――「あずま」が見られたのか?
――ええ、まあ。ただ、もう潮時かと。
――そうだな。十分に金は集まってきたよ。みな、快楽が好きだからね。
――我らの宿願はこれにて叶いまする。中央から虐げ続けられた我らの恨み、一族の恨みは……。
――それはよい。あぁ、でもまだもう少しだけ。
――何をなさるつもりで?
――ふふ。ちょっとばかりね。この世界が、あまりにも『気持ち悪い』から。
寺社参詣を終えた「かぐや姫」はふたたび後宮に舞い戻った。
「お待ちしておりました、尚侍《ないしのかみ》さま」
文字通り、待っていましたとばかりに補佐の須磨が山のような未処理の書状を抱えてやってきた。文机に置くと、さすがにやれやれといった表情をしていた。
「短い間にずいぶんと溜まりましたね……」
「ええ、まあ。いろいろとございまして」
須磨は言葉を濁した。
「実は尚侍さまにお話ししなければならないことがございます」
「はい。なんでしょうか」
須磨は居住まいを正して、深々と頭を下げた。
「しばらく宿下りをしたく存じます」
「えっ」
「かぐや姫」がくる前から働き詰めだと聞いていた彼女から、まさかそのような言葉が出てくるとは思わず、松緒は「何かありましたか?」と尋ねていた。
「驚かれるのも無理ないことです。わたくしめも、最後に宿下りをしたのが、一体いつなのかまったく覚えておりません……」
ただ、と彼女は俯き加減で言葉を絞り出した。
「……わたくしめには息子がひとりおりまして。どうしようもなく出来が悪くて、尚侍さまにもお仕えできぬぐらいの者なのですが。……病にかかったとの文が参ったので、様子を見に行こうと思います」
あまり状態が良くないため、宿下がりが長期になる可能性もあるのだと須磨は話した。
「それは仕方のないことですよ。さぞや心配でしょう。わたくしのことは己でなんとかいたしますから、気の済むまで宿下りをしていいのですよ」
「ありがたいお言葉です。でも……」
なおも彼女は不安そうに、
「まだこちらに来て日が浅い尚侍さまをおひとり残してしまうことは、わたくしめの不徳の致すところでごさいます……『あんなこと』がありましたのに」
「あんなこと、とは?」
含むものを感じた「かぐや姫」が問返せば、まだ彼女が何も知らないことを察した須磨が教えてくれた。
「尚侍さまがいらっしゃらぬ間に、尚侍さまの殿舎で犬の死骸が見つかったのです」
宮中は特に穢れを嫌う。犬の死骸が見つかったとなれば、その場が穢れたこととなり、人が触れたら人目を避けて、物忌みをしなければならない。
後宮は人も多いけれども、だからといって動物が入り込まないわけではなく、時々死体となって見つかることがあるのだ。
松緒もそのつもりで聞いていたのだが、須磨が気になることを告げた。
「片付けた者から話を聞く限り、その犬には明らかに人の手による切り傷があったようです。血はすでに乾いていたとか」
「だれかが、わたくしに悪意をもって投げ込んだ可能性があるということですね」
「備えておくことに越したことはございません。良くも悪くも尚侍さまは目立つお方ですから……」
「わかりました。わたくしの方でも気をつけておきます」
須磨はひとつ頷き、仕事の引き継ぎを終えて、まもなく宿下がりをした。
「主上にもお話しして、内侍所を手伝ってもらうための人員を割いていただくようお願いしております」
須磨が最後の挨拶でこう言い置いていったので、どこかの女官が手伝いにくるのだろうと思っていたのだが。
「どうして、このようなところにいらっしゃるのですか?」
「須磨の代わりですので」
御簾の下から書状を渡してきた顔に、松緒は気まずさを感じた。
先日、「松緒」として会った男なのだ。あの時は東宮が機転をきかせたのではっきりと顔は見られなかっただろうが、それでもひやひやした気持ちになる。
「あなたさまは蔵人頭ではありませんか」
「だからこそ、ですよ」
蔵人頭長家は、柔和な面立ちもさらににこにこと笑ませて次の書状を渡した。
「尚侍と蔵人頭は、表と裏で主上をお支えするのですから。裏が困れば、表が助けるのは当然のこと……もちろん、多少の下心はありますよ」
かぐや姫と仲良くなりたいです。
さらりと告げる年上男の余裕に、松緒はめまいを覚えたのだった。
「ごきげんよう、尚侍サマ」
蔵人頭が去ってまもなく、ピンク髪陰陽師晴明が、平然と御簾をくぐって現れた。片腕でいつもの猫を抱えている。
