♢未来を確定する日記帳


 中学3年生の夏、俺は不思議な日記帳を拾った。正確に言うと、俺の席の机の中に入っていたのだ。それは「未来を決めることができる日記帳」と表紙に書いてあった。誰かのいたずらだろうと思い、俺はぱらぱらノートをめくる。すると、日記帳はまだ白紙で表紙裏に使い方が書いてあった。

『この日記帳に書いたことは事実になります。未来を確定できる日記帳です』

 誰かのいたずらだろう。所有者をあぶりだして、どういうつもりで俺の机の中に置いたのかを聞いてみたいと思った。新手ないじめだろうか? しかし、いじめにはずっと無縁だった。多分、俺が人よりも運動神経がよかったり、U15チームに選抜されているという事実が、同級生に馬鹿にされることのない要素のひとつだったように思う。小学生の頃なんて、スポーツができればモテるし、一目置かれるという世界だった。だから、日本でも屈指に入る選手だという事実は尊敬や憧れの対象になるわかりやすい指標でもあった。サッカーは物心ついたころからやっていた。人生といっても過言ではない。幼稚園に入るかどうか、そんな時期にサッカー教室に通い始め、めきめきと頭角を現すこととなった。そして、サッカー三昧の毎日が続き、今に至る。

 しかし、日本全国には強者が沢山いて、その中で日本代表になるということは簡単なことではなかった。才能だけではない、センスや努力もなければ優秀な選手として選ばれ続けることはできない。小さいころから、遊びよりスクールだったし、常にケガや痛み、筋肉痛との闘いだったように思う。もっとのんびりたのしく遊んでいたかったと思うこともある。小学生らしいという生活はあまり縁がなかった。
 
 長期休みは合宿や遠征でいつも忙しかった。中学生になったからには勉強だって、しなければいけない。サッカー日本代表になりたい、なんて思っているサッカー少年は日本全国で何万人いるだろう? 数えられないくらいいるはずだ。少し、最近壁にぶちあたっている。少しばかりの才能と努力だけではどうにもならないことも世の中沢山あるだろう。上には上がいるのだ。

 日記帳に何気なく、今夜は外食でステーキを食べたい、なんて書いてみた。食事だって母親が厳しく管理しているので、おかしを思いっきりたべたこともなかった。ステーキは、ご褒美としてたまに食べに行く楽しみでもあった。それくらいなら、書いてもばちはあたらないよな。

 俺はとりあえず日記帳をもって帰宅する。すると、母親が
「今日はステーキ食べに行くよ」
 と言い出す。まさかな、一瞬ノートをチラ見した。偶然だ。しかし、平日の夜に食べに行くのは結構な確率で珍しいことだった。

 そのあと、日記帳のことも忘れていたのだが、あるとき、専属しているクラブチームの中で、俺は二軍に落とされた。その事実は、ショックだった。ずっと一軍が当たり前だったからだ。やはり俺にも壁にぶちあたるという時が来たのだ。俺はどうすればいいのだろう? そんなことを考えていた。青い空に入道雲が広がる。窓の外の景色を見ながら、希望くらい書いてもいいよな。そう思った俺は、あの日記帳を取り出した。

『2021年にサッカー選手として日本代表になっている』

 こんなことで選手として日本代表になったら国民全員が代表になれるような気がするが、これは願掛けだ。そうなったらいいな、という思いを書いただけだ。


♢♢♢
 2021年の夏――

「選手登録が決まったな。おめでとう」

 俺は電話で祝福を受ける。2021年の夏、夏の空は変わらず、青空がまぶしく、アスファルトが太陽に焼き照らされてじりじりに熱くなっている。木陰が恋しい蝉の鳴き声が心地いい季節。まさに夏本番だ。もう俺も19歳だ。高校も卒業して大学に進学しながらやはりサッカーと共に歩む人生を送っていた。そして、自国でのオリンピック開催の年に、選手の一人として名前が登録された。それを見て、家族や親戚、友人などが祝福の連絡をくれた。特に、この老いた男性は人一倍俺のことを祝福して、心配して電話までくれた。とはいっても、話をするのは今日が初めてだった。

