握っていた手から力が失われ。
 呼吸が止まる。
 衣を血まみれにした松緒は、かぐや姫の、最期の一息まで泣きじゃくりながら見守っていた。
 姫様、と名を呼び、体をかき抱き、頬に触れて、かぐや姫の言葉に耳を澄ませていたのだ。
 だれも寄せ付けなかった。場を指揮していた東宮でさえ、声をかけるのを憚られた。

 ――かぐや姫の後を追わないだろうか。

 渓谷の川辺に座り込む悲壮な背中を見つめながら思う。
 かぐや姫は崖から落ち、夜明けまで見つからなかった。にもかかわらず発見された時に虫の息でも生きていたのが奇跡だと言えた。
 あんなに美しさを謳われたかぐや姫でも、その顔はもはや見る影もなく。片目は潰れ、鼻も陥没していた。
 あのあずまでさえ、彼女の顔を見た瞬間にその場でえずいたほどに醜い姿に変わり果てていたのだ。
 しかし、松緒は涙を流しながらも、迷わず倒れるかぐや姫を助け起こして、姫様、姫様、と……おそらく昔からそうしていたように、主人を呼んでいたのだ。

 ――俺はあなたが羨ましいな、かぐや姫。

 わずかに垣間見えた死に顔は、いっそ満足げに見えたのだった。
 不死の妙薬にまつわる騒動は、これより静かに収束していった。




 相模は、ぽつりとこぼした。

「松緒が邸に来る前。幼い姫様は何者かに犯されました」
「どうしてそんな……!」
「おそらくは、左大臣家のさしがねでしょう。確証はありませんが、当時東宮だった今の帝の妃として、左大臣家とこの大納言家の姫君の名がさかんに取り沙汰されていましたから。そして、かぐや姫の美しさはそのころから評判だったのです……。姫様のご様子が変わったのは、その時からでした」
「私が出会った姫様は……もうそのころには」
「ええ……」

 まだ十歳にもなっていなかった姫様の身に起きた悲劇に身が潰れそうになる。
 姫君を失い、桃園大納言も引退した。今の桃園第は静かなものだった。風光明媚として知られた邸も、これからゆっくり朽ち果てていくのだろう。
 今の松緒は、もう身代わりをしていなかった。その必要もなかった。

「もしかしたら、姫様はすべてをご存じの上で、市場で売られていたあなたを買ったのかしら……」
「まさか、そのような偶然が」

 松緒は曖昧に笑うが、腑に落ちないところもあった。
 昨日出会ったばかりの「姉」を思い出す。彼女の命もまた、そう長くなかった。苦しそうな息の中で、松緒の顔を見た途端、はっと目玉をこぼれそうなほどに見開き。

「あぁ……! あぁ……!」

 さめざめと泣き出した。
 病で様変わりをしていたけれど、松緒には元の顔がありありとわかった。水面に映る己の顔と、そっくりだったからだ。

「わたくしが選ばれてしまったから、あなたは外に出されてしまって……生きていてくれてよかった……!」

 双子は不吉だという迷信がある。そのために生まれたら引き離すことがままあるそうだ。
 左大臣家の大君が松緒の双子の姉だとすれば、松緒もまた血筋では左大臣家の姫君ということになる。
 姫様を傷つけた左大臣の血を引いているのに、松緒は姫様に拾われた? ……いや、ただの縁の問題かもしれない。
 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。最期のうわごとを耳にした時にそう決めた。

「松緒はこれからどうするの?」
「さぁ……。私にもわかりません。もう、姫様を追いかけるしかないかなって」
「いけません!」

 真っ赤な目をした相模が松緒の体をぎゅうぎゅうと抱きしめた。

「こんな年寄りより先に死のうとするなんて許しません! 姫様に続いてあなたまでいなくなったら……もう」

 相模はこの一月ほどでずいぶん老け込んでしまった気がする。無理もなかった。いろいろなことが、ありすぎたのだから。
 姉と松緒の顔がそっくりだと初めに気づいたのは、行春で、行春から説明を受けた大君が松緒に事情を話してくれた。
 その行春からは、実母だという人に引き合わされ、左大臣とも面談した。
 左大臣からは、松緒を引き取りたいという申し出を受けたが、松緒は固辞していた。

