある。
「曜子さんの卒業文集ですか?」
「うん。久々に読みたくなってね。他にもアルバムとか色々見ていたんだ。これから曜子との日常が戻ってくると思うと、妙に緊張してしまってね」
 誠司さんは恥ずかしそうに文集を一瞥したあとそれを静かに本棚に戻し、僕に右手を差し出した。僕は右手でその手をしっかりと握る。
「ありがとう、文也君。君は曜子と私の恩人だ。曜子とこれからも仲良くしてくれるかい?」
「もちろんです」
 がっちりと握手を交わして僕と顔を見合わせた誠司さんは文子さんの部屋を出て行った。これからは家族の時間。誠司さんの顔はいつも優しくて疲れていたが、この時ばかりは安心と喜びの涙であふれていた。

 手持無沙汰になった僕は誠司さんが先ほどまで読んでいた曜子さんの中学の卒業文集を手に取った。勝手に見るのは悪いとは思ったが他のは見ないから許してください、と仏壇に飾られた文子さんと前の旦那さんの写真に心の中で謝る。
 文集を開くと曜子さんのクラスのページの最初の方にクラスの人たちで色々なランキングを作ったページがあった。
【素敵な彼氏を作りそうな人ランキング二位 七海曜子】
 おかしい、これは一位のはず。
 ちなみに僕の中学校のクラスでも同じような企画があって、僕はシスコンランキング一位だった。
 少し変わった文言のランキングが並ぶ中、曜子さんの名前はもう一つあった。
【将来サインの価値が上がりそうな人ランキング一位 七海曜子】
 役者か小説家か、どちらかは分からないけれど中学のクラスメイトからはそういう評価を受けていたようだ。今の曜子さんは小説家を目指している。誠司さんの話では昔の曜子さんは役者を目指していた。中学卒業時の曜子さんはどちらだったのか、それは文集にしっかりと書かれていた。曜子さんらしいしっかりとしつつも可愛らしさがあふれる字で、文子さん、前の父親、誠司さんへの思いが四百字の原稿用紙一枚では足りないくらいに綴られている。
【私の夢 七海 曜子
 先生以外誰にも言っていませんでしたが、私の母は作家の奥空文子です。以前図書委員会が作成した好きな作家ランキングで母が一位になった時はとても嬉しかったです。
 ニュースにもなっていましたが、母は去年から病気で入退院を繰り返しています。ですがいつも笑顔で小説を書き続けています。私はいつも母のそばで宿題をしたり、本を読んだり、母と話をしたり、演技の練習をしたりしています。
 私は私が小学生の頃に亡くなってしまった父の影響で役者を目指し始めました。そして父と母と母の作品が大好きです。
 私の夢は、父が好きだった演技で、母の作品を世に広め、永遠に残していくことです。
 母は私にも小説家を目指してもらいたいそうですがこればかりは譲れません。なぜなら新しいお父さんも母の作品が大好きだからです。母の作品が私たちの絆なのです。】
 なぜ今の曜子さんは小説家を目指しているのか。曜子さんが役者を目指す理由はそう簡単にひっくり返るものではないと思う。何が曜子さんの考えを変えたのか。これからの長い時間の中でいつか理解できるだろうか。

 翌日の朝、僕は自分史上最も幸せな目覚めをした。
「おはよう、文也君」
 目を開けると、微笑みながら僕の顔を覗き込む曜子さんと目が合う。曜子さんはすでに制服に着替えていて、髪もいつものように編み込みを作って準備万端だ。見慣れた制服なのに曜子さんが着るとものすごく可愛いものに思える。いや、曜子さんが可愛いだけか。隣のベッドで寝ていた誠司さんはすでに起きているようだ。
「曜子さん、好きです」
 曜子さんが可愛すぎて、幸せ過ぎて、つい本音が漏れてしまった。曜子さんは嬉しそうに僕の布団をひっぺがす。その瞬間僕のスマホの目覚ましアラームが鳴り響いた。
「ごめんね、貴重な睡眠時間を一分も奪っちゃった。さっきお父さんに文也君は六時半に目覚ましをセットしたって聞いたから、寝顔見せてもらおうと思って。可愛かった」
「いえ、こんな幸せな目覚めがあるなら一分くらいどうってことないです。というか曜子さんの顔を見たらばっちり目が覚めました」
「良かった。ね、文也君、好きだよ」
「え? な、と、突然何を……?」
「何をって、さっき文也君が言ったんでしょ? 私のこと好きだって。だから私もお返し。ほら、早く起きて顔洗って着替えちゃって。お父さんが朝ごはん用意してくれてるから」
「は、はい」
 曜子さんの指示通りベッドから急いで降り、寝室を出て誠司さんに挨拶をしてから洗面所で顔を洗い、寝室に戻って制服に着替えを始めた。曜子さんはずっと寝室にいる。上半身ならまだしも、下半身をさらけ出す勇気はない。
「曜子さん? さすがに恥ずかしいです」
「私、文也君の彼女ってことでいいんだよね?」
上はワイシャツ、下は寝間着という少し間抜けな状態のまま動きを止めた僕に、曜子さんは言う。照れくさそうなのは僕の着替えを見ているからではないと思う。
「も、もちろん! 僕が曜子さんの彼氏です」
 曜子さんはそれはもう嬉しそうな笑顔を見せて寝室を出て行った。
 着替えを終えて曜子さんと一緒に誠司さんに交際することになったことを報告すると、誠司さんは優しい笑顔で僕らを祝福してくれた。
 曜子さんにとっては久しぶりの登校。僕は夏期講習があったので久しぶりではないが、曜子さんの家から登校するというのはもちろん初めてのことで、見慣れない景色と、同じく登校する生徒たちの姿を見るだけでドキドキする。僕らの姿は他の生徒たちからどう見えているのだろうか。ちゃんと恋人に見えるだろうか。お似合いな二人に見えるだろうか。そんなことを考えていたら、曜子さんの家から徒歩五分程度の南沢高校にあっという間に着いてしまった。曜子さんの問いかけにも生返事しかできなかった気がする。
「どうしたの? 文也君。もしかして緊張してる?」
 校門の前で立ち止まった僕に曜子さんが尋ねる。曜子さんはいつも通りの様子でニコニコしている。
「いえ、なんか皆こっちを見てるから」
 千年に一度レベルの美少女と噂されていた曜子さんが男子生徒と連れ立って登校してきたのだ。無理もない。こんな注目のされ方をされたのは初めてで足がすくんでしまっていた。
 視線や僕の様子に気がついた曜子さんが僕の手を握ってくれると、男子生徒から表情が消え、女子生徒はにんまりとした笑顔になり、ひそひそと話しながら校舎へ歩いて行く。
 これは噂になる。
「よー文也。隣にいるのは……あれ? まさか七海曜子ちゃん? マジ? そういう関係?」
 手を握ってもらって少しだけ落ち着き、歩き出した時に後ろから声をかけてきたのは長谷だ。僕の顔と曜子さんの顔と繋いだ手を順々に見ながら高いテンションで聞いてきた。
「文也君のお友達?」
「はい。長谷っていいます。同じ中学の野球部で、今はeスポーツ部に入ってて、ゲームの特訓をしてくれたんです」
「なるほど、間接的に私を救ってくれたってことだね」
 昇降口に差し掛かった時に曜子さんは小声で僕に確認を取ったあと立ち止まり、長谷の顔をしっかりと見て頭を下げた。手も一緒に下げているので繋いだ手が離れてしまったのが残念だ。
「おはようございます、長谷先輩。さ、一年生の七海曜子です。文也君ともども今後ともよろしくお願いします」
「お、おう。よろしく」
「それじゃあ文也君、昼休みに食堂で会おうね。長谷先輩、失礼します」
 僕に向かって小さく手を振り、一年生のフロアへ駆けて行く曜子さん。手を振り返しながら彼女のいる学校生活ってこんなにも潤っているものなのかと感動していると、長谷が片腕を回し、僕の首を軽く絞めてきた。
「文也ぁ、お前やばいな。曜子ちゃん、写真よりも断然可愛いし、礼儀正しいし、なんか目がキラキラしてるし最高じゃん」
「だろ? 六分の一くらいは長谷のおかげだから感謝してるよ」
「は? ……というかなんでお前が敬語で、曜子ちゃんがタメ語なの? あの子一年生だよな?」
「色々あって、慣れちゃったからいいんだ」
「ふうん。まあお前がいいならいいんだけどよ」
 この日から僕の学校生活は変わった。
 朝は曜子さんの家まで自転車で行き、そこから自転車を押して一緒に歩いて登校する。授業の合間の短い休み時間でも移動教室などの用事がなければお互いにお互いの教室に行って話をして、昼休みは食堂で一緒に弁当を食べる。放課後は曜子さんの家まで一緒に帰り、家に上がったり上がらなかったりしてから自転車で自宅に帰る。
