人生とは何のためにあるのだろう。
目の覚めるような衝撃的な出来事とか、人生を変えるような出会いとか、情熱を注ぎ込める何かを見つけることとか、そういったものは全くないまま高校二年生になった。
二年生になると校内にある噂が流れ始めた。すべて新入生に関することだ。
「千年に一人レベルの美少女がいるらしい」
「超人気作家の奥空文子の娘がいるらしい」
「演劇部にまるで登場人物本人のようなとんでもない演技をする子が入ったらしい」
そんな子たちとお近づきになれたらさぞ華やかな高校生活になるのだろうなと思いつつも、高校生になって一年ですっかり灰色に染まり切ってしまった僕は、本当は興味津々なくせに自分には無理だと諦めて興味がないふりをした。青春というものに対して怖気づいていたのだ。
その後も、芸能事務所のオーディションを受ける子がいるとか、もう十人の告白を断っている子がいるとか、自殺未遂をした子がいるとか色々な噂が校内にはあふれていたが、色々諦めていた僕はもう関心を持つことはなかった。他人のことはもちろん、自分がしたいことも分からず、夏休みになる前に宿題として渡された進路希望用紙には、何も書くことがない。
僕を主人公にして、僕の人生を辿る小説を書いたら、つまらないと思う。
八月初旬の月曜日。そこそこの進学校らしく行われている夏期講習を午前中で終えると、友人の木島と長谷に遊びに行かないかと誘われた。二人は同じ中学で野球部だった友人で、木島は今も野球を続けていて日々ボールを打ったり投げたりしている。長谷はeスポーツ部なるものに入部して日々パソコンの中で銃を撃ったり爆弾を投げたりしている。
二人揃って部活が休みのときは部活をやっていない僕とともに遊びに行くことが多い。特にやることのない僕がその誘いを断ることは基本的にないのだが今日だけは駄目だった。
「ごめん、今日はこの後に予定があるんだ」
「なにぃ? 女か?」
「部活やってないからって女遊びに勤しむとはずるいぞ、文也」
木島と長谷が問い詰めてくる。野球部は女子マネージャーがいないし、eスポーツ部も男子しかいないので二人とも女子に飢えているらしい。女に会いに行く、というのは間違いではないので「まあ、そんなところ」と言って二人と別れて学校を出た。「成果は報告しろよ!」という長谷の声が背中の方で響いた。
気温三十五度という猛暑の中、制服のワイシャツが汗でべたつくのを我慢しながら三十分ほど自転車を漕ぎ続けてたどり着いたのは隣町の大学病院。今朝散歩中に転んで足を骨折してしまった僕のおばあちゃんが入院している。朝学校に向かう前に連絡を受けたが、命に別状はないということで夏期講習が終わってからお見舞いに行くことになっていた。
足以外は有り余るほど元気なおばあちゃんに安心し、熱中症にならないようにと塩レモン味の飴をもらって病室を出た。塩分はありがたいが熱中症対策には水分も必要ということで病室が並ぶフロアの一角にある自販機コーナーに立ち寄った。
椅子やテーブル、テレビも置いてあって僕のようなお見舞いの人間や比較的体調の良い患者さんの憩いの場となっているようで今も数人が椅子に座ってテレビを見ている。
小学校高学年の頃から使っている年季の入った財布から小銭を出して自販機に入れ、ペットボトルのスポーツドリンクのボタンを押したが反応がない。
「やば、足りない」
僕が入れた百五十円に対しスポーツドリンクは百六十円。誰も見ていないとはいえ恥ずかしさを感じながら財布を広げて中を探ったが、出てくる小銭は一円玉だけ。諦めて百二十円の水にするかそれとも千円札を使うか悩んだ末に返却レバーに手を伸ばした時だった。
「はい、どうぞ」
優しくて、よく通って、つい聞き惚れてしまう声とともに、僕の視界に透き通るように白く、細く、綺麗な手が入り込んできた。その手には十円玉が握られている。
僕はいつの間にか隣にいたその声や手の主の顔に目が引き寄せられる。
ぱっちりとした大きな目はキラキラと輝いていて、長いまつげがその目を際立たせる。綺麗なラインを描く鼻。艶のある唇。白くて瑞々しい肌。肩甲骨辺りまで伸ばし、細めのひと房だけ編み込んだ部分がある髪は今まで見たどの女性の髪よりも美しく、まさしく千年に一人と言う表現がふさわしい同い年くらいの女の子が、呆然とする僕の顔を不思議そうに見つめている。
「十円足りないのかと思ったけど、違う?」
しばらく彼女と見つめ合った後、彼女の言葉でハッとする。
「あ、ああ。うん。そうです、小銭がなくて。でも……」
千円札ならあるから……と言うのはやめた。せっかくこんなに可愛い子が話しかけてくれたのだから、ありがたく十円を借りてお近づきになるきっかけとしたい。
「でも?」
「いや、諦めて水にしようかなって思ってたんですけど、この後自転車で帰るからスポーツドリンクの方が良くて、貸してもらえたら嬉しいです」
僕がそう言うと彼女はにこりと微笑みながら小銭の投入口に十円玉を入れてくれた。僕がお礼を言いながらスポーツドリンクのボタンを押すと、彼女はさらに小銭を投入して自分の分の飲み物を購入する。
「生クリーム入りキャラメルラテ」
甘そうなドリンクを手に入れて嬉しそうな笑顔を見せる彼女はとても元気そうだし、白く涼し気なハーフパンツにパステルブルーの半そでシャツ、その上に薄めの白のカーディガンを羽織っていて、入院患者の人が着ているような服装でもない。僕と同じくお見舞いの人だろうか。
「今帰るところ? もし時間があったら少しだけお話ししない?」
「え? う、うん。もう用事は済んだし大丈夫」
彼女の顔がパッと明るくなる。
まさかいきなりお誘いを受けるなんて思いもしなかった。木島と長谷にはきちんと報告という名の自慢をしてやろう。
「良かったぁ。私ここに入院していて、最近お父さんと看護師さん以外誰とも話してなかったから退屈だったんだ」
「え? 入院してるの?」
「うん……交通事故で。もうほとんど直っているんだけどね」
少し照れくさそうに説明しながら彼女は空いている椅子に座り、テーブルをはさんで正面に僕も座った。こんなに可愛い女の子と正面から向き合ったのは初めてなので緊張するが、僕の方から自己紹介するべきだろうと思い意を決して言葉を発した。熱中症でもないのに顔が熱い。
「えっと、八雲文也っていいます」
「文也君か。私は七海曜子。その制服って南沢高校だよね? 私も同じなの。何年生?」
「二年生です」
こんな綺麗な人学校にいただろうか。もしや四月に噂になっていた千年に一人レベルの美少女一年生か? と思ったが曜子さんは三年生らしい。こんな美人がいたら去年から話題になっていそうなものなのに、いかに自分が周りを気にしていなかったか痛み入る。
「では後輩の文也君。君はどうしてこの病院に来たのかな?」
僕が後輩だと分かると曜子さんは少しだけ偉そうに尋ねてきた。キャラメルラテが入ったペットボトルをマイク代わりに僕に向けて、インタビュアーのつもりのようだ。
「おばあちゃんが足を骨折して入院することになったので、そのお見舞いです」
「なるほど、午前中は学校で夏期講習を受けてきたの?」
「そうです。終わった後急いで自転車で来ました」
「おばあちゃんが心配だったんだ?」
「そうですね。僕、三つ下の妹がいるんですけど、その子が生まれる時にいっぱいお世話になったので」
「なるほど。おばあちゃんのこと好きなんだ」
「ま、まあそうですね」
「それに家族のことを話す表情を見てると君が家族思いだってことが分かるよ。いいことだね」
曜子さんは勝手に納得してうんうんと頷いている。家族のことが好きなのは間違ってはいないし、曜子さんに褒められるのも悪い気どころかいい気しかしない。
「じゃあ次はね――」
次の質問をしようとしたとき、曜子さんはふと動きを止めて周りを見回し始める。僕もつられて見回すとこの場に人が増えてきていることに気がついた。目的はこのスペースに置いてあるテレビのようで、試合開始を知らせる独特のサイレンが鳴り響く。
「甲子園、今日からだったね」
「ええ、この時間は地元の高校の試合でしたね」
「文也君は野球はお好き?」
「そうですね。中学までは野球部だったので」
「そうなんだ。この試合見たい?」
「いえ、知り合いもいないですし」
興味はあるけれど、それより曜子さんとの会話を続けたい。
「人も増えてきたし私の部屋に行かない?」
小首をかしげてキラキラした目で僕を見つめる曜子さん。瞬きをするたびに小さな星が出ているような幻覚さえ見えるような気がする。こんな誘いを断ることができる男子高校生はいない。
鼻歌を歌いながら軽快な足取りで病院の廊下を歩く曜子さんについて行くと突き当りの個室に案内された。まるで自分の家かのように曜子さんは僕を招き入れる。
「はい、どうぞ」
「お邪魔します」
そこは確かに病室ではあるのだけれど、衣服の詰まった衣類ケースや教科書や参考書、美容系の雑誌や文庫本、辞書なども並べられた本棚、プラスチックのバットとゴムボール、漫画雑誌やゲーム機、ノートパソコンまであって、まるで趣味の違う兄弟が一緒に暮らしている部屋のような様相を呈していた。病室らしい大きなベッドの方がこの空間に似つかわしくない。
入院生活が長くなりそうだから色々持ち込ませてもらっていると言う曜子さんはベッドの脇の棚からノートのような物を取ると、部屋の奥の方にある丸椅子に座った。テーブルをはさんで反対側に僕も座る。テーブルがさっきよりも小さいので距離が近くて緊張する。
「さて、色々聞かせてもらおうかな」
曜子さんは先ほど取ったノートを広げてペンを持つ。僕の話をメモするつもりのようだ。
「話を整理すると君は八雲文也君、南沢高校二年生で、誕生日は?」
「九月八日です」
「お、あと一ヶ月くらいだね。じゃあ今は十六歳か。家族は詳しく聞いてもいい?」
「はい、母と父と妹との四人家族で隣町に住んでいて、おばあちゃんはこの町に住んでいます」
「なるほど。あとは家族思いの元野球部ってところか」
曜子さんは先ほどまで話していた内容を確認してノートに書き込んでいる。目的はよく分からないけれど、僕のことを知ろうとしてくれるのは嬉しい。
「趣味は?」
「んーこれだって言うものはあまり……強いて言うなら友達と遊ぶことですかね。カラオケとかボウリングとかバッティングセンターとかゲームとか。お小遣いでやりくりしてるので友達の家でゲームが一番多いかもしれません」
「将来の夢とかあるの?」
「今はまだ決まってないですね。人のためになったり、人を喜ばせたりする仕事に就きたいと漠然とは考えていますけど」
まずい。せっかく会話を広げるチャンスとなりそうな話題なのに微妙な回答しかできていない。
「色々模索中なんだね。高校生らしくていいと思う」
そう言ってにこりと笑みをくれる曜子さんはきっと天使の生まれ変わりか何かなのだろう。夏休み前の三者面談も担任の先生じゃなくて曜子さんにやってもらえたらもっとやる気が出たと思う。
「好きな食べ物とか嫌いな食べ物はある?」
「嫌いな物は特にないですね。好きなのは……」
「どうしたの? 言いづらい食べ物? シュールストレミングとかピータンとか?」
「い、いや、そういうのではなく……妹が小学三年生か四年生になった頃から休日によくホットケーキを焼いてくれるようになったんですけど、それがすごく美味しくて好きなんです」
曜子さんは嬉しそうにニコニコしたまま何も言わずにノートにメモを取った。
その後も学校の成績だったり交友関係だったり事細かに僕の情報を聞かれ、僕のプロフィールは事細かに記録された。僕を主人公とした小説を書くなら曜子さんのノートを参考にするといいだろう。
全てを書き記した曜子さんは満足そうにノートを閉じ、キャラメルラテに口をつけた。
「甘ーい」
「すごく甘そうだけど、美味しいですか?」
「飲んでみる?」
そう言って先ほどまで自分が口をつけていたペットボトルの飲み口を、僕の目を見つめながら僕の口に近づけてくるのは心臓に悪いのでやめて欲しい。美味しいものを共有するためなら間接キスも厭わないとか、僕のことが好きなのかと勘違いしてしまう。
動揺して固まっているとついにその飲み口が僕の唇に触れた。曜子さんがペットボトルを傾けるとほんの少しだけ苦さの混じった激甘な液体が口の中に入ってくる。
間接キスしちゃった。初めてなのに。
「どう? 美味しい?」
ペットボトルを僕の口から離した曜子さんが笑顔で尋ねる。
「あ、あわわ」
曜子さんは何と言うか距離が近い。だからそのキラキラと謎に輝く綺麗な目とか、唇にわずかについているキャラメルラテの雫とか、白くてつるつるして瑞々しいほっぺとかから目を離せなくなる。そういうものは彼女のいない男子高校生にとっては毒でしかない。
目の覚めるような衝撃的な出来事とか、人生を変えるような出会いとか、情熱を注ぎ込める何かとか、そんなものがない灰色の人生は終わりを告げる。視界が華やいだ気がした。
僕はこの時、曜子さんに情熱を注ぎ込むことに決めたのだ。一目惚れ、というやつだ。
「よ、曜子さん。次は曜子さんのことも教えて欲しいです」
情熱を注ぎ込む決めた以上は曜子さんのことを色々と知らないといけない。そもそも彼氏がいるとかだったら始まりすらしないのだから。
「いいよ。じゃあ改めて名前は七海曜子。誕生日は九月一日で高校……三年生」
溜めてから指を三本立てて見せつける謎ムーブですら可愛らしい。
「趣味は読書かな。奥空文子の本が好きなの」
奥空文子――一般文芸から児童文学やライトノベル、ゲームのシナリオまで様々な物語を作りそのどれもがヒットしている超人気作家――確か娘が南沢高校にいるとか。今年の七月初旬くらいに病気で亡くなったことをニュースで知った。
「身長百五十九センチ体重四十九キロ。五十キロじゃないよ」
「あ、はい」
体重を知ったから何かするということはないのだけれど、女性にとって体重はかなり重要な個人情報なのではないかと思う。妹も小さい頃は体重が増えると成長していることが嬉しいのか僕に報告しに来ていたのに、小学校中学年くらいになってからは体重の話を一切しなくなった。その頃からおやつのホットケーキを一人で食べきらずに僕に分けてくれるようになって、僕が美味しいって褒めたら頻繁に作ってくれるようになった。
そんなデリケートな情報まで教えてくれるということは僕のことが好きなのかと勘違いしてしまうから気をつけて欲しい。
その後も曜子さんは嫌いな食べ物とか得意な教科とか毎日の睡眠時間とか彼氏がいないこととかを教えてくれた。
曜子さんと楽しいひと時を過ごすこと数時間。夏真っ盛りでまだ外は明るいが時刻は午後五時となっていた。
「あ、そろそろお父さんが来る時間だ。会ってく?」
「え? それはさすがに、またの機会にします。今日は帰ります」
「そっか。ねえ文也君、また会いに来てくれる?」
「もちろん。お金も返さないといけないのですぐに来ます。暇だから」
「十円くらい気にしなくていいよ。でも嬉しい。午前中は検査とかで忙しいから午後に来てくれる?」
「はい。絶対来ます、毎日でも」
「それは嬉しいけど、来週でいいよ、しばらく入院してるし。月曜日がいい」
「……じゃあ月曜日に」
「うん、約束。またね」
微笑みながら小さく手を振ってくれる曜子さんに手を振り返しながら病室を出る。
僕は顔がにやけるのを隠しながら、怪我をしたおばあちゃんに感謝したことを心の中で謝りながら帰路に着いた。
夕方になっても外はまだ暑い。でも僕の心に顔に体に灯った熱はこの暑さのせいだけではない。
翌日、木島と長谷に昨日の成果はどうだったのかと訊かれたので、曜子さんという超絶美人で人懐っこくて距離が近い女の子と知り合ったと自慢してやった。うちの学校の生徒だということはなんとなく黙っておいた。
「で、その曜子さんの写真とか連絡先は?」
そう長谷に訊かれると何も持っていなかったことに気づき、二人に怪しまれてしまった。
夏期講習を終えて大急ぎで病院に向かい、おばあちゃんのお見舞いもした。昨日借りた十円はもちろんのことお見舞いの品として自販機で生クリーム入りキャラメルラテも買って曜子さんの病室の扉をノックする。
中からは確かに曜子さんの声だが昨日の弾むような可愛らしい感じとは違って、どこか怒っているようにも思える少し低めだが声量十分な返事が聞こえた。機嫌が悪いのかとも思ったが一応部屋に入ることは許可されたようなので恐る恐る扉を開くと曜子さんと目が合った。
今日はジャージ姿でベッドの上であぐらをかいて座っており、今まで読んでいたのか漫画雑誌がベッドの上に散乱している。僕を見つめるその目の形や大きさ、まつ毛の感じは確かに曜子さんのものではあるが、どこか鋭くて別人のようだ。
「お前が八雲文也か。何しに来た?」
とても曜子さんには似つかわしくない荒っぽい口調でその人は僕に尋ねた。
「は、はい。あの、昨日借りたお金を返しに、あとお見舞いで昨日飲んでいたこれを……あの、曜子さん? からかってるんですか?」
僕の手に握られたキャラメルラテを見つめる曜子さんのような人。その後もう一度僕の顔を見て言った。顔は曜子さんなのに恐怖を感じる。
「あたしはコーラの方が好きなんだ。買い直してきてくれ。それはお前が飲めよ」
「はい」
有無を言わせない威圧感に、さもそうするのが当たり前であるかのように僕は自販機コーナーへと向かう。
自販機でコーラを買ってきて再び病室の扉をノックすると「おう、入れよ」と雑で豪快な声がした。曜子さんの声なのだからもう少しおしとやかに可愛く言って欲しい。
「失礼します。これ、コーラと昨日借りた十円です」
「おう、ご苦労。十円は取っとけよ」
「あ、ありがとうございます」
つい十円玉を引っ込めてしまったが今度曜子さんに会ったときに返せばいいか。そもそもまた曜子さんに会えるのか。
「あの、あなたはいったい?」
僕から受け取ったコーラを早速豪快に飲み始めていた曜子さん(仮)はあごを引いてつばを飲み込んでから答えてくれた。さすがに曜子さんの容姿でゲップをするのは我慢してくれたみたいだ。
「ええと、こういう時は……」
曜子さんみたいな人は昨日曜子さんが書いていたノートを読み始める。その姿は荒々しさが幾分か抑えられてやっぱり曜子さんそのものだと思わせる。僕はベッドの脇に置いてある椅子に腰かけた。
「言えない」
「え?」
「ノートにそう言えって書いてあるんだからしょうがないだろ」
「どういうことですか? 言えないってどうしてですか? そもそも昨日の曜子さんとあなたの関係は――」
「うるせえ!」
バチンッという音が病室に響いた。その驚きで一瞬目をつむってしまい、再び目を開けるとそこには僕を鋭い目で睨みつける曜子さんに似た誰かがいる。意外なことに頬への衝撃はさほど強くはなかったが、残念ながらビンタで興奮するような性癖は持ち合わせていない。
「悪い、つい手が出ちまった」
「いえ、僕もいきなり色々訊き過ぎました」
ビンタしたことを素直に謝りバツの悪そうな顔をする曜子さんっぽい人。ガサツで横暴で暴力的な人だけど根っこの部分では悪い人ではない気がする。曜子さんの容姿であることでかなりのバイアスがかかっているけれど。
曜子さんに似ているその人はノートとにらめっこしながら悩ましい顔をしている。
「あの、僕と昨日会ったことは覚えているんですよね?」
「ん? まあなんとなくはな。間接キスした程度であんなに慌てやがってだらしない」
「キス……」
昨日の間接キスのことを思い出しながら目の前の曜子さんに似た姿の人の唇を見る。曜子さんと同じで艶があってプルンとしていて、少しだけ苦くてとても甘かった。あわよくばもう一度なんて考えたりして。
「気持ち悪い顔すんな」
平手で頭を叩かれた。口調は悪いし手は早いが威力はたいしたことがない。人格は明らかに昨日の曜子さんと違うけれど、体が曜子さんだから力も曜子さんと同じなのではないかと思う。だってこんな性格の人がこんなに非力なはずがない。
「なんてお呼びすればいいですか?」
「……曜子でいい」
「……分かりました。曜子さん」
本当は何か別の名前があるような、そんな言い方だ。
ともあれこれ以上色々追及してもまた叩かれるだけなので真相解明はひとまず諦め、曜子さんかもしれない人が読んでいる漫画の話題で盛り上がったり、僕が余計なことを言って二回くらい叩かれたりしながら曜子さんのお父さんが来るまでの午後のひと時を過ごした。もちろん昨日の曜子さんが好きだけれど、こっちの曜子さんも意外と気さくで、そこまで嫌いではないと思えるくらいには仲良くなれた気がする。
でもこの現象はいったい何なのだろうか。姿かたちは曜子さんなのに中身は別人。明日も来て、確かめないわけにはいかない。
翌日の水曜日も夏期講習が終わると病院に向かう。まずはおばあちゃんの病室に顔を出して塩レモン飴をもらってから曜子さんの病室に向かう。すれ違う看護師さんは僕の顔を覚えたようで「また来たのね」なんて微笑みながら声をかけてくれた。多分曜子さんの彼氏だと思われている。
今日は月曜日の曜子さんに会えるだろうか、それとも火曜日の曜子さんだろうか、それともまた別の人格だろうか。期待と緊張を持ちながら病室の扉をノックすると昨日とは打って変わってか細くぎりぎり聞き取れるくらいの小さな返事が聞こえた。一応部屋に入る許可をくれていることは理解できたので扉を開けると、ベッドに座りながら備え付けのベッドテーブルの上で参考書やノートを広げている曜子さんがいた。
「こんにちは、曜子さん」
あえて曜子さんと呼びながら近づいて行くと曜子さんは僕を一瞥しただけで再び参考書たちに目を向けてしまった。今日はおとなしい人のようだ。水曜日の曜子さんなので水曜子さんと呼ぶことにしよう。
「座ってもいいですか?」
「……好きにして」
水曜子さんは僕がベッドの脇の椅子に座って一メートルもないくらいの距離に近づいてもこちらを一切見ようとしない。真剣に参考書と向き合って、月曜日の曜子さんが書いていたものとは違うノートにペンを走らせる水曜子さんの横顔はいつまでも見ていられるものではあったがそういうわけにもいかない。どうしてこんな状況になっているのか手がかりを得なくてはならない。
「お名前は?」
「……曜子と呼んで」
「僕のこと知っていますか?」
「……八雲君」
「喉乾きませんか? キャラメルラテでも買ってきますよ」
「……水がある」
「曜子さんの身にいったい何が起こっているんですか?」
「……知らない」
「趣味は?」
「……勉強」
「好きな食べ物は?」
「……青魚」
月曜子さんの好きな食べ物はキャラメルだろうし火曜子さんは肉だった。趣味も月曜子さんは読書で火曜子さんは格闘技観戦。やっぱり火曜子さんと同じように水曜子さんも曜子さんであって曜子さんでない。下手したら月曜子さんも違う可能性もある。
もう少し色々探る必要があると思い、水曜子さんが勉強をする様子を見守ると気がついた。
「今使ってる数学の参考書、数学Ⅰ・Aの入門用のやつですよね?」
こういうのは高校一年生や先取りしたい中学生、もしくは数学が全然できない二、三年生が使うものだ。少なくとも勉強が趣味だと言うそこそこの進学校の三年生が使うようなものではない。
「……別にいいでしょう? 復習は大事」
「曜子さんって何歳なんですか?」
「じゅうろ……十七歳よ」
やはりおかしい。そもそも人格が変わっていることからおかしいのだが特に火曜と水曜の曜子さんからそれ以外にも何か違和感を覚える。
これはやはり毎日通って色々調べる必要がある。曜子さんと会いたいという欲の他に、真相を解き明かすという使命感が湧いてきた。
木曜日。いつものようにおばあちゃんから塩レモン飴をもらってから曜子さんの病室の扉をノックする。今日もまた別人みたいな曜子さんなんだろうなと思いながら返事を待つが一向に声が聞こえてこない。寝ているのか、昨日よりも静かな人格で声が聞こえないだけなのか、それとも返事ができない状況なのか。
曜子さんは元気そうだが入院患者だ。急に体調が悪化して助けを呼べない状況になっているのかもしれない。だから勝手に病室に入ってでも僕が助ける必要がある。決して寝顔が見られたらいいなとか不純なことは思っていない。
深呼吸をして扉を開けようとした時、顔見知りとなった看護師さんに声をかけられた。
「文也君、今日は木曜日だから曜子ちゃんなら近くの公園だと思う。行ってみたら?」
「公園ですか?」
確かにこの病院の近くには大きな公園がある。しかし看護師さんも知っているということは病院としても外出を許可しているようだし、木曜日だから、という言い方的に毎週のように公園に行っているようだ。
大きな池の周りの草花を愛でたり、バードウォッチングをしたり、木陰でお昼寝をしたり、そんなおしとやかな大人な女性然とした曜子さんの姿が思い浮かぶ。
病院を出て大きな交差点を一つ渡ると件の公園はすぐだ。夏休みのこの時期、くそ暑い中でも子供たちは広場で元気に走り回っている。僕はまず池の周りで草花を愛でている女性を探してみたが僕のおばあちゃんと同じくらいの歳の女性しかいなかった。
次に鳥を探している女性を探してみたが双眼鏡を持ったおじさんしかいなかった。
次こそはと木陰でお昼寝をしている女性を探してみると、いた。お昼寝はしていなかったが、白の半そでシャツと紺のハーフパンツでいつもと違って髪を一つに縛った曜子さんが、木の幹に背中を張り付けるように立っていた。周りを警戒しているところを見るに隠れているようだ。あれが木曜子さんだ。
いつもと違う髪型とか、露出した二の腕が気になってこっそり見つめていると木曜子さんと目が合った。木曜子さんは僕をじっと見つめてしばらく眉間にしわを寄せながら考え込んだあと、ハッとした顔になって僕を指差し、そのままその手を上げて手を振り出した。
はじける笑顔に吸い寄せられるように僕も木曜子さんに近づくが、木曜子さんはまたハッとして両腕をクロスしてばってんを作った。同時に首も横に振って、どうやらこっちに来ないで欲しいということをアピールしているようだ。表情がコロコロ変わって面白いがいったい何をやっているのだろうと思い、僕は木曜子さんに中途半端に近づいたところで立ち尽くす。
周りを警戒している木曜子さんを訝しんでいると小学三年生くらいの男の子が僕の目の前に立っていることに気がついた。男の子は僕の顔を見上げていたが、やがて僕の視線にそって木曜子さんへと目を向けた。そして大きな声で言う。
「あー! 曜子ちゃん見っけー!」
その声と同時に木曜子さんはしゃがんで両手で顔を隠す。もう遅い。
木曜子さんに近寄る男の子について行くと、観念した曜子さんは仁王立ちしながら手を腰に当てて頬を膨らませていた。男の子は木曜子さんに「ここにいてね」と言ってどこかに行ってしまう。
「もー! 文也君のせいで見つかっちゃったでしょ!」
「いや、木の陰に隠れても見つかるのは時間の問題でしたよ。ていうか何してるんですか?」
「何って、かくれんぼだよ?」
「何歳ですか? 曜子さんは」
「じゅうよ……十七歳だよ」
もう現象はだいたい理解した。日替わりで曜子さんの体に色々な人格が降りてきているのだ。理由は分からないけれど。そしておそらく記憶もある程度は共有している。月曜子さんがノートに記入していたのは記憶しきれていない部分を他の人格に引き継ぐためだろう。
木曜子さんは本当は十四歳で水曜子さんは十六歳の人格だ。火曜子さんはすんなりと十七歳と答えていたのでおそらく本当に十七歳。月曜子さんは高三としか聞いていないので十八か七かは分からない。
「何で小学生と遊んでいるんですか?」
「楽しいから!」
腕を組んでドヤ顔の木曜子さん。
「毎週?」
「本当は毎日でも遊びたいぐらいだよ!」
「好きな食べ物は?」
「ハンバーグ!」
「得意教科は?」
「体育!」
「苦手教科は?」
「国語と数学と英語と理科と社会!」
「将来の夢は?」
「お母さん!」
なるほど、木曜日の曜子さんはお子様なんだ。それもちょっとお勉強が苦手な感じの。曜子さんの容姿でこういう感じだとそれはそれで可愛い。
「曜子ちゃん、皆見つけた!」
先ほどの男の子が戻ってきた。彼が指を差す方に彼と同じくらいの年齢の少年少女たちが広場に七人ほど集まっているのが見える。
「行こう! 次は何する? 俺野球がいい!」
男の子は木曜子さんの手首をつかんで少年少女が集まっている方へ引っ張る。一瞬手を握ろうとしたが躊躇して手首をつかんだことを僕は見逃さない。
分かるよ少年、その気持ち。照れくさいもんな。
「うん! ほら、せっかくだし文也君も一緒に行こ!」
木曜子さんは空いている手で僕の手を握って少年が走る方へと一緒に走り出す。
手、繋いじゃった。小さくて細くて柔らかくて温かい。
僕らの繋いだ手を見た少年が一瞬すごい表情をしたことを僕は見逃さなかった。大切な何かを奪われてしまったような、そんな絶望に満ちた顔。ごめんよ少年。
皆のもとへ到着すると僕も少年も手を離す。木曜子さんが適当に僕のことを紹介してくれて、皆拍手で迎えてくれた。女の子たちが「彼氏?」と尋ねると木曜子さんは「ご想像にお任せしまーす」と笑顔で答えた。少年からは何か敵対心みたいな感情がこもった視線を感じるが気にしない。
「次は野球やろうぜ! 今日は俺がピッチャーだ!」
少年の掛け声で他の少年少女たちが広場に散っていく。少年たちの荷物がまとめて置いてあるところから木曜子さんがプラスチックのバットとゴムボールを持ってきてボールを少年に渡した。木曜子さんはそのまま少年から距離を取ってバットを構える。僕も二人からある程度の距離を取って二人を見守った。どんなルールか聞いてないけれど、とりあえずボールが飛んで来たら取ればいいだろう。
アウトやヒットの判定は雰囲気で決められていたため喧嘩になりそうだと思ったが、際どい時は木曜子さんに裁定を任せており、皆が納得して平和に遊んでいた。子供っぽいと思ったが少年少女たちの中ではちゃんとお姉さんをやっているようだ。
ちなみに木曜子さんは意気込んでトップバッターに名乗り出たものの、三振二つとピッチャーゴロ一つであっという間に交代になっており、野球はあまり得意ではないらしい。
全員が打ち終わったところで少年は僕にバットを持つように促す。真剣な目だ。僕を倒して木曜子さんを取り返すつもりのようだ。
僕も元野球部として木曜子さんに格好悪いところは見せられない。だが本気を出し過ぎて打球を顔面にでも当ててしまったらゴムボール言えども傷をつけてしまうかもしれない。かと言って露骨に手を抜くと子供は怒るということは妹で経験している。
僕の選択はボールを高く、遠くに飛ばすということだった。少年が投げたボールを完璧に捉えた僕の打球は、だだっ広い長方形の広場の端から端――短い方のだが――まで綺麗な放物線を描いて飛んでいく。完璧だ。僕の高校生としての威厳も少年少女たちの安全も守られた。
ホームランを打たれて悔しがる少年を一瞥して打球の行方を見ると、なんと落下地点に木曜子さんがいるではないか。手を上げてボールが落ちてくるのを待っている。少年も打球を見ているから表情は見えないが取ってくれることを期待しているに違いない。
しかし無情にもボールは木曜子さんの手をすり抜けて、木曜子さんの頭に直撃して弾み、どこかに飛んで行ってしまった。ボールを追いかける木曜子さんの後ろ姿は少し情けない。
その後も二本ほど完璧なホームランを打ったところでばれないように手を抜き始め、簡単な凡打を打って僕の打席は終了した。
「次は負けないからな!」
という言葉を少年からもらって子供たちと別れ、木曜子さんと一緒に病院へ戻る。病院と公園の間の大きな交差点で嬉しそうな表情の木曜子さんと信号待ちをする。
「文也君すごいね、あんなに遠くに飛ばすなんて」
「まあ、一応中学で野球やっていたしね。でも曜子さんもよくあんなところにいたよ。取られるかと思った」
「ふっふっふ。ちゃんと文也君が元野球部だっていうことは覚えていたからね」
「そっか。偉いね」
「へへへ」
やっぱり記憶を共有しているという予想は間違いない。木曜子さんならなんか色々しゃべってくれそうだし聞いてみるか。
いや、何か隠しているのは間違いないが隠しているということは言いたくない事情があるということだ。これから先の曜子さんとの関わりを考えるなら、ずるいことはせずにこのまま全ての人格の曜子さんと仲良くなって曜子さんの方から話してくれるのを待つべきだ。
幸い僕との関係性もある程度は引き継がれるようなのでなんとかなるだろう。それでも聞きたいことがあれば僕が初めて会った月曜日の曜子さんに聞けばいい。あの曜子さんだけは火、水、木の曜子さんとは何か違う気がする。何がと聞かれたら困るが。
病院に戻ると、常連となった自販機コーナーで同じスポーツドリンクを買って病室に入る。
病院の中は適温に調整されており、外で運動してきた僕らにとっては少し暑く、スポーツドリンクを飲んだだけではなかなかすっきりとした気分にはならない。しかも僕は制服のまま運動していたので不快度はかなり高めだ。木曜子さんも汗をかいているようで、シャツが体に張り付いているところとか、見てはいけないと思いつつもついチラチラ見てしまう。
「はい、どうぞ」
腰に手を当ててぐびぐびとスポーツドリンクを飲んでいた木曜子さんがそんな僕に気づいてくれてタオルを差し出してくれた。ありがたく受け取るが様子が少しおかしい。僕の顔をじっと見て何かを言いたげな表情をしている。
「あ、ごめん。着替えたいかな? 廊下に出てるよ」
「さすが文也君。気が利くね」
この記憶も抱いた感情も他の人格にも伝わるのだろう。金、土、日の曜子さんに会うのも楽しみになるがこの不可解な現象に適応して楽しもうとしている自分には少し不安を覚える。
実際に起こっている以上受け入れる他なく、色々な曜子さんの表情や姿が見られてお得じゃないか、と無理やり納得させている側面はある。
廊下に出て貸してもらったタオルであらかた体をふき終わり、不快感が大分軽減された頃、僕から三メートルほど離れた所にスーツ姿の四十代ぐらいの男性が立っていることに気がついた。眼鏡をかけ、清潔感はあるが飾り気のない髪型をしたその男性は僕のことを複雑そうな表情で見つめている。
会釈をすると、男性の方から声をかけてきた。優しくてどこか疲れているような声だ。
「君、この病室から出てこなかったかい? 中にいる子とは知り合いなのかな?」
「は、はい、そうですけど」
「名前は?」
「八雲文也です」
「そうか、君が文也君か」
木曜子さんや子供たちと遊ぶのに夢中で気がつかなかったが、着けていた腕時計を見ると午後五時を過ぎていた。確かいつもこれくらいの時間にお父さんが来ると言っていた気がする。
「私は七海誠司。ここに入院している曜子の父親だよ。君のことは曜子たちがよく話してくれている」
やましいことをしているつもりはなかったがいきなり父親と対面するのはハードルが高いと思って会うのを避けていたのに失敗した。彼氏でも家族でもないのに毎日会いに来ているなんて、気味が悪いからやめろなんて言われるかもしれない。
そんなことを思っていたが、誠司さんからかけられた言葉は意外なものだった。
「曜子の状況は当然知っているだろう? それなのに毎日来てくれるなんて曜子も喜んでいるよ。ありがとう。学校の友達も数回来てくれたけど気味悪がって来なくなってしまったからね」
誠司さんは両手で丁寧に僕の右手を包み込み頭を下げる。
「そ、そんな感謝されるようなことは何もしてないですよ」
「いや、月曜日に君と出会ってから話題は君のことばかりだよ。皆君のことを気に入っているようだ」
「皆、ですか」
月曜日の曜子さんはともかく、火曜子さんも水曜子さんもとは少し驚きだ。
「あの、曜子さんの今の状況っていったい……? 多重人格なんですか? えっと、解離性なんとかっていう……」
「そうだな。曜子が気に入っている君になら話しておいた方がいいかもしれないな。曜子がどうして入院したかは聞いたかい?」
「はい、交通事故だって」
「……そうだ。始まりはその事故だったんだ」
一応の信用を得ていた僕に、誠司さんは曜子さんの状況を説明してくれた。
七月初旬に事故で意識を失い入院することになったが、目が覚めると違う人格になっていた。その後の観察の結果、七つの人格が午前零時を境に毎日切り替わっていることが分かった。
「お医者さんは君の言う通り解離性同一障害を疑ったんだが、やはり必ず日替わりで変わるというところに疑問を持ってね。他にもそれの症状っぽい性質もあれば全然該当しなさそうな性質もあったりして頭を悩ませているんだ。だから結論は出ていなくて、怪我は治っているのに検査のために入院が続いている」
「本当の曜子さんの人格は?」
「……月曜日だよ。事故の前の曜子はああいう子だった」
「他の曜日の人格っていったいなんなんですか?」
「分からない。いや、どこかで見たり聞いたりしたことがあるような気がする人格もあるんだが、思い出せない」
「どうすれば元の曜子さんに戻るんでしょうか?」
「知っていたらとっくに戻しているよ。幸い週に一度は本物の曜子に会えるし、他の子たちも……悪い子はいない。実際にこうなってしまっていて戻す方法を知らない以上は今を受け入れるしかない。君にはこれからも曜子たちと仲良くしてもらえると助かるよ」
「いいんですか?」
「何か問題でもあるのかい? 毎日来ているということは君も少なからず曜子のことを好いてくれていると思ったのだけど」
「そ、そうですね。認めて頂けて光栄です」
「彼氏とかそういう存在として認めたわけじゃないよ。曜子にとって君はマイナスの存在にはならないと認めただけだ。曜子の心の空白を埋めるだけ。そこは勘違いしないように」
これまで優しかった誠司さんにしっかりと釘を刺されてしまった。
友達が離れてしまった娘と仲良くするのはいいけど彼氏にはなっちゃ駄目という複雑な親父心は、父親ではない僕にも多少は理解できる。僕と誠司さんは初対面だし僕と本物の曜子さんも一回しか会っていない。彼氏として信用しろという方が難しい。
「とりあえずは全部の曜子さんと仲良くなりますね」
「ああ。でも日曜日は来ない方がいいかもしれない」
「どうしてですか?」
「君は今十六歳だろう?」
「はい」
「まあ、なんだ、その、気をつけた方がいい」
煮え切らない誠司さんと着替えが終わって可愛らしいフリフリの付いたパジャマに着替えた木曜子さんに挨拶をしてこの日は帰ることにした。
未だに謎だらけではあるがとりあえずお父さん公認で毎日通えることになったのは大きい。彼氏とは認めていないと言っていたがこの状況を解決に導いた暁にはきっと認めてくれることだろう。曜子さんも僕のことを気に入ってくれていると言っていたし、残った問題はどうやってこの状況を解決するかだ。それが一番難解な問題ではあるのだが。
金曜日。雨が降ったがそんなことは関係なく夏期講習後に合羽を着て自転車を漕いだ。いつものように看護師さんに微笑まれながら病室への廊下を歩き、扉をノックするとまたもや返事はない。またどこかに出掛けているのだろうかと思い、昨日と同じ看護師さんに尋ねた。
「あ―今日は金曜日だから今頃お昼寝中ね。夜眠れなくなるから少しにしておきなさいって言っているんだけど」
看護師さんは僕に扉の前で待っているように言って曜子さんの病室に入ったが一分もしないうちに僕を招き入れた。
「寝てるけどいいよ。入ってきて」
「いいんですか? お言葉に甘えますけど」
病室には天使がいた。
昨日木曜子さんが着ていたものとは色違いのパジャマを着て、少し体を丸めた状態で横向きになり、穏やかな寝息をたてる金曜子さん。目を閉じていてもしっかりと主張しているまつげ、半開きになってあわよくばよだれが垂れそうになっている口、こんな姿を見てしまった幸せと罪悪感に板挟みになる。
「いいんですかね、寝顔見ちゃって」
「いいのよ。お昼ご飯のときに『もうすぐ文也君来るからお昼寝したら寝顔見られちゃうかもね』って言ったら『文也君ならいい』って言ってたもの」
「……まじすか?」
「まじ。だから頑張ってね、私はこれで失礼するから」
看護師さんは僕の肩を軽くポンと叩き、病室を出て行った。出る直前に「でも手は出しちゃ駄目よ」と釘を刺すのは看護師としてか大人としてか女性としてかは分からない。多分全部だろう。
手は出さずともこんな貴重な姿は見ているだけで楽しめる。目も鼻も口も耳も髪も今なら見放題なのだ。ぎりぎり理性が勝って写真は控えたが脳内にはしっかりと保存させてもらった。美人は三日で飽きるという言葉があるけれど、五日目の今日、全然飽きる気配がない。むしろ日を追うごとに興味が増している気さえする。
誠司さんが来るまでずっとこうしていようかと思い、天使もとい金曜子さんを見つめているとその口元がごにょごにょと動いているのが分かった。寝言のようだ。
「……ポテチ、食べる」
「何味がいいの?」
「……コンソメ」
大急ぎで売店でコンソメ味のポテトチップスを買って病室に戻ったが金曜子さんはまだ起きる気配はない。可愛いから起きても起きなくてもどちらでもいいのだが、せっかく買ってきたので美味しく頂いて欲しい。
もしかして、と思い袋を開けて鼻に近づけてみると鼻がひくひくと動いた。
「ポテチの匂い……コンソメだ」
鼻を袋に入れて匂いを堪能する金曜子さん。なんだか小動物を見ているみたいだ。
金曜子さんの鼻から袋を離すと再び鼻をひくひくとさせて辺りの匂いを嗅ぎだす。眉間にしわが寄っているのは抗議の意を表しているのだろうか。目も半開きになって覚醒のときは近い。
袋から一つポテトを取り出して今度は口元に近づけてみると金曜子さんはそのポテトにパクリとかじりついた。
「コンソメ……うまい」
僕が持っているポテトを口だけ動かしてパリパリと食べる姿は、小学生の頃餌やり体験をした牧場のヤギを思い出す。餌の野菜を食べきった後、指まで舐められて大変だった。
「うわっ、駄目だよ曜子さん、それは僕の指だって」
あの時のヤギのように金曜子さんが僕の指をペロペロと舐めてポテトチップスの粉みたいなものを舐めとり始めた。
どうしたものか、すでにイケない気持ちにはなっているのだがさすがにこのままでは僕を信用してくれているはずの曜子さんにも誠司さんにも看護師さんにも示しがつかない。でもこんな体験は二度とできないかもしれない。
僕の指からコンソメ味を感じなくなった金曜子さんはいつの間にか僕の指から口を離し、再び寝息をたてている。
ポテトを手に取って口元に近づけて食べさせる。食べ終わると寝る。これを何度か繰り返すことで金曜子さんはやっと起きてくれた。目は半開きのままだが。
「……文也君、こ、こんにちは」
「こんにちは、曜子さん。ほら、ポテチ。全部あげるよ」
「ん、ありがとう……ごめんなさい、指、舐めちゃった。美味しくて、つい」
「いや、そんな気にしないで。平気だよ」
「棚のウェットティッシュ、使ってね」
「うん、ありがとう」
そう言うと金曜子さんは残ったポテトたちをパリパリと食べ始める。かけらがベッドの上に落ちても気にする様子がないので僕が拾ってティッシュの中にまとめると「ありがとう」と言いながら微笑んでくれた。目は半開きのままなので金曜子さんはこれがデフォルトのお眠系キャラなのだろう。
「はい、どうぞ」
「あ、僕も食べていいの?」
金曜子さんが僕の口元にポテトを一枚近づける。万が一にも指を舐めてしまわないようにポテトを食べると金曜子さんは子供のような無邪気な笑顔を見せてくれた。
「美味しい?」
「うん」
「一緒に食べよ?」
金曜子さんは自分でポテトを一枚食べると僕にも一枚とって食べさせてくれるようになった。さっきまでは逆の立場だったのになんだか餌付けされているみたいだ。
ポテトを食べさせてもらいながら聞いたところによると金曜子さんは十三歳らしい。もちろん即座に十七歳だと訂正していた。本当に十七歳っぽい火曜子さん以外は皆年齢を誤魔化しているのは本物の曜子さんが十七歳だからだろうか。
ポテトチップスを食べきると金曜子さんはゲーム機をテレビに繋いで起動し、二つあるうち一つのコントローラーを僕に差し出す。空になったポテトチップスの袋はさりげなく僕がごみ箱に捨てておいた。
「対戦、しよ?」
お昼寝、ポテチ、ゲーム。怠惰キャラの要素をこれでもかと詰め込んだ金曜子さんだが、可愛いもんは可愛い。本当はもっと色々質問したりして曜子さんを元に戻す手掛かりを集めないといけないのだが、遠慮なく甘えてくる妹みたいなところとか、テレビ画面が見やすいように僕のこともベッドに座らせてくれる距離感の近さに抗うことはできず、僕はたまに肩が触れ合うことにドキドキしながらゲームに熱中してしまうのであった。
金曜子さんと遊んだのは人気キャラたちが戦う対戦ゲーム。僕らは誠司さんが来るまで対戦に熱中し、僕は一度も金曜子さんに勝てなかった。
「おかしいな。前作だけど小学生の頃は誰にも負けなかったんだけど」
「ふふふ、よくいる地元最強ってやつだね。井の中の蛙だよ」
確かに中学で友人となった長谷と対戦したらぼこぼこにされた。僕の通っていた小学校のレベルが低かっただけだったのか。
金曜子さんは基本眠そうでおとなしいがゲーム中は饒舌になった。学校にあまり友達がいないこととか、勉強も運動も苦手だけどゲームは自信があることとか、一人っ子なので優しい兄が欲しかったとか、両親が仕事で忙しいのであまり構ってくれないことなどをたくさん教えてくれた。
多分これは本物の曜子さんのことではなく、金曜子さんの設定なのだろう。本物の曜子さんは僕と同じそこそこの進学校である南沢高校に通っているので勉強が苦手とは言わないだろうし、誠司さんが友達が来てくれなくなったと言っていたが、今の状態になる前は友達もたくさんいたことは容易に想像できる。
ともかく本物の曜子さんに戻すには、この状況を打開するには、もっと各曜日の曜子さんのことを知る必要がありそうだ。
土曜日は夏期講習がないが、曜子さんは午前中は検査だと言っていたのでいつも通りの午後の時間に病院へ向かう。天気は今日も雨だが曜子さんに会えるならどうってことはない。
病室の扉をノックすると月曜日の曜子さんに近い明るい声が聞こえる。今日はちゃんとした人のようだと安心して扉を開けると、ゆったりとした上下とも薄水色のルームウェアを着た土曜子さんが、ベッドの背を上げていい感じの角度で寄りかかりながら座って雑誌を読んでいた。
いつもとは違って髪をツインテールに結んでいるのはまだいいとして、下半身の方はショートパンツなので太ももが露わになっているため視線がそちらに吸い寄せられてしまう。太さも色も張りも何がとは言わないがちょうどいい。
「きも、スケベ、変態。出ていって」
「はい」
僕の視線に気づいた土曜子さんに罵倒と蔑みの目線をもらい、病室を追い出されてしまった。
「しょうがないじゃん、あんなの見ない方がおかしいって……」
病室の扉を背にぶつくさと文句を呟いていると突然扉が音を立てて開いた。偉そうに腕を組んで口をとがらせる土曜子さんが立っている。
「ちょっと、せっかく来たんだからもう少しいなさいよ」
「ええ……出てけって言ったのはそっち……」
「うるさい、口答えしない。来なさい」
土曜子さんは僕を病室の奥にあるテーブルとセットになった椅子に座らせて自分ももう一つの椅子に座った。テーブルをはさんでいるので僕から土曜子さんの太ももは見えない。
「私のことを性的な目で見たことは許してあげる。私が魅力的すぎるのが悪いんだもん」
「はあ、そうですね」
「でもあんただけいい思いしてるのも癪だから私にもいい思いさせなさい。ということで駅前の洋菓子屋さんのスペシャルプリンアラモード買ってきて」
「え? 外出は制限されてないんだから自分で買いに行ってもいいんじゃ……?」
「雨、嫌なんだもん」
そう言って土曜子さんは千円札を一枚僕に投げ渡した。
「あの……」
「いいのよ別に、行かなくても。あのノートに【文也が私の太もも見て興奮してた】って書くだけだもん」
「行ってきます」
せっかくこれまでの曜子さんたちと仲良くなれてきているのにそんなことを共有されてはたまらない。
再び合羽を着て自転車で往復二十分、八百五十円という割とお高めなスイーツを買って土曜子さんに献上すると大変お喜びになってくれた。
「ご苦労様。お釣りはあげるわ。火曜に余計にコーラ買わされたんでしょ?」
わがままで辛辣で他の曜子さんと比べるときつい印象だったが意外と優しい。それにプリンを食べるときの幸せそうな顔はまぎれもなく可愛い曜子さんで、見ているだけで幸せになる。
「ちょっと、何見てんのよ。人の食べてる顔見てにやにやしないで」
「ごめんなさい、それじゃあ今日はこれで帰りますね」
なんとなくだが土曜子さんの性格がつかめてきた。こうやって立ち上がって帰るふりをすれば引き留めるはず。
「ちょっと待ちなさいよ。せっかく来たんだからもう少しここにいなさい」
やっぱり。口では僕のことを邪険に扱っているけど内心は寂しがり屋だからそばにいて欲しいと思っているタイプの人だ。中学生の頃に長谷にお勧めされて読んだライトノベルに似たようなヒロインがいた気がする、
「でも曜子さん、僕のこと嫌いそうですし」
「一人じゃ寂しいんだもん。食べ終わるまででもいいから側にいて」
そんなに目を潤ませて上目遣いで見つめられながらお願いされたら断ることなんてできるわけがない。もともと今帰るつもりもなかったのだが。
僕が椅子に座り直すと土曜子さんは一瞬嬉しそうな笑顔になった後、調子を取り戻してわがままモードに入る。
「じゃあ文也。面白い話をして」
「どうして?」
「暇なんだもん」
暇なんだもん、か。唐突で横暴なお願いだけれど従わざるを得ない。だって可愛いんだもん。とっておきの話をしてあげよう。
「ごほん。僕には三歳年下の、今は中二の妹がいるんです。その妹がですね、夏休みに入る前に同級生の男子に付き合ってくれって言われたらしいんです」
「へえ、それで? あんたの妹はなんて返事をしたの?」
「顔と名前を知っているくらいの相手だったし、好みの顔でもなかったのでやんわりと断ったそうです。でも、相手は諦めきれなかったみたいで毎日のように告白してきたみたいで」
「あ―それは駄目ね。うざいったらありゃしないわ」
「それで妹が僕にどうしようって相談してきたんです」
「あんた意外と頼りにされてるんだ。で、どうしたの?」
「妹にそいつを公園に呼び出してもらって『僕に野球で勝てたら妹との交際を認めてやる。負けたら金輪際諦めろ』って言って妹の目の前で野球でぼこぼこにしてやりましたよ。三打席ずつの勝負で、投げては三打席連続三振、打ってはヒット性の当たり二本とホームラン一本でした。僕、中学まで野球やってたので」
「……まあ色々言いたいことはあるけど、やるじゃない。妹のために現役の野球部員相手にそこまでできるなんて」
「そいつは野球部じゃないですよ。妹を確実に守るための方法を取ったんです」
「あ、そう」
「その後妹が『お兄ちゃんありがとう』って言ってくれて、家でホットケーキ焼いてくれたんですよ。美味しいんですよ、あれ。同じ材料なのに妹が作ると何か違うんです」
「ああ、あんたの好物だったわね」
「と、いう話です。面白かったでしょう?」
これは僕の鉄板ネタだ。木島や長谷に話したときも盛り上がったし、高校でも僕に妹がいるという話題になった際には必ず話しては称賛を浴びている。いつか曜子さんに話したいと温めておいたが、これなら土曜子さんも満足のはず。なのに土曜子さんはどこか気難しい顔をしている。
「まあ、求めていた面白さとはだいぶ違ったけど良しとするわ。とりあえずノートに【文也はシスコン】って書いておく」
「ありがとうございます」
シスコンは割と事実だし共有されても構わない。太ももで興奮したのも事実だけれどそっちはいけない。
土曜子さんは本物の曜子さんの次くらいに話しやすい人だった。手は出ないし、単語ばかりじゃなくて文章で返してくれるし、十七歳らしい感覚をちゃんと持っているし、話している途中で眠そうにもならない。たまに無茶ぶりやわがままを言ったりするけれどそれも含めて可愛いと言える。
誠司さんとも知り合っているのでもう少し長居はできたのだが、降っていた雨が止んだタイミングで土曜子さんが「今のうちに帰ったら?」と自転車で来ている僕のことを気遣ってくれたので帰ることにした。
自宅に帰ると、僕は本棚を漁った。土曜子さんのあの性格、時折出る「だもん」という口癖、好物のプリン、特徴的なツインテール、似たようなキャラクターが登場するライトノベルを探してみたが見当たらない。あれは長谷から借りて読んだのか、と思い出す。
次に土曜子さんに会うのは当然次の土曜日。それまでに調べておけば問題ないので月曜日に長谷に聞いてみればいいと考え、僕は今日も勉強を教えて欲しいとねだる妹に、優しく教えてあげるのだった。
日曜日、土曜子さんからも『明日も来るなら気をつけなさい』と言われていたし、誠司さんの忠告もあるので期待半分、不安半分で病室の扉をノックした。「はぁーい」という間違いなく曜子さんの声なのに大人の妖艶さを感じさせるセクシーな声が聞こえる。なんだかいけない世界に入ってしまうのではという予感がして緊張して体が硬くなる。
「ふ、文也です。失礼します」
丁寧に扉を開けると、ベッドの淵に腰かけて足を組み、美容系の雑誌を胸元で手に持った薄手のパジャマ姿の曜子さんが僕のことを品定めするような目で見ていた。
これまでとは異なる大人な雰囲気、おそらく設定上は二十歳を超えているはずだ。そんな彼女が持っていた雑誌を今日は露出していない太ももの上に置くと隠されていた胸元が露わになる。僕の視線は当然のようにそこに吸い寄せられる。
今日のパジャマは薄手だが長袖長ズボンで上半身の前をボタンで留めるタイプのものだ。そのボタンが上から二つも外れていて、パジャマの中身が見える、と思った瞬間に僕は目をそらした。
「あら、どうしたの?」
「よ、曜子さん。前、その、胸元が」
「あーボタン外れちゃってる。別に文也君になら見られてもいいのに」
「え?」
日曜子さんを見ると舌を出していたずらっぽく笑っている。
「残念、もうボタンしちゃった。あ、でも見たいって言ってくれたら見せてあげる。毎日来てくれるログインボーナス的な?」
「い、いや、今はまだ遠慮しておきます」
今はまだ、だ。全く興味がないと言うのは失礼だし嘘になる。
それに僕の脳内には深さまでは分からない谷と、薄桃色のパジャマとは明らかに色も質感も違う白くて丸みを帯びた布の映像がしっかり記憶されているので、今はまだこれで十分だ。これよりも深みには本物の曜子さんと一緒に行きたい。