 ――あの人は、あんまり好かない感じがしたから。

 おおかた、松緒を入内するための駒にするつもりなのだろうと察しがついていた。勘弁してもらいたかった。
 かぐや姫がいなくなってさほど日も経っていない。何かを考える気力もなかった。
 日がなぼうっと桃園第で過ごしていると。
 庭からひょっこりとピンク髪が現れた。

尚侍(ないしのかみ)サマ」

 久しぶりに見る陰陽師だった。

「私はもう、尚侍じゃないですよ。東宮さまからお話を伺いませんでしたか?」
「フフフ」

 晴明《はるあきら》はただただ微笑んでいた。

「晴明殿はどうしてここに?」

 しびれを切らして尋ねれば、晴明は後ろ手に組んで、「久方ぶりに出仕しましょう」と言った。

「出仕? まさか。身代わりはもう終わったのに」
「尚侍サマにお会いになりたい方がいらっしゃるのです」

 晴明は三つの文を出した。
 ひとつはきっちり折り畳まれた白い紙の折文。
 ひとつは桃色の色紙で包まれたかわいらしい結び文。
 最後のひとつは、実は文ではなくて包み紙。くるまっていたのは、椿餅だった。

「どれかおひとつ、選んでくだサイ」
「ひとつだけですか?」
「選んだものが、尚侍サマの運命ですヨ」

 占いでもするつもりなのだろうか。
 よくわからなかったが、松緒は一番気になった椿餅を手に取った。
 すると、陰陽師はにっこりした。

「ではお連れします。あ、その椿餅は着くまでに食べといてくださいネ」

 陰陽師は有無も言わさず、松緒を牛車に乗せた。
 椿餅をもぐもぐさせながら牛車に揺られていると、本当に宮中に着いた。
 格好は普段の女房装束なのだが、いいのだろうか。
 そわそわ落ち着かないが、陰陽師の後ろをついていく。
 とある一室に通された後、陰陽師はいなくなった。

「松緒」

 ふと呼ばれて振り向くと、そこには東宮が立っていた。

「東宮さま……?」
「その、息災であったか」
「はい……」

 松緒はやや気まずい気持ちになった。
 東宮からひそかに文を何度ももらっていたのだが、開く気にもなれなかったのだ。
 返事を出さない不敬をなじりに来たのだろうか。

「あなたは、椿餅を選んだのだな?」
「え? まあ、そうですね。美味しそうだったので……」

 東宮の顔がくしゃりと歪んだ。なんの感情か、うかがい知ることができない。

「松緒、そなたには尚侍の打診がある。主上(おかみ)がすべての事情をご存じの上で、そのように仰せになられた」
「尚侍? あれは身代わりではありませんか」
「今回は違う。左大臣家の姫君として、松緒自身に頼みたいとおおせだ。須磨(すま)も承知している」
「須磨さまが……」

 懐かしい名前だった。彼女も家族の見舞いから宮中に復帰したのだろう。

「蔵人頭長家も、近衛少将行春も、この人事に賛成している。あなたの仕事ぶりはきちんと評価されていたということだ」
「それは、ありがたいことではありますが。どうして……?」
「あなたは噂を知らないな? ……最近、とある忠義ものの女房の話が流行っているのだ。その女房は、いなくなった主人の身代わりとして宮中に出仕して、周囲の心を掴んでいった。……主人は無事に見つかり、身代わりも終わって、女房の真の身分も明らかになって、忠義者の女房は報われるのだ」

 世間はあなたの味方だ、と東宮は言った。

「身の振り方に困るなら、宮中に出仕すればいい。あなたを求めている人がいるのだから」

 東宮が懇願するような目で松緒を見つめている。
 松緒はそっと目を逸らした。

「……でも、姫様はいません。老後は椿餅を一緒に売ってくれるって、微笑んでくれたんです。私はもう、なんのために生きていけばいいのか……」

 堪えきれずに、頬に涙が流れ落ちた。
 ああまただ、すぐに決壊してしまう。普段から泣いてばかりいる。
 東宮がふと言った。

「椿餅なら、おれが一緒に売ってやるから」

 松緒は、おそるおそる顔をあげた。
 東宮がむすっとしたように繰り返す。

「おれも椿餅を売る。だからもう、泣かないでくれ」
「あなたさまは東宮ではありませんか。無理ですよね……?」

 天下がかしづく高貴な方が、参道で大きな声を上げながら餅を売る? ありえない。

「やる。やると言ったらやる」
「あの、さすがにそれは無理では」
「椿餅はいかがかねー! うまいぞ、うまいぞー! どうだ! 椿餅売りの口上も堂に入っているだろう!」
「は、腹から声が出ていましたね……」

