「今日の灯くんは、なんだか浮かない顔をしてるね?」
「え?」

 それまで他愛ない話をしていたはずだった。それなのに、ふと会話が途切れたそのタイミングで、公園のいつものベンチに並んで座っていた宵が僕の顔を覗き込んできた。

 宵と出会い、こうして夜にこっそり会うようになってから、1週間とちょっと。会話を重ねるたびに少しずつお互いの感情が、音もなく形もなくわかるようになってきていたけど、まさか僕の平気なふりを見透かされるなんて。
 宵の洞察力に僕は少し驚かされてしまう。やっぱり宵は相手の心の機微に敏い。

「わかる……?」
「わかるよ」
「そんなにわかりやすかったかな」
「ううん。灯くんのことだから。貴方のことだからわかるんだよ」

 臆面もなくそう言い切られて、

「まったく宵には敵わないな……」

 僕は苦笑する。

「なにがあったの?」

 僕の話なんて宵は退屈じゃないだろうか。ほんの少し逡巡したけれど、宵が話を聞く姿勢をとってくれていることが風合いで伝わってきて、僕は居ずまいを正す。

「つまらない話なんだけど、いい?」
「いいよ。灯くんの話に、つまらないものなんてないけどね」

 膝に頬杖をついた宵が、上目遣いで僕を見上げてくる。
 僕は小さく息を吐き、そしてゆっくりと言葉を紡ぎだす。

「今日、体育祭だったんだ」
「今日?」

 学校に行っていないからか、初耳のような顔をする宵。

 年に一回行われる、わが校の体育祭。それが今日だった。

 今日を迎えるまで僕は憂鬱だった。理由はひとつ、僕がサッカーにエントリーされていたからだった。
 僕ははじめ、サッカーを避けてリレーかバスケにでも出場しようとしていた。サッカー部の面子と顔を合わせるかもしれないのも嫌だったし、なによりサッカーをするあの感覚を思い出したくなかった。
 けれど先日の出場競技を決めるHRの時、僕が選ぶより先にイチが手を挙げたのだ。『佐々木灯くんをサッカーに推薦します! 灯がいてくれれば優勝も夢じゃない!』とかなんとか言って。
 優勝という大げさな言葉に、クラス中は大盛り上がり。僕の声なんてだれにも聞き入れてもらえず、イチの外堀から埋めるという卑怯な手にまんまとハマってしまったのだ。

 そして迎えた体育祭。
 僕のクラスは、初戦から学年がひとつ上の3年生と対戦することになった。

『灯、見せつけてやろうぜ、俺らのツートップ』

 試合前、肘で小突きながらそう耳打ちしてくるイチ。僕はその手を払いながら、あえて冷たい声で突き放す。

『言っただろ。もうサッカーはやらないって』

 本当はもうボールを蹴りたくない。あの日の感覚を思い出し、未練に引きずられたくない。

 けれど僕の心を置き去りにするように、試合開始のホイッスルが鳴り響く。
 試合開始早々、華麗な足捌きで相手チームからボールを奪ったイチが、僕にパスを出してきた。

 チームの足を引っ張らない程度に適当にやり過ごすつもりだったのに、足の裏にボールを収めた瞬間、感情がぶわっと昂ってしまった。
 イチと一緒にコートを走り回る感覚。足の先や裏を使って意図するままにドリブルをこなす感覚。ボールを蹴るときの爽快感。あの日の感覚が胸に迫ってくる。

 ドリブルで相手陣地を切り込んでいき、そして勢いよく放ったボールは、一直線に綺麗な弧を描き、キーパーが届くより先にゴールを豪快に揺らした。
 途端にコートの外から湧く歓声。走り寄ってきて僕をもみくちゃにするクラスメイト。

 胸を激しく揺さぶられ、僕はクラスメイトの輪の中で気づけば満面の笑みを浮かべていた。気持ちいい。気持ちよくてたまらない。
 ああ、僕はまだこんなにもサッカーが好きなんだ。
 30分の試合時間は、そう実感するには充分すぎるものだった。