「ねえ、見せたいものがあるの。こっちに来て」
病室の入り口で立ちすくむ僕を日曜子さんが手招きする。もう誠司さんや土曜子さんの忠告の意味は理解していたので、日曜子さんの目を見て警戒していると「大丈夫、エッチなものじゃないから」とベッドの上を軽く叩いて自分の隣に座るように催促された。
あくまで僕は本物の曜子さんが好きなのであって、本物の曜子さんに青春を捧げ、情熱を注ぐつもりなのであって、いくら見た目が曜子さんだからと言って中身が全然違う人の誘惑にほいほい乗るような人間ではない。
この現象をどうにかした暁には曜子さんと高校生らしい清いお付き合いをしたいと思っているし、そのうち仲が深まったらお互いの同意の上で大人なお付き合いもしたいと思っているけれど、今すぐにそんなことをしたいと思っているはずもなく、第一僕は女の子が隣にいる状況なんて妹に勉強を教えている時に慣れきっているわけだし、金曜子さんとも並んで座ってゲームとかしていたけれど変な感情は抱かなかったし、ちょっと大人っぽい雰囲気の日曜子さんが隣に座った僕の右腕と自分の左腕を絡めて腕に柔らかい胸を押し当ててきているくらいで動揺なんてしない。
「ねえ、文也君はどれがいいと思う?」
「え? ああ、僕はこの口紅がいいと思います」
「私が訊いたのは隣のページの香水のことなんだけど」
動揺なんてしていない。絶対にだ。
「文也君って彼女いないの?」
「なんですか急に。いませんよ」
「じゃあ私と付き合っちゃう?」
日曜子さんは雑誌を閉じてその大きな目を僕に向ける。その長いまつげが僕に触れるのではないかという錯覚に陥りそうになるくらいに距離が近く、僕は驚いて日曜子さんから離れた。
「あんっ。もう、意外と積極的なのね、文也君」
「変な声出さないでください! わざとじゃないです!」
僕の右腕は日曜子さんの左腕と胸に包まれていたわけなので急いで離れようとすると当然のように僕の右腕は日曜子さんの胸にぶつかった。手では触れなかったのでセーフのはずだ。
一応の距離は取れたものの僕はベッドに座ったまま立ち上がることができず、日曜子さんは怪しげな笑みを浮かべながらにじり寄ってくる。
「文也君って可愛い顔してるよね」
「か、可愛さなら曜子さんの方が」
「確かにこの顔すごく可愛いわね」
「それってあなたは本物の曜子さんでないことを自覚しているってことですか?」
「ええ、自分の顔じゃないのはすぐに分かるもの」
「どうすれば本物の曜子さんを取り戻せるんですか?」
「あら? それって私に消えて欲しいってこと?」
日曜子さんは僕の肩を押して、ゆっくりと押し倒す。僕の体のお尻を含めた上半身はすべてベッドに横たわっている状態になる。日曜子さんはスリッパを脱いで僕の真上で膝立ちの四つん這いになった。唇と唇が触れてしまいそうなほど近い。
「本物の曜子ちゃんはこんなことしてくれないよ」
囁くように、誘うように僕の真上で日曜子さんが言う。僕は僕の持ち得る全てを理性に振って、どうにか一線を越えないように耐え忍ぶ。
「あなたの本当の名前は?」
どうにか真面目な話に持っていくしかこの場をしのぐ方法はない。誠司さんは仕事が休みだからいつもより早く来てくれるだろうし、日曜子さんがこういうことをする人だとは知っているはずなので、誤解することなく助けてくれるはずだ。それまでなんとか耐えるのだ。
「内緒」
「どうして?」
「それも内緒。月曜日の子に聞いてみたら?」
「そうします。それより曜子さんの体で勝手にこんなことするのは曜子さんに悪いとは思いませんか? 女の子の大事な体なんですよ?」
「そうねぇ。でももし本物の曜子ちゃんもこういうことがしたいって思っていたらどうする?」
「さっきと言ってることが違います」
「もしもの話よ」
「……仮にそうだとしても、あなたとはしません。あなたは本物の曜子さんじゃないんだから」
「一途ねぇ。私のこと嫌い?」
「嫌いではないです。今もものすごくドキドキしていますし、曜子さんの容姿じゃなかったらこのまま流されていたかもしれません」
「そっか、残念」
本当に残念そうな顔をして日曜子さんは僕の上からどいてくれた。僕はまだ心臓の鼓動や呼吸が安定せず、ベッドに横たわった状態から起き上がることができない。
「どうして今の状況になったかは知らないんですか?」
「内緒。月曜日の子なら知っているかもね」
「あなたの目的はなんですか? 目標でも夢でもいいですけど……」
「……さあ? 文也君の行動次第で変わるかもね」
「なんですか、それ」
「今の状況は自分でも分からないことだらけなの。とりあえず好きなことをしながら、情報を集めながら、現状にできるだけ適応して生きているだけ」
それが月曜日以外の曜子さんたちの生き方だと思うと納得する。皆基本的に好き勝手なことをしているけれど、曜子と名乗ったり十七歳と言ったり、曜子さんの容姿であることには適応しようとしていたし、入院患者であることも一応受け入れていた。火曜子さんの性格なら勝手に抜け出してもおかしくなさそうなのに。
たびたび誘惑されながらも鋼の意志を持って手は出さず、誠司さんが来るまで大人な日曜子さんとの時間を過ごした。色々大変だったけれど、来週の日曜日も絶対に来ようと思う。決して美味しい思いができたとか考えていない。
そして待ちに待った月曜日。今日は本物の曜子さんに一週間ぶりに会えるため朝からウキウキが止まらない。このウキウキを僕の可愛い妹である文音にも分けてあげたい。
「おはようお兄ちゃん、ウキウキして猿みたいだね」
「おはよう」
「ていうかなんで制服着てるの? 昨日が祝日だったから今日は振り替え休日なのに夏期講習あるの?」
「ウキ? ……まじか、忘れてた」
夏期講習の合間に長谷にライトノベルのことを聞こうと思っていたのだがこれでは長谷に会えない。しかし駄目元で長谷に連絡してみるとeスポーツ部の活動のため午前中は学校にいるとのことで合間に会ってくれることになった。
「というわけで午前中は学校、午後はいつも通りおばあちゃんのお見舞いに行ってくるから帰るのは夕方になるよ」
「それはいいけどさ。お兄ちゃんってそんなにおばあちゃんのこと好きだったっけ? もしかしておばあちゃん以外の目的があったりする?」
「文音、今お兄ちゃんは可愛いヒロインのために超常現象と戦っているんだ。母さん達には内緒だぞ」
「何それ中二病? 高二なのに」
最近文音は僕に対して少し辛辣になってきている。昔はお兄ちゃん大好きって感じだったのに。今でも勉強のこととか告白されたときの相談とか必要な時は頼ってくれるのだが、自分に利益がないときはちょっと冷たいことが多い。これも大人になってきている証だろうかと思うと、嬉しくもあり寂しくもある。
学校に到着したことを長谷に伝えると図書室に来るように連絡を受けた。
「悪いね、練習中に」
「別にいいよ、今日は自主練だし。それより、朝言ってたラノベのことだけどうちの図書室にもあったぞ、ほら」
長谷が見せてくれたのは【君が逃がしてくれない~だって好きなんだもん~】というライトノベルだ。ピンク色のツインテールの女の子が主人公と思われる男の子に向かって腕を組んで見下しているように見える。だが頬は少し赤く染まっていてツンツンしながらもその主人公のことが好きでたまらない様子が想像できる。
「中一のとき文也に貸したことあったよな」
「ああ、これこれ。これを探してたんだ。助かったよ」
報酬にペットボトルのコーラを一本渡してやると長谷はeスポーツ部の活動場所であるパソコン室へ戻って行った。
中一の頃に読んだことがあるとはいえ詳しい内容は覚えていなかったのでもう一度読み直してみると、やっぱり、という感覚になった。表紙のキャラが髪型、性格、話し方、何を取っても土曜子さんにそっくりだ。極めつけは、だもん、という言葉が出る頻度。明らかに無理やりな差し込まれ方はされないものの、使えそうな時は必ずと言っていいほどこの言葉でセリフが終わっている。
そのキャラの名前は土門奏。十七歳の女子高生で顔が可愛くてツンデレ属性という以外は特に特徴はない。ただ、文庫本の半分もいかないくらいのページですでに主人公と交際を始めるという展開により、ネットでちょろいヒロイン、いわゆるちょろインとして話題になっていたらしい。読んでいた当時はそんなこと考えもせず、会話の掛け合いが面白くて、登場人物が優しさにあふれた作品だとしか思っていなかった。
一通り読み終わったので本棚に戻そうとライトノベルコーナーに赴き、著者の名前を確認した。その名前には聞き覚えがある。
【奥空文子】
超人気作家であり、本物の曜子さんが好きな作家。そして今年の七月初旬に病気で亡くなっている。
「まさかね」
図書室にある奥空文子が書いた他の書籍も調べてみると、案の定見つけることができた。
「水無月静子、木田まなみ、金井美也」
水、木、金曜日の曜子さんたちと性格や設定がばっちり合致するキャラクターたちが奥空文子の書いた物語の中に存在していた。信じられないが、そうなってしまっているのだから信じるしかない。曜子さんの体には、奥空文子が生み出したキャラの人格が日替わりで降りてきている。
火曜子さんと日曜子さんみたいなキャラは見つけられなかったが、学校の図書室に奥空文子の著書が全てあるわけではないのでこれは仕方がない。また別の方法で探すしかないだろう。
火曜子さんは不良っぽいし、日曜子さんはアレだし、高校の図書室にはふさわしくない内容の本に出てくるキャラなのかもしれない。奥空文子がとにかく色々なレーベルから多種多様な作品を書いているということは、読書好きでも奥空文子のファンでもない僕でも知っている。
本を調べていると病院に向かうにはちょうどいい時間になっていたので最後に長谷にお礼をひと声かけて学校を出た。これから本物の曜子さんに会えると思うと心が弾むが、これまで掴んだ情報をどこまで話すべきか新たな悩みも生まれてしまった。
いつものようにおばあちゃんに顔を見せてから曜子さんの病室の扉をノックすると、聞くだけでウキウキするような可愛らしい返事が聞こえる。色々考えることはあるけれど、まずは曜子さんとの交流を楽しもうと思い病室に入るとベッドの上で正座するニコニコ顔の曜子さんがいた。土曜子さんが着ていたのと色違いのルームウェアを着ているが下は長ズボンで太ももは見えない。
「こんにちは、曜子さん」
「こんにちは、文也君。ここ座って?」
曜子さんが指差すのは自分がいるのと同じベッドの上。布団が端に追いやられていて確かに二人で上に座ることはできそうだ。日曜子さんのような怪しさも感じないので靴を脱いで僕もベッドの上に正座する。曜子さんも体の向きを変えて僕と正面に向き合う。
曜子さんはニコニコしていてとても可愛い。
「さあ、懺悔の時間だよ」
ニコニコしたまま曜子さんが言った。とても可愛いのだが何か圧を感じる。
「懺悔とは?」
「自分の罪を告白して許しを請うことだよ」
「いや、それは知っています。なぜ僕がその懺悔をしなくてはならないのでしょうか?」
「太もも」
「あ」
「指ペロ」
「いや」
「谷間」
「それは」
「白」
反論できない。太もものことはノートに書かないって言っていたはずなのに。
「何か弁明は?」
「……眼福でした」
「眼福?」
「いえ、なんでもないです。ごめんなさい」
「他には?」
「木曜日にポニーテールにしてる時のうなじが綺麗だなって思ったり、水曜日、勉強している時に髪を耳にかける仕草にドキッとしたり、火曜日に叩かれるのも悪くないと思ったりしていました」
「正直でよろしい」
「はい、ありがとうございます」
「私のこと、好き?」
「はい……え?」
話の流れに乗ってしまい、つい正直に答えてしまった。曜子さんはニコニコするのをやめて真剣な表情で僕をまっすぐに見つめている。
「毎日来てくれるってことはそうなのかなって思ってた」
「いや、その、何て言うか、言葉にならないや」
曜子さんは棚に置いてあるノートを取った。おそらくその日あった出来事が詳しく書いてある。
「私の身に起きている現象は理解しているよね?」
「はい。まだ分からないこともありますけど、だいたいは」
「他の曜日のことも夢で見たくらいには覚えてはいるの。でもあくまでなんとなくだからこのノートに色々書いて他の曜日の人と共有してるんだ」
「そうかな、とは思っていました」
「文也君は皆と仲良くしていたね。その記憶もなんとなくは覚えているし、詳細な出来事も理解できている。それにそのとき私の体で抱かれた感情も私の中に残っている」
「感情……?」
「君がさっき懺悔したこと、皆嫌がってはいなかった。金曜の子はすごく人見知りするし、土曜の子も気に入った相手以外にはツンツンしっぱなしだし、日曜の人は、まあアレだけど誰彼構わずあんなことするわけじゃない。きっと火、水、木の子たちと君が関わったときに抱いた感情のおかげで金、土、日もああいう感じになったんだと思う」
「僕のことを気に入ってくれたってことですか?」
「そう。そもそも私が最初だったけどね」
「曜子さんも僕のことを……ってことですか?」
「私、彼氏にするなら家族思いで優しい人って決めていたんだ。この暑さの中、汗びっしょりになりながらおばあちゃんのお見舞いに駆け付けたっていう君に興味を持ったの」
曜子さんは足が痺れてもぞもぞしていた僕のことを察してくれたのか自分も足を崩し、ベッドの淵に移動して足を垂らした。僕も曜子さんの隣に並んで同じようにする。
「妹さんにいつも勉強教えてあげているんだよね。これは水曜日に話していたはず。漫画好きのお父さんと一緒に漫画の感想を語り合ったり一緒に買いに行ったりしているっていうのは火曜日だったかな。時間がありさえすればお母さんの買い物に必ず付き合って荷物を持ってあげてる話は昨日していたね。家族の誕生日には必ずプレゼントを用意してる。これは土曜日」
曜子さんは開いていたノートを閉じて僕の顔を見つめた。一週間毎日見た顔だが、その表情は今までの表情とは微妙に違う気がする。うまく言えないけれど、この表情は火曜日から日曜日の曜子さんたちにはできない。透き通っていて、情熱がこもっていて、美しい。
「家族思いで優しいよね、文也君は」
曜子さんから目が離せない。ただずっと見つめ合って曜子さんの次の言葉を待つ。心臓の鼓動がうるさい。
「七海曜子を救ってくれる?」
「救うって?」
「元の七海曜子に戻して欲しい」
「他の曜日の人格を消すってことですよね?」
「うん、そうしたら君と……」
曜子さんは顔を僕に近づける。曜子さんの吐息を僕が吸い込めるくらいの距離だ。
いいのか。このまま進んで。
目の前にいるのは本物の曜子さんだ。その曜子さんが唇が触れ合いそうになるくらいの距離まで自ら近づいてきたのだ。何も問題はない。
早く曜子さんに会いたくて昼食は取らなかったから口の匂いは大丈夫なはず。目は閉じた方がいいのだろうか。体は抱き寄せていいのだろうか。している間、息はどうしたらいいのだろうか。
そんなことを迷っている僕の唇に柔らかいものが触れた。残念ながら唇ではなく、右手の人差し指だ。
「それまではお預けだね」
人生における心臓の鼓動の回数が決められているとしたら、僕はこの一週間で確実に寿命を縮めている。その原因を作った曜子さんのことを僕は大好きだ。たとえ短い人生になろうとも曜子さんと一緒にいられるのならば悔いはない。
「頑張ります」
「お願いします」
「でも、どうやって? 昨日の曜子さんはなんでこういう状況になったのかも、自分たちの目的がなんなのかも分からないって言っていました」
密着しそうだったところから少し離れて座り直した曜子さんはうつむいて「うーん」と唸り始め、答えるまでには時間がかかった。
「満足すれば消えてくれるんじゃないかな?」
はっきりとした答えは曜子さんにも分からないようだ。
「さ、真面目な話はこのくらいにして懺悔の続きをしよっか」
曜子さんは真剣な表情から最初のニコニコ顔に戻す。
「ええ? もう何もしてないですよ」
「柔らかかった?」
「……はい」
「正直でよろしい」
「あの、どうすれば許してもらえますか?」
曜子さんは再び「うーん」と唸って考え出した。ただし今度はうつむかず、腕を組んだ状態から右ひじから上の部分だけ顔の方に曲げて、人差し指を唇に当てている。その指はさっき僕の唇に当てた指だがあまり気にしていないようだ。
「そうだね、許すよ」
「ほんとに?」
「わざとやったわけじゃないもんね。だいたい日曜日の人が悪いんだし、金曜日の子が寝ぼけてたのも悪いし、土曜日の子が文也君が来るって分かってるのにあんな短いやつを履いてるのが悪い。ってことで特別に許してあげる。でも……」
曜子さんは棚に置いてあった小さなポーチから髪を留めるゴムを取って、耳を隠して顔の方に流れていた髪を耳にかけ、そのまま髪を後ろで一つにまとめるとゴムで縛ってポニーテールにしてうなじを僕に見せつけた。そしてその一連の動きに見惚れていた僕の頬を、ペチンという効果音すらも可愛くビンタする。
「どう? こういうのが興奮するんでしょ?」
「言っておきますけど、曜子さんだからいいのであって、女性なら誰でも興奮するわけではありませんからね」
「興奮することは否定しないんだ」
「はい。だからこれからも色んな姿を僕だけに見せてくれると嬉しいです」
「なんかその言い方エッチ。ノートに書いておかないと。【文也君はエッチ】って」
曜子さんは本当にノートに書き始めた。火曜子さんとか、土日の二人に何を言われるか今から恐ろしい。
「他にも文也君の性癖はいっぱいメモしておこう」
ノートを書き終えた曜子さんはとても満足気だ。これで本当に手打ちにしてくれたということだろうか。
「さて、懺悔も終わったし何かして遊ぼうよ。お父さんお休みだけどいつもの時間に来るから。それまで、駄目?」
曜子さんの一番の特徴はやっぱりこの目だ。ぱっちりと大きくてまつげが長くて、何故かキラキラしているように見えるこの目で僕に「寂しいからかまって」と訴えかけてくる。もちろん時間なんていくらでもあるし断る理由はない。
「もちろんいいですよ。何をします?」
「これだよ、これ。金曜日にやったんでしょ? 私とも勝負しようよ」
曜子さんは僕が金曜子さんと遊んだゲーム機の準備を始める。
「いいですけど、意外ですね。ゲームとかやるんだ」
「やらないように見えた? 昔からママと一緒にやってたんだよ。ママは仕事の息抜きにゲームするのが好きだったから。このゲーム機はうちにあったやつだし」
ゲーム機は、ということはプラスチックのバットとか不良漫画は別の曜日の曜子さんが勝手に買ったやつなのだろう。むしろそれくらいで済んでいるのだから、皆本物の曜子さんにできるだけ迷惑をかけないようにしているのだろうか。
そしてお母さんの存在を曜子さんが初めて口にした。毎日お見舞いに来るのが父親の誠司さんだけなのでもしかしたら複雑な家庭事情でもあるのかと思ったが、お母さんとの思い出はしっかりあるようだ。お見舞いに来る気配がないことを考えると、複雑ではないにしろ順風満帆ではない家庭状況なのかもしれないが。
ゲームではまたもやぼこぼこにされた。
曜子さんは金曜子さんと同じくらいうまい、というか金曜子さんが曜子さんと同じくらいうまいのかもしれない。火曜子さんのビンタがたいして痛くなかったのは曜子さんと同じ力しかないからだと考えていたので、ゲームの実力もそうなのだろう。
僕が十五連敗したところでゲームは終わることにした。
「ありがとね。手加減して私を喜ばせてくれたんだよね?」
「それは追い打ちですよ、曜子さん。おかしいな、小学生の頃は学校で一番強かったのに」
「井の中の……」
「言わないで。分かってますから」
僕をからかいながらゲーム機を片付ける曜子さんの声色はなんだか楽しそうだ。なんだか本当に恋人になったみたいで、毎日通ったり、色々なことを理性で耐えた成果が出ていて嬉しい。
この現象を解決すれば毎日のように曜子さんとこんなに楽しく過ごすことができるのかと思うと頑張らざるを得ない。早速手掛かりになりそうな奥空文子の作品のことについて聞こうとした瞬間、僕のスマートフォンに通知が届く音がした。
「あ、すみません、病院なのに」
届いていたのは妹の文音からのメッセージだ。
【帰ってきたらこれ教えてね(ハート)】
最後にハートマークをつけてお願いされてはお兄ちゃんは頑張らざるを得ない。数学と理科の応用問題の写真も添付されている。これくらいは高二の僕にとってはお茶の子さいさい。華麗に解いて優しく教えてあげよう。
でももう少しだけ待っていてくれ文音。今週、曜子さんと過ごせる時間はあと少ししか残されていないんだ。
「にやけてる。女の子からの連絡?」
「そうですね」
「むっ」
と言いながらむっとした表情をする曜子さんが僕のスマホの画面を覗こうとする。
「もしかして嫉妬してます?」
「そんなことないよ。私のことを好きって言った文也君が私以外の女の子からの連絡を嬉しそうに見ていて、なんか面白くないなって思っただけ」
「それを嫉妬って言うんじゃ……妹ですよ。帰ってきたら勉強を教えて欲しいって」
「ふーん。怪しいなー」
「じゃあ見せてあげますよ、ほら」
「むむむ」
スマホを渡すと曜子さんは僕と文音のメッセージのやり取りを過去の履歴も含めて見始めた。まるで浮気チェックをする彼女ようだ。
曜子さんは僕のことを気に入っていると言った。それにあんなキス寸前まで近づいてきた。すぐに真面目な話をしたり懺悔が再開されたりゲームをしたりでゆっくり考える暇がなかったが、これはとんでもないことなのではないかと思う。
もしも曜子さんが僕のことを好きなのであれば、たった一週間でしかも実際に会うのは二回目で両想いになったということだ。実は僕ってすごく魅力的な人間だったのか、それとも僕と曜子さんの相性がばっちりだったのか。どちらにせよ、今まで恋愛経験がなかった僕にとって、今の状況は幸せだということだ。
曜子さんは浮気チェックを終えて僕にスマホを返しながら自分のスマホを取り出した。
「せっかくだから連絡先交換しようよ。私は月曜日しか返事できないけど」
「もちろんです。でも、他の曜日の人はスマホ使えるんですか?」
「ないと不便だから使えるようにしているよ。友達からも連絡とか来ないし」
そういえば誠司さんが言っていた。曜子さんの友人も入院当初はお見舞いに来てくれていたが違う人格に驚いて来なくなってしまったと。
「でも今は文也君が来てくれるから寂しくない」
友達から連絡がこないと言ったときの寂しそうな表情から一変、儚げににこりと笑うその表情にドキッとする。結構好き勝手に僕のことをいじってきたりするくせにたまに守ってあげたくなるような仕草をするからずるい。
「これからも毎日来ますよ」
「ふふ、ありがと。でも明日からお盆でしょ? お墓参りとか行かないの?」
「父さんの実家はうちの近所ですし、母さんの実家は病院から結構近くて、お墓も実家から近いのでここに来る前か帰るときに寄れますから。寂しい思いはさせません」
「そっか。それなら皆喜んでくれるね。皆が喜んでくれたら私も嬉しくなる」
その後、曜子さんが飲み物を買いたいというので僕らの出会いの場所である自販機コーナーへ一緒に行くことになった。
廊下ですれ違う看護師さん達とはもう何度も顔を合わせ挨拶もしている顔見知りだ。特に杉本さんという女性の看護師さんは曜子さんを担当することが多い人で、二十代半ばということもあり最も曜子さんたちと仲が良いしそれぞれの性格を把握している。
また、南沢高校出身で親近感があるのか僕にもよく声をかけてくれる。木曜子さんや金曜子さんのときにお世話になったのもこの人だ。
「あ、杉本さんお疲れ様です。午前ぶり」
僕の隣を歩く曜子さんが対面から歩いてくる杉本さんに挨拶をした。僕も「こんにちは」と言いながら会釈をすると杉本さんは僕らを見ながら微笑んだ。
「曜子ちゃん。今日は文也君とお出かけ?」
「はい、自販機デートです」
「いいね、デート。楽しんでね」
手を振ってすれ違う曜子さんと杉本さんだが、すれ違いざまに杉本さんは僕を捕まえて耳打ちしてきた。曜子さんは気づかずに前方に歩き続けている。
「仲良しじゃない。まさかお付き合い始めた?」
「いえ、まだですけど、僕が曜子さんのこと好きだって言うことはすでに伝わりました」
「えー? それで曜子ちゃんもあんな楽しそうってことはもうそういうことじゃない。なんで付き合ってないの?」
「元の曜子さんに戻るまではお預けってことになって」
「そっか―。まあそうだよね。こんな状態じゃお付き合いとか難しいもんね」
「検査してるんですよね? 戻す方法とかこうなった原因とか分からないんですか?」
「さあ? 大学の教授クラスの人も色々調べているみたいだけど、何も分からないということしか分かってないね。まあ分かっていたとしても、いくら仲良しでも他人に勝手に検査結果は教えられないんだけど。これは私個人の見解だけど、単純に多重人格とか解離性同一障害って片付けられるものじゃないって思うな」
「そのことならもう誠司さんに聞きました。それっぽいけどそうじゃないっぽいところもあるって」
「なんだ、せっかく君をサポートしてあげようと思ったのに」
「十分サポートしてもらってますよ。さっきもデートっていう言葉を曜子さんから引き出してくれたし。木曜や金曜もお世話になりました」
「君は優しいね、惚れちゃいそう」
「駄目ですよ。僕には曜子さんがいるので」
「文也くーん、何してるの?」
自販機コーナーから曜子さんが僕を呼んでいる。こそこそ話が長くなりすぎたようだ。
「すみません、行きますね」
「何かあったら言ってね」
僕の肩を軽く叩き杉本さんは仕事に戻った。僕も急いで曜子さんのもとに行くと曜子さんは軽く頬を膨らませてご立腹の様子。
「杉本さんと仲良さそうに何話してたの?」
「曜子さんって可愛いよねって話です」
「えー? ほんとかなー?」
「本当です。キャラメルラテ買ってあげるので機嫌直してください」
「ふふ、ありがと。そういうことにしといてあげる」
百六十円でこんな満面の笑みが見られるなら安いものだ。
「キャッラメッル、キャッラメッル。うっれしいなー」
病室に戻る道すがら曜子さんはご機嫌な歌を披露してくれた。百六十円でこんな歌が聞けるなら安いものだ。
「文也君の抹茶ラテも美味しそうだね」
病室にて、曜子さんのキャラメルラテの隣にあったので買ってみた抹茶ラテを飲んでいると曜子さんが物欲しそうな目で言ってきた。
「飲みたいですか? 口つけちゃいましたよ?」
「気にしないよ」
差し出したペットボトルの抹茶ラテを一口飲んで「甘くておいし―」と幸せそうな表情をする曜子さん。本当に間接キスとか気にしない人なのだと改めて思う。僕なんて曜子さんから返された抹茶ラテの飲み口を見るだけでドキドキしてしまうというのに。結局抹茶ラテは恥ずかしくなって飲むことができず、棚に置いてしまった。
その後は「トランプしよう」という曜子さんの提案に乗り、二人でババ抜きをすることになった。二人だとババを引かない限り絶対に揃うので大抵の場合は最後の一枚と二枚の勝負になる。したがって途中までは頭を使わない作業なのでトランプ越しに見つめ合いながら雑談をするのにはちょうどいいゲームだ。カップルにお勧めとして紹介したいくらいには楽しい。
「文也君って今まで彼女がいたことはないんだよね? 昨日聞いた気がするけど」
初めて会った日に色々話をしたテーブルをはさみ、自分の手札を見つめながら曜子さんが尋ねてきた。僕は曜子さんの手札から一枚引きながら答える。ババを引いてしまい、曜子さんが笑顔になる。二人だと本当に駆け引きも何もない。
「はい。そうですよ」
「好きな人とかもいなかったの?」
「うーん、いるにはいましたよ。幼稚園、小学校、中学校ってそれぞれ。でもクラスが変わったり学校が変わっても全然悲しくなかったし、すっかり忘れちゃうくらいくらいだったので本気で好きじゃなかったんだと思います」
「私のこともいつか忘れちゃう?」
「忘れませんよ」
「どうしてそう言いきれるの?」
「こんな風に仲良くなったのは初めてなので。絶対に忘れませんよ。曜子さんはどうなんですか? モテたんじゃないんですか?」
今度は曜子さんがババを引き、ちょっとだけむすっとした顔になった。
「告白されたことは何度かあったかな。でも付き合ったことはないよ」
「どうしてですか?」
「どうしてだろ? 他にやりたいことがあったのかもしれないけど、事故のショックで忘れちゃった」
どこか誤魔化しているようにも聞こえたが事故のことを出されるとこれ以上追及するのは憚られる。
「さて文也君、選択の時間だよ」
曜子さんは右手と左手で一枚ずつカードを持って僕に突き出す。絵柄を揃える作業が終わり、駆け引きと運試しの時間が始まった。
「曜子さんは右と左どっちが好きですか?」
「右かな。なんか右って左よりあったかい感じがしない?」
「うーん……確かに考えてみるとそうかも」
「なんでだろうね?」
「ひは発音するとき唇が触れ合わないけど、みは触れ合いますからね。なんとなく熱を感じるのかもしれないです」
「それだ。長年の疑問が解消されたよ。だからママとかパパってあったかい感じがするんだ」
「なるほど、一理ありますね。ところで今右手と左手で持っているカードを入れ替えたのは何故ですか?」
「右が好きだからね。右にいいもの置きたいの」
「なるほど、じゃあ右を引きます」
僕は曜子さんが左手で持っているカードを掴んだ。曜子さんは強くカードを握って手を離してくれない。
「曜子さん、往生際が悪いですよ」
「だってこれ左だよ? 右にいいもの置きたいって言ったでしょ? 文也君にいいものあげたいから考え直してもらおうと思って」
「曜子さんから見て左は僕から見て右なんですよ」
僕が左手のカードから手を離し、右手の方に手を伸ばそうとすると曜子さんの左手の力も緩まり、僕はその隙を見逃さずに左手のカードを引き抜いた。僕の手元にあったカードと数字が一致して僕の勝利となる。
「むー、ゲームよわよわの文也君に負けるなんて。もう一回やろ。次は負けない」
「もちろん。さっき負けまくった分取り返させてもらいますよ」
雑談をしながら数字合わせの作業をして、最後の駆け引きを楽しむ二人ババ抜きはしばらく続いた。僕は妹の文音とのエピソードをこの時とばかりに披露し尽くし、曜子さんは喜んでくれたようだ。結局僕が勝ち越しはしたのだが、ゲームの十五連敗をひっくり返すには達しないくらいで帰宅するのにちょうどいい時間となった。
「そろそろ帰りますね。文音に勉強教えてあげないといけないので」
「うん、すごく楽しかった。また来週ね」
「僕は明日も来ますけどね。それじゃあ失礼します」
適温に調整された病院から外に出るとむわっとした夏の暑さに体が包まれる。だがそれ以上に僕を包むのは充実感だ。大好きな曜子さんとあんなにも楽しい時間を過ごし、先週まで灰色だった僕の人生はあっという間に華やかに色付いた。この夏の暑さでさえも僕らの熱々の関係を表しているようで心地良く感じられる。
軽い足取りで駐輪場へ向かい自転車に乗る前にのどを潤そうとした時、抹茶ラテを病室に置き忘れてしまったことに気がついた。間接キスが気になって曜子さんの前で飲む気になれず、棚に置きっぱなしだった。
【すみません 抹茶ラテ忘れたのでもう一回病室にお邪魔しますね】
曜子さんと交換した連絡先に早速メッセージを送ると一分ほどで返信が届いた。メッセージが一件と写真が一枚だ。
【ほんとだ! 待ってるね!】
メッセージとともに送られてきたのは僕の抹茶ラテを手に持って自撮りする曜子さんの写真だ。斜め上からの見慣れない角度の曜子さんも可愛い。保存して絶対に消えないように保護しておこう。来週まで夏期講習がないので木島や長谷に自慢できないのが悔やまれる。
病室の扉をノックすると「どうぞー」という良く通り聞き惚れてしまうくらいに綺麗な声が聞こえる。声自体は皆同じなのだけれど、声が纏っている雰囲気はやっぱり本物の曜子さんが一番好きだ。
病室に入ると曜子さんはベッドに座り、ベッドテーブルの上に置いたノートパソコンと向き合っていた。抹茶ラテを回収しながら何をしているのかと尋ねると、曜子さんは少しだけ恥ずかしそうに答えた。
「一人のときは小説を書いているの。小説家になるのが夢なんだ」
「へえ、格好いいですね。読書好きが高じて、みたいな感じですか?」
「まあ、そんなところかな」
「どんなのを書いているか教えてもらえたりは?」
「今はだーめ。まだ全然書けてないし、面白いかも分かんないし」
「じゃあ、完成したら見せてもらえませんか?」
「いいけど、完成、するかな……」
僕の方を向いていた曜子さんは眉を下げ、ノートパソコンの画面を見つめる。賞に応募するつもりなのかもいつまでにどれくらい書くつもりなのかも分からないが、その表情から進捗が良くないことは分かる。
「もしかしなくても、一週間に一日しか書けないですよね?」
「そうだね」
「僕と一緒にいるのって小説を書く邪魔になったり……」
「そんなことないよ。ちょうど高校生の男女をメインにした話を書いてるから、リアルな男子高校生と過ごせるっていうのはすごくありがたい。男の子がどんな風に物事を考えているかとか想像だけじゃ限界があるから。だから来週も来てね」
「分かりました。曜子さんには僕の知りうる男子高校生の全てを教えてあげますから、来週は覚悟しておいてください」
「ふふ。なーに? その全てって。なんか怪しい。エッチなこと教えるつもりでしょ」
「そ、そんなんじゃないですよ。できるだけリアルな描写ができるように手伝って、もし出版されることになったら僕がファン第一号になろうって思っただけです」
「ファン第一号か……いいね、サインも考えておかないと」
「色紙と額縁も用意しておきます」
僕のスマホが鳴った。文音から【まだ帰ってこないの? 夕飯前に教えて欲しいんだけど】というちょっと不機嫌そうなメッセージが届いている。
「すみません、そろそろ本当に帰りますね。小説、楽しみにしてます」
「うん。また来週」
病院を出て、駐輪場の自転車の前で抹茶ラテを飲んだ。キャラメルラテよりも幾分か苦みを含んだ甘さが口の中に広がり、今日の思い出の味となる。僕は今後の人生で抹茶を見たり飲んだりしたら、今日のことが思い浮かぶだろう。笑顔もむすっとした顔も真剣な顔も、本物の曜子さんの顔を全部忘れない。
夜寝る前になって、曜子さんに奥空文子作品について訊くのを忘れていたことに気がついたが、もう訊けるような時間ではなかった。
翌日は家族で父方の実家へ行き、お墓参りをしてからいつものように病院へ向かった。両親は僕が毎日おばあちゃんのお見舞いと称して病院に行っていることは知っているが特に咎めるようなことは言ってこない。何か別の目的があることは当然気がついているはずだが。
文音は大好きなお兄ちゃんが他の女にご執心であることに不機嫌になることもあったが、曜子さんの写真を見せると「絶対彼女にして。家に連れてきて。こんな綺麗な人と仲良くなったなんてお兄ちゃんすごい」と手のひらを返し、応援してくれることになった。
「というわけで今日も来ました」
「そうか」
ベッドの上にあぐらをかいて座り不良漫画を読む火曜子さんは本物の曜子さんと違って僕の家族の話にはあまり興味がないようだ。お見舞いのコーラを差し出すと「ありがとな」と言いながら凛々しい笑顔をくれた。その後は再び漫画に目を移す。
「お前、毎日来てるんだってな」
火曜子さんは漫画に目を向けたまま独り言のように僕に尋ねた。
「曜子さんと一緒にいるのが楽しいので」
「それはあたしか? それとも別のやつか?」
「全員です」
僕が恋をしているのは月曜日の、本物の曜子さんだ。でもどの曜日の曜子さんと一緒にいるのも楽しいということは決して嘘ではない。彼女たちは皆、作られたような設定や性格をしているがその反応や言動は生身の人間そのもので、決して人形やロボットのような存在ではない。
「水無月静子って知っていますか?」
「知らん」
「木田まなみは?」
「知らん」
「金井美也や土門奏は?」
「知らん」
「奥空文子は?」
「詳しくは知らんがそこの本棚で名前は見たことがある」
火曜子さんが指差す先には様々な本が並べられた本棚がある。自宅から見繕って誠司さんが持ってきたものらしいそれには曜子さんが好きだと言う奥空文子が書いた本もいくつか並んでいる。
「それだけですか?」
「ああ。なんだよ、何が聞きてえんだ?」
火曜子さんが僕にデコピンした。痛くないし、先週に比べてもかなり優しくなっている。きっと一週間分の曜子さんたちと仲良くした結果、僕に対する警戒心が抑えられてきたのだろう。
「曜子さんって将来何かしたいことあります? 夢とか目標とか」
「……バイクで日本一周すること」
「へえ、免許持ってるんですか?」
「ああ……いや、持ってなかったな」
曜子さんは持っていないが、火曜子さんは持っているという設定なのだろう。名前と同じようにその辺は曜子さんに合わせているようだ。
「でもいいですね、バイク。確か十六歳から免許取れるんですよね。僕も取ってみようかな」
「取れたとして、バイクはあんのか?」
「ないですね。買うお金もないし、そもそもバイク通学なんて許可されないだろうから、高校生のうちはあんまり取る意味ないかも」
「お前賢い高校だったもんな。あたしは昔はダチと一緒に……いや、忘れてくれ」
本物の曜子さんに合わせているようだが火曜子さんは結構口が緩い。隠し事はあまり得意ではないようだ。
バイクの免許を持っていて、おそらくバイク自体も持っていて結構乗り慣れている。通っている高校の偏差値はあまり高くなさそうだ。そしてこれは偏見だが、荒っぽい口調と少し暴力的な部分、不良漫画が好きなところを鑑みると暴走族とか不良系の設定のキャラクターなのではないかと思う。今は割と落ち着いているので、元、がつくかもしれないが。
それから火曜子さんはまるで自分が乗っていたことがあるかのようにバイクの魅力を語ってくれた。語っている時の表情は子供のように純粋でキラキラと輝いていて、室内なのに夏の海沿いの道を走っているような、爽やかな風を感じている錯覚すら覚えた。
翌日の水曜日は家族そろって母方の実家に行きおじいちゃんと合流し、ご先祖のお墓参りをして病院に向かい、おばあちゃんのお見舞いをすることになっていた。僕はおばあちゃんのお見舞いが終わると近くのレストランでお昼ご飯を食べるという家族と別れ、病院に残ることにした。文音も曜子さんに会いたいと言っていたが、本物以外に合わせると後々面倒になりそうなので検査が大変とか適当な嘘をついて断った。
さすがに説明を求めてきた両親も、曜子さんの写真を見せながら曜子さんのすばらしさや今僕はこの人のために頑張っているということを熱弁すると納得してくれたので、僕はこうしてまた曜子さんの病室の扉をノックしている。
「……どうぞ」
水曜子さん、もとい水無月静子さんの小さくとも水のように涼やかな声が聞こえると、僕は病室へ入る。
水無月さんは先週と同じようにベッドの背もたれを上げて座り、備え付けのベッドテーブルの上のノートに向かってペンを走らせていた。無表情だが一生懸命さが伝わってくる。
「勉強、ですか?」
「ええ」
「今日も数学か。数学苦手なんですか?」
水無月さんは一瞬だけむっとしてそんなことないと言いかけたようだが、すぐに無表情になり、冷静に答えた。
「……そうね。文系科目は得意なのだけれど、理系科目は少し苦手」
奥空文子の小説の中の水無月静子の設定と同じだ。
「だから一年生の内容の復習をしてるんですね」
「ええ、誰かいい先生でもいればもっと効率がいいのだけれど、この環境だと厳しくて。理系科目が得意な人は近くにいないかしら」
水無月さんは無表情のまま僕のことをちらちらと見る。確かに二年生からの文理選択では理系を選んだと先週の何曜日かに言ったはずだから、それをあてにしているのだろうか。
一年生の内容くらいだったら教えることもできると思うが、三年生に教えるのはなんともやりづらい感じもする。そもそも水無月さんは十六歳という設定のはずで実際に先週十六歳と言いかけていたから、三年生なのはおかしい。年齢や学年がごちゃごちゃになって頭がおかしくなりそうだ。
だが目の前で水無月さんが困っているのは一年生の内容だ。やってみるしかない。水無月さんたちが小説の中のキャラクターの人格であると分かった今、その内容に沿って行動してみるのが現状打破のヒントになると信じたい。全部は読めていないが小説の中でヒロインである水無月静子は主人公に勉強を教えてもらうシーンがあったはずだ。
「僕が教えますよ。数学はそこそこ得意なんです」
「無理にとは言わないけれど、お願い」
「では早速、何か悩んでいる問題とかありますか?」
「これよ。【区別のつかない七個のリンゴを三人で分けるときの分け方は何通りか、ただし一個ももらえない人がいてもいい】という問題。七個と三人なのに解説に九の階乗が出てきて意味が分からない」
「あーそれは重複組み合わせってやつですね。僕も去年ちょっと苦労しましたよ」
「今は理解しているの?」
「もちろん。えっとまず、同じものを含む順列は知っていますか?」
「ええ、それは知ってる」
「じゃあ簡単ですよ。えっと、仕切りを用意して三人を分けるとしたら何個必要ですか?」
水無月さんからペンを借りてノートに短い縦線を一本引き、その下にAと書いた。僕は水無月さんの右横に移動しており、右利きの僕がノートに書こうとすると体が急接近してしまうが水無月さんは気にする様子はない。そんなことより僕の話を聞き、ノートを見て考えることに夢中のようだ。
「二本かしら」
「そうです。じゃあこの区切ったところに適当にリンゴを七つ入れていきます」
先ほど書いたものから少しだけ離して平行になるように縦線をもう一本付け足し、その下にBと書いた。左がA、右がBだ。Aの左に丸を四つ、AとBの間に丸を二つ、Bの右に丸を一つ書いて、必要はないがへたの部分を書き足してリンゴっぽく見せると、水無月さんは「ふふ」と小さく声を漏らして微笑んだ。基本的に無表情だけど、決して無感情ではない。
「こうするとどういう風に分けたか分かりますか?」
「一人目が四つ、二人目が二つ、三人目が一つね」
「そうです。この問題はこういう感じの分け方が何通りあるかっていうことを聞いているんです。今、何が何個ずつ並んでいますか?」
「丸、いや、リンゴが七つと縦線が二つね……ああ、そういうことか」
「分かりました?」
「ええ。合計で九つのものが一列に並ぶと考えるから九の階乗が出てきて、同じものが七つと二つあるから七の階乗と二の階乗で割っているのね」
「完璧ですね。ちょっとヒントをあげただけで理解できるなんて、理系科目が苦手なんて嘘みたいですよ」
「ふふ、褒めても何もでないわ」
得意げに微笑む曜子さんの顔を見られただけで十分だ。
その後も何問か質問に答え一段落すると水無月さんは「お礼にいいものをあげる」とまたもや得意げな表情を見せてくれた。褒めても何もでないと言っていたが、出るようだ。
少しの間後ろを向いているように言われたのでその通りにしていると後ろで何やらごそごそという音が聞こえる。
「いいわよ」
振り返ると水無月さんは何かを持っているように両手で握りこぶしを作り、こちらに向けている。今までノートなどが乗っていたベッドテーブルの上にはペンケースだけが残っており、ノートやペンケースの中身などはベッドの上に移動させられていた。
「私の右手か左手かペンケースのどれか一つの中にあなたへのプレゼントが入っているわ。どこに入っているか当てられたらあげる」
「僕へのプレゼントなのに当てないとだめなんですか。まあいいや、右手で」
いいものは右に置きたいって曜子さんが言っていた。
「文也君、ペンケースを開けてちょうだい」
「え? はあ、分かりました」
当たりかはずれを言う前に水無月さんはそう言った。指示通りペンケースを開けると何も入っていない。
「最後にチャンスをあげる。今あなたは右手を選んでいるけれど、左手に変えてもいいわよ?」
数学の教科書の片隅にこんなゲームが紹介されていた気がする。詳しいことは覚えていないがこの場合、変えた方が良かったはずだ。
「じゃあ左手にします」
開かれた水無月さんの左手の中には何も入っていない。
「残念、はずれね。どうして変えたの?」
「変えた方が当たる確率が高いんですよね。確かこの場合、変えたら当たる確率は三分の二、そのままなら当たる確率は三分の一だったかな。あくまで確率の話だからはずれ引いちゃいましたけど」
「なんだ、知っていたの」
水無月さんが残念そうにうつむいてしまった。やってしまった。これは解説したかったパターンだ。
「す、すみません。確率はなんとなく覚えているんですがどうしてそうなるかは忘れちゃってて、もし良ければ教えてくれませんか?」
「そう? 仕方ないわね」
水無月さんはパッと顔が明るくなってウキウキで解説を始めだす。この問題は直感とは異なる結果になる確率の事象として有名な問題らしい。求め方は色々あるらしいが条件付き確率の考え方を使った求め方を丁寧に解説してくれた。
その表情はとても楽しそうで、数学は苦手と言っていたけれど勉強することは好きという、探求心や向上心の高さが表れているようだった。
そんな水無月さんに「本当は水無月静子って名前なんですよね」と言って困らせるようなことはできない。
満足した水無月さんは、はずれたにも拘らず右手に入っていた包装された小粒のチョコレートをプレゼントしてくれた。先週よりももっと仲良くなれた気がする。
翌日は特に予定はなく、いつも通りの時間に病院に向かった。木曜日ということで着替えやタオル、帽子に飲み物の準備はしっかりしている。今日は一段と気温が高く日差しも強いので熱中症対策として用心するに越したことはない。
先に病院近くの公園を先に覗いてみたが木曜子さん、もとい木田まなみさんも、少年少女たちも今日はいない。お盆休みだから家族で出かけているのだろう。
病室に入るなり、木田さんは勢い良く僕に迫ってきた。
「文也君、行こう!」
木田さんは先週と同じ白の半そでシャツと紺のハーフパンツを着て、どこかのプロ野球チームの帽子を被り、色々入っていそうなリュックを背負って出かける準備万端という感じだ。ふんふんと鼻を鳴らして腕を胸元で上下に振って、今にも駆けだしそう。
「外に出る準備はしてきたけど、どこに行くの?」
「前に行った公園の近くにバッティングセンターがあるんだ。文也君、野球得意そうだし一緒に行きたいなって思って」
「いいね、行こう。でも曜子さんって野球好きだったの?」
「うん! 昔から好きで今もソフトボール部に……あ、なんでもない」
「暑いから熱中症に気をつけようね」
木田さんがソフトボール部に所属している設定だということは知っている。両親がいない子供たちが集まる施設で暮らしていて、そこでは小さい子供たちのお姉さん役だということも。
将来の夢がお母さんというのはかなり物語の根幹に関わりそうなことだというところまでしか読んでいなかったことを今になって後悔した。もっと詳しく知っていれば、質問の仕方とか、接し方を変えて情報を得ることができそうなのに。月曜日まで学校の図書室には入ることはできないからすぐに読むなら今日の帰りにでも買って読んでおくしかない。
お盆休みも三日目となると遠出をしない人は暇な時間ができるのか、バッティングセンターは家族連れや中学生のグループなどであふれていた。鈍い打撃音が体に懐かしく響き、中学で野球をやっていた時の感覚を呼び起こす。すぐにでも打ちたくなるが、今空いているところは中学の県大会二回戦負けレベルの僕には少しハードルが高い。
「あ、あそこ空いてるし周りに誰もいない。私行ってくるね!」
「あ、ちょっと曜子さん!」
木田さんが入ったケージでは時速百五十キロの球が出てくる。経験者でもなければ手も足も出なさそうな場所で打てるだけの実力を持った人はこの場にはいないようで、誰も寄り付いていない。
細く白く美しく、可憐な美少女である曜子さんの容姿をした木田さんが自信満々に打席に立ったので、他のお客さんの注目を一気に浴びることになった。
設定通りの女子中学生ソフトボール部員であっても百五十キロなんて球を打つのは難しいというのに、おそらく今は本物の曜子さんと同じ身体能力で、先週のように野球に関してはへなちょこなので空振りばかりだ。
それでも一生懸命にバットを振る姿、タイミングを合わせようと試行錯誤する姿、決してボールから逃げず、目を離さずに向かっていく姿に、僕も含めて木田さんを見守る全ての人の目にも熱がこもっていく。
一ゲーム二十二球の中でこれまで二十球連続空振り。それでも木田さんに諦める様子は見られない。今、二十一回目を空振りして、残り一球。この場にいる皆が思っていたはずだ。
「頑張れ」
マシンからボールが放たれる音がする。その刹那、木田さんのバットが動きボコッというとても金属バットで野球ボールを打ったとは思えない音がした。
ボールはまさにボテボテという音をたてながら、マシンの方に緩やかに転がっていった。
ほんの一瞬「おぉ」という感嘆の音が聞こえたあと、僕以外の皆は自分たちの世界に戻っていく。僕は「全然当たらなかったー」と照れ笑いしながらケージから出てくる木田さんを拍手で出迎えた。
「すごいよ、曜子さん。百五十キロを打つなんて」
「いやー全然駄目。ボテボテのピッチャーゴロ。悔しいなぁ」
バットに当てられたことの嬉しさよりもピッチャーゴロしか打てなかった悔しさが勝るように顔をしかめる木田さんは、先週は見せなかった勝負の世界にいる人の風格を感じさせた。小説の中の木田さんは結構な実力者でかなりの負けず嫌いでもあったから、曜子さんの体になってしまって思うように動かない体に多少なりともいら立ちを抱えているのかもしれない。
「さ、次は文也君の番だよ。格好いいところ見せてね!」
中学では速くてもせいぜい百二十キロとかの世界だったので百五十キロなんてそう簡単に打てる気はしないが、屈託のない笑顔と期待の眼差しを向けられると断るわけにはいかない。周りの人たちも、お、今度は彼氏が挑戦か、なんて視線を送ってきている。
「どっちが先にホームラン打てるか勝負だよ。負けた方は勝った方の言うことを何でも聞くこと!」
僕がケージに入り逃げ場を失ってから木田さんはこんなことを言い放った。このバッティングセンターのホームランは、マシンよりも十メートルほど後ろのかなりの高さのところに設置されている、半径を目分量ですら測れないほど遠くにある円形の的に打球を当てなければならない。
「文也君、打てー!」
僕がホームランを打ったら負けなのに木田さんはそんなことを忘れたかのように声援を送ってくれる。無邪気で健気で元気が良くて、中学時代は女の子の声援を受けた記憶なんてないはずなのに、なんだか懐かしい気持ちになった。
結局僕も半分くらいは空振りで、ヒット性の当たりはなんとか一本打てただけだった。ホームランには程遠い。
「すごいよ文也君。ナイスバッティングだったね!」
ケージから出ると正面のベンチに座った木田さんが満面の笑みで拍手をくれた。僕のタオルやスポーツドリンクも差し出してくれてまるでマネージャーのよう。僕は拍手で迎えただけなので少し申し訳ない気持ちになる。
「ありがとう。でも一球だけだったよ。あとはまともに打てなかった。ね、もう少し遅い球で勝負しない? その方が打ちやすいと思うよ」
「文也君、大事なのは打ちやすさじゃないんだよ……」
失礼ながら木田さんに似つかわしくない神妙な面持ちだ。このあとに何か大事な言葉が続くと思い、息をのんだ。
「大事なのは、ロマンだよ。速くて打ちづらい球をホームランにする。ちょうどいい速さの打ちやすい球をホームランにする。文也君はどっちにロマンを感じる?」
「……速くて打ちづらい方だね。大事なのはロマン。ごめんね、そしてありがとう。忘れかけていた大事なことを思い出せたよ」
「分かればいいんだよ。これから二人でロマンを追い求めて行こうね」
木田さんは僕の手を握り、空いている方の手でどこか遠くを指差した。その先にはホームランとなる的がある。あれに当てることが僕らの目標だ。あれに当てるまでは、毎週木曜日はここに来ることになるだろう。
「じゃあ、行ってくるよ」
まるで戦場に向かうかのように敬礼をしてロマンを追い求めに行く木田さん。だがそれは勇み足だ。
「待って、曜子さん。お金を入れるんじゃなくてカードを買った方が一回分お得だから」
「はっ! ロマンも大事だけど、お金も大事、だね」
小説の中の木田さんがどんなに実力者であっても曜子さんのパワーではクリーンヒットしてもホームランの的まで打球が届くかも怪しい。そうなると僕が打つしかないが、正直僕もすぐに打てる自信はない。一ゲーム二百円だがいくら注ぎ込むことになるか分からないので節約は大切だ。昨日顔を出したときおばあちゃんが僕と文音にお小遣いをくれたので多少は余裕があるが、お金は大事。
二千円で十一回ゲームができるカードを半分ずつお金を出し合って一枚買い、木田さんの再挑戦が始まる。今度は二回バットに当てることができたもののそれ以外に成果はなし。次に挑戦した僕も先ほどとたいして変わらない結果となる。
二人で交互に挑戦し続けて惜しい当たりすらなく、カードを使い始めて十一回目の挑戦となっていた。
「ふ!」
声を出しながら木田さんがフルスイングする。木田さんが出てくる奥空文子の小説の中にはバッティングの技術について木田さんが語る描写もあったから、今の木田さんの中にもバッティングの理論的なものは染み付いているのだろう。たとえ慣れない曜子さんの体であってもみるみるうちに上達していき、ボールにバットを当てられる回数も増えていっていた。
そして、硬式球でなくてもこんな音がするのかという程、キーン、という甲高い金属音が鳴った。おそらく最後となるボールで、木田さんがついに完璧に捉えた。打球はピッチングマシンの頭上を越えてホームランの的が設置されているネットまで届く。しかし打球が当たったのは的のはるか下の方。ネットを揺らしただけの結果となった。
病院へ戻る帰り道。木田さんは未だに悔しさを顔ににじませている。
「やっぱりパワーか、パワーが足りないのか!」
木田さんは右腕を横に伸ばした状態から力を入れながら肘を曲げ、力こぶを出そうとしたが見えたのは曜子さんの細くて綺麗な二の腕だけだ。
「筋トレしなきゃ。ノートに書いて他の皆にもしてもらおう」
ムキムキのパワー型曜子さんは見てみたくもあるけれど、今の攻守のバランスが良さそうな体も捨てがたいので筋トレはご遠慮願いたい。
