……長家が、書類の整理をしているところに、昔から知る年下の友人がやってきた。
「どうしましたか、行春殿」
「今、かぐや姫を見てきました。こちらにおいでになっていたのでしょう?」
「ええ、ご挨拶に」
「顔は見ましたか?」
「まさか。本人が望まないのに不躾なことはできないですよ。そういえば、行春殿もかぐや姫に文を出されていたのでは?」
「あれは……ぼくじゃない」
「そうですか」
周囲の者がけしかけることもあるのだろう、と長家は勝手にそう解釈した。
「世間ではみなかぐや姫を当世一の美女だと持ち上げ、次から次へと求婚の文を送っているし、帝の御関心の的でもあるが……他人がそうしているからといって、ぼくまでそうしなければならない道理はあるまい。凡人と同じになりたくない」
――なれば、なぜそれを長家に言いに来るのか。
彼にも、自分の心中を把握できていないところがある。
左大臣家の御曹司で、恵まれてはいるけれども……彼はまだまだ青かった。
潔癖で、理想がある。他人からは、冷淡に見えることがあるだろう。
「わたしは凡人だから素直に自分の心に従うよ。それに……あの姫君は意外と親しみやすいところがありそうでね」
行春はなぜか傷ついた顔をした。
「わかりました。長家さまがそのようにおっしゃるのでしたら、ぼくも交流を持ってみましょう。では……また」
「はい、また」
長家は行春を見送った。
「松緒は、恋をしたことがありますか?」
「ありませんね」
かぐや姫がいなくなる前。こんな会話をしたのを覚えている。かぐや姫が、次々と届く恋文を眺めてしかめ面(しかしそこはやはり松緒の姫様なのでため息が出るほど美しかった)をしていたため、「恋文を見るのは気が進みませんか」と尋ねたのがきっかけだった。
「よくわからないのです。この松緒にも恋文をもらうことはありますけれども、ほとんどが姫様への手引きを狙ってのことですから、本気で取り合ったことはございません」
「松緒……」
かぐや姫は長い睫毛を伏せて、申し訳なさそうにする。
「わたくしは松緒の幸せを妨げているのかしら……」
「いえ! そのようなことはまったく! 松緒は、姫様にお仕えできるのが何よりの幸せなのです! 恋人なんて必要ございません!」
「わたくしのことは気にせず、良い殿方がいたら応えてもよいのですよ?」
「姫様、本当にそんな相手はおりませんので大丈夫ですよ! ……それよりも。姫様ご自身には心惹かれる相手はいらっしゃらないのですか?」
「いますよ」
それを聞いた松緒は飛び上がった。
「どなたですか! 姫様にふさわしい殿方でしょうか。年収と性格と将来の見込みと姫様への気持ちを確かめさせていただきたく……」
「松緒は自分のことをどう思っているの?」
「へ? この松緒でございますか?」
一瞬はきょとんとした松緒だが、すぐにかぐや姫の意図に気づいて、姫様、と声をあげた。
「からかわないでくださいませ!」
「ふふふ。ねぇ、松緒。そなたには、わたくし以外に心惹かれる相手は、本当にいないの?」
「そこまで心配なさらなくとも、本当にそのような相手は……」
――いえ、でもたしか。
松緒の脳裏にある光景が過ぎる。
前世日本の、とある交差点。
赤信号だが急いでいるのか道路に飛び出してしまった男性。
「恋とは違いますが、気にかかる人はいました」
迫るトラックに気づかない様子で……前世の松緒は思わず飛び出し、彼を突き飛ばした。
「遠い昔に会った人です。今はどこにいるかもわかりませんが……助かって、どこかで幸せでいてほしいと思います」
「助かって、とは?」
「事故に遭いそうになっていたのを、助けようとしたんですよ。私、馬鹿だったんです。あちらの方は立派な成人男性で……私のほうが非力だったのに、助けようとしてしまって」
飛び出した後のことは覚えていない。
前世の松緒は、そうやって死んだのだろう。
最期に目に焼きついたのは、自分を追いかけてきた女を驚いたように見つめてきたきれいな顔。
――だって、彼、「平安雅恋ものがたり」のラバストをかばんにぶら下げていたから。同じゲームを好きならば、他人に思えなくて。
「気に病まないでほしいなぁって一方的に思っているだけですよ。恋ではないのですが……忘れられないですね」
「……そう」
思いのほか、淡白な返事だった。
