河川敷に響き渡る蝉時雨が、唐突に止んだ。

 透き通った君の瞳を見つめる。

 とてもじゃないけれど、逸らすことなんてできなくて。

「僕も――」

 気づけば、そんな言葉を返していた。


 *


「なんだ、これ?」

 塾の夏期講習からの帰り道。八月のうだるような暑さから少しでも逃れようと降りてきた陸橋の下に、一冊の本が落ちていた。
 緑色のブックカバーが付けられていて、持ち上げると思ったよりも重くて分厚い。単行本だろうか?
 大きな一級河川に臨む石階段に腰を落ち着け、僕は興味本位で本を開いた。

『8月6日。日曜日。彼を探しに来たけれど、今日もいなかった。高校生の夏休みに会おうねって約束したのに。もう高校二年生なのに。忘れちゃってるのかなあ』

「これは、日記?」

 整った綺麗な文字で、日付とともにその日の出来事が綴られていた。けれど、なにか変だ。

『8月13日。日曜日。今日もいない。せっかく来たから、ひとりで水切りをした。教えてもらってからたくさん練習して、彼が引っ越してからも練習し続けて、こんなにも上手くなったのに。あーあ。また一緒にしたいなあ』

『8月20日。日曜日。いないねえ。小学生の頃の約束なんて、そんなものなのかな。確かに学年は言わなかったし、日曜日ってことしか決めなかったけど、私は去年から毎週来てるんだよ。高校二年生の夏休みの日曜日も、来週で最後なんだけど』

『8月27日。日曜日。そうかそうか。今年も来てくれないのか。ひっどーい! 私は彼氏も作らずにずーっと待ってるのに! 貴重な貴重な十七歳の女子高生の夏(日曜日に限る)をささげたのに! 来年は来てやらないもんね!』

『7月21日。日曜日。結局今年も来ちゃったじゃん! しかもいないし! こうなったらこの日記を約束の場所に置いておこう。私がどれだけの時間を費やして探し回ったかを知って罪悪感に苦しめばいいんだよ! あと! 絶対読んだら待っててよね! 帰ることは許さないから! 私は来週の日曜日も必ず来るから! そしたら今度こそ、ちゃんと約束守ってよね!』

「……なんだ、これ?」

 トートバッグの中からミネラルウォーターを取り出し、乾いた喉に滑らせてから、僕は小さくつぶやいた。
 中身を読む限り、どうやらこれは日記らしい。しかし、普通の日記とは違ってどうやら夏休みの間、それも日曜日の出来事しか書いてない。しかも書いてある内容はどれも、昔会う約束をした誰かを探しているといったものだ。一番直近の記述に至っては、その探している誰かに向けたメッセージみたいになっている。そして、これを書いた人はかなりご立腹のようだった。

「ははっ、誰だか知らないけど災難だな」

 読み始めた前のページにもなにやらつらつらと書かれているし、探し人とこの日記の持ち主が再会すればそれはそれは大層な修羅場になるんだろうなあ、などと思いながら、日記を閉じた時だった。

「読み終わった?」

 すぐ右隣で、声が聞こえた。

「わっ!?」

 心底驚いた。それはもう、心臓が止まるかと思うくらいに驚いた。
 驚きのあまり、僕は転がるようにして左に飛び退いた。

「あははっ、驚きすぎでしょ」

「え? え?」

「やっ、どうも。日記の持ち主です」

 今しがたの驚きをさらに超え、肋骨の下がひときわ大きく跳ねた。
 朗らかな笑みを浮かべて僕を見つめていたのは、同じ高校のクラスメイト、浜野(はまの)(あおい)だった。

「え、日記の持ち主? え、浜野が?」

「そーだよ、野口(のぐち)(あきら)くん。よくも熱心に読んでくれたね、私の日記を」

 ほころんだ口元から出たのは、いつもの浜野からは想像もつかないほど冷ややかな声だった。
 え、これ怒ってる?
 湧いた疑問のあとに続いたのは、そりゃ当然だろという自分自身へのツッコミ。僕は、慌てて立ち上がり頭を下げた。

「ご、ごめん! えと、ぜんぜん悪気はなくて」

「ふーん? のわりには、日記だってわかってからもとっても楽しそうに読んでたよね」

「い、いや、それは……」

 次の言葉を考えるが、なにも思い浮かばない。
 なんとも気まずい。自分の日記を誰かに読まれるなんて、恥ずかしいに決まっている。褒めるのも変だし、けなすのはもってのほかだし、なんて言えば……。

「ぷっ、あはははっ!」

「え?」

 僕が戸惑っていると、浜野は唐突に笑いだした。思わず首を傾げる。

「いや、ごめんごめん。冗談だよ。ここに意図的に置いたのは私だし」

 目元にたまった涙を拭いながら、彼女は続ける。

「ちなみに一応訊くんだけど、野口くんは十年前に、私みたいな女の子と会ってないよね?」

「そりゃ、まあ」

 僕はおもむろに頷く。
 十年前、小学校低学年の記憶はあまりないけれど、男の子ならまだしも浜野のような女の子と遊んだ思い出はない。

「だよねえ。はあーあ。約束の場所に男子がいて、一瞬期待したのにな」

「な、なんかごめん」

「あははっ、いやごめんね、こっちこそ。とんだとばっちりだよね」

 寂しそうに微笑む浜野の顔に、ちくりと胸が痛んだ。
 そんな痛みが届いたのだろうか。
 川のほうへと視線を移した彼女は、なにかを思いついたかのようにポンと手をたたいた。