「それはしなくて大丈夫だよ。来週は僕がホームラン打つから」
もはや僕らは勝負として始めたことなんか忘れ、百五十キロの球をホームランにするという一つの目標に向けて挑戦する仲間となっていた。お互いに応援し合い、ボールにバットが当たるたびに一喜一憂して、健闘を称え合った。なんだか青春という感じがする。
「そうだね。前に金曜日の子が【体全体が痛いけどなんだろう? 看護師さんに聞いても問題ないって言われた】って書いてたことがあって、あれって私が運動しすぎて筋肉痛になっちゃったんだよね」
確かに金曜子さんこと金井さんは運動とは無縁な生活していそうだし、筋肉痛はさぞつらかったのだろうと想像できる。
「また来週、頑張ろう」
病室に戻り、軽く雑談をしてから帰路についた。
帰り道にある大きな書店に寄り、水無月さん、木田さん、金井さん、土門さんが出てくる奥空文子の作品を購入する。お財布的に痛手ではあるがおばあちゃんからお小遣いをもらっていたのでなんとか耐えることができている。
ついでに奥空文子の書籍コーナーを見渡してみると本当に色々なレーベルから様々なジャンルの作品を残していることが分かる。学校の図書室には置いていない本もあって、そのコーナーにある本だけで、僕が生まれてから今までに読んだ本の冊数を軽く超えていそうだ。
手当たり次第に手に取ってパラパラと中身を流し見るが、火曜子さんや日曜子さんのような登場人物は見当たらない。不良っぽい人とか、誘惑してくるセクシーお姉さんとかセリフを見ればすぐに分かりそうなものだが、全て徒労に終わってしまった。
そうなった理由は分からないし原理も不明だが六人中四人が奥空文子作品の登場人物の人格なら残りの二人もそうである可能性はかなり高いはずだ。それなのに見つからないということは大きな書店にも置いていないマイナーな作品なのかもしれない。もしくは僕の確認が浅すぎたか。
どちらにせよ、今は購入した四冊を読みきって何かヒントを見つけることを優先しよう。残りの二人に関しては奥空文子作品に詳しい人――今のところ本物の曜子さんしか思い浮かばない――に聞いてみるとしよう。
その日の深夜、もう日付が変わって二時間ほどが経過した頃、僕は購入した四冊を読破した。どれも読みやすく、面白く、超人気作家になるのも分かる出来の作品だった。
四冊に共通していたのは主人公の男の子とヒロインたちの恋愛要素のある作品だということだ。土門さんは中盤だが他の人は皆、終盤に印象的な告白シーンがあり、主人公と恋人関係になっている。
そしてもう一つ共通していたのは、読後に心が温かくなるということだ。作品全体が優しさに包まれていて、優しい曜子さんが好むのも分かる。
曜子さんは他の人格について「満足すれば消えてくれるんじゃないかな?」と言っていた。確信がある様子ではなかったので信憑性は怪しいが今のところはそれを信じるしかない。
ではどうすれば満足してくれるのか。それは小説の中で語られる登場人物たちのやりたいことや夢を叶えることだと思う。
水無月さんなら勉強を頑張ること、木田さんならホームランを打つこと、金井さんならゲームで自分と同等以上の腕前を持つ友人を作ること。その夢を叶える過程で愛の告白をして恋人関係になっていた。土門さんはラブコメのコメディ部分がかなり多い作品で、将来の夢などが詳細に語られているわけではなかったのでよく分からないが。
勉強は今の水無月さんのレベルなら問題ないので、バッティングとゲームの練習をしなければならないし、火曜子さんと日曜子さんの詳細が分かったらまた何か練習する必要が出てくるかもしれない。忙しい夏休みになりそうだ。
翌日、金曜子さんこと金井美也さんはまたもやお昼寝中のようだ。
「体が痛いって言っていたからまた筋肉痛ね。優しくしてあげて」
病室を確認してくれた看護師の杉本さんは、僕にそう声をかけて別の仕事へ向かった。
ベッドで横になりながらちっちゃく丸まって穏やかな寝息をたてる金井さんは、曜子さんの容姿なのにどこか子供っぽく、実際はそんなことないのになんだか小さく見える。
寝顔を見ているだけで癒されるし、こんなに気持ちよさそうに寝ているのを起こすのも気が引けるが、杉本さんからは「夜に眠れなくなるから適当なタイミングで起こしてあげて」と言われている。
売店で買ってきたコンソメ味のポテトチップスの袋を開けて金井さんの鼻に近づけると、鼻がひくひくとし始めた。
「……ん、ポテチ……痛」
ポテチにつられてすばやく起き上がろうとした金井さんは、顔をしかめながらゆっくりと起き上がった。先週と同じ半開きのとろんとした目で僕を見つめる。
「大丈夫? 体痛い?」
「痛い。ここまでのは始めて。バッティングセンターって、そんなに激しいの?」
「うんまあ、昨日は百球以上フルスイングしてたからね。行ってみる?」
「行かない。運動、嫌いだから」
「そっか、じゃあ今日は何をする?」
「ポテチ食べ終わったたら、ゲーム」
渡してあげたポテチの袋を金井さんは僕に差し出す。一緒に食べようのお誘いだ。
金井さんは父親が海外出張で家にほとんど帰ってこない上に母親も忙しい仕事をしていて、両親と必要最小限の関わりしか持つことができておらず、おまけに兄弟もいないのでいつも孤独を抱えている。さらに注意する人間がいないので、昼寝、ポテチ、ゲーム三昧の怠惰な生活になってしまったという設定だった。引っ込み思案な性格で人見知りもするので友人も少ない。
中学二年生のある時、中学校にいる唯一の友人の兄が通う高校の文化祭にその友人と一緒に行くことになり、そこで行われていたゲーム大会にてその高校の一年生である主人公と出会う。
先週僕らがやったゲームがモデルとなっているゲームで対戦するが、起きている時間のほとんどをゲームに費やしてきた金井さんに主人公は全く歯が立たない。負けず嫌いかつ向上心の塊であった主人公は金井さんに弟子入りすることを志願し、二人の交流が始まる。
主人公がうまくなるにつれて二人の心の距離は近づいていき、主人公が初めて金井さんに勝った時に告白して二人は恋人になる。その後、金井さんが主人公と同じ高校を目指すために怠惰な生活から脱却し始めたところで物語は終了。
この物語の展開であれば金井さんが満足するタイミングは、主人公が金井さんにゲームで勝って告白した時だろう。これでもし金井さんの人格が消えることになったのなら、他の曜日も目標が明確になる。やってみる価値は大いにある。
金井さんのことは好きと言えるかもしれないが、曜子さんに対する好きとは意味も気持ちの大きさも違う。だから告白するのは少し胸が痛むし、きっと曜子さんも金井さんに僕が告白した記憶をおぼろげに持つことになるからややこしくなりそうだが、何よりも曜子さんを元に戻すことを最優先とした結果だということで、曜子さんにも僕自身にも納得してもらうしかない。
「……へへへ、二十連勝」
問題は僕がいつになったら金井さんに勝てるのかということだ。金井さんに弟子入りしても教えてもらえるのは週に一度なので、とんでもない時間がかかりそう。
だがあてはある。中学時代、小学校最強の名を欲しいままにしていた僕をぼこぼこにした長谷なら何とかしてくれるはずだ。長谷は優しいのでコーラ一本あげれば鍛えてくれる。
ゲームのことは月曜日に夏期講習が再開してから考えるとして、明日は土曜日の土門さんだ。
彼女は物語の中盤で簡単に主人公と恋仲になる。会話の流れの中で土門さんが「私のこと好きなの?」と聞いて主人公が「うん」と答えるだけというとてつもなくあっさりとした告白だ。
それまで割合で言うとツンが七、デレが三くらいの割合だったのが告白後はツンが一、デレが九くらいになり、周りのキャラからいじられまくるというのが中盤以降の物語。これもおそらく恋人になれば満足すると考えていいだろう。
土曜日、今日の土門さんは長袖長ズボンのルームウェアを着ている。髪型は先週と同じツインテールだ。
「文也はエッチな目で私を見てるって書いてあったんだもん」
病室に入るなり、聞いてもいないのに理由を教えてくれた。ツンとした表情は土門さん特有のものだ。今日はここから「私のこと好きなの?」という言葉を引き出すことが目標となる。
「すみません。エッチな人は嫌だと思うので帰りますね」
「帰れとは言ってないでしょ。せっかく来たんだからもう少しいなさい」
会うのはまだ二回目だけれどお約束みたいなやり取りをして、僕らは病室の奥に置いてあるテーブルの方へと移動する。
土門さんは腕を組んで椅子に座り、未だに少しだけツンとした表情をしている。
「さ、面白い話をして」
「またですか」
小説の中でも土門さんはよく同じ要求を主人公にしていたので、その設定通りなのだろう。
ただ、作中の土門さんは特に理由もなく常にショートパンツやミニスカートで太ももを丸出しにしているので、全てにおいて設定に忠実なわけではない。現実における出来事や会話などによる影響で設定から外れることもあるようだ。
「そんなに面白い話のストックはないんですけど……あ、とっておきのがありました」
「また妹の話じゃないでしょうね?」
「駄目ですか?」
「駄目とは言わないけど、もうちょっとバリエーション増やしなさいよ」
「バリエーションならありますよ。中学生編と小学校高学年編、中学年編、低学年編と、幼稚園編と二歳児編と生まれたて編で。中学生編は先週の話の他にもう一つあって……」
「……まあ、とりあえず聞いてあげる」
土門さんは何故か呆れた表情をしている。とっておきの話で笑顔にさせてあげなくては。
「僕は中学で野球、小学校ではソフトボールをやっていたんですけど、妹の文音も僕に憧れて小中とソフトボールをやっているんです」
「いちいち僕に憧れてとか挟まなくていいから」
事実なんだもん、仕方ないじゃないか。
「去年の九月にあった試合を家族で応援に行ったんです。文音は一年生ながらレギュラーでした。一、二年生だけの新人戦ってやつですけどね」
「へえ、やるわね」
「日曜日だったので他の家族もたくさん見に来ていたんですけど、ある時、強烈なファールボールがまっすぐに僕ら観客がいる方に飛んできたんです。ただの広場で試合をしていたので観客席と言ってもフェンスも何もなくて、ボールの行き先には赤ちゃんを抱っこしながらアウトドア用の椅子に座る誰かのお母さんがいました」
土門さんが「やだ、やめなさいよ、痛いのは」と言いながら緊張した面持ちで息をのむ。そういえば痛い話とか苦手な設定だった。
「大丈夫ですよ。近くにいてそれに反応した僕は腕を精一杯、こう、伸ばしながらそのボールに飛びついたんです」
その時の動きを再現して見せてみた。さすがに病室でダイビングキャッチはできないので上半身の動きだけだが。
今でも思い出す。速いはずのボールがゆっくりに見えて、自分の体が自然と思うように動いて、左手の手のひらに伝わる強い衝撃。現役の野球部員時代には聞いたことがないような黄色い歓声と割れんばかりの拍手。あの瞬間だけは僕がグラウンドの主役だった。
「その親子を守ったってことか。まあ、すごいけど面白くは……」
「この話にはまだ続きがあるんですよ。試合が終わった後、『すごい! 上手なんですね』とか『文音のお兄ちゃんカッコいい!』とか言われて文音のチームメイトに囲まれちゃって。文音も何故か機嫌悪くなるし、きっと大好きなお兄ちゃんが他の子に盗られると思って嫉妬しちゃったんだろうなぁ」
「あ、そう。で、オチは?」
土門さんは心底呆れた顔で頬杖をつきながらこちらを見ている。おかしい。木島や長谷に話したときは大ウケだったのに。
「オチという程のことじゃないですけど、実はその時ボールを受け止めた左手の小指を骨折して――」
「あー! 聞こえない、聞こえない」
土門さんは急に耳を抑えながら立ち上がって病室の中をうろうろと歩き始めた。ずっとあーあー言っていて、本当に痛い話が苦手なようだ。しばらくすると何事もなかったかのように僕の正面に座り直す。
「で? オチは何だって?」
今日一番の笑顔で土門さんは尋ねる。
「……えっと、ボールを取った時、小指を、怪我、しちゃって」
土門さんの眉がピクリと動くがそれ以外に特に反応はない。具体的にそのシーンを想像できるような話でなければ大丈夫なようだ。
「それが分かってから文音が優しく色々お世話してくれて、嬉しかったっていうオチです。まあその球を打ったのが文音でしたからちょっと責任感じたのかも」
中学生になってからは「将来はお兄ちゃんと結婚する!」と言ってくれないくらいに冷たくなった文音が、着替えや掃除を手伝ってくれたり、風呂上がりに髪を乾かしてくれたりした。優しくて涙が出るほど嬉しくて、高校一年生の中では一番幸せだった期間だ。利き手である右手を怪我していればご飯も食べさせてくれたかもしれないと思うと少し心残りではある。
「はあ。あんたってほんとに……」
またもや呆れ顔になった土門さんがため息をつく。そして、少しだけ真剣な眼差しを僕に向ける。
「妹以外に好きな女の子とかいないの?」
図らずも本来の目的の流れになった。。この流れは絶対にものにしてみせる。
「いますよ」
「妹とどっちが好き?」
「それは好きの種類が違うので何とも言えないです」
「あっそ。まあ、妹をそういう対象と見てる変態じゃなくてひと安心ね」
「僕のこと何だと思っていたんですか?」
「湧き出る性欲を必死に理性で抑えているお猿さん?」
「そんな……」
否定できない。本物の曜子さんはいつも距離感が近いし、火曜子さんは大雑把でガサツなのでスカートではないとはいえよく足を開きっぱなしにしてるし、木田さんは薄着で動き回るから脇とかお腹とかちらちら見えそうになるし、金井さんも細かいことを気にせずに家でくつろぐみたいに僕と接するし、土門さんは太ももだし、日曜子さんはアレだし、ガードが堅いのは水無月さんくらいで、僕はいつも頑張っていたのだ。
「ま、不可抗力以外では見たり触ったりしてないみたいだからそれは褒めてあげる。優秀なお猿さんね」
土門さんはケラケラと笑いながら身を乗り出して僕の頭を撫でてくれた。
嬉しいと言えば嬉しいが、少し流れが変わってしまっているので戻さなくてはならない。
「嫌われたくないので、頑張って我慢しましたよ。これからも頑張ります」
「嫌われたくない、か。そうよね、あんたは月曜日の子のことが好きなんだもん。でしょ?」
その問いは肯定も否定もできない。肯定すればこの話題は終わる。否定すれば嘘になる。そもそも土門さんは僕が曜子さんのことが好きなことを自身のおぼろげな記憶やノートで知っているはずだ。それでも聞こうとするのは流れが来ている証拠かもしれない。
土門さんとしばらくの間無言で見つめ合う。やっぱり可愛い。可愛いけれど、本物の曜子さんとはまとう雰囲気が違う。僕が好きなのは間違いなく本物の曜子さんだ。
「文也って隣町から自転車でここに来てるんだよね。夏休みで時間があるとはいえこのくそ暑い中、毎日。どうして?」
「会いたいから」
「誰に?」
「……奏さんに」
真の名を告げられた土門さんが目を見開く。そしてうつむいた後、上目遣いで僕を見る。この場面、小説では挿絵になっていた。
「私のこと、好きなの?」
胸の中がチクリと痛む。本当はこんなこと言いたくない。本当に好きな人は別にいるのに、他の人に好きだというのは許される所業ではないと思う。でも僕は理性が強い。やりたくない気持ちを抑えて、本物の曜子さんを救うために試すしかない。
「うん」
僕がその一言を言った後に土門さんが最後に見せた笑顔は、まるで本物の曜子さんのように優しく輝いていた。
そして土門さんは突如として気を失い、テーブルに顔から倒れこもうとする。その肩を正面から支えることになんとか間に合った。
「……曜子さん?」
「……文也君?」
声はほとんど土門さんと変わらないが、僕には分かる。弾むように可愛らしくて人懐っこいこの声は間違いなく本物の曜子さんだ。
体勢を整えて向かい合い直す。曜子さんはキョロキョロと周りを見回したり、スマホの画面を確認した。
「土曜日に会うのは初めてだね、文也君」
僕の予想は当たっていた。小説と同じ告白のシチュエーションを再現して告白を成功させる。それで土門さんは満足して消えていった。
曜子さんは始めからそこにいたかのようにごくごく自然に存在している。ツインテールをほどいていつもの編み込み付きストレートヘアーに戻すのは少しもったいない気もするが、それが曜子さんのスタンダードな姿なのだから仕方がない。
「ありがとう、文也君」
「いえ、これで曜子さんを救う算段がつきました。これからですよ」
「でもどうやったの? 記憶がちょっと曖昧で……」
他の人格が奥空文子の作品の登場人物であること、その中の告白シーンを再現することで土門さんの人格が消えていったことを説明した。
「なるほどね」
「曜子さん、奥空文子とどんな関係なのか教えてくれませんか? 本当にただ好きな作家っていうだけなんですか?」
「知りたい?」
曜子さんは試すように軽い上目遣いの視線を僕にぶつける。
「もちろん」
「知ったらもう後戻りはできないよ?」
「今さらですよ」
曜子さんはベッドの淵に移動して、そばの本棚から文庫本を一冊取り出し、僕もこちらに座るように促した。それに従って隣に座ると持っていた文庫本を僕に見せる。
「君が逃がしてくれない、ですか」
「曖昧な記憶とノートの文字しか情報はなかったけど、土曜日の子はこの子に似ていると思ってた。他の子たちもなんとなく似てるかなっていうキャラがいたんだけど、文也君の話を聞いて確信したよ。よく気づいたね」
「その本は読んだことがあったので。その可能性を考えて色々探したらぴったり合うキャラが見つかりました。でも火曜と日曜の人が見つからなくて」
「火曜の子の特徴をもっと教えてくれる? ちょっとガサツで文也君には手が出るのが早いことくらいしか覚えてなくて」
「そうですね、今曜子さんが言った通りですけど、バイクとか不良漫画が好きなんです。それを語るときの表情はなんか輝いているというか、純粋な人なのかなって感じです」
「それならこれかな」
曜子さんが本棚から取って渡してくれたのは【風になってどこまでも】という小説だ。柔らかいタッチで描かれた海岸沿いの道でバイクとともに佇む髪の長い高校生くらいの女の子の絵が表紙になっている。作者名は陸田文子。
「あれ? 奥空文子じゃない」
「奥空文子の前の名前だよ。本名で活動する主義だったから結婚を機に変えたんだって」
名義が違ったとは。どうりで奥空文子作品を図書室で探しても見つからないわけだ。
「詳しいですね」
「だって奥空文子は私の、七海曜子のママだから」
「あ……」
作品や本人のことに詳しいのも納得だ。だがそれは、曜子さんは母親を今年の七月初旬に亡くしていることになる。そして曜子さんが交通事故にあったのも同じ時期。
「どうしたの? 難しそうな顔して」
死に目に会えなかったのではないかとか、母親が亡くなって落ち込んでいたから注意散漫になって事故にあったのではないかとか、今は元気そうに見えるが本当はつらい気持ちを抑え込んでいるのではないかとか、マイナスなことばかり考えてしまう。
「もしかして色々心配してくれた? 大丈夫だよ。ママが死んじゃったこと、私はもう受け入れて、乗り越えてる」
「それなら良かった……」
本人がそう言うなら母親のことは本当に大丈夫なのだと信じるしかない。でも僕にはもう一つ懸念した点があった。
それは奥空文子のペンネームだ。陸田から結婚を機に奥空に変わり、七海文子として亡くなったはず。誠司さんは曜子さんにとって実の父親ではない可能性がある。
別にこれは今回の現象に関係はないかもしれないがなんとなく気になるのだ。土門さんを満足させる方法とか、僕の勘は結構当たる。
でもこんなこと曜子さんには訊けない。他の人格ならあくまで小説の中のキャラの人格だとある程度割り切った言動はできるが、曜子さんは生身の、本物の人間だ。
結局この話題は広げずに、火曜子さんこと火村美智留が主人公となる小説を読み、曜子さんと一緒に内容の確認や感想の語り合いをした。文庫本一冊とはいえそれなりに時間がかかり、誠司さんがやってくる時間になる。
看護師の杉本さんと一緒に病室に入ってきた誠司さんは、土曜日なのに本物の曜子さんしかしない編み込み付きストレートヘアーな姿の曜子さんを見て口を開けたまま固まった。差し入れに買ってきたと思われる駅前の洋菓子屋さんの紙袋がドサッという音を立てて床に落ちる。
「七海さん? どうしたんですか? ……あ」
誠司さんの後ろにいた杉本さんが誠司さんに声をかけながら曜子さんを見ると、気がついたようだ。
「曜子ちゃん、なの?」
曜子さんが頷くと「先生呼んで来るね!」と言ってそれはもう俊敏な動きで病室から出て行ってしまった。そして、誠司さんがゆっくりと歩み寄る。
「曜子……本物の曜子。戻ってきたのか?」
「うん、文也君のおかげ」
誠司さんが僕を見る。その目には涙が溜まっていて、娘への愛や娘に起きた不可解な現象が解決に一歩近づいたことへの喜びがにじんでいる。血の繋がりがあるかどうかは関係なく、誠司さんにとって曜子さんは大事な娘であることは間違いない。
感動の瞬間も束の間、曜子さんは検査のためにお医者さんや看護師さんに連れていかれてしまい、病室には僕と誠司さんが取り残される。僕らは病室の奥に置いてあるテーブルをはさんで向き合って椅子に座った。
「文也君、ありがとう。君のおかげで曜子が戻ってきた」
誠司さんは頭を下げながら言う。頭を上げると、テーブルには水滴による染みができていた。誠司さんが眼鏡に着いた水滴をハンカチで拭き終わるのを待ってから僕は自分の知りうる情報と見解を話す。
「いえ、まだ土曜日の人格が消えただけだと思います。おそらく明日になればまた変わりますし、残り五人分の人格を消すまでは本当の意味で曜子さんが戻ってきたことにはならないと思います」
「そうか……まあ、そう考えるのが普通か」
誠司さんはがっくりと肩を落とす。それほどまでに待ち望んでいた瞬間だったのだろう。
「しかし、いったいどうやったんだい? どうやって曜子を取り戻した?」
僕は曜子さんに日替わりで宿っている人格が奥空文子の作品の登場人物であること、作中の告白シーンを再現したら土門さんの人格が消えたことを説明した。それを聞いた誠司さんは全てを納得したように頷く。
「そういうことか。だからなんとなく見たり聞いたりしたことがある感じがしていたんだ。言われてみればほとんど辻褄が合う」
「どういうことですか?」
誠司さんは僕から目を背けて立ち上がり、窓から空を見る。夕焼け空から入ってくる沈み行く太陽の光が誠司さんの眼鏡や乾きかけた涙の筋に反射して光輝いた。その真剣な横顔から何を考えているのか読み取れるほど僕は誠司さんの内面を知らない。
「これから話すのは科学的にありえないこと、常識では考えられないことだ。そして曜子のとても大事な過去の話。それを聞いたからには、君には曜子を完全に取り戻すまで身を粉にして頑張ってもらわなければならない。それでもいいかい?」
「もちろん。科学や常識を飛び越えたことはすでに目の前で見ていますし、曜子さんのために頑張るのはもとよりそのつもりでした。ただ僕からも一つだけお願いしていいですか?」
「なんだい?」
「曜子さんを完全に元に戻したら、交際を認めてください」
「……曜子がそれを望んでいたら、好きにしなさい」
誠司さんは相変わらず眩しそうに夕焼け空を見ながら、しっかりと間を置いてから答えた。そしてそのまま曜子さんの持つ特別な力と過去を話してくれた。
「曜子は小さな頃から演劇をやっていた。そしてある意味とんでもない才能を持っていたんだ。演じる人物の人格をそのまま自分の体に降ろすことができて、本当にその人物かのように演技、いやこれは演技とは言えない、その人物を実在させることができたんだ。私の妻であり曜子の母、奥空文子の作品が特に好きで、よくその人格を降ろして演技の練習をしていたよ」
「それが月曜日以外の人格……」
「ああ。そして別の人格を降ろしていても、曜子自身はちゃんと意識があって演技の最中に何が起きたか覚えているし、勝手すぎる行動をしないようにコントロールもできるらしい。曜子の意志、もしくは演技が一段落することで曜子の人格が表に戻ってくるようだ」
「もしかして交通事故のショックで曜子さんの意志で戻ることができなくなったとか……告白が演技が一段落した合図になったから、戻った……?」
「聡いな、君は。私も答えは分からないけれど、曜子の意志が弱くなるとコントロールできなくなるようだ。風邪で高熱を出してうなされていたときなんかに、別の人格になって戻らなくなることがあったらしいから」
「らしい、というのは……?」
誠司さんは苦笑いをして、流し目で僕を見た。
「文子の前の夫、曜子の血の繋がった父親は曜子が七歳の時に交通事故で亡くなっている。私が文子と結婚したのはその三年後なんだ。だから結婚前の曜子のことはあまり知らない」
やはり僕の予想は当たっていた。だが今の誠司さんの涙を見ればそんなこと関係ないということは改めて思う。
「その父親は文子の高校の同級生だったらしくて、学生の頃からずっと役者の卵をやっていたんだけど、諦めて就職して文子と結婚したんだ。でも地域の劇団で趣味として演劇は続けていて、かなり脚本を読み込んで役を作る人だったらしい。それが曜子にもうつって特別な力として開花したのかもね」
誠司さんは「改めて意味分からないよね」と再び苦笑いする。それでも現実に起こってしまっているのだから受け入れて対応していくしかないことは前に会った時に言っていたし、それには僕も同意見だ。
「曜子の夢はプロの役者になることだ。でも、なかなかうまくいかない」
「そんなにすごい演技ができるのに?」
「確かに人格を降ろしたときの曜子よりもリアルな演技をできる人間はいない。でも求められているのがリアルではなく演技らしい演技のときもあるし、曜子は自分好みの作品でないと人格を降ろすことができないんだ。文子が言うには、曜子はその特別な力に無意識のうちに頼ってしまっているから素の演技力が足りていないらしい。だから学校の演劇部とか地域のアマチュア劇団止まりで、プロの劇団や俳優事務所には所属できていないんだ」
前の月曜日、曜子さんは小説家になることが夢だと言っていた。役者の世界のことは詳しくないがとても厳しい世界だというのはなんとなく知っている。たとえ昔からの夢であっても諦めて他の夢を追いかけるようになっても不思議ではない。
お父さんが目指していた役者からお母さんの仕事である小説家へ。家族思いの人が好みだと言い、僕の家族の話を目を輝かせながら聞いていた曜子さんもまた家族思いで、同じ夢を追っているのだろうか。
「……話が少しそれてしまったな。とにかく君がこの十日以上の間曜子と過ごして感じたこと、掴んだ情報はほとんどその通りだと思う。曜子に宿った人格が文子の作品のものだと気づいたということはどうすればいいかは分かっているんだろう? 私ももちろん協力する」
「ありがとうございます。じゃあ早速なんですが、日曜日の人格だけはどの作品の登場人物か分からないんです。知っていますか?」
「いや、文子の作品はほとんど知っているつもりだったけど彼女に関しては私も心当たりがないんだ。あの性格、雰囲気からして成人向け作品かもしれない。いやでもそれを文子が曜子に見せるとは思えないし……」
「曜子さんなら知ってるかな」
「そうかもね。まあ私にも別にあてはあるからちょっと訊いてみるよ。本当に成人向け作品だったら君も曜子も気まずいだろうから少し待ってくれ。どうしようもなくなったら曜子に訊くしかないがね」
「分かりました。でも、あてって?」
「私は出版社で働いていて、文子の本もそこで出していたんだ。打ち合わせに来た文子と社内で偶然出会ったことが始まりだった。私は文芸担当の部署ではないけど、文子の担当編集だった人とは同期入社でそこそこ話せるから、何か知っていないか聞いてみるよ」
確か結構大手の出版社だった気がする。文子さんは色々なジャンルの本を色々なレーベルから出していたが、大元の出版社は一つだったから印象に残っていた。
「よろしくお願いします。火曜から金曜までの攻略法はもう見えているので、あとは日曜日さえなんとかすれば曜子さんを取り戻せそうです」
「そうか、それは嬉しいね。私の方はさすがに休日の今日や明日には訊けないから月曜日以降になってしまうかな。だから明日は何も進展しないね。明日も来るのかい?」
「はい」
僕のことを信頼してくれているけれど、色々危ない日曜子さんにはできるだけ会わせたくないという葛藤が誠司さんの表情から見て取れる。
でも僕は明日もここに来る。自分から手を出すつもりはもちろんないが、偶然、うっかり、日曜子さんの方から何かしらの何かがあるかもしれないから。役得というやつだ。そして月曜日に曜子さんに叱られるのもいい。
「文也君、これが君に伝えたかった最後の話で、一番大事な話だ。曜子には私がこのことを話したことは言わないで欲しい」
「は、はい……」
誠司さんの真剣な眼差しが僕を捉える。これまでも大事な話だったと思うがそれ以上なのかと思うと自然と身が引き締まる。
「曜子は入院の原因を交通事故だと君に言った。そうだね?」
「はい」
「本当は違うんだ。曜子は文子が病気で亡くなってしばらくして、自宅のマンションのベランダから飛び降りた。部屋は四階だったが落ちたのが土の上だったから、運良く命に別状はない怪我だけで済んだ」
その言葉を聞いた瞬間、全身の血の流れが変わって、気が遠くなりそうになり、ふらつく体をなんとか踏みとどまらせた。
それはつまり、自殺しようとしたということだ。
あんなに明るくて、人懐っこくて、現状に困ってはいるものの希望を捨てずに頑張っている曜子さんがそんなことをしていたなんて。
「信じられない。どうしてそんなことを……?」
「恥ずかしい話だが私は曜子とそんなに仲が良いわけではない。私は曜子のことを本当の娘だと思って愛しているつもりだし、曜子も私のことを嫌っていたわけではないと思う。曜子は私のことを「お父さん」と呼んで慕ってくれてはいるが、私と曜子の間には見えない薄い壁が常にあった。私はどうやっても曜子のパパにはなれない。だからパパを失った曜子の心を支えていたのはママである文子で、その文子まで死んでしまったから曜子の心は壊れてしまったんだと思う」
「今の元気な曜子さんは……」
文子さんの死は乗り越えたと言っていた。でもそれは嘘だ。乗り越えたなら自殺なんてするはずがない。
「……無理をしている」
「曜子は脳や体の検査に加えて精神科の先生にも診てもらっている。どれも異常がない。精神的な負荷がかかっている兆候もないそうだ。曜子は演技が上手くないことは君に言った通りだから演技ではない。まあ曜子の状態は科学や医療でどうにかなるものではないことは分かっているんだけどね」
無理やり元気を装っているわけでもないということだ。自殺未遂により吹っ切れたということだろうか。
「本物の曜子ももちろん、他の曜日の人格も皆君のことを慕っているのは彼女たちと話していれば分かる。だから私は出会って二週間も経っていない君を信頼している。今の曜子が自殺未遂のことを乗り越えているのならそれはそれで喜ばしいことなんだけど、もしもそうでないなら……」
「僕が曜子さんの希望になります。お母さんやお父さんのことは詳しくないから同じようにはなれないけど、僕なりのやり方で曜子さんの心を支えます」
僕の宣言を聞いた誠司さんは軽くため息をつきながら眉を下げ、先ほどまでの真剣な表情から穏やかな表情に変わった。
「君は曜子のことがどれほど好きなんだい?」
「青春全部捧げられるくらいには」
「……眩しいね」
再び窓から夕焼けを眺める誠司さんの口元は少しだけ笑っているように見えた。
検査から戻ってきた曜子さんから何も異常はなかったという報告を聞き、僕は帰ることにした。大切な家族の時間を邪魔するわけにはいかない。
その日の夜、日付が変わる直前に曜子さんからスマホにメッセージが届いた。
【おやすみなさい】
なんてことない一文。だが曜子さんにとって活動できる残り僅かな時間を使って僕にメッセージを送ってくれたことがたまらなく嬉しい。久しぶりの曜子さんとのメッセージをにやにや眺めていると日付を跨ぎそうになっていることに気がつき、大急ぎで【おやすみなさい 明後日また会いましょう】と返信した。
送信後の時間はすでに日付を跨いでおり【残念遅かったね 今日、会えるのを楽しみにしてる(ハート)】という返信がすぐに来たことで、やはり消えたのは土門さんの人格だけなのだと確認できた。
おばあちゃんは今日の午前中に退院したので今日からは完全に曜子さんに会いに来ているだけとなる。十四回目の来室だが日曜日は二回目。まだまだ少しの緊張と期待が入り混じった感覚で病室の扉をノックすると「はぁーい」と語尾にハートマークでも付いていそうな声が聞こえたので扉を開けた。
日曜子さんはベッドの淵に座っていて、僕が来るのを待ち構えていたかのように着ていた部屋着の第一、第二ボタンを外した。ぎりぎり下着は見えない。
「ちょ、いきなり何やってるんですか」
眼福、役得ではあるけど焦ったふりはしないといけない。
「んー? 一週間頑張りました的なご褒美だよ」
胸元に興味がないふりをして日曜子さんの隣に腰かける。ログインボーナスをもらい終わったのであとは真面目な時間だ。今日の目的は日曜子さんの情報を集めること。誠司さんが明日、文子さんの担当だった人に聞いてくれることになっているが、もし手掛かりがなかった時のために僕もできる範囲で調べておかないといけない。決して邪な気持ちで人格を消せる可能性がまだないのに来たわけではない。
「ノートは見ましたか?」
「ええ、いつもの土曜日の子の感じじゃなかったわね。どちらかと言うと月曜日の子に似てる文章だった。土曜日の子は消えちゃった?」
「はい。消えたところに本物の曜子さんが戻ってきました」
「へえ、本物。それは良かったわね。それで文也君は私のことも消すために色々探ろうって思ってるんだ」
先週も思っていたが日曜子さんはただの性に対してオープンなセクシーキャラというだけではなく、意外と鋭くて色々考えている人だ。そして下から覗き込むように僕を見上げながら言うことで、僕をドキドキさせて逃がさないようにする抜け目のなさも兼ね備えている。
「ばれているなら誤魔化しはしません。あなたのこと、教えてくれませんか? 本当の名前とか、色々」
「だーめ。私は秘密主義だから教えてあげない。あ、君が私の彼氏になってくれるなら教えてあげてもいいよ」
「遠慮しておきます」
「んもう、つれないんだから」
結局この日は日曜子さんが秘密主義の女であることくらいしか新たな情報を得ることはできなかった。相変わらず胸を押し付けられたりはしたが、僕は決して自分から触りに行ったことはない。
「我慢強いのね。ノートには【文也君はエッチ】って書いてあるのに」
「何度も言ってますけどあなたの体は本物の曜子さんのものですから」
「そうね。この体は本物の曜子ちゃんのもの。本来、この体に宿るべきでない魂はいつか出て行かなければならない」
そんな顔できたんだ、と思わせるほど真剣で鋭い目、刺々しく強い感情を感じさせる口調。
彼女にはまだ知られざる一面があるということはほぼ間違いない。
翌日の月曜日には再び夏期講習が始まる。教室で長谷に、主人公に積極的に絡んできて何か裏がありそうなセクシーお姉さんが出てくる作品を知らないかと尋ねると「そんな作品無限にあるだろ」と返されてしまい、日曜子さんの手掛かりは誠司さん頼りとするしかなくなった。
「前もこんなことあったけど、それ調べるとなんかいいことあんの? もしかして前に言ってた曜子さんって人と関係が……なわけないか」
「あ、いや、まあそうだね」
「まじか! おい! 木島来いよ! 文也が女を手に入れようとしているぞ」
長谷が登校直後なのに早弁をしていた木島を呼ぶ。元野球部なのに結構ひょろっとしている僕や長谷と違い木島はかなりがっちりとした体格をしており、三年生引退前からレギュラーを取っているだけあると思わせる野球強者のオーラを放っている。
「その言い方は何か嫌だな。曜子さんが奥空文子の作品が好きだからちょっと興味を持っただけだよ」
「ああ、共通の趣味で距離を近づけようってことか」
「そんなところ。だからついでにお願いしたいことがあるんだけどいいかな?」
「条件による。な? 木島」
「ああ、一人だけ女の子とお近づきになるなんて、よほどの好条件がないと手伝えない」
割と余裕がある長谷と切実な表情をしている木島。長谷はオンラインゲームで女性の友人も複数いると言っていたから僕が女の子とお近づきになっても平気なのだろう。
「で? お願いって?」
「うん。二人にゲームとバッティングを教えてもらいたくて」
「は? 何それ。それも曜子さんの趣味ってわけ?」
「う、うん、まあ」
二人には怪訝な表情をされて色々問いただされたがうまいこと誤魔化し、長谷とは指導一時間につきコーラ一本で教えてもらえる約束をした。木島も了承はしてくれたが条件はまた後で言うとのことだった。
その後に木島がトイレに行ってから長谷が僕に尋ねる。
「曜子さんの写真はあるんだろ? 見せてくれよ」
僕だけのものにしたかったが色々世話になるのだから仕方がない。女の子に飢えている木島の前で言わなかったのは長谷なりの配慮かもしれないがちょうどいい。木島も曜子さんを見たら一目惚れしてしまうかもしれない。
曜子さんが先週の月曜日に僕の抹茶ラテと一緒に自撮りした写真を長谷に見せてやると、長谷は口を大きく開けて固まった。曜子さんの可愛さに見惚れてしまっているのだろう。
「文也お前。まじでやばいな」
「でしょ?」
「この子四月にめっちゃ話題になってた子じゃん」
「四月って今年の?」
「ああ」
千年に一人レベルの美少女がいるらしい、超人気作家の奥空文子の娘がいるらしい、演劇部にとんでもない演技をする子が入ったらしい。そんな新入生の噂が四月に流れていたのを灰色の生活に慣れ切っていた僕は興味がないふりをして特に関わろうとせずにやり過ごしていた。あの噂はそんな子がそれぞれいるのではなく、全て曜子さんのことだったのだ。
でもそれはおかしい。曜子さんは自分は三年生だと言っていたのだ。会ったばかりの僕にそんな嘘をつく理由が分からない。年齢の齟齬と言えば半分以上の人格がそうだったが、本当は十五歳の曜子さんが十七歳のふりをして他の人格もそれに合わせていたことになる。
他の人格はともかく何故曜子さんは十七歳のふりをしていたのだろうか。そんなことを考え続けていたらいつの間にかこの日の夏期講習が終わっていた。
「初めて会った時、私ため口で話しちゃったし文也君も敬語だったから、なんとなくそのままにしようかなって思ったの」
病室でベッドに座ってノートパソコンを開き、おそらく小説を書いていた曜子さんに尋ねると、その答えはあっさりと返ってきた。あまりにしょうもない理由に呆気にとられてしまう。
「どうしたの? あ、分かった」
曜子さんはノートパソコンを閉じてベッドの淵に移動し、足を降ろしてにやけ顔で僕をまっすぐに見つめる。ポン、と自分の隣に空いているスペースを軽く叩く。
「文也せーんぱい。隣、座ってください」
僕を誘うわざとらしく甘えた声に抗えるわけもなく吸い寄せられるように隣に座った。
「どうします? 話し方。私敬語にしましょうか? 文也先輩はため口で」
いい。甘えた声も、わざとらしい上目遣いもとてもいい。何だかむずむずする。
「い、いや、その、今まで通りでお願いします」
「そーお? 文也君がいいならそうするけど」
名残惜しいがこれ以上後輩モードの曜子さんでいられると気持ち悪い人間になってしまいそうなので仕方がない。そんな姿をさらすわけにはいかない。だって今日は文音が一緒に来ているのだから。今も僕らのやり取りを病室の出入り口から顔だけひょっこりと出してまるで曜子さんと僕を品定めするような視線で見つめている。
「あの子が文音ちゃん? こっちをじっと見てる」
曜子さんは口元に手を当てて文音に聞こえないくらい小さな声で話す。
「ええ、可愛いでしょう? きっと曜子さんに僕を盗られそうで心配になってついてきたんですよ。自分も部活の後で疲れているだろうに」
今朝学校に向かう直前に文音に「曜子さんに会ってみたい」と言われたのであらかじめ曜子さんには連絡して許可をもらっておいた。僕としてもいつか紹介したいと思っていたし紹介するなら本物の曜子さんでなければと思っていたのでいいタイミングだった。
理由を聞いても文音は教えてくれなかったが僕の予想で間違いないだろう。
曜子さんが手招きすると文音はぺこりと頭を下げてから病室に入ってくる。
「はじめまして、曜子さん。おに、兄が毎日お世話になってます。ありがとうございます」
「はじめまして、文音ちゃん。お世話だなんてそんなことないよ。文也君が来てくれるようになってから私もすごく楽しいから、こちらこそありがとう。お兄ちゃんとの時間奪っちゃってごめんね」
「それは別に……お兄ちゃんも毎日楽しそうですから、構いません」
なんと微笑ましいことだろう。僕の大好きな二人が僕のことを話して笑顔になっている。
「じゃあお兄ちゃん、曜子さんと大事な話があるから部屋の外で待ってて」
そんな幸せな空間から無情にも追い出されてしまった。
曜子さんとの出会いの場所である自販機コーナーで生クリーム入りキャラメルラテを一口飲み、そこに置かれたテレビに映る甲子園の試合を見ていると誰かに肩を叩かれた。振り返るとそこに立っていたのは看護師の杉本さん。
「文也君、どうしたの? 曜子ちゃんの部屋に行かないの?」
「それが妹を連れてきたら大事な話がしたいとかで追い出されちゃって」
「あー。文也君には妹さんがいるって曜子ちゃん言ってたね」
「そうなんです。それがもう可愛くて。昨日も勉強を教えているときに――」
「あ、いや大丈夫。君の妹さんの可愛さとか君が妹さんのことを大好きなのも曜子ちゃんから聞いているから」
「そうですか」
文音の可愛さを布教するチャンスだったのだが残念極まりない。曜子さんや木島や長谷なら喜んで聞いてくれるのに。そういえば土門さんも微妙な反応だった。
「今日は月曜日。本物の曜子ちゃんでしょ? 時間奪われちゃって残念だったりする?」
「そんなわけないですよ。曜子さんと文音が仲良くしてくれたら僕も嬉しいです。まあ僕も一緒にいられたら最高なのは間違いないですけど」
「仲良くなれるといいね、妹さんも……お友達は多い方がいいもの」
「そういえば、曜子さんの元々の友達は何度かお見舞いに来たけど来なくなっちゃったって聞きました」
「そうね。びっくりして逃げるように病室から出てくるのを見たから、衝撃的過ぎたのかもね、曜子ちゃんに起きている現象は。むしろ楽しみに毎日通っている君の方が変わってるのかも」
「まあ一目見て好きになっちゃったんだから仕方ないですよ」
「眩しいね、君は。ねえ、土曜日の曜子ちゃんをどうやって元に戻したか本当に知らないの?」
唐突に話題を切り替える杉本さん。僕に声をかけてきた理由の本命はこちらのようだ。
「ええ、知らないです。普通に会話していたら突然元に戻ったんです」
病院側には人格が奥空文子の作品のキャラであることも告白すると元に戻ったことも話していない。これ以上色々な研究対象にされたくないという誠司さんの願いによるもので僕も同意見だった。この入院自体も珍しい症例を研究したい大学病院側が誠司さんや曜子さんにお願いしているもので費用は病院持ちらしい。
「ほんとに不思議ね。曜子ちゃんが運ばれて来た時のことも含めて」
「運ばれて来た時、ですか?」
「知りたい?」
僕は頷いた。事態の解決に直接結びつくかは分からないが情報は少しでも多い方がいい。
杉本さんは僕が曜子さんの入院の原因を知っているか尋ね、僕が知っていると答えると僕の隣の椅子に腰かけ、当時のことを話してくれた。
曜子さんがマンションの四階のベランダから落ちて最初に運ばれたのは僕が住む町にある病院。そこで人格が入れ替わっていることが分かり、自殺未遂を図ってから三日後にはこの病院に転院することになったそうだ。
「最初はおとなしい子だなって思った。水曜日だったからね」
ということは自殺未遂をしたのは日曜日ということになる。
「次の日にはなんだかすごく元気になっていて、ほんとに人格変わるんだって驚いちゃった。一週間くらいして日替わりで人格が変わることが分かって、お父さんの話によると月曜日が本物の曜子ちゃんだっていうことが判明した」
それからは検査の毎日だったらしい。その中で杉本さんは疑問を持った。
「マンションの四階から落ちたのに右足を捻挫した以外怪我がなかったの。四階よ、四階。いくら土の上に落ちたって言ってもねぇ」
「普通はありえない、ですよね」
「いったいどんな受け身を取ったらそれで済むのかって大騒ぎだったみたい。それに病院に運ばれた曜子ちゃんはすごく冷静だったそうなの。ノートとペンを持ってくるように言って、お父さんや救急隊から話を聞いていた看護師から状況を聞いて、メモを取って、明らかに雰囲気が違うのに自分のことを七海曜子と名乗った」
その記憶か記録をもとに皆曜子さんの名前を名乗るようになったのか。それをやったのが日曜子さん。本当に何者なんだ、あの人は。
「私が知っていて君が知らなさそうな情報はこれくらいかな。どう? 役に立ちそう?」
「はい。でもいいんですか? 前に検査結果とかは教えられないって……」
「大丈夫、曜子ちゃんやお父さんから頼まれていたの。君に私が知っていることを教えて欲しいって。二人とも君を頼りにしてるみたいだから頑張って」
「杉本さんは、僕が何かをして曜子さんを元に戻したと思っているんですか?」
「そうね。君たちが二人きりの時に戻ったわけだからそう考えてる。目覚めのキスでもしたのかな?」
「してないですよ。したいけど。間接キスなら何度かしてるんですけどね」
「あーそういえば曜子ちゃん『間接キスはキスに入らないんですよ』って力説してたことがあったっけ。あ、いけない、そろそろ仕事戻らないと。じゃあね、頑張って」
別れ際に僕の右肩をポンと叩き、杉本さんは早足で仕事に戻っていった。
杉本さんから得た情報を頭の中で整理していると入れ替わるように文音が自販機コーナーにやってきて、先ほどまで杉本さんが座っていた椅子に勢い良く座った。どこか興奮しているように見える。
「お兄ちゃん、まじでやばい。曜子さん最高過ぎる。早く彼女にして。退院したらうちに呼んで。まじで頑張って」
いったいどんな話をしたのか。文音も完全に曜子さんの虜になっていた。
「まじで理想の美少女キャラって感じだった。可愛くて優しくてお茶目でいい匂いした」
「だよなぁ。曜子さんはほんとに可愛くて……」
僕らはしばらくの間こうして曜子さんのすばらしさを語り合うのであった。
何分過ぎたかもわからないくらい語り合ってしまい、曜子さんを待ちぼうけにしていることに気がつき、急いで病室に戻ると曜子さんはベッドの上でノートパソコンに向き合っていた。
「すみません、曜子さん。遅くなっちゃって」
「ごめんなさい。お兄ちゃんと曜子さんのいいところを語り合ってたら時間を忘れちゃって」
曜子さんはノートパソコンを閉じ、病室の入り口で申し訳なさそうに肩をすぼめる僕らに優しい笑顔で語りかける。
「大丈夫だよ。二人が仲良しってことが改めて分かった。それに私のいいところを語り合ってたなんて、ちょっと恥ずかしいけど嬉しいよ」
「やば、やっぱり天使だ。曜子さん」
文音が曜子さんに聞こえないほどの小声で呟く。
許してくれてはいるが僕は申し訳ない気持ちになっていた。それは文音が扉を開けっ放しにしたままだった病室の入り口から見た曜子さんの横顔が少し寂しそうに見えたからだ。僕が来ているのに、僕を信頼してくれているという曜子さんを寂しがらせてしまったことは大きな失敗だ。僕が曜子さんの希望になると決めたのだから、せめて僕が来ているときはずっと笑顔でいて欲しい。
「でも、ほんとにすみません。お見舞いに来ておいて一人きりにさせちゃって」
「そんなに謝らなくても大丈夫だよ。じゃあそれ一口くれたらチャラってことにしようよ」
曜子さんは僕が持っていた生クリーム入りキャラメルラテのペットボトルを指差した。まだ一口しか飲んでいないが、新しい物を買ってくる、と言おうとする前に文音が僕の手からペットボトルをかっさらい、曜子さんに渡してしまった。そのままペットボトルを持つ曜子さんの右手を自分の両手で握っている。
「ごめんなさい、曜子さん。これどうぞ。私も何かお詫びを……」
「えー? あ、そうだ。さっき文也君と私のいいところ話してたんでしょ? 文也君が何を言ってたか教えてくれる?」
「うん。えっとね、色々言ってたけど一番は、曜子さんは世界一可愛い、かな。顔も声も性格も髪も手も足も仕草も全部可愛いって言ってたよ。私もそう思う!」
「そっかー。ふふ。ありがと」
曜子さんは空いた左手で文音の頭を撫でながら、文音の頭越しに僕を見て、にんまりと笑いかける。やっぱり世界一可愛い。曜子さんの笑顔はきっと世界を平和にする。
あの笑顔を毎日見ることができるように僕は持てる力を、頭を、すべて使って曜子さんを救って見せる、と改めて誓うのであった。
その後は三人でおしゃべりしたり、トランプをしたり、ゲームをしたりして誠司さんが来るのを待った。いつもは家族の時間を邪魔しないようにしているが、今日は文子さんの担当編集さんからの話を聞かなければならない。
僕が曜子さんどころか文音にさえゲームでぼこぼこにされることが分かったところで誠司さんはやってきた。
「ごめん曜子さん。僕は誠司さんと大事な話があるからちょっと抜けますね。文音のことお願いします」
「大事な話って?」
「男同士でしかできない、女の子には聞かせられないような話です」
「うわー、エッチな話だ」
「ごめんなさい曜子さん。お兄ちゃんたまにアホになるんです。嫌わないでくださいね」
「ふふ、大丈夫。知ってたよ」
「なーんだ。さすが曜子さん」
笑顔で顔を見合わせる二人。仲良しで嬉しいけれど、悲しい。
そんな二人から離れて病室の外で待っている誠司さんのもとへ向かう。誠司さんの優しそうだけど疲れている表情から喜びは見えない。望み通りの情報は得られなかったのだろう。
「どうでした? 何か分かりましたか?」
「まだ分からないな。元担当は日曜日の子みたいなキャラは文子の書いた小説にはいなかったと言っていたよ。彼女は文子のデビュー当時からずっと編集を担当していたから文子の小説は私以上に知っているはずだし間違いないだろう」
「そうですか。でもそれだと手掛かりがないですね」
「いや、小説にはいなかっただけで可能性は他にもあるんだ。文子はゲームのシナリオとかドラマや映画の脚本もたまにやっていたからそっちの線もある。それで元担当が関わりのあった会社の担当者に聞いてくれることになった。私もある程度は知っていたけど全部は知らなかったから助かったよ」
「良かった。じゃあ待っていれば、ってところですかね」
「そうだけど時間はかかるだろうね。早く知りたいと思っているのは私と文也君くらいで、客観的に考えたら急ぎの案件ではないから気長に待つしかない」
それもそうだ。奥空文子が生み出したと思われる、主人公に積極的に絡んできて何か裏がありそうなセクシーお姉さんキャラが出ている作品を調べて教えて、なんて言われても急ぐわけがない。僕も当事者でなければ急がない。
「まあ日曜日は多少遅くなっても問題ないか。家にいるように言っておけばいい」
「家? 退院するんですか?」
「うん、ある程度曜子が元に戻ったらね。学校にも通わないといけないし。これだけ検査しても何も分からないんだ。病院もこれ以上引き留めないだろうし、土曜日と同じ理屈で考えたら火曜と水曜は簡単だろう?」
「そうですけど……」
退院は喜ばしいことだが、退院したら曜子さんと会うことができなくなってしまうかもしれない。そう考えて気落ちする僕の肩の上に誠司さんは優しく両手を置いた
「退院したら曜子と会えなくなる、なんて考えているのかい?」
「え? 分かります?」
「見え見えの顔をしていたよ。退院の予定は八月末の土曜日だ。もしも君が今週で木と金も元に戻してくれたら一週早めるけど難しいだろう? 君の腕前は曜子から聞いているから」
「面目ないです」
「近々自宅の場所を教えるから、退院までに戻せなかった分はうちに来て延長戦をしてくれると助かるんだがどうだい? 南沢高校の近くだからこの病院に来るよりも楽だと思うけど」
なんという僥倖。誠司さんの方からそんな提案をしてくれるなんて思ってもみなかった。自宅の場所を誠司さん直々に教えてくれるということは、曜子さんに会いに家に行くことが父親公認となったわけだ。
母親の文子さんは亡くなっているし、兄弟がいる話は聞かない。つまり誠司さんが仕事に行っている間は僕と曜子さんの二人きりということになる。
つい、色々な妄想が頭をよぎってしまった。
「大丈夫かい? 文也君。変な顔をしているけど」
「いえ、問題ありません。曜子さんが安心して学校生活に戻れるように、今以上に頑張る所存であります」
「家の場所を教えるのはあくまで曜子を元に戻すために、だからね?」
「心得ております」
用心深い誠司さんをかわし、そろそろお暇しようかと病室に戻ると、なんたることか文音はベッドの上で曜子さんに後ろから抱きかかえるように密着してもらいながら島だか村だかでスローライフを送るゲームをしていた。仲良く相談しながらプレイする姿はまるで本当の姉妹のようだ。
「ね―曜子さん。私このまま曜子さんの妹になっていい? ほんとはお兄ちゃんよりお姉ちゃんが欲しかったの」
「もちろん。いいよ」
「やった。曜子お姉ちゃん大好き。あ、これ捨てちゃっていいかな?」
「ふふ。私も大好きだよ、文音ちゃん。それはいらないから捨てちゃおっか」
ごめんな文音、お姉ちゃんじゃなくて。だから捨てないでくれ。
「君の妹さんか。曜子と仲良くしてくれてありがとう……泣くほど嬉しいのかい?」
「はい、とっても……」
これまで色々な曜子さんの表情を見てきたけれど、お姉さん役ではなく本当のお姉さんの顔をする曜子さんは初めて見た。それがたまらなく嬉しいのだ。決して悲しくなんかない。
まだ帰りたくないと、中学生になってからは初めてと言ってもいいわがままを言う文音を無理やり引きはがし、二人で縦に並んで自転車を漕いだ。文音は家に着くまで僕に恨み言を言い続けていたが、曜子さんのことを大好きになったことの裏返しだと思えば可愛いものだった。
