「あずま」。その名を初めて聞いた時のことは覚えていない。
桃園大納言家の女房は何人もいるし、入れ替わりもある。新しい女房が入ったと聞けば、「へえ、そうなのね」。それぐらいだ。
東国出身だから名前は「あずま」だし、都に来たばかりなので、女房としての立ち居振る舞いには慣れていない。背は高いので何をするにも目立つけれども、無骨な動きが多ければ悪い意味でも目立った。本人は己に自信があるのか、堂々とした態度で、他人に対して愛嬌を見せることもない。自前のかすれた声でぼそぼそと話しかけるのが常だった。
名門の大納言家の女房として考えるなら、資質がまるで足りていない。彼女を見て、すぐそう判断したから、先輩女房として助言を行ったことも何度かあった。
しかし、あずまがかぐや姫に仕え始めて一月もしないうちに、松緒は自分がかぐや姫の傍にいる時は、必ずあずまも同じ場にいることに気付いた。
時には、松緒が主人に呼ばれた先で、もうその場にいたことだって。
ひそやかに、松緒に聞こえない小声で、何事かを語らっている。
かぐや姫の一の女房を自負していた松緒にとって、それがどれだけ悲しい出来事だったか。
「姫様は……あの者を気に入っているのですね」
「……そうかしら」
姫様は、誤魔化すように微笑むばかり。ますますあずまと過ごす時間が増えていく。
そして、反比例するように松緒は姫様から呼ばれなくなった。
自分の局でぼうっと過ごし、翁丸を世話していても、手持無沙汰になる。松緒は自らかぐや姫の室へ赴くのだが、そこにはやはりあずまがいる。
ある時は、幽霊を見たかのような顔で話すのをやめる二人を見た。松緒の我慢は限界だった。
礼儀を忘れた彼女は、二人の間に割って入り、両手を突き出してあずまの身体を押した。あずまは腰を抜かして呆然と松緒を見上げる(普段のすまし顔が崩れたのでいい気味だと思った)。かぐや姫は、きりりと眉根を吊り上げた。
「松緒、下がりなさい」
押し殺した声音だった。しかし、松緒はその時は気づきもしないで、だって、と唇をわななかせた。
「ひ、姫様、姫様が……あずまばかり……!」
「松緒」
「ま、松緒の、ことは、もういらないのですか……?」
「もう一度言いますよ。……下がりなさい」
改めて見たかぐや姫は、笑んでいなかった。
それは、松緒がこれまで向けられてきた温かな視線とはまるで違う。冷たく、冷酷な、拒絶の瞳。美しいが、同時に恐ろしい。自らの心の汚さまであらわにされているようで……。
松緒は力なくうなだれた。
「ひめさま、まつををすてないでください……」
頭を床に押し付け、懇願するけれど、かぐや姫は応えることはなかった。
「あずま」
一言だけですべてを心得たあずまが、松緒の肩を支える。
松緒をかぐや姫の室から出したあずまが両肩を離して一言。
「みじめですね」
低めの声で囁いた。
「姫様のことはどうぞご心配なく。松緒さまの代わりは、この私が勤めますので。あとはごゆるりとお過ごしくださいませ」
この瞬間。
松緒は、このあずまのことを「一生どころか末代まで許さないし、何ならだれかに刺されて死ねばいいリスト」に入れることに決めた。
心配です。六条の邸宅に行くと相模に告げた時、彼女はとうとうはっきりと口にした。
「陰陽師が告げたことなのですから、何かあるのかもしれません。ただ松緒が行く必要はありませんよ……。それだったらせめて私が」
「大丈夫ですよ。私のほうが体力はありますし。一晩だけなので……」
「そういうことではありません!」
相模は顔を赤くした。
「姫様のことは私も心配ですよ? 今でもそのことを考えて、夜寝付けませんし、あなたが必死になるのもわかります。ですが私は、姫様と同じくあなたのことも見てきたのですよ。姫様がいなくなって、身代わりとなったあなたを……」
