♢記憶屋 恋ができない体質 恋の記憶を買いたい
不思議な店に迷い込んだという書き込みを体験チャンネルで見つけた。怖い系が苦手な凛空にとっては不思議系のほうがいいというのと、人が恐怖や不幸になる話よりも幸福になる話を読みたくなったというのは事実だ。
これは、記憶屋と呼ばれる店に導かれ、入ってしまった人間の話だ。
記憶屋は記憶を買うことができるらしい。奪われるわけではなく、プラスすることができるのは、私たちの状況とは真逆だ。もし、この店に行けば買えるのならば、取り戻したい記憶もたくさんある。記憶屋に導かれる状況は様々らしい。買える金額を持っている者でなければいけないし、記憶によっても値段は違うと書いてあった。記憶屋自体、どこにあるのかもわからないし、実際に行ったという書き込み主の状況は人それぞれ違うようだった。一番詳しく面白く書いてある書き込みを読んでみる。
♢♢♢
記憶屋は小奇麗な珠が浮かんだ小屋のような小さな建物の中にある。第一印象は美しい。だから、怖いという印象はなく、扉を開けた。高校生の詩音《しおん》(仮名)が導かれたのは放課後、夜景が見える夕方の帰宅時だったと書いてある。詩音は高校3年生で進路選択で迷い、将来をどうしようかとても悩んでいた。何か秀でた才能ややりたいこともなく、ただここまできた。勉強は一応やっていたし、準進学校と言われる高校に在籍しており、成績は中の上くらいだ。
しかし、恋愛の経験は全くないので、甘い学園生活に憧れがあるのも事実だった。好きな人ができない体質なのか、仕方がないが、恋をしたという記憶だけでも買ってみたかった。もし、おこづかいの範囲で買える金額であるならば――。
「あのー、恋をしたという記憶を買うことはできますか?」
「可能です」
美しい銀髪の男性が笑う。
「いくらですか?」
「500円でどうですか?」
思いのほか安い。これならば、購入可能だ。
「どうやって記憶は買うことができるのですか?」
「記憶魂を渡します。それは、簡単に体内に入っていきます」
「記憶魂?」
「記憶のボールみたいなものですよ。ビー玉を大きくした程度です。さあ、お金をください」
500円玉を渡す。すると、ふわっとした感触が体全体に感じる。一瞬立ち眩みのような状態だったが、何かが入る。体内が少しばかり温度が上がった気がした。たしかに、何か光る小さなものが入った。すると、会ったことのない同じくらいの少年が笑う。意外とカッコいい顔だと思う。今まで一度も恋愛感情を持ったことがないのに、この時は、なぜか恋愛感情なのかよくわからない感情が沸いた。温かい気持ち、ふんわりした気持ち、安心した気持ち。そんな気持ちが複数沸く。
記憶なので頭の中の出来事だが、鮮明に見え、感じることができた。
「君は将来どんな仕事をしたいの?」
「ええと、わかんない」
「ずいぶん、将来設計がしっかりしてないなあ。それでも高校三年生なのか? じゃあ、幼少期に好きだったことを思いだしたらいい」
「絵を描くのが好きだったなぁ。あとは、歌うこと。そして、遊ぶこと」
「美大や音大は考えていなかったのかな。でも、今からじゃあ準備が間に合いそうもないな。更に、お金もかかるのが芸術だ。君は幼稚園のころの短冊になんて書いたの?」
「あぁ、あの頃は幼稚園の先生って書いた。身の回りにいる先生って魅力的だったし」
「今は、なりたくないの?」
「そういうわけじゃないけど、仕事は大変だと聞くし、本当になりたいかといわれるとよくわからないんだ。強い感情はまだ湧かないの」
「強い感情を持って全員が仕事を選んでいるわけじゃないんだ。大人ってさ、生活のためにハローワークに行ってより、条件に合った仕事を探すんだよ。好きじゃない職種でも選ぶこともある。転職することもある。君はピアノも絵
も習っていたんじゃないの?」
「まぁそうだけどね」
「じゃあさ、君が一番得意なことを進路に選びなよ」
サラサラした髪の毛の少年は急にハグをする。じんわりする感情。
恋ってこれなのかな? じんわりする感じ。ドキドキというよりは安心する抱擁だった。心が温められた詩音はこれが恋なのかと実感する。
「ねぇ、あなたは好きな人はいるの? 私は人を好きになったことがないし、好きになれないかもしれないんだ。結構本気で悩んでいて」