その日は翌日の予定を曜子さんと確認し合ってから眠りについた。
翌日の火曜日、夏期講習を終えると僕は一度自宅に帰ってから病院へ向かった。着替えと荷物の整理のためだ。
火曜子さんこと火村美智留が主人公の小説【風になってどこまでも】において火村さんは女子高生暴走族チームのリーダーだった。ある日の暴走行為中に警察の取り締まりから逃げていた時、副リーダーであった親友がスリップ事故を起こし亡くなってしまう。火村さんはチームを解散し、真っ当なバイク乗りになることを誓う。
ある時バイクの運転中に歩道に綺麗な顔をした男の子を見つけ、その子に気をとられて転倒事故を起こし怪我をして彼女はしばらく入院することになる。
男の子は病気のため同じ病院に入院しており、体の調子が良い時は火村さんの病室に遊びに来るようになり二人の交流が始まる。親友のことや男の子の病気のことなど紆余曲折あって、二人は男の子に外出許可が出た日に遊びに出かけることになり、そこから告白シーンへと繋がる。元暴走族の少女と病弱な少年の、アンバランスでかみ合わないけれど命の重みと優しさに溢れた物語だった。
だから僕は今、曜子さんが前日に準備し、ノートに【これを着るように】と厳命していた白いワンピースと麦わら帽子という夏にぴったりな格好をした火村さんと一緒に病院近くのバス停からバスに乗って海がある隣町を目指している。
「くそ、はめやがったな。覚えとけよ」
「まあまあ、たまにはいいじゃないですか。お出かけも」
意志が強そうな火村さんを普通に海に誘ってもついてきてくれないと考えた僕らは余計な服と火村さんが好きそうな漫画を一時的に誠司さんが持ち帰っておくという作戦を取っていた。目が覚めると下着とワンピースしか服がなく、暇つぶしをするものも何もない状況にして火村さんを海に連れ出すことに成功していた。ちなみに作品内のそのシーンでの火村さんの服装は全然違う。そもそも男の子役である僕も病弱でもないしそこは関係ないだろうという判断だ。土門さんの時も僕と主人公は似ても似つかない容姿と性格だったので大事なのはシチュエーションの方だ。
バスの車内には僕らと同じく海を目指すお客さんが数組乗っていたが老若男女問わず皆、火村さんのことを見ていた。白いワンピースを着た千年に一度クラスの美少女が麦わら帽子を膝の上に置いて佇んでいる姿など見ないわけがない。恨み言を呟きながら隣に座る僕の太ももをつねっているなんて思うまい。
海岸の真横のバス停を通過し、街に入ったところでバスから降りた。
「おい、海に行くんじゃなかったのか?」
「先に行きたいところがあるんです」
バスを降りた瞬間、街行く人々から好奇の視線を向けられても無視している火村さんの声を無視して僕は彼女の手を握った。
「そ、そうか。お前、なんか今日はいつもと違うな」
そうだ。その反応でいい。足の怪我のせいでしばらくバイクに乗ってはいけないと言われて気落ちしていた火村さんを、いつも気弱で病弱な男の子がこの日だけはリードする。その姿に火村さんはときめく。小説の中と同じような感情を持ってくれさえすればうまくいくはずだ。
僕らがやってきたのはゲームセンター。事前の調べによると本物に近い形のバイクに乗って遊ぶゲームがある。
「あれ、やりましょうよ」
「いいセンスしてるじゃねえか」
バイクの筐体を見る火村さんの目は輝いていて、同時に、熱く燃え滾る炎を内側に秘めているようだった。
このゲームはバイクに二人で乗って前の人が運転、後ろの人が銃を持って迫りくる敵を撃っていくというゲームだ。運転と一口に言っても障害物や穴があったら避けないといけないため前に座る人にも技術が必要だ。当然火村さんが前、僕が後ろに座る。
「とばすぞ。しっかりつかまってろよ。ほら、腹に手回せ」
言われた通りに銃を持っていない左手をお腹に回してしっかりと体を密着させる。
小説の中と同じセリフ。ゲームなので当然設定された速度までしか出ないが、それでも火村さんの声は、どこまでも速く走ることができるような、風になってどこまでも行けるような、そんな感覚を思わせてくれる。
少し横にずれて背中側から火村さんの横顔を覗き見ると、曜子さんの顔なのに何故だか曜子さんには見えなかった。そこには確かに火村美智留がいる。
強くて、格好良くて、頼りがいがあって、でもゾンビの敵が出てくると悲鳴をあげながら僕に優先的に銃で撃ち殺すように指示をしてくる意外に可愛いところがある。病室で本ばかり読んでいて、彼女とは生きる世界が違うと思っていた小説の中の男の子が、どうして彼女のことを好きになったのか、それがはっきりと分かった。僕の足りない読解力を曜子さんがその体に降ろした火村さんによって補完してくれた。
ゲームは最後の盤面、銃のパートは終わってバイクで一直線で駆け抜けるのみとなる。
「行くぞ……薫」
火村さんが呟いたのは事故で亡くなった親友の名前だ。
暴走行為は決して許されるものではない。でも、それが薫との絆だったことは間違いない。ゲームの中で思いっきりスピードを出すことで火村さんは薫の死を乗り越える。
「ありがとな」
バイクゲームを終えて満足した僕らはゲームセンターを出て海の方へと歩き、海水浴場の入り口が見えてきたところで火村さんが言った。
「楽しかったですよ僕も。やっぱり美智留さんはバイクが好きなんですね」
「ああ」
僕らは海の家でビーチパラソルを借り、僕が持ってきたレジャーシートを広げて砂浜に座り、海を見つめた。まだまだ日の高い時間、地元民しか来ないこの海水浴場にも人は多く、小説内の、夕暮れの人の少ない砂浜というシチュエーションにはまだ遠い。
ジュースを飲んで、かき氷を食べて、足だけ海に浸かってみたりして、トイレに行った火村さんが大学生くらいの男性二人にナンパされたりして、顔や服装に似ても似つかない豪快な言葉で追い返したりして時間が過ぎていった。
色々やった後、僕らは最初と同じようにパラソルの下に座って海を見た。日は傾き始め、海水浴客の姿も減ってきている。
火村さんは親友の薫の話を色々としてくれた。僕はその話を聞くたびに胸を痛めていった。薫が死んでしまったからではない、火村さんの想いに共感したからでもない。こんなに大切な話をしてくれている火村さんに、これから嘘の告白をしなければならないからだ。
頃合いだ。太陽も人も小説内の描写に近い。僕はこれからひどい男にならなければならない。
僕は右隣に座る火村さんの左手の上に自分の右手を重ねた。火村さんの体が一瞬だけびくりと跳ねる。
「なんだよ」
日焼け止めはしっかりと塗るようにと曜子さんが指示をしていたはずだが、僕の顔をしおらしく見つめる火村さんの顔は赤みがかって見える。日も落ちかかっているので本当になんとなくだが。
「今日、楽しかったよ。僕が知らない美智留さんをたくさん見ることができた」
「お前が知らないあたしって何だよ?」
「いつも強がっているのに、繊細で友達思いなところ」
「お前にはそう見えるのか?」
「うん。それに美智留さんは僕に知らない世界を教えてくれた」
バイクやのことや不良漫画の世界、格闘技のこと。どれも僕が詳しくなかったことだ。だから決して嘘じゃない。
「最初は怖いと思っていたけど、いつの間にか美智留さんのことを好きになっていた」
僕と火村さんの間に小説内の男の子と同じような積み重ねはない。でも僕にはこの二週間の日替わり曜子さんたちとの積み重ねがある。他の曜日の記憶はおぼろげにあると言っていたから、その思いも蓄積されているはずだ。
「そうか……そんなこと言われたの、初めてだ」
火村さんが気を失って砂浜の上に敷いたレジャーシートに倒れこむ寸前に腕でその体を支えることに成功した。僕の腕の中で優しい笑みを浮かべているのは曜子さんだ。顔は同じでも表情で分かる。
「お疲れ様」
「……はい」
「どうかした? 気分悪そうな顔してる」
「あまりいい気分ではないです」
「じゃあいい気分にしてあげよう」
曜子さんは僕の腕の中から抜け出して海に向かって走り出した。僕がいるパラソルと波打ち際のちょうど真ん中くらいで立ち止まり、こちらを振り返る。麦わら帽子が落ちないように右手で抑える仕草も、ふわりと広がるワンピースのスカート部分に照れる表情も、得意げに僕をまっすぐに見つめる瞳も、全部曜子さんのものだ。こんな曜子さんをいつでも見られるようにするために僕は頑張っているんだ。
「元気出た?」
「うん。とても。写真撮っていいですか?」
そうだ。土門さんや火村さんはあくまで小説の中のキャラに過ぎない。実在していないのだ。だから気に病む必要なんかない。曜子さんの笑顔のために、僕は明日もひどい男になる。その覚悟はできている。太陽は沈んでしまっているが、胸の痛みは曜子さんの太陽のような笑顔が癒してくれる。
事前に打ち合わせしておいた仕事帰りの誠司さんが近くの駐車場で待ってくれており、誠司さんの車で三人で病院に帰った。病室から持ち出していた服や本などを再び運び入れ、僕と誠司さんは病院を出る。誠司さんの車は僕の自転車を乗せられるほどの大きさがあり、自転車ごと僕を自宅まで送ってくれることになった。
「ここがうちのマンション。四〇六号室」
南沢高校のそばを通った時、誠司さんが言った。助手席に座った僕は振り返り、通り過ぎてしまったマンションを見る。超人気作家である奥空文子の稼ぎを考えたら意外に思うほどの普通のマンションだ。多分オートロックもついていない。
「あの奥空文子が住んでいたにしてはたいしたことないと思ったかい?」
「え? いや、あの、まあ少しは」
僕の素直な言葉に、誠司さんは小さく笑顔を見せる。
「文子はお金を全然使わなかった。質素倹約がモットーで、私と結婚するまではもっと小さなアパートに住んでいたんだ。さすがに曜子も大きくなってきて手狭になったから今のマンションに引っ越したけど、本とノートパソコンさえあれば仕事ができるって言っていつも小さな部屋に籠って執筆をしていた。曜子もよくそこに入り浸って、本を読んだり勉強したり、演技の練習をしていたよ。たまに息抜きと言ってゲームをしていたこともあったな。今思えば曜子の世話をほとんど文子に任せて、他の家事を私がほとんどやっていたのがいけなかったのかもしれないな」
懐かしみながら、そして少しの後悔を混ぜながら誠司さんは呟いた。
「もっと曜子と関わっていれば良かった、と今になって思うよ。君には月曜日の、今は火曜と土曜もか、その曜子が本物の曜子だと言ったけど、あれは私に対する曜子じゃなくて文子や友人に対する曜子だ。今も二人きりになるとどこかぎこちなさがある。自殺未遂をしてから何か吹っ切れたのか、昔よりはましになったけどね」
誠司さんの一人語りは僕の家に着くまで続いた。文子さんや曜子さんへの愛と、色々な後悔を感じながら僕はただ黙って頷きながら聞いていた。
翌日もいつも通り午前中は夏期講習、午後は病院だ。今日は水曜子こと水無月さんとお別れする。雨が降っているのはちょうどいい。
水無月静子は無口でクールな性格で、嫌われているわけではないが一人でいることが多く、趣味もなくただ漠然と勉強を続けていた。晴れの日も雨の日も放課後は学校の図書室で勉強していた。ある日水無月さんは数学で分からない問題にぶつかる。教科書や参考書を見ても理解できず、教科担当の先生には「そんなことも分からないのか」と罵られるのが怖くて質問に行けず途方に暮れていた時に、偶然図書室にいた一つ上の先輩である主人公が声をかけて分からない問題を解説してもらうところから二人の物語が始まる。
この作品【雨、図書室にて】は図書室で勉強している二人の会話のシーンが全体の八割を占め、仲良くなってもデートに行くこともない。唯一学校の外に出たシーンがお盆で学校が閉まってしまうからと水無月さんの家で勉強することになったシーンだ。そこで主人公は面白い関数の式を教えてあげると言いながら告白する。病室を自宅と言っていいかは微妙だが、土門さんの時は大丈夫だったので今回も多分問題ない。
大きな事件も病気や怪我もない穏やかな物語だった。今もこうして落ち着いて、清らかに、姿勢良く、真剣に勉強をしている水無月さんにはぴったりだ。
ベッドに座り備え付けのテーブルの上に広げたノートに向かってペンを走らせる水無月さんをそばでしばらく見守った。水無月さんは僕なんか目に入っていないくらいの集中力で難しそうな応用問題に取り組み、それが終わってひと息つくと僕を横目で見る。
「そんなにじっと見られると集中できないのだけれど」
「いや、めちゃくちゃ集中してましたよ。何の音も聞こえてないのかと思うくらい」
「雨の音は聞こえていた。心地いい音」
「あ―確かに勉強の時って無音よりは多少の音がしていた方が集中できますね」
「そうね。あとはピアノの音を聞きながら勉強するのも好き」
「分かります。僕も高校受験の時の勉強はピアノの音を聞きながらしていましたよ。でも音楽と言っても歌声が入っちゃうと駄目だったな」
「私も試したことがあるけど、声が入るとつい歌詞の意味とかを理解しようと思考が持っていかれちゃって集中できなかった……そうだ、声と言えば」
小説の中と同じような台詞回しができていたのに突然水無月さんはアドリブのように話題を変えた。あくまで人格が同じというだけだから言動全てが同じになるわけではないので仕方のないことだ。
「昔、頭の中で女の子の声がすることがあったの。今みたいに体が自分のものでなくなっていることがたまにあった時、必ずその女の子の声がした」
「どんな女の子だったんですか?」
「人懐っこくて可愛らしい声。その時の状況を説明してくれたり、励ましてくれたりして、自分でない体でも不安になることなく過ごすことができた。でも、ここのところ聞こえなくなってしまったわね」
曜子さんだ。誠司さんは曜子さんが演技のために別の人格を降ろしている時の意識や記憶があると言っていたから、こうやってそれぞれの人格とコミュニケーションをとっていたんだ。今は物理的か精神的かは分からないがショックでその機能が作用していない。曜子さんはあんなに元気そうなのに。
「ま、この体になったことは何度かあったし、諦めてそれなりに過ごしているけどね」
そう言って水無月さんは再びペンを持ち、ノートに向かい始める。その時外の雨の音が急に強まり、ゴーッという大きな音が病室の中にまで響き始めた。まさに轟音といった様相で不安や恐怖を掻き立てる。
「雨の匂いや音は好きだけど、これはちょっとやり過ぎね」
「カーテン閉めますよ。少しはましになるかな」
椅子から立ち上がって病室の大きなガラス窓についているカーテンを閉めた。完全にとは言えないが音の少ない穏やかな空間が戻ってくる。
小説の中の主人公もこうやってカーテンを閉めたあとに水無月さんに告白していた。僕がこの小説を読んだ時、唯一違和感を覚えたシーンだ。主人公の水無月さんへの好意は描写されていたものの、水無月さんの家に行く前も行ってからも告白を匂わせる描写はなく、唐突に告白した。その理由がよく分からなかった。
だがこうやって実際に演じてみると分かることもある。カーテンを閉めて振り返った僕に向かって微笑みかける水無月さんの、曜子さんの形をした顔がいつも以上に可愛かったからだ。ただそれだけのこと。超人気作家奥空文子の作品を曜子さんの演技はやはり見事に補完している。
「水無月さん、ちょうど今関数の勉強をしていましたよね。一つ面白い方程式を教えてあげます。この式でグラフをかいてみてください」
僕は水無月さんの隣に駆け寄り、開いていたノートの端にx^2 +(y-∛x^2 )^2=1という方程式を書き込んだ。水無月さんは一瞬だけ顔をしかめつつも、もともと備わっていた好奇心によりすぐに真剣な表情になる。
「いいけどこれは何? ルートの左上についている数字は」
「ああ、それは三乗根と言って、平方根って根号の中が何かの二乗になると根号の外に出ますよね? 三乗根はそれの三乗バージョンです」
「へえ、そんなものがあるのね。でもそれが分かっても上手いかき方が思いつかないわね」
小説の中ではあっという間にかいていたのに現実はそうはいかないらしい。僕も詳しくは調べていなかったので仕組みはよく知らない。
「えっと、地道に計算して点をとっていきましょうか」
xがゼロの時のyの値から始まりxに色々な数を代入することでyを求め、僕らはノートに書いた座標平面の上に少しずつこの方程式が表す図形を描いていく。式の中に三乗根なんてものが入っているからすっきりとした数字になることが少なく、目分量になってしまいずれも生じてしまったが二十個程の点を書き込んだところで水無月さんはその図形の完成形を察したようだ。
「これは、何?」
「僕から静子さんに送りたかった気持ちだよ」
僕が教えた方程式はハートの方程式と呼ばれ、その方程式が表す図形はその名の通りハートの形になる。小説の中の主人公は好きという言葉を用いずに愛の告白をするのだ。
「そう……数学って奥が深いのね」
水無月さんは目を閉じて、ベッドの背もたれに寄りかかった。
なんとも薄っぺらな別れだ。本当はもっと深く、鮮やかに二人の関係は書かれているのに、僕がやっていることは小説のクライマックスだけを掻い摘んで再現しているだけ。分かっていても、三度目であっても、心の中に薄暗くて重たい感情が残り続ける。
「また浮かない顔しているね」
「曜子さんが褒めてくれたら復活します」
「ふふ、お疲れ様。よく頑張ったね、ありがとう」
曜子さんはそう言いながら僕の頭をなでてくれた。年下の女の子に頭をなでなでされて癒されている変な男の構図なのだが、外聞を気にする余裕は僕にはなかった。これで三人、まだ半分だ。あと三回は同じ思いをしなければならない。
翌日のホームランと翌々日のゲームでの勝利は達成することができず成果なしに終わってしまった。誠司さんからも日曜子さんについての新たな情報はまだないが、曜子さんの退院が来週の土曜日であることが正式に決定したとの報告を受けた。
夏期講習はこの金曜日で終わり、来週一週間は本当の意味で束の間の夏休みとなる。
退院を来週に控えた土曜日の朝、僕はゲームの特訓のために長谷の家にやってきていた。コーラは五百ミリリットルのものを半ダース買ってきた。
長谷の部屋に入るのは中学以来だったがその時と比べてパソコン周りの機材が新しくなり、機材自体も増えている。コーラを長谷の部屋にある小さな冷蔵庫に詰めながら何の気なしに将来のことを訊いてみた。
「長谷は高校卒業したらどうするの? こんだけ機材揃えてるってことはプロゲーマーとか目指してるの?」
長谷はモニターの前に置かれたゲーミングチェアに腰かけ、パソコンやモニターの電源をつける。薄暗い部屋の中に命がともるように光が生まれた。
「そうなればいいかなって思っているけど大学には行くよ。プロになれるかなんて分からないし、なれたとしても選手寿命が長くない世界だからな。仮に高校生のうちにプロ契約できても進学する。勉強してそれなりの大学に行くことがゲームを続ける条件だからな」
eスポーツ部は南沢高校のごく一部の先生からは「ゲームなんて」と蔑む目で見られているが、長谷は成績も割と上の方だしもちろんゲームでも結果を出している。夢も現実もしっかりと見えている長谷は僕にとって少し眩しい。僕は日々の現実を生きることで精一杯で、曜子さんを元に戻して交際を申し込むという目標がありつつも、将来の夢がない。
「とりあえず動画見せてみろよ。曜子さんのプレイの癖とか見つけた方が簡単だから」
月曜日に文音と一緒にゲームをした時と昨日金井さんと対戦した時の映像は残していた。今自分で見返しても曜子さんと金井さんの実力や動きは同じと言っても過言ではない。それを長谷に見せること約十分。長谷は呆れたように溜息をついた。
「曜子さんって正直全然上手くないぞ。操作方法を覚えたくらいの初心者」
「え? だって僕は全く勝てなくて」
「それはお前がもっと下手くそだってことだ」
「そんな……小学生の時は一番強かったのに」
「井の中の蛙め。だいたいお前大技しか振ってないじゃん。縛りプレイかよ。操作方法知ってるやつにはそうそう当たらねえよ」
「しょうがないだろ、小学生の頃はそういう大技を当てた奴が格好いいってされていて、小技や飛び道具でダメージ稼ぐやつはせこい奴って扱いだったんだから」
「あー、ローカルルール的な。くだらねえけど小学生ならそんなもんか。まああのくらいだったら俺が三時間も鍛えればすぐに勝てるようになるよ。午後は曜子さんのところに行くんだよな? 今日中に決めちまえよ」
「いや、それが今日は駄目なんだ。金曜日に勝たないと意味がない」
「は? 何で?」
「あ、いや、なんでもないよ。色々あってゲームできる日が限られてるから」
余計なことは言うものじゃない。もしも曜子さんが退院するまでに木曜と金曜を元に戻せなければその二日は学校を休むことになる。変な噂が立たないようにたとえ信頼できる友人である長谷にも曜子さんの秘密は話さない方がいい。文音にだって言っていないから、火曜から金曜まで毎日曜子さんに会いに行きたいと言うのを我慢させるのが大変だった。
長谷の指導は的確だった。基本的な操作方法から簡単なコンボ技を身につけさせてくれて、大技を振りたがる僕に【振っちゃいけないところで大技を振ったら、曜子さんの好きなところを一個ずつ話す】という罰ゲームを課し、三時間ほどの指導の間で十五回ほどに抑えてくれた。
一時間で一本の約束だったコーラだが買ってきた半ダースを全部あげて長谷の家を出て自宅に戻る。今日は両親がいなかったが文音が昼食にホットケーキを焼いてくれたのでそれを食べてから文音とともに病院に向かった。
駐輪場に自転車を停めて家を出るときぶりに文音の顔を見ると、物憂げで何か言いたそうな顔表情をしている。病室に向かいながら理由を聞いてみた。
「どうした?」
「曜子さんってさ、完璧な美少女だと思うの」
「そうだね」
「でもね、何か引っ掛かるんだ。理想的な女の子過ぎるというか、欠点が無さ過ぎて逆に怖い。何しても怒らなくて、おっぱい揉んでもニコニコしてた」
「お前、何てことを……!」
「偶然だよ偶然。普通はいくら女の子同士でもいきなりそんなことされたら嫌な顔の一つはするんだよ」
「それは、ただ曜子さんが大人なだけじゃ……」
「そうかもだけど、でも、うまく言葉に言い表せないけどなんとなく変な感じがしたんだ」
僕らは曜子さんの病室の手前で立ち止まる。
「曜子さんて何かあるの? お兄ちゃんはその何かをどうにかするために毎日ここに来てるんじゃないの? 曜子さん言ってたよ。『文也君が毎日来てくれるようになってからいいことがあった』って。すごく嬉しそうに」
曜子さんは自称十七歳の本来は十五歳の女の子。僕や誠司さんでは分からないことはたくさんある。同性で歳の近い文音だからこそ感じ取れること、曜子さんが見せる一面があったのだ。それを知った文音は僕や曜子さんのことを案じてくれている。
一瞬文音に全てを話してしまおうかとも思ったが思いとどまった。自殺未遂のことは話したくなかったし、それを隠して説明できるほどの話の技術も準備の時間もない。
「心配してくれてありがとな。でも大丈夫。文音は何も心配せずに曜子さんと楽しく過ごしてくれればいい。そのために連れてきたんだ」
話し方が下手くそだな、と我ながら思う。こんな言い方をしたら、何かあるのはバレバレではないか。でも、そう言って文音の頭をなでてやると文音は素直に頷いた。病室に入ると、月曜日と同じように無邪気で楽しく、曜子さんの妹のように振舞ってくれた。子供だと思っていた文音も、いつの間にか大人になりつつある。
この日は三人でバッティングセンターに行くことになった。
「ふっふっふ。期待しててね曜子ちゃん。お兄ちゃんより上手いんだから」
文音は得意気にそう言って百二十キロのケージに入る。色々不思議に思ったり心配していたりするものの、結局曜子さんのことが大好きだからいいところを見せたいようだ。しかも病院からここまでくる間にさん付けからちゃん付けに呼び方も変わっている。その距離感の近さに、僕もやっぱり呼び捨てため口にして、先輩と呼んでもらうようにすれば良かったと少しだけ後悔した。
僕と曜子さんはケージの真後ろのベンチに並んで座り、百二十キロのボールをぼこすか打ち返す文音を見守る。
「文也君、今楽しい?」
唐突に曜子さんが訊いてきた。同じ高さのベンチに座った状態で隣にいる僕を見ると僕の方が身長というか座高が高いので必然的に曜子さんは上目遣いになる。いつも通りのキラキラした瞳に吸い込まれそうになりながら、最大限平静を保って答えた。
「楽しいですよ。こんな風に女の子と一緒に遊びに出かけるなんて少し前までは考えられなかったですし、何より曜子さんが隣にいるので」
「ふふ、ありがと。でもそういうのじゃなくて、本物の七海曜子を取り戻すために頑張ってる今のこと。ママの書いた本を読みこんで、告白シーンを再現して、そのためにバッティングやゲームの練習をしている今のことだよ。どう? つらいこととかない?」
やっぱり曜子さんは理想の人だ。僕が嘘の告白を繰り返していることで罪悪感を覚えていることに気がついていて、心配してくれているのだ。
「大丈夫ですよ。大船に乗ったつもりで待っていてください。必ず僕が曜子さんを助けて見せます」
少し格好つけすぎた気もするが曜子さんは優しく微笑んでくれた。そして体と体の距離を詰める。僕を見つめる瞳に熱がこもってきている気がする。じっと見つめてくる曜子さんから目が離せない。
「……文也君は私のこと、好き?」
「はい。初めて会った時から好きですよ」
「ありがと。私は……どうすればいいのかな」
まるで自分の心に意見を訊くように、曜子さんはうつむいた。
「……今日は駄目みたい」
「え?」
「ううん、何でもない」
「何でもないって――」
その時、バッティングセンターの店内に軽快なファンファーレのような音楽がけたたましく鳴り響いた。その後、録音された音声が流れる。
『ホームラン! おめでとうございます! 係員より記念品の贈呈がありますのでゲーム終了後に受付までお越しください』
「わ! すごい! 文音ちゃん、ホームランだよ!」
曜子さんを見つめていた視線を急いで文音の方に向けるが当然その瞬間は見えることはない。だが、文音の飛び跳ねて喜ぶ様子と、他のケージにいる人やケージの外で待機している人たちが驚いた目で文音を見ている様子から、僕の妹である中学二年生の女の子が百二十キロのボールをホームランにしたことは間違いない。
ケージから出てきた文音は曜子さんとハイタッチした後になんと抱き着いた。曜子さんの胸に顔をうずめながら僕に向ける視線は「羨ましいでしょ?」とでも言いたげだ。
羨ましい。曜子さんに抱き着いていることもだが、こうも簡単にホームランを打ってしまったことが羨ましくてたまらない。僕はまだまだ打てる気がしない。
その後、僕は百五十キロのボールを相手に、優しい目をしながら応援してくれる曜子さんと「打てないならもっと遅い球にすればいいじゃん」とごもっともな意見を言ってくる文音に見守られながら、空振りと凡打の山という無様な姿を晒すのであった。
曜子さんには「これからだよ。また一緒に来よう」と励まされ、文音からはホームランの記念品である十一回ゲームができるカードをもらい、明日こそはもう少し前進することを誓った。
その明日である日曜日の午前中は、木島にバッティングを指南してもらう約束になっていた。
「バッティング教えるのはいいんだけどさ、何でわざわざ隣町のバッセンなんだ、よっ!」
木島は百五十キロのボールを軽々打ち返しながら言った。あわやホームランの的に当たりそうになる。体が縦に大きく厚みもある木島はすでに強打者の風格が漂っている。
僕らは昨日曜子さんと文音と一緒に訪れたバッティングセンターに来ていた。木島と練習するなら僕らが住む町にあるバッティングセンターでもいいのだが、ここでないといけない明確な理由がある。
「近所のだと百四十キロまでしかないでしょ? 僕は百五十キロを打たないといけないんだ」
「ふーん」
木島はその後も快音を放ち続け、満足した顔でゆったりとケージから出てきた。
「なんで?」
「ロマン、かな」
「ロマンねえ……まあいいや。文也くらいの実力があればコツさえ分かったら百五十キロくらいすぐに打てるようになるよ。その……条件を飲んでくれたらいくらでもコツを教えてやる」
「ありがとう。それで、条件って何?」
僕が尋ねると木島は大きな体を縮こまらせながらうつむき、もじもじとし出した。曜子さんが同じ仕草をしたらたいそう可愛いんだろうけれど、残念ながら木島はクラスの女子から「優しい熊さんみたいで可愛い」と言われるタイプなので可愛さのタイプが違い僕の好みではない。
「女の子を紹介してくれ」
だと思った。曜子さんを救ったら曜子さんの友達を紹介させてもらうしかない。熊系男子が好きな人が一人くらいはいるだろう。
その後の木島の指導はシンプルかつ的確だった。
「バッセンはどんなに速い球でも同じタイミングでボールが来るから同じタイミングでバットを振ればいいんだよ。俺はさっきそうやって打ってた」
「え? それだけ?」
「そうだよ。いい当たりなら十分ホームランまで持っていけるパワーはあるから力は入れ過ぎないように。ホームランは試行回数と運だ」
確かに僕は百五十キロと聞いて怖気づいてタイミングがバラバラになっていた気がする。木島の言う通りいつも同じタイミングでバットを振ってみるとその効果は覿面でほとんど空振りをしなくなり、いい当たりも増えてきた。
「すげえ。僕ってこんなに打てたんだ」
僕は楽しさと興奮に包まれながらバットを振るタイミングを体に刻み込みこんだ。
午前中いっぱい打ち続け、木島とはともに近くのスーパー銭湯で汗を流してから別れ、病院に向かった。
「今日の文也君はいい匂いがするのね」
病室に入るなり強引にベッドの淵に座らされ、密着するように右隣に座った日曜子さんに匂いを嗅がれながら言われた。
「午前中に運動したからお風呂に入ってきたんです。ていうか今日のってことは、いつもは臭かったんですか?」
「んー、ちょっとだけ汗の匂いがしたかな。でも嫌な匂いじゃなくて男の子の匂いって感じよ。大丈夫、ノートにも【文也君は臭い】とは書かれていない」
「そうですか、それは良かった」
暑い中自転車で来ているから多少の汗は仕方がないと思っていたが、臭いとは思われていない程度のようだ。
「ところで何でこんなにくっついてるんですか? 誘惑したって無駄ですよ?」
「だって来週の土曜日には退院しちゃうから。文也君に会えなくなっちゃうと思うと寂しくて」
「僕のこと好きなんですか?」
「そうだって言ったらこっちを向いて抱きしめてくれる?」
「あなたのことを色々教えてくれるなら考えます」
「何が知りたい?」
「あなたの本当の名前、は教えてくれないでしょうからどうして七海曜子を名乗るようにしたのか教えてください。入院の原因になった事故は日曜日で、その時にはもうあなたになっていたことは聞きました」
日曜子さんは僕の肩に頭を預けて寄り掛かる。髪からシャンプーとも香水とも言い切れないいい匂いがして、僕を惑わす。色々はだけているところは見ないように必死で視線を正面に向けて隣の日曜子さんを見ないようにした。
「この体になったことはこれまでも何回かあった。その時はいつも頭の中に女の子がいて色々と声をかけてくれたの。いつもマンションの一室で目の前にはこの体の持ち主、曜子ちゃんのお母さんがいた。でも今回は声が聞こえないし、いつもの部屋じゃなかったからただ事ではない気がして色々取り繕ったの。曜子と名乗ったのは元に戻った時、曜子ちゃんが私の名前で呼ばれないようにするため。結果的には正解だったわね、皆好き勝手に名乗っていたら大混乱だったでしょう。君とお父さんは別みたいだけど」
「ノートもあなたが?」
「ええ。不測の事態だから何があってもいいように、ね。普段メモなんてあまりしないけど」
「普段って何をしてるんですか? 年齢とか仕事とか」
「あら、私はぴちぴちの十七歳の女子高生よ」
「内緒ってことですか」
「ふふ。どうだろうね」
「本物の十七歳はぴちぴちとか言いません。あ、ちょっと何してるんですか」
日曜子さんは突然僕の上半身をまさぐり出した。左手で首筋、右手で胸元をねっとりとした手つきで撫でる。いつの間にか左足を僕の右足に絡めているので逃げられない。
「文也君の心臓はこの辺かな? わっすごいドキドキしてる。私のこと好きなの?」
「女性にこんなことされてドキドキしない男はいません」
このまま日曜子さんに溺れたくなる衝動と、僕が好きなのはあくまで本物の曜子さんだから手を出してはいけないという理性がぶつかり合い、なんとか理性が勝った。
あくまで冷静に、日曜子さんの足や手を引き剝がして立ち上がり、距離をとった。
「んもう、つれないわね。理性が強いこと」
「何てことするんですか。相手が僕じゃなかったらどうなっていたか知りませんよ」
「文也君以外にこんなことしないよ」
「どうして?」
「君を狙ってるから、なんてね」
日曜子さんは右手の人差し指をピンと伸ばし、僕の心臓に向けて妖しく微笑んだ。
誠司さんが情報を掴んだと嬉しそうに報告してくれたのは、この日の帰り際だった。
「今日は長谷の家に泊まるから帰らないよ。うん、文音にもよろしく、それじゃ」
再び自転車ごと誠司さんの車に乗せてもらいながら、母さんに今日は帰らないことを電話で伝えた。長谷にも口裏合わせをお願いしていて、曜子さんのために曜子さんの家に曜子さんのお父さんと二人きりで泊まると伝えたら大笑いされたが、了承してもらえた。
泊まって何をするのかというところまで話したらもっと大笑いするだろう。僕はこれから曜子さんの家に行って、日曜子さんが出てくるゲームをプレイしなければならない。誠司さんの同期で文子さんの元編集の人が色々な人脈を使って探し出したそのゲームは僕の家にあるゲーム機ではプレイすることができず、曜子さんの家に招かれることになった。シナリオが売りのゲームでネットにネタバレを書くのも禁止というルールが徹底されており、自分で見るしかない。さすがにシナリオ教えて、とはゲーム会社の人には言えなかったようだ。
「さ、入って」
「お邪魔します」
玄関で靴を脱ぎ、誠司さんが用意してくれたスリッパを履いてまっすぐに一つの部屋に向かう誠司さんについて行くと、そこにあったのはたくさんの本棚にたくさんの本が詰められた小さな図書室のような部屋だった。本棚の林の中に場違なはずのにやけになじんでいる仏壇が置いてある。誠司さんは部屋に入るなり、仏壇の前に正座して手を合わせている。僕も誠司さんのあとに仏壇に手を合わせた。
写真が二つ。きっと文子さんと前の旦那さんだろう。
「ここは文子の仕事部屋だよ。曜子は自分の部屋があったのに寝るとき以外はいつもここにいた。文子は病気になっても、入院しても、ずっとあのノートパソコンで小説を書いていて、多分ゲームのシナリオもあそこにデータがあるだろうけど、パスワードが分からないから開けない」
ノートパソコンが置かれた簡素な机、それに合わせたような質素な椅子。それらを始め、この部屋は今も使われているかのように綺麗だ。誠司さんが毎日出入りして手を合わせ、掃除をしていることが容易に想像できる。
「ゲーム機はテレビ台の中にあるから。私は夕飯の買い出しをしてくるよ」
誠司さんは多くは語らずに部屋を出て行った。その大きくて寂し気な背中は大切なものを失った悲しみがまとわりついているように見えた。
文子さんを失い、今は元気とはいえ曜子さんが自ら命を絶とうとした。相次いで悲劇に見舞われたのにも拘らず、この部屋も、玄関からこの部屋に来るまでに見た家の中も綺麗に掃除されている。仏壇も本棚も驚くほど丁寧に整頓されていた。仕事があるのに毎日曜子さんのもとを訪れて、いきなりやってきた僕のことも世話してくれている。そんな誠実で優しく、愛に溢れた誠司さんのためにも僕は頑張らなければならない。
誠司さんから受け取った【紫蘭女子学園の秘密】は主人公がたくさんの女の子と関わり恋をするいわゆる美少女ゲームだ。主に成人向けゲームを開発している会社が幅広い層を取り込もうと全年齢向けに作ったゲームらしい。
世の中の悪を滅するための機関に所属する主人公は、山奥にある全寮制の女子校である紫蘭女子学園に女装をして新入生として潜入するスパイ。学園には不自然な金の流れや生徒失踪事件などの様々な疑惑があふれており、その闇を暴きながら協力者となり得る女の子たちと恋仲になっていく。日曜子さんこと日下部一華は主人公の相棒であり、新しい寮の管理人として学園に潜入することになる。どうりでただ者でない雰囲気だったわけだ。
ネットにはストーリーのネタバレこそなかったものの正解の選択肢が載っているサイトがあり、それを頼りに日下部さんのルートをクリアすることができた。
主人公と日下部さんの協力により、違法な金を流していた証拠を掴み、学園の裏組織との戦闘を経て失踪した生徒たちも救い出し、エンディングを迎える。夕飯の準備ができたと言って僕を呼びに来た誠司さんもしばらく一緒にモニターを見つめていたが、僕らはどうにも違和感を覚えていた。
「なんかあっさりしすぎですよね。主人公は日下部さんの誘惑にひたすら耐えていただけで二人は結局相棒という関係から変わっていないし」
このシナリオだと日下部さんが満足するタイミングが分からない。仮に任務達成の時だとしたらそれは不可能な話だ。女子校を隠れ蓑にした悪の巨大組織なんて知らないし、あったとしてもどうしようもない。二人が恋仲になっていないので、告白シーンもない。
「とりあえず夕飯を食べながら考えようか」
道筋が見えると思っていた誠司さんが残念そうに言った。ダイニングに案内されて頂いた誠司さん手作りのカレーは美味しい。
「口に合うかい? カレーってメジャーな料理だけど市販のルーを使っても家庭によって微妙に味が変わるから」
「すごく美味しいです。辛さもちょうどいいし、コクがあってまろやかというか……」
「おお、分かってくれたか。コーヒー牛乳を少々入れたんだよ。仕事で自衛隊のカレー作りの特集をしたことがあってその時のことを参考にしたんだ」
「隠し味か……」
「他にも色々な隠し味を入れたパターンを作るんだが、文子も曜子もコーヒー牛乳入りが一番好きだったな。文也君が次に来た時は別の隠し味で作ったカレーをご馳走しよう。君の一番も知りたい」
誠司さんは料理が好きなようで、カレーの隠し味について熱く語ってくれた。誠司さん自身は赤ワインを入れたものが好みらしいが、僕がワインの風味に慣れているとは思えなかったのでやめたとのこと。
夕飯を終えて僕は再び文子さんの部屋でモニターとゲーム機の前に座った。料理のことを語れて上機嫌になった誠司さんも隣に並んで座る。
「隠し……」
選択肢確認のために見ていた攻略サイトの最後の方には隠しルートへの行き方というサイト内の別のページに飛ぶリンクが貼ってあった。その前に日下部一華ルートエンディングとあったから気にしなかったが、そのページを見るとどうやら隠しルートがあるらしい。僕がクリアしたのはノーマルルートで隠しルートはバッドエンドとハッピーエンドが用意されているようだ。
「こっちを攻略しないといけないんじゃないかな?」
「そうですね。でもどうやって……げ、隠しルートに入るには全ヒロインのノーマルルートをクリアする必要がある」
日下部さん以外のヒロインは五人。テキストを斜め読みにしても一人二時間はかかりそうなため、合計十時間。そこに日下部さんの隠しルートが加わる。
相談の結果、僕はすぐに仮眠をとりその間に誠司さんが二人ほど攻略することになった。そのあと仕事がある誠司さんが睡眠をとっている間に僕が残りの三人と日下部さんの隠しルートを攻略する。誠司さんが家を出る時間を考えると日下部さんの隠しルート攻略を誠司さんが見守れるかは微妙だが、実行するのは僕なので問題はない。
こうして僕は、好きな人の家でそのお父さんと一緒にお母さんの部屋で協力して夜通し美少女ゲームを攻略する、という世界でも稀有な経験をするのであった。
誠司さんと文子さんの寝室にある二つのベッドのうち、今はもう使われていない方のベッドに誠司さんがマットレスやシーツを準備してくれた。ベッドを使っていた人への思いを考えるとどうしても物怖じしてしまう。
「すまない。文子が亡くなったのは病院だし、クリーニングはきちんとしていたが、やっぱり気になるか。ちょっと古いがどこかに敷布団があったはずだから……」
「いえ、このベッドを使わせてもらいます。文子さんの魂を感じられるかもしれないので」
「……そうか、それじゃあまたあとで」
誠司さんが部屋を出ると同時に明かりが消される。眠ろうとするとすぐに眠れる体質である僕は、奥空空文子がかつて使っていた寝具に包まれて眠りについた。何だか奥空文子のパワーをもらえた気がした。
目が覚めると。誠司さんと交代してゲームの攻略を進め、残っている三人の攻略を終わらせると誠司さんが起きてきた。誠司さんは手早く出社の準備を整え、僕と一緒に朝食として焼いたトーストを咥えながら最後の日下部一華隠しルートの攻略を見守る。出社まであと一時間と言っていたが隠しルートはノーマルルートと途中までは同じなので会話やイベントをスキップしまくれば出社までに間に合いそうだ。
シナリオの終盤、日下部さんの自室にて主人公と日下部さんが失踪した生徒たちの救出に向かうための作戦会議を行うシーンに差し掛かった。作戦を決めたあと、日下部さんはベッドに寝転びながら主人公を誘う。
ノーマルルートで主人公は『馬鹿なことやってないでさっさと寝てください』と言って自室に戻るのだが今回は三つの選択肢が出現する。ノーマルルートと同じ言葉と『誘いに乗る』と『無言で見つめる』の三つで、正解は『無言で見つめる』だ。誘いに乗るとバッドエンドに直行するらしい。
ハッピーエンドを見終えた僕らは大きくため息をつき顔を見合わせる。
「いいですか? あれ」
「やらないと曜子が戻ってこないんだから、やるしかないだろう」
「言質は取りましたよ……」
苦虫を噛み潰したような顔をして出社のために家を出る誠司さんを見送り、念のためバッドエンドも確認して後悔してからゲーム機を片付けた。
朝起きてきた誠司さんがやっていたように僕も仏壇に手を合わせてからベランダに出てみた。ベランダはもう一つの部屋と繋がっているようで、外から覗いてみるとそれは曜子さんの部屋のようだった。曜子さんはこのベランダから落ちたのだろう。
柵から顔を出して下を見るとそこは小さな公園のようになっている。確かに地面はコンクリートよりは柔らかい土だがここから落ちて助かるイメージは湧かない。よほどの身体能力がなければ、ほぼ死が待っているだろう。
身支度を整え、戸締りをして七海家をあとにする。着替えやお風呂も貸してくれると誠司さんは言ってくれていたが、さすがにそこまでお世話にはなれなかったので遠慮して自宅に帰ることにしていた。ほんの一瞬だけ曜子さんの部屋に入ることができるということが頭によぎったが、今日の午後には曜子さんに会えるし、僕を信頼して家の鍵まで預けてくれた誠司さんの顔が浮かび、そんな考えはすぐに立ち消えた。
この日の午後は曜子さんとゲームの練習をして、長谷に教わった成果を発揮し曜子さんに初めて勝つことができた。曜子さんは「むー」と言いながら悔しそうにしていたが、どこか嬉しそうでもあった。
火曜日は二人でバッティングセンターに行った。ホームランはならなかったが木島のアドバイスのおかげで空振りをすることがほとんどなくなり、惜しい当たりも何本か打つことができた。曜子さんは僕がいい当たりを打つたびに「すごい!」とか「格好いい!」とか拍手をしながら褒めてくれた。
水曜日は病院近くの公園に行った。木陰になっている散歩コースを一回りし終えると木田さんと初めて会った時に一緒に遊んだ少年たちと遭遇した。この日の曜子さんは先週の火曜日に着ていた白のワンピースと麦わら帽子という格好をしており、曜子さんに惚れていて僕のライバルとなっていた少年はその姿にすっかり見惚れていた。また野球の勝負を仕掛けられたので無慈悲にもボコボコにしてあげると「曜子さんのことは文也に任せる。絶対に幸せにしろよ! いつか必ず倒してやるからな!」と熱い言葉をかけられ、僕らは固い握手を交わした。
そして勝負の木曜日。きりっとした表情でやる気十分の木田さんと一緒にバッティングセンターを訪れる。受付の人は短期間で何回も来て百五十キロに挑戦している僕の顔を覚えており「頑張れよ」と声をかけてくれた。
ホームランを打てるパワーと技術は持っている。あとは試行回数と運という木島の言葉を思い出す。気負うな、力を入れ過ぎるな。先に挑戦を始めている木田さん、というよりは球の軌道を見ながら僕は集中力を高める。
それでもホームランはそう簡単に打てるものではない。木田さんと交互に挑戦しながら約百球を打ち終えても、惜しい打球が四、五球といったところだ。
「少し休憩しよっか。さすがに疲れたー」
挑戦を終えた木田さんが大きく息を吐きながらベンチに座っている僕の隣に腰をおろす。
木田さんの分のスポーツドリンクのペットボトルを渡してあげるとにこやかに微笑みながら「ありがとう」と言ってグイグイと飲み始めた。美味しそうに鳴る喉、太陽の方を見たためかまぶしそうに細めた目、日差しを受けてきらめく頬を伝う汗の粒、髪を掛けたためむき出しになった形のいい耳、まるでスポーツドリンクのコマーシャルのよう。
一緒だ。小説の中の主人公が見ていた光景そのものだ。これまで仲の良い友人としか見ていなかった木田さんをいっきに女の子として意識し始めて恋に落ちる。そしてこのあとホームランを打って何でも言うことを聞かせるという権利を使って自分の彼女になるように要求する。
主人公は物語開始直後に事故で両親を失い、木田さんがいる施設で暮らすことになる。木田さんにとっては初めて身近にいることになる同い年の男の子で、両親のいない悲しみや苦労、これからの人生への希望を分かち合える存在となり、彼女は早い段階で主人公に思いを寄せていた。僕はこれからその思いを踏みにじるようなことをしなければならない。
もう覚悟はできている。だから原作通りいってくれ。
現実は非常なものでその後も百球ほど打ったがホームランは出ない。それどころか疲労によりまともにスイングができなくなってきていた。木田さんもやる気だけは十分だが曜子さんの体では体力が追いついていないようで疲れた顔をしてベンチに座っている。
「次が最後の挑戦かな」
もう時刻は午後五時を過ぎている。病院の夕食の時間もあるし、着替えなどの時間も必要なのでもうすぐ帰らないといけない。この挑戦で駄目ならまた来週に持ち越しだ。そうなると僕も曜子さんも木曜日に学校を休まなくてはならなくなるがそれは避けたい。僕は曜子さんに希望とともに平穏を与えたいのだ。
凡打を重ね残り十球ほどとなった時、昨日たくさん聞いた声が聞こえた。
「あ、曜子ちゃん、来てたんだ……文也と」
「優貴君。久し……あ、昨日ぶりだね。優香ちゃんも」
僕とライバル関係にあった少年、優貴君とその妹の優香ちゃんだ。そばにいる大人は両親だと思われる。昨日の言葉通り僕を倒すために練習をしに来たのだろう。優貴君は木田さんといくつか言葉を交わしたあと、僕がいるケージのフェンスに寄ってきて凡打製造機と化した僕を見て誰にも聞こえないように言った。残りは五球ほどだ。
「へなちょこバッターに曜子さんは任せられないな。昨日言ったことはなしにしようかな」
今の優貴君の実力じゃバットにかすることさえできないくせに言葉だけは一丁前だ。でも、その言葉は諦めかけていた僕の心に火を灯し、体の疲労感も消し去ってくれた。バットを握る手に力が入る。いや、力を入れ過ぎてはいけない。昂る気持ちを落ち着かせる。
こんな展開原作にはない。しかし木田さんが出てくる小説【春風とウインドミル】は小学校高学年から中学生くらいを対象とした作品で、そのくらいの年齢であればライバルからの叱咤激励で謎のパワーを発揮する展開は大好物なはずだ。だからこれはいい原作改変。
最後の一球。自分史上最高のスイングで捉えた打球は、その軌道が放物線の頂点に達する前に半径を目測できないほど遠くのネットに取り付けられたホームランの的に直撃した。
『ホームラン! おめでとうございます! 係員より記念品の贈呈がありますのでゲーム終了後に受付までお越しください』
その音声が終わる前に僕はケージを飛び出す。口をあんぐりと開けている優貴君を横目に、ベンチに座りながら優貴君と同じように口をあんぐりと開けている木田さんの目の前に立つ。
「僕の勝ちだね」
「うん。すごいよ、文也君」
「負けた方は勝った方の言うことを何でも聞く、だったよね?」
「そうだね」
「僕の彼女になってよ。まなみさん」
僕が右手を差し出すと木田さんはおずおずと左手を差し出す。顔を赤くしながらうつむいていて、いつもの元気はどこへやらというくらいのしおらしさだ。
「好きだよ、まなみさん。僕は君の笑顔が好きなんだ」
そう言いながらもう片方の手も加えて木田さんの左手を包み込むように握ってあげると、木田さんは原作通りに、無邪気で太陽のようなはじける笑顔を僕に向けてくれた。
ホームランの記念品であるカードは優貴君にあげていつかまた勝負をすることを約束し、元に戻った曜子さんとともに病院に戻る。
「お疲れ様」
「曜子さんも、疲れてませんか?」
病院の前の大通りを渡るための横断歩道前での信号待ち。曜子さんは微笑みながら自分の左手をじっと見つめた。親指の中ほどの部分や他の指の付け根の部分などをいじくっている。木田さんが曜子さんの体でバットを振りまくっていたから手の皮が硬くなったりしているのだろうか。
「私は大丈夫。ね、文也君も左手出して」
言われた通り、マメができたり皮がはがれて痛々しくなった左手を差し出す。曜子さんは一瞬驚いた表情になったが、優しく、触ってもいたくなさそうな部分を選んで僕の左手を握ってくれた。信号が青に変わりそのまま歩き出す。
「すごく頑張ってくれたんだね」
「曜子さんのためですから、中学の時より素振りしましたよ」
建前は文音の自主練に付き合う、だった。夜、家の近くの公園で文音と二人で毎日素振りをしていた。文音を家に送り届けてからも一人公園に戻って素振りを続けた。すべては今日のためだ。
「あと二人だね」
横断歩道を渡り切ってから足を止めた。
手を繋いだからか。心地よい疲労と達成感に包まれているからか、いつもより少しだけ感情が漏れ出た。
「あと二人、もう算段はついています。だから、二人分終わったら僕の彼女になってください」
僕の手を握る曜子さんの手に力が入った。口を真一文字に結んだまま曜子さんは僕を見つめる。僕が曜子さんを好きだということは知っているはずなのに驚いているようだ。
「……本当に私でいいの?」
「曜子さんがいいんです」
「そっか……うん、そうだね。それじゃあ、明日も日曜日も文也君に会えることを楽しみにしてるよ」
「任せてください。絶対に僕が曜子さんを救いますから」
そのまま病院に入り、曜子さんが売店で絆創膏を買い、その場で貼ってくれた。そしてしっかりと手を握り直す。
病室に向かおうとすると誠司さんはすでに病院に来ていて、自販機コーナーで缶コーヒーを飲みながら奥空文子作のライトノベル【僕は天使の世話係】を読んでいた。金井さんが出てくる作品だ。僕らの繋がれた手を見て、ちょっとだけ複雑そうな顔をしている。
「お父さん、紹介するね。八雲文也君。もうすぐ私の彼氏になる人。とっても頑張り屋さんで家族思いで優しいの。ちょっとエッチだけどね」
誠司さんは一瞬だけ目を丸くした後、僕を見て優しく微笑んだ。
「そうか。これからも仲良くするんだよ」
「うん」
僕らのそばを口に手を当ててにやにや笑いながら看護師の杉本さんが通った。空いた手で僕の肩を軽く叩いてそのままどこかに行ってしまった。自販機コーナーにいた他の人たちも、廊下を行きかう看護師さんたちも皆僕らを見て笑顔を見せている。恥ずかしい、けれどもどこか誇らしくもあった。
結論から言うと、金井さんに勝つのは簡単だった。長谷のアドバイス通り大技を振らないように、簡単なコンボでダメージを稼ぎ、相手の攻撃を受けないように立ち回る。たったそれだけで勝ててしまった。今までの惨敗は何だったのかと思うほどあっさりとした勝利だった。
小説の中で金井さんは鬼神の如き強さと表現されていたが、火村さんのビンタが痛くないのと同じように、木田さんのバッティングが上手でないのと同じように、金井さんのゲームの実力も曜子さんと同じで助かった。主人公の口調を真似て告白する。
「美也、これからは俺がそばにいるから寂しくないよ」
「……彼女にしてくれる?」
「もちろん」
僕の肩に寄りかかりながら見せてくれた金井さんの笑顔はまさに天使のようだった。一瞬だけ気を失ったあと、曜子さんは目を覚ます。
「強くなったね、文也君」
「曜子さんが練習相手になってくれたおかげです」
「私も文也君とゲームするの楽しかったよ。それだけじゃない。トランプしたり、おしゃべりしたり、バッティングセンターに行ったり全部楽しかった。ゲームセンターに行ったことも一緒に勉強したことも覚えているし、体を触られて真っ赤な顔になったのが可愛かったのも覚えてる。私じゃない私と文也君が過ごした思い出もちゃんと七海曜子の心に残ってるんだよ」
「これからもっとたくさんの思い出を作りましょう。二人で遊びに行ったり、文音も連れて家にも遊びに行きますよ。学校でも一緒だし、楽しいことがいっぱい待ってますから、日曜日を楽しみにしててください」
退院を明日に控えた曜子さんの荷物の整理を手伝いながら色々な話をした。
好きな食べ物はお父さん、つまり誠司さんが作ったカレー。隠し味は何が好きか尋ねるとしばらく考えた後にはちみつと言っていた。誠司さんは隠し味をばらすことなくカレーを作っていたらしい。
好きな色は白。どんな色にでも染まることができるからとのことだ。その身に様々な人格を降ろすことができる曜子さんらしい答えだ。
昔から妹が欲しかったことも話してくれた。これからも文音を自分の妹のように思っていいですよ、と言うととても喜んでくれた。
一夜を明かし、明日の午前中の検査までしか病院にはいないので、必要のないものを誠司さんの車に積み込むのを手伝い、僕は一足先に帰宅した。荷物で僕の自転車を入れるスペースがなかったのもあるが、曜子さんが「お父さんともっと仲良くなりたい」と言っていたからだ。