 そんな生活を一週間続けて迎えた僕の誕生日に曜子さんは財布をくれた。僕がぼろぼろの財布を使っているところを初対面の時に見ていたのを覚えていたらしい。黒くシンプルなデザインながら機能性のある財布のように、万能で頼りになる渋い男を目指しますと言うと曜子さんは「頑張ってね」とあまり期待していないように言った。
 そしてこの日までに考えることになっていたなんでも叶えてくれるという願いは延期してもらった。煩悩ばかりでまともな願いが思いつかなかったのだ。
 文音の部活が休みの時は二人で曜子さんの家に遊びに行くこともあった。曜子さんと文音が二人でマニキュアを試している傍ら、僕は誠司さんに料理を教えてもらったりしていた。
 曜子さんに格好悪い姿を見せたくないから今まで適当に直すこともあった寝癖も、毎朝文音に確認してもらって絶対に完璧に直したし、今まで無頓着だった肌のケアも、毎朝毎晩化粧水や乳液をつけるようになった。その分朝の準備に時間がかかるため早寝早起きをするようになったし、部活をしていないのに体を鍛えるために自室で筋トレに励むようにもなった。
 また、曜子さんが好きな奥空文子作の本をたくさん読むようにもなったし、曜子さんと内容を語り合えるくらいには読んだ本に関しては詳しくなった。曜子さんにいいところを見せるために勉強もこれまで以上に頑張った。しっかり者になるために教室での細かい雑用や家の手伝いも積極的にするようにした。  
 やることが増えたが無意味にスマホをいじったりしてだらだらする時間を削ると意外となんとかなるもので、仮に曜子さんの存在を抜きにするとしても、僕の高校生活はかなり充実するものになった。実際は曜子さんがそばにいるので充実を超えて、幸せがこぼれ出るほどだ。
 曜子さんは小説を書くことに集中したいということで演劇部を辞めていた。これについて僕が言えることは何もないし、曜子さんの選択を応援するだけだ。

 そう思っていたのだが演劇部の当事者達はそうもいかないみたいで、十月に入った頃、放課後に教室を出ようとするとクラスメイトの北沢(きたざわ)さんに呼び止められた。彼女は演劇部の新しい部長だったはずだ。性格はきつめだが演技の実力は本物らしく、大会で個人の賞をもらったこともあるらしい。
「八雲君、あなた七海さんの彼氏でしょ? あの子がなんで演劇部を辞めちゃったか知らない? お母さんが亡くなったからって理由でもなさそうだから……」
「えっと、他にやりたいことができたからって聞いてるけど」
「はぁ、やっぱりそうか。やりたいことって何か聞いてる?」
 北沢さんはがっくりと肩を落とした。僕なら詳細を知っているだろうと踏んでいたが、自分が知っていることと同じだったのだろう。曜子さんが小説を書きたいと思っていることは知らなさそうだ。曜子さんがいなくなって困惑している様子だし、曜子さんが奥空文子の娘であることは知っていそうだし、教えてあげた方が納得するだろう。
「小説家になりたいって言ってた。小説を書く時間を作りたいから部活を辞めるって」
「嘘、そんなはずない。あの子は絶対に役者になってお母さんの作品を演じるんだって意気込んでいて、演技にムラはあったけど心から演技を愛している感じがして、ものすごい努力家だった。お母さんが人気作家だから七海さんも小説家とかなれるんじゃないかって言われた時も、小説家だとお父さんと関わりがなくなっちゃうから絶対にならないって言ってたのに」
「いや、でも、確かに僕はそう聞いたんだ……」
 早口でまくし立てる北沢さんに僕は気圧(けお)されてしまう。多分この人、曜子さんに並々ならぬ思い入れがあったのだろう。
「お母さんが亡くなる寸前まで同じようなことを言っていた。事故で入院してから何があったの? 何があの子を変えたの?」
「僕にも分からないよ。曜子さんが入院し始めたのは七月からでしょ? 僕が曜子さんと会ったのは八月になってからだし、その時にはもう小説家になりたいって言っていた」
 北沢さんは明らかに納得していないという表情をしているが、これ以上僕に訊いても意味はないと判断したのか「私はあの子を諦めていない。何か分かったら教えて」とだけ言い残して部活に行ってしまった。
 また、十月のある時、長谷にこんなことを言われた。
「お前、一年生の間で魔法使いだの王子様だの言われているらしいぜ」
「え? 何それ、いったいどうして?」
「七月の初め頃、お母さんが亡くなってめちゃくちゃ落ち込んでいた曜子ちゃんをお母さんが亡くなる前より元気にしたり、交通事故のショックで二重人格だか三重人格だかになっちまった曜子ちゃんを元に戻したり、曜子ちゃんを救った英雄みたいな扱いだ」
「ああ、そういうこと……」
 人格を元に戻したのは確かに僕が頑張ったからだが、どうして元気になったかは考えたこともなかった。
 曜子さんは文子さんの死は乗り越えたと言っていたし、誠司さんも自殺未遂のあとは曜子さんとの間にあったぎこちなさが和らいだと言っていた。でもその理由については分からないままだった。だが別にそんな理由はなんでもいい。今の曜子さんが元気ならそれでいい。
 そう考えていたから、理由を考えようともしなかったのかもしれない。でも、演劇部の件を聞いたあとだと何か引っかかる。自殺未遂の後、曜子さんの考えを変える何かがあったのだ。
 僕の頭の中に一つの仮説が思い浮かぶ。でもそれはありえない。そうなのだとしたら、誠司さんが気がつかないわけがない。
 しばらく曜子さんを観察してみたが、何もおかしいところはない。可愛くて、優しくて、目がキラキラしていて、文音のことも可愛がってくれて、二人で一緒にマニキュアに挑戦して、奥空文子の本に詳しくて、ひた向きに小説を書いていて、時々僕をからかってドキドキさせてきて、誠司さんとも楽しそうに話をしていて、まさに理想的な女の子だ。
 誠司さんから大事な話があると、曜子さんの家ではなく近くの喫茶店に呼び出されたのは、曜子さんにおかしいところなんてないと確信し始めていたころのことだった。
 十月中頃の土曜日、曜子さんの家に行く約束をしていたが急用ができたと言って代わりに文音に行ってもらい、誠司さんが待つ喫茶店に入ると、誠司さんは四十代くらいの女性と向かい合って席に座っていた。まさか再婚か、と一瞬思ったがそれなら僕に紹介する必要はない。
 四人掛けのテーブル席の誠司さんの隣に座り、曜子さんの影響ですっかりはまっていたキャラメルラテを注文すると、誠司さんが女性のことを紹介してくれた。
「文也君、こちらは古川(ふるかわ)さん。私の同期で文子の元担当編集だった人だ。文子のデビュー時からの長い付き合いだから、曜子の力のことも知っている」
「こ、こんにちは。八雲文也といいます。えっと曜子さんの、その」
「彼氏、でしょ? 曜子ちゃんを助けてくれた。七海君たら曜子ちゃんが大変なことになっていたこと全然教えてくれなくて、やっと最近になって教えてくれたの。ひどいでしょ。いきなり文子さんがゲームとか映画の脚本でセクシーなお姉さんキャラを登場させたことはないか調べてくれないかってお願いしてきて、何事かと思った」
「ああ、いやすみません」
 愚痴を言われて苦笑いするしかない誠司さんにこの二人の関係がなんとなく理解できた。
「それで今日はどうして僕を呼んだんですか? 仕事の話なら会社ですればいいのに」
「ああ、それはね……」
苦笑いをしていた誠司さんが神妙な面持ちに変わる。いい話ではなさそうだ。
「最近会社の同期で食事をした時、古川さんと曜子のこととか文子のことを色々話したんだ。その時、古川さんがね……」
 誠司さんが古川さんの顔を見る。それに応えるように古川さんが脇に携えていたノートパソコンを取り出し、起動をしながら話し出す。
「文子さんは亡くなる直前まで小説を書いていたの。登場人物の設定は曜子ちゃんと一緒に考えているって言ってた。結局主人公の女の子の設定と、書き出しの数行しか書かないまま文子さんは亡くなってしまったけどね。七海君にこのことを話したら見たいって言い出して、見たら見たでどうしてもあなたにも見て欲しいって必死で頼んできたから。亡くなった人の作品とはいえ社外の人に見せるのはいいことではないから内緒ね」
 渋々、といった感じで古川さんはノートパソコンの画面を僕に見せてくれた。
【理想の曜子とは……
・基本は曜子と一緒!