「いろいろとお疲れでショウ。《癒し》を提供するために参りましたヨ」
逃げた猫を追いかけてやむなく入ってしまった――という言い訳すらせずに、堂々としたものである。
女人の室に入り込むのは、よほど近しい間柄しか許されないのが世間一般の常識だ(だからこそ、須磨《すま》が野良陰陽師と罵りながら何としてでも立ち入りを阻止しようとしていたのである)。
しかし、こうも毎回、不法侵入されたとしても、松緒はなんとなく警戒心を抱けなくなっていた。晴明がいつでもにこにこ、のらくらとしていて、まるで本人が猫のように振る舞っているからかもしれない。
「そらそら、抱いてしまいなさい」
《癒し》とは猫のことを指すらしい。
野良陰陽師に抱かれていた白猫「鈴命婦」は心得たように、松緒の膝に乗り移る。片手には面を隠すための扇を持っているため、もう一方の手で触れた。
「やわらなくて、あったかいですね……」
こうして、まじまじと猫に触れるのは初めてだった。猫は唐渡り(外来から来た)のものであり、高貴な人々が飼う生き物だった。桃園大納言は猫にはあまり興味がなかったため飼わなかったが、かぐや姫のために犬を持たせていた。全身が茶色の雌犬で、翁丸という名だ。もっぱら面倒を見ていた松緒によく懐いていて、宿下がりの時に会いにいくと、ぱたぱたと尻尾を振って喜んでいたのだ。
けれど。
『翁丸《おきなまろ》は? 宮中へ戻る前に様子を見ておきたかったのだけれど』
『さあ……? どこぞを散歩しているんじゃないですかねえ』
『翁丸も、もう老犬でしょう? ……心配だわ』
『まあ、気を付けてみておきますよ』
『ええ……』
いつもの寝床にいないため、出立前に雑色の老人に翁丸のことを尋ねた時のことを思い出すと、後ろ髪が引かれる。
元気すぎて人に飛びつくこともあった困ったところもあったけれど、くりくりとした澄んだ目で松緒を慕う、良い犬だ。これまで脱走をしたこともなかったのに。
――大丈夫、よね……?
翁丸には松緒が童女だったころに着ていた衵《あこめ》の赤い切れ端を巻いてある。逃げたとしてもすぐにどこかの飼い犬だとわかるはずだ。
猫が松緒の不安をかき消すように「にゃあ」と啼く。
「先日の庚申待ちの夜は、面白いものが見られましたナ。みながみな、異形の者になって練り歩く。ああいう「百鬼夜行」は愉快でしたヨ」
「晴明、殿の話を聞いて思いついたのです」
振られた話に乗れば、陰陽師はうれしそうな顔になる。
「お役に立てましたかナ」
「ええ。ありがとうございます」
フフフ、と晴明は微笑んだ。
「尚侍サマは、宿下がりの方はいかがでしたかナ?」
「そうですね……。よかったですよ」
松緒は当たり障りのないように応えた。本音はまったく違うけれど。
「ワタクシの辻占も役立ちましたかナ?」
「どうしてそのことを知っているのです?」
そう言われて、松緒は思わず立ち上がり、「陰陽師晴明」を見下ろしていた。
夕刻の四つ辻で、「死ぬわよ」と耳の中でこだました、あの時を思い出す。
「東宮様にお教えしたのはワタクシですカラ。呪いをしたかもわかりますヨ。呪いには色がありまして、尚侍《ないしのかみ》サマにはワタクシの呪いの残滓が漂っておりますネ」
世間話のように告げられ、松緒は初めて目の前にいる者が、「陰陽師」なのだと実感した。
「東宮さまに雇われているのですか」
「陰陽師は、貴族からの依頼を受けることもありますからネ。東宮サマは顧客のおひとりですヨ」
「たとえば、人を殺めてほしいという依頼でも?」
「気乗りしない依頼は受けませんヨ」
呪いで人は殺せない、とは言わなかった。
「尚侍サマは、ワタクシを雇いますか?」
ふとそう告げられる。
――なんだろう。今の問いには真面目に応えなければいけない気がする。
前世でやっていた乙女ゲームでいえば、画面で重要な選択肢が出てくるシーンだ。
選び方で、好感度も、運命も変わってしまう。
「私は……」
自分でもよくわからないままに口を開こうとしていた時、しばらく小用で出ていた相模が息を切らせてやってきた。
御簾の内にいた「野良陰陽師」にぎゃっ、と濁った悲鳴を上げるがすぐに、
「姫様、早くこの男を追い出してください!……じきに主上《おかみ》がお渡りになるそうです」
「主上が……!」
御簾のうちに男がいたとなれば、「かぐや姫の大スキャンダル」の噂があっという間に広がってしまう。