目の覚めるような衝撃的な出来事とか、人生を変えるような出会いとか、情熱を注ぎ込める何かを見つけることとか、そういったものは全くないまま高校二年生になった。
二年生になると校内にある噂が流れ始めた。すべて新入生に関することだ。
「千年に一人レベルの美少女がいるらしい」
「超人気作家の奥空文子の娘がいるらしい」
「演劇部にまるで登場人物本人のようなとんでもない演技をする子が入ったらしい」
そんな子たちとお近づきになれたらさぞ華やかな高校生活になるのだろうなと思いつつも、高校生になって一年ですっかり灰色に染まり切ってしまった僕は、本当は興味津々なくせに自分には無理だと諦めて興味がないふりをした。青春というものに対して怖気づいていたのだ。
その後も、芸能事務所のオーディションを受ける子がいるとか、もう十人の告白を断っている子がいるとか、自殺未遂をした子がいるとか色々な噂が校内にはあふれていたが、色々諦めていた僕はもう関心を持つことはなかった。他人のことはもちろん、自分がしたいことも分からず、夏休みになる前に宿題として渡された進路希望用紙には、何も書くことがない。
僕を主人公にして、僕の人生を辿る小説を書いたら、つまらないと思う。
八月初旬の月曜日。そこそこの進学校らしく行われている夏期講習を午前中で終えると、友人の木島と長谷に遊びに行かないかと誘われた。二人は同じ中学で野球部だった友人で、木島は今も野球を続けていて日々ボールを打ったり投げたりしている。長谷はeスポーツ部なるものに入部して日々パソコンの中で銃を撃ったり爆弾を投げたりしている。
二人揃って部活が休みのときは部活をやっていない僕とともに遊びに行くことが多い。特にやることのない僕がその誘いを断ることは基本的にないのだが今日だけは駄目だった。
「ごめん、今日はこの後に予定があるんだ」
「なにぃ? 女か?」
「部活やってないからって女遊びに勤しむとはずるいぞ、文也」
木島と長谷が問い詰めてくる。野球部は女子マネージャーがいないし、eスポーツ部も男子しかいないので二人とも女子に飢えているらしい。女に会いに行く、というのは間違いではないので「まあ、そんなところ」と言って二人と別れて学校を出た。「成果は報告しろよ!」という長谷の声が背中の方で響いた。
気温三十五度という猛暑の中、制服のワイシャツが汗でべたつくのを我慢しながら三十分ほど自転車を漕ぎ続けてたどり着いたのは隣町の大学病院。今朝散歩中に転んで足を骨折してしまった僕のおばあちゃんが入院している。朝学校に向かう前に連絡を受けたが、命に別状はないということで夏期講習が終わってからお見舞いに行くことになっていた。
足以外は有り余るほど元気なおばあちゃんに安心し、熱中症にならないようにと塩レモン味の飴をもらって病室を出た。塩分はありがたいが熱中症対策には水分も必要ということで病室が並ぶフロアの一角にある自販機コーナーに立ち寄った。
椅子やテーブル、テレビも置いてあって僕のようなお見舞いの人間や比較的体調の良い患者さんの憩いの場となっているようで今も数人が椅子に座ってテレビを見ている。
小学校高学年の頃から使っている年季の入った財布から小銭を出して自販機に入れ、ペットボトルのスポーツドリンクのボタンを押したが反応がない。
「やば、足りない」
僕が入れた百五十円に対しスポーツドリンクは百六十円。誰も見ていないとはいえ恥ずかしさを感じながら財布を広げて中を探ったが、出てくる小銭は一円玉だけ。諦めて百二十円の水にするかそれとも千円札を使うか悩んだ末に返却レバーに手を伸ばした時だった。
「はい、どうぞ」
優しくて、よく通って、つい聞き惚れてしまう声とともに、僕の視界に透き通るように白く、細く、綺麗な手が入り込んできた。その手には十円玉が握られている。
僕はいつの間にか隣にいたその声や手の主の顔に目が引き寄せられる。
ぱっちりとした大きな目はキラキラと輝いていて、長いまつげがその目を際立たせる。綺麗なラインを描く鼻。艶のある唇。白くて瑞々しい肌。肩甲骨辺りまで伸ばし、細めのひと房だけ編み込んだ部分がある髪は今まで見たどの女性の髪よりも美しく、まさしく千年に一人と言う表現がふさわしい同い年くらいの女の子が、呆然とする僕の顔を不思議そうに見つめている。
「十円足りないのかと思ったけど、違う?」
しばらく彼女と見つめ合った後、彼女の言葉でハッとする。
「あ、ああ。うん。そうです、小銭がなくて。でも……」
千円札ならあるから……と言うのはやめた。せっかくこんなに可愛い子が話しかけてくれたのだから、ありがたく十円を借りてお近づきになるきっかけとしたい。
「でも?」
「いや、諦めて水にしようかなって思ってたんですけど、この後自転車で帰るからスポーツドリンクの方が良くて、貸してもらえたら嬉しいです」
僕がそう言うと彼女はにこりと微笑みながら小銭の投入口に十円玉を入れてくれた。僕がお礼を言いながらスポーツドリンクのボタンを押すと、彼女はさらに小銭を投入して自分の分の飲み物を購入する。
「生クリーム入りキャラメルラテ」
甘そうなドリンクを手に入れて嬉しそうな笑顔を見せる彼女はとても元気そうだし、白く涼し気なハーフパンツにパステルブルーの半そでシャツ、その上に薄めの白のカーディガンを羽織っていて、入院患者の人が着ているような服装でもない。僕と同じくお見舞いの人だろうか。
「今帰るところ? もし時間があったら少しだけお話ししない?」
「え? う、うん。もう用事は済んだし大丈夫」
彼女の顔がパッと明るくなる。
まさかいきなりお誘いを受けるなんて思いもしなかった。木島と長谷にはきちんと報告という名の自慢をしてやろう。
「良かったぁ。私ここに入院していて、最近お父さんと看護師さん以外誰とも話してなかったから退屈だったんだ」
「え? 入院してるの?」
「うん……交通事故で。もうほとんど直っているんだけどね」
少し照れくさそうに説明しながら彼女は空いている椅子に座り、テーブルをはさんで正面に僕も座った。こんなに可愛い女の子と正面から向き合ったのは初めてなので緊張するが、僕の方から自己紹介するべきだろうと思い意を決して言葉を発した。熱中症でもないのに顔が熱い。
「えっと、八雲文也っていいます」
「文也君か。私は七海曜子。その制服って南沢高校だよね? 私も同じなの。何年生?」
「二年生です」
こんな綺麗な人学校にいただろうか。もしや四月に噂になっていた千年に一人レベルの美少女一年生か? と思ったが曜子さんは三年生らしい。こんな美人がいたら去年から話題になっていそうなものなのに、いかに自分が周りを気にしていなかったか痛み入る。
「では後輩の文也君。君はどうしてこの病院に来たのかな?」
僕が後輩だと分かると曜子さんは少しだけ偉そうに尋ねてきた。キャラメルラテが入ったペットボトルをマイク代わりに僕に向けて、インタビュアーのつもりのようだ。
「おばあちゃんが足を骨折して入院することになったので、そのお見舞いです」
「なるほど、午前中は学校で夏期講習を受けてきたの?」
「そうです。終わった後急いで自転車で来ました」
「おばあちゃんが心配だったんだ?」
「そうですね。僕、三つ下の妹がいるんですけど、その子が生まれる時にいっぱいお世話になったので」
「なるほど。おばあちゃんのこと好きなんだ」
「ま、まあそうですね」
「それに家族のことを話す表情を見てると君が家族思いだってことが分かるよ。いいことだね」
曜子さんは勝手に納得してうんうんと頷いている。家族のことが好きなのは間違ってはいないし、曜子さんに褒められるのも悪い気どころかいい気しかしない。
「じゃあ次はね――」
次の質問をしようとしたとき、曜子さんはふと動きを止めて周りを見回し始める。僕もつられて見回すとこの場に人が増えてきていることに気がついた。目的はこのスペースに置いてあるテレビのようで、試合開始を知らせる独特のサイレンが鳴り響く。
「甲子園、今日からだったね」
「ええ、この時間は地元の高校の試合でしたね」
「文也君は野球はお好き?」
「そうですね。中学までは野球部だったので」
「そうなんだ。この試合見たい?」
「いえ、知り合いもいないですし」
興味はあるけれど、それより曜子さんとの会話を続けたい。
「人も増えてきたし私の部屋に行かない?」
小首をかしげてキラキラした目で僕を見つめる曜子さん。瞬きをするたびに小さな星が出ているような幻覚さえ見えるような気がする。こんな誘いを断ることができる男子高校生はいない。
鼻歌を歌いながら軽快な足取りで病院の廊下を歩く曜子さんについて行くと突き当りの個室に案内された。まるで自分の家かのように曜子さんは僕を招き入れる。
「はい、どうぞ」
「お邪魔します」
そこは確かに病室ではあるのだけれど、衣服の詰まった衣類ケースや教科書や参考書、美容系の雑誌や文庫本、辞書なども並べられた本棚、プラスチックのバットとゴムボール、漫画雑誌やゲーム機、ノートパソコンまであって、まるで趣味の違う兄弟が一緒に暮らしている部屋のような様相を呈していた。病室らしい大きなベッドの方がこの空間に似つかわしくない。
入院生活が長くなりそうだから色々持ち込ませてもらっていると言う曜子さんはベッドの脇の棚からノートのような物を取ると、部屋の奥の方にある丸椅子に座った。テーブルをはさんで反対側に僕も座る。テーブルがさっきよりも小さいので距離が近くて緊張する。
「さて、色々聞かせてもらおうかな」
曜子さんは先ほど取ったノートを広げてペンを持つ。僕の話をメモするつもりのようだ。
「話を整理すると君は八雲文也君、南沢高校二年生で、誕生日は?」
「九月八日です」
「お、あと一ヶ月くらいだね。じゃあ今は十六歳か。家族は詳しく聞いてもいい?」
「はい、母と父と妹との四人家族で隣町に住んでいて、おばあちゃんはこの町に住んでいます」
「なるほど。あとは家族思いの元野球部ってところか」
曜子さんは先ほどまで話していた内容を確認してノートに書き込んでいる。目的はよく分からないけれど、僕のことを知ろうとしてくれるのは嬉しい。
「趣味は?」
「んーこれだって言うものはあまり……強いて言うなら友達と遊ぶことですかね。カラオケとかボウリングとかバッティングセンターとかゲームとか。お小遣いでやりくりしてるので友達の家でゲームが一番多いかもしれません」
「将来の夢とかあるの?」
「今はまだ決まってないですね。人のためになったり、人を喜ばせたりする仕事に就きたいと漠然とは考えていますけど」
まずい。せっかく会話を広げるチャンスとなりそうな話題なのに微妙な回答しかできていない。
「色々模索中なんだね。高校生らしくていいと思う」
そう言ってにこりと笑みをくれる曜子さんはきっと天使の生まれ変わりか何かなのだろう。夏休み前の三者面談も担任の先生じゃなくて曜子さんにやってもらえたらもっとやる気が出たと思う。
「好きな食べ物とか嫌いな食べ物はある?」
「嫌いな物は特にないですね。好きなのは……」
「どうしたの? 言いづらい食べ物? シュールストレミングとかピータンとか?」
「い、いや、そういうのではなく……妹が小学三年生か四年生になった頃から休日によくホットケーキを焼いてくれるようになったんですけど、それがすごく美味しくて好きなんです」
曜子さんは嬉しそうにニコニコしたまま何も言わずにノートにメモを取った。
その後も学校の成績だったり交友関係だったり事細かに僕の情報を聞かれ、僕のプロフィールは事細かに記録された。僕を主人公とした小説を書くなら曜子さんのノートを参考にするといいだろう。
全てを書き記した曜子さんは満足そうにノートを閉じ、キャラメルラテに口をつけた。
「甘ーい」
「すごく甘そうだけど、美味しいですか?」
「飲んでみる?」
そう言って先ほどまで自分が口をつけていたペットボトルの飲み口を、僕の目を見つめながら僕の口に近づけてくるのは心臓に悪いのでやめて欲しい。美味しいものを共有するためなら間接キスも厭わないとか、僕のことが好きなのかと勘違いしてしまう。
動揺して固まっているとついにその飲み口が僕の唇に触れた。曜子さんがペットボトルを傾けるとほんの少しだけ苦さの混じった激甘な液体が口の中に入ってくる。
間接キスしちゃった。初めてなのに。
「どう? 美味しい?」
ペットボトルを僕の口から離した曜子さんが笑顔で尋ねる。
「あ、あわわ」
曜子さんは何と言うか距離が近い。だからそのキラキラと謎に輝く綺麗な目とか、唇にわずかについているキャラメルラテの雫とか、白くてつるつるして瑞々しいほっぺとかから目を離せなくなる。そういうものは彼女のいない男子高校生にとっては毒でしかない。
目の覚めるような衝撃的な出来事とか、人生を変えるような出会いとか、情熱を注ぎ込める何かとか、そんなものがない灰色の人生は終わりを告げる。視界が華やいだ気がした。
僕はこの時、曜子さんに情熱を注ぎ込むことに決めたのだ。一目惚れ、というやつだ。
「よ、曜子さん。次は曜子さんのことも教えて欲しいです」
情熱を注ぎ込む決めた以上は曜子さんのことを色々と知らないといけない。そもそも彼氏がいるとかだったら始まりすらしないのだから。
「いいよ。じゃあ改めて名前は七海曜子。誕生日は九月一日で高校……三年生」
溜めてから指を三本立てて見せつける謎ムーブですら可愛らしい。
「趣味は読書かな。奥空文子の本が好きなの」
奥空文子――一般文芸から児童文学やライトノベル、ゲームのシナリオまで様々な物語を作りそのどれもがヒットしている超人気作家――確か娘が南沢高校にいるとか。今年の七月初旬くらいに病気で亡くなったことをニュースで知った。
「身長百五十九センチ体重四十九キロ。五十キロじゃないよ」
「あ、はい」
体重を知ったから何かするということはないのだけれど、女性にとって体重はかなり重要な個人情報なのではないかと思う。妹も小さい頃は体重が増えると成長していることが嬉しいのか僕に報告しに来ていたのに、小学校中学年くらいになってからは体重の話を一切しなくなった。その頃からおやつのホットケーキを一人で食べきらずに僕に分けてくれるようになって、僕が美味しいって褒めたら頻繁に作ってくれるようになった。
そんなデリケートな情報まで教えてくれるということは僕のことが好きなのかと勘違いしてしまうから気をつけて欲しい。
その後も曜子さんは嫌いな食べ物とか得意な教科とか毎日の睡眠時間とか彼氏がいないこととかを教えてくれた。
曜子さんと楽しいひと時を過ごすこと数時間。夏真っ盛りでまだ外は明るいが時刻は午後五時となっていた。
「あ、そろそろお父さんが来る時間だ。会ってく?」
「え? それはさすがに、またの機会にします。今日は帰ります」
「そっか。ねえ文也君、また会いに来てくれる?」
「もちろん。お金も返さないといけないのですぐに来ます。暇だから」
「十円くらい気にしなくていいよ。でも嬉しい。午前中は検査とかで忙しいから午後に来てくれる?」
「はい。絶対来ます、毎日でも」
「それは嬉しいけど、来週でいいよ、しばらく入院してるし。月曜日がいい」
「……じゃあ月曜日に」
「うん、約束。またね」
微笑みながら小さく手を振ってくれる曜子さんに手を振り返しながら病室を出る。
僕は顔がにやけるのを隠しながら、怪我をしたおばあちゃんに感謝したことを心の中で謝りながら帰路に着いた。
夕方になっても外はまだ暑い。でも僕の心に顔に体に灯った熱はこの暑さのせいだけではない。
翌日、木島と長谷に昨日の成果はどうだったのかと訊かれたので、曜子さんという超絶美人で人懐っこくて距離が近い女の子と知り合ったと自慢してやった。うちの学校の生徒だということはなんとなく黙っておいた。
「で、その曜子さんの写真とか連絡先は?」
そう長谷に訊かれると何も持っていなかったことに気づき、二人に怪しまれてしまった。
夏期講習を終えて大急ぎで病院に向かい、おばあちゃんのお見舞いもした。昨日借りた十円はもちろんのことお見舞いの品として自販機で生クリーム入りキャラメルラテも買って曜子さんの病室の扉をノックする。
中からは確かに曜子さんの声だが昨日の弾むような可愛らしい感じとは違って、どこか怒っているようにも思える少し低めだが声量十分な返事が聞こえた。機嫌が悪いのかとも思ったが一応部屋に入ることは許可されたようなので恐る恐る扉を開くと曜子さんと目が合った。
今日はジャージ姿でベッドの上であぐらをかいて座っており、今まで読んでいたのか漫画雑誌がベッドの上に散乱している。僕を見つめるその目の形や大きさ、まつ毛の感じは確かに曜子さんのものではあるが、どこか鋭くて別人のようだ。
「お前が八雲文也か。何しに来た?」
とても曜子さんには似つかわしくない荒っぽい口調でその人は僕に尋ねた。
「は、はい。あの、昨日借りたお金を返しに、あとお見舞いで昨日飲んでいたこれを……あの、曜子さん? からかってるんですか?」
僕の手に握られたキャラメルラテを見つめる曜子さんのような人。その後もう一度僕の顔を見て言った。顔は曜子さんなのに恐怖を感じる。
「あたしはコーラの方が好きなんだ。買い直してきてくれ。それはお前が飲めよ」
「はい」
有無を言わせない威圧感に、さもそうするのが当たり前であるかのように僕は自販機コーナーへと向かう。
自販機でコーラを買ってきて再び病室の扉をノックすると「おう、入れよ」と雑で豪快な声がした。曜子さんの声なのだからもう少しおしとやかに可愛く言って欲しい。
「失礼します。これ、コーラと昨日借りた十円です」
「おう、ご苦労。十円は取っとけよ」
「あ、ありがとうございます」
つい十円玉を引っ込めてしまったが今度曜子さんに会ったときに返せばいいか。そもそもまた曜子さんに会えるのか。
「あの、あなたはいったい?」
僕から受け取ったコーラを早速豪快に飲み始めていた曜子さん(仮)はあごを引いてつばを飲み込んでから答えてくれた。さすがに曜子さんの容姿でゲップをするのは我慢してくれたみたいだ。
「ええと、こういう時は……」
曜子さんみたいな人は昨日曜子さんが書いていたノートを読み始める。その姿は荒々しさが幾分か抑えられてやっぱり曜子さんそのものだと思わせる。僕はベッドの脇に置いてある椅子に腰かけた。
「言えない」
「え?」
「ノートにそう言えって書いてあるんだからしょうがないだろ」
「どういうことですか? 言えないってどうしてですか? そもそも昨日の曜子さんとあなたの関係は――」
「うるせえ!」
バチンッという音が病室に響いた。その驚きで一瞬目をつむってしまい、再び目を開けるとそこには僕を鋭い目で睨みつける曜子さんに似た誰かがいる。意外なことに頬への衝撃はさほど強くはなかったが、残念ながらビンタで興奮するような性癖は持ち合わせていない。
「悪い、つい手が出ちまった」
「いえ、僕もいきなり色々訊き過ぎました」
ビンタしたことを素直に謝りバツの悪そうな顔をする曜子さんっぽい人。ガサツで横暴で暴力的な人だけど根っこの部分では悪い人ではない気がする。曜子さんの容姿であることでかなりのバイアスがかかっているけれど。
曜子さんに似ているその人はノートとにらめっこしながら悩ましい顔をしている。
「あの、僕と昨日会ったことは覚えているんですよね?」
「ん? まあなんとなくはな。間接キスした程度であんなに慌てやがってだらしない」
「キス……」
昨日の間接キスのことを思い出しながら目の前の曜子さんに似た姿の人の唇を見る。曜子さんと同じで艶があってプルンとしていて、少しだけ苦くてとても甘かった。あわよくばもう一度なんて考えたりして。
「気持ち悪い顔すんな」
平手で頭を叩かれた。口調は悪いし手は早いが威力はたいしたことがない。人格は明らかに昨日の曜子さんと違うけれど、体が曜子さんだから力も曜子さんと同じなのではないかと思う。だってこんな性格の人がこんなに非力なはずがない。
「なんてお呼びすればいいですか?」
「……曜子でいい」
「……分かりました。曜子さん」
本当は何か別の名前があるような、そんな言い方だ。
ともあれこれ以上色々追及してもまた叩かれるだけなので真相解明はひとまず諦め、曜子さんかもしれない人が読んでいる漫画の話題で盛り上がったり、僕が余計なことを言って二回くらい叩かれたりしながら曜子さんのお父さんが来るまでの午後のひと時を過ごした。もちろん昨日の曜子さんが好きだけれど、こっちの曜子さんも意外と気さくで、そこまで嫌いではないと思えるくらいには仲良くなれた気がする。
でもこの現象はいったい何なのだろうか。姿かたちは曜子さんなのに中身は別人。明日も来て、確かめないわけにはいかない。
翌日の水曜日も夏期講習が終わると病院に向かう。まずはおばあちゃんの病室に顔を出して塩レモン飴をもらってから曜子さんの病室に向かう。すれ違う看護師さんは僕の顔を覚えたようで「また来たのね」なんて微笑みながら声をかけてくれた。多分曜子さんの彼氏だと思われている。
今日は月曜日の曜子さんに会えるだろうか、それとも火曜日の曜子さんだろうか、それともまた別の人格だろうか。期待と緊張を持ちながら病室の扉をノックすると昨日とは打って変わってか細くぎりぎり聞き取れるくらいの小さな返事が聞こえた。一応部屋に入る許可をくれていることは理解できたので扉を開けると、ベッドに座りながら備え付けのベッドテーブルの上で参考書やノートを広げている曜子さんがいた。
「こんにちは、曜子さん」
あえて曜子さんと呼びながら近づいて行くと曜子さんは僕を一瞥しただけで再び参考書たちに目を向けてしまった。今日はおとなしい人のようだ。水曜日の曜子さんなので水曜子さんと呼ぶことにしよう。
「座ってもいいですか?」
「……好きにして」
水曜子さんは僕がベッドの脇の椅子に座って一メートルもないくらいの距離に近づいてもこちらを一切見ようとしない。真剣に参考書と向き合って、月曜日の曜子さんが書いていたものとは違うノートにペンを走らせる水曜子さんの横顔はいつまでも見ていられるものではあったがそういうわけにもいかない。どうしてこんな状況になっているのか手がかりを得なくてはならない。
「お名前は?」
「……曜子と呼んで」
「僕のこと知っていますか?」
「……八雲君」
「喉乾きませんか? キャラメルラテでも買ってきますよ」
「……水がある」
「曜子さんの身にいったい何が起こっているんですか?」
「……知らない」
「趣味は?」
「……勉強」
「好きな食べ物は?」
「……青魚」
月曜子さんの好きな食べ物はキャラメルだろうし火曜子さんは肉だった。趣味も月曜子さんは読書で火曜子さんは格闘技観戦。やっぱり火曜子さんと同じように水曜子さんも曜子さんであって曜子さんでない。下手したら月曜子さんも違う可能性もある。
もう少し色々探る必要があると思い、水曜子さんが勉強をする様子を見守ると気がついた。
「今使ってる数学の参考書、数学Ⅰ・Aの入門用のやつですよね?」
こういうのは高校一年生や先取りしたい中学生、もしくは数学が全然できない二、三年生が使うものだ。少なくとも勉強が趣味だと言うそこそこの進学校の三年生が使うようなものではない。
「……別にいいでしょう? 復習は大事」
「曜子さんって何歳なんですか?」
「じゅうろ……十七歳よ」
やはりおかしい。そもそも人格が変わっていることからおかしいのだが特に火曜と水曜の曜子さんからそれ以外にも何か違和感を覚える。
これはやはり毎日通って色々調べる必要がある。曜子さんと会いたいという欲の他に、真相を解き明かすという使命感が湧いてきた。
木曜日。いつものようにおばあちゃんから塩レモン飴をもらってから曜子さんの病室の扉をノックする。今日もまた別人みたいな曜子さんなんだろうなと思いながら返事を待つが一向に声が聞こえてこない。寝ているのか、昨日よりも静かな人格で声が聞こえないだけなのか、それとも返事ができない状況なのか。
曜子さんは元気そうだが入院患者だ。急に体調が悪化して助けを呼べない状況になっているのかもしれない。だから勝手に病室に入ってでも僕が助ける必要がある。決して寝顔が見られたらいいなとか不純なことは思っていない。
深呼吸をして扉を開けようとした時、顔見知りとなった看護師さんに声をかけられた。
「文也君、今日は木曜日だから曜子ちゃんなら近くの公園だと思う。行ってみたら?」
「公園ですか?」
確かにこの病院の近くには大きな公園がある。しかし看護師さんも知っているということは病院としても外出を許可しているようだし、木曜日だから、という言い方的に毎週のように公園に行っているようだ。
大きな池の周りの草花を愛でたり、バードウォッチングをしたり、木陰でお昼寝をしたり、そんなおしとやかな大人な女性然とした曜子さんの姿が思い浮かぶ。
病院を出て大きな交差点を一つ渡ると件の公園はすぐだ。夏休みのこの時期、くそ暑い中でも子供たちは広場で元気に走り回っている。僕はまず池の周りで草花を愛でている女性を探してみたが僕のおばあちゃんと同じくらいの歳の女性しかいなかった。
次に鳥を探している女性を探してみたが双眼鏡を持ったおじさんしかいなかった。
次こそはと木陰でお昼寝をしている女性を探してみると、いた。お昼寝はしていなかったが、白の半そでシャツと紺のハーフパンツでいつもと違って髪を一つに縛った曜子さんが、木の幹に背中を張り付けるように立っていた。周りを警戒しているところを見るに隠れているようだ。あれが木曜子さんだ。
いつもと違う髪型とか、露出した二の腕が気になってこっそり見つめていると木曜子さんと目が合った。木曜子さんは僕をじっと見つめてしばらく眉間にしわを寄せながら考え込んだあと、ハッとした顔になって僕を指差し、そのままその手を上げて手を振り出した。
はじける笑顔に吸い寄せられるように僕も木曜子さんに近づくが、木曜子さんはまたハッとして両腕をクロスしてばってんを作った。同時に首も横に振って、どうやらこっちに来ないで欲しいということをアピールしているようだ。表情がコロコロ変わって面白いがいったい何をやっているのだろうと思い、僕は木曜子さんに中途半端に近づいたところで立ち尽くす。
周りを警戒している木曜子さんを訝しんでいると小学三年生くらいの男の子が僕の目の前に立っていることに気がついた。男の子は僕の顔を見上げていたが、やがて僕の視線にそって木曜子さんへと目を向けた。そして大きな声で言う。
「あー! 曜子ちゃん見っけー!」
その声と同時に木曜子さんはしゃがんで両手で顔を隠す。もう遅い。
木曜子さんに近寄る男の子について行くと、観念した曜子さんは仁王立ちしながら手を腰に当てて頬を膨らませていた。男の子は木曜子さんに「ここにいてね」と言ってどこかに行ってしまう。
「もー! 文也君のせいで見つかっちゃったでしょ!」
「いや、木の陰に隠れても見つかるのは時間の問題でしたよ。ていうか何してるんですか?」
「何って、かくれんぼだよ?」
「何歳ですか? 曜子さんは」
「じゅうよ……十七歳だよ」
もう現象はだいたい理解した。日替わりで曜子さんの体に色々な人格が降りてきているのだ。理由は分からないけれど。そしておそらく記憶もある程度は共有している。月曜子さんがノートに記入していたのは記憶しきれていない部分を他の人格に引き継ぐためだろう。
木曜子さんは本当は十四歳で水曜子さんは十六歳の人格だ。火曜子さんはすんなりと十七歳と答えていたのでおそらく本当に十七歳。月曜子さんは高三としか聞いていないので十八か七かは分からない。
「何で小学生と遊んでいるんですか?」
「楽しいから!」
腕を組んでドヤ顔の木曜子さん。
「毎週?」
「本当は毎日でも遊びたいぐらいだよ!」
「好きな食べ物は?」
「ハンバーグ!」
「得意教科は?」
「体育!」
「苦手教科は?」
「国語と数学と英語と理科と社会!」
「将来の夢は?」
「お母さん!」
なるほど、木曜日の曜子さんはお子様なんだ。それもちょっとお勉強が苦手な感じの。曜子さんの容姿でこういう感じだとそれはそれで可愛い。
「曜子ちゃん、皆見つけた!」
先ほどの男の子が戻ってきた。彼が指を差す方に彼と同じくらいの年齢の少年少女たちが広場に七人ほど集まっているのが見える。
「行こう! 次は何する? 俺野球がいい!」
男の子は木曜子さんの手首をつかんで少年少女が集まっている方へ引っ張る。一瞬手を握ろうとしたが躊躇して手首をつかんだことを僕は見逃さない。
分かるよ少年、その気持ち。照れくさいもんな。
「うん! ほら、せっかくだし文也君も一緒に行こ!」
木曜子さんは空いている手で僕の手を握って少年が走る方へと一緒に走り出す。
手、繋いじゃった。小さくて細くて柔らかくて温かい。
僕らの繋いだ手を見た少年が一瞬すごい表情をしたことを僕は見逃さなかった。大切な何かを奪われてしまったような、そんな絶望に満ちた顔。ごめんよ少年。
皆のもとへ到着すると僕も少年も手を離す。木曜子さんが適当に僕のことを紹介してくれて、皆拍手で迎えてくれた。女の子たちが「彼氏?」と尋ねると木曜子さんは「ご想像にお任せしまーす」と笑顔で答えた。少年からは何か敵対心みたいな感情がこもった視線を感じるが気にしない。
「次は野球やろうぜ! 今日は俺がピッチャーだ!」
少年の掛け声で他の少年少女たちが広場に散っていく。少年たちの荷物がまとめて置いてあるところから木曜子さんがプラスチックのバットとゴムボールを持ってきてボールを少年に渡した。木曜子さんはそのまま少年から距離を取ってバットを構える。僕も二人からある程度の距離を取って二人を見守った。どんなルールか聞いてないけれど、とりあえずボールが飛んで来たら取ればいいだろう。
アウトやヒットの判定は雰囲気で決められていたため喧嘩になりそうだと思ったが、際どい時は木曜子さんに裁定を任せており、皆が納得して平和に遊んでいた。子供っぽいと思ったが少年少女たちの中ではちゃんとお姉さんをやっているようだ。
ちなみに木曜子さんは意気込んでトップバッターに名乗り出たものの、三振二つとピッチャーゴロ一つであっという間に交代になっており、野球はあまり得意ではないらしい。
全員が打ち終わったところで少年は僕にバットを持つように促す。真剣な目だ。僕を倒して木曜子さんを取り返すつもりのようだ。
僕も元野球部として木曜子さんに格好悪いところは見せられない。だが本気を出し過ぎて打球を顔面にでも当ててしまったらゴムボール言えども傷をつけてしまうかもしれない。かと言って露骨に手を抜くと子供は怒るということは妹で経験している。
僕の選択はボールを高く、遠くに飛ばすということだった。少年が投げたボールを完璧に捉えた僕の打球は、だだっ広い長方形の広場の端から端――短い方のだが――まで綺麗な放物線を描いて飛んでいく。完璧だ。僕の高校生としての威厳も少年少女たちの安全も守られた。
ホームランを打たれて悔しがる少年を一瞥して打球の行方を見ると、なんと落下地点に木曜子さんがいるではないか。手を上げてボールが落ちてくるのを待っている。少年も打球を見ているから表情は見えないが取ってくれることを期待しているに違いない。
しかし無情にもボールは木曜子さんの手をすり抜けて、木曜子さんの頭に直撃して弾み、どこかに飛んで行ってしまった。ボールを追いかける木曜子さんの後ろ姿は少し情けない。
その後も二本ほど完璧なホームランを打ったところでばれないように手を抜き始め、簡単な凡打を打って僕の打席は終了した。
「次は負けないからな!」
という言葉を少年からもらって子供たちと別れ、木曜子さんと一緒に病院へ戻る。病院と公園の間の大きな交差点で嬉しそうな表情の木曜子さんと信号待ちをする。
「文也君すごいね、あんなに遠くに飛ばすなんて」
「まあ、一応中学で野球やっていたしね。でも曜子さんもよくあんなところにいたよ。取られるかと思った」
「ふっふっふ。ちゃんと文也君が元野球部だっていうことは覚えていたからね」
「そっか。偉いね」
「へへへ」
やっぱり記憶を共有しているという予想は間違いない。木曜子さんならなんか色々しゃべってくれそうだし聞いてみるか。
いや、何か隠しているのは間違いないが隠しているということは言いたくない事情があるということだ。これから先の曜子さんとの関わりを考えるなら、ずるいことはせずにこのまま全ての人格の曜子さんと仲良くなって曜子さんの方から話してくれるのを待つべきだ。
幸い僕との関係性もある程度は引き継がれるようなのでなんとかなるだろう。それでも聞きたいことがあれば僕が初めて会った月曜日の曜子さんに聞けばいい。あの曜子さんだけは火、水、木の曜子さんとは何か違う気がする。何がと聞かれたら困るが。
病院に戻ると、常連となった自販機コーナーで同じスポーツドリンクを買って病室に入る。
病院の中は適温に調整されており、外で運動してきた僕らにとっては少し暑く、スポーツドリンクを飲んだだけではなかなかすっきりとした気分にはならない。しかも僕は制服のまま運動していたので不快度はかなり高めだ。木曜子さんも汗をかいているようで、シャツが体に張り付いているところとか、見てはいけないと思いつつもついチラチラ見てしまう。
「はい、どうぞ」
腰に手を当ててぐびぐびとスポーツドリンクを飲んでいた木曜子さんがそんな僕に気づいてくれてタオルを差し出してくれた。ありがたく受け取るが様子が少しおかしい。僕の顔をじっと見て何かを言いたげな表情をしている。
「あ、ごめん。着替えたいかな? 廊下に出てるよ」
「さすが文也君。気が利くね」
この記憶も抱いた感情も他の人格にも伝わるのだろう。金、土、日の曜子さんに会うのも楽しみになるがこの不可解な現象に適応して楽しもうとしている自分には少し不安を覚える。
実際に起こっている以上受け入れる他なく、色々な曜子さんの表情や姿が見られてお得じゃないか、と無理やり納得させている側面はある。
廊下に出て貸してもらったタオルであらかた体をふき終わり、不快感が大分軽減された頃、僕から三メートルほど離れた所にスーツ姿の四十代ぐらいの男性が立っていることに気がついた。眼鏡をかけ、清潔感はあるが飾り気のない髪型をしたその男性は僕のことを複雑そうな表情で見つめている。
会釈をすると、男性の方から声をかけてきた。優しくてどこか疲れているような声だ。
「君、この病室から出てこなかったかい? 中にいる子とは知り合いなのかな?」
「は、はい、そうですけど」
「名前は?」
「八雲文也です」
「そうか、君が文也君か」
木曜子さんや子供たちと遊ぶのに夢中で気がつかなかったが、着けていた腕時計を見ると午後五時を過ぎていた。確かいつもこれくらいの時間にお父さんが来ると言っていた気がする。
「私は七海誠司。ここに入院している曜子の父親だよ。君のことは曜子たちがよく話してくれている」
やましいことをしているつもりはなかったがいきなり父親と対面するのはハードルが高いと思って会うのを避けていたのに失敗した。彼氏でも家族でもないのに毎日会いに来ているなんて、気味が悪いからやめろなんて言われるかもしれない。
そんなことを思っていたが、誠司さんからかけられた言葉は意外なものだった。
「曜子の状況は当然知っているだろう? それなのに毎日来てくれるなんて曜子も喜んでいるよ。ありがとう。学校の友達も数回来てくれたけど気味悪がって来なくなってしまったからね」
誠司さんは両手で丁寧に僕の右手を包み込み頭を下げる。
「そ、そんな感謝されるようなことは何もしてないですよ」
「いや、月曜日に君と出会ってから話題は君のことばかりだよ。皆君のことを気に入っているようだ」
「皆、ですか」
月曜日の曜子さんはともかく、火曜子さんも水曜子さんもとは少し驚きだ。
「あの、曜子さんの今の状況っていったい……? 多重人格なんですか? えっと、解離性なんとかっていう……」
「そうだな。曜子が気に入っている君になら話しておいた方がいいかもしれないな。曜子がどうして入院したかは聞いたかい?」
「はい、交通事故だって」
「……そうだ。始まりはその事故だったんだ」
一応の信用を得ていた僕に、誠司さんは曜子さんの状況を説明してくれた。
七月初旬に事故で意識を失い入院することになったが、目が覚めると違う人格になっていた。その後の観察の結果、七つの人格が午前零時を境に毎日切り替わっていることが分かった。
「お医者さんは君の言う通り解離性同一障害を疑ったんだが、やはり必ず日替わりで変わるというところに疑問を持ってね。他にもそれの症状っぽい性質もあれば全然該当しなさそうな性質もあったりして頭を悩ませているんだ。だから結論は出ていなくて、怪我は治っているのに検査のために入院が続いている」
「本当の曜子さんの人格は?」
「……月曜日だよ。事故の前の曜子はああいう子だった」
「他の曜日の人格っていったいなんなんですか?」
「分からない。いや、どこかで見たり聞いたりしたことがあるような気がする人格もあるんだが、思い出せない」
「どうすれば元の曜子さんに戻るんでしょうか?」
「知っていたらとっくに戻しているよ。幸い週に一度は本物の曜子に会えるし、他の子たちも……悪い子はいない。実際にこうなってしまっていて戻す方法を知らない以上は今を受け入れるしかない。君にはこれからも曜子たちと仲良くしてもらえると助かるよ」
「いいんですか?」
「何か問題でもあるのかい? 毎日来ているということは君も少なからず曜子のことを好いてくれていると思ったのだけど」
「そ、そうですね。認めて頂けて光栄です」
「彼氏とかそういう存在として認めたわけじゃないよ。曜子にとって君はマイナスの存在にはならないと認めただけだ。曜子の心の空白を埋めるだけ。そこは勘違いしないように」
これまで優しかった誠司さんにしっかりと釘を刺されてしまった。
友達が離れてしまった娘と仲良くするのはいいけど彼氏にはなっちゃ駄目という複雑な親父心は、父親ではない僕にも多少は理解できる。僕と誠司さんは初対面だし僕と本物の曜子さんも一回しか会っていない。彼氏として信用しろという方が難しい。
「とりあえずは全部の曜子さんと仲良くなりますね」
「ああ。でも日曜日は来ない方がいいかもしれない」
「どうしてですか?」
「君は今十六歳だろう?」
「はい」
「まあ、なんだ、その、気をつけた方がいい」
煮え切らない誠司さんと着替えが終わって可愛らしいフリフリの付いたパジャマに着替えた木曜子さんに挨拶をしてこの日は帰ることにした。
未だに謎だらけではあるがとりあえずお父さん公認で毎日通えることになったのは大きい。彼氏とは認めていないと言っていたがこの状況を解決に導いた暁にはきっと認めてくれることだろう。曜子さんも僕のことを気に入ってくれていると言っていたし、残った問題はどうやってこの状況を解決するかだ。それが一番難解な問題ではあるのだが。
金曜日。雨が降ったがそんなことは関係なく夏期講習後に合羽を着て自転車を漕いだ。いつものように看護師さんに微笑まれながら病室への廊下を歩き、扉をノックするとまたもや返事はない。またどこかに出掛けているのだろうかと思い、昨日と同じ看護師さんに尋ねた。
「あ―今日は金曜日だから今頃お昼寝中ね。夜眠れなくなるから少しにしておきなさいって言っているんだけど」
看護師さんは僕に扉の前で待っているように言って曜子さんの病室に入ったが一分もしないうちに僕を招き入れた。
「寝てるけどいいよ。入ってきて」
「いいんですか? お言葉に甘えますけど」
病室には天使がいた。
昨日木曜子さんが着ていたものとは色違いのパジャマを着て、少し体を丸めた状態で横向きになり、穏やかな寝息をたてる金曜子さん。目を閉じていてもしっかりと主張しているまつげ、半開きになってあわよくばよだれが垂れそうになっている口、こんな姿を見てしまった幸せと罪悪感に板挟みになる。
「いいんですかね、寝顔見ちゃって」
「いいのよ。お昼ご飯のときに『もうすぐ文也君来るからお昼寝したら寝顔見られちゃうかもね』って言ったら『文也君ならいい』って言ってたもの」
「……まじすか?」
「まじ。だから頑張ってね、私はこれで失礼するから」
看護師さんは僕の肩を軽くポンと叩き、病室を出て行った。出る直前に「でも手は出しちゃ駄目よ」と釘を刺すのは看護師としてか大人としてか女性としてかは分からない。多分全部だろう。
手は出さずともこんな貴重な姿は見ているだけで楽しめる。目も鼻も口も耳も髪も今なら見放題なのだ。ぎりぎり理性が勝って写真は控えたが脳内にはしっかりと保存させてもらった。美人は三日で飽きるという言葉があるけれど、五日目の今日、全然飽きる気配がない。むしろ日を追うごとに興味が増している気さえする。
誠司さんが来るまでずっとこうしていようかと思い、天使もとい金曜子さんを見つめているとその口元がごにょごにょと動いているのが分かった。寝言のようだ。
「……ポテチ、食べる」
「何味がいいの?」
「……コンソメ」
大急ぎで売店でコンソメ味のポテトチップスを買って病室に戻ったが金曜子さんはまだ起きる気配はない。可愛いから起きても起きなくてもどちらでもいいのだが、せっかく買ってきたので美味しく頂いて欲しい。
もしかして、と思い袋を開けて鼻に近づけてみると鼻がひくひくと動いた。
「ポテチの匂い……コンソメだ」
鼻を袋に入れて匂いを堪能する金曜子さん。なんだか小動物を見ているみたいだ。
金曜子さんの鼻から袋を離すと再び鼻をひくひくとさせて辺りの匂いを嗅ぎだす。眉間にしわが寄っているのは抗議の意を表しているのだろうか。目も半開きになって覚醒のときは近い。
袋から一つポテトを取り出して今度は口元に近づけてみると金曜子さんはそのポテトにパクリとかじりついた。
「コンソメ……うまい」
僕が持っているポテトを口だけ動かしてパリパリと食べる姿は、小学生の頃餌やり体験をした牧場のヤギを思い出す。餌の野菜を食べきった後、指まで舐められて大変だった。
「うわっ、駄目だよ曜子さん、それは僕の指だって」
あの時のヤギのように金曜子さんが僕の指をペロペロと舐めてポテトチップスの粉みたいなものを舐めとり始めた。
どうしたものか、すでにイケない気持ちにはなっているのだがさすがにこのままでは僕を信用してくれているはずの曜子さんにも誠司さんにも看護師さんにも示しがつかない。でもこんな体験は二度とできないかもしれない。
僕の指からコンソメ味を感じなくなった金曜子さんはいつの間にか僕の指から口を離し、再び寝息をたてている。
ポテトを手に取って口元に近づけて食べさせる。食べ終わると寝る。これを何度か繰り返すことで金曜子さんはやっと起きてくれた。目は半開きのままだが。
「……文也君、こ、こんにちは」
「こんにちは、曜子さん。ほら、ポテチ。全部あげるよ」
「ん、ありがとう……ごめんなさい、指、舐めちゃった。美味しくて、つい」
「いや、そんな気にしないで。平気だよ」
「棚のウェットティッシュ、使ってね」
「うん、ありがとう」
そう言うと金曜子さんは残ったポテトたちをパリパリと食べ始める。かけらがベッドの上に落ちても気にする様子がないので僕が拾ってティッシュの中にまとめると「ありがとう」と言いながら微笑んでくれた。目は半開きのままなので金曜子さんはこれがデフォルトのお眠系キャラなのだろう。
「はい、どうぞ」
「あ、僕も食べていいの?」
金曜子さんが僕の口元にポテトを一枚近づける。万が一にも指を舐めてしまわないようにポテトを食べると金曜子さんは子供のような無邪気な笑顔を見せてくれた。
「美味しい?」
「うん」
「一緒に食べよ?」
金曜子さんは自分でポテトを一枚食べると僕にも一枚とって食べさせてくれるようになった。さっきまでは逆の立場だったのになんだか餌付けされているみたいだ。
ポテトを食べさせてもらいながら聞いたところによると金曜子さんは十三歳らしい。もちろん即座に十七歳だと訂正していた。本当に十七歳っぽい火曜子さん以外は皆年齢を誤魔化しているのは本物の曜子さんが十七歳だからだろうか。
ポテトチップスを食べきると金曜子さんはゲーム機をテレビに繋いで起動し、二つあるうち一つのコントローラーを僕に差し出す。空になったポテトチップスの袋はさりげなく僕がごみ箱に捨てておいた。
「対戦、しよ?」
お昼寝、ポテチ、ゲーム。怠惰キャラの要素をこれでもかと詰め込んだ金曜子さんだが、可愛いもんは可愛い。本当はもっと色々質問したりして曜子さんを元に戻す手掛かりを集めないといけないのだが、遠慮なく甘えてくる妹みたいなところとか、テレビ画面が見やすいように僕のこともベッドに座らせてくれる距離感の近さに抗うことはできず、僕はたまに肩が触れ合うことにドキドキしながらゲームに熱中してしまうのであった。
金曜子さんと遊んだのは人気キャラたちが戦う対戦ゲーム。僕らは誠司さんが来るまで対戦に熱中し、僕は一度も金曜子さんに勝てなかった。
「おかしいな。前作だけど小学生の頃は誰にも負けなかったんだけど」
「ふふふ、よくいる地元最強ってやつだね。井の中の蛙だよ」
確かに中学で友人となった長谷と対戦したらぼこぼこにされた。僕の通っていた小学校のレベルが低かっただけだったのか。
金曜子さんは基本眠そうでおとなしいがゲーム中は饒舌になった。学校にあまり友達がいないこととか、勉強も運動も苦手だけどゲームは自信があることとか、一人っ子なので優しい兄が欲しかったとか、両親が仕事で忙しいのであまり構ってくれないことなどをたくさん教えてくれた。
多分これは本物の曜子さんのことではなく、金曜子さんの設定なのだろう。本物の曜子さんは僕と同じそこそこの進学校である南沢高校に通っているので勉強が苦手とは言わないだろうし、誠司さんが友達が来てくれなくなったと言っていたが、今の状態になる前は友達もたくさんいたことは容易に想像できる。
ともかく本物の曜子さんに戻すには、この状況を打開するには、もっと各曜日の曜子さんのことを知る必要がありそうだ。
土曜日は夏期講習がないが、曜子さんは午前中は検査だと言っていたのでいつも通りの午後の時間に病院へ向かう。天気は今日も雨だが曜子さんに会えるならどうってことはない。
病室の扉をノックすると月曜日の曜子さんに近い明るい声が聞こえる。今日はちゃんとした人のようだと安心して扉を開けると、ゆったりとした上下とも薄水色のルームウェアを着た土曜子さんが、ベッドの背を上げていい感じの角度で寄りかかりながら座って雑誌を読んでいた。
いつもとは違って髪をツインテールに結んでいるのはまだいいとして、下半身の方はショートパンツなので太ももが露わになっているため視線がそちらに吸い寄せられてしまう。太さも色も張りも何がとは言わないがちょうどいい。
「きも、スケベ、変態。出ていって」
「はい」
僕の視線に気づいた土曜子さんに罵倒と蔑みの目線をもらい、病室を追い出されてしまった。
「しょうがないじゃん、あんなの見ない方がおかしいって……」
病室の扉を背にぶつくさと文句を呟いていると突然扉が音を立てて開いた。偉そうに腕を組んで口をとがらせる土曜子さんが立っている。
「ちょっと、せっかく来たんだからもう少しいなさいよ」
「ええ……出てけって言ったのはそっち……」
「うるさい、口答えしない。来なさい」
土曜子さんは僕を病室の奥にあるテーブルとセットになった椅子に座らせて自分ももう一つの椅子に座った。テーブルをはさんでいるので僕から土曜子さんの太ももは見えない。
「私のことを性的な目で見たことは許してあげる。私が魅力的すぎるのが悪いんだもん」
「はあ、そうですね」
「でもあんただけいい思いしてるのも癪だから私にもいい思いさせなさい。ということで駅前の洋菓子屋さんのスペシャルプリンアラモード買ってきて」
「え? 外出は制限されてないんだから自分で買いに行ってもいいんじゃ……?」
「雨、嫌なんだもん」
そう言って土曜子さんは千円札を一枚僕に投げ渡した。
「あの……」
「いいのよ別に、行かなくても。あのノートに【文也が私の太もも見て興奮してた】って書くだけだもん」
「行ってきます」
せっかくこれまでの曜子さんたちと仲良くなれてきているのにそんなことを共有されてはたまらない。
再び合羽を着て自転車で往復二十分、八百五十円という割とお高めなスイーツを買って土曜子さんに献上すると大変お喜びになってくれた。
「ご苦労様。お釣りはあげるわ。火曜に余計にコーラ買わされたんでしょ?」
わがままで辛辣で他の曜子さんと比べるときつい印象だったが意外と優しい。それにプリンを食べるときの幸せそうな顔はまぎれもなく可愛い曜子さんで、見ているだけで幸せになる。
「ちょっと、何見てんのよ。人の食べてる顔見てにやにやしないで」
「ごめんなさい、それじゃあ今日はこれで帰りますね」
なんとなくだが土曜子さんの性格がつかめてきた。こうやって立ち上がって帰るふりをすれば引き留めるはず。
「ちょっと待ちなさいよ。せっかく来たんだからもう少しここにいなさい」
やっぱり。口では僕のことを邪険に扱っているけど内心は寂しがり屋だからそばにいて欲しいと思っているタイプの人だ。中学生の頃に長谷にお勧めされて読んだライトノベルに似たようなヒロインがいた気がする、
「でも曜子さん、僕のこと嫌いそうですし」
「一人じゃ寂しいんだもん。食べ終わるまででもいいから側にいて」
そんなに目を潤ませて上目遣いで見つめられながらお願いされたら断ることなんてできるわけがない。もともと今帰るつもりもなかったのだが。
僕が椅子に座り直すと土曜子さんは一瞬嬉しそうな笑顔になった後、調子を取り戻してわがままモードに入る。
「じゃあ文也。面白い話をして」
「どうして?」
「暇なんだもん」
暇なんだもん、か。唐突で横暴なお願いだけれど従わざるを得ない。だって可愛いんだもん。とっておきの話をしてあげよう。
「ごほん。僕には三歳年下の、今は中二の妹がいるんです。その妹がですね、夏休みに入る前に同級生の男子に付き合ってくれって言われたらしいんです」
「へえ、それで? あんたの妹はなんて返事をしたの?」
「顔と名前を知っているくらいの相手だったし、好みの顔でもなかったのでやんわりと断ったそうです。でも、相手は諦めきれなかったみたいで毎日のように告白してきたみたいで」
「あ―それは駄目ね。うざいったらありゃしないわ」
「それで妹が僕にどうしようって相談してきたんです」
「あんた意外と頼りにされてるんだ。で、どうしたの?」
「妹にそいつを公園に呼び出してもらって『僕に野球で勝てたら妹との交際を認めてやる。負けたら金輪際諦めろ』って言って妹の目の前で野球でぼこぼこにしてやりましたよ。三打席ずつの勝負で、投げては三打席連続三振、打ってはヒット性の当たり二本とホームラン一本でした。僕、中学まで野球やってたので」
「……まあ色々言いたいことはあるけど、やるじゃない。妹のために現役の野球部員相手にそこまでできるなんて」
「そいつは野球部じゃないですよ。妹を確実に守るための方法を取ったんです」
「あ、そう」
「その後妹が『お兄ちゃんありがとう』って言ってくれて、家でホットケーキ焼いてくれたんですよ。美味しいんですよ、あれ。同じ材料なのに妹が作ると何か違うんです」
「ああ、あんたの好物だったわね」
「と、いう話です。面白かったでしょう?」
これは僕の鉄板ネタだ。木島や長谷に話したときも盛り上がったし、高校でも僕に妹がいるという話題になった際には必ず話しては称賛を浴びている。いつか曜子さんに話したいと温めておいたが、これなら土曜子さんも満足のはず。なのに土曜子さんはどこか気難しい顔をしている。
「まあ、求めていた面白さとはだいぶ違ったけど良しとするわ。とりあえずノートに【文也はシスコン】って書いておく」
「ありがとうございます」
シスコンは割と事実だし共有されても構わない。太ももで興奮したのも事実だけれどそっちはいけない。
土曜子さんは本物の曜子さんの次くらいに話しやすい人だった。手は出ないし、単語ばかりじゃなくて文章で返してくれるし、十七歳らしい感覚をちゃんと持っているし、話している途中で眠そうにもならない。たまに無茶ぶりやわがままを言ったりするけれどそれも含めて可愛いと言える。
誠司さんとも知り合っているのでもう少し長居はできたのだが、降っていた雨が止んだタイミングで土曜子さんが「今のうちに帰ったら?」と自転車で来ている僕のことを気遣ってくれたので帰ることにした。
自宅に帰ると、僕は本棚を漁った。土曜子さんのあの性格、時折出る「だもん」という口癖、好物のプリン、特徴的なツインテール、似たようなキャラクターが登場するライトノベルを探してみたが見当たらない。あれは長谷から借りて読んだのか、と思い出す。
次に土曜子さんに会うのは当然次の土曜日。それまでに調べておけば問題ないので月曜日に長谷に聞いてみればいいと考え、僕は今日も勉強を教えて欲しいとねだる妹に、優しく教えてあげるのだった。
日曜日、土曜子さんからも『明日も来るなら気をつけなさい』と言われていたし、誠司さんの忠告もあるので期待半分、不安半分で病室の扉をノックした。「はぁーい」という間違いなく曜子さんの声なのに大人の妖艶さを感じさせるセクシーな声が聞こえる。なんだかいけない世界に入ってしまうのではという予感がして緊張して体が硬くなる。
「ふ、文也です。失礼します」
丁寧に扉を開けると、ベッドの淵に腰かけて足を組み、美容系の雑誌を胸元で手に持った薄手のパジャマ姿の曜子さんが僕のことを品定めするような目で見ていた。
これまでとは異なる大人な雰囲気、おそらく設定上は二十歳を超えているはずだ。そんな彼女が持っていた雑誌を今日は露出していない太ももの上に置くと隠されていた胸元が露わになる。僕の視線は当然のようにそこに吸い寄せられる。
今日のパジャマは薄手だが長袖長ズボンで上半身の前をボタンで留めるタイプのものだ。そのボタンが上から二つも外れていて、パジャマの中身が見える、と思った瞬間に僕は目をそらした。
「あら、どうしたの?」
「よ、曜子さん。前、その、胸元が」
「あーボタン外れちゃってる。別に文也君になら見られてもいいのに」
「え?」
日曜子さんを見ると舌を出していたずらっぽく笑っている。
「残念、もうボタンしちゃった。あ、でも見たいって言ってくれたら見せてあげる。毎日来てくれるログインボーナス的な?」
「い、いや、今はまだ遠慮しておきます」
今はまだ、だ。全く興味がないと言うのは失礼だし嘘になる。
それに僕の脳内には深さまでは分からない谷と、薄桃色のパジャマとは明らかに色も質感も違う白くて丸みを帯びた布の映像がしっかり記憶されているので、今はまだこれで十分だ。これよりも深みには本物の曜子さんと一緒に行きたい。
「ねえ、見せたいものがあるの。こっちに来て」
