行事の準備は進んでいく。
松緒にとって幸運なことは、須磨が協力的だったことに尽きていた。
彼女は長年内侍所をまとめあげてきていただけあって、女官たちから信頼され、男女問わず顔が広い。彼女を通じて、尚侍《ないしのかみ》が命じれば、人が間違いなく動くのだ。
また、彼女は「かぐや姫」が考えた行事の内容を、実行できる形に落とし込むのが巧かった。
たとえば。
「練り歩くのであれば、この廊をお使いになればよろしいでしょう。池の向こうに見物の方々を配置すれば、たいそう絵として映えますので」
「衣裳には、ある程度制限を設けたほうがよろしいでしょう。あくまでみなで統一感を出すという建前です。……女官の実家もそれぞれございますから」
「尚侍《ないしのかみ》さまが作られた次第《しだい》でございますが、いささかこれでは不十分かと。この部分で「待ち」が出てきますので、飽きる者が出てきます。仕掛けをおつくりになられた方が」
といった具合だ。
様々な宮中行事に関わってきた経験が蓄積されているので、頼もしい。
そのような形であれこれと行事の調整を行っていたが、本番の五日前になって、須磨が神妙な声で「尚侍《ないしのかみ》さま」と口火を切ってきた。
「ご報告申し上げます。……『百鬼夜行』の行事にて、問題が起こりました」
「問題とは? 何が起こったのでしょうか」
「いえ、それが、その……」
須磨が口ごもり、覚悟を決めたように息を吐く。
「手配をしていた楽人が、流血沙汰を起こしまして。痴情のもつれがあったようです。それで手に怪我をしたので、当日演奏できないと……。呆れるばかりでございますが」
「それは……仕方ないですね。代わりは見つかりそうですか」
「代わりは見つかっているのです」
「そうなのですか? では問題とは……?」
「わたくしめが立てようとした代役とは別の方が、この話を聞きつけまして。「自分ならばどうか」と名乗り出ていらっしゃって。わたくしめには判断がつかなかったもので、ご相談に参った次第でございます」
いつもの須磨ならば、この手のことは自分で対処してしまうはずだが、そうできないということは……。
「『どなた』が、そう申し出たのでしょうか」
「はい。……左大臣家の若君の。……行春さまです」
――たしかに、須磨からは断りづらい相手かもしれない。
彼もゲームの攻略対象だったけれど、まだ直接言葉を交わしたことがない。人柄などもまだよくわかっていないが……。
「行春さまからは、ぜひ尚侍《ないしのかみ》さまとお話をされたいと言付かっております」
「そうですか」
話すことに異存はなかった。もう須磨をはじめ、「かぐや姫」として言葉を交わしている人々がいるのだから。
それに問題が起こった時に対処するのも上司の務めだと思っている。前世では部下など持ったことはないけれど、それぐらいは承知している。
「ただ……」
やはり須磨は言いにくそうにしている。
「以前、左大臣家の大君……姉に当たる姫君は、帝から入内を断られております。その弟に当たる方であれば、尚侍さまのような方をよく思っていないのかもしれません……。くれぐれも慎重になさってくださいませ」
――本来、帝の妃となる入内は名誉なこと。でも、「姫様」は最後まで拒み、今、身代わりの私も、身代わりという理由で拒んでいる。左大臣家の方々からしたら、不愉快極まりないのでしょうね……。
しかし、避けて通れるわけでもあるまい。
わかりました、と松緒は覚悟を決めて頷いた。
須磨が帰った後、宮中でも顔の広い童女を呼んだ。同じ大納言家にいた「たつき」という名の少女だ。自らを「ぼく」と称する珍しいところもあるが、お使いを頼むことも多く、宮中内外をあちこち歩き回るので、知人が多い。東宮に仕える小舎人童に恋人がいるらしい。