・間接キスはキスに入らない! (ママ)
・家族思いで優しい彼氏が欲しい! (曜子、ママ)
・なんか目がキラキラしてる! (曜子)
・体重は四十九キロ! (曜子) 本当は……(ママ) 絶対四十九キロ! (曜子)
・小説家になりたい(ママ) しょうがないなぁ(曜子)
・気に入った男の子には積極的にアタック! (ママ)
・毎日七時間以上は寝る(ママ)
・得意教科は数学(曜子)
・妹が欲しい! (曜子)
・滅多なことでは怒らない(曜子)
・ネイルとかマニキュアとか爪をきれいにしてみたい! (曜子)
・高校三年生、大人! (曜子、ママ) 進路のこと書きたい(ママ)
・ママが書いた本が大好きで、その内容は全部知ってる(曜子、ママ)
・デートには白いワンピースを着ていく! (ママ) ちょっと恥ずかしいからたまにね(曜子) 麦わら帽子もかぶる! (ママ)
・ママとパパが大好き! (曜子)
・お父さんともっと仲良くなりたい(曜子)
・ママがいなくなっても元気いっぱい! (ママ) あと五十年くらい先だね! (曜子) 】
 この次のページに、主人公の女の子が自販機でお金が足りずに困っている男の子と出会うところで物語は終わっている。
「これが、小説?」
「人物設定だけ。文子さんはいつもこんな感じで登場人物の設定を箇条書きで書き出してから物語を作っていた。今度の小説は曜子ちゃんをモデルにした女の子を主人公にするつもりで、理想の曜子ちゃんを曜子ちゃんと二人で作っていたみたいね。隣に書いてある名前はどっちが考えたかの印だと思う」
「これは……」
「どう思う? 文也君」
 厳しい面持ちのまま誠司さんが僕に尋ねる。
 曜子さんは何故か初対面の僕に高校三年生だと言った。間接キスなんて気にしなかった。理由も分からず目がキラキラしていた。他にも挙げればきりがないほどこの設定に忠実だった。よく考えてみればおかしな点はたくさんあった。僕は都合よく解釈していただけだったのだ。
 何より小説家になりたいという夢、そして文子さんがいなくなっても元気いっぱいという設定。そんなわけないと思っていた仮説がいっきに真実味を帯びてくる。動揺して暴れまわる心を落ち着かせようとするがうまくいかない。うるさいほどに心臓の鼓動を感じる。嬉しい時、照れくさい時のドキドキとは意味が違う。
「信じたくないです」
 僕は本物の曜子さんに恋をして、愛を持って頑張ってきた。六つの人格との偽物の恋も、罪悪感に(さいな)まれながらも曜子さんのためだと思って乗り越えてきた。曜子さんも僕のことを好きになってくれた。それがただの設定通りだったなんて、思いたくない。
「これはただの設定じゃない。曜子ちゃんのこうなりたいっていう望みと、文子さんのこうなって欲しいっていう願い。曜子ちゃんが七海君と仲良くなりたいって思っていたのは本当の事だし、八雲君を好きになったのだって、もともと彼女は君みたいの男の子が好みだったのよ」
 おそらくすべての事情を聞かされている古川さんが、僕らの心情を慮って励ましの言葉をくれる。その言葉で僕らは救われるが、一番の問題はそこではない。曜子さんが人格を降ろす力の制御が効かなくなって今の状態になったのだとしたら、その原因は自殺未遂による落下の物理的なショックではない。落ちる最中に日下部さんに切り替わっていたのだから。そうなると原因は精神的なもの。文子さんが亡くなったことへの絶望以外に考えられない。
 誠司さんも同じことを考えていたようだ。
「曜子は、まだ文子の死を乗り越えられていない」
 理想の曜子さんがずっと表に出ているということは、まだ力の制御ができていないということだ。本物の曜子さんはまだ救われていない。
「しかし、恋人になれば人格は消えるんじゃなかったのかい?」
 そうだ。これまでの法則通りなら理想の曜子さんの人格も僕と恋人になった時点で消えなくてはならない。そうなっていないのには理由があるはずだ。確か曜子さんは僕がどうすれば他の人格が消えるのか尋ねた時に言っていた。
「満足していない、から。曜子さんは僕が人格の消し方を聞いた時『満足すれば消えてくれるんじゃないかな?』って言ったんです。もしかしたら曜子さんは……」
 自分が本物の七海曜子ではないことを分かった上で本物を演じていた。その可能性は十分にある。日下部さんだって気がついていたのだから。
 結局この場で話し合ってもどうすればいいのか結論は出ず、僕らは帰宅することになった。
 僕が自宅に着いてしばらくすると文音も帰ってきて、ピンク色に塗られた綺麗な爪を見せびらかしてきたが、心の底から褒めてやることができなかった。

 その後はただ漠然と日々を過ごし、十二月になった。僕も誠司さんも、無理に今の曜子さんの人格を消して本物の曜子さんを引っ張り出しても、また自殺という道を選んでしまうのではないかということを危惧していたため、当面の間様子を見ることにしていた。もちろん、このままでいいとは思っていない。いつも明るくて元気がいい曜子さんのそばで、僕も誠司さんも心の片隅に疑念とやるせない思いを置いて楽しく笑っていた。
 冬休みも近づいてきた頃の放課後、僕は担任の先生に職員室に呼び出されていた。用件は冬休み明けに提出することになっている進路希望用紙について。夏休み明けの時はとりあえず【大学進学】と書いていたのだが、具体性ゼロだったのが僕だけだったとのことで、冬休み中にしっかり家族で話し合っておくようにと言われた。やりたいことが決まっていないのに話し合ってもしょうがないという思いと、今はそんなことより曜子さんのことをどうするかの方が問題だという思いを抱えながら、昇降口で待ってくれている曜子さんのもとに向かった。
「どうしても戻ってきてくれないの? あなたほどの才能の持ち主が演劇をしないなんて、演劇界の損失だと思う……」
 どうにも深刻そうな話をしていたので咄嗟に下駄箱の陰に隠れた。曜子さんと話しているのは演劇部部長の北沢さんだ。これまで何度も曜子さんに演劇部に戻るように声をかけ続けており、そのたびに断られていた。演劇の楽しさを語ったり、曜子さんの実力を褒めたり、手を替え品を替え勧誘していたがどれも効果なし。今回も曜子さんの「ごめんなさい」という声が聞こえ、失敗に終わったようだ。しかしいつもはここで引き下がるのだが、今日だけは違った。
「小説を書きたいから、だよね? どうして? 前は小説家にはならないって言っていたでしょう? 何があなたを変えたの?」
「ママがそう願っていたから」
「奥空文子が……今日のところはもういい。私、部活行くから。気が変わったら見に来て」
 九割以上そうなのだろうと思っていた疑念が十割の確信に変わった。曜子さんと文子さんの二人で考えた理想の曜子さんの夢は小説家。あの書き方から文子さんがそれを願っていて、曜子さんが小説の中なら仕方ないかと思っていることが容易に読み取れる。理由まで設定に忠実なのだ。
「文也君?」
「え? あ、はい」
「隠れても無駄だよ? 私、文也君の気配はすぐに分かっちゃうんだから」
 曜子さんは両手を腰に当てて胸を張り、少しだけ偉そうな態度をとる。そんな能力がある設定はなかったはずだから、北沢さんの姿を確認して下駄箱の裏に引っ込む瞬間を見られたのだろう。
「相変わらずすごいですね、曜子さんは」
「ふふん」
 僕は自転車を押しながら、上機嫌になった曜子さんと歩き出す。というか曜子さんは最近ずっと上機嫌だ。四日後に迫ったクリスマスイブが楽しみらしい。七海家では毎年イブにパーティーをしており、今年は僕と文音も招待されている。
 そして僕も文音もその日は七海家に泊まることになっていて、翌日のクリスマス当日、誠司さんは仕事。文音は朝から女友達と遊びに行く予定がある。南沢高校は二十三日が終業式のため、僕と曜子さんは予定がない。つまり、クリスマス当日は夕方まで彼女の家で彼女と二人きりという男子高校生なら誰もが夢見る最高のシチュエーションなのだ。
 だが僕はそこまで楽しみではない。確かに今の曜子さんのことは好きだし、一緒にいるのは楽しい。だが、家に二人きりになって仮にいい雰囲気になっても、本物でない曜子さん相手にどう接すればいいのか分からない。こんな気持ちのまま、曜子さんと二人きりのクリスマスは過ごせない。
 だから確認がしたかった。設定とほんの少しの書き出ししかない理想の曜子さんの人格を消す手段がそもそも存在するのか、存在したとして、人格を消した時、本物の曜子さんの精神状態は大丈夫なのか。だが聞き方が分からない。どんな質問をすればいいのか思いつかない。考えている間に曜子さんのマンションに着いてしまった。