「そうだ、野口くん。乗りかかった舟ということでどうかひとつ、私のお願いをきいてくれないかな?」

「お願い?」

 胸の痛みが届いたなんて、そんなわけはない。
 痛みのあとに続いたのは嫌な予感で、当たって欲しくない時に限ってそれは的中する。

「うん。一緒に、私の初恋の人を探してほしい」

 高校生最後の夏休み。
 偶然出くわしたクラスメイト、もとい僕の好きな人から告げられたのは、初恋の人探しのお誘いだった。


 *


 浜野葵は、同じ高校に通うクラスメイトだ。
 性格は天真爛漫(てんしんらんまん)を体現したような明るさで、誰とでもすぐに打ち解ける親しみやすさを持っている。地味で読書が趣味な僕とは対極の位置にいるような存在だ。
 正直、不釣り合いだとは思う。
 僕は彼女ほど容姿が整っているわけでもなければ、いろんな本を読んでいるからといって面白い話ができるわけでもない。勉強も運動神経も身長も体格も至って平均。普通を絵にかいたような男子高校生なのだ。
 そして、そんな僕が浜野に好意を寄せ始めた理由も、とても普通だ。
 高校三年生になって一ヵ月ほどした頃、浜野が珍しく大遅刻してきた。寝坊をしたのだと先生や友達には説明していたが、僕はたまたま登校中の電車で彼女を見かけていた。
 同じ電車に乗っていたなら、普通に間に合うはずだ。それなのに、どうして?
 浜野の性格も相まって、日常会話くらいはする仲だった僕は、それとなく彼女に尋ねてみた。すると彼女は驚いたように目を見開いてから、こっそりと耳打ちしてきた。

「道案内してたらさ、今度は私が道に迷っちゃって。学校に辿り着くのに、めっちゃ時間かかっちゃった」

 恥ずかしそうに笑って頬をかく彼女に、気づけば見惚れていた。
 それからというもの、事あるごとに僕は彼女を目で追ってしまっていた。そのたびに、彼女の笑顔に、優しさに、ちょっとドジなところに、心の底からドキドキしていた。気持ち悪いな、なんて自分で思って戒めてみるも、なんの効果もなかった。
 浜野に彼氏がいないことはクラスでも周知の事実だったので、僕は嫉妬にさらされることもなく安心しきっていた。
 そんな、矢先の出来事だった。

 ――一緒に、私の初恋の人を探してほしい。

 衝撃だった。すぐには言葉が出てこなかった。
 けれど、数秒の逡巡(しゅんじゅん)のあと、僕は頷いてしまっていた。
 理由はいくつもあった。
 成り行きとはいえ、浜野から頼りにされたことが嬉しかった。
 ただ純粋に、浜野の初恋の人が気になった。
 なにより、少しの間でも浜野と一緒にいたかった。
 我ながら、思った以上に浜野が好きなんだと自覚した。
 彼女のお願いをきいて、万が一にも叶ってほしくなんかないくせに。
 けれど、それでも。

「やっほ、のーぐちくん。来てくれたんだ」

 彼女のお願いに頷いてしまった日からちょうど一週間後。自転車を漕いで約束の場所に来た僕に向かって、浜野は嬉しそうに手を振ってきた。

「そりゃまあ、約束したし」

「さっすが野口くん。どっかの誰かさんとは大違いだよ」

 肩ほどまでの艶やかな髪をなびかせて、彼女はあけすけに笑う。澄んだ笑い声は水面の上を滑り、青空へと溶けていった。
 受験生らしく勉強に明け暮れるか、あるいは友達と遊んで過ごすばかりだった夏休みに、こんな笑顔が見られるなんて思ってもみなかった。どうしてもモヤモヤは残ってしまうけれど。

「それで、一応先週聞いたことの確認だけど、浜野は小学校低学年の夏休みに出会って遊んだ初恋の男の子を探してるんだよね?」

 胸のつかえから目を背けるように、僕は自転車を雑にその辺りへ停めてから訊いた。もちろん浜野はそんな心境なんて知るはずもなく、懐かしむように口元をほころばせて頷く。

「うん、そーだよ。なんか彼、その夏休みに引っ越しちゃうみたいで、その前の日に約束したんだ。高校生になったら、夏休みの日曜日にまた会おうねって」

「なるほどね。ダメ元で訊くんだけど、名前とかは覚えてる?」

「ううん、ぜーんぜん。あ、でもね、見た目と性格は覚えてる!」

「見た目と性格?」

「うん。男の子なんだけど小柄でね、少しくせっ毛のある真っ黒な黒髪をしてたの。短髪で日に焼けた肌と、あと笑うと白い歯が印象的で、とってもかっこよかったんだ」

 自分から尋ねておいて、聞きたくない言葉が次々と飛んできた。

「な、なるほどね。性格は?」

「んーとね、物怖じしなくて、すごくおしゃべりだったな~。彼に憧れて今の私ができあがったくらいだし!」

「そ、そうなんだ……」

 目を輝かせて話す浜野に、僕は辟易とした。
 どうやら浜野は小さいころに出会った初恋の人にかなり影響を受けているらしい。その初恋の人のおかげで僕が好意を寄せている今の「浜野葵」がいるのだが、僕はとてもそんなふうには思えなかった。むしろ僕とかけ離れた初恋の人の話を聞くたびに、間接的に脈なしであることが突きつけられているようで苦しかった。僕の心にあるのは落胆と羨望と嫉妬ばかりで、なんとも情けない限りだ。

「それにしても、やっぱり今日もいないねえー」

 僕がひとり心の中で落ち込んでいると、そんな事情なぞ知る由もない浜野は辺りを見回してつぶやいた。僕もなんとか気持ちを切り替えて、同じように周囲へ視線を走らせる。

「これも確認だけど、本当にここで会う約束をしたのか?」

「うん。詳しいことはあんまり覚えてないんだけど、日記にも書いたとおり高校生の夏休みの日曜に、陸橋の下で会おうねって約束したんだ」

「ふーん」

 面白くない。面白くはないのだが、協力すると頷いてしまった手前なにもしないわけにはいかない。僕はやや迷ってから口を開く。

「いや、ここの川って結構大きいからさ、ここ以外にもいくつか陸橋あるじゃん? もしかしたら、他のところなのかもって思ってさ」

「あ」

 僕の言葉に、浜野は得心したように手を合わせた。

「その可能性ある! じつは石階段のある橋の下ってことしか覚えてないんだよね。ここが一番家から近いから勝手にそうだと思ってたんだけど、そういえばあの時彼にいろんな場所へ連れていってもらってたし、うん、そうかもしれない!」