肩まで切りそろえた振り分け髪がかわいらしい彼女に、左大臣家の息子について知っていることを尋ねた。
「行春さまですか? まだお若いですけど、人気のある方ですよ。将来も有望ですし、お近づきになりたい女官も多いと思います」
行儀良く手を膝の上に乗せた彼女は屈託もなくそう答えた。
「あの方、たしか何度か『姫様』に文を渡していたと記憶していたけれど、やっぱり今も関心がおありなのかしら」
「ぼくはそう思いますけど。ただ行春さまご自身はあまり軽い感じの方ではなさそうです」
「左大臣家の噂はなにか聞いている? 「かぐや姫」のことをどう思っているか、とか……」
そこまで詳しくはわかりません、と間髪入れずにたつきは言い、少し考えた後に、
「でも、ご家族とはうまくいっていないのかもしれません」
「どうしてそう思うの?」
「以前、左大臣さまと行春さまが内裏で言い争いをしたという噂があったのと……ぼく自身、たまたまですが、左大臣さまを遠目に見る行春さまを拝見したことがあります」
たつきは、自分の肩に両手を回した。
「睨んでいらっしゃるように、お見受けしました。怖かったです」
「それなら、左大臣家と行春さまの意向はそれぞれ違うこともありえるのね」
なんなら、今回の行事での楽人希望の件も、左大臣は知らない可能性まである。
憶測だけでことは進められないが、やはり一度きちんと真意を聞いておかなければならないだろう。
「助かりました。直にお会いするのは初めてですし、聞いておいてよかったです。容姿さえもよく知らなかったですし……」
すると、たつきは不思議そうに首を傾げた。
「松緒さまはもうお目にかかっているではありませんか」
「えっ」
「えっ?」
ややあって、合点がいったたつきが教えてくれた。
「ほら、あの方ですよ。ぼくが几帳を持っていたら転んだ時があったでしょう? その時にいらっしゃった方です。松緒さまはお面をつけていらっしゃったと思いますが、松緒さまからは見えていたのではありませんか?」
「え、えぇ……」
松緒の脳裏に、あの印象的な赤い袍を着た青年の姿が蘇る。
「蔵人所から出た時にもいましたね」
不愉快なものを見る視線だった。あれがかぐや姫に恋焦がれている視線とは思わない。
断然、会いたくなくなってきた。
なぜなら松緒の「姫様」が嫌いなやつなど、松緒の敵なのだ。あの視線を主人に浴びさせることにならずに済んだだけましだ。
苦々しく思っていると、たつきがそわそわし出した。
「松緒さま。申し訳ないのですが、そろそろ逢引の約束があって……」
これから恋人と逢うという。
あらごめんなさい、と松緒は謝り、手元に常備しているちょっとしたお菓子を二つ包んで渡した。
「ありがとうございます」
たつきは戸惑いながらも包みを受け取る。
「松緒さまはお優しいですね」
「少しのお菓子なんてたいしたことないですよ」
「かぐや姫さまにお仕えしていた時にはこのようなことがなかったので……」
「それはあなたが仕えた期間がまだ短かったから。もう少ししたら姫様のお優しい気持ちがわかったと思いますよ」
「そうですね……」
たつきはしみじみと言う。
「ぼくからしたらもう、『かぐや姫さま』は松緒さまのことです」
その何気ない言葉が、松緒の胸には深く深く突き刺さったのだった。
御簾向こうに座る青年は、傍らの灯台《あかりだい》に照らされた透き影からも、四角四面を好みそうな几帳面さが伺い知れた。
彼は宿直の最中、休憩を兼ねて、「かぐや姫」の室を訪れた。傍には相模たち女房も控えている。
――き、気まずい……!