 上機嫌に鼻歌を歌いながら僕の二歩ほど前を歩いていた曜子さんがマンションの敷地と歩道の境目で立ち止まり、僕の方を振り返る。
「ねえ、文也君。今日、ちょっと元気ない?」
「そんなことないですよ。仮にそうだったとしても曜子さんと一緒にいたら元気になります。曜子さんのこと大好きだから」
「ふふっ。私も文也君のこと、大好き」
 そういう設定だからですか? そんな言葉が口からこぼれ落ちそうになったがなんとか飲み込んだ。だが、曜子さんはそれを見逃してはくれなかった。僕のことが大好きで、よく見ている曜子さんは誤魔化せない。
「何か言いたそうな、私に聞きたそうな顔。ここ最近、そんな顔することが多いよね。文也君もお父さんも」
 先ほどまでの上機嫌で陽気な表情は消え去って、唇をかむくらいに口をギュッと閉めた、悲しいわけではないのに、瞳が揺れ動くように見える涙が溢れそうな曜子さんの顔。きっと曜子さんは勇気を振り絞ってこの言葉を紡いだのだと分かる。
「ずっと思ってた。文也君との毎日はものすごく楽しかったけど、このままじゃいけないってこと。ほんとはクリスマスが終わるまではこのままでいようかなって思ってたんだけど、文也君の不安そうな顔を見たら、言わずにはいられなかった。文也君は私のこと、気づいてるよね?」
 僕は頷く。何の準備もしていなかったが覚悟を決めなければならない時が唐突に訪れた。
「ちゃんとお話しするならうちに来て。明日以降もこのままでいいなら、今日はお別れにしよ」
 そう言って、曜子さんはマンションに入っていった。
 駐輪場に自転車を置いて僕も追いかける。どうすればいいのかは分からないが行く以外の選択肢はない。理由なんてない。奥空文子の作品の主人公たちなら、そうするからだ。僕は夏休みが明けてから今日までの三ヶ月以上の間で文子さんの作品を三十冊は読んだ。その主人公の男の子や主人公の女の子と恋仲になる男の子は皆、勇敢で優しくて行動力があった。僕もそれにあやかりたい。今までもそうやってうまくやってきたのだから。
 四〇六号室の前で、僕は誠司さんに電話をかけた。
「もしもし、すみません仕事中に。少しだけ時間いいですか?」
「うん。何かあったのかい?」
「曜子さん自身も気がついているような感じがします。それに僕と誠司さんが感づいていることにも気がついているみたいで。ちゃんと話がしたいから部屋に来て欲しいと言われて、今家の前にいます。行ってもいいですか?」
 静寂が訪れる。不思議なもので、人間という生き物は音が無くても、姿が見えなくても、相手の感情を推し量ることができるのだ。そんなくだらないことを考えて、自分を冷静にさせた。
 長い無言の葛藤を抜けてきた誠司さんが言う。
「君が望む終着点はなんだい?」
「本物の曜子さんと仲良くすることです。僕は理想の曜子さんと七海曜子を救うことを約束したんです。誠司さんが交際を認めてくれる条件も曜子さんを完全に元に戻したら、でしたよね」
「そうか……君は結論を出したのか。私はこのままではいけないと思いつつも、このままの方がもしかしたら幸せなんじゃないかって考えてしまっていたのに」
「僕だって完全に決心がついたのはついさっきですよ。それに、僕もこのままでもいいんじゃないかって考えたことはあります。でも、曜子さんが役者を目指さなくなったら前のお父さんとの繋がりがなくなって、本物の曜子さんは悲しむだろうなって思うんです」
「そうか、君はそんなところまで考えてくれたのか……今まで、曜子に言い寄る男の子はたくさんいたが、一番困難な時に近づいてきたのが君で良かったよ」
「えっと、ありがとうございます……?」
「私は今まで通り君を信じる。君なら、きっといい結末に曜子を導いてくれるはずだ。私もすぐに帰るけど、しばらくの間曜子を君に託すよ。家に着いてもリビングか文子の仕事部屋で待っているから、気が済むまで曜子と話すといい」
「いいんですか? 自分で言うのも変ですけど、今までの他の人格を消す時とはわけが違うんですよ?」
「曜子はママとパパが大好きなんだ。どちらかをないがしろにするなんて曜子じゃない。そのことを君はしっかりと理解してくれている。だから君なら大丈夫だ。頼んだよ」
「分かりました。でも、お父さんと仲良くしたいっていうのも本音だと思いますよ」
「君にお父さんと言われるにはまだ早いよ」
 誠司さんはわざとらしく笑って、電話を切った。
 インターホンを鳴らすと曜子さんが家に入れてくれて、そのまま曜子さんの部屋に通された。
 僕が制服の上に着ていたコートを脱ぐと曜子さんが受け取ってハンガーにかけてくれる。そして曜子さんはベッドに、僕は勉強机に向かう椅子に座る。何度も訪れたこの部屋での僕らのいつも通りの動きだ。コートは自分でかけると言っても曜子さんがやりたがるのでまかせていた。世話焼きなのは設定ではなく元からなのだ。
「いつから気がついていたの? 私が本物の七海曜子じゃないってこと」
 僕の方を見ずに曜子さんが言った。いつも元気いっぱいという設定でも今回ばかりはそうはいかないようだ。
「十月の初め頃、演劇部の部長の北沢さんに曜子さんが演劇部を辞めた理由を聞かれたんです。その時曜子さんの話も色々聞いておかしいなって思って、そのあと文子さんの元編集だった古川さんに文子さんが亡くなる直前まで書いていた小説を見せてもらって、ほぼ確信しました」
「そっか、あれを見たんだ。ちょっと恥ずかしいな」
「曜子さんは? いつ自分があの小説で書かれている理想の曜子さんだと自覚したんですか?」
「最初から違和感はあった。私は自分のことを十七歳だと思っていたのにお父さんや病院の人は十五歳だと言ったり、認識と記憶と現実に齟齬があった。私には七海曜子としての小さい頃からの記憶はちゃんとあるのにおかしなところも色々あった。日曜日の人、一華さんがノートに書いて教えてくれたの。曜子はこのベランダから自ら身を投げたって。その衝撃のせいで記憶があいまいになっちゃったんだって思ってた」
「それはいつ頃まで?」
「文也君と会った時もだよ。月曜日以外は自分じゃないっていうのは認識していたから君に助けを求めたけど、私自身も他の人と同じだって気がついたのは土曜日、奏ちゃんが消えた日」
「土門さん……」
「うん。文也君もお父さんも帰った後、頭の中で声がしたの。私と同じ声。心の中で対話ができたんだ」
「それが、本物の曜子さん? 他の人たちも以前曜子さんの体に降りてきた時はそんな声が聞こえたって言っていました」
「そう。少し話したらまたどこかに行っちゃって話せなくなったけど、それからたまに出てくるようになって、他の人格が消えていくたびにその頻度が増えていった。本物の曜子との対話の中で全てを知ったんだ」
「全て? 自分が小説の登場人物であること以外にも何かあるんですか?」
 曜子さんはこの部屋に入って初めて僕と目を合わせてから立ち上がり、制服の上にコートを羽織った。僕のコートも取って羽織るように促してきたので言われた通りにすると、曜子さんはベランダに出た。僕も続く。
 暖房の利いた暖かい部屋にいた分、先ほど外にいた時よりも寒く感じる。僕が両手をすり合わせて少しでも熱を発しようとしていると、曜子さんは僕の後ろに回って抱き着いてきて、僕の両手を自分の両手で包み込んだ。僕の首元から背中に頭を預けるように寄り掛かって、そのまま話を続ける。これくらいのスキンシップは慣れたものだ。
「自殺をしようとした理由」
「大好きだった文子さんが亡くなってしまったからだと思ったんですけど、違うんですか?」
「半分は正解。ママがいなくなって悲しかったから。でもね、人格が変わっている間も曜子にはちゃんと意識があって、ママが再婚してからずっとぎこちなかったお父さんが毎日病院に来てくれて、一生懸命話をしてくれるようになって嬉しかった私の感情も、文也君も毎日来てくれるようになって、どんどん君のことを好きになっていく私たちの感情も、全部感じ取っていた。だから、ママがいなくてもお父さんと文也君がいれば大丈夫だって曜子は言っていた」
 文子さんの死は本当に乗り越えていたのか。僕と誠司さんの力で。
「でも、残り半分って?」
「大好きな奥空文子の新たな物語が今後絶対に生み出されないこと。奥空文子の書いた物語を読むことが七海曜子の生きがいだから。奥空文子の物語が生み出されない世界に生きるくらいなら、自分も同じ世界に行ってしまいたい。そう考えて、そこから落ちようとしたんだ」