「僕は、好きな人はいるよ。人を好きになれないという人もいるんだよ。多様性の時代だ。それが悪いわけでもないし、これから人を好きになる可能性も充分にある」
少し沈黙の後、
「知ってる? 他者に対して性的魅力を感じないというのがアセクシュアルっていうらしい。他者に対して恋愛感情を抱かないがアロマンティック。性的欲求・恋愛感情の両方を抱かない方はアロマンティック・アセクシュアルと言うらしいよ。一般的には他者に恋愛感情を抱かないという意味も込めてアセクシュアルと言うことが多く、他人に恋愛感情を抱くものの性的魅力を感じない人はノンセクシュアルと呼ぶことがあるんだって」
「小難しいなぁ」
「男性が男性を好きになるとか、女性が女性を好きになることもある。でも、どちらの性別にも恋愛感情を抱かない人がいると最近わかってきたんだ。きっとずっと前からそういう人はいたんだと思うよ。だから、もし、今後好きな人ができなくても大丈夫。僕を思い出して」
「私、あなたのことは好きだと思う。多分だけど」
にこりと笑いありがとうと言う。
「じゃあ、僕はそろそろ行かないと」
「また会える?」
「もう会えないかもしれない。一度会っただけでも好きっていう感情は大切にしてほしい。僕も君が大好きだから」
少年は扉の向こうに消えていった。緑の木々が生い茂る庭に葉が舞い散る。木漏れ日が少しばかりまぶしく心地いい。
「記憶はいかがでしたか? きっと一生この記憶はあなたの脳裏に焼き付きますよ」
丁寧に店員はいざなう。
「さぁ、こちらでコーヒーでもいかがですか。きっと良い目覚めが待っていますよ」
コーヒーなんてほとんど飲んだこともない詩音だったが、いざなわれるがままにミルクを入れた光る黒いコーヒーをひとくち飲む。温かくて、とろけるような口当たり。コーヒーってもっとコクがあって苦いのかと思っていた。でも、これ、本当にコーヒーなのだろうか、そんなことを思っていると、ふと目が覚めた。夜中、自分の部屋のベッドに寝ていた。
懐かしいアルバムがどさっと本棚から落ちてきた。
「夢だったんだよね」
電気をつけ、夢だと思ってアルバムを何となく開く。
「若い時のお父さんの顔……、さっきの少年と同じだ」
あれは恋じゃなくて死んだ身内への愛情だったのか?
やっぱり、アセクシャルなのだろうか。父はそういうことを伝えたかったのかもしれない。そして、進路の話も――。
今のところ、まだ恋愛をできていない。でも、人間が嫌いではない。
怖くはない不思議系な話だが、この記憶はお金以上の価値があったと思っている。恋愛とは違ういい感情が購入できた。せっかくだから、体験チャンネルに書いて、共有するとともに、忘れないでおこうと思う。
もし、自分の性的嗜好で困ることがあるようならば、インターネットの世界を通じて情報を共有し、仲間を見つけたいと思う。
♢♢♢
「これ、絶対に奪ってはいけない記憶だよなー」
「そうだね。この人は、忘れないために書いているのかぁ。嘘っぽくはない話だね。どちらかというと感動系小説みたいな感じだよね」
「もしかしたら、アセクシャルなのかもしれないな。あんまり知られていないけれど、人に恋愛感情を抱かない人が一定数はいるらしいし。俺には理解はできないけどなぁ」
「人を好きになる基準は、理解できないのと同じなんじゃない? たとえば、なんで私たちが付き合っているからとか」
「俺を好きになることは理解できるけどなぁ。魅力いっぱいだし」
「それ、自分で言ってるあたり、痛い人だよ」
苦笑いが響く。奪っていい記憶と奪ってはいけない記憶がある。私たちは、もらえる記憶を探さなければいけない。
「この銀髪の人、いざなだったりするのかな。なんか、似てるよね。容姿の感じとか、記憶魂とか」
「いざなはこんな場所で誰かに化けて記憶魂を売ったりしているのかもしれないな」
「そうだね、あの人、本当の目的はわからないしね。敵か味方かもわからない」
「でも、そんな奴の言うことを信じて怪奇魂を集めてる俺たちってどうなんだろうな」
「根も葉もないでたらめだったりしたら、一番怖いけどさ。病は一番怖いよ。原因不明、完治不可能って、藁にもすがりたくなるよね」
「そーいう時に、詐欺に遭いやすいのかもしれないな」
「他人事みたいに言っているけれど、凛空のことなんだよ」
「わかってるって」
いつもマイペースで笑いを絶やさない。この人がいなくなったら私はどうしたらいいのだろう。一番不安を感じているのは私自身なのかもしれない。