病室の入り口で立ちすくむ僕を日曜子さんが手招きする。もう誠司さんや土曜子さんの忠告の意味は理解していたので、日曜子さんの目を見て警戒していると「大丈夫、エッチなものじゃないから」とベッドの上を軽く叩いて自分の隣に座るように催促された。
あくまで僕は本物の曜子さんが好きなのであって、本物の曜子さんに青春を捧げ、情熱を注ぐつもりなのであって、いくら見た目が曜子さんだからと言って中身が全然違う人の誘惑にほいほい乗るような人間ではない。
この現象をどうにかした暁には曜子さんと高校生らしい清いお付き合いをしたいと思っているし、そのうち仲が深まったらお互いの同意の上で大人なお付き合いもしたいと思っているけれど、今すぐにそんなことをしたいと思っているはずもなく、第一僕は女の子が隣にいる状況なんて妹に勉強を教えている時に慣れきっているわけだし、金曜子さんとも並んで座ってゲームとかしていたけれど変な感情は抱かなかったし、ちょっと大人っぽい雰囲気の日曜子さんが隣に座った僕の右腕と自分の左腕を絡めて腕に柔らかい胸を押し当ててきているくらいで動揺なんてしない。
「ねえ、文也君はどれがいいと思う?」
「え? ああ、僕はこの口紅がいいと思います」
「私が訊いたのは隣のページの香水のことなんだけど」
動揺なんてしていない。絶対にだ。
「文也君って彼女いないの?」
「なんですか急に。いませんよ」
「じゃあ私と付き合っちゃう?」
日曜子さんは雑誌を閉じてその大きな目を僕に向ける。その長いまつげが僕に触れるのではないかという錯覚に陥りそうになるくらいに距離が近く、僕は驚いて日曜子さんから離れた。
「あんっ。もう、意外と積極的なのね、文也君」
「変な声出さないでください! わざとじゃないです!」
僕の右腕は日曜子さんの左腕と胸に包まれていたわけなので急いで離れようとすると当然のように僕の右腕は日曜子さんの胸にぶつかった。手では触れなかったのでセーフのはずだ。
一応の距離は取れたものの僕はベッドに座ったまま立ち上がることができず、日曜子さんは怪しげな笑みを浮かべながらにじり寄ってくる。
「文也君って可愛い顔してるよね」
「か、可愛さなら曜子さんの方が」
「確かにこの顔すごく可愛いわね」
「それってあなたは本物の曜子さんでないことを自覚しているってことですか?」
「ええ、自分の顔じゃないのはすぐに分かるもの」
「どうすれば本物の曜子さんを取り戻せるんですか?」
「あら? それって私に消えて欲しいってこと?」
日曜子さんは僕の肩を押して、ゆっくりと押し倒す。僕の体のお尻を含めた上半身はすべてベッドに横たわっている状態になる。日曜子さんはスリッパを脱いで僕の真上で膝立ちの四つん這いになった。唇と唇が触れてしまいそうなほど近い。
「本物の曜子ちゃんはこんなことしてくれないよ」
囁くように、誘うように僕の真上で日曜子さんが言う。僕は僕の持ち得る全てを理性に振って、どうにか一線を越えないように耐え忍ぶ。
「あなたの本当の名前は?」
どうにか真面目な話に持っていくしかこの場をしのぐ方法はない。誠司さんは仕事が休みだからいつもより早く来てくれるだろうし、日曜子さんがこういうことをする人だとは知っているはずなので、誤解することなく助けてくれるはずだ。それまでなんとか耐えるのだ。
「内緒」
「どうして?」
「それも内緒。月曜日の子に聞いてみたら?」
「そうします。それより曜子さんの体で勝手にこんなことするのは曜子さんに悪いとは思いませんか? 女の子の大事な体なんですよ?」
「そうねぇ。でももし本物の曜子ちゃんもこういうことがしたいって思っていたらどうする?」
「さっきと言ってることが違います」
「もしもの話よ」
「……仮にそうだとしても、あなたとはしません。あなたは本物の曜子さんじゃないんだから」
「一途ねぇ。私のこと嫌い?」
「嫌いではないです。今もものすごくドキドキしていますし、曜子さんの容姿じゃなかったらこのまま流されていたかもしれません」
「そっか、残念」
本当に残念そうな顔をして日曜子さんは僕の上からどいてくれた。僕はまだ心臓の鼓動や呼吸が安定せず、ベッドに横たわった状態から起き上がることができない。
「どうして今の状況になったかは知らないんですか?」
「内緒。月曜日の子なら知っているかもね」
「あなたの目的はなんですか? 目標でも夢でもいいですけど……」
「……さあ? 文也君の行動次第で変わるかもね」
「なんですか、それ」
「今の状況は自分でも分からないことだらけなの。とりあえず好きなことをしながら、情報を集めながら、現状にできるだけ適応して生きているだけ」
それが月曜日以外の曜子さんたちの生き方だと思うと納得する。皆基本的に好き勝手なことをしているけれど、曜子と名乗ったり十七歳と言ったり、曜子さんの容姿であることには適応しようとしていたし、入院患者であることも一応受け入れていた。火曜子さんの性格なら勝手に抜け出してもおかしくなさそうなのに。
たびたび誘惑されながらも鋼の意志を持って手は出さず、誠司さんが来るまで大人な日曜子さんとの時間を過ごした。色々大変だったけれど、来週の日曜日も絶対に来ようと思う。決して美味しい思いができたとか考えていない。
そして待ちに待った月曜日。今日は本物の曜子さんに一週間ぶりに会えるため朝からウキウキが止まらない。このウキウキを僕の可愛い妹である文音にも分けてあげたい。
「おはようお兄ちゃん、ウキウキして猿みたいだね」
「おはよう」
「ていうかなんで制服着てるの? 昨日が祝日だったから今日は振り替え休日なのに夏期講習あるの?」
「ウキ? ……まじか、忘れてた」
夏期講習の合間に長谷にライトノベルのことを聞こうと思っていたのだがこれでは長谷に会えない。しかし駄目元で長谷に連絡してみるとeスポーツ部の活動のため午前中は学校にいるとのことで合間に会ってくれることになった。
「というわけで午前中は学校、午後はいつも通りおばあちゃんのお見舞いに行ってくるから帰るのは夕方になるよ」
「それはいいけどさ。お兄ちゃんってそんなにおばあちゃんのこと好きだったっけ? もしかしておばあちゃん以外の目的があったりする?」
「文音、今お兄ちゃんは可愛いヒロインのために超常現象と戦っているんだ。母さん達には内緒だぞ」
「何それ中二病? 高二なのに」
最近文音は僕に対して少し辛辣になってきている。昔はお兄ちゃん大好きって感じだったのに。今でも勉強のこととか告白されたときの相談とか必要な時は頼ってくれるのだが、自分に利益がないときはちょっと冷たいことが多い。これも大人になってきている証だろうかと思うと、嬉しくもあり寂しくもある。
学校に到着したことを長谷に伝えると図書室に来るように連絡を受けた。
「悪いね、練習中に」
「別にいいよ、今日は自主練だし。それより、朝言ってたラノベのことだけどうちの図書室にもあったぞ、ほら」
長谷が見せてくれたのは【君が逃がしてくれない~だって好きなんだもん~】というライトノベルだ。ピンク色のツインテールの女の子が主人公と思われる男の子に向かって腕を組んで見下しているように見える。だが頬は少し赤く染まっていてツンツンしながらもその主人公のことが好きでたまらない様子が想像できる。
「中一のとき文也に貸したことあったよな」
「ああ、これこれ。これを探してたんだ。助かったよ」
報酬にペットボトルのコーラを一本渡してやると長谷はeスポーツ部の活動場所であるパソコン室へ戻って行った。
中一の頃に読んだことがあるとはいえ詳しい内容は覚えていなかったのでもう一度読み直してみると、やっぱり、という感覚になった。表紙のキャラが髪型、性格、話し方、何を取っても土曜子さんにそっくりだ。極めつけは、だもん、という言葉が出る頻度。明らかに無理やりな差し込まれ方はされないものの、使えそうな時は必ずと言っていいほどこの言葉でセリフが終わっている。
そのキャラの名前は土門奏。十七歳の女子高生で顔が可愛くてツンデレ属性という以外は特に特徴はない。ただ、文庫本の半分もいかないくらいのページですでに主人公と交際を始めるという展開により、ネットでちょろいヒロイン、いわゆるちょろインとして話題になっていたらしい。読んでいた当時はそんなこと考えもせず、会話の掛け合いが面白くて、登場人物が優しさにあふれた作品だとしか思っていなかった。
一通り読み終わったので本棚に戻そうとライトノベルコーナーに赴き、著者の名前を確認した。その名前には聞き覚えがある。
【奥空文子】
超人気作家であり、本物の曜子さんが好きな作家。そして今年の七月初旬に病気で亡くなっている。
「まさかね」
図書室にある奥空文子が書いた他の書籍も調べてみると、案の定見つけることができた。
「水無月静子、木田まなみ、金井美也」
水、木、金曜日の曜子さんたちと性格や設定がばっちり合致するキャラクターたちが奥空文子の書いた物語の中に存在していた。信じられないが、そうなってしまっているのだから信じるしかない。曜子さんの体には、奥空文子が生み出したキャラの人格が日替わりで降りてきている。
火曜子さんと日曜子さんみたいなキャラは見つけられなかったが、学校の図書室に奥空文子の著書が全てあるわけではないのでこれは仕方がない。また別の方法で探すしかないだろう。
火曜子さんは不良っぽいし、日曜子さんはアレだし、高校の図書室にはふさわしくない内容の本に出てくるキャラなのかもしれない。奥空文子がとにかく色々なレーベルから多種多様な作品を書いているということは、読書好きでも奥空文子のファンでもない僕でも知っている。
本を調べていると病院に向かうにはちょうどいい時間になっていたので最後に長谷にお礼をひと声かけて学校を出た。これから本物の曜子さんに会えると思うと心が弾むが、これまで掴んだ情報をどこまで話すべきか新たな悩みも生まれてしまった。
いつものようにおばあちゃんに顔を見せてから曜子さんの病室の扉をノックすると、聞くだけでウキウキするような可愛らしい返事が聞こえる。色々考えることはあるけれど、まずは曜子さんとの交流を楽しもうと思い病室に入るとベッドの上で正座するニコニコ顔の曜子さんがいた。土曜子さんが着ていたのと色違いのルームウェアを着ているが下は長ズボンで太ももは見えない。
「こんにちは、曜子さん」
「こんにちは、文也君。ここ座って?」
曜子さんが指差すのは自分がいるのと同じベッドの上。布団が端に追いやられていて確かに二人で上に座ることはできそうだ。日曜子さんのような怪しさも感じないので靴を脱いで僕もベッドの上に正座する。曜子さんも体の向きを変えて僕と正面に向き合う。
曜子さんはニコニコしていてとても可愛い。
「さあ、懺悔の時間だよ」
ニコニコしたまま曜子さんが言った。とても可愛いのだが何か圧を感じる。
「懺悔とは?」
「自分の罪を告白して許しを請うことだよ」
「いや、それは知っています。なぜ僕がその懺悔をしなくてはならないのでしょうか?」
「太もも」
「あ」
「指ペロ」
「いや」
「谷間」
「それは」
「白」
反論できない。太もものことはノートに書かないって言っていたはずなのに。
「何か弁明は?」
「……眼福でした」
「眼福?」
「いえ、なんでもないです。ごめんなさい」
「他には?」
「木曜日にポニーテールにしてる時のうなじが綺麗だなって思ったり、水曜日、勉強している時に髪を耳にかける仕草にドキッとしたり、火曜日に叩かれるのも悪くないと思ったりしていました」
「正直でよろしい」
「はい、ありがとうございます」
「私のこと、好き?」
「はい……え?」
話の流れに乗ってしまい、つい正直に答えてしまった。曜子さんはニコニコするのをやめて真剣な表情で僕をまっすぐに見つめている。
「毎日来てくれるってことはそうなのかなって思ってた」
「いや、その、何て言うか、言葉にならないや」
曜子さんは棚に置いてあるノートを取った。おそらくその日あった出来事が詳しく書いてある。
「私の身に起きている現象は理解しているよね?」
「はい。まだ分からないこともありますけど、だいたいは」
「他の曜日のことも夢で見たくらいには覚えてはいるの。でもあくまでなんとなくだからこのノートに色々書いて他の曜日の人と共有してるんだ」
「そうかな、とは思っていました」
「文也君は皆と仲良くしていたね。その記憶もなんとなくは覚えているし、詳細な出来事も理解できている。それにそのとき私の体で抱かれた感情も私の中に残っている」
「感情……?」
「君がさっき懺悔したこと、皆嫌がってはいなかった。金曜の子はすごく人見知りするし、土曜の子も気に入った相手以外にはツンツンしっぱなしだし、日曜の人は、まあアレだけど誰彼構わずあんなことするわけじゃない。きっと火、水、木の子たちと君が関わったときに抱いた感情のおかげで金、土、日もああいう感じになったんだと思う」
「僕のことを気に入ってくれたってことですか?」
「そう。そもそも私が最初だったけどね」
「曜子さんも僕のことを……ってことですか?」
「私、彼氏にするなら家族思いで優しい人って決めていたんだ。この暑さの中、汗びっしょりになりながらおばあちゃんのお見舞いに駆け付けたっていう君に興味を持ったの」
曜子さんは足が痺れてもぞもぞしていた僕のことを察してくれたのか自分も足を崩し、ベッドの淵に移動して足を垂らした。僕も曜子さんの隣に並んで同じようにする。
「妹さんにいつも勉強教えてあげているんだよね。これは水曜日に話していたはず。漫画好きのお父さんと一緒に漫画の感想を語り合ったり一緒に買いに行ったりしているっていうのは火曜日だったかな。時間がありさえすればお母さんの買い物に必ず付き合って荷物を持ってあげてる話は昨日していたね。家族の誕生日には必ずプレゼントを用意してる。これは土曜日」
曜子さんは開いていたノートを閉じて僕の顔を見つめた。一週間毎日見た顔だが、その表情は今までの表情とは微妙に違う気がする。うまく言えないけれど、この表情は火曜日から日曜日の曜子さんたちにはできない。透き通っていて、情熱がこもっていて、美しい。
「家族思いで優しいよね、文也君は」
曜子さんから目が離せない。ただずっと見つめ合って曜子さんの次の言葉を待つ。心臓の鼓動がうるさい。
「七海曜子を救ってくれる?」
「救うって?」
「元の七海曜子に戻して欲しい」
「他の曜日の人格を消すってことですよね?」
「うん、そうしたら君と……」
曜子さんは顔を僕に近づける。曜子さんの吐息を僕が吸い込めるくらいの距離だ。
いいのか。このまま進んで。
目の前にいるのは本物の曜子さんだ。その曜子さんが唇が触れ合いそうになるくらいの距離まで自ら近づいてきたのだ。何も問題はない。
早く曜子さんに会いたくて昼食は取らなかったから口の匂いは大丈夫なはず。目は閉じた方がいいのだろうか。体は抱き寄せていいのだろうか。している間、息はどうしたらいいのだろうか。
そんなことを迷っている僕の唇に柔らかいものが触れた。残念ながら唇ではなく、右手の人差し指だ。
「それまではお預けだね」
人生における心臓の鼓動の回数が決められているとしたら、僕はこの一週間で確実に寿命を縮めている。その原因を作った曜子さんのことを僕は大好きだ。たとえ短い人生になろうとも曜子さんと一緒にいられるのならば悔いはない。
「頑張ります」
「お願いします」
「でも、どうやって? 昨日の曜子さんはなんでこういう状況になったのかも、自分たちの目的がなんなのかも分からないって言っていました」
密着しそうだったところから少し離れて座り直した曜子さんはうつむいて「うーん」と唸り始め、答えるまでには時間がかかった。
「満足すれば消えてくれるんじゃないかな?」
はっきりとした答えは曜子さんにも分からないようだ。
「さ、真面目な話はこのくらいにして懺悔の続きをしよっか」
曜子さんは真剣な表情から最初のニコニコ顔に戻す。
「ええ? もう何もしてないですよ」
「柔らかかった?」
「……はい」
「正直でよろしい」
「あの、どうすれば許してもらえますか?」
曜子さんは再び「うーん」と唸って考え出した。ただし今度はうつむかず、腕を組んだ状態から右ひじから上の部分だけ顔の方に曲げて、人差し指を唇に当てている。その指はさっき僕の唇に当てた指だがあまり気にしていないようだ。
「そうだね、許すよ」
「ほんとに?」
「わざとやったわけじゃないもんね。だいたい日曜日の人が悪いんだし、金曜日の子が寝ぼけてたのも悪いし、土曜日の子が文也君が来るって分かってるのにあんな短いやつを履いてるのが悪い。ってことで特別に許してあげる。でも……」
曜子さんは棚に置いてあった小さなポーチから髪を留めるゴムを取って、耳を隠して顔の方に流れていた髪を耳にかけ、そのまま髪を後ろで一つにまとめるとゴムで縛ってポニーテールにしてうなじを僕に見せつけた。そしてその一連の動きに見惚れていた僕の頬を、ペチンという効果音すらも可愛くビンタする。
「どう? こういうのが興奮するんでしょ?」
「言っておきますけど、曜子さんだからいいのであって、女性なら誰でも興奮するわけではありませんからね」
「興奮することは否定しないんだ」
「はい。だからこれからも色んな姿を僕だけに見せてくれると嬉しいです」
「なんかその言い方エッチ。ノートに書いておかないと。【文也君はエッチ】って」
曜子さんは本当にノートに書き始めた。火曜子さんとか、土日の二人に何を言われるか今から恐ろしい。
「他にも文也君の性癖はいっぱいメモしておこう」
ノートを書き終えた曜子さんはとても満足気だ。これで本当に手打ちにしてくれたということだろうか。
「さて、懺悔も終わったし何かして遊ぼうよ。お父さんお休みだけどいつもの時間に来るから。それまで、駄目?」
曜子さんの一番の特徴はやっぱりこの目だ。ぱっちりと大きくてまつげが長くて、何故かキラキラしているように見えるこの目で僕に「寂しいからかまって」と訴えかけてくる。もちろん時間なんていくらでもあるし断る理由はない。
「もちろんいいですよ。何をします?」
「これだよ、これ。金曜日にやったんでしょ? 私とも勝負しようよ」
曜子さんは僕が金曜子さんと遊んだゲーム機の準備を始める。
「いいですけど、意外ですね。ゲームとかやるんだ」
「やらないように見えた? 昔からママと一緒にやってたんだよ。ママは仕事の息抜きにゲームするのが好きだったから。このゲーム機はうちにあったやつだし」
ゲーム機は、ということはプラスチックのバットとか不良漫画は別の曜日の曜子さんが勝手に買ったやつなのだろう。むしろそれくらいで済んでいるのだから、皆本物の曜子さんにできるだけ迷惑をかけないようにしているのだろうか。
そしてお母さんの存在を曜子さんが初めて口にした。毎日お見舞いに来るのが父親の誠司さんだけなのでもしかしたら複雑な家庭事情でもあるのかと思ったが、お母さんとの思い出はしっかりあるようだ。お見舞いに来る気配がないことを考えると、複雑ではないにしろ順風満帆ではない家庭状況なのかもしれないが。
ゲームではまたもやぼこぼこにされた。
曜子さんは金曜子さんと同じくらいうまい、というか金曜子さんが曜子さんと同じくらいうまいのかもしれない。火曜子さんのビンタがたいして痛くなかったのは曜子さんと同じ力しかないからだと考えていたので、ゲームの実力もそうなのだろう。
僕が十五連敗したところでゲームは終わることにした。
「ありがとね。手加減して私を喜ばせてくれたんだよね?」
「それは追い打ちですよ、曜子さん。おかしいな、小学生の頃は学校で一番強かったのに」
「井の中の……」
「言わないで。分かってますから」
僕をからかいながらゲーム機を片付ける曜子さんの声色はなんだか楽しそうだ。なんだか本当に恋人になったみたいで、毎日通ったり、色々なことを理性で耐えた成果が出ていて嬉しい。
この現象を解決すれば毎日のように曜子さんとこんなに楽しく過ごすことができるのかと思うと頑張らざるを得ない。早速手掛かりになりそうな奥空文子の作品のことについて聞こうとした瞬間、僕のスマートフォンに通知が届く音がした。
「あ、すみません、病院なのに」
届いていたのは妹の文音からのメッセージだ。
【帰ってきたらこれ教えてね(ハート)】
最後にハートマークをつけてお願いされてはお兄ちゃんは頑張らざるを得ない。数学と理科の応用問題の写真も添付されている。これくらいは高二の僕にとってはお茶の子さいさい。華麗に解いて優しく教えてあげよう。
でももう少しだけ待っていてくれ文音。今週、曜子さんと過ごせる時間はあと少ししか残されていないんだ。
「にやけてる。女の子からの連絡?」
「そうですね」
「むっ」
と言いながらむっとした表情をする曜子さんが僕のスマホの画面を覗こうとする。
「もしかして嫉妬してます?」
「そんなことないよ。私のことを好きって言った文也君が私以外の女の子からの連絡を嬉しそうに見ていて、なんか面白くないなって思っただけ」
「それを嫉妬って言うんじゃ……妹ですよ。帰ってきたら勉強を教えて欲しいって」
「ふーん。怪しいなー」
「じゃあ見せてあげますよ、ほら」
「むむむ」
スマホを渡すと曜子さんは僕と文音のメッセージのやり取りを過去の履歴も含めて見始めた。まるで浮気チェックをする彼女ようだ。
曜子さんは僕のことを気に入っていると言った。それにあんなキス寸前まで近づいてきた。すぐに真面目な話をしたり懺悔が再開されたりゲームをしたりでゆっくり考える暇がなかったが、これはとんでもないことなのではないかと思う。
もしも曜子さんが僕のことを好きなのであれば、たった一週間でしかも実際に会うのは二回目で両想いになったということだ。実は僕ってすごく魅力的な人間だったのか、それとも僕と曜子さんの相性がばっちりだったのか。どちらにせよ、今まで恋愛経験がなかった僕にとって、今の状況は幸せだということだ。
曜子さんは浮気チェックを終えて僕にスマホを返しながら自分のスマホを取り出した。
「せっかくだから連絡先交換しようよ。私は月曜日しか返事できないけど」
「もちろんです。でも、他の曜日の人はスマホ使えるんですか?」
「ないと不便だから使えるようにしているよ。友達からも連絡とか来ないし」
そういえば誠司さんが言っていた。曜子さんの友人も入院当初はお見舞いに来てくれていたが違う人格に驚いて来なくなってしまったと。
「でも今は文也君が来てくれるから寂しくない」
友達から連絡がこないと言ったときの寂しそうな表情から一変、儚げににこりと笑うその表情にドキッとする。結構好き勝手に僕のことをいじってきたりするくせにたまに守ってあげたくなるような仕草をするからずるい。
「これからも毎日来ますよ」
「ふふ、ありがと。でも明日からお盆でしょ? お墓参りとか行かないの?」
「父さんの実家はうちの近所ですし、母さんの実家は病院から結構近くて、お墓も実家から近いのでここに来る前か帰るときに寄れますから。寂しい思いはさせません」
「そっか。それなら皆喜んでくれるね。皆が喜んでくれたら私も嬉しくなる」
その後、曜子さんが飲み物を買いたいというので僕らの出会いの場所である自販機コーナーへ一緒に行くことになった。
廊下ですれ違う看護師さん達とはもう何度も顔を合わせ挨拶もしている顔見知りだ。特に杉本さんという女性の看護師さんは曜子さんを担当することが多い人で、二十代半ばということもあり最も曜子さんたちと仲が良いしそれぞれの性格を把握している。
また、南沢高校出身で親近感があるのか僕にもよく声をかけてくれる。木曜子さんや金曜子さんのときにお世話になったのもこの人だ。
「あ、杉本さんお疲れ様です。午前ぶり」
僕の隣を歩く曜子さんが対面から歩いてくる杉本さんに挨拶をした。僕も「こんにちは」と言いながら会釈をすると杉本さんは僕らを見ながら微笑んだ。
「曜子ちゃん。今日は文也君とお出かけ?」
「はい、自販機デートです」
「いいね、デート。楽しんでね」
手を振ってすれ違う曜子さんと杉本さんだが、すれ違いざまに杉本さんは僕を捕まえて耳打ちしてきた。曜子さんは気づかずに前方に歩き続けている。
「仲良しじゃない。まさかお付き合い始めた?」
「いえ、まだですけど、僕が曜子さんのこと好きだって言うことはすでに伝わりました」
「えー? それで曜子ちゃんもあんな楽しそうってことはもうそういうことじゃない。なんで付き合ってないの?」
「元の曜子さんに戻るまではお預けってことになって」
「そっか―。まあそうだよね。こんな状態じゃお付き合いとか難しいもんね」
「検査してるんですよね? 戻す方法とかこうなった原因とか分からないんですか?」
「さあ? 大学の教授クラスの人も色々調べているみたいだけど、何も分からないということしか分かってないね。まあ分かっていたとしても、いくら仲良しでも他人に勝手に検査結果は教えられないんだけど。これは私個人の見解だけど、単純に多重人格とか解離性同一障害って片付けられるものじゃないって思うな」
「そのことならもう誠司さんに聞きました。それっぽいけどそうじゃないっぽいところもあるって」
「なんだ、せっかく君をサポートしてあげようと思ったのに」
「十分サポートしてもらってますよ。さっきもデートっていう言葉を曜子さんから引き出してくれたし。木曜や金曜もお世話になりました」
「君は優しいね、惚れちゃいそう」
「駄目ですよ。僕には曜子さんがいるので」
「文也くーん、何してるの?」
自販機コーナーから曜子さんが僕を呼んでいる。こそこそ話が長くなりすぎたようだ。
「すみません、行きますね」
「何かあったら言ってね」
僕の肩を軽く叩き杉本さんは仕事に戻った。僕も急いで曜子さんのもとに行くと曜子さんは軽く頬を膨らませてご立腹の様子。
「杉本さんと仲良さそうに何話してたの?」
「曜子さんって可愛いよねって話です」
「えー? ほんとかなー?」
「本当です。キャラメルラテ買ってあげるので機嫌直してください」
「ふふ、ありがと。そういうことにしといてあげる」
百六十円でこんな満面の笑みが見られるなら安いものだ。
「キャッラメッル、キャッラメッル。うっれしいなー」
病室に戻る道すがら曜子さんはご機嫌な歌を披露してくれた。百六十円でこんな歌が聞けるなら安いものだ。
「文也君の抹茶ラテも美味しそうだね」
病室にて、曜子さんのキャラメルラテの隣にあったので買ってみた抹茶ラテを飲んでいると曜子さんが物欲しそうな目で言ってきた。
「飲みたいですか? 口つけちゃいましたよ?」
「気にしないよ」
差し出したペットボトルの抹茶ラテを一口飲んで「甘くておいし―」と幸せそうな表情をする曜子さん。本当に間接キスとか気にしない人なのだと改めて思う。僕なんて曜子さんから返された抹茶ラテの飲み口を見るだけでドキドキしてしまうというのに。結局抹茶ラテは恥ずかしくなって飲むことができず、棚に置いてしまった。
その後は「トランプしよう」という曜子さんの提案に乗り、二人でババ抜きをすることになった。二人だとババを引かない限り絶対に揃うので大抵の場合は最後の一枚と二枚の勝負になる。したがって途中までは頭を使わない作業なのでトランプ越しに見つめ合いながら雑談をするのにはちょうどいいゲームだ。カップルにお勧めとして紹介したいくらいには楽しい。
「文也君って今まで彼女がいたことはないんだよね? 昨日聞いた気がするけど」
初めて会った日に色々話をしたテーブルをはさみ、自分の手札を見つめながら曜子さんが尋ねてきた。僕は曜子さんの手札から一枚引きながら答える。ババを引いてしまい、曜子さんが笑顔になる。二人だと本当に駆け引きも何もない。
「はい。そうですよ」
「好きな人とかもいなかったの?」
「うーん、いるにはいましたよ。幼稚園、小学校、中学校ってそれぞれ。でもクラスが変わったり学校が変わっても全然悲しくなかったし、すっかり忘れちゃうくらいくらいだったので本気で好きじゃなかったんだと思います」
「私のこともいつか忘れちゃう?」
「忘れませんよ」
「どうしてそう言いきれるの?」
「こんな風に仲良くなったのは初めてなので。絶対に忘れませんよ。曜子さんはどうなんですか? モテたんじゃないんですか?」
今度は曜子さんがババを引き、ちょっとだけむすっとした顔になった。
「告白されたことは何度かあったかな。でも付き合ったことはないよ」
「どうしてですか?」
「どうしてだろ? 他にやりたいことがあったのかもしれないけど、事故のショックで忘れちゃった」
どこか誤魔化しているようにも聞こえたが事故のことを出されるとこれ以上追及するのは憚られる。
「さて文也君、選択の時間だよ」
曜子さんは右手と左手で一枚ずつカードを持って僕に突き出す。絵柄を揃える作業が終わり、駆け引きと運試しの時間が始まった。
「曜子さんは右と左どっちが好きですか?」
「右かな。なんか右って左よりあったかい感じがしない?」
「うーん……確かに考えてみるとそうかも」
「なんでだろうね?」
「ひは発音するとき唇が触れ合わないけど、みは触れ合いますからね。なんとなく熱を感じるのかもしれないです」
「それだ。長年の疑問が解消されたよ。だからママとかパパってあったかい感じがするんだ」
「なるほど、一理ありますね。ところで今右手と左手で持っているカードを入れ替えたのは何故ですか?」
「右が好きだからね。右にいいもの置きたいの」
「なるほど、じゃあ右を引きます」
僕は曜子さんが左手で持っているカードを掴んだ。曜子さんは強くカードを握って手を離してくれない。
「曜子さん、往生際が悪いですよ」
「だってこれ左だよ? 右にいいもの置きたいって言ったでしょ? 文也君にいいものあげたいから考え直してもらおうと思って」
「曜子さんから見て左は僕から見て右なんですよ」
僕が左手のカードから手を離し、右手の方に手を伸ばそうとすると曜子さんの左手の力も緩まり、僕はその隙を見逃さずに左手のカードを引き抜いた。僕の手元にあったカードと数字が一致して僕の勝利となる。
「むー、ゲームよわよわの文也君に負けるなんて。もう一回やろ。次は負けない」
「もちろん。さっき負けまくった分取り返させてもらいますよ」
雑談をしながら数字合わせの作業をして、最後の駆け引きを楽しむ二人ババ抜きはしばらく続いた。僕は妹の文音とのエピソードをこの時とばかりに披露し尽くし、曜子さんは喜んでくれたようだ。結局僕が勝ち越しはしたのだが、ゲームの十五連敗をひっくり返すには達しないくらいで帰宅するのにちょうどいい時間となった。
「そろそろ帰りますね。文音に勉強教えてあげないといけないので」
「うん、すごく楽しかった。また来週ね」
「僕は明日も来ますけどね。それじゃあ失礼します」
適温に調整された病院から外に出るとむわっとした夏の暑さに体が包まれる。だがそれ以上に僕を包むのは充実感だ。大好きな曜子さんとあんなにも楽しい時間を過ごし、先週まで灰色だった僕の人生はあっという間に華やかに色付いた。この夏の暑さでさえも僕らの熱々の関係を表しているようで心地良く感じられる。
軽い足取りで駐輪場へ向かい自転車に乗る前にのどを潤そうとした時、抹茶ラテを病室に置き忘れてしまったことに気がついた。間接キスが気になって曜子さんの前で飲む気になれず、棚に置きっぱなしだった。
【すみません 抹茶ラテ忘れたのでもう一回病室にお邪魔しますね】
曜子さんと交換した連絡先に早速メッセージを送ると一分ほどで返信が届いた。メッセージが一件と写真が一枚だ。
【ほんとだ! 待ってるね!】
メッセージとともに送られてきたのは僕の抹茶ラテを手に持って自撮りする曜子さんの写真だ。斜め上からの見慣れない角度の曜子さんも可愛い。保存して絶対に消えないように保護しておこう。来週まで夏期講習がないので木島や長谷に自慢できないのが悔やまれる。
病室の扉をノックすると「どうぞー」という良く通り聞き惚れてしまうくらいに綺麗な声が聞こえる。声自体は皆同じなのだけれど、声が纏っている雰囲気はやっぱり本物の曜子さんが一番好きだ。
病室に入ると曜子さんはベッドに座り、ベッドテーブルの上に置いたノートパソコンと向き合っていた。抹茶ラテを回収しながら何をしているのかと尋ねると、曜子さんは少しだけ恥ずかしそうに答えた。
「一人のときは小説を書いているの。小説家になるのが夢なんだ」
「へえ、格好いいですね。読書好きが高じて、みたいな感じですか?」
「まあ、そんなところかな」
「どんなのを書いているか教えてもらえたりは?」
「今はだーめ。まだ全然書けてないし、面白いかも分かんないし」
「じゃあ、完成したら見せてもらえませんか?」
「いいけど、完成、するかな……」
僕の方を向いていた曜子さんは眉を下げ、ノートパソコンの画面を見つめる。賞に応募するつもりなのかもいつまでにどれくらい書くつもりなのかも分からないが、その表情から進捗が良くないことは分かる。
「もしかしなくても、一週間に一日しか書けないですよね?」
「そうだね」
「僕と一緒にいるのって小説を書く邪魔になったり……」
「そんなことないよ。ちょうど高校生の男女をメインにした話を書いてるから、リアルな男子高校生と過ごせるっていうのはすごくありがたい。男の子がどんな風に物事を考えているかとか想像だけじゃ限界があるから。だから来週も来てね」
「分かりました。曜子さんには僕の知りうる男子高校生の全てを教えてあげますから、来週は覚悟しておいてください」
「ふふ。なーに? その全てって。なんか怪しい。エッチなこと教えるつもりでしょ」
「そ、そんなんじゃないですよ。できるだけリアルな描写ができるように手伝って、もし出版されることになったら僕がファン第一号になろうって思っただけです」
「ファン第一号か……いいね、サインも考えておかないと」
「色紙と額縁も用意しておきます」
僕のスマホが鳴った。文音から【まだ帰ってこないの? 夕飯前に教えて欲しいんだけど】というちょっと不機嫌そうなメッセージが届いている。
「すみません、そろそろ本当に帰りますね。小説、楽しみにしてます」
「うん。また来週」
病院を出て、駐輪場の自転車の前で抹茶ラテを飲んだ。キャラメルラテよりも幾分か苦みを含んだ甘さが口の中に広がり、今日の思い出の味となる。僕は今後の人生で抹茶を見たり飲んだりしたら、今日のことが思い浮かぶだろう。笑顔もむすっとした顔も真剣な顔も、本物の曜子さんの顔を全部忘れない。
夜寝る前になって、曜子さんに奥空文子作品について訊くのを忘れていたことに気がついたが、もう訊けるような時間ではなかった。
翌日は家族で父方の実家へ行き、お墓参りをしてからいつものように病院へ向かった。両親は僕が毎日おばあちゃんのお見舞いと称して病院に行っていることは知っているが特に咎めるようなことは言ってこない。何か別の目的があることは当然気がついているはずだが。
文音は大好きなお兄ちゃんが他の女にご執心であることに不機嫌になることもあったが、曜子さんの写真を見せると「絶対彼女にして。家に連れてきて。こんな綺麗な人と仲良くなったなんてお兄ちゃんすごい」と手のひらを返し、応援してくれることになった。
「というわけで今日も来ました」
「そうか」
ベッドの上にあぐらをかいて座り不良漫画を読む火曜子さんは本物の曜子さんと違って僕の家族の話にはあまり興味がないようだ。お見舞いのコーラを差し出すと「ありがとな」と言いながら凛々しい笑顔をくれた。その後は再び漫画に目を移す。
「お前、毎日来てるんだってな」
火曜子さんは漫画に目を向けたまま独り言のように僕に尋ねた。
「曜子さんと一緒にいるのが楽しいので」
「それはあたしか? それとも別のやつか?」
「全員です」
僕が恋をしているのは月曜日の、本物の曜子さんだ。でもどの曜日の曜子さんと一緒にいるのも楽しいということは決して嘘ではない。彼女たちは皆、作られたような設定や性格をしているがその反応や言動は生身の人間そのもので、決して人形やロボットのような存在ではない。
「水無月静子って知っていますか?」
「知らん」
「木田まなみは?」
「知らん」
「金井美也や土門奏は?」
「知らん」
「奥空文子は?」
「詳しくは知らんがそこの本棚で名前は見たことがある」
火曜子さんが指差す先には様々な本が並べられた本棚がある。自宅から見繕って誠司さんが持ってきたものらしいそれには曜子さんが好きだと言う奥空文子が書いた本もいくつか並んでいる。
「それだけですか?」
「ああ。なんだよ、何が聞きてえんだ?」
火曜子さんが僕にデコピンした。痛くないし、先週に比べてもかなり優しくなっている。きっと一週間分の曜子さんたちと仲良くした結果、僕に対する警戒心が抑えられてきたのだろう。
「曜子さんって将来何かしたいことあります? 夢とか目標とか」
「……バイクで日本一周すること」
「へえ、免許持ってるんですか?」
「ああ……いや、持ってなかったな」
曜子さんは持っていないが、火曜子さんは持っているという設定なのだろう。名前と同じようにその辺は曜子さんに合わせているようだ。
「でもいいですね、バイク。確か十六歳から免許取れるんですよね。僕も取ってみようかな」
「取れたとして、バイクはあんのか?」
「ないですね。買うお金もないし、そもそもバイク通学なんて許可されないだろうから、高校生のうちはあんまり取る意味ないかも」
「お前賢い高校だったもんな。あたしは昔はダチと一緒に……いや、忘れてくれ」
本物の曜子さんに合わせているようだが火曜子さんは結構口が緩い。隠し事はあまり得意ではないようだ。
バイクの免許を持っていて、おそらくバイク自体も持っていて結構乗り慣れている。通っている高校の偏差値はあまり高くなさそうだ。そしてこれは偏見だが、荒っぽい口調と少し暴力的な部分、不良漫画が好きなところを鑑みると暴走族とか不良系の設定のキャラクターなのではないかと思う。今は割と落ち着いているので、元、がつくかもしれないが。
それから火曜子さんはまるで自分が乗っていたことがあるかのようにバイクの魅力を語ってくれた。語っている時の表情は子供のように純粋でキラキラと輝いていて、室内なのに夏の海沿いの道を走っているような、爽やかな風を感じている錯覚すら覚えた。
翌日の水曜日は家族そろって母方の実家に行きおじいちゃんと合流し、ご先祖のお墓参りをして病院に向かい、おばあちゃんのお見舞いをすることになっていた。僕はおばあちゃんのお見舞いが終わると近くのレストランでお昼ご飯を食べるという家族と別れ、病院に残ることにした。文音も曜子さんに会いたいと言っていたが、本物以外に合わせると後々面倒になりそうなので検査が大変とか適当な嘘をついて断った。
さすがに説明を求めてきた両親も、曜子さんの写真を見せながら曜子さんのすばらしさや今僕はこの人のために頑張っているということを熱弁すると納得してくれたので、僕はこうしてまた曜子さんの病室の扉をノックしている。
「……どうぞ」
水曜子さん、もとい水無月静子さんの小さくとも水のように涼やかな声が聞こえると、僕は病室へ入る。
水無月さんは先週と同じようにベッドの背もたれを上げて座り、備え付けのベッドテーブルの上のノートに向かってペンを走らせていた。無表情だが一生懸命さが伝わってくる。
「勉強、ですか?」
「ええ」
「今日も数学か。数学苦手なんですか?」
水無月さんは一瞬だけむっとしてそんなことないと言いかけたようだが、すぐに無表情になり、冷静に答えた。
「……そうね。文系科目は得意なのだけれど、理系科目は少し苦手」
奥空文子の小説の中の水無月静子の設定と同じだ。
「だから一年生の内容の復習をしてるんですね」
「ええ、誰かいい先生でもいればもっと効率がいいのだけれど、この環境だと厳しくて。理系科目が得意な人は近くにいないかしら」
水無月さんは無表情のまま僕のことをちらちらと見る。確かに二年生からの文理選択では理系を選んだと先週の何曜日かに言ったはずだから、それをあてにしているのだろうか。
一年生の内容くらいだったら教えることもできると思うが、三年生に教えるのはなんともやりづらい感じもする。そもそも水無月さんは十六歳という設定のはずで実際に先週十六歳と言いかけていたから、三年生なのはおかしい。年齢や学年がごちゃごちゃになって頭がおかしくなりそうだ。
だが目の前で水無月さんが困っているのは一年生の内容だ。やってみるしかない。水無月さんたちが小説の中のキャラクターの人格であると分かった今、その内容に沿って行動してみるのが現状打破のヒントになると信じたい。全部は読めていないが小説の中でヒロインである水無月静子は主人公に勉強を教えてもらうシーンがあったはずだ。
「僕が教えますよ。数学はそこそこ得意なんです」
「無理にとは言わないけれど、お願い」
「では早速、何か悩んでいる問題とかありますか?」
「これよ。【区別のつかない七個のリンゴを三人で分けるときの分け方は何通りか、ただし一個ももらえない人がいてもいい】という問題。七個と三人なのに解説に九の階乗が出てきて意味が分からない」
「あーそれは重複組み合わせってやつですね。僕も去年ちょっと苦労しましたよ」
「今は理解しているの?」
「もちろん。えっとまず、同じものを含む順列は知っていますか?」
「ええ、それは知ってる」
「じゃあ簡単ですよ。えっと、仕切りを用意して三人を分けるとしたら何個必要ですか?」
水無月さんからペンを借りてノートに短い縦線を一本引き、その下にAと書いた。僕は水無月さんの右横に移動しており、右利きの僕がノートに書こうとすると体が急接近してしまうが水無月さんは気にする様子はない。そんなことより僕の話を聞き、ノートを見て考えることに夢中のようだ。
「二本かしら」
「そうです。じゃあこの区切ったところに適当にリンゴを七つ入れていきます」
先ほど書いたものから少しだけ離して平行になるように縦線をもう一本付け足し、その下にBと書いた。左がA、右がBだ。Aの左に丸を四つ、AとBの間に丸を二つ、Bの右に丸を一つ書いて、必要はないがへたの部分を書き足してリンゴっぽく見せると、水無月さんは「ふふ」と小さく声を漏らして微笑んだ。基本的に無表情だけど、決して無感情ではない。
「こうするとどういう風に分けたか分かりますか?」
「一人目が四つ、二人目が二つ、三人目が一つね」
「そうです。この問題はこういう感じの分け方が何通りあるかっていうことを聞いているんです。今、何が何個ずつ並んでいますか?」
「丸、いや、リンゴが七つと縦線が二つね……ああ、そういうことか」
「分かりました?」
「ええ。合計で九つのものが一列に並ぶと考えるから九の階乗が出てきて、同じものが七つと二つあるから七の階乗と二の階乗で割っているのね」
「完璧ですね。ちょっとヒントをあげただけで理解できるなんて、理系科目が苦手なんて嘘みたいですよ」
「ふふ、褒めても何もでないわ」
得意げに微笑む曜子さんの顔を見られただけで十分だ。
その後も何問か質問に答え一段落すると水無月さんは「お礼にいいものをあげる」とまたもや得意げな表情を見せてくれた。褒めても何もでないと言っていたが、出るようだ。
少しの間後ろを向いているように言われたのでその通りにしていると後ろで何やらごそごそという音が聞こえる。
「いいわよ」
振り返ると水無月さんは何かを持っているように両手で握りこぶしを作り、こちらに向けている。今までノートなどが乗っていたベッドテーブルの上にはペンケースだけが残っており、ノートやペンケースの中身などはベッドの上に移動させられていた。
「私の右手か左手かペンケースのどれか一つの中にあなたへのプレゼントが入っているわ。どこに入っているか当てられたらあげる」
「僕へのプレゼントなのに当てないとだめなんですか。まあいいや、右手で」
いいものは右に置きたいって曜子さんが言っていた。
「文也君、ペンケースを開けてちょうだい」
「え? はあ、分かりました」
当たりかはずれを言う前に水無月さんはそう言った。指示通りペンケースを開けると何も入っていない。
「最後にチャンスをあげる。今あなたは右手を選んでいるけれど、左手に変えてもいいわよ?」
数学の教科書の片隅にこんなゲームが紹介されていた気がする。詳しいことは覚えていないがこの場合、変えた方が良かったはずだ。
「じゃあ左手にします」
開かれた水無月さんの左手の中には何も入っていない。
「残念、はずれね。どうして変えたの?」
「変えた方が当たる確率が高いんですよね。確かこの場合、変えたら当たる確率は三分の二、そのままなら当たる確率は三分の一だったかな。あくまで確率の話だからはずれ引いちゃいましたけど」
「なんだ、知っていたの」
水無月さんが残念そうにうつむいてしまった。やってしまった。これは解説したかったパターンだ。
「す、すみません。確率はなんとなく覚えているんですがどうしてそうなるかは忘れちゃってて、もし良ければ教えてくれませんか?」
「そう? 仕方ないわね」
水無月さんはパッと顔が明るくなってウキウキで解説を始めだす。この問題は直感とは異なる結果になる確率の事象として有名な問題らしい。求め方は色々あるらしいが条件付き確率の考え方を使った求め方を丁寧に解説してくれた。
その表情はとても楽しそうで、数学は苦手と言っていたけれど勉強することは好きという、探求心や向上心の高さが表れているようだった。
そんな水無月さんに「本当は水無月静子って名前なんですよね」と言って困らせるようなことはできない。
満足した水無月さんは、はずれたにも拘らず右手に入っていた包装された小粒のチョコレートをプレゼントしてくれた。先週よりももっと仲良くなれた気がする。
翌日は特に予定はなく、いつも通りの時間に病院に向かった。木曜日ということで着替えやタオル、帽子に飲み物の準備はしっかりしている。今日は一段と気温が高く日差しも強いので熱中症対策として用心するに越したことはない。
先に病院近くの公園を先に覗いてみたが木曜子さん、もとい木田まなみさんも、少年少女たちも今日はいない。お盆休みだから家族で出かけているのだろう。
病室に入るなり、木田さんは勢い良く僕に迫ってきた。
「文也君、行こう!」
木田さんは先週と同じ白の半そでシャツと紺のハーフパンツを着て、どこかのプロ野球チームの帽子を被り、色々入っていそうなリュックを背負って出かける準備万端という感じだ。ふんふんと鼻を鳴らして腕を胸元で上下に振って、今にも駆けだしそう。
「外に出る準備はしてきたけど、どこに行くの?」
「前に行った公園の近くにバッティングセンターがあるんだ。文也君、野球得意そうだし一緒に行きたいなって思って」
「いいね、行こう。でも曜子さんって野球好きだったの?」
「うん! 昔から好きで今もソフトボール部に……あ、なんでもない」
「暑いから熱中症に気をつけようね」
木田さんがソフトボール部に所属している設定だということは知っている。両親がいない子供たちが集まる施設で暮らしていて、そこでは小さい子供たちのお姉さん役だということも。
将来の夢がお母さんというのはかなり物語の根幹に関わりそうなことだというところまでしか読んでいなかったことを今になって後悔した。もっと詳しく知っていれば、質問の仕方とか、接し方を変えて情報を得ることができそうなのに。月曜日まで学校の図書室には入ることはできないからすぐに読むなら今日の帰りにでも買って読んでおくしかない。
お盆休みも三日目となると遠出をしない人は暇な時間ができるのか、バッティングセンターは家族連れや中学生のグループなどであふれていた。鈍い打撃音が体に懐かしく響き、中学で野球をやっていた時の感覚を呼び起こす。すぐにでも打ちたくなるが、今空いているところは中学の県大会二回戦負けレベルの僕には少しハードルが高い。
「あ、あそこ空いてるし周りに誰もいない。私行ってくるね!」
「あ、ちょっと曜子さん!」
木田さんが入ったケージでは時速百五十キロの球が出てくる。経験者でもなければ手も足も出なさそうな場所で打てるだけの実力を持った人はこの場にはいないようで、誰も寄り付いていない。
細く白く美しく、可憐な美少女である曜子さんの容姿をした木田さんが自信満々に打席に立ったので、他のお客さんの注目を一気に浴びることになった。
設定通りの女子中学生ソフトボール部員であっても百五十キロなんて球を打つのは難しいというのに、おそらく今は本物の曜子さんと同じ身体能力で、先週のように野球に関してはへなちょこなので空振りばかりだ。
それでも一生懸命にバットを振る姿、タイミングを合わせようと試行錯誤する姿、決してボールから逃げず、目を離さずに向かっていく姿に、僕も含めて木田さんを見守る全ての人の目にも熱がこもっていく。
一ゲーム二十二球の中でこれまで二十球連続空振り。それでも木田さんに諦める様子は見られない。今、二十一回目を空振りして、残り一球。この場にいる皆が思っていたはずだ。
「頑張れ」
マシンからボールが放たれる音がする。その刹那、木田さんのバットが動きボコッというとても金属バットで野球ボールを打ったとは思えない音がした。
ボールはまさにボテボテという音をたてながら、マシンの方に緩やかに転がっていった。
ほんの一瞬「おぉ」という感嘆の音が聞こえたあと、僕以外の皆は自分たちの世界に戻っていく。僕は「全然当たらなかったー」と照れ笑いしながらケージから出てくる木田さんを拍手で出迎えた。
「すごいよ、曜子さん。百五十キロを打つなんて」
「いやー全然駄目。ボテボテのピッチャーゴロ。悔しいなぁ」
バットに当てられたことの嬉しさよりもピッチャーゴロしか打てなかった悔しさが勝るように顔をしかめる木田さんは、先週は見せなかった勝負の世界にいる人の風格を感じさせた。小説の中の木田さんは結構な実力者でかなりの負けず嫌いでもあったから、曜子さんの体になってしまって思うように動かない体に多少なりともいら立ちを抱えているのかもしれない。
「さ、次は文也君の番だよ。格好いいところ見せてね!」
中学では速くてもせいぜい百二十キロとかの世界だったので百五十キロなんてそう簡単に打てる気はしないが、屈託のない笑顔と期待の眼差しを向けられると断るわけにはいかない。周りの人たちも、お、今度は彼氏が挑戦か、なんて視線を送ってきている。
「どっちが先にホームラン打てるか勝負だよ。負けた方は勝った方の言うことを何でも聞くこと!」
僕がケージに入り逃げ場を失ってから木田さんはこんなことを言い放った。このバッティングセンターのホームランは、マシンよりも十メートルほど後ろのかなりの高さのところに設置されている、半径を目分量ですら測れないほど遠くにある円形の的に打球を当てなければならない。
「文也君、打てー!」
僕がホームランを打ったら負けなのに木田さんはそんなことを忘れたかのように声援を送ってくれる。無邪気で健気で元気が良くて、中学時代は女の子の声援を受けた記憶なんてないはずなのに、なんだか懐かしい気持ちになった。
結局僕も半分くらいは空振りで、ヒット性の当たりはなんとか一本打てただけだった。ホームランには程遠い。
「すごいよ文也君。ナイスバッティングだったね!」
ケージから出ると正面のベンチに座った木田さんが満面の笑みで拍手をくれた。僕のタオルやスポーツドリンクも差し出してくれてまるでマネージャーのよう。僕は拍手で迎えただけなので少し申し訳ない気持ちになる。
「ありがとう。でも一球だけだったよ。あとはまともに打てなかった。ね、もう少し遅い球で勝負しない? その方が打ちやすいと思うよ」
「文也君、大事なのは打ちやすさじゃないんだよ……」
失礼ながら木田さんに似つかわしくない神妙な面持ちだ。このあとに何か大事な言葉が続くと思い、息をのんだ。
「大事なのは、ロマンだよ。速くて打ちづらい球をホームランにする。ちょうどいい速さの打ちやすい球をホームランにする。文也君はどっちにロマンを感じる?」
「……速くて打ちづらい方だね。大事なのはロマン。ごめんね、そしてありがとう。忘れかけていた大事なことを思い出せたよ」
「分かればいいんだよ。これから二人でロマンを追い求めて行こうね」
木田さんは僕の手を握り、空いている方の手でどこか遠くを指差した。その先にはホームランとなる的がある。あれに当てることが僕らの目標だ。あれに当てるまでは、毎週木曜日はここに来ることになるだろう。
「じゃあ、行ってくるよ」
まるで戦場に向かうかのように敬礼をしてロマンを追い求めに行く木田さん。だがそれは勇み足だ。
「待って、曜子さん。お金を入れるんじゃなくてカードを買った方が一回分お得だから」
「はっ! ロマンも大事だけど、お金も大事、だね」
小説の中の木田さんがどんなに実力者であっても曜子さんのパワーではクリーンヒットしてもホームランの的まで打球が届くかも怪しい。そうなると僕が打つしかないが、正直僕もすぐに打てる自信はない。一ゲーム二百円だがいくら注ぎ込むことになるか分からないので節約は大切だ。昨日顔を出したときおばあちゃんが僕と文音にお小遣いをくれたので多少は余裕があるが、お金は大事。
二千円で十一回ゲームができるカードを半分ずつお金を出し合って一枚買い、木田さんの再挑戦が始まる。今度は二回バットに当てることができたもののそれ以外に成果はなし。次に挑戦した僕も先ほどとたいして変わらない結果となる。
二人で交互に挑戦し続けて惜しい当たりすらなく、カードを使い始めて十一回目の挑戦となっていた。
「ふ!」
声を出しながら木田さんがフルスイングする。木田さんが出てくる奥空文子の小説の中にはバッティングの技術について木田さんが語る描写もあったから、今の木田さんの中にもバッティングの理論的なものは染み付いているのだろう。たとえ慣れない曜子さんの体であってもみるみるうちに上達していき、ボールにバットを当てられる回数も増えていっていた。
そして、硬式球でなくてもこんな音がするのかという程、キーン、という甲高い金属音が鳴った。おそらく最後となるボールで、木田さんがついに完璧に捉えた。打球はピッチングマシンの頭上を越えてホームランの的が設置されているネットまで届く。しかし打球が当たったのは的のはるか下の方。ネットを揺らしただけの結果となった。
病院へ戻る帰り道。木田さんは未だに悔しさを顔ににじませている。
「やっぱりパワーか、パワーが足りないのか!」
木田さんは右腕を横に伸ばした状態から力を入れながら肘を曲げ、力こぶを出そうとしたが見えたのは曜子さんの細くて綺麗な二の腕だけだ。
「筋トレしなきゃ。ノートに書いて他の皆にもしてもらおう」
ムキムキのパワー型曜子さんは見てみたくもあるけれど、今の攻守のバランスが良さそうな体も捨てがたいので筋トレはご遠慮願いたい。