「……うん」
姫様にも松緒にも理由は違っても母がいなかったから、相模が母代わりだった。童のころは、六条の邸宅で三人よりそうように暮らしていたのだ。
「それでも、行きます。姫様を探したい。……それに、翁丸は、この後宮の、まさにこの殿舎で殺されてしまったのに、事情もわからないままだなんて、嫌です」
相模はきゅっと眉根を寄せて、深く息を吐いた。
「大殿の命とはいえ、あなたを身代わりにしたのは間違いでしたね……」
その言葉にかっときたのは松緒の方だった。
「身代わりを立てなければどうするのですか、世間から姫様が笑い者にされてもよいのですか。なぜ今更そのようなことをおっしゃるのですか!」
「身代わりは必要だとしても、松緒がやるべきではなかったのかもしれないと思っていますよ」
「なんで……!」
松緒は言葉を失った。
今、もっとも近くにいて、信じていたはずの女房から、まさに裏切りとも思える言葉を浴びせられ、頭が真っ白になる。
「ずっとずっと……姫様がいらっしゃったころから、思っていたことがあります。……松緒は、姫様から離れなければならなかった。あなた方二人は、一緒にいるべきではなかったのです」
松緒と相模の間に沈黙が落ちていった。
気が付けば、松緒は泣いていた。相模は室からさがったのか、室からいなくなっている。
ちりん、ちりんと涼やかな鈴の音色が耳をくすぐると、いつもの白い猫が膝の上に乗ってきた。
どたどたどた。板敷を踏みしめる陰陽師の足音も遅れて聞こえてきたので、松緒はごしごしと目元をこすって、立ち上がった。
「ヤアヤア、猫がこちらに迷いこんでおいでカナ?」
「いますよ」
松緒は白猫の両脇で抱え上げ、明るい声音で返した。
猫を受け取ったピンク髪の陰陽師はにっこり笑う。
「準備はいかがですカナ?」
「できています」
松緒は裾をからげた姿で立っていた。お忍びで逢瀬に行く女房、というのが設定だ。
「ではこのまま六条へ参りまショウ」
「……鈴命婦は?」
陰陽師は室の外へ歩いていき、抱えていた猫をそっと地面に下ろした。
「鈴命婦はかぐや姫のところには来ていなかったのですヨ。残念でしたネ……」
しれっとした顔でいうものだから、松緒は無言になった。
鈴命婦の白い毛並みがどこかに消えたのを確認した後に、松緒は陰陽師に連れられ、後宮を抜け出した。
途中で人に見咎められることもなく、東宮との待ち合わせ場所となる井戸に辿り着いた。
近くの木陰から東宮がひとりで出てきた。
「無事に来たようだな。行こうか」
押し殺した声音で告げた東宮は、濃い色をした動きやすい狩衣姿だった。
三人とも大内裏の近辺までは言葉少なく徒歩で向かう。時折、晴明のかすかな鼻歌が風に乗って聞こえてきたぐらいだ。
都を南下し、二条から三条まで来ると、なんとなく気が緩まる。
ぼんやりとした月が辺りを照らしていた。
前を歩いていた東宮が、松緒の隣にやってきた。
「疲れていないか」
「このぐらい平気です。東宮さまこそ馬に乗らなくてよいのですか?」
高貴な男は、自ら地に足をつけて歩くことを好まない。都での移動はもっぱら馬か、牛車なのだ。それなのに、こうもひょこひょこ気軽に歩いているのだから、つくづく変わり者の東宮だと松緒は思った。
「忍んでいくなら徒歩が相場だろう。馬だと小回りが利かない。それに、おれは自分の筋力を信じている」
「筋力」
「腕でも触ってみるか」
「結構です」
東宮の足取りには迷いがなかった。
「……もしかして、こういう夜歩きに慣れていらっしゃるのですか」
「そうだな。……あっ、女人通いのためではないぞ!主上からの頼まれごとを果たすために出ることが多いのだ。直で目で見て、耳で聞いたほうがわかることもあるからな、そうしている」