「姫様?」
呼びかけるとかぐや姫は考え事から醒めた顔つきになった。
「松緒にも、そのような相手がいたのですね……」
「ですから、何度も言うように恋では全然ないんですよ?」
「ふふ、そうですね」
「信じていないですね!?」
それで話はしまいになった。
まもなくして、かぐや姫は松緒をそれとなく遠ざけるようになっていった。
松緒の代わりにかたわらに侍ったのは、新入りの女房だったが……。
かぐや姫の心中はあのころからわからなくなっていったのだった。
時は、あの夜の出来事にさかのぼる。
『そなたは……かぐや姫の『偽物』だな?』
闇に沈んだ「かぐや姫」の居室。謎の闖入者は松緒の背後から迫り、彼女の正体を見破った。
頭が真っ白になった松緒はとっさに、
『……無礼ではありませんか。夜中に押し入るなんて』
震える声で言い返していた。そして、万が一を考えての「言い訳」を口にする。
『「姫様」は別の寝所でお休みです。あなた様のように女人の寝所に忍び込む方がいらっしゃるから、私のような「身代わり」が必要になるのですよ』
「かぐや姫」自身は身の安全のため、違う場所で休み、代わりに松緒がかぐや姫として寝所にいる。
もしも松緒が顔を見られても、この理由であれば「かぐや姫の不在」という最大の秘密は見抜かれないはず。
『身代わり、か』
背後の男が納得したのかは、闇の中で抱きかかえられている形ではうかがい知れない。
『離してくださいますか。このような暗闇です。私も逃げも隠れもいたしません』
男の気配が少し離れた。松緒は胸を押さえながら、心臓の鼓動を収まるのを待った。
『本物のかぐや姫はどこにいる?』
『お答えできません』
『おまえはかぐや姫の女房だな。名は?』
『自ら名乗られない方に、名乗れる名などございません。そこらのごみ虫と同じように考えてくださいませ』
『ごみ虫か』
『その代わり踏まれても丈夫です』
『気の強い女だな。おれの名は知らない方がいいと思うぞ。恐れ多くて失神するかもしれない』
『今は名も知らないので、姫様に近づこうとする悪い虫としか思えません』
売り言葉に買い言葉で、応酬したものの……松緒は、相手が想定よりも身分が高い人物なのかもしれないと思い始めていた。
なにせ、夜の後宮なのだ。身分の低い者が出入りできるものではない。
そう、松緒はこの場では立場があまりにも弱かった。気丈に言い返しているのも、ただただ姫様のためにと気を張っているだけ。ぼろを出す前に諦めて帰ってくれとひたすら念じていた。
『ならば、この場にはかぐや姫をめぐってごみ虫と悪い虫が角を突き合わせているというわけか。あなたはなかなか口が堅そうで困る』
『お褒めいただきまして、ありがとうございます』
『褒めていないぞ? 今宵の「収穫」がなかったわけだからな』
松緒が黙り込むと、男がその場を立ち上がる気配がした。
ようやく去ってくれる気になったらしい。
だが、室を出ていく男は、最後にひとつだけ、と松緒に尋ねた。
『かぐや姫の女房よ。あなたの主人が何をしていたか、知っているか』
『何のことです?』
『……なるほど。では、また会うことになるだろうな』
不吉な予言だけ残し、男はどこかに行ってしまった。
おかげさまで気疲れにより松緒はしばらく寝込んでしまったし、どこまで松緒の言い訳が通じていたかもわからないので、思い出すたびに太刀の鋭い切先が背中に当てられたような心地になる。
松緒は、その男とはもう二度と会いたくないと思っている。
「かぐや姫よ。久しいな」
また帝がやってきた。
前回と同じように侍従などをみな下がらせて、御簾越しの対面だった。
初対面の女人に「蝉の抜け殻」を渡してきた出来事以来である。
――久しい、とまではいかないけれど。
少し間が空いたので、かぐや姫への関心が薄れたのかと思っていたのだが、そうでもなかったらしい。
それよりも気になることがあった。
――御簾向こうの人影が、ふたつ。
帝の斜め後ろにもうひとりいるのだ。しかし、黒や赤、緑といった官人の衣服の色ではなく、薄い藤色だった。
後宮において、自由な色を身につけられる身分の者は限られる。
――たとえば。
「主上《おかみ》。姫は驚いておられるようですので、早くご説明して差し上げてはいかがでしょう?」