「晴明殿!」
猫を抱えたピンク髪の陰陽師は、ふむと首を傾げた。
「ワタクシは塗籠でお待ちしておりますので」
「は? え、ちょ、え?」
室を出ていくのではなく、さっさと室の奥にある塗籠へ歩く陰陽師。塗籠の戸が、ぱたん、と閉じた瞬間に、
「尚侍《ないしのかみ》よ、戻ったか」
供も連れないで歩いてきた帝が、先触れもないまま御簾をあげて、こちらに入ってきたのだった。
顔隠しの扇をしっかり持ち上げた松緒の背中につう、と嫌な汗が流れ落ちた。……あの時、晴明が出ていったら、帝に見つかっていただろう。
――心臓がいくつあっても足りない……。
松緒はそっと息を整えながら、相模に帝の座を用意させるように命じ、帝と向かい合うように腰を下ろす。
「良き息抜きはできたか?」
「はい。宿下がりを許していただき、ありがとうございました」
「うむ」
帝はそわそわとしていた。後ろ手に何かを隠している。
初対面で蝉の抜け殻を渡し、出て来た代案が蜥蜴の尻尾だった御方である。
松緒が身構えていると……。
「尚侍、これならどうだ……?」
紙の包みからころんと出て来たのは、唐菓子だった。先日の庚申待ちでの「百鬼夜行」で女官たちに配らせたものと同じに見えた。
「これならそなたも好むのではないかと思ったのだ。他の者に配らせているのなら、そなたも嫌いではあるまい。これでもちゃんと一生懸命考えたのだぞ」
帝のふくよかな声も弾んでいる。
「……主上」
「ああでもない、こうでもないと、相手が喜びそうなものを選ぶ時間は何よりも尊いものだな。朕《わたし》も初めて知った」
「そうですね……」
恐れ多いため受け取りを断ろうとしていたのに。
松緒にも、帝の心遣いが痛いほどわかったのだ。
――私も、姫様が喜ぶことをして差し上げたかったから。
「ありがたく、いただきます」
「うむ」
帝は、松緒の片手に菓子の包みを握らせた。
「須磨がしばらくいなくなるが、代わりに蔵人頭長家がいる。きっとそなたの力になってくれよう。……不安になることも多いだろうが」
帝はまだかぐや姫の身代わりの件は知らない。嫌疑は嫌疑としてあることは知っているけれど、まだ確定していないからと態度を変えていない。心が広く、優しい人柄なのだ(ちょっととんちんかんなところもあるけれど)。
「『わたくし』は大丈夫です。お心遣いに、感謝いたします」
帝が帰ると、今度はたつきが息を切らしてやってきた。
「どうしたの、たつき」
「実は姫様……」
たつきは困惑した表情で、袖口から何かを出した。
柄が少し擦り切れた赤い布を縄のように結ってあるそれは、松緒にも見覚えのあるものだった。
「それは……?」
嫌な予感に声が震えた。
「姫様が戻る前にこの殿舎で見つかった死骸の犬は……茶色の毛並みで、首にこの布をつけていたそうにございます。たまたま燃やそうとしていた者を見かけましたところ、見覚えがあり……」
布を手にした松緒の目の前が、真っ暗になった。
「そんな……。どうして……?」
松緒の目に、次から次へと涙の粒が溢れでた。やがて嗚咽になる。
十年以上、世話をしていた。翁丸は年老いてはいたけれど、宿下がり直後に見た時には、松緒を見た瞬間にすぐさま駆け寄ってきて、撫でてほしいとせがんできたのに……。
「やだ……やだよ、翁丸《おきなまろ》……」
「姫様」
相模の呼びかけにはっとなると、視線の先に、野良陰陽師の袴が見えた。
一瞬、ぼうっとしたが、すぐさま扇をかざした。
そんな素振りを気にした様子もなく、猫を肩に乗せる陰陽師晴明は、松緒が持つ布を指さした。
「そこに悪意がありますナ」
陰陽師は、どことも視線を合わせていないように思えた。まるで、現実ではない「何か」を見透かしているような、不思議な眼差しだ。
「尚侍サマが大事にしておられた犬は、殺されました」
「なっ……!」
気色ばんだ相模が声をあげようとするも、松緒はすぐさま止めた。
殺されたかもしれない、とは須磨も言っていたことだった。
「なぜ殺されなければならなかったのですか……? 翁丸は何も悪いことはしていないでしょう……!」
翁丸はけして人を噛むことはなかったし、まるで人の言葉がわかるかと思うほど賢い犬だったのだ。
松緒の疑問の代わりに、ピンク髪の陰陽師は、先ほどの問いをもう一度繰り返したのだった。
「尚侍サマ、ワタクシを雇いますか?」