ところで、と話題の矛先が別に向かう。
「今宵は……よく後宮を抜けられたな」
「それは、晴明《はるあきら》殿にもご助力いただけましたから」
普段から猫を追い回している野良陰陽師は、大内裏や後宮にある人が少ない抜け道を知り尽くしていたためか、まったく人に会わずに後宮を抜け出せたのだ。
「そのこともだが。危険を顧みないそなたの勇敢さのことも言っている。正直、実際に来るかは半信半疑だったが……」
「嘘の約束は最初からしません。来ると言ったら来るのです。姫様の手がかりも見つかるかもしれないというのに、待っているだけなどできません」
「そうだったな。松緒にとってかぐや姫が一番なんだろうな」
「当たり前ではありませんか」
「……かぐや姫が羨ましい」
ぼそり、と告げた後、はっと気まずそうに視線を逸らした東宮。
――どういう意味かしら。
なんとなく、聞けず仕舞いになる。
六条まで下ると、松緒の記憶を頼りに、かつてかぐや姫と松緒が暮らした大納言家の別宅へ向かう。
そもそも六条の別宅は、桃園大納言がひそかにかぐや姫を育てるために購入した邸宅だ。松緒や相模も三年ほど前まで暮らしていたのだ。
だが、かぐや姫への夜這い事件が発生した。
大事には至らなかったものの、警戒した大納言は娘を本宅である桃園第に移すことに決め、六条の別宅は売り払われた。
今の邸宅よりよほど思い出深い場所ではあるが、引っ越しして以来、六条の別宅へ行くのは初めてだった。
もうそろそろ六条の邸宅へ辿り着こうとした時。頬に冷たいものが当たった。
ぱらぱらと雨が降ってきた。
「しまったな。蓑も笠も持ってきていないぞ」
「問題ございませんヨ。大ぶりにはなりませんヨ」
陰陽師が言う通り、たしかに雨足はそれ以上激しくならなかったし、月明りはいまだ道をわずかに照らしていた。
そして。松緒はとうとうそこに辿り着いたのだけれど。
「ここ……のはず、なのですが」
門からのぞきこんだ先は、廃屋だった。そうとしか言えなかった。人が入らず、手入れされていない草木が生い茂り、以前は手入れされていたはずの池は見る影もなく。檜皮葺《ひわだぶき》の屋根は傾いているように見えた。敷地に入るのでさえ、草を踏みしめてあるかなければならない。
さくさくさく、と松緒は主殿のある辺りへ足を向けて歩く。
かすかに箏《こと》の音が聞こえてきた。決まった曲ではなく、心の赴くままに、優しく弾き語りをしているような。
おいでなさい。そう言われている気がした。
「ああ……! ああ……!」
「松緒!」
東宮の伸ばした手は、松緒の手を掴むことなく、するりと空振りした。
背の高い草が生えていた。
薄暗闇の中では、脇目を振らず駆ける松緒の姿などあっという間に消えてなくなる。
足が泥だらけで傷がつこうとも気にならなかった。
松緒は、その人の奏でる音色だけはわかるのだ。
逢いたかった、逢いたかった、逢いたかった……!
松緒は、主殿まで辿り着く。階《きざはし》を上がり、妻戸に手をかけたところで。
「だから言っただろうに。『姫様のことはどうぞご心配なく』と」
ため息交じりの声とともに、視界は闇に包まれたのだった。
――殺してよろしいでしょう?
――いけません。
――なぜですか。この女はあなたの邪魔をしますよ! 現に今も……!
――いけません。
――そんなに大事なのですか。この私よりも……?
教えてください。あなたの心には一体、だれがいらっしゃるのですか。
私は、いつ、あなたに触れられるのですか。
――とにかく、この子には手を出さないでください。
松緒は目を開けた。
ぼんやりと、かぐや姫と男との会話が思い出せた。
――男。だれ……?