不思議な店に迷い込んだという書き込みを体験チャンネルで見つけた。怖い系が苦手な凛空にとっては不思議系のほうがいいというのと、人が恐怖や不幸になる話よりも幸福になる話を読みたくなったというのは事実だ。
これは、記憶屋と呼ばれる店に導かれ、入ってしまった人間の話だ。
記憶屋は記憶を買うことができるらしい。奪われるわけではなく、プラスすることができるのは、私たちの状況とは真逆だ。もし、この店に行けば買えるのならば、取り戻したい記憶もたくさんある。記憶屋に導かれる状況は様々らしい。買える金額を持っている者でなければいけないし、記憶によっても値段は違うと書いてあった。記憶屋自体、どこにあるのかもわからないし、実際に行ったという書き込み主の状況は人それぞれ違うようだった。一番詳しく面白く書いてある書き込みを読んでみる。
♢♢♢
記憶屋は小奇麗な珠が浮かんだ小屋のような小さな建物の中にある。第一印象は美しい。だから、怖いという印象はなく、扉を開けた。高校生の詩音《しおん》(仮名)が導かれたのは放課後、夜景が見える夕方の帰宅時だったと書いてある。詩音は高校3年生で進路選択で迷い、将来をどうしようかとても悩んでいた。何か秀でた才能ややりたいこともなく、ただここまできた。勉強は一応やっていたし、準進学校と言われる高校に在籍しており、成績は中の上くらいだ。
しかし、恋愛の経験は全くないので、甘い学園生活に憧れがあるのも事実だった。好きな人ができない体質なのか、仕方がないが、恋をしたという記憶だけでも買ってみたかった。もし、おこづかいの範囲で買える金額であるならば――。
「あのー、恋をしたという記憶を買うことはできますか?」
「可能です」
美しい銀髪の男性が笑う。
「いくらですか?」
「500円でどうですか?」
思いのほか安い。これならば、購入可能だ。
「どうやって記憶は買うことができるのですか?」
「記憶魂を渡します。それは、簡単に体内に入っていきます」
「記憶魂?」
「記憶のボールみたいなものですよ。ビー玉を大きくした程度です。さあ、お金をください」
500円玉を渡す。すると、ふわっとした感触が体全体に感じる。一瞬立ち眩みのような状態だったが、何かが入る。体内が少しばかり温度が上がった気がした。たしかに、何か光る小さなものが入った。すると、会ったことのない同じくらいの少年が笑う。意外とカッコいい顔だと思う。今まで一度も恋愛感情を持ったことがないのに、この時は、なぜか恋愛感情なのかよくわからない感情が沸いた。温かい気持ち、ふんわりした気持ち、安心した気持ち。そんな気持ちが複数沸く。
記憶なので頭の中の出来事だが、鮮明に見え、感じることができた。
「君は将来どんな仕事をしたいの?」
「ええと、わかんない」
「ずいぶん、将来設計がしっかりしてないなあ。それでも高校三年生なのか? じゃあ、幼少期に好きだったことを思いだしたらいい」
「絵を描くのが好きだったなぁ。あとは、歌うこと。そして、遊ぶこと」
「美大や音大は考えていなかったのかな。でも、今からじゃあ準備が間に合いそうもないな。更に、お金もかかるのが芸術だ。君は幼稚園のころの短冊になんて書いたの?」
「あぁ、あの頃は幼稚園の先生って書いた。身の回りにいる先生って魅力的だったし」
「今は、なりたくないの?」
「そういうわけじゃないけど、仕事は大変だと聞くし、本当になりたいかといわれるとよくわからないんだ。強い感情はまだ湧かないの」
「強い感情を持って全員が仕事を選んでいるわけじゃないんだ。大人ってさ、生活のためにハローワークに行ってより、条件に合った仕事を探すんだよ。好きじゃない職種でも選ぶこともある。転職することもある。君はピアノも絵
も習っていたんじゃないの?」
「まぁそうだけどね」
「じゃあさ、君が一番得意なことを進路に選びなよ」
サラサラした髪の毛の少年は急にハグをする。じんわりする感情。
恋ってこれなのかな? じんわりする感じ。ドキドキというよりは安心する抱擁だった。心が温められた詩音はこれが恋なのかと実感する。
「ねぇ、あなたは好きな人はいるの? 私は人を好きになったことがないし、好きになれないかもしれないんだ。結構本気で悩んでいて」
「僕は、好きな人はいるよ。人を好きになれないという人もいるんだよ。多様性の時代だ。それが悪いわけでもないし、これから人を好きになる可能性も充分にある」