近衛少将行春は「かぐや姫」のいる御簾前に腰を下ろし、そのまま何か言うかと思っていたら、黙り込んでしまったのだ。
これには松緒も戸惑った。たいていは殿方の方から「かぐや姫」に話しかけていたからである。しかも、かぐや姫との対面を希望したのか、彼の方からではなかったか。
意図しない沈黙の時ができてしまい、松緒は焦った。
――こういう時、姫様なら……。
脳内で「イマジナリー姫様」を召喚する。
松緒の強固な姫様観察の賜物ともいえる彼女は、つい、と行春のほうへ顎を向けると、
『放っておきましょう』
ふふふ、と微笑みながらおっしゃった。
さすが姫様、男に対して辛辣だ、と松緒は感心したものの。
『姫様、姫様。いけません。庚申待ちの行事の危機なのです! どういうおつもりで楽人になるとおっしゃったのか、確かめませんと』
『そうですね……。わたくしならば……』
その言葉を聞いた松緒は、相模に囁いた。
「相模。箏を」
相模は怪訝そうにしながらも、箏を持ってきた。
手元に備えていた紙の仮面をつけてもらい、松緒は顔隠しの扇を脇に避けた。
行春が身じろぎする。
松緒は気にせず傍に引き寄せた箏を爪弾きはじめた。
張られた弦をはじくと、とりとめのない音の粒が軽やかに舞い上がる。
――姫様は、箏の名手だった。
かぐや姫は姫君として一通りの教育を受け、すべからく出来がよかった。美貌と才気の二つを松緒の「姫様」は持っていたのだ。
そして、松緒も、遊び相手としてだけではなく、その教育に付き合わされてきた。一緒にはげむ仲間が欲しかったのだろう、かぐや姫が何かを習えば、松緒も同じように習うことを求められた。
箏も、同じように姫様とともに習った。
松緒は、かぐや姫ほどに器用ではなかったが、仕える主人に恥じないように懸命に練習した。今では、初見の者が聞いただけでは音色の区別がつかないほど、姫様そっくりの音色を真似ることができるようになった(それでもやはり微妙に姫様の腕には劣るけれど)。
――楽人をされるというのなら、この音色に合わせて合奏することなど容易いはずでしょう?
求婚を断る時のかぐや姫はやたら挑戦的な態度を取ることが多かった。だから松緒も同じようにする。
己から話し出すつもりがないのなら、引き出すのみ。
これで察せられないのであれば、それまでだと。
松緒の指は絶え間なく流麗に動いて、虹色の音を奏でた。
ややあってから、松緒はちらりと御簾向こうを見た。透き影に、龍笛の細長い影が加わっている。
――受けて立つつもりということね。
出来がよかったかの判定は、周りにいる者たちがしてくれる。
松緒は、神経を尖らせて、その時を待った。
松緒が、さらに指を走らせたところで、行春が息を吸いこみ、龍笛に吹きこむ音が聞こえた気がした。
龍笛の音が、箏の調べにそっと加わった。
松緒は、意外にも繊細に聞こえる音に驚いた。
彼女自身は耳にしたことがなかったのだが、行春は楽器の扱いも上手いのだろうことがすぐに察せられた。若くしてこの腕ならだれからも称賛されているだろう。
――でも、楽人を申し出た狙いは? 姉の入内を間接的に邪魔している女の顔が見たかったから?
純粋な好意から、かぐや姫に近づこうとしているわけではないだろう。
松緒はどこまで行春がついてくるのか試そうとした。
箏の音がどこまでも駆けていく。一拍遅れて、龍笛もついてくる。
龍笛が箏を先導しようとする。箏は拒む。
競争だ。どちらがどこまで耐えられるか。
かぐや姫は決して自分を曲げなかったから。松緒もそれに従う。松緒が負けたら、姫様も負ける。
やがて、龍笛の音が止む。少しして、箏の手も止めた。
途端に、松緒の指が疲労を訴えてきて、ひそかにため息をついた。
――むきになりすぎてしまったかも。
相模まで呆然とした様子で松緒を見ている。
「やはり……」
何の脈絡もなく、御簾向こうの青年が言葉を発した。
「尚侍さまのお手を煩わせていたようです。楽人の話はなかったことに。当日、お役に立てることがあればお呼びください」
感情が見えない声音で、青年は立ち上がり、来る時よりも早足で去っていった。