聞き覚えがあるようなと思いながら、体を起こす。
松緒は、六条の邸でかぐや姫の奏でる箏の音を聞き、我を忘れた。油断していたところに、袋のようなものをかぶせられ、そのまま縄で巻かれて、荷物のように背負われてどこかに運ばれたのだ。
ただ、しっかり起きていたはずの松緒は、緊張と疲れと寝不足でいつしか眠ってしまっていたのだった。
「松緒」
背後から聞こえた甘い声に、松緒の魂は震えた。
両腕をつっぱって体を起こし、振り向くと。
「……姫様」
焦がれた再会はあっけないものだった。
「どうしてそのような格好を……?」
かぐや姫は、男が着る狩衣を纏っていた。しかも、あんなに美しかった黒髪は背中の途中で切ってしまったのだろう、烏帽子に髷《まげ》がおさまっている。
松緒に向ける微笑みだけは、以前のままだった。
「まるで、男のようではありませんか……」
「男のような、ですか」
「……はい」
そうですね、とかぐや姫は告げ、次の瞬間、
「男のようなもなにも、本当に男だったら?」
別人のように冷えた声で言われて、松緒の背筋が凍った。
「え……? 何をおっしゃって」
「『かぐや姫』の言動や振る舞いはすべて演技。体は女だとしても、心は男で、周囲をすべて欺いていたなら、松緒はどうする? ――それでも、地獄までついていく?」
「そ、それ、は……」
やっと会えたかぐや姫。なのに、かぐや姫の言っていることがわからない。
「松緒も東宮から聞いたよね。不死の妙薬のこと。気持ちよくなってしまう薬のこと。庶民ばかりでなく、貴族も狂わせてしまった魔性の薬。あれを流行らせたのはかぐや姫だよ」
「そ、そんなはずは……姫様、嘘だとおっしゃってください……」
「かぐや姫には望みがあった。そのために、必要なことだった。やりすぎて、宮中からお咎めが来そうになったから、逃げた。松緒、君は置いていくことにした」
ふいに「姫様」は顔を歪ませた。
「泣かないでよ。ぼくが泣かせたみたいだ。君が追いかけてきたから知る羽目になったんだよ。知らないままでよかったのにね。幻滅しただろう? 君のかぐや姫は幻想なんだから」
「姫様」が、松緒の肩を優しくさすった。
「それでも」
「うん?」
「それでも松緒の姫様はひとりだけ。あなたさまだけなのです……!」
胸の辺りの衣を縋るように掴み、重ねて懇願する。
「姫様、一緒に帰りましょう……?」
かぐや姫は、慈愛の眼差しで松緒を見下ろしたけれど。
「どこに帰るの」
きっぱりと告げられる。
「大納言家に戻っても居場所はないし、尚侍《ないしのかみ》をやるつもりもない。罪を犯した僕を東宮は見逃すまい」
「それは! それなら……松緒も連れていってください! 置いていかれるのはもう嫌です! 松緒は姫様がいてくださらないと……」
「連れていかないよ」
「どうして!?」
「松緒が世界で一番かわいいから」
松緒の全身から力が抜けた。
――私、今、何を言われた?
混乱した。姫様は姫様だけれども、これまでの姫様は演技だったというし、姫様の心は実は男だったという。男な姫様が松緒をかわいい、と……?