帝のふくよかな声に対して、少し重みのある男らしい声が響く。
「うむ、そうだな……」
帝も、どこか気安く応じている、その男。相当な貴人と思われた。
――もしかして、このお方は……。
心臓がいやな音を立てる。
御簾越しにでも、松緒の視線を感じたのだろうか。
帝の柔和な顔立ちと比べるとやや野生味を感じさせる面立ちに、笑みが浮かんだようだった。
「東宮だ。以前にもご挨拶申し上げたのだが、覚えていらっしゃるだろうか?」
彼も、乙女ゲームでは攻略対象だった。
東宮、兼孝親王。墨宮とも呼ばれる人だ。帝の実弟に当たる。貴人なのにワイルドさがあるのが魅力で……ただ、今の松緒との接点はほとんどない。
「その際は、大納言殿も同席されて、直接お声は聞けませんでした」
「はい。恐れ多くも……世間知らずだったもので、臆してしまいまして」
後宮に入ってから一度だけ対面はしたものの、他の攻略対象たちと同じくほとんど記憶が残っていなかった。
今になってやっとまともに接している始末である。
「それは仕方のないことだ。邸の奥にいたのに、騒がしい宮中にやってきたのだから、慣れていないのはわかります」
「ありがたきお言葉にて……」
すると、帝が口を挟む。
「墨宮、朕がせっかく紹介しようとしていたのに、ひとりで話し始めるなんてずるいではないか。朕が紹介したかったのだ」
「ですが、主上《おかみ》。以前にも一度、姫君と対面したことがあるのですよ」
「うむ、わかっている。しかし、朕がかぐやを紹介したかったのだ」
よくわからない理論で帝は駄々をこねている。彼は一体、何をしたいのか。
「……兄上は相変わらず独特だなあ」
東宮はぼやき、「わかりました。お好きになさってください」と付け加えた。
帝がその場で背筋を伸ばす。
「尚侍。そこにおるのが、東宮である。朕の弟だ」
「はい、弟です」
松緒は沈黙していた。帝は構わず続ける。
「墨宮よ。そこにいる女人が、尚侍だ」
「お噂はかねがね伺っております。……このような感じでよろしいでしょうか、主上《おかみ》」
「うむ」
松緒は何も言わなかった(言えなかった)が、帝自身は満足したようである。
「かぐや姫よ」
「はい」
松緒は居住まいを正した。
「先日に話した後、朕も贈り物について考えたのだ。次にそなたに贈るものは何にしたらよいだろうかと」
「あの、それはもうお気遣いなく……」
「趣向をこらす必要はないと言った。相手のために心がこもっていたらよいのだと。しかし、やっぱり花や歌では物足りぬ気がしたのだ。そうしたら、たまたま東宮が挨拶に来たので、相談したのだ。東宮は、本人を見なければわからぬと言った。だから連れて来た」
帝は松緒の言葉を聞かずに滔々と話していた。
「東宮は、朕より女心がわかると申すのでな。経験も豊富なのだ」
「そもそも主上が浮世離れしているのですよ」
「東宮、何か考えは浮かんだか」
「……尚侍。主上は悪い方ではございませんので」
今にもため息をつきそうな声音で兄をフォローする東宮。自由な兄に振り回されているのがよくわかる。
「それは……存じております。帝の御恩情にはいつも感謝申し上げております」
「……うむ!」
「この御恩に報いるべく、今後も尚侍の職務に励んで参ります」
「……うむ」
――なんだろう、今、声の調子が一段下がったような。
「主上はすっかり「かぐや姫」にまいっておられる」
東宮がにこやかにそう言った。
「ですが、姫君は入内ではなく、尚侍になられた。主上の手がついているわけでもない。油断されていたら、どこかの鷹にかっさらわれてしまうかもしれませぬぞ」
「そなたはそのようなことをせぬであろう」
帝は迷いなく弟に告げた。
いささか驚いた……というような沈黙があった。
「かぐや姫の心がそう動いたら、よい。無理強いはせぬ。泣いている女を相手にするのはやはり気が咎めるのでな……」
「そうですか。では、これからどうするおつもりで?」
「うむ。かぐや姫、どうしたらよいか教えておくれ」
帝が「かぐや姫」にぜんぶ丸投げした。
帝と東宮。この国でもっともやんごとなきツートップの視線を受けた松緒は、背中にびっしょり汗をかいた。
――「私」にどう答えろと!?
天然で無茶ぶりをしてくる上司に頭を抱えたい。
しばらく考えた松緒は、ゆっくりと口を開いた……。