 ベランダの柵から下の地面を見る。以前も見たことがあるが、落ちようとした理由を聞いたからかもっと現実的に恐怖を感じ、一歩、二歩と後ずさった。曜子さんの体全部が僕の背面と密着する。
「私は小説家になるのが夢だった。でもそれを知ってからは書く理由が変わった」
「どういうこと?」
「本物の曜子を救うためには奥空文子の物語を生み出す必要がある。だから私が書こうとしたの。ママと一緒に考えた私を主人公とした小説の続きを。文也君みたいな男の子と出会って恋をするお話だから、文也君や妹の文音ちゃんと関わるのは大事なことだったけど、演劇をやっている暇はなかったから部活は辞めたの」
「そういうことだったんだ」
「文也君と過ごした日々をほとんどそのまま物語にしてるんだよ。でも、私には完結させられない。ハッピーエンドにしようって決めていたのに、書けないんだ。大事なことに気がついていなかった。書いて、私が消えたら駄目なの」
「曜子さんが書いた物語で希望を持ったとしても、曜子さんが消えてしまったら結局物語が作れなくなる。それだと意味がない」
 解決策は思いついている。だがそれはあまりにも無謀で世の小説家に失礼で、ばかばかしい。
「文子さんが書き始めて、曜子さんが続きを書いている物語をまるで奥空文子のように完結させて、なおかつこの先も奥空文子に似た作風で曜子さんが好むような物語を書いてくれる人が現れれば、全部解決ってことですね」
「そうだね」
 曜子さんが僕を強く抱きしめる。
「曜子さん」
 曜子さんは無言のまま動かない。
「無理ですよ」
「でも……」
「小説なんて書いたことない」
「私と君の物語は、私が無理なら君にしか書けない。ママは言ってた。人は皆物語を書けるって。無理だっていう人は書こうとしないだけ、初めから諦めているだけだって」
「書けたとしても、それが本物の曜子さんにとって希望になる奥空文子を感じさせる作品になるかどうか……」
「私が八割は完成させてるから大丈夫。君は残りとハッピーエンドを書くだけ。私、中学生の頃に一度だけ小説を書いてみたことがあって、古川さんに見てもらったらママの作品と間違えられるくらいだったってお父さんが教えてくれた」
「すごい才能。文子さんが小説家になって欲しいって言うくらいだから当たり前か」
「文也君、私は君のことが大好き。でもね、私も君も私が本物の曜子でないことを知ってしまったから、ずっとこのままの関係を続けるのは難しいと思う。いつか限界が来る。だから、私は君へのこの気持ちを本物の曜子にちゃんと渡したい。君と本物の曜子に幸せになって欲しい」
「……そのためには僕が書くしかないってことですか」
 経験があってコーチもいたバッティングやゲームとはわけが違う。シナリオ通りに動いたり話をしたりすれば良かった時とも違う。シナリオはあっても自分が小説を書くというイメージができない。それに一回で終わりではない。今後も書き続けなければならない。
 僕を抱きしめる曜子さんの腕を優しく振りほどき、体ごと後ろを向いて見つめ合う。曜子さんの目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。こんな泣き方を見るのは初めてで、僕の心を揺れ動かすには十分すぎた。
「どうして泣いているの?」
 赤く腫れた目を隠すようにうつむいて、曜子さんは答えた。
「文也君にひどいことをしてるから……君が小説を書ける理由を並べて、君が小説を書いてくれなかったら全部駄目になるみたいな言い方をして、無理やり書かせようとしてるから。わがままなのが分かってるから」
「分かっててやってたんですか? ひどい人だ」
「……ごめん」
「いいですよ。書きます」
 声もなく曜子さんが顔を上げる。元々の目のきらめきと涙のきらめきが合わさって、曜子さん史上最もきらめいた目で僕を見つめる。
「曜子さんを救うためだったら何でもします。今までだってそうでしたから」
 惚れた弱みというやつかもしれない。自信も根拠もないのに、泣いている曜子さんを見たら、その目で見つめられたら一瞬で気が変わってしまった。でも仕方のないことだ。僕の行動原理は曜子さんに惚れたことだから。初めて会った日、僕は曜子さんに情熱を注ぎ込むことに決めたのだから。灰色だった僕の人生を変えてくれた曜子さんに、残りの僕の人生を捧げても惜しくない。
「ただし、キスシーンは入れますから覚悟しておいてください」
 曜子さんはいつも通りの世界一の笑顔を見せてくれた。
 僕らが曜子さんの部屋に戻るとちょうど誠司さんが帰宅した。息を切らしながら冬だというのに汗をかいているところを見ると、大急ぎで帰ってきたのだろう。いくら僕を信頼して託すと言っても、曜子さんのことが心配だったのだ。曜子さんの赤く腫れた目を見て驚いていたが、何か吹っ切れたような僕ら二人の表情を見るといつもの優しい顔に戻っていた。
 誠司さんにも事情を説明し三人で相談した結果、パソコンを持っていない僕は文子さんのノートパソコンを借りることになった。曜子さんのノートパソコンから小説のデータを移す際、曜子さんが打ち込んだ文子さんのパソコンのパスワードが【SeijiLOVE】であることを知った誠司さんは泣いていた。
 誠司さんに自転車ごと車に乗せてもらって帰宅する。小説を確認しようとすると曜子さんが「ここで見ちゃ駄目」と恥ずかしそうに言うので仕方なく自宅で書くことにしたのだ。
 自室で文子さんのノートパソコンを開き、曜子さんが書いていた小説を確認した。曜子さんの言う通り、曜子さんをモデルにした主人公の女の子と僕をモデルにしたと思われる男の子が出てきて、僕らの間に起きた出来事がほぼそのまま描かれていた。ちょうど日下部さんの人格を消して次の日に登校したところまで書かれている。三ヶ月以上の遅れは最初の頃は一週間に一日しか書けなかったことや、曖昧な記憶やノートの記述を頼りながらしか書けなかったことによるものだろう。 
 そして感じる。確かに奥空文子の作風に似ている。読みやすくてどこか優しさを感じる文章で、奥空文子の作品だと言われたら間違える自信はある。
 登場人物の設定を見てみると僕をモデルにした男の子の設定が新たに書かれていた。年齢や生年月日、家族思いで特に妹のことを溺愛していること、妹の作るホットケーキが大好きなこと、元野球部であること、意外と勉強を教えるのがうまいこと、ゲームは弱いこと、ちょっとエッチなこと、優しいこと、頑張り屋なこと、主人公のことが好きなこと。こうして見ると少し照れくさい。
 主人公の理想の曜子さんの方にも設定が追加されている。好きな食べ物はお父さんのカレー、
 好きな色は白、僕をモデルにした男の子のことが大好き。僕への気持ち。言葉では伝えてくれるのに文章を見られるのは恥ずかしかったらしい。
 久しぶりの登校のシーンのあとは北沢さんや長谷と話した内容を書こうとしたがそれは駄目なことに気がついた。この物語は主人公の曜子さんの一人称視点で書かれているから、曜子さんがいない場面は書けない。逆に僕が知らない、曜子さんしか経験していないシーンも想像して書かなければならない。簡単ではないと分かっていたがこんなにも難しいとは思ってもいなかった。
 結局この日は、クラスメイトは戸惑いつつも入院前と同じように接してくれたということくらいしか書くことができなかった。

 翌日の土曜日は、一日中部屋に籠って小説を書いた。書いたというよりは考えていたと言った方がふさわしい状況で、一応三十冊以上読んだ文子さんの小説っぽいと自分で思える文章は、昨日の夕方と夜と今日一日をかけて千字くらいだった。
 翌日の日曜日、僕は再び曜子さんのマンションの近くの喫茶店にいた。隣には誠司さん、目の前には古川さんがいる。アドバイスをもらうため、誠司さんが無理を言ってお願いしてくれていたのだ。曜子さんが書き、僕が書き加えた小説を読み終わり、小さくため息をついてからコーヒーを一口だけ口に含んでから古川さんは穏やかな表情で僕の顔を見た。
「さすがは曜子ちゃんね。今すぐ作家としてデビューさせたいくらい」
「あ、あの、僕は?」
「八雲君も初めてにしては上手だと思うよ。まだたった千字程度とはいえ、言葉の使い方も文法も間違いはないし、私は読みやすいと思う」
「ほんとですか? ならもっと頑張れば……」
 古川さんは黙り込んで腕を組み熟考し始めた。当然誠司さんは事情を話しているから、僕が奥空文子のような作品を生み出せるようにならなければならないことは分かっている。手放しで褒められるようなものではなかったから次の言葉を探しているのだ。
「やっぱり駄目ですか?」