「よし。なら、一応他のとこも回ってみよう。小学校低学年だし、行動範囲もそこまで広くはないと思うから近くの陸橋にしぼって見て回ろうか」

「うん! それにしてもさっすが、野口くん冴えてるね〜!」

「い、いやまあ。たまたまだよ」

 褒め言葉とともにパシリと背中を軽くこつかれて、僕はつい素っ気なく返す。
 たったこれだけで落胆から一転嬉しくなるくらいには、僕も重症のようだった。


 *


 家が近くにあるらしい浜野は一度自転車を取りに戻り、僕らはひとまず近くにある陸橋のうちふたつを回ることにした。

「あーあ。でももしこれで約束の場所が他の橋だったら、すっぽかしてるの私のほうになっちゃうよねー」

 すぐ近くで自転車を漕ぎながら彼女がうなる。

「まあ、そうなるな」

「うへぇ、印象最悪じゃん。あんな日記まで書いててそれはアホすぎる。そう思うとむしろいてくれないほうが……あーでも会いたいしなー。やっぱいてほしいなー」

「はは、悩ましいな」

 彼女のほうを一瞥(いちべつ)すると忙しなく表情が動いていて、思わず笑みがこぼれた。僕自身の気持ちだけを考えればもちろんいてほしくはないのだが、こんな様子を見ていると再会して喜んでほしいとも思えてくる。……いや、待て。でもそうなると、そんな嬉しそうな表情を初恋の人に向ける彼女を見守ることになるのか。それはちょっと、いやかなりしんどいな。んー。
 人のことをどうこう言えない葛藤に僕も悩み始めたころ、最初の目的地が見えてきた。
 そこは、先ほどまでいた河川敷とは異なり、大小さまざまな石が転がっている河原だ。縦に走っている川も随分と小さく、川底も薄らと見えている。

「ほら、あの奥のとこに陸橋があるだろ。一応、その下は石階段だし、特徴だけなら約束の場所と同じだ」

「おー確かに」

 僕らは自転車を傍に停めると、陸橋下へと歩いていく。靴裏からは川石のごつごつとした感触が伝わってきて、かなり歩きにくい。

「転ぶなよ、浜野」

「だいじょーぶ! 昔もよくこういうとこで遊んだから!」

 はつらつとした言葉通り、浜野はひょいひょいと華麗にステップを踏んで石を飛び越えていく。よく遊んだ、というのは本当らしい。それ以上は、想像したくないんだけど。

「でも、やっぱりいないみたいだね」

 先に石階段の元へ到着した浜野は残念そうにつぶやいた。僕も辺りを見渡してから小さく頷く。

「うん。家族連れと、大学生のサークルっぽい人たちだけだね」

「あーあ。そっかあ。ざーんねん。でもひとつ、おかげで思い出したよ」

 そう言うと、浜野は近くの岩場からなにやら平たい石を拾ってきた。かと思いきや、軽く助走をつけて川のほうへと駆けていく。

「そりゃ!」

 掛け声とともに、彼女は思い切り腕を振り抜いた。その手先から放たれた小石は水面を滑り、次々に跳ねていく。

「ふふん、どう?」

「へぇー水切りか。上手いね」

「日記にも書いてあったと思うけど、昔彼に教えてもらったんだー。その場所がどこか思い出せなかったんだけど、この河原だったって今思い出した」

 浜野は得意げに笑うと、また小石を見つけてきては川へと投げた。回転がかかった小石はまた宙を舞い、水面を何度か跳ね回っては水中へ消えていく。
 懐かしいな。友達とよくやったっけ。
 ふいに浮かんだ記憶をぼんやりと思い出していると、浜野は軽やかな足取りで僕のところへ戻ってきた。

「ねっ、せっかくだからもうちょっと遊ぼうよ。野口くん、水切りできる?」

「え? ま、まあ、それなりには」

 急に尋ねられ、ついどもってしまった。それを自信のなさと受け取ったのか、彼女の口の端が薄く上がる。

「よぉーし! じゃあ勝負しようよ! 負けたほうが帰りにジュースを奢るってことでどう?」

 案の定、勝負の提案だった。なんてわかりやすい。

「べつにいいけど」

「よしきたー! じゃあまずは私からね!」

 僕が了承すると、待ってましたとばかりに浜野は石を取り出した。いつの間に拾ったのか、それは見事に平べったい投げやすそうな石だった。

「まさか、既に良い石を拾っていたのか?」

「ふふん。準備も勝負のうち、そして油断させるのも勝負のうち、だよ!」

 言うや否や、浜野は先ほどよりもきれいな低姿勢で石を放った。回転も角度も良く、小石は十二回ほど水面を跳ねていった。

「さっきは少し下手に見せていたわけね」

「そーいうこと。さっ、今度は野口くんの番だよ」

 ――さっ、今度はアキくんの番だよ!

