書状や書簡が積まれてからしばらく経つと、須磨が松緒の元へやってきて、仕事のやり方を一通り教えていった。
須磨の元には、宮中にいる貴族たちから後宮内に届く文や嘆願書が届くほか、様々な部署からの報告書が上がってくる。それぞれの内容に合わせ、帝に報告をあげるもの、内部で処理をするもの、自ら返書を書くものなどに選り分け、女官たちに指示を出す。
「これはまだ一部でございますよ。簡単そうなものだけお持ちいたしました」
「……そなたは、きちんと眠れていますか」
「灯りの油がもったいないですからね。夜は寝ています」
つまり、それ以外はほとんど働きづめということだ。聞けば、一年以上里下がり(実家に帰ること)ができていないとのこと。
「わかりました。わたくしもそなたの負担を減らせるようにしましょう」
「よろしくお願いいたします」
須磨はまだ「かぐや姫」に対して猜疑心を持っているようだった。今まではさぼり魔のように見えていただろうから仕方ないと思う。自分の働きで認めてもらうしかないのだ。
松緒は後宮で働く女官の名簿を求めた。自分の下にいる部下たちのことぐらい、多少知っておかなければならないと思ったからだ。
須磨は少々驚いた様子だったが、了承した。
「ところで須磨。この、女官の家族から来ている嘆願書が気になっているのですが、これはなんですか?」
松緒が渡した書状に目を通した須磨は、ああ、と低い声になる。
「後宮で何ができるわけではございませんが、帝のお耳には入れたほうがよいことですね。近ごろ、都には妙な薬が流行っているのです。見た目はただの粉薬なのですが、飲めば極楽浄土に行って帰ってきたような心持ちとなり、やみつきになってしまうのだとか」
――麻薬みたいなものかな。
「物騒ですね……」
ええ、と須磨はため息をついた。
「老若男女問わず、それこそ身分も問わず、流行っているようですね。それこそ朝廷の方々も、こっそり愛用されていた方がいらっしゃったようで……。ただ先日、前参議《さきのさんぎ》の方が、服用のしすぎでお亡くなりになって以降、その薬は使用禁止となりました」
「そうなのですか。それでこの書状を……」
嘆願書を書いた女官の家族が、薬を飲みすぎで、錯乱状態になっているという。医者に見せるため、給料の前払いを嘆願したいというのがその内容だった。
前払いは可能だろう。だが、副作用でボロボロになった身体は戻らない。
「知らぬ間に、後宮内にも入り込んでいるかもしれませぬ。かぐや姫様もお気をつけくださいませ」
「わかりました」
「それと、こちらは口頭でのご報告なのですが」
「なんでしょう?」
「先ほどこちらに伺う時、野良陰陽師がかぐや姫の元へおたずねになるとおっしゃったので、首根っこ捕まえて、追い出しておきました。御承知おきくださいませ」
「野良陰陽師?」
野良犬に対するような言い方だった。
須磨は口にするのも嫌そうに、
「晴明《はるあきら》でございますよ。かぐや姫様を『気に入った』ようです。……まさかあのような輩を寝所に入れたわけではございませんよね?」
帝を袖にしておいて! と言わんばかりである。
「そのようなことはありません」
「寝所に入れる」という表現は……まあ、あけすけな言い方ではないが、そういうことだ。だから嘘は言っていない。ただ、「かぐや姫」の居室に入ってきたことはあるので、なんとなく気まずい。
須磨が退出した後、松緒はまた書類仕事との格闘を再開した。
――仕事はたくさんあるけれど、気が紛れていい。姫様のためにもなるもの。
夜になると、傍仕えの女房たちを先に眠らせた。頼りない明かりの下、机に向かい、黙々と書状に目を通していく。自分ならばだれにどのように指示を出すか、考える。
数回夜を繰り返すうち、松緒はどのように宮中が動いているのか、書面を通してなんとなくわかってきた。
後宮自体、ひとつの組織なのだ。どこから要望が生まれ、企画が立てられ、人が動いていくのか、その構造は現代の企業や官僚組織と似通うところがある。
そうなると、事務仕事の省略を考えたくなるのが、元OLとしての思考である。
前世の松緒は、いかに残業を減らすためにさぼりながら仕事をするのか、そればかり考えていたのだ。