蔵人頭長家は、仕事に追われていたため、その日も遅くまで蔵人所で書類と格闘していた。
部下の蔵人たちの中にも残っている者がいたが、たまたま出払っていた。
戸の前に、幽霊のように年下の友人が佇んでいることに気付いた長家は、眉間を揉んで相手を見間違えていないか確認してから、どうされましたか、と声をかけた。
行春はゆらゆらと歩き、長家の前に仁王立ちになった。
「先ほど、かぐや姫とお会いしてきました。何なのですか、あれは」
「は?」
長家は驚きながらも、友人の唇がわなないたのを見た。
「ぼくは、あれが嫌いだ」
「え、どうしたんだい、急に」
再度驚いたので言葉も崩れてしまう。
「長家さまの眼は眩んでおられるのでしょう」
「え、えぇ?」
「考え直されたほうがよいのです。みながみな……騙されている」
それだけ言うと、行春は蔵人所から出ていった。
顔が熱い、とぼやきながら。
松緒にとって幸運なことは、須磨が協力的だったことに尽きていた。
彼女は長年内侍所をまとめあげてきていただけあって、女官たちから信頼され、男女問わず顔が広い。彼女を通じて、尚侍《ないしのかみ》が命じれば、人が間違いなく動くのだ。
また、彼女は「かぐや姫」が考えた行事の内容を、実行できる形に落とし込むのが巧かった。
たとえば。
「練り歩くのであれば、この廊をお使いになればよろしいでしょう。池の向こうに見物の方々を配置すれば、たいそう絵として映えますので」
「衣裳には、ある程度制限を設けたほうがよろしいでしょう。あくまでみなで統一感を出すという建前です。……女官の実家もそれぞれございますから」
「尚侍《ないしのかみ》さまが作られた次第《しだい》でございますが、いささかこれでは不十分かと。この部分で「待ち」が出てきますので、飽きる者が出てきます。仕掛けをおつくりになられた方が」
といった具合だ。
様々な宮中行事に関わってきた経験が蓄積されているので、頼もしい。
そのような形であれこれと行事の調整を行っていたが、本番の五日前になって、須磨が神妙な声で「尚侍《ないしのかみ》さま」と口火を切ってきた。
「ご報告申し上げます。……『百鬼夜行』の行事にて、問題が起こりました」
「問題とは? 何が起こったのでしょうか」
「いえ、それが、その……」
須磨が口ごもり、覚悟を決めたように息を吐く。
「手配をしていた楽人が、流血沙汰を起こしまして。痴情のもつれがあったようです。それで手に怪我をしたので、当日演奏できないと……。呆れるばかりでございますが」
「それは……仕方ないですね。代わりは見つかりそうですか」
「代わりは見つかっているのです」
「そうなのですか? では問題とは……?」
「わたくしめが立てようとした代役とは別の方が、この話を聞きつけまして。「自分ならばどうか」と名乗り出ていらっしゃって。わたくしめには判断がつかなかったもので、ご相談に参った次第でございます」
いつもの須磨ならば、この手のことは自分で対処してしまうはずだが、そうできないということは……。
「『どなた』が、そう申し出たのでしょうか」
「はい。……左大臣家の若君の。……行春さまです」
――たしかに、須磨からは断りづらい相手かもしれない。
彼もゲームの攻略対象だったけれど、まだ直接言葉を交わしたことがない。人柄などもまだよくわかっていないが……。
「行春さまからは、ぜひ尚侍《ないしのかみ》さまとお話をされたいと言付かっております」
「そうですか」
話すことに異存はなかった。もう須磨をはじめ、「かぐや姫」として言葉を交わしている人々がいるのだから。
それに問題が起こった時に対処するのも上司の務めだと思っている。前世では部下など持ったことはないけれど、それぐらいは承知している。
「ただ……」
やはり須磨は言いにくそうにしている。
「以前、左大臣家の大君……姉に当たる姫君は、帝から入内を断られております。その弟に当たる方であれば、尚侍さまのような方をよく思っていないのかもしれません……。くれぐれも慎重になさってくださいませ」
