たった一言二言の会話で、2人の付き合いの長さがみえた気がした。
あらぬ疑いを聞き流す先生も、さらりと腕時計の時刻を読み上げたこの人も、“それで問題ない”関係なのだろう。状況が掴めないなりに、私だけが部外者なのはひしひしと伝わってくる。
「晴士、伝票書き交替な。お前は梱包手伝え」
「え? 私ですか?」
やはりというべきか、この指示にも晴士という人は素直に応じた。
なんで私まで。そう尋ねても無駄に思えて、仕方なく私も先生を追って部屋を出た。
――――あ。
先生が別室のドアを開けた瞬間、わずかに漂ってきた独特な香り。それだけで、この先にある光景がわかる。
広々とした空間のあちこちに置かれたキャンバスや画材。額入りで飾られている絵、壁に立て掛けられているだけの絵、イーゼルに乗せられた絵。中には描きかけの作品もあり、これこそ私が想像していたザ・アトリエだった。
何気なく辺りを見回し、壁フックに吊るされていた絵へ歩み寄る。
A3用紙よりひと回りほど大きなキャンバス全体を使って、黒から鮮やかな青へ、そして淡い青から白へと色の移り変わりが描かれた絵画。言ってしまえば『ただのグラデーション』なのだが、私には異様に美しく見えた。
「何に見える?」
解体されたダンボールの束を抱えた先生が、隣に並ぶ。
「海、宇宙。……涙」
「へぇ、涙ね。そんなに悲しい印象受ける?」
「悲しいというか、綺麗です」
「綺麗な涙ってなに?」
なに?と訊かれても、そこまで考えていないし、わからない。
何かにつけて大人は、一挙手一投足にまで明確な理由を求めてくる。そもそも答えがない場合だってあるはずなのに。
「この絵、本当は何ですか?」
「構想中。まだ途中だから」
私達が曖昧に答えると突っ込むくせに、自分達は有耶無耶に濁す。大人の典型だ。
結局は一糸先生も他の大人と同じ。分かってはいたものの、改めて突きつけられたせいか、ついため息が漏れてしまった。
さっさと帰りたい。でもそうできないのは、見上げた先生の黒髪がまだ湿っているから。視線を落とすと、先生のジャージを着た自分が目に入るから。
これ以上の借りはゴメンなので、先生の指示を仰ぎながらダンボールの組み立てに専念する。
3つ目のダンボールを手にした時、この部屋でもまた、大きな音を立ててドアが開いた。
「独りは寂しいから来ちゃった!」
「伝票は?」
「持ってきた!」
自慢気に紙の束を掲げた晴士という人が、入り口横にあった丸椅子を私達の側まで運んでくる。どうやらテーブル代わりらしい。
「ねーねー、イットの本性を知ってどう思った?」
体を寄せながら囁かれた声は、明らかに先生を警戒していた。『イット』というのも、たぶん先生のことだろうけど……。
答えを求めて当人へ視線を流すと、さっきまで黙々と梱包材を詰めていたはずの先生は、再び部屋中を忙しなく動き回っていた。
――――あの人をどう思うか。
ぼんやりと頭に浮かんだのは、学校の廊下で生徒に囲まれている姿だった。そのスマートな佇まいが、夜の公園で気だるげにタバコを吸うモッさんへと切り替わる。
あらぬ疑いを聞き流す先生も、さらりと腕時計の時刻を読み上げたこの人も、“それで問題ない”関係なのだろう。状況が掴めないなりに、私だけが部外者なのはひしひしと伝わってくる。
「晴士、伝票書き交替な。お前は梱包手伝え」
「え? 私ですか?」
やはりというべきか、この指示にも晴士という人は素直に応じた。
なんで私まで。そう尋ねても無駄に思えて、仕方なく私も先生を追って部屋を出た。
――――あ。
先生が別室のドアを開けた瞬間、わずかに漂ってきた独特な香り。それだけで、この先にある光景がわかる。
広々とした空間のあちこちに置かれたキャンバスや画材。額入りで飾られている絵、壁に立て掛けられているだけの絵、イーゼルに乗せられた絵。中には描きかけの作品もあり、これこそ私が想像していたザ・アトリエだった。
何気なく辺りを見回し、壁フックに吊るされていた絵へ歩み寄る。
A3用紙よりひと回りほど大きなキャンバス全体を使って、黒から鮮やかな青へ、そして淡い青から白へと色の移り変わりが描かれた絵画。言ってしまえば『ただのグラデーション』なのだが、私には異様に美しく見えた。
「何に見える?」
解体されたダンボールの束を抱えた先生が、隣に並ぶ。
「海、宇宙。……涙」
「へぇ、涙ね。そんなに悲しい印象受ける?」
「悲しいというか、綺麗です」
「綺麗な涙ってなに?」
なに?と訊かれても、そこまで考えていないし、わからない。
何かにつけて大人は、一挙手一投足にまで明確な理由を求めてくる。そもそも答えがない場合だってあるはずなのに。
「この絵、本当は何ですか?」
「構想中。まだ途中だから」
私達が曖昧に答えると突っ込むくせに、自分達は有耶無耶に濁す。大人の典型だ。
結局は一糸先生も他の大人と同じ。分かってはいたものの、改めて突きつけられたせいか、ついため息が漏れてしまった。
さっさと帰りたい。でもそうできないのは、見上げた先生の黒髪がまだ湿っているから。視線を落とすと、先生のジャージを着た自分が目に入るから。
これ以上の借りはゴメンなので、先生の指示を仰ぎながらダンボールの組み立てに専念する。
3つ目のダンボールを手にした時、この部屋でもまた、大きな音を立ててドアが開いた。
「独りは寂しいから来ちゃった!」
「伝票は?」
「持ってきた!」
自慢気に紙の束を掲げた晴士という人が、入り口横にあった丸椅子を私達の側まで運んでくる。どうやらテーブル代わりらしい。
「ねーねー、イットの本性を知ってどう思った?」
体を寄せながら囁かれた声は、明らかに先生を警戒していた。『イット』というのも、たぶん先生のことだろうけど……。
答えを求めて当人へ視線を流すと、さっきまで黙々と梱包材を詰めていたはずの先生は、再び部屋中を忙しなく動き回っていた。
――――あの人をどう思うか。
ぼんやりと頭に浮かんだのは、学校の廊下で生徒に囲まれている姿だった。そのスマートな佇まいが、夜の公園で気だるげにタバコを吸うモッさんへと切り替わる。