松緒が桃園第に帰ったら、やはりと言っていいのか、大騒ぎになった。
 
「愚か者めが! なぜ宿下がりをして参った! わしは許しておらぬぞ!」
「大殿……どうか! どうかお怒りをお納めくださいませ」

 邸の女房たちは怒り狂う桃園大納言をどうにか止めようと必死だった。もちろん近くには太刀《たち》などを置かないようにしている。また勢いのままに抜き放たれたらたまらない。
 松緒は深々と頭を下げていた。

 ――胃がしくしく痛んでいる気がする……。

 ひそかに胃のあたりをさすりながら、どうにかこの修羅場を切り抜けることを祈るのみである。

 ――ぜんぶがぜんぶ、「あの人」のせいじゃないの? 「あの人」が現れるたびに私の寿命が縮んでいる……!

 恨みがましくてたまらないのだが、確認しないことには進まない。

「申し訳ありません……! ですが、いても経ってもいられない、緊急の用件がありまして。人目の多い宮中では難しかったものですから」

 これは相模にも言っていなかったことで、大納言を止めていた相模の目が松緒に向けられる。
 大納言はぎろりと松緒を睨んだ。

「なんだね、松緒。それほど言うには、それにふさわしい内容であるようだな?」

 松緒はぐっ、と詰まりながらも気合いを入れ直す。

「大殿。姫様は、まだ見つかっていないのですよね」
「無論だ。今もひそかに調べさせておる」
「大殿。驚かずにお聞きください。……先日の、庚申待ちの晩に、姫様は宮中にいらっしゃったようなのです」
「……なんだと?」
「長年姫様とともにいた、この松緒が申すのですから、間違いございません。姫様の、声が聞こえたのです」
「声だけか? 姿は? それはまことか?」

 桃園大納言の驚愕と狼狽は、真実のように見えた。

「まことにございます」
「なぜ捕まえてこなかったのだ!」
「姿を拝見する前に声が聞こえなくなったのです! 松緒も会いとうございました! 会って、会って……。お話ししたいことは山のようにあったのですよ!」

 実際には姫様に近づくどころか、松緒が悪い男に捕まったのである。
 いろんな意味で悔し涙が止まらない。人目も憚らずおいおい泣き出す松緒に、なぜか桃園大納言は毒気を抜かれたように、どっかりと畳に座り込み、脇息にもたれかかって、ひらひらと松緒たちに向かって左手を振った。
 もう退がれ、という合図である。
 様子を伺っていた邸の者はほっとしたように動き出す。
 松緒は、相模に支えられながら大納言の室を出た。

「言い方は悪いですが、よくやったと思いますよ。あれだけの態度を出せば、いくら大殿でもこれ以上お叱りにはなれませんし……。松緒、ここならもう大丈夫ですよ……あら」

 相模は、この時はじめて松緒の顔を覗き込んだ。

「大殿の気が抜けるのもわかるわ。……ひどい顔よ」

 そう言いながら、胸元から出した帖紙(たとうがみ)で松緒の顔面をごしごしと拭いたのだった。


 宿下りの理由を乳母の見舞いと平癒祈願の寺社参詣ということにしているので、辻褄合わせも必要だろう。
 
――それに……やらなければならないことがある。
 
 そんなわけで、都近くの寺院に行くことにした。松緒自身も姫様とともに何度も足を運んだことがあるため、懐かしい場所だ。
 平地は牛車で移動し、山道と石段は徒歩でいく。
 一応、松緒は布を垂らした笠をかぶり、お忍びの姫君という恰好をしているが、表向きには「かぐや姫」の名を出さない。束の間、松緒は身代わりの役目から解放されたというわけだ。
 参道には人通りもあり、店も並ぶ。物売りの声もあれば、見物人を集める芸人もいる。小さな市のようになっているのだった。