――本来、帝の妃となる入内は名誉なこと。でも、「姫様」は最後まで拒み、今、身代わりの私も、身代わりという理由で拒んでいる。左大臣家の方々からしたら、不愉快極まりないのでしょうね……。
しかし、避けて通れるわけでもあるまい。
わかりました、と松緒は覚悟を決めて頷いた。
須磨が帰った後、宮中でも顔の広い童女を呼んだ。同じ大納言家にいた「たつき」という名の少女だ。自らを「ぼく」と称する珍しいところもあるが、お使いを頼むことも多く、宮中内外をあちこち歩き回るので、知人が多い。東宮に仕える小舎人童に恋人がいるらしい。
肩まで切りそろえた振り分け髪がかわいらしい彼女に、左大臣家の息子について知っていることを尋ねた。
「行春さまですか? まだお若いですけど、人気のある方ですよ。将来も有望ですし、お近づきになりたい女官も多いと思います」
行儀良く手を膝の上に乗せた彼女は屈託もなくそう答えた。
「あの方、たしか何度か『姫様』に文を渡していたと記憶していたけれど、やっぱり今も関心がおありなのかしら」
「ぼくはそう思いますけど。ただ行春さまご自身はあまり軽い感じの方ではなさそうです」
「左大臣家の噂はなにか聞いている? 「かぐや姫」のことをどう思っているか、とか……」
そこまで詳しくはわかりません、と間髪入れずにたつきは言い、少し考えた後に、
「でも、ご家族とはうまくいっていないのかもしれません」
「どうしてそう思うの?」
「以前、左大臣さまと行春さまが内裏で言い争いをしたという噂があったのと……ぼく自身、たまたまですが、左大臣さまを遠目に見る行春さまを拝見したことがあります」
たつきは、自分の肩に両手を回した。
「睨んでいらっしゃるように、お見受けしました。怖かったです」
「それなら、左大臣家と行春さまの意向はそれぞれ違うこともありえるのね」
なんなら、今回の行事での楽人希望の件も、左大臣は知らない可能性まである。
憶測だけでことは進められないが、やはり一度きちんと真意を聞いておかなければならないだろう。
「助かりました。直にお会いするのは初めてですし、聞いておいてよかったです。容姿さえもよく知らなかったですし……」
すると、たつきは不思議そうに首を傾げた。
「松緒さまはもうお目にかかっているではありませんか」
「えっ」
「えっ?」
ややあって、合点がいったたつきが教えてくれた。
「ほら、あの方ですよ。ぼくが几帳を持っていたら転んだ時があったでしょう? その時にいらっしゃった方です。松緒さまはお面をつけていらっしゃったと思いますが、松緒さまからは見えていたのではありませんか?」
「え、えぇ……」
松緒の脳裏に、あの印象的な赤い袍を着た青年の姿が蘇る。
「蔵人所から出た時にもいましたね」
不愉快なものを見る視線だった。あれがかぐや姫に恋焦がれている視線とは思わない。
断然、会いたくなくなってきた。
なぜなら松緒の「姫様」が嫌いなやつなど、松緒の敵なのだ。あの視線を主人に浴びさせることにならずに済んだだけましだ。
苦々しく思っていると、たつきがそわそわし出した。
「松緒さま。申し訳ないのですが、そろそろ逢引の約束があって……」
これから恋人と逢うという。
あらごめんなさい、と松緒は謝り、手元に常備しているちょっとしたお菓子を二つ包んで渡した。
「ありがとうございます」
たつきは戸惑いながらも包みを受け取る。
「松緒さまはお優しいですね」
「少しのお菓子なんてたいしたことないですよ」
「かぐや姫さまにお仕えしていた時にはこのようなことがなかったので……」
「それはあなたが仕えた期間がまだ短かったから。もう少ししたら姫様のお優しい気持ちがわかったと思いますよ」
「そうですね……」
たつきはしみじみと言う。
「ぼくからしたらもう、『かぐや姫さま』は松緒さまのことです」
その何気ない言葉が、松緒の胸には深く深く突き刺さったのだった。
御簾向こうに座る青年は、傍らの灯台《あかりだい》に照らされた透き影からも、四角四面を好みそうな几帳面さが伺い知れた。
彼は宿直の最中、休憩を兼ねて、「かぐや姫」の室を訪れた。傍には相模たち女房も控えている。
――き、気まずい……!