少しのノウハウを駆使すれば、須磨の仕事も減らせ、身代わりが終わった後のかぐや姫の負担も減る。まさにウィンウィンの関係だ。
頭の中で考えを巡らせていた松緒は。
そのために、背後から忍び寄る人影に気付けなかったのだ。
「かぐや姫」
甘い声で呼ばれたのは、今はいない主人の名。
首の後ろから手を回され、抱きしめられているのは、松緒の身体。
一瞬、頭が真っ白になった松緒は、とっさに灯台《あかりだい》についた火を吹き消した。顔を見られないために。
相手は男。大柄と思われる。
一度、内部に入り込んだあの陰陽師かと一瞬疑うも、声は別人のように思われた。
松緒は震えながら「どなたですか」とかぐや姫として答えた。
男は耳元でフ、と笑う気配がする。男が身に纏う香の匂いが辺りに充満している。
「わたしは、そなたの秘密を知っている」
「秘密……? 何のことですか」
毅然として言い返せば、「気丈な女だな」と声が返ってきた。
「実は、先ほど、灯りに照らされた、そなたの顔を見ていたのだ」
それは思いも寄らないことで、体中の血の気がざっと引いた。
「かぐや姫は絶世の美女と聞く。なのに、こっそりのぞいてみれば凡庸な女がそこに座っていたよ」
「あ……っ」
声にならない。
だれだ。この男は、だれだ。
笑みを含んだ声のまま、男は後ろから『かぐや姫』……松緒の手を取った。今や振りほどく気力もない。
「そなたは……かぐや姫の『偽物』だな?」
そうして、決定的な一言を放ち、松緒の身体は今度こそ凍り付いたのだった。
明朝、朝の支度を手伝いにやってきた相模は、まったく眠れていない様子の松緒を見るや、すぐさま寝所に松緒を寝かせた。
「近ごろ、だいぶお疲れがたまっていらっしゃったでしょう。お休みください」
「ですが、もうすぐ須磨さまがお見えになる刻限ですよ。待っておりませんと」
「須磨さまには私から伝えておきますから。……松緒、眠っていなさい」
最後の一言は、だれにも聞かれぬような小声で。
松緒は諦めて「うん」と頷いた。相模には母親代わりのようなところがあるので逆らえない。
身体も熱を持っているようで、うまく動いてくれなかった。
いつまで経ってもなじめない豪華な几帳台の中で眠る。相模が時々、松緒の様子を覗き込みにやってくるが、次から次へとやってくる見舞客の相手に困り果てているようだ。
後宮というものは噂が広まるのも早かった。
熱も下がった夕方ごろには、かぐや姫の体調を心配した貴族たちからお見舞いメール……もとい文が届く。適当に処理しておきますね、と相模が言っていた。
松緒は、見舞いの文のうち、一部には返事を書いた。例の、対面しなければならなかった四人の男たち宛てである。
邸内の中でも、松緒が一番、かぐや姫の筆跡を真似るのが巧かったので、そこはつつがなく終わった。
だが問題は、その後にやってきたのだ。
「娘」が体調不良だと聞いた桃園大納言は夕方遅くにやってきて、「気が抜けている」と叱咤した。そして。
「明日は帝とお会いするのだ。おまえの体調をとても気にされている」
「ですが……」
「構わぬだろう。いつも断ってばかりでもよくない」
「はい……」
桃園大納言は松緒をひと睨みしてから去っていく。
翌日。帝がぞろぞろ人を引き連れながらやってきた。
この国でもっとも高貴な方ともなると、どこへ行くにも侍従などがついてくる。前回の対面の際にも、人の気配が多すぎて気が気でなかった。彼らはみな、かぐや姫を見たくて興味津々だっただろうから。
今日も前回と同じになるだろうと構えていたのだが、ほかならない帝自身の声が響く。
「みなここで下がるように」
人の気配はかぐや姫のいる御簾の前からあっという間に去り、ひとりのみ残った。
「どうだろう。そなたも腹を割って話さぬか。二人きりならば話せることもあろう」
ふくよかな声が響く。
松緒は相模と顔を見合わせた。
――拒めそうにない。
「……承知いたしました」
帝の仰せには本来何も言えるはずがない。むしろ、今までがおかしかったのだ。
意を決して松緒が頷くと、相模も別の戸から退がった。
面を隠すための扇を持つ手に、じっとりと汗がにじむ。
「初めて、声を聞いたな。良き声だな」
「もったいないお言葉にて……」
「身体はもう大事ないか」
「はい。おかげさまですっかり調子も戻りまして……」