「え?」

 脳裏に声が響いた。
 僕は慌てて辺りを見回すが、近くには浜野のほかに誰もいない。

「ん? どうしたの、野口くん?」

「い、いや。なんでも」

 記憶にある声。
 あれはいつだったか。僕も小さいころ、こんなふうに河川敷でたまたま会った友達と水切りで勝負していた。
 身長は高くて、さらさらとした綺麗な髪を翻した、ちょっと内気な男の子だったっけ。
 またぼんやりと思い出した記憶を振り返りつつ、僕は手頃な石を見つける。
 あの時も確か、「彼」は僕を油断させようとしていた。

「ほっ!」

 昔取った杵柄、もとい昔投げた川石、といったところか。水平を意識して大きく滑り投げた小石は、想像以上の手応えで水面を走った。

「なあっ!」

 隣で呆けた声が聞こえた。僕の投げた小石は先ほど彼女の石が沈んだ地点を過ぎ去り、やがて川の中央付近で水中へと沈んでいった。

「十八回、か。だいぶ腕落ちてるな」

「なんで! どうして!」

「油断させるのも勝負のうち、なんだよな?」

 意図的ではなく、偶然ではあったけど。
 にやりと笑って返した言葉に、浜野は心底悔しそうに頬を膨らませる。

「納得いかない! もう一回!」

「はいはい」

 それから僕らは何度も水切り勝負を繰り広げた。浜野は相当な負けず嫌いらしく、対戦は十回以上続いた。
 やがて僕の感覚がさらに戻ってきて、跳ねる回数が二十回を超えたところで彼女は両手を上げた。

「もう無理! ねえ! これ以上跳ねるにはどうすればいいの!」

 潔く負けを認めたかと思えば、今度は教えを乞いてきた。清々しいまでの変わり身に、僕はまた懐かしさを覚える。

「浜野はまだ投げる位置が高すぎるんだよ。もっと水面と水平を意識して、下から転がすようなイメージで……」

 ――アキくんうますぎ! 僕もアキくんみたいにたくさんバウンドさせたい!

 また声が聞こえた。
 そうだ。あれは僕が小学校二年生の時だ。父親が海外へ短期単身赴任となり、夏休みの間だけ母方の実家に帰っていた。

 ――もっと上手になりたい! おしえて!

「こう!? こんな感じ!?」

 そんなふうにせまる浜野の顔が、なぜか「彼」と重なった。

「い、いや、もっと低く。あと、たまにする助走はいらないから。大きく振りかぶるだけでいい」

「よ、よしっ……! いくよー、そりゃ!」

 さらにきれいな低姿勢で、浜野は石を放る。その後ろ姿は、また「彼」に似ていて。

 ――やった! できた! 見て! 石がはねた!

「やった! できた! 見て! 十四回の新記録!」

 そこで、僕はひとつの可能性に思い至った。


 *


 結局、ひとつ目の河原で水切りに夢中になったせいで、僕らは当初行く予定だったもうひとつの陸橋があるところには行けなかった。

「あーもう。野口くん、水切り上手すぎるよー」

 茜色に変わりかけている空の下、自転車を押しながら浜野はぼやいた。ちなみに勝負は僕の全勝。約束通り、僕は近くのコンビニでジュースを一本奢ってもらった。

「まあ、意外な特技ってことで」

「意外すぎるよ。最初は絶対勝てると思ったのに」

 渇いた喉にジュースを滑らせる僕を、浜野は不満げに見つめてくる。

「まあまあ。浜野もさらに上手くなったじゃん。最後のほうとか負けそうだったし」

「そんなこと言って負けてないんだから。ほんと、野口くんって私の初恋の人みたい」

「っ!?」

 思わず、ジュースを吹き出しそうになった。すんでのところで堪えて飲み込み、代わりに大きく咳き込む。

「あははっ、もう、大丈夫ー?」

「ケホッ、ケホ……は、浜野が変なこと言うからだろ」

 若干涙目になりながらにらむと、彼女は苦笑いを浮かべて手を合わせた。

「ごめんごめん。でもさ、ほんとに野口くん、過去に私みたいな女の子と河川敷で遊んだことないんだよね?」

「……残念ながらないね。男子の友達とは、何回か遊んだけど」

 視線を河川のほうへと移す。
 すっかり忘れていた夏の思い出。
 たまたま河川敷で出会った「彼」とは、水切りだけじゃなく虫取りや釣りなんかもして遊んでいた。
 最初、「彼」はかなりの恥ずかしがり屋だった。けれど、当時の僕は無邪気に「彼」をいろんな遊びに誘い、少しずつ緊張や警戒をほぐしていった。そして夏休みが終わるころには、とても仲良くなっていた。

「ふーん。ちなみに、その友達とは今も遊ぶの?」

「いや。学校は違ったし、たまたま暇してた夏休みだけ遊んでそれっきりだ」

「そうなんだ」

「まあそれに、そもそも僕は引っ越しなんてしてないしね」

 素っ気なく言ってから、僕は小さく肩をすくめた。
 僕は生まれも育ちも今住んでいる市から変わっていない。浜野の初恋の人はどうやら引っ越してしまったらしいので、その点で僕とは決定的に異なる。
 だからきっと、僕の予想は外れている。

「そっかー。それは確かに違うね。あと言われてみれば、野口くん肌白いし、約束はきちっと守る慎重派だもんね!」

「まあ、そうだね」

 そう、僕と浜野の初恋の人は違うのだ。
 イメージとはあまりにかけ離れていて、今の僕が彼女の恋人になれる可能性は万にひとつもない。よくて仲の良い友達止まり。その先なんて高望みがすぎる。
 ただそれでも、どうしてもひとつ確認したいことがあった。

「あのさ、浜野」

「んーなに?」

「初恋の人のイメージはわかったんだけど、小学校低学年の浜野はどんな感じだったんだ?」

 僕が思い至った可能性。
 それは、僕の記憶にある一緒に遊んだ男の子が、じつは女の子だったという可能性だ。一人称が「僕」だったから勝手に同性だと思っていたけれど、もしかしたら……。

「えー私? 今と違って、結構恥ずかしがり屋だったよ」

 やや頬を赤く染めてから、彼女は短く笑う。

「自分のことを話すのが苦手で、いつもお兄ちゃんの後ろにくっついているような女の子だった。そのわりに身長は高くて、お兄ちゃんを真似した僕っ子だったからさ、よく男の子に間違われてたんだよね~」