「それはしなくて大丈夫だよ。来週は僕がホームラン打つから」
もはや僕らは勝負として始めたことなんか忘れ、百五十キロの球をホームランにするという一つの目標に向けて挑戦する仲間となっていた。お互いに応援し合い、ボールにバットが当たるたびに一喜一憂して、健闘を称え合った。なんだか青春という感じがする。
「そうだね。前に金曜日の子が【体全体が痛いけどなんだろう? 看護師さんに聞いても問題ないって言われた】って書いてたことがあって、あれって私が運動しすぎて筋肉痛になっちゃったんだよね」
確かに金曜子さんこと金井さんは運動とは無縁な生活していそうだし、筋肉痛はさぞつらかったのだろうと想像できる。
「また来週、頑張ろう」
病室に戻り、軽く雑談をしてから帰路についた。
帰り道にある大きな書店に寄り、水無月さん、木田さん、金井さん、土門さんが出てくる奥空文子の作品を購入する。お財布的に痛手ではあるがおばあちゃんからお小遣いをもらっていたのでなんとか耐えることができている。
ついでに奥空文子の書籍コーナーを見渡してみると本当に色々なレーベルから様々なジャンルの作品を残していることが分かる。学校の図書室には置いていない本もあって、そのコーナーにある本だけで、僕が生まれてから今までに読んだ本の冊数を軽く超えていそうだ。
手当たり次第に手に取ってパラパラと中身を流し見るが、火曜子さんや日曜子さんのような登場人物は見当たらない。不良っぽい人とか、誘惑してくるセクシーお姉さんとかセリフを見ればすぐに分かりそうなものだが、全て徒労に終わってしまった。
そうなった理由は分からないし原理も不明だが六人中四人が奥空文子作品の登場人物の人格なら残りの二人もそうである可能性はかなり高いはずだ。それなのに見つからないということは大きな書店にも置いていないマイナーな作品なのかもしれない。もしくは僕の確認が浅すぎたか。
どちらにせよ、今は購入した四冊を読みきって何かヒントを見つけることを優先しよう。残りの二人に関しては奥空文子作品に詳しい人――今のところ本物の曜子さんしか思い浮かばない――に聞いてみるとしよう。
その日の深夜、もう日付が変わって二時間ほどが経過した頃、僕は購入した四冊を読破した。どれも読みやすく、面白く、超人気作家になるのも分かる出来の作品だった。
四冊に共通していたのは主人公の男の子とヒロインたちの恋愛要素のある作品だということだ。土門さんは中盤だが他の人は皆、終盤に印象的な告白シーンがあり、主人公と恋人関係になっている。
そしてもう一つ共通していたのは、読後に心が温かくなるということだ。作品全体が優しさに包まれていて、優しい曜子さんが好むのも分かる。
曜子さんは他の人格について「満足すれば消えてくれるんじゃないかな?」と言っていた。確信がある様子ではなかったので信憑性は怪しいが今のところはそれを信じるしかない。
ではどうすれば満足してくれるのか。それは小説の中で語られる登場人物たちのやりたいことや夢を叶えることだと思う。
水無月さんなら勉強を頑張ること、木田さんならホームランを打つこと、金井さんならゲームで自分と同等以上の腕前を持つ友人を作ること。その夢を叶える過程で愛の告白をして恋人関係になっていた。土門さんはラブコメのコメディ部分がかなり多い作品で、将来の夢などが詳細に語られているわけではなかったのでよく分からないが。
勉強は今の水無月さんのレベルなら問題ないので、バッティングとゲームの練習をしなければならないし、火曜子さんと日曜子さんの詳細が分かったらまた何か練習する必要が出てくるかもしれない。忙しい夏休みになりそうだ。
翌日、金曜子さんこと金井美也さんはまたもやお昼寝中のようだ。
「体が痛いって言っていたからまた筋肉痛ね。優しくしてあげて」
病室を確認してくれた看護師の杉本さんは、僕にそう声をかけて別の仕事へ向かった。
ベッドで横になりながらちっちゃく丸まって穏やかな寝息をたてる金井さんは、曜子さんの容姿なのにどこか子供っぽく、実際はそんなことないのになんだか小さく見える。
寝顔を見ているだけで癒されるし、こんなに気持ちよさそうに寝ているのを起こすのも気が引けるが、杉本さんからは「夜に眠れなくなるから適当なタイミングで起こしてあげて」と言われている。
売店で買ってきたコンソメ味のポテトチップスの袋を開けて金井さんの鼻に近づけると、鼻がひくひくとし始めた。
「……ん、ポテチ……痛」
ポテチにつられてすばやく起き上がろうとした金井さんは、顔をしかめながらゆっくりと起き上がった。先週と同じ半開きのとろんとした目で僕を見つめる。
「大丈夫? 体痛い?」
「痛い。ここまでのは始めて。バッティングセンターって、そんなに激しいの?」
「うんまあ、昨日は百球以上フルスイングしてたからね。行ってみる?」
「行かない。運動、嫌いだから」
「そっか、じゃあ今日は何をする?」
「ポテチ食べ終わったたら、ゲーム」
渡してあげたポテチの袋を金井さんは僕に差し出す。一緒に食べようのお誘いだ。
金井さんは父親が海外出張で家にほとんど帰ってこない上に母親も忙しい仕事をしていて、両親と必要最小限の関わりしか持つことができておらず、おまけに兄弟もいないのでいつも孤独を抱えている。さらに注意する人間がいないので、昼寝、ポテチ、ゲーム三昧の怠惰な生活になってしまったという設定だった。引っ込み思案な性格で人見知りもするので友人も少ない。
中学二年生のある時、中学校にいる唯一の友人の兄が通う高校の文化祭にその友人と一緒に行くことになり、そこで行われていたゲーム大会にてその高校の一年生である主人公と出会う。
先週僕らがやったゲームがモデルとなっているゲームで対戦するが、起きている時間のほとんどをゲームに費やしてきた金井さんに主人公は全く歯が立たない。負けず嫌いかつ向上心の塊であった主人公は金井さんに弟子入りすることを志願し、二人の交流が始まる。
主人公がうまくなるにつれて二人の心の距離は近づいていき、主人公が初めて金井さんに勝った時に告白して二人は恋人になる。その後、金井さんが主人公と同じ高校を目指すために怠惰な生活から脱却し始めたところで物語は終了。
この物語の展開であれば金井さんが満足するタイミングは、主人公が金井さんにゲームで勝って告白した時だろう。これでもし金井さんの人格が消えることになったのなら、他の曜日も目標が明確になる。やってみる価値は大いにある。
金井さんのことは好きと言えるかもしれないが、曜子さんに対する好きとは意味も気持ちの大きさも違う。だから告白するのは少し胸が痛むし、きっと曜子さんも金井さんに僕が告白した記憶をおぼろげに持つことになるからややこしくなりそうだが、何よりも曜子さんを元に戻すことを最優先とした結果だということで、曜子さんにも僕自身にも納得してもらうしかない。
「……へへへ、二十連勝」
問題は僕がいつになったら金井さんに勝てるのかということだ。金井さんに弟子入りしても教えてもらえるのは週に一度なので、とんでもない時間がかかりそう。
だがあてはある。中学時代、小学校最強の名を欲しいままにしていた僕をぼこぼこにした長谷なら何とかしてくれるはずだ。長谷は優しいのでコーラ一本あげれば鍛えてくれる。
ゲームのことは月曜日に夏期講習が再開してから考えるとして、明日は土曜日の土門さんだ。
彼女は物語の中盤で簡単に主人公と恋仲になる。会話の流れの中で土門さんが「私のこと好きなの?」と聞いて主人公が「うん」と答えるだけというとてつもなくあっさりとした告白だ。
それまで割合で言うとツンが七、デレが三くらいの割合だったのが告白後はツンが一、デレが九くらいになり、周りのキャラからいじられまくるというのが中盤以降の物語。これもおそらく恋人になれば満足すると考えていいだろう。
土曜日、今日の土門さんは長袖長ズボンのルームウェアを着ている。髪型は先週と同じツインテールだ。
「文也はエッチな目で私を見てるって書いてあったんだもん」
病室に入るなり、聞いてもいないのに理由を教えてくれた。ツンとした表情は土門さん特有のものだ。今日はここから「私のこと好きなの?」という言葉を引き出すことが目標となる。
「すみません。エッチな人は嫌だと思うので帰りますね」
「帰れとは言ってないでしょ。せっかく来たんだからもう少しいなさい」
会うのはまだ二回目だけれどお約束みたいなやり取りをして、僕らは病室の奥に置いてあるテーブルの方へと移動する。
土門さんは腕を組んで椅子に座り、未だに少しだけツンとした表情をしている。
「さ、面白い話をして」
「またですか」
小説の中でも土門さんはよく同じ要求を主人公にしていたので、その設定通りなのだろう。
ただ、作中の土門さんは特に理由もなく常にショートパンツやミニスカートで太ももを丸出しにしているので、全てにおいて設定に忠実なわけではない。現実における出来事や会話などによる影響で設定から外れることもあるようだ。
「そんなに面白い話のストックはないんですけど……あ、とっておきのがありました」
「また妹の話じゃないでしょうね?」
「駄目ですか?」
「駄目とは言わないけど、もうちょっとバリエーション増やしなさいよ」
「バリエーションならありますよ。中学生編と小学校高学年編、中学年編、低学年編と、幼稚園編と二歳児編と生まれたて編で。中学生編は先週の話の他にもう一つあって……」
「……まあ、とりあえず聞いてあげる」
土門さんは何故か呆れた表情をしている。とっておきの話で笑顔にさせてあげなくては。
「僕は中学で野球、小学校ではソフトボールをやっていたんですけど、妹の文音も僕に憧れて小中とソフトボールをやっているんです」
「いちいち僕に憧れてとか挟まなくていいから」
事実なんだもん、仕方ないじゃないか。
「去年の九月にあった試合を家族で応援に行ったんです。文音は一年生ながらレギュラーでした。一、二年生だけの新人戦ってやつですけどね」
「へえ、やるわね」
「日曜日だったので他の家族もたくさん見に来ていたんですけど、ある時、強烈なファールボールがまっすぐに僕ら観客がいる方に飛んできたんです。ただの広場で試合をしていたので観客席と言ってもフェンスも何もなくて、ボールの行き先には赤ちゃんを抱っこしながらアウトドア用の椅子に座る誰かのお母さんがいました」
土門さんが「やだ、やめなさいよ、痛いのは」と言いながら緊張した面持ちで息をのむ。そういえば痛い話とか苦手な設定だった。
「大丈夫ですよ。近くにいてそれに反応した僕は腕を精一杯、こう、伸ばしながらそのボールに飛びついたんです」
その時の動きを再現して見せてみた。さすがに病室でダイビングキャッチはできないので上半身の動きだけだが。
今でも思い出す。速いはずのボールがゆっくりに見えて、自分の体が自然と思うように動いて、左手の手のひらに伝わる強い衝撃。現役の野球部員時代には聞いたことがないような黄色い歓声と割れんばかりの拍手。あの瞬間だけは僕がグラウンドの主役だった。
「その親子を守ったってことか。まあ、すごいけど面白くは……」
「この話にはまだ続きがあるんですよ。試合が終わった後、『すごい! 上手なんですね』とか『文音のお兄ちゃんカッコいい!』とか言われて文音のチームメイトに囲まれちゃって。文音も何故か機嫌悪くなるし、きっと大好きなお兄ちゃんが他の子に盗られると思って嫉妬しちゃったんだろうなぁ」
「あ、そう。で、オチは?」
土門さんは心底呆れた顔で頬杖をつきながらこちらを見ている。おかしい。木島や長谷に話したときは大ウケだったのに。
「オチという程のことじゃないですけど、実はその時ボールを受け止めた左手の小指を骨折して――」
「あー! 聞こえない、聞こえない」
土門さんは急に耳を抑えながら立ち上がって病室の中をうろうろと歩き始めた。ずっとあーあー言っていて、本当に痛い話が苦手なようだ。しばらくすると何事もなかったかのように僕の正面に座り直す。
「で? オチは何だって?」
今日一番の笑顔で土門さんは尋ねる。
「……えっと、ボールを取った時、小指を、怪我、しちゃって」
土門さんの眉がピクリと動くがそれ以外に特に反応はない。具体的にそのシーンを想像できるような話でなければ大丈夫なようだ。
「それが分かってから文音が優しく色々お世話してくれて、嬉しかったっていうオチです。まあその球を打ったのが文音でしたからちょっと責任感じたのかも」
中学生になってからは「将来はお兄ちゃんと結婚する!」と言ってくれないくらいに冷たくなった文音が、着替えや掃除を手伝ってくれたり、風呂上がりに髪を乾かしてくれたりした。優しくて涙が出るほど嬉しくて、高校一年生の中では一番幸せだった期間だ。利き手である右手を怪我していればご飯も食べさせてくれたかもしれないと思うと少し心残りではある。
「はあ。あんたってほんとに……」
またもや呆れ顔になった土門さんがため息をつく。そして、少しだけ真剣な眼差しを僕に向ける。
「妹以外に好きな女の子とかいないの?」
図らずも本来の目的の流れになった。。この流れは絶対にものにしてみせる。
「いますよ」
「妹とどっちが好き?」
「それは好きの種類が違うので何とも言えないです」
「あっそ。まあ、妹をそういう対象と見てる変態じゃなくてひと安心ね」
「僕のこと何だと思っていたんですか?」
「湧き出る性欲を必死に理性で抑えているお猿さん?」
「そんな……」
否定できない。本物の曜子さんはいつも距離感が近いし、火曜子さんは大雑把でガサツなのでスカートではないとはいえよく足を開きっぱなしにしてるし、木田さんは薄着で動き回るから脇とかお腹とかちらちら見えそうになるし、金井さんも細かいことを気にせずに家でくつろぐみたいに僕と接するし、土門さんは太ももだし、日曜子さんはアレだし、ガードが堅いのは水無月さんくらいで、僕はいつも頑張っていたのだ。
「ま、不可抗力以外では見たり触ったりしてないみたいだからそれは褒めてあげる。優秀なお猿さんね」
土門さんはケラケラと笑いながら身を乗り出して僕の頭を撫でてくれた。
嬉しいと言えば嬉しいが、少し流れが変わってしまっているので戻さなくてはならない。
「嫌われたくないので、頑張って我慢しましたよ。これからも頑張ります」
「嫌われたくない、か。そうよね、あんたは月曜日の子のことが好きなんだもん。でしょ?」
その問いは肯定も否定もできない。肯定すればこの話題は終わる。否定すれば嘘になる。そもそも土門さんは僕が曜子さんのことが好きなことを自身のおぼろげな記憶やノートで知っているはずだ。それでも聞こうとするのは流れが来ている証拠かもしれない。
土門さんとしばらくの間無言で見つめ合う。やっぱり可愛い。可愛いけれど、本物の曜子さんとはまとう雰囲気が違う。僕が好きなのは間違いなく本物の曜子さんだ。
「文也って隣町から自転車でここに来てるんだよね。夏休みで時間があるとはいえこのくそ暑い中、毎日。どうして?」
「会いたいから」
「誰に?」
「……奏さんに」
真の名を告げられた土門さんが目を見開く。そしてうつむいた後、上目遣いで僕を見る。この場面、小説では挿絵になっていた。
「私のこと、好きなの?」
胸の中がチクリと痛む。本当はこんなこと言いたくない。本当に好きな人は別にいるのに、他の人に好きだというのは許される所業ではないと思う。でも僕は理性が強い。やりたくない気持ちを抑えて、本物の曜子さんを救うために試すしかない。
「うん」
僕がその一言を言った後に土門さんが最後に見せた笑顔は、まるで本物の曜子さんのように優しく輝いていた。
そして土門さんは突如として気を失い、テーブルに顔から倒れこもうとする。その肩を正面から支えることになんとか間に合った。
「……曜子さん?」
「……文也君?」
声はほとんど土門さんと変わらないが、僕には分かる。弾むように可愛らしくて人懐っこいこの声は間違いなく本物の曜子さんだ。
体勢を整えて向かい合い直す。曜子さんはキョロキョロと周りを見回したり、スマホの画面を確認した。
「土曜日に会うのは初めてだね、文也君」
僕の予想は当たっていた。小説と同じ告白のシチュエーションを再現して告白を成功させる。それで土門さんは満足して消えていった。
曜子さんは始めからそこにいたかのようにごくごく自然に存在している。ツインテールをほどいていつもの編み込み付きストレートヘアーに戻すのは少しもったいない気もするが、それが曜子さんのスタンダードな姿なのだから仕方がない。
「ありがとう、文也君」
「いえ、これで曜子さんを救う算段がつきました。これからですよ」
「でもどうやったの? 記憶がちょっと曖昧で……」
他の人格が奥空文子の作品の登場人物であること、その中の告白シーンを再現することで土門さんの人格が消えていったことを説明した。
「なるほどね」
「曜子さん、奥空文子とどんな関係なのか教えてくれませんか? 本当にただ好きな作家っていうだけなんですか?」
「知りたい?」
曜子さんは試すように軽い上目遣いの視線を僕にぶつける。
「もちろん」
「知ったらもう後戻りはできないよ?」
「今さらですよ」
曜子さんはベッドの淵に移動して、そばの本棚から文庫本を一冊取り出し、僕もこちらに座るように促した。それに従って隣に座ると持っていた文庫本を僕に見せる。
「君が逃がしてくれない、ですか」
「曖昧な記憶とノートの文字しか情報はなかったけど、土曜日の子はこの子に似ていると思ってた。他の子たちもなんとなく似てるかなっていうキャラがいたんだけど、文也君の話を聞いて確信したよ。よく気づいたね」
「その本は読んだことがあったので。その可能性を考えて色々探したらぴったり合うキャラが見つかりました。でも火曜と日曜の人が見つからなくて」
「火曜の子の特徴をもっと教えてくれる? ちょっとガサツで文也君には手が出るのが早いことくらいしか覚えてなくて」
「そうですね、今曜子さんが言った通りですけど、バイクとか不良漫画が好きなんです。それを語るときの表情はなんか輝いているというか、純粋な人なのかなって感じです」
「それならこれかな」
曜子さんが本棚から取って渡してくれたのは【風になってどこまでも】という小説だ。柔らかいタッチで描かれた海岸沿いの道でバイクとともに佇む髪の長い高校生くらいの女の子の絵が表紙になっている。作者名は陸田文子。
「あれ? 奥空文子じゃない」
「奥空文子の前の名前だよ。本名で活動する主義だったから結婚を機に変えたんだって」
名義が違ったとは。どうりで奥空文子作品を図書室で探しても見つからないわけだ。
「詳しいですね」
「だって奥空文子は私の、七海曜子のママだから」
「あ……」
作品や本人のことに詳しいのも納得だ。だがそれは、曜子さんは母親を今年の七月初旬に亡くしていることになる。そして曜子さんが交通事故にあったのも同じ時期。
「どうしたの? 難しそうな顔して」
死に目に会えなかったのではないかとか、母親が亡くなって落ち込んでいたから注意散漫になって事故にあったのではないかとか、今は元気そうに見えるが本当はつらい気持ちを抑え込んでいるのではないかとか、マイナスなことばかり考えてしまう。
「もしかして色々心配してくれた? 大丈夫だよ。ママが死んじゃったこと、私はもう受け入れて、乗り越えてる」
「それなら良かった……」
本人がそう言うなら母親のことは本当に大丈夫なのだと信じるしかない。でも僕にはもう一つ懸念した点があった。
それは奥空文子のペンネームだ。陸田から結婚を機に奥空に変わり、七海文子として亡くなったはず。誠司さんは曜子さんにとって実の父親ではない可能性がある。
別にこれは今回の現象に関係はないかもしれないがなんとなく気になるのだ。土門さんを満足させる方法とか、僕の勘は結構当たる。
でもこんなこと曜子さんには訊けない。他の人格ならあくまで小説の中のキャラの人格だとある程度割り切った言動はできるが、曜子さんは生身の、本物の人間だ。
結局この話題は広げずに、火曜子さんこと火村美智留が主人公となる小説を読み、曜子さんと一緒に内容の確認や感想の語り合いをした。文庫本一冊とはいえそれなりに時間がかかり、誠司さんがやってくる時間になる。
看護師の杉本さんと一緒に病室に入ってきた誠司さんは、土曜日なのに本物の曜子さんしかしない編み込み付きストレートヘアーな姿の曜子さんを見て口を開けたまま固まった。差し入れに買ってきたと思われる駅前の洋菓子屋さんの紙袋がドサッという音を立てて床に落ちる。
「七海さん? どうしたんですか? ……あ」
誠司さんの後ろにいた杉本さんが誠司さんに声をかけながら曜子さんを見ると、気がついたようだ。
「曜子ちゃん、なの?」
曜子さんが頷くと「先生呼んで来るね!」と言ってそれはもう俊敏な動きで病室から出て行ってしまった。そして、誠司さんがゆっくりと歩み寄る。
「曜子……本物の曜子。戻ってきたのか?」
「うん、文也君のおかげ」
誠司さんが僕を見る。その目には涙が溜まっていて、娘への愛や娘に起きた不可解な現象が解決に一歩近づいたことへの喜びがにじんでいる。血の繋がりがあるかどうかは関係なく、誠司さんにとって曜子さんは大事な娘であることは間違いない。
感動の瞬間も束の間、曜子さんは検査のためにお医者さんや看護師さんに連れていかれてしまい、病室には僕と誠司さんが取り残される。僕らは病室の奥に置いてあるテーブルをはさんで向き合って椅子に座った。
「文也君、ありがとう。君のおかげで曜子が戻ってきた」
誠司さんは頭を下げながら言う。頭を上げると、テーブルには水滴による染みができていた。誠司さんが眼鏡に着いた水滴をハンカチで拭き終わるのを待ってから僕は自分の知りうる情報と見解を話す。
「いえ、まだ土曜日の人格が消えただけだと思います。おそらく明日になればまた変わりますし、残り五人分の人格を消すまでは本当の意味で曜子さんが戻ってきたことにはならないと思います」
「そうか……まあ、そう考えるのが普通か」
誠司さんはがっくりと肩を落とす。それほどまでに待ち望んでいた瞬間だったのだろう。
「しかし、いったいどうやったんだい? どうやって曜子を取り戻した?」
僕は曜子さんに日替わりで宿っている人格が奥空文子の作品の登場人物であること、作中の告白シーンを再現したら土門さんの人格が消えたことを説明した。それを聞いた誠司さんは全てを納得したように頷く。
「そういうことか。だからなんとなく見たり聞いたりしたことがある感じがしていたんだ。言われてみればほとんど辻褄が合う」
「どういうことですか?」
誠司さんは僕から目を背けて立ち上がり、窓から空を見る。夕焼け空から入ってくる沈み行く太陽の光が誠司さんの眼鏡や乾きかけた涙の筋に反射して光輝いた。その真剣な横顔から何を考えているのか読み取れるほど僕は誠司さんの内面を知らない。
「これから話すのは科学的にありえないこと、常識では考えられないことだ。そして曜子のとても大事な過去の話。それを聞いたからには、君には曜子を完全に取り戻すまで身を粉にして頑張ってもらわなければならない。それでもいいかい?」
「もちろん。科学や常識を飛び越えたことはすでに目の前で見ていますし、曜子さんのために頑張るのはもとよりそのつもりでした。ただ僕からも一つだけお願いしていいですか?」
「なんだい?」
「曜子さんを完全に元に戻したら、交際を認めてください」
「……曜子がそれを望んでいたら、好きにしなさい」
誠司さんは相変わらず眩しそうに夕焼け空を見ながら、しっかりと間を置いてから答えた。そしてそのまま曜子さんの持つ特別な力と過去を話してくれた。
「曜子は小さな頃から演劇をやっていた。そしてある意味とんでもない才能を持っていたんだ。演じる人物の人格をそのまま自分の体に降ろすことができて、本当にその人物かのように演技、いやこれは演技とは言えない、その人物を実在させることができたんだ。私の妻であり曜子の母、奥空文子の作品が特に好きで、よくその人格を降ろして演技の練習をしていたよ」
「それが月曜日以外の人格……」
「ああ。そして別の人格を降ろしていても、曜子自身はちゃんと意識があって演技の最中に何が起きたか覚えているし、勝手すぎる行動をしないようにコントロールもできるらしい。曜子の意志、もしくは演技が一段落することで曜子の人格が表に戻ってくるようだ」
「もしかして交通事故のショックで曜子さんの意志で戻ることができなくなったとか……告白が演技が一段落した合図になったから、戻った……?」
「聡いな、君は。私も答えは分からないけれど、曜子の意志が弱くなるとコントロールできなくなるようだ。風邪で高熱を出してうなされていたときなんかに、別の人格になって戻らなくなることがあったらしいから」
「らしい、というのは……?」
誠司さんは苦笑いをして、流し目で僕を見た。
「文子の前の夫、曜子の血の繋がった父親は曜子が七歳の時に交通事故で亡くなっている。私が文子と結婚したのはその三年後なんだ。だから結婚前の曜子のことはあまり知らない」
やはり僕の予想は当たっていた。だが今の誠司さんの涙を見ればそんなこと関係ないということは改めて思う。
「その父親は文子の高校の同級生だったらしくて、学生の頃からずっと役者の卵をやっていたんだけど、諦めて就職して文子と結婚したんだ。でも地域の劇団で趣味として演劇は続けていて、かなり脚本を読み込んで役を作る人だったらしい。それが曜子にもうつって特別な力として開花したのかもね」
誠司さんは「改めて意味分からないよね」と再び苦笑いする。それでも現実に起こってしまっているのだから受け入れて対応していくしかないことは前に会った時に言っていたし、それには僕も同意見だ。
「曜子の夢はプロの役者になることだ。でも、なかなかうまくいかない」
「そんなにすごい演技ができるのに?」
「確かに人格を降ろしたときの曜子よりもリアルな演技をできる人間はいない。でも求められているのがリアルではなく演技らしい演技のときもあるし、曜子は自分好みの作品でないと人格を降ろすことができないんだ。文子が言うには、曜子はその特別な力に無意識のうちに頼ってしまっているから素の演技力が足りていないらしい。だから学校の演劇部とか地域のアマチュア劇団止まりで、プロの劇団や俳優事務所には所属できていないんだ」
前の月曜日、曜子さんは小説家になることが夢だと言っていた。役者の世界のことは詳しくないがとても厳しい世界だというのはなんとなく知っている。たとえ昔からの夢であっても諦めて他の夢を追いかけるようになっても不思議ではない。
お父さんが目指していた役者からお母さんの仕事である小説家へ。家族思いの人が好みだと言い、僕の家族の話を目を輝かせながら聞いていた曜子さんもまた家族思いで、同じ夢を追っているのだろうか。
「……話が少しそれてしまったな。とにかく君がこの十日以上の間曜子と過ごして感じたこと、掴んだ情報はほとんどその通りだと思う。曜子に宿った人格が文子の作品のものだと気づいたということはどうすればいいかは分かっているんだろう? 私ももちろん協力する」
「ありがとうございます。じゃあ早速なんですが、日曜日の人格だけはどの作品の登場人物か分からないんです。知っていますか?」
「いや、文子の作品はほとんど知っているつもりだったけど彼女に関しては私も心当たりがないんだ。あの性格、雰囲気からして成人向け作品かもしれない。いやでもそれを文子が曜子に見せるとは思えないし……」
「曜子さんなら知ってるかな」
「そうかもね。まあ私にも別にあてはあるからちょっと訊いてみるよ。本当に成人向け作品だったら君も曜子も気まずいだろうから少し待ってくれ。どうしようもなくなったら曜子に訊くしかないがね」
「分かりました。でも、あてって?」
「私は出版社で働いていて、文子の本もそこで出していたんだ。打ち合わせに来た文子と社内で偶然出会ったことが始まりだった。私は文芸担当の部署ではないけど、文子の担当編集だった人とは同期入社でそこそこ話せるから、何か知っていないか聞いてみるよ」
確か結構大手の出版社だった気がする。文子さんは色々なジャンルの本を色々なレーベルから出していたが、大元の出版社は一つだったから印象に残っていた。
「よろしくお願いします。火曜から金曜までの攻略法はもう見えているので、あとは日曜日さえなんとかすれば曜子さんを取り戻せそうです」
「そうか、それは嬉しいね。私の方はさすがに休日の今日や明日には訊けないから月曜日以降になってしまうかな。だから明日は何も進展しないね。明日も来るのかい?」
「はい」
僕のことを信頼してくれているけれど、色々危ない日曜子さんにはできるだけ会わせたくないという葛藤が誠司さんの表情から見て取れる。
でも僕は明日もここに来る。自分から手を出すつもりはもちろんないが、偶然、うっかり、日曜子さんの方から何かしらの何かがあるかもしれないから。役得というやつだ。そして月曜日に曜子さんに叱られるのもいい。
「文也君、これが君に伝えたかった最後の話で、一番大事な話だ。曜子には私がこのことを話したことは言わないで欲しい」
「は、はい……」
誠司さんの真剣な眼差しが僕を捉える。これまでも大事な話だったと思うがそれ以上なのかと思うと自然と身が引き締まる。
「曜子は入院の原因を交通事故だと君に言った。そうだね?」
「はい」
「本当は違うんだ。曜子は文子が病気で亡くなってしばらくして、自宅のマンションのベランダから飛び降りた。部屋は四階だったが落ちたのが土の上だったから、運良く命に別状はない怪我だけで済んだ」
その言葉を聞いた瞬間、全身の血の流れが変わって、気が遠くなりそうになり、ふらつく体をなんとか踏みとどまらせた。
それはつまり、自殺しようとしたということだ。
あんなに明るくて、人懐っこくて、現状に困ってはいるものの希望を捨てずに頑張っている曜子さんがそんなことをしていたなんて。
「信じられない。どうしてそんなことを……?」
「恥ずかしい話だが私は曜子とそんなに仲が良いわけではない。私は曜子のことを本当の娘だと思って愛しているつもりだし、曜子も私のことを嫌っていたわけではないと思う。曜子は私のことを「お父さん」と呼んで慕ってくれてはいるが、私と曜子の間には見えない薄い壁が常にあった。私はどうやっても曜子のパパにはなれない。だからパパを失った曜子の心を支えていたのはママである文子で、その文子まで死んでしまったから曜子の心は壊れてしまったんだと思う」
「今の元気な曜子さんは……」
文子さんの死は乗り越えたと言っていた。でもそれは嘘だ。乗り越えたなら自殺なんてするはずがない。
「……無理をしている」
「曜子は脳や体の検査に加えて精神科の先生にも診てもらっている。どれも異常がない。精神的な負荷がかかっている兆候もないそうだ。曜子は演技が上手くないことは君に言った通りだから演技ではない。まあ曜子の状態は科学や医療でどうにかなるものではないことは分かっているんだけどね」
無理やり元気を装っているわけでもないということだ。自殺未遂により吹っ切れたということだろうか。
「本物の曜子ももちろん、他の曜日の人格も皆君のことを慕っているのは彼女たちと話していれば分かる。だから私は出会って二週間も経っていない君を信頼している。今の曜子が自殺未遂のことを乗り越えているのならそれはそれで喜ばしいことなんだけど、もしもそうでないなら……」
「僕が曜子さんの希望になります。お母さんやお父さんのことは詳しくないから同じようにはなれないけど、僕なりのやり方で曜子さんの心を支えます」
僕の宣言を聞いた誠司さんは軽くため息をつきながら眉を下げ、先ほどまでの真剣な表情から穏やかな表情に変わった。
「君は曜子のことがどれほど好きなんだい?」
「青春全部捧げられるくらいには」
「……眩しいね」
再び窓から夕焼けを眺める誠司さんの口元は少しだけ笑っているように見えた。
検査から戻ってきた曜子さんから何も異常はなかったという報告を聞き、僕は帰ることにした。大切な家族の時間を邪魔するわけにはいかない。
その日の夜、日付が変わる直前に曜子さんからスマホにメッセージが届いた。
【おやすみなさい】
なんてことない一文。だが曜子さんにとって活動できる残り僅かな時間を使って僕にメッセージを送ってくれたことがたまらなく嬉しい。久しぶりの曜子さんとのメッセージをにやにや眺めていると日付を跨ぎそうになっていることに気がつき、大急ぎで【おやすみなさい 明後日また会いましょう】と返信した。
送信後の時間はすでに日付を跨いでおり【残念遅かったね 今日、会えるのを楽しみにしてる(ハート)】という返信がすぐに来たことで、やはり消えたのは土門さんの人格だけなのだと確認できた。
おばあちゃんは今日の午前中に退院したので今日からは完全に曜子さんに会いに来ているだけとなる。十四回目の来室だが日曜日は二回目。まだまだ少しの緊張と期待が入り混じった感覚で病室の扉をノックすると「はぁーい」と語尾にハートマークでも付いていそうな声が聞こえたので扉を開けた。
日曜子さんはベッドの淵に座っていて、僕が来るのを待ち構えていたかのように着ていた部屋着の第一、第二ボタンを外した。ぎりぎり下着は見えない。
「ちょ、いきなり何やってるんですか」
眼福、役得ではあるけど焦ったふりはしないといけない。
「んー? 一週間頑張りました的なご褒美だよ」
胸元に興味がないふりをして日曜子さんの隣に腰かける。ログインボーナスをもらい終わったのであとは真面目な時間だ。今日の目的は日曜子さんの情報を集めること。誠司さんが明日、文子さんの担当だった人に聞いてくれることになっているが、もし手掛かりがなかった時のために僕もできる範囲で調べておかないといけない。決して邪な気持ちで人格を消せる可能性がまだないのに来たわけではない。
「ノートは見ましたか?」
「ええ、いつもの土曜日の子の感じじゃなかったわね。どちらかと言うと月曜日の子に似てる文章だった。土曜日の子は消えちゃった?」
「はい。消えたところに本物の曜子さんが戻ってきました」
「へえ、本物。それは良かったわね。それで文也君は私のことも消すために色々探ろうって思ってるんだ」
先週も思っていたが日曜子さんはただの性に対してオープンなセクシーキャラというだけではなく、意外と鋭くて色々考えている人だ。そして下から覗き込むように僕を見上げながら言うことで、僕をドキドキさせて逃がさないようにする抜け目のなさも兼ね備えている。
「ばれているなら誤魔化しはしません。あなたのこと、教えてくれませんか? 本当の名前とか、色々」
「だーめ。私は秘密主義だから教えてあげない。あ、君が私の彼氏になってくれるなら教えてあげてもいいよ」
「遠慮しておきます」
「んもう、つれないんだから」
結局この日は日曜子さんが秘密主義の女であることくらいしか新たな情報を得ることはできなかった。相変わらず胸を押し付けられたりはしたが、僕は決して自分から触りに行ったことはない。
「我慢強いのね。ノートには【文也君はエッチ】って書いてあるのに」
「何度も言ってますけどあなたの体は本物の曜子さんのものですから」
「そうね。この体は本物の曜子ちゃんのもの。本来、この体に宿るべきでない魂はいつか出て行かなければならない」
そんな顔できたんだ、と思わせるほど真剣で鋭い目、刺々しく強い感情を感じさせる口調。
彼女にはまだ知られざる一面があるということはほぼ間違いない。
翌日の月曜日には再び夏期講習が始まる。教室で長谷に、主人公に積極的に絡んできて何か裏がありそうなセクシーお姉さんが出てくる作品を知らないかと尋ねると「そんな作品無限にあるだろ」と返されてしまい、日曜子さんの手掛かりは誠司さん頼りとするしかなくなった。
「前もこんなことあったけど、それ調べるとなんかいいことあんの? もしかして前に言ってた曜子さんって人と関係が……なわけないか」
「あ、いや、まあそうだね」
「まじか! おい! 木島来いよ! 文也が女を手に入れようとしているぞ」
長谷が登校直後なのに早弁をしていた木島を呼ぶ。元野球部なのに結構ひょろっとしている僕や長谷と違い木島はかなりがっちりとした体格をしており、三年生引退前からレギュラーを取っているだけあると思わせる野球強者のオーラを放っている。
「その言い方は何か嫌だな。曜子さんが奥空文子の作品が好きだからちょっと興味を持っただけだよ」
「ああ、共通の趣味で距離を近づけようってことか」
「そんなところ。だからついでにお願いしたいことがあるんだけどいいかな?」
「条件による。な? 木島」
「ああ、一人だけ女の子とお近づきになるなんて、よほどの好条件がないと手伝えない」
割と余裕がある長谷と切実な表情をしている木島。長谷はオンラインゲームで女性の友人も複数いると言っていたから僕が女の子とお近づきになっても平気なのだろう。
「で? お願いって?」
「うん。二人にゲームとバッティングを教えてもらいたくて」
「は? 何それ。それも曜子さんの趣味ってわけ?」
「う、うん、まあ」
二人には怪訝な表情をされて色々問いただされたがうまいこと誤魔化し、長谷とは指導一時間につきコーラ一本で教えてもらえる約束をした。木島も了承はしてくれたが条件はまた後で言うとのことだった。
その後に木島がトイレに行ってから長谷が僕に尋ねる。
「曜子さんの写真はあるんだろ? 見せてくれよ」
僕だけのものにしたかったが色々世話になるのだから仕方がない。女の子に飢えている木島の前で言わなかったのは長谷なりの配慮かもしれないがちょうどいい。木島も曜子さんを見たら一目惚れしてしまうかもしれない。
曜子さんが先週の月曜日に僕の抹茶ラテと一緒に自撮りした写真を長谷に見せてやると、長谷は口を大きく開けて固まった。曜子さんの可愛さに見惚れてしまっているのだろう。
「文也お前。まじでやばいな」
「でしょ?」
「この子四月にめっちゃ話題になってた子じゃん」
「四月って今年の?」
「ああ」
千年に一人レベルの美少女がいるらしい、超人気作家の奥空文子の娘がいるらしい、演劇部にとんでもない演技をする子が入ったらしい。そんな新入生の噂が四月に流れていたのを灰色の生活に慣れ切っていた僕は興味がないふりをして特に関わろうとせずにやり過ごしていた。あの噂はそんな子がそれぞれいるのではなく、全て曜子さんのことだったのだ。
でもそれはおかしい。曜子さんは自分は三年生だと言っていたのだ。会ったばかりの僕にそんな嘘をつく理由が分からない。年齢の齟齬と言えば半分以上の人格がそうだったが、本当は十五歳の曜子さんが十七歳のふりをして他の人格もそれに合わせていたことになる。
他の人格はともかく何故曜子さんは十七歳のふりをしていたのだろうか。そんなことを考え続けていたらいつの間にかこの日の夏期講習が終わっていた。
「初めて会った時、私ため口で話しちゃったし文也君も敬語だったから、なんとなくそのままにしようかなって思ったの」
病室でベッドに座ってノートパソコンを開き、おそらく小説を書いていた曜子さんに尋ねると、その答えはあっさりと返ってきた。あまりにしょうもない理由に呆気にとられてしまう。
「どうしたの? あ、分かった」
曜子さんはノートパソコンを閉じてベッドの淵に移動し、足を降ろしてにやけ顔で僕をまっすぐに見つめる。ポン、と自分の隣に空いているスペースを軽く叩く。
「文也せーんぱい。隣、座ってください」
僕を誘うわざとらしく甘えた声に抗えるわけもなく吸い寄せられるように隣に座った。
「どうします? 話し方。私敬語にしましょうか? 文也先輩はため口で」
いい。甘えた声も、わざとらしい上目遣いもとてもいい。何だかむずむずする。
「い、いや、その、今まで通りでお願いします」
「そーお? 文也君がいいならそうするけど」
名残惜しいがこれ以上後輩モードの曜子さんでいられると気持ち悪い人間になってしまいそうなので仕方がない。そんな姿をさらすわけにはいかない。だって今日は文音が一緒に来ているのだから。今も僕らのやり取りを病室の出入り口から顔だけひょっこりと出してまるで曜子さんと僕を品定めするような視線で見つめている。
「あの子が文音ちゃん? こっちをじっと見てる」
曜子さんは口元に手を当てて文音に聞こえないくらい小さな声で話す。
「ええ、可愛いでしょう? きっと曜子さんに僕を盗られそうで心配になってついてきたんですよ。自分も部活の後で疲れているだろうに」
今朝学校に向かう直前に文音に「曜子さんに会ってみたい」と言われたのであらかじめ曜子さんには連絡して許可をもらっておいた。僕としてもいつか紹介したいと思っていたし紹介するなら本物の曜子さんでなければと思っていたのでいいタイミングだった。
理由を聞いても文音は教えてくれなかったが僕の予想で間違いないだろう。
曜子さんが手招きすると文音はぺこりと頭を下げてから病室に入ってくる。
「はじめまして、曜子さん。おに、兄が毎日お世話になってます。ありがとうございます」
「はじめまして、文音ちゃん。お世話だなんてそんなことないよ。文也君が来てくれるようになってから私もすごく楽しいから、こちらこそありがとう。お兄ちゃんとの時間奪っちゃってごめんね」
「それは別に……お兄ちゃんも毎日楽しそうですから、構いません」
なんと微笑ましいことだろう。僕の大好きな二人が僕のことを話して笑顔になっている。
「じゃあお兄ちゃん、曜子さんと大事な話があるから部屋の外で待ってて」
そんな幸せな空間から無情にも追い出されてしまった。
曜子さんとの出会いの場所である自販機コーナーで生クリーム入りキャラメルラテを一口飲み、そこに置かれたテレビに映る甲子園の試合を見ていると誰かに肩を叩かれた。振り返るとそこに立っていたのは看護師の杉本さん。
「文也君、どうしたの? 曜子ちゃんの部屋に行かないの?」
「それが妹を連れてきたら大事な話がしたいとかで追い出されちゃって」
「あー。文也君には妹さんがいるって曜子ちゃん言ってたね」
「そうなんです。それがもう可愛くて。昨日も勉強を教えているときに――」
「あ、いや大丈夫。君の妹さんの可愛さとか君が妹さんのことを大好きなのも曜子ちゃんから聞いているから」
「そうですか」
文音の可愛さを布教するチャンスだったのだが残念極まりない。曜子さんや木島や長谷なら喜んで聞いてくれるのに。そういえば土門さんも微妙な反応だった。
「今日は月曜日。本物の曜子ちゃんでしょ? 時間奪われちゃって残念だったりする?」
「そんなわけないですよ。曜子さんと文音が仲良くしてくれたら僕も嬉しいです。まあ僕も一緒にいられたら最高なのは間違いないですけど」
「仲良くなれるといいね、妹さんも……お友達は多い方がいいもの」
「そういえば、曜子さんの元々の友達は何度かお見舞いに来たけど来なくなっちゃったって聞きました」
「そうね。びっくりして逃げるように病室から出てくるのを見たから、衝撃的過ぎたのかもね、曜子ちゃんに起きている現象は。むしろ楽しみに毎日通っている君の方が変わってるのかも」
「まあ一目見て好きになっちゃったんだから仕方ないですよ」
「眩しいね、君は。ねえ、土曜日の曜子ちゃんをどうやって元に戻したか本当に知らないの?」
唐突に話題を切り替える杉本さん。僕に声をかけてきた理由の本命はこちらのようだ。
「ええ、知らないです。普通に会話していたら突然元に戻ったんです」
病院側には人格が奥空文子の作品のキャラであることも告白すると元に戻ったことも話していない。これ以上色々な研究対象にされたくないという誠司さんの願いによるもので僕も同意見だった。この入院自体も珍しい症例を研究したい大学病院側が誠司さんや曜子さんにお願いしているもので費用は病院持ちらしい。
「ほんとに不思議ね。曜子ちゃんが運ばれて来た時のことも含めて」
「運ばれて来た時、ですか?」
「知りたい?」
僕は頷いた。事態の解決に直接結びつくかは分からないが情報は少しでも多い方がいい。
杉本さんは僕が曜子さんの入院の原因を知っているか尋ね、僕が知っていると答えると僕の隣の椅子に腰かけ、当時のことを話してくれた。
曜子さんがマンションの四階のベランダから落ちて最初に運ばれたのは僕が住む町にある病院。そこで人格が入れ替わっていることが分かり、自殺未遂を図ってから三日後にはこの病院に転院することになったそうだ。
「最初はおとなしい子だなって思った。水曜日だったからね」
ということは自殺未遂をしたのは日曜日ということになる。
「次の日にはなんだかすごく元気になっていて、ほんとに人格変わるんだって驚いちゃった。一週間くらいして日替わりで人格が変わることが分かって、お父さんの話によると月曜日が本物の曜子ちゃんだっていうことが判明した」
それからは検査の毎日だったらしい。その中で杉本さんは疑問を持った。
「マンションの四階から落ちたのに右足を捻挫した以外怪我がなかったの。四階よ、四階。いくら土の上に落ちたって言ってもねぇ」
「普通はありえない、ですよね」
「いったいどんな受け身を取ったらそれで済むのかって大騒ぎだったみたい。それに病院に運ばれた曜子ちゃんはすごく冷静だったそうなの。ノートとペンを持ってくるように言って、お父さんや救急隊から話を聞いていた看護師から状況を聞いて、メモを取って、明らかに雰囲気が違うのに自分のことを七海曜子と名乗った」
その記憶か記録をもとに皆曜子さんの名前を名乗るようになったのか。それをやったのが日曜子さん。本当に何者なんだ、あの人は。
「私が知っていて君が知らなさそうな情報はこれくらいかな。どう? 役に立ちそう?」
「はい。でもいいんですか? 前に検査結果とかは教えられないって……」
「大丈夫、曜子ちゃんやお父さんから頼まれていたの。君に私が知っていることを教えて欲しいって。二人とも君を頼りにしてるみたいだから頑張って」
「杉本さんは、僕が何かをして曜子さんを元に戻したと思っているんですか?」
「そうね。君たちが二人きりの時に戻ったわけだからそう考えてる。目覚めのキスでもしたのかな?」
「してないですよ。したいけど。間接キスなら何度かしてるんですけどね」
「あーそういえば曜子ちゃん『間接キスはキスに入らないんですよ』って力説してたことがあったっけ。あ、いけない、そろそろ仕事戻らないと。じゃあね、頑張って」
別れ際に僕の右肩をポンと叩き、杉本さんは早足で仕事に戻っていった。
杉本さんから得た情報を頭の中で整理していると入れ替わるように文音が自販機コーナーにやってきて、先ほどまで杉本さんが座っていた椅子に勢い良く座った。どこか興奮しているように見える。
「お兄ちゃん、まじでやばい。曜子さん最高過ぎる。早く彼女にして。退院したらうちに呼んで。まじで頑張って」
いったいどんな話をしたのか。文音も完全に曜子さんの虜になっていた。
「まじで理想の美少女キャラって感じだった。可愛くて優しくてお茶目でいい匂いした」
「だよなぁ。曜子さんはほんとに可愛くて……」
僕らはしばらくの間こうして曜子さんのすばらしさを語り合うのであった。
何分過ぎたかもわからないくらい語り合ってしまい、曜子さんを待ちぼうけにしていることに気がつき、急いで病室に戻ると曜子さんはベッドの上でノートパソコンに向き合っていた。
「すみません、曜子さん。遅くなっちゃって」
「ごめんなさい。お兄ちゃんと曜子さんのいいところを語り合ってたら時間を忘れちゃって」
曜子さんはノートパソコンを閉じ、病室の入り口で申し訳なさそうに肩をすぼめる僕らに優しい笑顔で語りかける。
「大丈夫だよ。二人が仲良しってことが改めて分かった。それに私のいいところを語り合ってたなんて、ちょっと恥ずかしいけど嬉しいよ」
「やば、やっぱり天使だ。曜子さん」
文音が曜子さんに聞こえないほどの小声で呟く。
許してくれてはいるが僕は申し訳ない気持ちになっていた。それは文音が扉を開けっ放しにしたままだった病室の入り口から見た曜子さんの横顔が少し寂しそうに見えたからだ。僕が来ているのに、僕を信頼してくれているという曜子さんを寂しがらせてしまったことは大きな失敗だ。僕が曜子さんの希望になると決めたのだから、せめて僕が来ているときはずっと笑顔でいて欲しい。
「でも、ほんとにすみません。お見舞いに来ておいて一人きりにさせちゃって」
「そんなに謝らなくても大丈夫だよ。じゃあそれ一口くれたらチャラってことにしようよ」
曜子さんは僕が持っていた生クリーム入りキャラメルラテのペットボトルを指差した。まだ一口しか飲んでいないが、新しい物を買ってくる、と言おうとする前に文音が僕の手からペットボトルをかっさらい、曜子さんに渡してしまった。そのままペットボトルを持つ曜子さんの右手を自分の両手で握っている。
「ごめんなさい、曜子さん。これどうぞ。私も何かお詫びを……」
「えー? あ、そうだ。さっき文也君と私のいいところ話してたんでしょ? 文也君が何を言ってたか教えてくれる?」
「うん。えっとね、色々言ってたけど一番は、曜子さんは世界一可愛い、かな。顔も声も性格も髪も手も足も仕草も全部可愛いって言ってたよ。私もそう思う!」
「そっかー。ふふ。ありがと」
曜子さんは空いた左手で文音の頭を撫でながら、文音の頭越しに僕を見て、にんまりと笑いかける。やっぱり世界一可愛い。曜子さんの笑顔はきっと世界を平和にする。
あの笑顔を毎日見ることができるように僕は持てる力を、頭を、すべて使って曜子さんを救って見せる、と改めて誓うのであった。
その後は三人でおしゃべりしたり、トランプをしたり、ゲームをしたりして誠司さんが来るのを待った。いつもは家族の時間を邪魔しないようにしているが、今日は文子さんの担当編集さんからの話を聞かなければならない。
僕が曜子さんどころか文音にさえゲームでぼこぼこにされることが分かったところで誠司さんはやってきた。
「ごめん曜子さん。僕は誠司さんと大事な話があるからちょっと抜けますね。文音のことお願いします」
「大事な話って?」
「男同士でしかできない、女の子には聞かせられないような話です」
「うわー、エッチな話だ」
「ごめんなさい曜子さん。お兄ちゃんたまにアホになるんです。嫌わないでくださいね」
「ふふ、大丈夫。知ってたよ」
「なーんだ。さすが曜子さん」
笑顔で顔を見合わせる二人。仲良しで嬉しいけれど、悲しい。
そんな二人から離れて病室の外で待っている誠司さんのもとへ向かう。誠司さんの優しそうだけど疲れている表情から喜びは見えない。望み通りの情報は得られなかったのだろう。
「どうでした? 何か分かりましたか?」
「まだ分からないな。元担当は日曜日の子みたいなキャラは文子の書いた小説にはいなかったと言っていたよ。彼女は文子のデビュー当時からずっと編集を担当していたから文子の小説は私以上に知っているはずだし間違いないだろう」
「そうですか。でもそれだと手掛かりがないですね」
「いや、小説にはいなかっただけで可能性は他にもあるんだ。文子はゲームのシナリオとかドラマや映画の脚本もたまにやっていたからそっちの線もある。それで元担当が関わりのあった会社の担当者に聞いてくれることになった。私もある程度は知っていたけど全部は知らなかったから助かったよ」
「良かった。じゃあ待っていれば、ってところですかね」
「そうだけど時間はかかるだろうね。早く知りたいと思っているのは私と文也君くらいで、客観的に考えたら急ぎの案件ではないから気長に待つしかない」
それもそうだ。奥空文子が生み出したと思われる、主人公に積極的に絡んできて何か裏がありそうなセクシーお姉さんキャラが出ている作品を調べて教えて、なんて言われても急ぐわけがない。僕も当事者でなければ急がない。
「まあ日曜日は多少遅くなっても問題ないか。家にいるように言っておけばいい」
「家? 退院するんですか?」
「うん、ある程度曜子が元に戻ったらね。学校にも通わないといけないし。これだけ検査しても何も分からないんだ。病院もこれ以上引き留めないだろうし、土曜日と同じ理屈で考えたら火曜と水曜は簡単だろう?」
「そうですけど……」
退院は喜ばしいことだが、退院したら曜子さんと会うことができなくなってしまうかもしれない。そう考えて気落ちする僕の肩の上に誠司さんは優しく両手を置いた
「退院したら曜子と会えなくなる、なんて考えているのかい?」
「え? 分かります?」
「見え見えの顔をしていたよ。退院の予定は八月末の土曜日だ。もしも君が今週で木と金も元に戻してくれたら一週早めるけど難しいだろう? 君の腕前は曜子から聞いているから」
「面目ないです」
「近々自宅の場所を教えるから、退院までに戻せなかった分はうちに来て延長戦をしてくれると助かるんだがどうだい? 南沢高校の近くだからこの病院に来るよりも楽だと思うけど」
なんという僥倖。誠司さんの方からそんな提案をしてくれるなんて思ってもみなかった。自宅の場所を誠司さん直々に教えてくれるということは、曜子さんに会いに家に行くことが父親公認となったわけだ。
母親の文子さんは亡くなっているし、兄弟がいる話は聞かない。つまり誠司さんが仕事に行っている間は僕と曜子さんの二人きりということになる。
つい、色々な妄想が頭をよぎってしまった。
「大丈夫かい? 文也君。変な顔をしているけど」
「いえ、問題ありません。曜子さんが安心して学校生活に戻れるように、今以上に頑張る所存であります」
「家の場所を教えるのはあくまで曜子を元に戻すために、だからね?」
「心得ております」
用心深い誠司さんをかわし、そろそろお暇しようかと病室に戻ると、なんたることか文音はベッドの上で曜子さんに後ろから抱きかかえるように密着してもらいながら島だか村だかでスローライフを送るゲームをしていた。仲良く相談しながらプレイする姿はまるで本当の姉妹のようだ。
「ね―曜子さん。私このまま曜子さんの妹になっていい? ほんとはお兄ちゃんよりお姉ちゃんが欲しかったの」
「もちろん。いいよ」
「やった。曜子お姉ちゃん大好き。あ、これ捨てちゃっていいかな?」
「ふふ。私も大好きだよ、文音ちゃん。それはいらないから捨てちゃおっか」
ごめんな文音、お姉ちゃんじゃなくて。だから捨てないでくれ。
「君の妹さんか。曜子と仲良くしてくれてありがとう……泣くほど嬉しいのかい?」
「はい、とっても……」
これまで色々な曜子さんの表情を見てきたけれど、お姉さん役ではなく本当のお姉さんの顔をする曜子さんは初めて見た。それがたまらなく嬉しいのだ。決して悲しくなんかない。
まだ帰りたくないと、中学生になってからは初めてと言ってもいいわがままを言う文音を無理やり引きはがし、二人で縦に並んで自転車を漕いだ。文音は家に着くまで僕に恨み言を言い続けていたが、曜子さんのことを大好きになったことの裏返しだと思えば可愛いものだった。