松緒はいつ、目の前の御簾を帝が踏み越えてくるのか気が気でなかった。御簾から透ける座り姿からは、そんな無体はしないような気もするが、それは松緒が世間知らずだからかもしれない。
「近ごろ、尚侍《ないしのかみ》のことで須磨に、教えを乞うておるとか。感心しておる」
「いえ……」
言葉を濁しかけた松緒だが。
「わたくしは与えられた役割をまっとうしたく思っております。須磨さまからは厳しくも温かくご指導いただいております」
そう付け加える。
「そうか。それはよきことだ。須磨から学ぶことも多かろう。あれは物事に対して公平だ。そなたが励んでおれば、そなたを認める時も来る」
「ありがたきお言葉でございます。今後も努めて参ります」
――主上《おかみ》はいい人そう。
噂に疎かった松緒は今の帝のことをあまり知らない。だが今話している分には、悪い印象を持たなかった。さすが乙女ゲームのメインヒーロー枠、現実的に考えれば、かぐや姫のお相手としてこれ以上ない相手ではないか。
そう思ったが。
「ところでな、実は今朝、珍しきものを見つけたのだ」
御簾向こうで何やらごそごそと袖のあたりを探る帝。
やがて手ぬぐいの上に載せられたモノが、御簾の下からすっと差し出される。
「蝉の抜け殻……ですか」
「きれいだろう」
綺麗に形が残った、蝉の抜け殻。
今は、春である。蝉の抜け殻が落ちているのはたしかに珍しい。
絹の手ぬぐいを片手で持ち上げて眺めていると、どうだろう、すごいだろう、と言いたげな雰囲気が正面から漂ってくる。
――これは、試されている……?
ゲームでの帝は「天然入った自由人」。しかし、蝉の抜け殻を自慢してくるとは松緒の予想を超えていた。ちょっとぼけたやりとりになるだけだと思っていたが、蝉の抜け殻を女に見せて自慢してくるのは「天然」通り越した「変な人」である。
今の帝には妃がいないため、女性の扱いには不慣れなのかもしれない。そう自分を納得させた松緒は、おそるおそる口を開いた。
「たしかに、色艶はよろしいかもしれませんね……」
「だろうだろう。そなたにやろう。これを見つけた時、そなたにこの話をしたくてたまらなくなったのだ」
自分の宝物を飼い主に差し出す忠犬は、このような感じではなかったか。
桃園第では翁丸《おきなまる》という名の犬を飼っていて、松緒もよく世話していたが、ちょうど翁丸も同じことをしていた。木の枝とか。
「主上《おかみ》、恐れ入りますが……」
松緒は、勝手ながら帝が心配になった。
「わたくしが虫嫌いでしたら、ここで悲鳴をあげて、この抜け殻は放り投げておりました……。ご自身で気に入ったものを分け与えることは、帝王として素晴らしい心構えかと存じますが、相手によっては伝わらないこともございますが……」
すると、帝は「そうか」と素直に頷いた。
「そなたは虫が好きか?」
「特に何とも思っておりません」
かぐやも松緒も、虫に対して過剰に嫌悪する性質ではなかったのでそう答える。
「ですが、今回の主上《おかみ》のお心遣いにはわたくしにもよく伝わりました。蝉の抜け殻も、室の中に飾っておきましょう」
「うむ……!」
「もし、次に女人に贈り物をされる際には、女人が好みそうなものを用意されるとよろしいかもしれません」
「花や歌か?」
「一般的にはそうですね」
「だが特別感がないぞ。ありきたりすぎる」
その言葉を聞いて、松緒ははっとして蝉の抜け殻を見下ろした。
人によっては投げ捨ててしまうだろう蝉の抜け殻でも、帝は帝なりの論理で懸命に考えた贈り物だったのかもしれない。……蝉の抜け殻だけど。
「……趣向を凝らさずとも、相手のためを思って一生懸命考えたのであれば、その心は伝わりますし、うれしいと思うものでございます」
「そなたはうれしいと思ったか?」
「はい」
ややあって、帝はその場を立ち上がった。
「贈り物ひとつでも難しいものだな……。あまり深く考えたことがなかった」
「いいえ、わたくしも差し出がましいことを。申し訳ありません」
「よい。今日のところは出直そう」
踵を返しかけた帝が、ふと振り返る。
「ところでそなたは……」
「はい」
「ちぎりたての蜥蜴《とかげ》の尻尾は、好きか」
「特に何とも思っておりません」
松緒は、肩を落として帰っていく帝を見送った。