 呆気に取られたが、勝手に笑みが溢れてきた。

「やっと笑ったな?」

 そう言われて、松緒は久しぶりに心から笑ったことに気づいた。

「松緒。今の話は本当に本心から言っているぞ。おれはな、童のころに椿餅を取り合った気の強い女子が今も元気でいてくれるのがうれしい」

 ――なにかしら、これ。

 胸がむずむずとして、落ち着かなかった。
 そんなにしみじみとしたお顔で言わないでいてほしいと思った。

「実はな、主上(おかみ)と長家、おれで、賭けをしていた。勝った者が松緒に尚侍の話をすることができる。……おれは文の代わりに椿餅を用意した」

 陰陽師が出してきた三つの選択肢。あれにはそんな意味があったのだ。

「本当に、かぐや姫はあなたにとって大切な存在なのだろうな。よくわかった。かぐや姫は罪を犯したが、そのかぐや姫を愛することは、あなたの罪ではないと思う」

 ずっとだれかにそう言ってほしかったのだと松緒は思った。許されたかったのだ、この思いを。恋とも友情とも敬愛ともつかぬ感情をずっともてあましてきたのだから。

「東宮さま……。私にはもう生きている意味もわからないですが、姫様がいない世界で、できることを探したいです。姫様も、望んでいた気がするんです」

 久しぶりに、「イマジナリー姫様」が囁きかけた気がした。

『やればいいよ。存分に』
『松緒。君のいいところは、ぼくのためならどこまでも暴走できるところじゃないか』
『さあ、何がやりたい? ぼくにも教えてほしいな』

 松緒は、閃いた。

「姫様の生きた証として、冊子を作りましょう! そこに姫様と私の愛の軌跡を記し、天下万人に姫様の良さを知ってもらうんです! そして、千年先も残る大長編小説を目指しますっ!」
「おいおいおい! いきなり飛ばし過ぎだろう! なぜそうなった! 尚侍の話とはなにも関係ないだろう!」
「はっ。尚侍をやっていれば、宮中にも冊子が広まりやすいですよね! できたら主上(おかみ)に読んでいただき、そのお墨付きももらえたら……きゃあ」
「待て待て待て! 最初に読むなら、兄ではなくおれだろう!」
「……なぜ真っ先に東宮さまなのですか?」
「うっ……」

 真正面から言われるとたじろぐ東宮。

「い、いいだろう! おれも読みたいんだ!」
「そうですか。あなたにもやっと姫様の良さがわかってきたのでしょうかね……?」
「ん? んん?」
「そうでした。冊子の名前もほしいですね。何にしましょうか……」
「『かぐや姫の身代わり女房』にでもしたらどうだ?」
「それでは私が主人公みたいではないですか。却下」
「辛辣じゃないか……」

 東宮がぼやく。
 優しい風が、御簾の隙間から入り込んでくるのに松緒は気づいた。
 おもむろに近づいて御簾を捲り上げると、外には青空が広がっていた。

「外に何かあるのか」

 背後から、まるで抱きしめられるかのように広げられた腕から松緒は猫のように避けた。

「やはりだめか」
「だめです」

 いくらなんでも東宮と「そういう仲」ではないのだから、松緒だって逃げる。

「私は姫様が永遠の一番です」
「じゃあ二番は?」

 そう言われて改めて考えてみると、二番は決めていない。相模も好きだけれども、相模は相模で別枠だと思った。
 松緒が答えに窮していると、東宮の手がまた伸びてくる。松緒はすかさずかわした。

「む。すばやいな」
「負けません」

 悔しげになる東宮に、松緒は鼻を鳴らした。

「私は、姫様の一の女房なので!」

 そう宣言して、御簾の外に飛び出した。
 風のような彼女に、東宮の手はまたもや空を切る。
 だかそのことも、なんとなく楽しいのだった。