 思わず、息を呑んだ。ほとんど無意識に、僕は足を止める。

「でも、私の初恋の人……彼と会ってからは、少しずつ自分のことも話せるようになったんだ。彼みたいに明るく笑う人になりたいなって思ったから……って、あれ。野口くん?」

 少し先を歩く彼女は、僕がついてこないことに気づいて振り返った。その拍子に、さらさらとした綺麗な髪が舞う。

 そう、だったんだ……。

 見覚えのある首の傾げ方に、僕はつい言いそうになった。でも。

「……っ、あ、ああ。靴の中に、石かなにか入ってるみたいで」

 開きかけた口を一度閉じてから、僕は靴から石を取るふりをした。その間にどうにか心を落ち着けて、浜野の隣に並ぶ。

「ごめんごめん。でもそうか、それならなおさら初恋の人に会いたいよなあ」

「うん! それでさ、ずっとためてた気持ちとか、ぜんぶ言いたい」

「ためてた気持ち、か」

 ちらりと浜野を盗み見る。
 空を見上げる彼女の横顔が、少し赤い気がした。

「それで、来週も探すのか?」

 胸をちくちくと打つ痛みを誤魔化すべく尋ねると、浜野はそれと見てわかるほどに表情を緩ませた。

「私はそのつもりだけど、もしかして来週も手伝ってくれるの?」

「まあ……受験勉強の気分転換にもなるし」

「やった! ありがとう! じゃあ来週は今日探せなかった橋のほうに行ってみよ!」

 無邪気に笑う浜野が、とても眩しかった。夏風に乗って、ふわりと甘い匂いが鼻腔(びこう)をくすぐる。心臓がトクトクと軽快なリズムを刻む。

 どうして、忘れていたんだろうか。
 どうして、今の僕みたいになってしまったんだろうか。
 
 湧き上がる後悔を噛み締めながら、僕は不恰好な笑顔を彼女に向けた。


 *


 翌週の日曜日。
 今日は夏期講習もなく、午前中のうちから探すことになった。
 容赦のない陽射しの中を自転車で走り抜け、僕は集合場所である最初に会った陸橋下で浜野を待っていた。

「あっちぃなぁー」

 来る途中にあった気温計は35度を指していた。いくらなんでも暑すぎる。河原で水遊びをしている小学生や家族連れなんかもいたし、僕も頭からこの川の水を被りたいくらいだ。まあもちろん、そんなことしないけど。

「にしても、初恋の人かあ」

 石階段横の岩の近くに置いてある緑色の日記帳を拾い上げ、パラパラとめくる。直近の記述は先週の日曜日だ。

『7月28日。日曜日。なんと今日は一緒に探してくれるパートナーを見つけた! とっても嬉しい! 一緒に水切りもして楽しかったー! やっぱりひとりで探すのって退屈だしつまんないんだよね。まあそもそも約束守ってくれてたら探さなくてすむんだけど! ねえそこの君のことだよ! 見てる!?』

 先週の日曜日に、彼女は未だ会えていない初恋の人に向けたメッセージを日記に書き、例のごとく陸橋下の石階段に置いていた。約束の場所を勘違いしていなかった場合も考慮し、日記で「こんなに探してましたよ」アピールは続けるらしい。もっとも、置かれていた場所がぜんぜん変わってなかったし、初恋の人らしき人も見当たらないので不発だったようだけど。

「初恋の人、かあ……」

 まあ、不発なのも当然だ。なにせ、僕があれほど嫉妬や羨望を抱いていた浜野の初恋の人は、おそらく昔の僕だろうから。
 先週から今週にかけて、僕の頭の中はそのことでいっぱいだった。塾の夏期講習にはあまり集中できず、ぼんやりと考えてしまう始末。
 正直、すっかり忘れていた。なんなら、彼女がしたという約束は未だに思い出せていない。我ながら、なんて薄情なやつなんだろうと思った。
 けれど、ここまでその約束の人が現れておらず、僕が昔この河川敷で出会って遊んだ同い年の子の特徴がここまで合致しているのは、ただの偶然とは思えなかった。それに、僕は確かにその子に水切りを教えたし、別れ際には「夏休みが終わったらこの町からいなくなっちゃう」みたいなことは言った記憶があった。もちろんそれは僕が母方の実家から自分の家へ帰ることを意味していたのだが、浜野がこれを「引っ越す」と勘違いしたなら、僕自身が引っ越しをしていないこととの辻褄も合ってくる。
 しかし、僕は浜野にそのことを言っていいんだろうか。

 ――短髪で日に焼けた肌と、あと笑うと白い歯が印象的で、とってもかっこよかったんだ。

 昨日の彼女の言葉がよみがえる。

 ――物怖じしなくて、すごくおしゃべりだったな~。彼に憧れて今の私ができあがったくらいだし!

「ふぅ……」

 ため息がこぼれた。だってあまりにも、初恋の人のイメージと今の僕とでは差がありすぎるから。
 僕は今でこそ地味で大人しいタイプだが、昔はあちこちで走り回っているような子どもだった。そのため日焼けは確かにしていたし、誰彼構わず話しかけていた。
 しかし、次第に僕は読書にのめり込むようになり、段々とインドアになっていった。日に焼けた肌は白くなり、口数も随分と減った。良く言うならば、落ち着きが生まれた。
 でも、どうやら彼女が好いたのは昔の僕だったらしい。今の僕を見てもそれとはわからないほどに変わってしまっており、改めて好きだなんだと思われることはない。あくまでもクラスメイトで、そこそこ話せる友達みたいな存在なのだ。
 それを自覚した時、僕は言えなかった。
 じつは自分が浜野の初恋の人かもだなんて、浜野が好きだった人はすっかり変わってしまっただなんて、好きだった要素はほとんど残ってないだなんて、言えるはずもなかった。
 言って失望させたくなかった。
 静かに拒絶されることが怖かった。
 それなのに、こうしてまだ待ち合わせをしてしまうくらいには浜野が好きだった。
 