「にぎわっていますね」

 お付きとしてついてきた相模が、少し息を切らせながらも、興奮で頬を赤らめている。もうひとり、たつきもお付きとなっていたが、彼女もこの辺りまでは来たことがなかったのか、肩で切りそろえられた涼やかな髪先を躍らせるように周囲を見ていた。

「椿餅《つばいもち》を売っていますよ。ぼく、買ってきましょうか」
「いいですよ。買ってらっしゃい」

 相模がたつきに小銭を渡す。たつきは、箱を抱えた椿餅売りに突進していった。
 その姿が、まるで昔の自分を思い出すようで、松緒の胸が少し苦しくなる。

 ――姫様、椿餅がお好きでしょう? 松緒が買って参りますね!
 ――本当? うれしいわ。
 ――買えましたよ! どうぞ、姫様!
 ――ありがとう。ふふ、美味しいわね。

 かぐや姫はあまりにも美しく、そのため、人目から隠されるように育てられた。けれど、世間から隠れるようにしながらも、寺社参詣だけは許された。桃園第から離れられる、ほとんど唯一の時間で、松緒にとっては姫様と外出できる優しい時間だった。

「『姫様』、どうぞ!」

 今は、たつきが、松緒に椿餅を差し出している。松緒は悲しみを押し殺して微笑んだ。

「ありがとう。もう少しで寺につくけれど、そこの木陰で少し休みましょうか」
「そうしていただけると助かります……」

 杖を持つ手がそろそろぶるぶると震えてきていた相模は少し安堵を滲ませた。
 
「ぼくは、近くをもっとよく見てきてよいでしょうか?」
「あまり遠く離れなければいいですよ」

 お駄賃代わりの椿餅を一口で飲み込んだたつきが、たたた、と駆けていく。しっかり者でませていると思っていたけれど、ああいうところはまだ子どもらしい。
 相模は運よくあった切株に座らせた。はあ、と特大のため息がでている。

「昔来ていた時はそうでもなかったのに、私も年ですねえ」
「最近は後宮に籠りきりだから仕方がありませんよ」
「いいえ。やっぱり年なのですよ。だって、姫様も松緒も大きくなるぐらいに年月(としつき)が流れて……。この辺りに来ると、いつも二人で椿餅をせがんでいたでしょう?」

 相模も、同じようにかぐや姫のことを思い出していたらしい。

「姫様は、松緒が喜ぶからいつも椿餅を頼むんだっておっしゃっていましたね……」
「え、そうでした……? 私は、姫様の好物だとばかり」

 特段、好きでもないものを押し付けていたかもしれないとわかり、松緒は焦る。相模はゆったりとした様子のままだった。
 
「椿餅も嫌いではなかったはずですし、姫様も別に気にしてはいらっしゃらなかったとは思いますけどね。ほら、松緒は思い込みの激しいところがあるでしょう?」
「う……」

 相模に諭されると、ぐうの音も出ない松緒。
 少し休憩もできて、興が乗ったのか、相模はあ、と何かを思い出した様子になった。

「椿餅《つばいもち》と言えば、まだあなたが女童のころにここへ来た時も、どこかの身分の高そうな若君と、最後のひとつを取り合ったことがありましたね。あなたは、『姫様に差し上げるんです』の一点張りで譲らなくて」
「……そんなことありましたっけ?」
「ありましたよ」

 身分の高い相手に対して、幼い松緒も向こう見ずな真似をしたものだ。

「あなたってば、男顔負けの勢いで、お相手と言い争っていましたよ。よほど椿餅を横からとられそうになったのが悔しかったのでしょうね。『先に買ったのは、この松緒です。身分が高いからと、横から掠めようというのなら道理が通りません。道理が通らないことを上の者がしていたら、下の者もそれでいいのだと思いますよ、そうなれば国もゆくゆくは乱れます、それでよろしいか!?』って!」

 相模は口元を押さえて笑いをかみ殺している。
 松緒は、昔の自分の大げさないいように顔から火が出るような思いだった。そして、そんなこともあったな、というほんのりとした記憶は蘇ってきた。