その日は翌日の予定を曜子さんと確認し合ってから眠りについた。
翌日の火曜日、夏期講習を終えると僕は一度自宅に帰ってから病院へ向かった。着替えと荷物の整理のためだ。
火曜子さんこと火村美智留が主人公の小説【風になってどこまでも】において火村さんは女子高生暴走族チームのリーダーだった。ある日の暴走行為中に警察の取り締まりから逃げていた時、副リーダーであった親友がスリップ事故を起こし亡くなってしまう。火村さんはチームを解散し、真っ当なバイク乗りになることを誓う。
ある時バイクの運転中に歩道に綺麗な顔をした男の子を見つけ、その子に気をとられて転倒事故を起こし怪我をして彼女はしばらく入院することになる。
男の子は病気のため同じ病院に入院しており、体の調子が良い時は火村さんの病室に遊びに来るようになり二人の交流が始まる。親友のことや男の子の病気のことなど紆余曲折あって、二人は男の子に外出許可が出た日に遊びに出かけることになり、そこから告白シーンへと繋がる。元暴走族の少女と病弱な少年の、アンバランスでかみ合わないけれど命の重みと優しさに溢れた物語だった。
だから僕は今、曜子さんが前日に準備し、ノートに【これを着るように】と厳命していた白いワンピースと麦わら帽子という夏にぴったりな格好をした火村さんと一緒に病院近くのバス停からバスに乗って海がある隣町を目指している。
「くそ、はめやがったな。覚えとけよ」
「まあまあ、たまにはいいじゃないですか。お出かけも」
意志が強そうな火村さんを普通に海に誘ってもついてきてくれないと考えた僕らは余計な服と火村さんが好きそうな漫画を一時的に誠司さんが持ち帰っておくという作戦を取っていた。目が覚めると下着とワンピースしか服がなく、暇つぶしをするものも何もない状況にして火村さんを海に連れ出すことに成功していた。ちなみに作品内のそのシーンでの火村さんの服装は全然違う。そもそも男の子役である僕も病弱でもないしそこは関係ないだろうという判断だ。土門さんの時も僕と主人公は似ても似つかない容姿と性格だったので大事なのはシチュエーションの方だ。
バスの車内には僕らと同じく海を目指すお客さんが数組乗っていたが老若男女問わず皆、火村さんのことを見ていた。白いワンピースを着た千年に一度クラスの美少女が麦わら帽子を膝の上に置いて佇んでいる姿など見ないわけがない。恨み言を呟きながら隣に座る僕の太ももをつねっているなんて思うまい。
海岸の真横のバス停を通過し、街に入ったところでバスから降りた。
「おい、海に行くんじゃなかったのか?」
「先に行きたいところがあるんです」
バスを降りた瞬間、街行く人々から好奇の視線を向けられても無視している火村さんの声を無視して僕は彼女の手を握った。
「そ、そうか。お前、なんか今日はいつもと違うな」
そうだ。その反応でいい。足の怪我のせいでしばらくバイクに乗ってはいけないと言われて気落ちしていた火村さんを、いつも気弱で病弱な男の子がこの日だけはリードする。その姿に火村さんはときめく。小説の中と同じような感情を持ってくれさえすればうまくいくはずだ。
僕らがやってきたのはゲームセンター。事前の調べによると本物に近い形のバイクに乗って遊ぶゲームがある。
「あれ、やりましょうよ」
「いいセンスしてるじゃねえか」
バイクの筐体を見る火村さんの目は輝いていて、同時に、熱く燃え滾る炎を内側に秘めているようだった。
このゲームはバイクに二人で乗って前の人が運転、後ろの人が銃を持って迫りくる敵を撃っていくというゲームだ。運転と一口に言っても障害物や穴があったら避けないといけないため前に座る人にも技術が必要だ。当然火村さんが前、僕が後ろに座る。
「とばすぞ。しっかりつかまってろよ。ほら、腹に手回せ」
言われた通りに銃を持っていない左手をお腹に回してしっかりと体を密着させる。
小説の中と同じセリフ。ゲームなので当然設定された速度までしか出ないが、それでも火村さんの声は、どこまでも速く走ることができるような、風になってどこまでも行けるような、そんな感覚を思わせてくれる。
少し横にずれて背中側から火村さんの横顔を覗き見ると、曜子さんの顔なのに何故だか曜子さんには見えなかった。そこには確かに火村美智留がいる。
強くて、格好良くて、頼りがいがあって、でもゾンビの敵が出てくると悲鳴をあげながら僕に優先的に銃で撃ち殺すように指示をしてくる意外に可愛いところがある。病室で本ばかり読んでいて、彼女とは生きる世界が違うと思っていた小説の中の男の子が、どうして彼女のことを好きになったのか、それがはっきりと分かった。僕の足りない読解力を曜子さんがその体に降ろした火村さんによって補完してくれた。
ゲームは最後の盤面、銃のパートは終わってバイクで一直線で駆け抜けるのみとなる。
「行くぞ……薫」
火村さんが呟いたのは事故で亡くなった親友の名前だ。
暴走行為は決して許されるものではない。でも、それが薫との絆だったことは間違いない。ゲームの中で思いっきりスピードを出すことで火村さんは薫の死を乗り越える。
「ありがとな」
バイクゲームを終えて満足した僕らはゲームセンターを出て海の方へと歩き、海水浴場の入り口が見えてきたところで火村さんが言った。
「楽しかったですよ僕も。やっぱり美智留さんはバイクが好きなんですね」
「ああ」
僕らは海の家でビーチパラソルを借り、僕が持ってきたレジャーシートを広げて砂浜に座り、海を見つめた。まだまだ日の高い時間、地元民しか来ないこの海水浴場にも人は多く、小説内の、夕暮れの人の少ない砂浜というシチュエーションにはまだ遠い。
ジュースを飲んで、かき氷を食べて、足だけ海に浸かってみたりして、トイレに行った火村さんが大学生くらいの男性二人にナンパされたりして、顔や服装に似ても似つかない豪快な言葉で追い返したりして時間が過ぎていった。
色々やった後、僕らは最初と同じようにパラソルの下に座って海を見た。日は傾き始め、海水浴客の姿も減ってきている。
火村さんは親友の薫の話を色々としてくれた。僕はその話を聞くたびに胸を痛めていった。薫が死んでしまったからではない、火村さんの想いに共感したからでもない。こんなに大切な話をしてくれている火村さんに、これから嘘の告白をしなければならないからだ。
頃合いだ。太陽も人も小説内の描写に近い。僕はこれからひどい男にならなければならない。
僕は右隣に座る火村さんの左手の上に自分の右手を重ねた。火村さんの体が一瞬だけびくりと跳ねる。
「なんだよ」
日焼け止めはしっかりと塗るようにと曜子さんが指示をしていたはずだが、僕の顔をしおらしく見つめる火村さんの顔は赤みがかって見える。日も落ちかかっているので本当になんとなくだが。
「今日、楽しかったよ。僕が知らない美智留さんをたくさん見ることができた」
「お前が知らないあたしって何だよ?」
「いつも強がっているのに、繊細で友達思いなところ」
「お前にはそう見えるのか?」
「うん。それに美智留さんは僕に知らない世界を教えてくれた」
バイクやのことや不良漫画の世界、格闘技のこと。どれも僕が詳しくなかったことだ。だから決して嘘じゃない。
「最初は怖いと思っていたけど、いつの間にか美智留さんのことを好きになっていた」
僕と火村さんの間に小説内の男の子と同じような積み重ねはない。でも僕にはこの二週間の日替わり曜子さんたちとの積み重ねがある。他の曜日の記憶はおぼろげにあると言っていたから、その思いも蓄積されているはずだ。
「そうか……そんなこと言われたの、初めてだ」
火村さんが気を失って砂浜の上に敷いたレジャーシートに倒れこむ寸前に腕でその体を支えることに成功した。僕の腕の中で優しい笑みを浮かべているのは曜子さんだ。顔は同じでも表情で分かる。
「お疲れ様」
「……はい」
「どうかした? 気分悪そうな顔してる」
「あまりいい気分ではないです」
「じゃあいい気分にしてあげよう」
曜子さんは僕の腕の中から抜け出して海に向かって走り出した。僕がいるパラソルと波打ち際のちょうど真ん中くらいで立ち止まり、こちらを振り返る。麦わら帽子が落ちないように右手で抑える仕草も、ふわりと広がるワンピースのスカート部分に照れる表情も、得意げに僕をまっすぐに見つめる瞳も、全部曜子さんのものだ。こんな曜子さんをいつでも見られるようにするために僕は頑張っているんだ。
「元気出た?」
「うん。とても。写真撮っていいですか?」
そうだ。土門さんや火村さんはあくまで小説の中のキャラに過ぎない。実在していないのだ。だから気に病む必要なんかない。曜子さんの笑顔のために、僕は明日もひどい男になる。その覚悟はできている。太陽は沈んでしまっているが、胸の痛みは曜子さんの太陽のような笑顔が癒してくれる。
事前に打ち合わせしておいた仕事帰りの誠司さんが近くの駐車場で待ってくれており、誠司さんの車で三人で病院に帰った。病室から持ち出していた服や本などを再び運び入れ、僕と誠司さんは病院を出る。誠司さんの車は僕の自転車を乗せられるほどの大きさがあり、自転車ごと僕を自宅まで送ってくれることになった。
「ここがうちのマンション。四〇六号室」
南沢高校のそばを通った時、誠司さんが言った。助手席に座った僕は振り返り、通り過ぎてしまったマンションを見る。超人気作家である奥空文子の稼ぎを考えたら意外に思うほどの普通のマンションだ。多分オートロックもついていない。
「あの奥空文子が住んでいたにしてはたいしたことないと思ったかい?」
「え? いや、あの、まあ少しは」
僕の素直な言葉に、誠司さんは小さく笑顔を見せる。
「文子はお金を全然使わなかった。質素倹約がモットーで、私と結婚するまではもっと小さなアパートに住んでいたんだ。さすがに曜子も大きくなってきて手狭になったから今のマンションに引っ越したけど、本とノートパソコンさえあれば仕事ができるって言っていつも小さな部屋に籠って執筆をしていた。曜子もよくそこに入り浸って、本を読んだり勉強したり、演技の練習をしていたよ。たまに息抜きと言ってゲームをしていたこともあったな。今思えば曜子の世話をほとんど文子に任せて、他の家事を私がほとんどやっていたのがいけなかったのかもしれないな」
懐かしみながら、そして少しの後悔を混ぜながら誠司さんは呟いた。
「もっと曜子と関わっていれば良かった、と今になって思うよ。君には月曜日の、今は火曜と土曜もか、その曜子が本物の曜子だと言ったけど、あれは私に対する曜子じゃなくて文子や友人に対する曜子だ。今も二人きりになるとどこかぎこちなさがある。自殺未遂をしてから何か吹っ切れたのか、昔よりはましになったけどね」
誠司さんの一人語りは僕の家に着くまで続いた。文子さんや曜子さんへの愛と、色々な後悔を感じながら僕はただ黙って頷きながら聞いていた。
翌日もいつも通り午前中は夏期講習、午後は病院だ。今日は水曜子こと水無月さんとお別れする。雨が降っているのはちょうどいい。
水無月静子は無口でクールな性格で、嫌われているわけではないが一人でいることが多く、趣味もなくただ漠然と勉強を続けていた。晴れの日も雨の日も放課後は学校の図書室で勉強していた。ある日水無月さんは数学で分からない問題にぶつかる。教科書や参考書を見ても理解できず、教科担当の先生には「そんなことも分からないのか」と罵られるのが怖くて質問に行けず途方に暮れていた時に、偶然図書室にいた一つ上の先輩である主人公が声をかけて分からない問題を解説してもらうところから二人の物語が始まる。
この作品【雨、図書室にて】は図書室で勉強している二人の会話のシーンが全体の八割を占め、仲良くなってもデートに行くこともない。唯一学校の外に出たシーンがお盆で学校が閉まってしまうからと水無月さんの家で勉強することになったシーンだ。そこで主人公は面白い関数の式を教えてあげると言いながら告白する。病室を自宅と言っていいかは微妙だが、土門さんの時は大丈夫だったので今回も多分問題ない。
大きな事件も病気や怪我もない穏やかな物語だった。今もこうして落ち着いて、清らかに、姿勢良く、真剣に勉強をしている水無月さんにはぴったりだ。
ベッドに座り備え付けのテーブルの上に広げたノートに向かってペンを走らせる水無月さんをそばでしばらく見守った。水無月さんは僕なんか目に入っていないくらいの集中力で難しそうな応用問題に取り組み、それが終わってひと息つくと僕を横目で見る。
「そんなにじっと見られると集中できないのだけれど」
「いや、めちゃくちゃ集中してましたよ。何の音も聞こえてないのかと思うくらい」
「雨の音は聞こえていた。心地いい音」
「あ―確かに勉強の時って無音よりは多少の音がしていた方が集中できますね」
「そうね。あとはピアノの音を聞きながら勉強するのも好き」
「分かります。僕も高校受験の時の勉強はピアノの音を聞きながらしていましたよ。でも音楽と言っても歌声が入っちゃうと駄目だったな」
「私も試したことがあるけど、声が入るとつい歌詞の意味とかを理解しようと思考が持っていかれちゃって集中できなかった……そうだ、声と言えば」
小説の中と同じような台詞回しができていたのに突然水無月さんはアドリブのように話題を変えた。あくまで人格が同じというだけだから言動全てが同じになるわけではないので仕方のないことだ。
「昔、頭の中で女の子の声がすることがあったの。今みたいに体が自分のものでなくなっていることがたまにあった時、必ずその女の子の声がした」
「どんな女の子だったんですか?」
「人懐っこくて可愛らしい声。その時の状況を説明してくれたり、励ましてくれたりして、自分でない体でも不安になることなく過ごすことができた。でも、ここのところ聞こえなくなってしまったわね」
曜子さんだ。誠司さんは曜子さんが演技のために別の人格を降ろしている時の意識や記憶があると言っていたから、こうやってそれぞれの人格とコミュニケーションをとっていたんだ。今は物理的か精神的かは分からないがショックでその機能が作用していない。曜子さんはあんなに元気そうなのに。
「ま、この体になったことは何度かあったし、諦めてそれなりに過ごしているけどね」
そう言って水無月さんは再びペンを持ち、ノートに向かい始める。その時外の雨の音が急に強まり、ゴーッという大きな音が病室の中にまで響き始めた。まさに轟音といった様相で不安や恐怖を掻き立てる。
「雨の匂いや音は好きだけど、これはちょっとやり過ぎね」
「カーテン閉めますよ。少しはましになるかな」
椅子から立ち上がって病室の大きなガラス窓についているカーテンを閉めた。完全にとは言えないが音の少ない穏やかな空間が戻ってくる。
小説の中の主人公もこうやってカーテンを閉めたあとに水無月さんに告白していた。僕がこの小説を読んだ時、唯一違和感を覚えたシーンだ。主人公の水無月さんへの好意は描写されていたものの、水無月さんの家に行く前も行ってからも告白を匂わせる描写はなく、唐突に告白した。その理由がよく分からなかった。
だがこうやって実際に演じてみると分かることもある。カーテンを閉めて振り返った僕に向かって微笑みかける水無月さんの、曜子さんの形をした顔がいつも以上に可愛かったからだ。ただそれだけのこと。超人気作家奥空文子の作品を曜子さんの演技はやはり見事に補完している。
「水無月さん、ちょうど今関数の勉強をしていましたよね。一つ面白い方程式を教えてあげます。この式でグラフをかいてみてください」
僕は水無月さんの隣に駆け寄り、開いていたノートの端にx^2 +(y-∛x^2 )^2=1という方程式を書き込んだ。水無月さんは一瞬だけ顔をしかめつつも、もともと備わっていた好奇心によりすぐに真剣な表情になる。
「いいけどこれは何? ルートの左上についている数字は」
「ああ、それは三乗根と言って、平方根って根号の中が何かの二乗になると根号の外に出ますよね? 三乗根はそれの三乗バージョンです」
「へえ、そんなものがあるのね。でもそれが分かっても上手いかき方が思いつかないわね」
小説の中ではあっという間にかいていたのに現実はそうはいかないらしい。僕も詳しくは調べていなかったので仕組みはよく知らない。
「えっと、地道に計算して点をとっていきましょうか」
xがゼロの時のyの値から始まりxに色々な数を代入することでyを求め、僕らはノートに書いた座標平面の上に少しずつこの方程式が表す図形を描いていく。式の中に三乗根なんてものが入っているからすっきりとした数字になることが少なく、目分量になってしまいずれも生じてしまったが二十個程の点を書き込んだところで水無月さんはその図形の完成形を察したようだ。
「これは、何?」
「僕から静子さんに送りたかった気持ちだよ」
僕が教えた方程式はハートの方程式と呼ばれ、その方程式が表す図形はその名の通りハートの形になる。小説の中の主人公は好きという言葉を用いずに愛の告白をするのだ。
「そう……数学って奥が深いのね」
水無月さんは目を閉じて、ベッドの背もたれに寄りかかった。
なんとも薄っぺらな別れだ。本当はもっと深く、鮮やかに二人の関係は書かれているのに、僕がやっていることは小説のクライマックスだけを掻い摘んで再現しているだけ。分かっていても、三度目であっても、心の中に薄暗くて重たい感情が残り続ける。
「また浮かない顔しているね」
「曜子さんが褒めてくれたら復活します」
「ふふ、お疲れ様。よく頑張ったね、ありがとう」
曜子さんはそう言いながら僕の頭をなでてくれた。年下の女の子に頭をなでなでされて癒されている変な男の構図なのだが、外聞を気にする余裕は僕にはなかった。これで三人、まだ半分だ。あと三回は同じ思いをしなければならない。
翌日のホームランと翌々日のゲームでの勝利は達成することができず成果なしに終わってしまった。誠司さんからも日曜子さんについての新たな情報はまだないが、曜子さんの退院が来週の土曜日であることが正式に決定したとの報告を受けた。
夏期講習はこの金曜日で終わり、来週一週間は本当の意味で束の間の夏休みとなる。
退院を来週に控えた土曜日の朝、僕はゲームの特訓のために長谷の家にやってきていた。コーラは五百ミリリットルのものを半ダース買ってきた。
長谷の部屋に入るのは中学以来だったがその時と比べてパソコン周りの機材が新しくなり、機材自体も増えている。コーラを長谷の部屋にある小さな冷蔵庫に詰めながら何の気なしに将来のことを訊いてみた。
「長谷は高校卒業したらどうするの? こんだけ機材揃えてるってことはプロゲーマーとか目指してるの?」
長谷はモニターの前に置かれたゲーミングチェアに腰かけ、パソコンやモニターの電源をつける。薄暗い部屋の中に命がともるように光が生まれた。
「そうなればいいかなって思っているけど大学には行くよ。プロになれるかなんて分からないし、なれたとしても選手寿命が長くない世界だからな。仮に高校生のうちにプロ契約できても進学する。勉強してそれなりの大学に行くことがゲームを続ける条件だからな」
eスポーツ部は南沢高校のごく一部の先生からは「ゲームなんて」と蔑む目で見られているが、長谷は成績も割と上の方だしもちろんゲームでも結果を出している。夢も現実もしっかりと見えている長谷は僕にとって少し眩しい。僕は日々の現実を生きることで精一杯で、曜子さんを元に戻して交際を申し込むという目標がありつつも、将来の夢がない。
「とりあえず動画見せてみろよ。曜子さんのプレイの癖とか見つけた方が簡単だから」
月曜日に文音と一緒にゲームをした時と昨日金井さんと対戦した時の映像は残していた。今自分で見返しても曜子さんと金井さんの実力や動きは同じと言っても過言ではない。それを長谷に見せること約十分。長谷は呆れたように溜息をついた。
「曜子さんって正直全然上手くないぞ。操作方法を覚えたくらいの初心者」
「え? だって僕は全く勝てなくて」
「それはお前がもっと下手くそだってことだ」
「そんな……小学生の時は一番強かったのに」
「井の中の蛙め。だいたいお前大技しか振ってないじゃん。縛りプレイかよ。操作方法知ってるやつにはそうそう当たらねえよ」
「しょうがないだろ、小学生の頃はそういう大技を当てた奴が格好いいってされていて、小技や飛び道具でダメージ稼ぐやつはせこい奴って扱いだったんだから」
「あー、ローカルルール的な。くだらねえけど小学生ならそんなもんか。まああのくらいだったら俺が三時間も鍛えればすぐに勝てるようになるよ。午後は曜子さんのところに行くんだよな? 今日中に決めちまえよ」
「いや、それが今日は駄目なんだ。金曜日に勝たないと意味がない」
「は? 何で?」
「あ、いや、なんでもないよ。色々あってゲームできる日が限られてるから」
余計なことは言うものじゃない。もしも曜子さんが退院するまでに木曜と金曜を元に戻せなければその二日は学校を休むことになる。変な噂が立たないようにたとえ信頼できる友人である長谷にも曜子さんの秘密は話さない方がいい。文音にだって言っていないから、火曜から金曜まで毎日曜子さんに会いに行きたいと言うのを我慢させるのが大変だった。
長谷の指導は的確だった。基本的な操作方法から簡単なコンボ技を身につけさせてくれて、大技を振りたがる僕に【振っちゃいけないところで大技を振ったら、曜子さんの好きなところを一個ずつ話す】という罰ゲームを課し、三時間ほどの指導の間で十五回ほどに抑えてくれた。
一時間で一本の約束だったコーラだが買ってきた半ダースを全部あげて長谷の家を出て自宅に戻る。今日は両親がいなかったが文音が昼食にホットケーキを焼いてくれたのでそれを食べてから文音とともに病院に向かった。
駐輪場に自転車を停めて家を出るときぶりに文音の顔を見ると、物憂げで何か言いたそうな顔表情をしている。病室に向かいながら理由を聞いてみた。
「どうした?」
「曜子さんってさ、完璧な美少女だと思うの」
「そうだね」
「でもね、何か引っ掛かるんだ。理想的な女の子過ぎるというか、欠点が無さ過ぎて逆に怖い。何しても怒らなくて、おっぱい揉んでもニコニコしてた」
「お前、何てことを……!」
「偶然だよ偶然。普通はいくら女の子同士でもいきなりそんなことされたら嫌な顔の一つはするんだよ」
「それは、ただ曜子さんが大人なだけじゃ……」
「そうかもだけど、でも、うまく言葉に言い表せないけどなんとなく変な感じがしたんだ」
僕らは曜子さんの病室の手前で立ち止まる。
「曜子さんて何かあるの? お兄ちゃんはその何かをどうにかするために毎日ここに来てるんじゃないの? 曜子さん言ってたよ。『文也君が毎日来てくれるようになってからいいことがあった』って。すごく嬉しそうに」
曜子さんは自称十七歳の本来は十五歳の女の子。僕や誠司さんでは分からないことはたくさんある。同性で歳の近い文音だからこそ感じ取れること、曜子さんが見せる一面があったのだ。それを知った文音は僕や曜子さんのことを案じてくれている。
一瞬文音に全てを話してしまおうかとも思ったが思いとどまった。自殺未遂のことは話したくなかったし、それを隠して説明できるほどの話の技術も準備の時間もない。
「心配してくれてありがとな。でも大丈夫。文音は何も心配せずに曜子さんと楽しく過ごしてくれればいい。そのために連れてきたんだ」
話し方が下手くそだな、と我ながら思う。こんな言い方をしたら、何かあるのはバレバレではないか。でも、そう言って文音の頭をなでてやると文音は素直に頷いた。病室に入ると、月曜日と同じように無邪気で楽しく、曜子さんの妹のように振舞ってくれた。子供だと思っていた文音も、いつの間にか大人になりつつある。
この日は三人でバッティングセンターに行くことになった。
「ふっふっふ。期待しててね曜子ちゃん。お兄ちゃんより上手いんだから」
文音は得意気にそう言って百二十キロのケージに入る。色々不思議に思ったり心配していたりするものの、結局曜子さんのことが大好きだからいいところを見せたいようだ。しかも病院からここまでくる間にさん付けからちゃん付けに呼び方も変わっている。その距離感の近さに、僕もやっぱり呼び捨てため口にして、先輩と呼んでもらうようにすれば良かったと少しだけ後悔した。
僕と曜子さんはケージの真後ろのベンチに並んで座り、百二十キロのボールをぼこすか打ち返す文音を見守る。
「文也君、今楽しい?」
唐突に曜子さんが訊いてきた。同じ高さのベンチに座った状態で隣にいる僕を見ると僕の方が身長というか座高が高いので必然的に曜子さんは上目遣いになる。いつも通りのキラキラした瞳に吸い込まれそうになりながら、最大限平静を保って答えた。
「楽しいですよ。こんな風に女の子と一緒に遊びに出かけるなんて少し前までは考えられなかったですし、何より曜子さんが隣にいるので」
「ふふ、ありがと。でもそういうのじゃなくて、本物の七海曜子を取り戻すために頑張ってる今のこと。ママの書いた本を読みこんで、告白シーンを再現して、そのためにバッティングやゲームの練習をしている今のことだよ。どう? つらいこととかない?」
やっぱり曜子さんは理想の人だ。僕が嘘の告白を繰り返していることで罪悪感を覚えていることに気がついていて、心配してくれているのだ。
「大丈夫ですよ。大船に乗ったつもりで待っていてください。必ず僕が曜子さんを助けて見せます」
少し格好つけすぎた気もするが曜子さんは優しく微笑んでくれた。そして体と体の距離を詰める。僕を見つめる瞳に熱がこもってきている気がする。じっと見つめてくる曜子さんから目が離せない。
「……文也君は私のこと、好き?」
「はい。初めて会った時から好きですよ」
「ありがと。私は……どうすればいいのかな」
まるで自分の心に意見を訊くように、曜子さんはうつむいた。
「……今日は駄目みたい」
「え?」
「ううん、何でもない」
「何でもないって――」
その時、バッティングセンターの店内に軽快なファンファーレのような音楽がけたたましく鳴り響いた。その後、録音された音声が流れる。
『ホームラン! おめでとうございます! 係員より記念品の贈呈がありますのでゲーム終了後に受付までお越しください』
「わ! すごい! 文音ちゃん、ホームランだよ!」
曜子さんを見つめていた視線を急いで文音の方に向けるが当然その瞬間は見えることはない。だが、文音の飛び跳ねて喜ぶ様子と、他のケージにいる人やケージの外で待機している人たちが驚いた目で文音を見ている様子から、僕の妹である中学二年生の女の子が百二十キロのボールをホームランにしたことは間違いない。
ケージから出てきた文音は曜子さんとハイタッチした後になんと抱き着いた。曜子さんの胸に顔をうずめながら僕に向ける視線は「羨ましいでしょ?」とでも言いたげだ。
羨ましい。曜子さんに抱き着いていることもだが、こうも簡単にホームランを打ってしまったことが羨ましくてたまらない。僕はまだまだ打てる気がしない。
その後、僕は百五十キロのボールを相手に、優しい目をしながら応援してくれる曜子さんと「打てないならもっと遅い球にすればいいじゃん」とごもっともな意見を言ってくる文音に見守られながら、空振りと凡打の山という無様な姿を晒すのであった。
曜子さんには「これからだよ。また一緒に来よう」と励まされ、文音からはホームランの記念品である十一回ゲームができるカードをもらい、明日こそはもう少し前進することを誓った。
その明日である日曜日の午前中は、木島にバッティングを指南してもらう約束になっていた。
「バッティング教えるのはいいんだけどさ、何でわざわざ隣町のバッセンなんだ、よっ!」
木島は百五十キロのボールを軽々打ち返しながら言った。あわやホームランの的に当たりそうになる。体が縦に大きく厚みもある木島はすでに強打者の風格が漂っている。
僕らは昨日曜子さんと文音と一緒に訪れたバッティングセンターに来ていた。木島と練習するなら僕らが住む町にあるバッティングセンターでもいいのだが、ここでないといけない明確な理由がある。
「近所のだと百四十キロまでしかないでしょ? 僕は百五十キロを打たないといけないんだ」
「ふーん」
木島はその後も快音を放ち続け、満足した顔でゆったりとケージから出てきた。
「なんで?」
「ロマン、かな」
「ロマンねえ……まあいいや。文也くらいの実力があればコツさえ分かったら百五十キロくらいすぐに打てるようになるよ。その……条件を飲んでくれたらいくらでもコツを教えてやる」
「ありがとう。それで、条件って何?」
僕が尋ねると木島は大きな体を縮こまらせながらうつむき、もじもじとし出した。曜子さんが同じ仕草をしたらたいそう可愛いんだろうけれど、残念ながら木島はクラスの女子から「優しい熊さんみたいで可愛い」と言われるタイプなので可愛さのタイプが違い僕の好みではない。
「女の子を紹介してくれ」
だと思った。曜子さんを救ったら曜子さんの友達を紹介させてもらうしかない。熊系男子が好きな人が一人くらいはいるだろう。
その後の木島の指導はシンプルかつ的確だった。
「バッセンはどんなに速い球でも同じタイミングでボールが来るから同じタイミングでバットを振ればいいんだよ。俺はさっきそうやって打ってた」
「え? それだけ?」
「そうだよ。いい当たりなら十分ホームランまで持っていけるパワーはあるから力は入れ過ぎないように。ホームランは試行回数と運だ」
確かに僕は百五十キロと聞いて怖気づいてタイミングがバラバラになっていた気がする。木島の言う通りいつも同じタイミングでバットを振ってみるとその効果は覿面でほとんど空振りをしなくなり、いい当たりも増えてきた。
「すげえ。僕ってこんなに打てたんだ」
僕は楽しさと興奮に包まれながらバットを振るタイミングを体に刻み込みこんだ。
午前中いっぱい打ち続け、木島とはともに近くのスーパー銭湯で汗を流してから別れ、病院に向かった。
「今日の文也君はいい匂いがするのね」
病室に入るなり強引にベッドの淵に座らされ、密着するように右隣に座った日曜子さんに匂いを嗅がれながら言われた。
「午前中に運動したからお風呂に入ってきたんです。ていうか今日のってことは、いつもは臭かったんですか?」
「んー、ちょっとだけ汗の匂いがしたかな。でも嫌な匂いじゃなくて男の子の匂いって感じよ。大丈夫、ノートにも【文也君は臭い】とは書かれていない」
「そうですか、それは良かった」
暑い中自転車で来ているから多少の汗は仕方がないと思っていたが、臭いとは思われていない程度のようだ。
「ところで何でこんなにくっついてるんですか? 誘惑したって無駄ですよ?」
「だって来週の土曜日には退院しちゃうから。文也君に会えなくなっちゃうと思うと寂しくて」
「僕のこと好きなんですか?」
「そうだって言ったらこっちを向いて抱きしめてくれる?」
「あなたのことを色々教えてくれるなら考えます」
「何が知りたい?」
「あなたの本当の名前、は教えてくれないでしょうからどうして七海曜子を名乗るようにしたのか教えてください。入院の原因になった事故は日曜日で、その時にはもうあなたになっていたことは聞きました」
日曜子さんは僕の肩に頭を預けて寄り掛かる。髪からシャンプーとも香水とも言い切れないいい匂いがして、僕を惑わす。色々はだけているところは見ないように必死で視線を正面に向けて隣の日曜子さんを見ないようにした。
「この体になったことはこれまでも何回かあった。その時はいつも頭の中に女の子がいて色々と声をかけてくれたの。いつもマンションの一室で目の前にはこの体の持ち主、曜子ちゃんのお母さんがいた。でも今回は声が聞こえないし、いつもの部屋じゃなかったからただ事ではない気がして色々取り繕ったの。曜子と名乗ったのは元に戻った時、曜子ちゃんが私の名前で呼ばれないようにするため。結果的には正解だったわね、皆好き勝手に名乗っていたら大混乱だったでしょう。君とお父さんは別みたいだけど」
「ノートもあなたが?」
「ええ。不測の事態だから何があってもいいように、ね。普段メモなんてあまりしないけど」
「普段って何をしてるんですか? 年齢とか仕事とか」
「あら、私はぴちぴちの十七歳の女子高生よ」
「内緒ってことですか」
「ふふ。どうだろうね」
「本物の十七歳はぴちぴちとか言いません。あ、ちょっと何してるんですか」
日曜子さんは突然僕の上半身をまさぐり出した。左手で首筋、右手で胸元をねっとりとした手つきで撫でる。いつの間にか左足を僕の右足に絡めているので逃げられない。
「文也君の心臓はこの辺かな? わっすごいドキドキしてる。私のこと好きなの?」
「女性にこんなことされてドキドキしない男はいません」
このまま日曜子さんに溺れたくなる衝動と、僕が好きなのはあくまで本物の曜子さんだから手を出してはいけないという理性がぶつかり合い、なんとか理性が勝った。
あくまで冷静に、日曜子さんの足や手を引き剝がして立ち上がり、距離をとった。
「んもう、つれないわね。理性が強いこと」
「何てことするんですか。相手が僕じゃなかったらどうなっていたか知りませんよ」
「文也君以外にこんなことしないよ」
「どうして?」
「君を狙ってるから、なんてね」
日曜子さんは右手の人差し指をピンと伸ばし、僕の心臓に向けて妖しく微笑んだ。
誠司さんが情報を掴んだと嬉しそうに報告してくれたのは、この日の帰り際だった。
「今日は長谷の家に泊まるから帰らないよ。うん、文音にもよろしく、それじゃ」
再び自転車ごと誠司さんの車に乗せてもらいながら、母さんに今日は帰らないことを電話で伝えた。長谷にも口裏合わせをお願いしていて、曜子さんのために曜子さんの家に曜子さんのお父さんと二人きりで泊まると伝えたら大笑いされたが、了承してもらえた。
泊まって何をするのかというところまで話したらもっと大笑いするだろう。僕はこれから曜子さんの家に行って、日曜子さんが出てくるゲームをプレイしなければならない。誠司さんの同期で文子さんの元編集の人が色々な人脈を使って探し出したそのゲームは僕の家にあるゲーム機ではプレイすることができず、曜子さんの家に招かれることになった。シナリオが売りのゲームでネットにネタバレを書くのも禁止というルールが徹底されており、自分で見るしかない。さすがにシナリオ教えて、とはゲーム会社の人には言えなかったようだ。
「さ、入って」
「お邪魔します」
玄関で靴を脱ぎ、誠司さんが用意してくれたスリッパを履いてまっすぐに一つの部屋に向かう誠司さんについて行くと、そこにあったのはたくさんの本棚にたくさんの本が詰められた小さな図書室のような部屋だった。本棚の林の中に場違なはずのにやけになじんでいる仏壇が置いてある。誠司さんは部屋に入るなり、仏壇の前に正座して手を合わせている。僕も誠司さんのあとに仏壇に手を合わせた。
写真が二つ。きっと文子さんと前の旦那さんだろう。
「ここは文子の仕事部屋だよ。曜子は自分の部屋があったのに寝るとき以外はいつもここにいた。文子は病気になっても、入院しても、ずっとあのノートパソコンで小説を書いていて、多分ゲームのシナリオもあそこにデータがあるだろうけど、パスワードが分からないから開けない」
ノートパソコンが置かれた簡素な机、それに合わせたような質素な椅子。それらを始め、この部屋は今も使われているかのように綺麗だ。誠司さんが毎日出入りして手を合わせ、掃除をしていることが容易に想像できる。
「ゲーム機はテレビ台の中にあるから。私は夕飯の買い出しをしてくるよ」
誠司さんは多くは語らずに部屋を出て行った。その大きくて寂し気な背中は大切なものを失った悲しみがまとわりついているように見えた。
文子さんを失い、今は元気とはいえ曜子さんが自ら命を絶とうとした。相次いで悲劇に見舞われたのにも拘らず、この部屋も、玄関からこの部屋に来るまでに見た家の中も綺麗に掃除されている。仏壇も本棚も驚くほど丁寧に整頓されていた。仕事があるのに毎日曜子さんのもとを訪れて、いきなりやってきた僕のことも世話してくれている。そんな誠実で優しく、愛に溢れた誠司さんのためにも僕は頑張らなければならない。
誠司さんから受け取った【紫蘭女子学園の秘密】は主人公がたくさんの女の子と関わり恋をするいわゆる美少女ゲームだ。主に成人向けゲームを開発している会社が幅広い層を取り込もうと全年齢向けに作ったゲームらしい。
世の中の悪を滅するための機関に所属する主人公は、山奥にある全寮制の女子校である紫蘭女子学園に女装をして新入生として潜入するスパイ。学園には不自然な金の流れや生徒失踪事件などの様々な疑惑があふれており、その闇を暴きながら協力者となり得る女の子たちと恋仲になっていく。日曜子さんこと日下部一華は主人公の相棒であり、新しい寮の管理人として学園に潜入することになる。どうりでただ者でない雰囲気だったわけだ。
ネットにはストーリーのネタバレこそなかったものの正解の選択肢が載っているサイトがあり、それを頼りに日下部さんのルートをクリアすることができた。
主人公と日下部さんの協力により、違法な金を流していた証拠を掴み、学園の裏組織との戦闘を経て失踪した生徒たちも救い出し、エンディングを迎える。夕飯の準備ができたと言って僕を呼びに来た誠司さんもしばらく一緒にモニターを見つめていたが、僕らはどうにも違和感を覚えていた。
「なんかあっさりしすぎですよね。主人公は日下部さんの誘惑にひたすら耐えていただけで二人は結局相棒という関係から変わっていないし」
このシナリオだと日下部さんが満足するタイミングが分からない。仮に任務達成の時だとしたらそれは不可能な話だ。女子校を隠れ蓑にした悪の巨大組織なんて知らないし、あったとしてもどうしようもない。二人が恋仲になっていないので、告白シーンもない。
「とりあえず夕飯を食べながら考えようか」
道筋が見えると思っていた誠司さんが残念そうに言った。ダイニングに案内されて頂いた誠司さん手作りのカレーは美味しい。
「口に合うかい? カレーってメジャーな料理だけど市販のルーを使っても家庭によって微妙に味が変わるから」
「すごく美味しいです。辛さもちょうどいいし、コクがあってまろやかというか……」
「おお、分かってくれたか。コーヒー牛乳を少々入れたんだよ。仕事で自衛隊のカレー作りの特集をしたことがあってその時のことを参考にしたんだ」
「隠し味か……」
「他にも色々な隠し味を入れたパターンを作るんだが、文子も曜子もコーヒー牛乳入りが一番好きだったな。文也君が次に来た時は別の隠し味で作ったカレーをご馳走しよう。君の一番も知りたい」
誠司さんは料理が好きなようで、カレーの隠し味について熱く語ってくれた。誠司さん自身は赤ワインを入れたものが好みらしいが、僕がワインの風味に慣れているとは思えなかったのでやめたとのこと。
夕飯を終えて僕は再び文子さんの部屋でモニターとゲーム機の前に座った。料理のことを語れて上機嫌になった誠司さんも隣に並んで座る。
「隠し……」
選択肢確認のために見ていた攻略サイトの最後の方には隠しルートへの行き方というサイト内の別のページに飛ぶリンクが貼ってあった。その前に日下部一華ルートエンディングとあったから気にしなかったが、そのページを見るとどうやら隠しルートがあるらしい。僕がクリアしたのはノーマルルートで隠しルートはバッドエンドとハッピーエンドが用意されているようだ。
「こっちを攻略しないといけないんじゃないかな?」
「そうですね。でもどうやって……げ、隠しルートに入るには全ヒロインのノーマルルートをクリアする必要がある」
日下部さん以外のヒロインは五人。テキストを斜め読みにしても一人二時間はかかりそうなため、合計十時間。そこに日下部さんの隠しルートが加わる。
相談の結果、僕はすぐに仮眠をとりその間に誠司さんが二人ほど攻略することになった。そのあと仕事がある誠司さんが睡眠をとっている間に僕が残りの三人と日下部さんの隠しルートを攻略する。誠司さんが家を出る時間を考えると日下部さんの隠しルート攻略を誠司さんが見守れるかは微妙だが、実行するのは僕なので問題はない。
こうして僕は、好きな人の家でそのお父さんと一緒にお母さんの部屋で協力して夜通し美少女ゲームを攻略する、という世界でも稀有な経験をするのであった。
誠司さんと文子さんの寝室にある二つのベッドのうち、今はもう使われていない方のベッドに誠司さんがマットレスやシーツを準備してくれた。ベッドを使っていた人への思いを考えるとどうしても物怖じしてしまう。
「すまない。文子が亡くなったのは病院だし、クリーニングはきちんとしていたが、やっぱり気になるか。ちょっと古いがどこかに敷布団があったはずだから……」
「いえ、このベッドを使わせてもらいます。文子さんの魂を感じられるかもしれないので」
「……そうか、それじゃあまたあとで」
誠司さんが部屋を出ると同時に明かりが消される。眠ろうとするとすぐに眠れる体質である僕は、奥空空文子がかつて使っていた寝具に包まれて眠りについた。何だか奥空文子のパワーをもらえた気がした。
目が覚めると。誠司さんと交代してゲームの攻略を進め、残っている三人の攻略を終わらせると誠司さんが起きてきた。誠司さんは手早く出社の準備を整え、僕と一緒に朝食として焼いたトーストを咥えながら最後の日下部一華隠しルートの攻略を見守る。出社まであと一時間と言っていたが隠しルートはノーマルルートと途中までは同じなので会話やイベントをスキップしまくれば出社までに間に合いそうだ。
シナリオの終盤、日下部さんの自室にて主人公と日下部さんが失踪した生徒たちの救出に向かうための作戦会議を行うシーンに差し掛かった。作戦を決めたあと、日下部さんはベッドに寝転びながら主人公を誘う。
ノーマルルートで主人公は『馬鹿なことやってないでさっさと寝てください』と言って自室に戻るのだが今回は三つの選択肢が出現する。ノーマルルートと同じ言葉と『誘いに乗る』と『無言で見つめる』の三つで、正解は『無言で見つめる』だ。誘いに乗るとバッドエンドに直行するらしい。
ハッピーエンドを見終えた僕らは大きくため息をつき顔を見合わせる。
「いいですか? あれ」
「やらないと曜子が戻ってこないんだから、やるしかないだろう」
「言質は取りましたよ……」
苦虫を噛み潰したような顔をして出社のために家を出る誠司さんを見送り、念のためバッドエンドも確認して後悔してからゲーム機を片付けた。
朝起きてきた誠司さんがやっていたように僕も仏壇に手を合わせてからベランダに出てみた。ベランダはもう一つの部屋と繋がっているようで、外から覗いてみるとそれは曜子さんの部屋のようだった。曜子さんはこのベランダから落ちたのだろう。
柵から顔を出して下を見るとそこは小さな公園のようになっている。確かに地面はコンクリートよりは柔らかい土だがここから落ちて助かるイメージは湧かない。よほどの身体能力がなければ、ほぼ死が待っているだろう。
身支度を整え、戸締りをして七海家をあとにする。着替えやお風呂も貸してくれると誠司さんは言ってくれていたが、さすがにそこまでお世話にはなれなかったので遠慮して自宅に帰ることにしていた。ほんの一瞬だけ曜子さんの部屋に入ることができるということが頭によぎったが、今日の午後には曜子さんに会えるし、僕を信頼して家の鍵まで預けてくれた誠司さんの顔が浮かび、そんな考えはすぐに立ち消えた。
この日の午後は曜子さんとゲームの練習をして、長谷に教わった成果を発揮し曜子さんに初めて勝つことができた。曜子さんは「むー」と言いながら悔しそうにしていたが、どこか嬉しそうでもあった。
火曜日は二人でバッティングセンターに行った。ホームランはならなかったが木島のアドバイスのおかげで空振りをすることがほとんどなくなり、惜しい当たりも何本か打つことができた。曜子さんは僕がいい当たりを打つたびに「すごい!」とか「格好いい!」とか拍手をしながら褒めてくれた。
水曜日は病院近くの公園に行った。木陰になっている散歩コースを一回りし終えると木田さんと初めて会った時に一緒に遊んだ少年たちと遭遇した。この日の曜子さんは先週の火曜日に着ていた白のワンピースと麦わら帽子という格好をしており、曜子さんに惚れていて僕のライバルとなっていた少年はその姿にすっかり見惚れていた。また野球の勝負を仕掛けられたので無慈悲にもボコボコにしてあげると「曜子さんのことは文也に任せる。絶対に幸せにしろよ! いつか必ず倒してやるからな!」と熱い言葉をかけられ、僕らは固い握手を交わした。
そして勝負の木曜日。きりっとした表情でやる気十分の木田さんと一緒にバッティングセンターを訪れる。受付の人は短期間で何回も来て百五十キロに挑戦している僕の顔を覚えており「頑張れよ」と声をかけてくれた。
ホームランを打てるパワーと技術は持っている。あとは試行回数と運という木島の言葉を思い出す。気負うな、力を入れ過ぎるな。先に挑戦を始めている木田さん、というよりは球の軌道を見ながら僕は集中力を高める。
それでもホームランはそう簡単に打てるものではない。木田さんと交互に挑戦しながら約百球を打ち終えても、惜しい打球が四、五球といったところだ。
「少し休憩しよっか。さすがに疲れたー」
挑戦を終えた木田さんが大きく息を吐きながらベンチに座っている僕の隣に腰をおろす。
木田さんの分のスポーツドリンクのペットボトルを渡してあげるとにこやかに微笑みながら「ありがとう」と言ってグイグイと飲み始めた。美味しそうに鳴る喉、太陽の方を見たためかまぶしそうに細めた目、日差しを受けてきらめく頬を伝う汗の粒、髪を掛けたためむき出しになった形のいい耳、まるでスポーツドリンクのコマーシャルのよう。
一緒だ。小説の中の主人公が見ていた光景そのものだ。これまで仲の良い友人としか見ていなかった木田さんをいっきに女の子として意識し始めて恋に落ちる。そしてこのあとホームランを打って何でも言うことを聞かせるという権利を使って自分の彼女になるように要求する。
主人公は物語開始直後に事故で両親を失い、木田さんがいる施設で暮らすことになる。木田さんにとっては初めて身近にいることになる同い年の男の子で、両親のいない悲しみや苦労、これからの人生への希望を分かち合える存在となり、彼女は早い段階で主人公に思いを寄せていた。僕はこれからその思いを踏みにじるようなことをしなければならない。
もう覚悟はできている。だから原作通りいってくれ。
現実は非常なものでその後も百球ほど打ったがホームランは出ない。それどころか疲労によりまともにスイングができなくなってきていた。木田さんもやる気だけは十分だが曜子さんの体では体力が追いついていないようで疲れた顔をしてベンチに座っている。
「次が最後の挑戦かな」
もう時刻は午後五時を過ぎている。病院の夕食の時間もあるし、着替えなどの時間も必要なのでもうすぐ帰らないといけない。この挑戦で駄目ならまた来週に持ち越しだ。そうなると僕も曜子さんも木曜日に学校を休まなくてはならなくなるがそれは避けたい。僕は曜子さんに希望とともに平穏を与えたいのだ。
凡打を重ね残り十球ほどとなった時、昨日たくさん聞いた声が聞こえた。
「あ、曜子ちゃん、来てたんだ……文也と」
「優貴君。久し……あ、昨日ぶりだね。優香ちゃんも」
僕とライバル関係にあった少年、優貴君とその妹の優香ちゃんだ。そばにいる大人は両親だと思われる。昨日の言葉通り僕を倒すために練習をしに来たのだろう。優貴君は木田さんといくつか言葉を交わしたあと、僕がいるケージのフェンスに寄ってきて凡打製造機と化した僕を見て誰にも聞こえないように言った。残りは五球ほどだ。
「へなちょこバッターに曜子さんは任せられないな。昨日言ったことはなしにしようかな」
今の優貴君の実力じゃバットにかすることさえできないくせに言葉だけは一丁前だ。でも、その言葉は諦めかけていた僕の心に火を灯し、体の疲労感も消し去ってくれた。バットを握る手に力が入る。いや、力を入れ過ぎてはいけない。昂る気持ちを落ち着かせる。
こんな展開原作にはない。しかし木田さんが出てくる小説【春風とウインドミル】は小学校高学年から中学生くらいを対象とした作品で、そのくらいの年齢であればライバルからの叱咤激励で謎のパワーを発揮する展開は大好物なはずだ。だからこれはいい原作改変。
最後の一球。自分史上最高のスイングで捉えた打球は、その軌道が放物線の頂点に達する前に半径を目測できないほど遠くのネットに取り付けられたホームランの的に直撃した。
『ホームラン! おめでとうございます! 係員より記念品の贈呈がありますのでゲーム終了後に受付までお越しください』
その音声が終わる前に僕はケージを飛び出す。口をあんぐりと開けている優貴君を横目に、ベンチに座りながら優貴君と同じように口をあんぐりと開けている木田さんの目の前に立つ。
「僕の勝ちだね」
「うん。すごいよ、文也君」
「負けた方は勝った方の言うことを何でも聞く、だったよね?」
「そうだね」
「僕の彼女になってよ。まなみさん」
僕が右手を差し出すと木田さんはおずおずと左手を差し出す。顔を赤くしながらうつむいていて、いつもの元気はどこへやらというくらいのしおらしさだ。
「好きだよ、まなみさん。僕は君の笑顔が好きなんだ」
そう言いながらもう片方の手も加えて木田さんの左手を包み込むように握ってあげると、木田さんは原作通りに、無邪気で太陽のようなはじける笑顔を僕に向けてくれた。
ホームランの記念品であるカードは優貴君にあげていつかまた勝負をすることを約束し、元に戻った曜子さんとともに病院に戻る。
「お疲れ様」
「曜子さんも、疲れてませんか?」
病院の前の大通りを渡るための横断歩道前での信号待ち。曜子さんは微笑みながら自分の左手をじっと見つめた。親指の中ほどの部分や他の指の付け根の部分などをいじくっている。木田さんが曜子さんの体でバットを振りまくっていたから手の皮が硬くなったりしているのだろうか。
「私は大丈夫。ね、文也君も左手出して」
言われた通り、マメができたり皮がはがれて痛々しくなった左手を差し出す。曜子さんは一瞬驚いた表情になったが、優しく、触ってもいたくなさそうな部分を選んで僕の左手を握ってくれた。信号が青に変わりそのまま歩き出す。
「すごく頑張ってくれたんだね」
「曜子さんのためですから、中学の時より素振りしましたよ」
建前は文音の自主練に付き合う、だった。夜、家の近くの公園で文音と二人で毎日素振りをしていた。文音を家に送り届けてからも一人公園に戻って素振りを続けた。すべては今日のためだ。
「あと二人だね」
横断歩道を渡り切ってから足を止めた。
手を繋いだからか。心地よい疲労と達成感に包まれているからか、いつもより少しだけ感情が漏れ出た。
「あと二人、もう算段はついています。だから、二人分終わったら僕の彼女になってください」
僕の手を握る曜子さんの手に力が入った。口を真一文字に結んだまま曜子さんは僕を見つめる。僕が曜子さんを好きだということは知っているはずなのに驚いているようだ。
「……本当に私でいいの?」
「曜子さんがいいんです」
「そっか……うん、そうだね。それじゃあ、明日も日曜日も文也君に会えることを楽しみにしてるよ」
「任せてください。絶対に僕が曜子さんを救いますから」
そのまま病院に入り、曜子さんが売店で絆創膏を買い、その場で貼ってくれた。そしてしっかりと手を握り直す。
病室に向かおうとすると誠司さんはすでに病院に来ていて、自販機コーナーで缶コーヒーを飲みながら奥空文子作のライトノベル【僕は天使の世話係】を読んでいた。金井さんが出てくる作品だ。僕らの繋がれた手を見て、ちょっとだけ複雑そうな顔をしている。
「お父さん、紹介するね。八雲文也君。もうすぐ私の彼氏になる人。とっても頑張り屋さんで家族思いで優しいの。ちょっとエッチだけどね」
誠司さんは一瞬だけ目を丸くした後、僕を見て優しく微笑んだ。
「そうか。これからも仲良くするんだよ」
「うん」
僕らのそばを口に手を当ててにやにや笑いながら看護師の杉本さんが通った。空いた手で僕の肩を軽く叩いてそのままどこかに行ってしまった。自販機コーナーにいた他の人たちも、廊下を行きかう看護師さんたちも皆僕らを見て笑顔を見せている。恥ずかしい、けれどもどこか誇らしくもあった。
結論から言うと、金井さんに勝つのは簡単だった。長谷のアドバイス通り大技を振らないように、簡単なコンボでダメージを稼ぎ、相手の攻撃を受けないように立ち回る。たったそれだけで勝ててしまった。今までの惨敗は何だったのかと思うほどあっさりとした勝利だった。
小説の中で金井さんは鬼神の如き強さと表現されていたが、火村さんのビンタが痛くないのと同じように、木田さんのバッティングが上手でないのと同じように、金井さんのゲームの実力も曜子さんと同じで助かった。主人公の口調を真似て告白する。
「美也、これからは俺がそばにいるから寂しくないよ」
「……彼女にしてくれる?」
「もちろん」
僕の肩に寄りかかりながら見せてくれた金井さんの笑顔はまさに天使のようだった。一瞬だけ気を失ったあと、曜子さんは目を覚ます。
「強くなったね、文也君」
「曜子さんが練習相手になってくれたおかげです」
「私も文也君とゲームするの楽しかったよ。それだけじゃない。トランプしたり、おしゃべりしたり、バッティングセンターに行ったり全部楽しかった。ゲームセンターに行ったことも一緒に勉強したことも覚えているし、体を触られて真っ赤な顔になったのが可愛かったのも覚えてる。私じゃない私と文也君が過ごした思い出もちゃんと七海曜子の心に残ってるんだよ」
「これからもっとたくさんの思い出を作りましょう。二人で遊びに行ったり、文音も連れて家にも遊びに行きますよ。学校でも一緒だし、楽しいことがいっぱい待ってますから、日曜日を楽しみにしててください」
退院を明日に控えた曜子さんの荷物の整理を手伝いながら色々な話をした。
好きな食べ物はお父さん、つまり誠司さんが作ったカレー。隠し味は何が好きか尋ねるとしばらく考えた後にはちみつと言っていた。誠司さんは隠し味をばらすことなくカレーを作っていたらしい。
好きな色は白。どんな色にでも染まることができるからとのことだ。その身に様々な人格を降ろすことができる曜子さんらしい答えだ。
昔から妹が欲しかったことも話してくれた。これからも文音を自分の妹のように思っていいですよ、と言うととても喜んでくれた。
一夜を明かし、明日の午前中の検査までしか病院にはいないので、必要のないものを誠司さんの車に積み込むのを手伝い、僕は一足先に帰宅した。荷物で僕の自転車を入れるスペースがなかったのもあるが、曜子さんが「お父さんともっと仲良くなりたい」と言っていたからだ。