「もう僕を追いかけるのはやめるんだよ。それが言いたくて、ここに連れてきたんだから。これで会うのは最後だし、身代わりもやらなくていい」
「そのようなことを、おっしゃらないでください」
かぐや姫は困った顔になる。
「そうだね。……君なら、きっとそうだろうと思っていたよ」
狩衣姿のかぐや姫は、唐突に動いた。
頬に熱いものが当てられる。姫様の唇だと気がつくまでに何秒もかかった。
幼馴染の女房の目が呆然と見開かれるのを確認したかぐや姫は、すばやく懐から布を取り出し、松緒の口と鼻に当てた。
気を失った松緒の体が、くたりと力を失う。
かぐや姫は松緒の体を横たえて、その寝顔をじっと見下ろして、小さく呟いた。聞こえていないだろうと知りながら。
「椿餅を、一緒に売ってあげられなくて、ごめんなさい」
桃園大納言家の女房は何人もいるし、入れ替わりもある。新しい女房が入ったと聞けば、「へえ、そうなのね」。それぐらいだ。
東国出身だから名前は「あずま」だし、都に来たばかりなので、女房としての立ち居振る舞いには慣れていない。背は高いので何をするにも目立つけれども、無骨な動きが多ければ悪い意味でも目立った。本人は己に自信があるのか、堂々とした態度で、他人に対して愛嬌を見せることもない。自前のかすれた声でぼそぼそと話しかけるのが常だった。
名門の大納言家の女房として考えるなら、資質がまるで足りていない。彼女を見て、すぐそう判断したから、先輩女房として助言を行ったことも何度かあった。
しかし、あずまがかぐや姫に仕え始めて一月もしないうちに、松緒は自分がかぐや姫の傍にいる時は、必ずあずまも同じ場にいることに気付いた。
時には、松緒が主人に呼ばれた先で、もうその場にいたことだって。
ひそやかに、松緒に聞こえない小声で、何事かを語らっている。
かぐや姫の一の女房を自負していた松緒にとって、それがどれだけ悲しい出来事だったか。
「姫様は……あの者を気に入っているのですね」
「……そうかしら」
姫様は、誤魔化すように微笑むばかり。ますますあずまと過ごす時間が増えていく。
そして、反比例するように松緒は姫様から呼ばれなくなった。
自分の局でぼうっと過ごし、翁丸を世話していても、手持無沙汰になる。松緒は自らかぐや姫の室へ赴くのだが、そこにはやはりあずまがいる。
ある時は、幽霊を見たかのような顔で話すのをやめる二人を見た。松緒の我慢は限界だった。
礼儀を忘れた彼女は、二人の間に割って入り、両手を突き出してあずまの身体を押した。あずまは腰を抜かして呆然と松緒を見上げる(普段のすまし顔が崩れたのでいい気味だと思った)。かぐや姫は、きりりと眉根を吊り上げた。
「松緒、下がりなさい」
押し殺した声音だった。しかし、松緒はその時は気づきもしないで、だって、と唇をわななかせた。
「ひ、姫様、姫様が……あずまばかり……!」
「松緒」
「ま、松緒の、ことは、もういらないのですか……?」
「もう一度言いますよ。……下がりなさい」
改めて見たかぐや姫は、笑んでいなかった。
それは、松緒がこれまで向けられてきた温かな視線とはまるで違う。冷たく、冷酷な、拒絶の瞳。美しいが、同時に恐ろしい。自らの心の汚さまであらわにされているようで……。
松緒は力なくうなだれた。
「ひめさま、まつををすてないでください……」
頭を床に押し付け、懇願するけれど、かぐや姫は応えることはなかった。
「あずま」
一言だけですべてを心得たあずまが、松緒の肩を支える。
松緒をかぐや姫の室から出したあずまが両肩を離して一言。
「みじめですね」
低めの声で囁いた。
「姫様のことはどうぞご心配なく。松緒さまの代わりは、この私が勤めますので。あとはごゆるりとお過ごしくださいませ」
この瞬間。
松緒は、このあずまのことを「一生どころか末代まで許さないし、何ならだれかに刺されて死ねばいいリスト」に入れることに決めた。
心配です。六条の邸宅に行くと相模に告げた時、彼女はとうとうはっきりと口にした。