「足の具合はどうだ?」
「なんとか調子はいいよ」
「ケガには注意するんだぞ」
「注意はしても、完全に防ぐことはできないのがケガだからな」
「あの日記帳、どうなった?」
「どこかにいったよ」
「なくすんじゃないぞ。あれは特別な作用があるんだ」
「冗談だよ。お守り代わりに大事にしているよ。受験の時もお世話になったし」
「日記帳を使わなくても、入学できる実力はあっただろ」
「お守り代わり。精神安定剤みたいなものなんだから、不正はしていないよ。努力は怠っていないさ。勉強だってサッカーだって」

 すると男性は不思議な事実を述べた。

「実はあの日記帳は《《1個まで》》しか未来を決定できることは書くことはできない。だから、無限なものではないんだよ」

「そうなのか? じゃあ、高校受験と大学受験と日本代表選手になれたのは日記帳の力じゃないのか……? 夕食のステーキなんて書かなければよかった……」

 俺はその話を聞き、事実を知るとひどく後悔した。1つしかかなわないねがいなのに、くだらないことを書いた自分をひどく責める。でも、同時に自力でここまできた自分を誇ることができた。どこかでうしろめたさがあったからだ。

「君のことが心配で遠くから電話までしてしまったよ。生涯で一番輝いているときが今なんだ。この活躍次第でおまえの今後の明暗は分かれるんだぞ」
 心身の衰えを感じる声だった。

「はいはい、未来の自分さん」

 そう、俺は今未来の自分と話している。詳しいことは教えてもらえないが、あの不思議な日記帳を送り付けたのは、未来の自分で、電話も未来から直接かけてきているらしい。何歳になった自分なのかもわからないが、祖父の年齢に近い声のような気がする。そのころには、そんな便利な電話や日記帳が発明されているのだろうか。もっともっと未来に実現すると思っていたことも、俺が生きている間に、進化して実現するのかもしれない。生きていれば進化を目の当たりにできるのだろう。今持っているスマホだって、ない時代があったわけで、目に見える進化は10年のうちにあっという間に起こったいたりする。

「あのとき、サッカーをあきらめていなくてよかっただろ」

 未来の自分が俺に言う。少しばかり、元気がないような気がする。

「正直あのまま、サッカーを辞めてしまおうと思っていた時期だったから」

 俺は正直な気持ちを話した。

「何事もあきらめちゃだめなんだよ。どんな狭き難関にも立ち向かう気持ちが大事なんだよ」

 未来の自分、いいこと言うよな。でも、未来の自分に聞きたいことはたくさんある。結婚して子供がいるのかとか、どんな妻なのかとか、どんな仕事で成功するのかとか……。

「未来の自分、教えてくれ。俺は今、幸せか?」

 色々聞きたいことはあるのに、幸せか、なんて抽象的な質問をしてしまった。でも、幸せかどうかは重要な問題だ。

「ねがいやに聞いてくれ」

 そう言うと、電話は切れてしまった。少々その返答に対して不気味に思ってしまう。もっともっと聞きたいことはたくさんあるのに。こちらからはかけることはできないし、何となくだが、もう電話が未来からかかってくることはないような気がした。

 俺は空を見上げる。子供の頃にみた空と何も変わっていなかった。青空に白い入道雲が浮かぶ様子は、まるで日記を手に入れて、壁にぶち当たっていた時と何も変わらない。変わったのは自分の精神力と自分自身だ。

 さあ、今日も合宿だ。最終調整段階に来ている。本番はもうすぐそこだ。最後は精神力だ。行くぞ!! 心のどこかで、選手になったのは、あの日記帳のおかげだと思い込んでいた俺は、日記のおかげではないということが分かり、一層自分を信じられるという結果につながった。自分の努力が今を作る。そうだろ?

 そう思い、一歩踏み出すと、ねがいやという建物が現れる。
 先程、ねがいやに聞いてくれと言っていた。これからの未来がわかる場所ということだろうか?
 ここを開けたらどうなるのか――吉と出るのか凶と出るのか――。
 一歩踏み入れる勇気がなく、そのまま現実の世界を選ぶ。
 未来なんて知らなくていい。そう思うと、日記帳は二度と見つかることはなかった。
 でも、もしあの時、あの建物の扉を開けていたら――。
 考えないことにしよう。
 何か普通ではないことに巻き込まれそうだから。