 再び僕を見た古川さんの目はとても真剣で、僕らのいるテーブル席が緊張感に包まれる。
「このクオリティで一本完結させられるなら、高校生新人作家として編集をつけて育てていきたいとは思う。高校卒業までにはアンソロジーの中に短編を一本入れるくらいはできるかもしれない。でも、奥空文子みたいになりたいのなら話は別。八雲君は今高校二年生だよね? しかも勉強も結構できる」
「えっと、はい。一応勉強も頑張っているつもりですけど」
「中学二年生の語彙力って想像できる?」
「え? いや、想像できないし昔の自分がどれだけ言葉を知っていたかも覚えていません」
「文子さんはこの物語を中高生向けの物語として書くと言っていた。しかもエンタメ寄り。そういう物語を書く時はあえて難しい言葉を使わず中高生なら誰でも読める程度にするの。国語の勉強のために書いているわけではないから、辞書を引かないと分からないような言葉や慣用句は使っては駄目。【痘痕(あばた)(えくぼ)】なんて普通の中高生は知らないの。そんな表現ばかり出てきたら読む気が失せちゃう」
 確かに、短所までも長所に見えてしまうくらい好きだということを表現したくて色々調べてこの言葉を見つけたが、読む側としてはいちいちそんなことしたくない。文子さんの作品にはそういった難しい表現が出てくる作品もあったが、それはもっと文学好きの人のための本だったのだろう。
「それからもう少し心情の描写は欲しい。多分君も文子さんの作品を読んだから意識して頑張ってはいるんだろうけど、まだ足りない。難しい表現を使わずにもっと詳しく」
 古川さんの言う通り意識はした。それでも足りないというのは単純に僕の技量が文子さんの足元にも及ばないということだ。当然のことではあるがそれで諦めるわけにもいかない。用意していたA5サイズのメモ用紙に先ほどの言葉の使い方も含めてメモをしていく。
 僕が書いたたった千字ほどの文章に対して古川さんによる駄目出しとアドバイスは二時間ほど続いた。とても素人の高校生を相手にしているとは思えないほどの熱量に圧倒されたが、有意義で希望を持たされる時間だった。
 仕事のない時ならいつでも見てくれるという約束をし、連絡先が書かれた名刺を僕に渡して古川さんが喫茶店をあとにする。
「ありがたいけど、どうしてこんなにアドバイスしてくれたんでしょう」
 びっしりと古川さんからのアドバイスを書き込んだ十枚のメモ用紙を整理しながら誠司さんに訊いてみた。
「彼女も文子の大ファンだからね。若手の頃、小説の新人賞に応募された文子の作品に惚れこんで、その熱意が編集部を動かして文子の作品を大賞にしたんだ。それからずっと文子の担当編集をやっている。部署異動の話があってもどうにか上を丸め込んで文子の担当を続けていたんだ。文子が亡くなった時、曜子の次に大泣きしていたのは彼女だ。彼女もまた、奥空文子のような作家を求めているんだよ。だから君に才能を感じて期待しているんだ」
「才能って、僕をやる気にさせるためのお世辞だと思いましたけど」
「彼女には十歳と六歳の子供がいる。旦那さんがいるとはいえ、お世辞のために子供を放って二時間以上も無駄話をするような人ではないよ」
「……じゃあ少しだけ自信を持って書いてみますね」
 それからの僕は高校生としての生活をしながらも、常に頭の中では小説のことを考える生活になった。クリスマスイブは約束通り曜子さんの家に行ったが、プレゼントの交換と誠司さんが用意してくれた料理を頂いただけで曜子さんの相手は文音に頼み、文子さんの仕事部屋に籠って小説を書いた。翌日は文音と一緒に家を出て帰宅し、自室に籠って小説を書いた。その後も外には出かけずに小説を書き続けた。曜子さんはスマホに応援のメッセージを毎日送ってくれた。 
 お正月は曜子さんと初詣に行って、全てうまくいくことを祈った。
 年明けから始まった冬期講習には気分転換のために一応通ったが、勉強なんてせずにノートに色々な表現の練習をしたりセリフや心情を考えたりしていた。そして休んだ感じもせずに冬休みが終わり三学期が始まった。授業中も冬期講習の時と同じくノートに小説のことを書いて過ごした。
 冬休みの宿題だった進路希望用紙には小説家になりたいと書いて提出した。担任の先生からは正気かと心配されたが、古川さんと誠司さんの名刺を見せたらその後は頑張れと応援された。
 僕が書いた小説は一日ごとにすべて古川さんに送っていて、そのたびに添削やアドバイスをもらっている。仕事が休みの時は、という約束はいつの間にか忘れられていた。古川さんの指導も段々と熱を増していきつらいこともあったが、駄目出しをされること、アドバイスを受けること、褒められること、小説を完成させるために行う古川さんとのやり取りが楽しいと感じるようになっていった。いつしか睡眠時間をぎりぎりまで削って小説の執筆に没頭するようになった。
 登下校とお昼ご飯はこれまでの通り曜子さんと一緒だった。ずっと曜子さんの心情を考え続けた。朝僕と会った時、校舎に入って別れる時、お昼ご飯を食べる時、校舎で偶然出会った時、一緒に帰る時、家の前で別れる時、それぞれのシチュエーションでの曜子さんの気持ちを言葉で表そうと考えた。学校に通うのも時間がもったいないと思うくらい、執筆に没頭したくなっていたが、曜子さんと顔を合わせるためだけに通っていた。
 小説を書いていることはとっくに文音にばれていたので文音にも読んでもらうことにした。僕抜きで曜子さんと一緒いることも多かったし、僕が知らない曜子さんを知っているから心情理解の手助けになる。文音は僕が書いた部分はもちろん、曜子さんが書いた部分でもとても可愛い存在として書かれており、大変満足していた。
 そんな文音からのアドバイスは、「曜子ちゃんはもっとお兄ちゃんのことが好き」だった。文音と二人きりの時に僕のことを話す際の表情や、言葉、仕草を教えてもらい、照れくささから自然とセーブしてしまっていた僕への好きの気持ちの表現をもっと強いものに変えてみたところ、古川さんから好評を得ることができた。
 毎日が戦いのようだった。書いては消して、たった五十文字程度でも納得のいく文章が出来上がるまで数時間かかることもあった。睡眠も、食事をするのも、風呂に入るのも、時間がもったいないと思うようになり、二月になる頃にはたびたび仮病で学校を休むこともあった。
 書くのが楽しかった。考えた末にいい文章を思いついた時は闇の中から一筋の光を見つけたみたいで心が晴れた。曜子さんの心情を考えるたびに、僕の中の曜子さんへの想いが強くなった。僕にとって執筆は一つの愛情表現でもあった。僕が感じた曜子さんを、僕が感じた文子さんと同じように表現する。それが何より幸せだった。
 何物にも縛られず小説だけに向き合いたいと思うようになっていた。
 それに伴って古川さんからの駄目出しが減り、褒められることが増えた。週に二日は学校をさぼり執筆に集中した。学年末のテストは、学校にいる間に木島と長谷に最低限のことを教えてもらって赤点だけは回避できた。寝る間も惜しんで、食事もろくにとらずに、心配する曜子さんや両親や文音のことを意に介さずに書き続けた。

 こんな生活をしていたことが(たた)ったのか、三月になる頃に僕は体調を崩し、熱を出した。つらいが嬉しくもあった。合法的に学校を休むことができ、小説を書くことができる。そう思って休むこともせずに書き続けた。曜子さんのために立ち止まるわけにはいかなかった。
 いつしか体に力が入らなくなって、視界が真っ暗になった。気がついたら僕は病院にいて、点滴を打たれた状態でベッドに寝かされていた。僕の目が覚めたことに気がついた母さんがナースコールを押し、お医者さんや看護師さんが病室に入ってくる。
 診察を終えると睡眠や食事の不足、そして過労が原因だと言われ、二日ほど入院して安静にすることになった。両親は着替えなど必要なものを取ってくると言って一旦家に戻り、文音だけが病室に残った。だが文音もスマホを少し操作していたかと思えばすぐに病室を出て行ってしまう。
 入れ替わりで入ってきた曜子さんは僕が寝ているベッドの真横に椅子を置いて座った。
「曜子さん、来てくれたんですか? というか今日って平日? 今何時? 学校は?」
 辺りを見渡したが時計はなかった。スマホを探しても見つからない。
「今は土曜日の夕方。文也君が病院に運ばれたのが昨日の夕方だからほぼ丸一日寝てたんだよ」
「そうですか。でも寝たら少し楽になりました。あの、僕のスマホ知りませんか? なかったら文音を呼んでください。母さんたちにパソコンを持ってくるようにお願いしたいんです」