「陰陽師が告げたことなのですから、何かあるのかもしれません。ただ松緒が行く必要はありませんよ……。それだったらせめて私が」
「大丈夫ですよ。私のほうが体力はありますし。一晩だけなので……」
「そういうことではありません!」
相模は顔を赤くした。
「姫様のことは私も心配ですよ? 今でもそのことを考えて、夜寝付けませんし、あなたが必死になるのもわかります。ですが私は、姫様と同じくあなたのことも見てきたのですよ。姫様がいなくなって、身代わりとなったあなたを……」
「……うん」
姫様にも松緒にも理由は違っても母がいなかったから、相模が母代わりだった。童のころは、六条の邸宅で三人よりそうように暮らしていたのだ。
「それでも、行きます。姫様を探したい。……それに、翁丸は、この後宮の、まさにこの殿舎で殺されてしまったのに、事情もわからないままだなんて、嫌です」
相模はきゅっと眉根を寄せて、深く息を吐いた。
「大殿の命とはいえ、あなたを身代わりにしたのは間違いでしたね……」
その言葉にかっときたのは松緒の方だった。
「身代わりを立てなければどうするのですか、世間から姫様が笑い者にされてもよいのですか。なぜ今更そのようなことをおっしゃるのですか!」
「身代わりは必要だとしても、松緒がやるべきではなかったのかもしれないと思っていますよ」
「なんで……!」
松緒は言葉を失った。
今、もっとも近くにいて、信じていたはずの女房から、まさに裏切りとも思える言葉を浴びせられ、頭が真っ白になる。
「ずっとずっと……姫様がいらっしゃったころから、思っていたことがあります。……松緒は、姫様から離れなければならなかった。あなた方二人は、一緒にいるべきではなかったのです」
松緒と相模の間に沈黙が落ちていった。
気が付けば、松緒は泣いていた。相模は室からさがったのか、室からいなくなっている。
ちりん、ちりんと涼やかな鈴の音色が耳をくすぐると、いつもの白い猫が膝の上に乗ってきた。
どたどたどた。板敷を踏みしめる陰陽師の足音も遅れて聞こえてきたので、松緒はごしごしと目元をこすって、立ち上がった。
「ヤアヤア、猫がこちらに迷いこんでおいでカナ?」
「いますよ」
松緒は白猫の両脇で抱え上げ、明るい声音で返した。
猫を受け取ったピンク髪の陰陽師はにっこり笑う。
「準備はいかがですカナ?」
「できています」
松緒は裾をからげた姿で立っていた。お忍びで逢瀬に行く女房、というのが設定だ。
「ではこのまま六条へ参りまショウ」
「……鈴命婦は?」
陰陽師は室の外へ歩いていき、抱えていた猫をそっと地面に下ろした。
「鈴命婦はかぐや姫のところには来ていなかったのですヨ。残念でしたネ……」
しれっとした顔でいうものだから、松緒は無言になった。
鈴命婦の白い毛並みがどこかに消えたのを確認した後に、松緒は陰陽師に連れられ、後宮を抜け出した。
途中で人に見咎められることもなく、東宮との待ち合わせ場所となる井戸に辿り着いた。
近くの木陰から東宮がひとりで出てきた。
「無事に来たようだな。行こうか」
押し殺した声音で告げた東宮は、濃い色をした動きやすい狩衣姿だった。
三人とも大内裏の近辺までは言葉少なく徒歩で向かう。時折、晴明のかすかな鼻歌が風に乗って聞こえてきたぐらいだ。
都を南下し、二条から三条まで来ると、なんとなく気が緩まる。
ぼんやりとした月が辺りを照らしていた。
前を歩いていた東宮が、松緒の隣にやってきた。
「疲れていないか」
「このぐらい平気です。東宮さまこそ馬に乗らなくてよいのですか?」
高貴な男は、自ら地に足をつけて歩くことを好まない。都での移動はもっぱら馬か、牛車なのだ。それなのに、こうもひょこひょこ気軽に歩いているのだから、つくづく変わり者の東宮だと松緒は思った。
「忍んでいくなら徒歩が相場だろう。馬だと小回りが利かない。それに、おれは自分の筋力を信じている」
「筋力」
「腕でも触ってみるか」
「結構です」