「どうすっかなー……」

 感情が迷子だった。
 初恋の人に嫉妬していたくせに、その初恋の人が自分かもしれないなんて。
 そして自分だとしたら、今度は失望させてしまうのが嫌だなんて。
 それなのに、この夏の間だけでも一緒にいたいだなんて。
 僕は、どうしたらいいんだろうか。
 どうにも定まらない様々な感情がせめぎ合っていて、心の中はぐちゃぐちゃになっていた。

「もどかしいなー……」

「なにがもどかしいの?」

「わっ!」

 心に溜まったモヤモヤを吐き出すようにつぶやいたその時、また唐突に真横から声が聞こえて僕は飛び退いた。見れば、くつくつと楽しそうに笑う浜野がしゃがみ込んでいた。

「あははっ! いやー前も思ったけど、野口くんって案外面白いね。リアクションも最高だし」

「人の反応で遊ぶな、まったく」

 本当に心臓に悪い。
 驚きもさることながら、主に距離が近くてドキドキしてしまうという意味で。
 またひとつ、好きだなあと感じてしまうその笑顔のせいで。

「ごめんごめん。それで、なにがもどかしいの?」

 もっとも、彼女自身はそんなこと気にも留めていない様子で僕の顔をのぞき込んでくる。どこまでも純粋で澄んだ瞳に内心ため息をつきながら、僕はふるふると首を横に振った。

「いや、なんでもない。こっちの話だよ。それより、残った陸橋はふたつあるけど、どっちから行く?」

「あ、誤魔化したー! もう、まあいいけどさ」

 浜野はやや不満そうに頬を膨らませつつも、すぐにいつもの表情に戻って答える。

「それじゃあ上流側にある近いほうから行こうよ。そっちは河原だから、水切りもできるし!」

「もしかして、先週負けたの根に持ってる?」

「ぜーんぜん! 一回も勝てなくて悔しいとか今日こそは勝ってやるとか、これっぽっちも思ってないですよーだ」

「めっちゃ根に持ってるじゃん」

 僕がツッコむ間もなく、彼女は風のように自転車にまたがると「早く行くよー!」と叫んで漕ぎ始めた。
 本当に、どこまでも眩しい。
 徐々に小さくなっていく彼女の後ろ姿を見失わないように、僕も急いで日記を岩場に戻してから自転車に飛び乗った。


 *


 それから僕たちは上流側にある河川敷につくと、ひととおり周囲を散策した。

「わー! ねねねっ、見て見て! ザリガニがいる!」

「ほんとだ。珍しいな」

「小さいころよくとったんだよねー。でも残念ながら今は触れない。野口くんは?」

「僕も昔はとれたけど、今はちょっと」

 岩場の影で水流を身に受けながら潜むザリガニを観察したり。

「ねえ、夏休みの宿題ってやった?」

「まあ、それなりには」

「うわーさっすが! 私はまだ一ページしか開いてないんだよねー」

「それ、やってないのと同じじゃん」

「だって初恋の人探しに忙しいんだもん」

 陸橋下の日陰に腰かけて談笑したりした。
 先週同様日曜ということもあってか、河川敷の芝生にはそれなりの人がいて賑わっていた。けれど、そのほとんどが家族連れや小中学生のグループで、浜野との約束を守るために待っているような同い年の姿はもちろんなかった。

「やっぱり、最初のところなのかな」

 ペットボトルのお茶を喉に滑らせ、浜野はつぶやいた。

「んーそうかもしれないな。もうひとつのところの可能性もあるけど、少し遠いし」

 僕も同じようにミネラルウォーターを飲んでから、なるべく平坦な口調で答える。
 いろいろ考えたが、今の僕にできることはとにかく僕が初恋の人だとバレないことだ。そうしてそのまま、この夏休みを終えて思い出として諦めてもらう。失望もさせないし、変に初恋の人に縛られることもない。僕自身の恋が叶うかどうかはべつとして、それが浜野にとって一番いいことのように思えた。

「だよね。となると、約束忘れられちゃってるのかあ」

「まあ、最終日とかに来るって可能性もあるけど」

「あはは、ギリギリすぎでしょ」

 夏休みの宿題みたいだ、と彼女は短く笑ってから、すくっと立ち上がった。

「まっ、考えてても仕方ないや。ということで野口くん、リベンジマッチといこうか」

 不敵に笑うその表情は、やっぱり慣れてきたころの「彼」そっくりだった。懐かしさのあまり、つられて僕も笑ってしまいそうになる。

「いいよ、負けないけど」

 だけど僕はそれに気づかないようにする。今までどおり、それなりに話せる関係でいる。きっとそれが、一番お互いのためになるから。

「いーや、私も負けないよ! こっちは人が多いから、向こう側の岸でやろ。あっちの浅瀬から渡れそう!」

 軽やかな足取りで駆けていく彼女に付いて、僕も立ち上がった。

 ――アオ! ほら、行くぞー!

 ――アキくん! ちょ、待ってー!

 記憶の中で、二人の子どもが連れ立って走る。
 また、思い出が鮮明な色合いをはらんでよみがえってきていた。

「野口くん、こっちこっち! ここから渡れるよ!」

「わかったって、今行くよ」

 そうだった。
 僕は「彼」を、あの子を、「アオ」と呼んでいた。
 あの子が自分のことをそう呼んでいたから、僕も遠慮なしにその名前を叫んでいた。

 ――アオ! ここ滑りやすいから、ほらっ、手!

 ――う、うん! ありがとう、アキくん!