「駄目だよ文也君。お母さんたちはパソコンもスマホもノートもペンも絶対に持ってこない。君は安静にしなきゃいけないの」
 珍しく曜子さんが少し怒り気味の口調で言った。滅多に怒らないという設定のはずなのに怒っているということは、よっぽどのことなのだろう。
「でも、書かなきゃ。立ち止まりたくないんです」
「どうして? 何でそんなに急いでるの?」
「だって、いつか限界が来るって、曜子さんが言うから。曜子さんとの関係がなくなっちゃうのが嫌で、急がなくちゃって思って……」
 曜子さんは虚を突かれたように驚いた表情をする。その後、目を閉じて冷静に自分の発言を振り返っているようだ。目を開けた曜子さんが僕の顔の方に自分の顔を寄せる。
「ごめんなさい。文也君を焚きつけるために余計なことを言っちゃった」
 油断していた、と言うより考える余裕がなかった。曜子さんの唇が不意に僕の唇を奪う。
 一瞬にも、永遠にも感じられる時間だった。唇を離した曜子さんは、呆気にとられる僕を見ながら微笑む。
「こんなことをして、もう限界だから君と離れたいなんて言うと思う?」
「……良かった。僕の杞憂だったんですね」
「うん。だから今はゆっくり休んで、ゆっくり書いて。文音ちゃんから聞いたよ。全然寝てなくていつもフラフラしてたって」
「分かりました。今は休みます。でも体調が戻ったらできるだけ早く書きますよ。小説を書くのが楽しくなってきたんです。曜子さんのためってことを抜きにしても書くのが楽しくてしょうがないんです」
 僕の顔を見つめていた曜子さんが、先ほどと同じような虚を突かれた表情をする。でもすぐに笑顔になった。とても嬉しそうだ。
「やっぱり文也君に頼んで正解だった。書くのが楽しくてしょうがないってママも言ってた。言うときの表情までそっくり」
「それは光栄です。文子さんの文章って読みやすいから簡単に真似できそうに思えちゃうんですけど、いざ真似て書こうと思ったらすごく難しくて。でも、今少しだけ近づけた気がします。この気持ちで書いていていいんだって思ったら、もっと頑張れそうです」
「うん、無理しない程度に頑張ってね。ママも頑張りすぎて病気になっちゃったんだから」
「大丈夫。もう心配はかけないようにします。もう少しですから、僕が綴るハッピーエンドを楽しみにしていてください」
 その後の二日間は本当に何もせずに安静にしていた。曜子さんはずっとそばにいてくれて、文子さんや前のお父さんである晴道(はるみち)さんとの思い出をたくさん話してくれた。晴道さんの死後、文子さんと一緒に出版社に行くことがあり、文子さんと古川さんが打ち合わせに集中してしまい退屈になったので社内をふらついていたら迷子になってしまい、泣いていたところを見つけて文子さんのもとに連れてきてくれたのが誠司さんで、それが文子さんと誠司さんの出会いだったことも教えてくれた。
 分かっていたことだが理想の曜子さんにも本物の曜子さんの記憶はきちんとある。一部認識違いがあることもあるのだが基本は曜子さんと一緒なのだ。
 だから今の曜子さんが抱いている感情は本物の曜子さんと相違ないと思っていいと曜子さんは言っていた。きっと本物の曜子さんも僕のことを好きになる。それが僕らの間の合言葉になった。

 退院後、残り僅かな三学期をきちんと学校で過ごし、睡眠をしっかりとった上で小説を書いた。三月の末、書き始めてから約三ヶ月後、小説は完結し古川さんからもこれなら問題ないとお墨付きをもらうことができた。
 全部で十五万文字程度の作品のうち僕が書いたのは二万字にも満たない。たったそれだけを書くのに三ヶ月以上かかった。それでも充実していた。四百字詰めの原稿用紙だと五十枚ほどになる文量、仮にこれだけの文章を書いて来いと宿題に出されたとしたら今までなら嫌気がさしていただろう。今なら間違いなくウキウキで書くことができる。
 古川さんに認められたとはいえ、僕はゼロから小説を生み出したわけではない。文子さんが生み出して、曜子さんが書いて、僕は最後の仕上げをしただけなのだ。僕に小説家としての技量があるかどうかはまだ分からない。それでも古川さんは「とりあえず自由に一本書いてみて。いつでも見てあげる」と言ってくれた。誠司さんは感動して泣いていた。文子さんの遺作が完成したのだから仕方がない。文音は「お兄ちゃん天才」と褒めてくれた。
 そして今、僕は曜子さんの部屋のベッドの上に座っていて、曜子さんは椅子に座って紙に印刷された僕らの小説を読んでいる。曜子さんは漫画は電子書籍でもいいけど小説は断然紙派なのだ。パソコンやスマホの画面だと目が流れてしまうらしい。
 曜子さんは自分が書いた部分から無言でじっくりと読んだ。僕は曜子さんが小説を読む横顔を見続けた。時に微笑み、時に真剣な表情になり、三時間ほどたったところで大きく息を吐いて背もたれに寄りかかり天井を見つめる。未読の紙はまだ残っている。きっと曜子さんが書いた部分を読み終えたのだ。これから僕が書いた部分に入る。勝負が始まる。
 難解な言葉を使わない、心理描写を詳しく丁寧に、古川さんから指摘された二点は曜子さんが書いた部分も参考にしながらかなり気をつけて書いた。言葉の難しさの基準は文音に見てもらった。曜子さんの心情も文音や誠司さんに助言を求めながら考えた。文子さんが書いた中高生向けの作品も読み直して参考にした。
 そして最も気をつけたのが、奥空文子の作品の登場人物は明確な悪役以外は優しさにあふれているということだ。だから作品自体も優しさに包まれている。読み終わった時に心が温かくなって、つらいことがあった時に読み返したくなる。そんな作品になるように書いたつもりだ。
 部屋の中では曜子さんが紙をめくる音と、クリスマスに文音がプレゼントした熊のキャラクターが描かれた置時計の針の音だけが微かに聞こえている。
 落ち着かない。古川さんにお墨付きをもらっても、誠司さんを感動させても、文音に天才と言われても、曜子さんが認めてくれなければ意味がない。僕の書いた小説から奥空文子を感じ取って、希望を持ってくれなければ失敗だ。
 曜子さんは、二万字ほどの僕が書いた部分を一時間かけて読んだ。文章どころか単語一つ一つを大事に大事に読んだ。
 読み終えた曜子さんはベッドの上、僕の隣に腰かけた。小説では全てがうまくいっていて、キスをしてハッピーエンドになる。
「文也君は、ママの小説から何を一番感じ取った?」
 早速僕が書いた小説とは違う言葉が出てきた。でも大丈夫。多少流れが変わっても最後が同じなら問題ないことは経験済みだ。優しさ、と正直に答えると、曜子さんは優しく微笑む。
「私も同じ。だから私もそうなるように意識して書いていたし、文也君が書いた部分からも感じ取れる」
「それじゃあ……」
「でも、駄目なの」
 もう春なのに全身に一瞬だけ寒気を感じた。息ができなくなる感覚がして、曜子さんから目を逸らす。失敗の二文字が脳裏に強烈に浮かび上がる。曜子さんはそんな僕の手を取って、自分の方を向くように促した。キラキラと光る目が僕を見つめる。
「私も今気がついた。七海曜子が本当に求めていたもの」
「本当に求めていたもの……?」
「パソコンに保存してあるやつを読んでみて。七海曜子はそれを読むのが好きだったの」
 意味がよく分からなかったが、一旦元の場所に戻していた文子さんのノートパソコンを確認しに文子さんの仕事部屋に入ると、日下部さんを消した時のように誠司さんが仏壇の前に座って分厚い本を見ていた。今度は卒業文集ではなく、晴道さんが生きている時に撮られた家族写真のアルバムだ。
「どうだった?」
「僕の文章から文子さんと同じような優しさを感じるって言ってくれました。でも、駄目だって。本ではなく、パソコンに入っている文子さんの作品を読んで欲しいそうです」
 成功したわけではないが失敗と決まったわけではない。一縷(いちる)の希望を携えて誠司さんと一緒に文子さんの作品が保存されたファイルを開いた。無数の作品が書かれた順番通りに並べられている。どれを見るべきか迷っていると誠司さんが何か思い出したように呟く。
「そういえば、昔古川さんから聞いたことがある。文子は完結したデータを送る時、必ず最後に関係ない文章を入れてくるって。消す作業が増えるから最初は面倒だったけど、いつしかそれが楽しみになっていたって言っていたよ」
「一番最後、ですね」
 手始めに、陸田文子名義で書いた火村さんが主人公の作品を開き、最後のページを確認する。本文が終わって空白を置いた後にそれは書かれていた。
【お母さん、お父さんへ 今までありがとう。まだ不安はあるけど、私、小説家として生きていくことに決めました。きっと恩返しするからね】