東宮の足取りには迷いがなかった。
「……もしかして、こういう夜歩きに慣れていらっしゃるのですか」
「そうだな。……あっ、女人通いのためではないぞ!主上からの頼まれごとを果たすために出ることが多いのだ。直で目で見て、耳で聞いたほうがわかることもあるからな、そうしている」
ところで、と話題の矛先が別に向かう。
「今宵は……よく後宮を抜けられたな」
「それは、晴明《はるあきら》殿にもご助力いただけましたから」
普段から猫を追い回している野良陰陽師は、大内裏や後宮にある人が少ない抜け道を知り尽くしていたためか、まったく人に会わずに後宮を抜け出せたのだ。
「そのこともだが。危険を顧みないそなたの勇敢さのことも言っている。正直、実際に来るかは半信半疑だったが……」
「嘘の約束は最初からしません。来ると言ったら来るのです。姫様の手がかりも見つかるかもしれないというのに、待っているだけなどできません」
「そうだったな。松緒にとってかぐや姫が一番なんだろうな」
「当たり前ではありませんか」
「……かぐや姫が羨ましい」
ぼそり、と告げた後、はっと気まずそうに視線を逸らした東宮。
――どういう意味かしら。
なんとなく、聞けず仕舞いになる。
六条まで下ると、松緒の記憶を頼りに、かつてかぐや姫と松緒が暮らした大納言家の別宅へ向かう。
そもそも六条の別宅は、桃園大納言がひそかにかぐや姫を育てるために購入した邸宅だ。松緒や相模も三年ほど前まで暮らしていたのだ。
だが、かぐや姫への夜這い事件が発生した。
大事には至らなかったものの、警戒した大納言は娘を本宅である桃園第に移すことに決め、六条の別宅は売り払われた。
今の邸宅よりよほど思い出深い場所ではあるが、引っ越しして以来、六条の別宅へ行くのは初めてだった。
もうそろそろ六条の邸宅へ辿り着こうとした時。頬に冷たいものが当たった。
ぱらぱらと雨が降ってきた。
「しまったな。蓑も笠も持ってきていないぞ」
「問題ございませんヨ。大ぶりにはなりませんヨ」
陰陽師が言う通り、たしかに雨足はそれ以上激しくならなかったし、月明りはいまだ道をわずかに照らしていた。
そして。松緒はとうとうそこに辿り着いたのだけれど。
「ここ……のはず、なのですが」
門からのぞきこんだ先は、廃屋だった。そうとしか言えなかった。人が入らず、手入れされていない草木が生い茂り、以前は手入れされていたはずの池は見る影もなく。檜皮葺《ひわだぶき》の屋根は傾いているように見えた。敷地に入るのでさえ、草を踏みしめてあるかなければならない。
さくさくさく、と松緒は主殿のある辺りへ足を向けて歩く。
かすかに箏《こと》の音が聞こえてきた。決まった曲ではなく、心の赴くままに、優しく弾き語りをしているような。
おいでなさい。そう言われている気がした。
「ああ……! ああ……!」
「松緒!」
東宮の伸ばした手は、松緒の手を掴むことなく、するりと空振りした。
背の高い草が生えていた。
薄暗闇の中では、脇目を振らず駆ける松緒の姿などあっという間に消えてなくなる。
足が泥だらけで傷がつこうとも気にならなかった。
松緒は、その人の奏でる音色だけはわかるのだ。
逢いたかった、逢いたかった、逢いたかった……!
松緒は、主殿まで辿り着く。階《きざはし》を上がり、妻戸に手をかけたところで。
「だから言っただろうに。『姫様のことはどうぞご心配なく』と」
ため息交じりの声とともに、視界は闇に包まれたのだった。
――殺してよろしいでしょう?
――いけません。
――なぜですか。この女はあなたの邪魔をしますよ! 現に今も……!
――いけません。
――そんなに大事なのですか。この私よりも……?
教えてください。あなたの心には一体、だれがいらっしゃるのですか。
私は、いつ、あなたに触れられるのですか。
――とにかく、この子には手を出さないでください。
松緒は目を開けた。
ぼんやりと、かぐや姫と男との会話が思い出せた。
――男。だれ……?