「野口くん、あそこ! あの岩のあたりなら人も少ないし、思う存分勝負できるね!」

「それはいいけど、足元気を付けなよ」

「ヘーキヘーキ!」

 今じゃ到底できっこないリードも、あのころの僕は簡単にできていた。
 もっと純粋に、君の手をとれていた。
 水面から顔を出している石の上を渡る浜野の背中を見つめて思う。
 ……やっぱり、今の僕じゃ言えない。自分の気持ちも、昔会っていたことも言えない。

「ほーら! 野口くん、早くおいでよー!」

 いつか、言えたらいいなと思う。
 もしかしたら、その時は既に手遅れかもしれないけれど。
 初恋の人じゃなくて、まったくべつの新しい恋人の話をする君に、思い出として話すことになるかもしれないけれど。
 それでも、今の僕じゃ……――。

「きゃっ!?」

 その時、小さな悲鳴が響いた。
 足を踏み外したのか、見れば彼女の身体が大きく傾いていた。

「アオっ!」

 反射的に、僕は駆け寄った。靴が濡れることもいとわずに水音を立てて、僕はすんでのところで浜野の身体を抱きとめた。
 ふわりと、夏の香りに混じって甘い匂いが鼻先をかすめた。

 ――どわあっ!?

 ――うわっ!?

 いつかの悲鳴も、それに重なる。

 ――わりー、滑って転んじまった。アオ、怪我はないか?

 ――うん、でもびしょぬれだよー。

「……」

「……」

 靴はもちろん、スキニーパンツまで水につかった状態で、僕と浜野は向かい合っていた。直前まで響いていた明るい声も、以前のような気遣う言葉も、取り繕う余裕もなかった。
 頭の中は真っ白だった。
 咄嗟にその名前を呼んでしまった実感だけがあって。
 ただ冷たい水の感触が、じんわりと肌に沁み込んできていた。

「…………その、呼び方って」

 先に沈黙を破ったのは、僕に抱きかかえられている浜野のほうだった。頬は赤く、目は微かに潤んでいる。

「い、いや……その、なんというか」

 ――まっ、この暑さだしすぐ乾くだろ! ということで、それっ!

 ――わっ、アキくん冷たいって~!

 あのころみたいに場を和ます言葉も出てこない。口をついて出るのは、なんとも情けない曖昧な声ばかりで。

「……そっか。やっぱり、野口くんだったんだ……」

「え?」

「……野口くん。一度、家に帰ろ。濡れた服を着替えて、お昼ご飯食べてから……約束の場所に来て」

 僕を押しのけて立ち上がった浜野はそれだけ言うと、足早に自転車のもとへ駆けていった。
 結局、僕は彼女の姿が見えなくなるまで、川から上がることができなかった。

 
 *


 遠くから、蝉の鳴き声が響いてくる。
 穿(うが)ったような青空に立ち昇る積乱雲の背後に、一筋の飛行機雲が見えた。
 陸橋下を吹き抜ける涼風が汗ばんだ身体に染み渡り、暑さと動揺で上がった体温を緩やかに冷やしていく。

「どうなってんだ……」

 胸のうちに溜まった感情を吐き出すように、僕はつぶやいた。つぶやかずにはいられなかった。
 言われたとおりに一度帰ってから着替え、まったく喉の通らない昼食を終えて最初の陸橋下へと戻ってきた。けれど、まだ彼女の姿はなかった。
 そこにあったのは、変わらない緑色の日記帳のみ。
 落ち着かない気持ちを少しでも紛らわそうと、僕は石階段に座り何度も読んだ日記を手にとった。

『8月28日。日曜日。今日で、高校一年生の夏休みが終わる。結局、来てくれなかったな。なんだか寂しいから、日記でもつけて誤魔化そう。再会した時に、一緒に笑って見返せるといいな』

 彼女の日記は、二年前の夏休み最後の日から始まっていた。
 高校生の夏休みの日曜日に、陸橋下で再会する。
 それだけの約束を頼りに、浜野はずっと探していた。

『7月23日。日曜日。待ちに待った夏休みが始まった! 今年こそは会えるといいなー。まあ、初っ端から待ちぼうけくらってるんだけども。それでも、私はあの時の約束を信じて待つ! また会いたいから』

 パラパラとページをめくっていく。
 日記には、思い出もたくさん書かれていた。
 一緒に虫取りをして、蝉にビビりまくったこと。
 川で水遊びをしてびしょ濡れになり、お母さんに怒られたこと。
 河川敷の芝生に寝転んで、いろんな話をしながら一緒に空を眺めたこと。
 四葉のクローバーを探し続けていたら、いつの間にか夕方になっていたこと。
 被っていた麦わら帽子が風で飛んで、二人で追いかけたこと。
 それから、水切りを教えてもらったこと。
 僕はそのほとんどを忘れてしまっていたというのに、彼女は覚えていた。
 本当に、浜野は初恋の人に会えるのを楽しみにしていた。
 そして……。

『7月28日。日曜日。なんと今日は一緒に探してくれるパートナーを見つけた! とっても嬉しい! 一緒に水切りもして楽しかったー! やっぱりひとりで探すのって退屈だしつまんないんだよね。まあそもそも約束守ってくれてたら探さなくてすむんだけど! ねえそこの君のことだよ! 見てる!?』

 今朝も読んだ、先週の出来事。
 この日にたまたま僕は浜野と会って、彼女の初恋の人探しを手伝うことになった。あの時は、まさか僕が当人だったなんて思いもしなかった。

「……っ」

 いつも使っているトートバッグからミネラルウォーターを取り出し、喉へと一気に流し込む。けれど、渇きはぜんぜん収まってくれない。むしろ、さらに酷くなっている気すらしてくる。