 次に水無月さんが出てくる作品を確認した。
【晴道君へ 図書室の会話のシーン、ほんの少しだけ私たちが高校生の時の出来事を入れました。少し恥ずかしいけど、どこか探してみてください】
 次は木田さんだ。
【晴道君へ お腹の中にいる子の名前、曜子なんてどうかな? 曜という字には月曜日とかの曜日の意味の他に、日の光が美しく輝くっていう意味があるんだよ。なんとなく晴道君っぽいよね。子は私の要素。明るい子に育ってくれたらいいな】
 金井さんの小説を見た。
【晴道君へ 曜子も大きくなってきたね。晴道君の劇に連れて行った時はいつも目を輝かせて晴道君を見ています。曜子も役者を目指すかな? でも私としては小説家もありだと思っています。五歳にしてはいい文章を書くんだよ。曜子へ あなたには小説家の才能がある。私の娘だから間違いない。そしてあなたには役者の才能がある。晴道君の娘だから間違いない。親の勝手な願いだけど、どちらかを目指してくれたら嬉しい】
 次は土門さん。
【曜子へ あなたが役者になって私の作品を演じたいと言ってくれた時はすごく嬉しかった。パパもきっと天国で喜んでいるはず。頼りないママと二人きりで不安なこともあると思うけど、頑張っていこうね】
 日下部さんの作品にはメッセージはなかった。提出先が古川さんではないから書かなかったのだろう。僕はさらに後に書かれた作品を確認していく。
「文也君? もう何をすればいいのかは分かったんじゃないかい? 文子は最後に大切な人へメッセージを残していたんだろう。だから君も曜子に向けてメッセージを残せばそれで……」
「いいんですか? 誠司さんへのメッセージも……」
「恥ずかしいんだ。見てしまったら君の前でどんな姿を晒してしまうか分からない。後でゆっくり確認するよ。私はリビングにいるから」
 照れくさそうに苦笑いしながら誠司さんが部屋を出て行った。悪いとは思いつつも興味が勝ってしまい、誠司さんの名前が出てくる作品を探してしまった。これが初出だ。
【曜子へ ママは再婚することにしました。迷子の曜子を助けてくれた誠司君。ママより三歳年下だからおじさんなんて呼んじゃ駄目よ? とても優しい人なの。きっと曜子にとって大切な新しいお父さんになってくれるはず。晴道君へ 君のことは忘れない。君のことはずっと好きなまま。あなたは永遠に曜子のパパ。誠司君へ 私が晴道君のことが好きなままでも構わないと言ってくれてありがとう。あなたのことを愛している。きっといつか乗り越える】
 次に今僕が書いている作品の前に書いた作品。つまり生前の奥空文子が最後に完結させた作品の最後のページを見た。
【曜子へ ママはもう長くないそうです。あなたが去年きまぐれで書いた小説、何も言わずに理絵(りえ)ちゃんに見せたら『いつの間に打ち合わせにない新作を書いていたんですか?』って驚かれたよ。やっぱりあなたには才能がある。だから最後の作品は小説家を目指すあなたを主人公にした作品にしたい。一緒に設定を考えようね。家族思いの優しい男の子と恋をして温かい家庭を作るの。晴道君や誠司君みたいな優しい男の子と出会えるといいね。誠司君へ 自分も仕事で忙しいのにいつも支えてくれてありがとう。君が私の作品を褒めてくれるたびに嬉しくなってやる気が出ます。曜子のことをお願いします。世界で一番愛してる。晴道君 もうすぐそちらに行きます。誠司君のこと、たくさん教えてあげます。嫉妬するあなたを見るのを楽しみにしています。そして何十年後かに誠司君が来るのを一緒に待ちましょう。そしてもっと先の未来で、曜子と曜子が好きになった男の子が来るのを待ちましょう。もう少しだけ見守っていてください】
 パソコンの画面を僕が書いていた小説の執筆用の画面に切り替えて、大きく息を吐いた。僕は文子さんのことは曜子さんと誠司さんの話とたまのメディア露出でしか知らない。晴道さんのことなんて全くと言っていいほど知らない。でも、こんな少しの文章を読んだだけで二人が優しい人だったことが分かってしまう。小さな頃の曜子さんの笑顔が想像できてしまう。誠司さんの優しさがこれまで以上に分かってしまう。こんなものをずっと見せられていた古川さんが、仕事でもないのに僕に親身になって協力してくれる理由が分かってしまう。
 自分には何も関係ないのにあふれてくる涙をこらえながら、愛のメッセージを打ち込んだ。文子さんの部屋にあったプリンターで最後のページだけ印刷して曜子さんの部屋に持っていき、先ほどと同じ姿勢のまま待ちわびていたように微笑む曜子さんに渡してあげた。
「曜子さんへ」
「ちょ、声に出すんですか? 恥ずかしいな」
「声に出した方が私の中にいる本物の曜子に届きやすいんだよ。曜子さんへ。八月の始めに出会ってから半年以上過ぎました。性格も顔も声も仕草も全部に一目惚れでした。こんなに誰かを好きになったのは生まれて初めてです。本物の曜子さんを救うために頑張ってきたのも、もうすぐ終わりそうです。小説を書くのは初めてのことで大変でした。でも、楽しかった。編集の古川さんから文子さんはこうだったって話を聞くたびに自分の駄目さを感じていたけど、そのたびに文子さんのことを尊敬するようになっていきました。自分もこうなりたい、こんな風に読みやすいのに深みがあって、心を温かくする優しい物語を書きたい、そう思うようになりました。僕は小説家になります。目指すは実写化もしくは舞台化です。もちろんヒロインは曜子さんに演じてもらいます。まだ何の実績もない僕だけど、曜子さんがそばにいてくれたらいくらでも頑張れます。誠司さんにはいつでも挨拶できるけど、遠い未来で文子さんと晴道さんにも一緒に挨拶に行きましょう。曜子さん、僕は必ずあなたのことを好きになる。あなたが僕のことを好きになってくれることを信じています。大事な娘としてあなたのことを愛している誠司さんが気がつかなかったくらい、曜子さんと同じな理想の曜子さんが、そうなるって言っていたから」
 読み終えた曜子さんは印刷された紙をベッドの上に置いて僕の方を向いた。目を閉じて、ほんの少しだけ唇を突き出している。
 僕は曜子さんの背中に腕を回して優しく抱き寄せ、曜子さんの唇に僕の唇を重ねた。曜子さんの腕が僕の背中に回る。時間を忘れるくらいそれは続いた。
 やがて、曜子さんの腕が垂れ下がり、体が倒れかかるのが分かった。唇を離し、体を支えることに集中してから、再び曜子さんの顔を見ると目が合った。いつもの何故だかキラキラしている目ではない。涙できらめく綺麗な目が僕を見つめている。
「曜子さん、覚えてる? 僕の誕生日に、何でも一つだけ願いを叶えてくれるって言ったこと」
「うん。ずっと延期していたよね? 今何か叶えて欲しいことがあるの?」
「うん」
 曜子さんの体から手を離し、ベッドに座っている曜子さんの正面に跪いた。
「初めまして、七海曜子さん。僕と、友達になってください」
 笑顔で頷いてくれた曜子さんともっと詳しく自己紹介をし合った。
 曜子さんは役者を目指しているそうだ。
 のちに僕と曜子さんは古川さんの指示の下、出版に向けた改稿作業を行った。曜子さんは僕も役者を目指すというとんでもない条件を飲むなら役者と小説家の二刀流を目指してもいいということのようで、僕のこれからの苦労も知らずに古川さんは大喜びしていた。代わりに僕らの本名そのままだった登場人物の名前だけは変えさせてもらった。そのまま出版されたら恥ずかしくて死んでしまう。
 やがて世に出ることになった曜子さんの視点で書かれた僕らの七ヶ月の物語の作者名は【七海文子】。僕と曜子さんは初めは三人の連名にしようとしていたのだが、古川さんに止められた。それぞれ個人名義でデビューさせて、それなりに知名度を上げた後にネタ晴らしをした方がインパクトがあるとのことだ。誠司さんも了承しており、ビジネスというのはそういうものらしい。発表しづらくなるから絶対に破局するなと念を押された。
 その心配はない。理想の曜子さんが言っていたように、僕は曜子さんのことを好きになったし、曜子さんは僕のことを好きになった。
 
 ある日の休日、曜子さんの部屋で曜子さんと文音が新しいマニキュアを試している。今日の色は白だろうか。キッチンからは誠司さんがお昼ご飯に作っているカレーのいい匂いが漂ってきている。今日の隠し味は予想がつかない。文子さんの仕事部屋で僕は空腹でお腹を鳴らしながら小説を書いている。行き詰まった時にはこの作品を見る。タイトルは曜子さんがつけた。
 僕は今、僕が綴ったハッピーエンドの先にいる。