「結局、お相手の若君がよくよく物のわかった方でよかったということです。最後の方には感心なさった様子で松緒の言葉に頷かれていましたね。その後、松緒を手招きして、何かを言っていたようでしたが……そういえば、何と言われたの?」

 あれは随分前の出来事だし、今なら笑い話になるだろう。
 
「たわいもない童の戯言ですよ。『気に入ったから妻になれ』と。あの時は本当に腹の立つ言い方だったのです」

 松緒にとっては、偉そうな坊ちゃんが偉そうに命令してきたぞ、みたいな認識だったのだ。

「『姫様がいるから、無理です!』と言ってやりましたよ。どこぞの坊ちゃんかわかりませんが、人を馬鹿にした感じだったので」

 なんだろう、思い出したら昔のことなのに、まだ腹が立ってきた。

「松緒。もし相手が本気だったら気の毒すぎますよ。若君の純心が粉々に砕け散ったかもしれませんよ」
「まったくだ。忘れられない傷をつけられて、他の女など見えなくなってしまったかもしれない」

 男の声がしたと思えば、木陰に立っていた松緒の背後に影が差す。
 正面の相模が、ぽっかりと口を開けたまま、わなわなと震えだす。
 後宮で取次の役目をしている彼女には、相手がだれかすぐにわかったのだ。

「あ、あなたさまは……!」
「相模よ。この場で俺の名を口にしてはならぬぞ」

 相模が反射的に自分の口元を押さえた。
 松緒は振り向き、濃い紫の狩衣姿の相手に、低い声で問う。

「どうしてこちらに?」
「『約束』したはずだ。寺で落ち合うと」
「しかし、場所と時刻は曖昧だったかと思いますが」

 ふいに笠から垂れた布がすくうように持ち上げられた。
 東宮からは、松緒自身の顔が見えているだろう。松緒は視線をそらして、東宮の手を払った。
 
「いいじゃないか。顔が見たい」
「見世物ではありませんので」
「命じてもだめか」
「お忍びの身に何の権力がございましょう」
「たしかに」

――それで納得するのね。

 東宮は妙に引き下がりがよいところがあった。

「松緒。その椿餅《つばいもち》をくれないか」

 唐突に東宮が松緒の手にある包みを指さして告げた。相模と話し込んでいたので食べる時を逃していたのだ。

「は? まだそこで売っているでしょう?」
「いや。おれにはその椿餅を食う権利があると思うぞ」
「は? 何を言っているんですか」
「ひとつまるごとは食いきれないから、半分食べてくれ」
 
 間食を気にする女子みたいなことを言い始めた。
 引き下がる様子もないため、めんどくさくなった松緒は、仕方なくその場で包みをあけて、椿餅を半分に千切る。

「どうぞ」
「助かる」

 なぜか東宮は椿餅を差し出す松緒の肘のあたりを持ち、自分の口元に餅を持った手を持ってくると……そのままぱくりと食べてしまった。

――何をしているの、この人!

 椿餅は大きいので指が口に触れることはなかったものの、危なかった。
 東宮との距離感が先日の一件以来、おかしくなっている。色香で松緒を篭絡するつもりなのだろうか。東宮なのに。
 この一連のやりとりを眺めていた相模は、魂が抜けたように呆然としていた。あとで事情を説明しなければならないだろうが、とりあえず魂を後で戻しておかなければ。
 
「姫様!」

 そこへたつきが手を挙げながら駆けてきた。それを一瞥した東宮は、松緒の手を掴む。

「腹ごしらえもできたし、では約束通り、行こうか」

 松緒は観念して目を瞑った。
 不思議そうに立ち止まったたつきに叫んでおく。

「あとで寺で落ち合いましょう。先に相模と向かっていてください! ついでにどうにか相模の魂も戻しておいてください!」
 
 たつきの返事も聞かず、松緒は東宮に連行されたのだった。