「それじゃ先生、またね」
「ああ……。なぁ、椎名」

歯切れ悪く口籠られると、嫌でも先の話題が読めてしまう。

「椎名、俺はな……お前の判断は正しかったと思うよ」

先生の微笑みは慎ましく、ぎこちなかった。

偽善者とは、こういう人のことをいうのだろう。
別れて正解。楓を追って進路変更しなくて正解。そうはっきりと言えばいいのに。

「うん。私も正しいと思ってるよ」

薄っぺらい共感を笑顔で真似た私は、赤いロングヘアを振るように踵を返した。

店先の重いガラス戸を閉めると、冠水しやすいこの地域では当たり前の、2段だけの石段を降りる。すぐ後ろで再び扉が開く音がしても、それはBGMに過ぎない。

「芙由」

思わず立ち止まってしまった。
この聞き慣れた声は違う。微かに掠れたこの声だけは、BGMとして聞き流せない。

「どうしたの、楓」

振り返りざまに名前を呼ぶと、楓は引き戸を完全に閉めてから石段を降りてきた。

「帰んの? 体調悪いなら送っていこうか?」
「ううん平気。しかも家すぐそこだよ」
「そっか、確かに」

笑いながら返す私の言葉に、楓も同じように笑顔を見せる。
一緒に笑い合っていても積もってゆく寂しさは、それでも、笑って拭うしかない。

「寒いし戻っていいよ! ありがとね。……じゃあ、バスケ頑張って」

バスケの推薦で進路が決まった楓に、おめでとう、とは言えなかった。でも、よかったね、と喜んだのは嘘じゃない。


――楓に身長を追い抜かれたのは、小学5年になってからだった。

徐々に離れていく澄んだ瞳は、楓がバスケを頑張っている証。それは友人として過ごす日々では憎たらしく、同じくらい誇らしかった。そして異性として見上げると恥ずかしくなり、付き合ってからは嬉しくて、見上げるのが好きだった。

ずっとずっと、楓にはバスケ馬鹿でいて欲しい。

「……芙由、ごめん。なんか噂になっちゃってて」

唐突な謝罪でも、微塵も笑っていないその目を見れば、本気で気遣ってくれているのが分かる。どうやら、本題はこっちらしい。

「やっぱ気まずい、よな? 別れたこと色々訊かれたろ?」
「……まさかこのタイミングでバレるとはね」

冗談ぽく笑うことしかできないが、むしろ楓には感謝している。今日まで質問攻めにあわなかったのは、別れてからも違和感なく接してくれていた楓のおかげだ。

「ていうか私こそゴメンね、噂のこと知らなくて。隣に座ってるの、やっぱ変だったかな?」
「へーき。せめて友達でいたかったのは、俺のわがままだから」

楓のはワガママじゃないでしょ。
楓は何も悪くないよ。

――そんなフォローをしたら、未練がましくなる気がした。

納得いかない顔をしながらも、別れたいという私に頷いてくれたこと。この1ヵ月、どこか不自然なくらいに、“友達だった頃”を再現してくれていたこと。それは全て、楓の優しさだ。

いまならわかる。私達はちゃんと、お互いに好きだった。でもそれ以上にお互いが大事で、だから別れを選べた。


じっとこちらを見据えてくる楓から視線を逸らさず、背筋を伸ばし、自分の中に一本の軸を通す。

「楓はモテるんだから、早く次にいっちゃいなよ!」