私がどんなに息を切らしていようと、一糸先生の態度は相変わらずだ。まあ、いいけど。

「何を手伝えばいいですかっ!」
「忙しないな、落ち着けよ」
「……カフェオレは?」
「ねぇよ。お前、昨日は来ないって言ってたじゃん」

荷造りの真っ最中だったらしく、一糸先生はダンボールの前に片膝をついたまま、さらりと既読報告をした。
見たなら見たで、何かしらの反応をくれても良かっただろうに。

近くにあった椅子へ腰を下ろすと、重低音を放ち続けている心臓を抑え込むために、深く息を吐く。これが深呼吸なのか、ため息なのか、自分でもよくわからない。

「……大丈夫だと思ってたんです」

黙々と作業を続ける白い背中は、私のつぶやき如きでは動じない。

「目が合っただけで動揺するし、知らない女の子から宣戦布告されるし。もうサイアク」
「修羅場?」

――――修羅場、かぁ。
そうなれれば、少しはラクだったのかもしれない。

「小柄で目がクリッとしてて、すごく可愛かったですよ。真っ直ぐに向かってくるし、素直で良い子なんだと思います」
「でも、気に食わないんだろ」

一糸先生はダンボールを手放すと、向かい側の席へ座った。

私が心の内を話そうとするとき、この人は静かに姿勢を正す。今もそうだ。そっぽを向いていたり頬杖をついていたり、表面的な態度とは一致しないけど、この人の横顔は、耳の輪郭だけは、いつもよく見える。

「……自分が何を望んでるのか、よくわかりません。楓には前に進んで欲しいし、それを応援してます。でも、自分がまだ特別な存在なのかもって思えると、嬉しいんです」

一糸先生の身構えない振る舞いと、その素っ気なさへの奇妙な信頼。相反する2つが、私を饒舌にする。

「楓のことは全部、ひっそりとしまっておくって決めたのに。目が合うだけでうろたえるとか――」

そこまで言って、ハッと口をつぐんだ。
私は、一糸先生に対してあまりにも気を許し過ぎている。

「へぇ。……とりあえず、荷物運ぶの手伝え」
「なんか投げやりですね」
「他に言うことはない」

ピシャリと断言されて話が終わると、一糸先生から2台のイーゼルを渡された。

「これ重いんですけど」
「5キロぐらいだからイケるだろ。もたもたしてると日が暮れるぞ」

テキパキと動こうにも、この重さを一度に運んでいたら早く歩けるはずがない。

おぼつかない足取りで1階まで降り、渡り廊下の前で一旦イーゼルを下ろす。
本校舎と旧校舎を繋ぐ、屋根付きの長い吹きさらし通路。屋上へ行くときはいつも道なりに沿うが、急ぎであれば、体育館の前を横切る方が早い。

心を決めてイーゼルを持ち直すと、目前に伸びる渡り廊下ではなく、さきほど全力疾走した道を歩き出す。

――だが数メートル進んだ所で、また足を止める羽目になった。

「ギャラリーに榎本しかいなかったから、帰ったのかと思ってた」

足先にまで響くほどの動悸を、笑顔で覆い隠す。

「ちょっと先生の手伝い。……楓、久しぶりだね」
「うん、久しぶり。ていうか芙由が先生の手伝いって、意外なんだけど」

私のそれとは違う屈託のない微笑みに、ギュッと心臓を掴まれた。
楓への“好き”を初めて自覚したときと同じ。息が詰まるほどに苦しくて、いとおしい痛みだ。