近衛少将行春は「かぐや姫」のいる御簾前に腰を下ろし、そのまま何か言うかと思っていたら、黙り込んでしまったのだ。
これには松緒も戸惑った。たいていは殿方の方から「かぐや姫」に話しかけていたからである。しかも、かぐや姫との対面を希望したのか、彼の方からではなかったか。
意図しない沈黙の時ができてしまい、松緒は焦った。
――こういう時、姫様なら……。
脳内で「イマジナリー姫様」を召喚する。
松緒の強固な姫様観察の賜物ともいえる彼女は、つい、と行春のほうへ顎を向けると、
『放っておきましょう』
ふふふ、と微笑みながらおっしゃった。
さすが姫様、男に対して辛辣だ、と松緒は感心したものの。
『姫様、姫様。いけません。庚申待ちの行事の危機なのです! どういうおつもりで楽人になるとおっしゃったのか、確かめませんと』
『そうですね……。わたくしならば……』
その言葉を聞いた松緒は、相模に囁いた。
「相模。箏を」
相模は怪訝そうにしながらも、箏を持ってきた。
手元に備えていた紙の仮面をつけてもらい、松緒は顔隠しの扇を脇に避けた。
行春が身じろぎする。
松緒は気にせず傍に引き寄せた箏を爪弾きはじめた。
張られた弦をはじくと、とりとめのない音の粒が軽やかに舞い上がる。
――姫様は、箏の名手だった。
かぐや姫は姫君として一通りの教育を受け、すべからく出来がよかった。美貌と才気の二つを松緒の「姫様」は持っていたのだ。
そして、松緒も、遊び相手としてだけではなく、その教育に付き合わされてきた。一緒にはげむ仲間が欲しかったのだろう、かぐや姫が何かを習えば、松緒も同じように習うことを求められた。
箏も、同じように姫様とともに習った。
松緒は、かぐや姫ほどに器用ではなかったが、仕える主人に恥じないように懸命に練習した。今では、初見の者が聞いただけでは音色の区別がつかないほど、姫様そっくりの音色を真似ることができるようになった(それでもやはり微妙に姫様の腕には劣るけれど)。
――楽人をされるというのなら、この音色に合わせて合奏することなど容易いはずでしょう?
求婚を断る時のかぐや姫はやたら挑戦的な態度を取ることが多かった。だから松緒も同じようにする。
己から話し出すつもりがないのなら、引き出すのみ。
これで察せられないのであれば、それまでだと。
松緒の指は絶え間なく流麗に動いて、虹色の音を奏でた。
ややあってから、松緒はちらりと御簾向こうを見た。透き影に、龍笛の細長い影が加わっている。
――受けて立つつもりということね。
出来がよかったかの判定は、周りにいる者たちがしてくれる。
松緒は、神経を尖らせて、その時を待った。
松緒が、さらに指を走らせたところで、行春が息を吸いこみ、龍笛に吹きこむ音が聞こえた気がした。
龍笛の音が、箏の調べにそっと加わった。
松緒は、意外にも繊細に聞こえる音に驚いた。
彼女自身は耳にしたことがなかったのだが、行春は楽器の扱いも上手いのだろうことがすぐに察せられた。若くしてこの腕ならだれからも称賛されているだろう。
――でも、楽人を申し出た狙いは? 姉の入内を間接的に邪魔している女の顔が見たかったから?
純粋な好意から、かぐや姫に近づこうとしているわけではないだろう。
松緒はどこまで行春がついてくるのか試そうとした。
箏の音がどこまでも駆けていく。一拍遅れて、龍笛もついてくる。
龍笛が箏を先導しようとする。箏は拒む。
競争だ。どちらがどこまで耐えられるか。
かぐや姫は決して自分を曲げなかったから。松緒もそれに従う。松緒が負けたら、姫様も負ける。
やがて、龍笛の音が止む。少しして、箏の手も止めた。
途端に、松緒の指が疲労を訴えてきて、ひそかにため息をついた。
――むきになりすぎてしまったかも。
相模まで呆然とした様子で松緒を見ている。
「やはり……」
何の脈絡もなく、御簾向こうの青年が言葉を発した。
「尚侍さまのお手を煩わせていたようです。楽人の話はなかったことに。当日、お役に立てることがあればお呼びください」
感情が見えない声音で、青年は立ち上がり、来る時よりも早足で去っていった。
蔵人頭長家は、仕事に追われていたため、その日も遅くまで蔵人所で書類と格闘していた。
部下の蔵人たちの中にも残っている者がいたが、たまたま出払っていた。
戸の前に、幽霊のように年下の友人が佇んでいることに気付いた長家は、眉間を揉んで相手を見間違えていないか確認してから、どうされましたか、と声をかけた。
行春はゆらゆらと歩き、長家の前に仁王立ちになった。
「先ほど、かぐや姫とお会いしてきました。何なのですか、あれは」
「は?」
長家は驚きながらも、友人の唇がわなないたのを見た。
「ぼくは、あれが嫌いだ」
「え、どうしたんだい、急に」
再度驚いたので言葉も崩れてしまう。
「長家さまの眼は眩んでおられるのでしょう」
「え、えぇ?」
「考え直されたほうがよいのです。みながみな……騙されている」
それだけ言うと、行春は蔵人所から出ていった。
顔が熱い、とぼやきながら。