少し沈黙の後、
「知ってる? 他者に対して性的魅力を感じないというのがアセクシュアルっていうらしい。他者に対して恋愛感情を抱かないがアロマンティック。性的欲求・恋愛感情の両方を抱かない方はアロマンティック・アセクシュアルと言うらしいよ。一般的には他者に恋愛感情を抱かないという意味も込めてアセクシュアルと言うことが多く、他人に恋愛感情を抱くものの性的魅力を感じない人はノンセクシュアルと呼ぶことがあるんだって」
「小難しいなぁ」
「男性が男性を好きになるとか、女性が女性を好きになることもある。でも、どちらの性別にも恋愛感情を抱かない人がいると最近わかってきたんだ。きっとずっと前からそういう人はいたんだと思うよ。だから、もし、今後好きな人ができなくても大丈夫。僕を思い出して」
「私、あなたのことは好きだと思う。多分だけど」
にこりと笑いありがとうと言う。
「じゃあ、僕はそろそろ行かないと」
「また会える?」
「もう会えないかもしれない。一度会っただけでも好きっていう感情は大切にしてほしい。僕も君が大好きだから」
少年は扉の向こうに消えていった。緑の木々が生い茂る庭に葉が舞い散る。木漏れ日が少しばかりまぶしく心地いい。
「記憶はいかがでしたか? きっと一生この記憶はあなたの脳裏に焼き付きますよ」
丁寧に店員はいざなう。
「さぁ、こちらでコーヒーでもいかがですか。きっと良い目覚めが待っていますよ」
コーヒーなんてほとんど飲んだこともない詩音だったが、いざなわれるがままにミルクを入れた光る黒いコーヒーをひとくち飲む。温かくて、とろけるような口当たり。コーヒーってもっとコクがあって苦いのかと思っていた。でも、これ、本当にコーヒーなのだろうか、そんなことを思っていると、ふと目が覚めた。夜中、自分の部屋のベッドに寝ていた。
懐かしいアルバムがどさっと本棚から落ちてきた。
「夢だったんだよね」
電気をつけ、夢だと思ってアルバムを何となく開く。
「若い時のお父さんの顔……、さっきの少年と同じだ」
あれは恋じゃなくて死んだ身内への愛情だったのか?
やっぱり、アセクシャルなのだろうか。父はそういうことを伝えたかったのかもしれない。そして、進路の話も――。
今のところ、まだ恋愛をできていない。でも、人間が嫌いではない。
怖くはない不思議系な話だが、この記憶はお金以上の価値があったと思っている。恋愛とは違ういい感情が購入できた。せっかくだから、体験チャンネルに書いて、共有するとともに、忘れないでおこうと思う。
もし、自分の性的嗜好で困ることがあるようならば、インターネットの世界を通じて情報を共有し、仲間を見つけたいと思う。
♢♢♢
「これ、絶対に奪ってはいけない記憶だよなー」
「そうだね。この人は、忘れないために書いているのかぁ。嘘っぽくはない話だね。どちらかというと感動系小説みたいな感じだよね」
「もしかしたら、アセクシャルなのかもしれないな。あんまり知られていないけれど、人に恋愛感情を抱かない人が一定数はいるらしいし。俺には理解はできないけどなぁ」
「人を好きになる基準は、理解できないのと同じなんじゃない? たとえば、なんで私たちが付き合っているからとか」
「俺を好きになることは理解できるけどなぁ。魅力いっぱいだし」
「それ、自分で言ってるあたり、痛い人だよ」
苦笑いが響く。奪っていい記憶と奪ってはいけない記憶がある。私たちは、もらえる記憶を探さなければいけない。
「この銀髪の人、いざなだったりするのかな。なんか、似てるよね。容姿の感じとか、記憶魂とか」
「いざなはこんな場所で誰かに化けて記憶魂を売ったりしているのかもしれないな」
「そうだね、あの人、本当の目的はわからないしね。敵か味方かもわからない」
「でも、そんな奴の言うことを信じて怪奇魂を集めてる俺たちってどうなんだろうな」
「根も葉もないでたらめだったりしたら、一番怖いけどさ。病は一番怖いよ。原因不明、完治不可能って、藁にもすがりたくなるよね」
「そーいう時に、詐欺に遭いやすいのかもしれないな」
「他人事みたいに言っているけれど、凛空のことなんだよ」
「わかってるって」
いつもマイペースで笑いを絶やさない。この人がいなくなったら私はどうしたらいいのだろう。一番不安を感じているのは私自身なのかもしれない。