 ――そっか。やっぱり、野口くんだったんだ……。

 ふいに、先ほどの言葉が響いた。
 紅潮した頬に、潤んだ瞳。その表情が意味するところに期待しないわけじゃない。でも、普通に考えるならそれはただの驚きで、緊張で、そこに特別な意味なんてあるはずもなくて……。
 というか、そもそもいつから気づいてたんだろうか。
 何度か会ったことないかと訊かれたけれど、まさか……

「最初から……?」

「それはどーだろーねー」

「うわっ!」

 突然真横から聞こえた声に、僕は肩が跳ね上がった。

「ぷっ、あはははっ! 野口くん、このやりとりもう三度目だよ!」

「浜野……あのな」

 目尻に涙を溜めるほど笑っている彼女に訝しげな視線を送る。でも言われてみれば、僕は何度驚くのか。いくらなんでも気づかなさすぎではないだろうか。
 僕が内心羞恥に悶えていると、ようやく落ち着いたらしい浜野は涙を拭って口を開いた。

「は〜〜笑った笑った。でも、懐かしいなー。昔会った時も、野口くんは集中してると回りが見えてなかったもんね」

「え? ほんとに?」

「うん、私が話しかけてもぜんぜん気づかなくてさ。真剣に目の前のことに集中してるの、ほんと変わってない」

 浜野はすくっと立ち上がると、川縁に降りていく。後ろ手に組まれた腕は、嬉しそうに右に左に揺れていて。

「やっぱり君は、私の初恋の人だよ」

 振り向きざまに、風が舞った。
 艶やかな髪がふわりとなびき、無邪気な笑顔に視線が縫い止められた。

 ――また、遊ぼうね!

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、懸命に笑うあの子の表情が重なる。
 息を呑まずには、いられなかった。
 嬉しかった。
 こんなにも長い間、想ってくれていたことが。
 でも。

「……ははっ。でも、今の僕はあの時の僕とは違うよ」

 ほとんど無意識に視線が落ちる。

「物怖じしないどころか臆病なくらい慎重になったし、今はおしゃべりでもなんでもないし、性格も見た目も浜野の憧れからは程遠いよ」

 べつに今の自分が嫌いというわけじゃない。いろんな経験をしてきて今の僕に落ち着いたのは事実だから。
 けれど、好きな人が好きでいてくれた自分の姿から遠ざかってしまったことが、どうしようもなく悔しかった。

「……だから、初恋の人が自分だって言ってくれなかったの?」

 僕のうじうじとした発言をどう受け取ったのか、浜野はしばしの沈黙の後そう訊いてきた。

「それもあるし、思い出したのは昨日水切りをした時で、そもそも約束だって覚えてなかったから。ほんと、ごめん……」

 僕は弱々しく頷くしかなかった。本当に我ながら薄情すぎるし、情けなさすぎる。バカみたいだ。
 僕が自重気味に笑おうとした、その時だった。

「ふふっ。でもさ、変わってないところもあるよ」

 柔らかな声が、すぐ近くで聞こえた。
 思わず顔を上げると、浜野が傍らにしゃがみ込んで楽しそうにこちらを見ていた。

「例えば、困っている人を放っておけない、その優しいところ。十年前に初めて会った時、じつは私、お母さんに怒られて泣いてたんだ。でも君はそんな私を慰めて、笑わせようとたくさん遊んでくれた。そして今も、私の謎なお願いを真面目に手伝ってくれた。どうせ初恋の人だって言わなかったのも、私を残念がらせないように〜とかなんとか深読みして、気遣ってくれたんでしょ?」

「うっ……」

 見透かされたように言い当てられて言葉に詰まる。すると彼女は、待ってましたとばかりに指をさした。

「そして、それ。嘘がつけないところ。朝から遊ぼうって約束しても、よく遅刻してきたよね。あと勝手に私のおやつを食べたりとかも。でも必ず素直に認めて謝ってくれた。今だって、そう。約束を覚えてなかったこともちゃんと言ってくれた」

「え、と……」

「あとね……いざという時は頼りになるところも、ほんと変わってない。その、川で助けてくれて、ありがとう」

 浜野は頬杖をついて、僕をのぞき込むように見つめてきた。頬が微かに紅潮しているように見えた。

「私はやっぱり、君のことが好き」

「え、え、えぇっ……!?」

 続けて紡がれた真っ直ぐな言葉に、僕の心臓が大きく跳ね上がった。
 頬が熱い。耳のあたりまで、一気に血液が沸騰しているみたいだ。

「あははっ! 予想外のことをされた時の反応も、ぜーんぜん変わってないっ!」

 嬉しそうに笑う浜野が眩しかった。
 僕は相変わらず、情けない声しか発せられてないのに。
 そんなこと関係ないとでも言うかのように、彼女はさらに笑いかけてくる。

「それで君は、私のことどう思ってるの?」

 河川敷に響き渡る蝉時雨が、唐突に止んだ。
 透き通った君の瞳を見つめる。
 とてもじゃないけれど、逸らすことなんてできなくて。

「僕も、好きだ」

 気づけば、そんな言葉を返していた。
 僕の返事に、浜野はまた朗らかな笑顔を浮かべて手を差し出してくる。

「ふふっ、ありがとう! 嬉しい! でも野口くんは私のこと忘れてたみたいだから、再会を祝してというより初めましてということで、またここからたくさん思い出を作っていこうね!」

 それは、快晴の猛暑日だった。
 真夏の空の下で、僕たちはもう一度手を繋いだ。

「あ、ああ、よろしく」

 照れて上手く言葉が出てこない今の僕は、それだけを言うのがやっとで。

「こちらこそ! ということで、手始めにさっきの河原に戻って水切りリベンジマッチの続きね! あ、約束忘れてた罰として二人乗りで!」

「えっ、普通に違反じゃん」

「硬いことは言いっこなし! ほーら、いくよー!」

 ――アオ! 行くぞー!

 ――うん! アキくん!

 いつかの温もり以上に熱い感触が、僕らの手の中に宿っていた。