聞き覚えがあるようなと思いながら、体を起こす。
松緒は、六条の邸でかぐや姫の奏でる箏の音を聞き、我を忘れた。油断していたところに、袋のようなものをかぶせられ、そのまま縄で巻かれて、荷物のように背負われてどこかに運ばれたのだ。
ただ、しっかり起きていたはずの松緒は、緊張と疲れと寝不足でいつしか眠ってしまっていたのだった。
「松緒」
背後から聞こえた甘い声に、松緒の魂は震えた。
両腕をつっぱって体を起こし、振り向くと。
「……姫様」
焦がれた再会はあっけないものだった。
「どうしてそのような格好を……?」
かぐや姫は、男が着る狩衣を纏っていた。しかも、あんなに美しかった黒髪は背中の途中で切ってしまったのだろう、烏帽子に髷《まげ》がおさまっている。
松緒に向ける微笑みだけは、以前のままだった。
「まるで、男のようではありませんか……」
「男のような、ですか」
「……はい」
そうですね、とかぐや姫は告げ、次の瞬間、
「男のようなもなにも、本当に男だったら?」
別人のように冷えた声で言われて、松緒の背筋が凍った。
「え……? 何をおっしゃって」
「『かぐや姫』の言動や振る舞いはすべて演技。体は女だとしても、心は男で、周囲をすべて欺いていたなら、松緒はどうする? ――それでも、地獄までついていく?」
「そ、それ、は……」
やっと会えたかぐや姫。なのに、かぐや姫の言っていることがわからない。
「松緒も東宮から聞いたよね。不死の妙薬のこと。気持ちよくなってしまう薬のこと。庶民ばかりでなく、貴族も狂わせてしまった魔性の薬。あれを流行らせたのはかぐや姫だよ」
「そ、そんなはずは……姫様、嘘だとおっしゃってください……」
「かぐや姫には望みがあった。そのために、必要なことだった。やりすぎて、宮中からお咎めが来そうになったから、逃げた。松緒、君は置いていくことにした」
ふいに「姫様」は顔を歪ませた。
「泣かないでよ。ぼくが泣かせたみたいだ。君が追いかけてきたから知る羽目になったんだよ。知らないままでよかったのにね。幻滅しただろう? 君のかぐや姫は幻想なんだから」
「姫様」が、松緒の肩を優しくさすった。
「それでも」
「うん?」
「それでも松緒の姫様はひとりだけ。あなたさまだけなのです……!」
胸の辺りの衣を縋るように掴み、重ねて懇願する。
「姫様、一緒に帰りましょう……?」
かぐや姫は、慈愛の眼差しで松緒を見下ろしたけれど。
「どこに帰るの」
きっぱりと告げられる。
「大納言家に戻っても居場所はないし、尚侍《ないしのかみ》をやるつもりもない。罪を犯した僕を東宮は見逃すまい」
「それは! それなら……松緒も連れていってください! 置いていかれるのはもう嫌です! 松緒は姫様がいてくださらないと……」
「連れていかないよ」
「どうして!?」
「松緒が世界で一番かわいいから」
松緒の全身から力が抜けた。
――私、今、何を言われた?
混乱した。姫様は姫様だけれども、これまでの姫様は演技だったというし、姫様の心は実は男だったという。男な姫様が松緒をかわいい、と……?
「もう僕を追いかけるのはやめるんだよ。それが言いたくて、ここに連れてきたんだから。これで会うのは最後だし、身代わりもやらなくていい」
「そのようなことを、おっしゃらないでください」
かぐや姫は困った顔になる。
「そうだね。……君なら、きっとそうだろうと思っていたよ」
狩衣姿のかぐや姫は、唐突に動いた。
頬に熱いものが当てられる。姫様の唇だと気がつくまでに何秒もかかった。
幼馴染の女房の目が呆然と見開かれるのを確認したかぐや姫は、すばやく懐から布を取り出し、松緒の口と鼻に当てた。
気を失った松緒の体が、くたりと力を失う。
かぐや姫は松緒の体を横たえて、その寝顔をじっと見下ろして、小さく呟いた。聞こえていないだろうと知りながら。
「椿餅を、一緒に売ってあげられなくて、ごめんなさい」