 けれどその鮮明な現実は、僕にとってはあまりに残酷なものだった。
 だって僕には、サッカーをやり続けるという選択肢がない。たとえどんなにサッカーを続けたくても。

 試合は3-0で僕のクラスが勝利した。そのうち2点は、奇しくも僕の足が放ったボールが生んだものだった。

 試合直後、校舎裏の人目につかない水道で顔を洗っていると、人の足音が近づいてきた。大股で粗雑なこの足音の主を、僕は見ずともわかる。

『こんなところにいたんだな』
『イチ……』

 首にかけていたタオルで顔を拭き、それから振り返れば、そこには不満を露わにしたイチが立っていた。

『……やっぱり灯のサッカーはすごい。俺には敵わない』
『なんだよ、急に』
『サッカーしてる灯、いきいきしてたぞ』

 イチの声をどこか遠くにぼんやりと聞きながら、僕は感情のない瞳で地面を見下ろす。

『やっぱり俺は、灯がサッカーを辞めるなんて受け入れられない。あんなに楽しそうだったじゃんかよ! 俺はもう一度、おまえとサッカーがしたいんだよ』

 なおも沈黙を貫く僕に、我慢ならなくなったというように、イチが僕の手を掴む。

『なあ、素直になれよ』
 
 ……素直になったところで、なにが変わるというのだろう。
 ぷつんと、僕の中でなにかが切れて、気づけば大声と共にイチの手を振り払っていた。

『うるさい! 僕にも事情があるんだ!』
『なんだよ、事情って。事情があるなら、俺が……』
『イチには関係ないっ……』

 ぴしゃり。イチの声を言い退けると、会話を断ち切りその場を立ち去る。イチはもう追ってこなかった。

 そのあと、僕はそのまま学校を無断早退した。どんなに忙しくても無遅刻無欠席を貫いてきた僕が学校をさぼるのは、初めてのことだった。そのあと体育祭がどんなふうに幕を閉じたかは知らない。

「……認めるよ。僕は本当はサッカーがしたい。でももう大人だから。いつまでも夢に縋ってちゃいけないんだ」

 そうして僕の長い長い会話を閉じる。
 すると黙って話を聞いていた宵は、鼻から大きく息を吸いながら空を見上げた。

「灯くんは物分かりがいいふりをするのがうまいね」
「え?」
「でもそうならざるを得なかったんだね」

 攻撃するのとは違う角度と重さで、ずきん、と胸に言葉が刺さって抜けなくなる。

 宵が僕の手の上に、自分の手のひらを重ねた。
 まるで自分がここに在るよと伝えてくるように。

「夢がなくても生きていけるこの社会で、夢を持ち続けるには強さが必要なんだよね。大人になればなるほど、夢に理由を見つけたがってしまうものだから」

 宵の瞳の瞬きが、僕の鼓動の音と重なる。

「もちろん夢がある人が偉いとか、ない人が偉くないとかじゃなくてね。でもやっぱり夢があるって素敵なことだと思うから。自分の心を殺さないで。せっかく出会えた夢を、聞き分けのいいふりをして無理に心に折り合いをつけて、未練を抱えたまま諦めてほしくない」

 夜空が無言で僕たちを見下ろす。僕と宵は、同じ空の下にいる。

「私ね、生まれてきた環境も過去も変えられないけど、未来は自分次第で変えられるって、信じてるんだ」

 すべての音が止まった世界で、僕は凛とした宵の声だけに縋りつく。
 宵は穏やかで優しい瞳の中に、僕を宿した。

「貴方は、貴方が幸せになる人生を選択していいんだよ」

 宵の言葉に胸を突かれる。

 どうして気づかなかったのだろう。
 僕はずっと物分かりいい顔をしながら、まわりの環境や他人にすべてを委ねていたのだ。
 母さんが賛成してくれたらなんて人のせいにして、環境のせいだと言い訳をしていたけれど、実際は変化のきっかけを見つけようともしていなかった。言いなりになって被害者のふりをして、すべてから都合よく逃げていたのかもしれない。自分の心を殺す方がよっぽど楽だから。

「なんて……語りすぎちゃったね。ごめんね、他人がとやかく口出ししちゃって」

 申し訳なさそうに眉を下げて苦笑する宵。
 けれど後ずさりしそうになる宵の心を引き留めるように、僕は自分の手に重ねられた宵の手を握りしめた。

「ううん、宵の言葉に救われた」

 いつだって僕のほしい言葉を、求めた以上にして僕にくれる宵。宵のまっすぐで直向きな言葉が、僕を引っ張り上げてくれるのだ。

「ありがとう、宵」

 それから僕はふとあることを思い出し、ごそごそとポケットの中を探った。そして指先で見つけた、細長い赤いリボンを取り出す。

「これ、知ってる?」
「ん? なに?」
「これは、体育祭で配られるものだよ。後夜祭で使うんだ」
「へえ」

 学校に登校していない宵に、少しでも学校の空気を感じてほしくて、僕は持って帰ってきたのだ。
 学校に来ていないその事情をまだ僕は知らないけれど、たまに僕から学校の話を聞きたがる宵からは、学校生活を懐かしむ前向きな感情が伝わってきていたから。

「どうやってこのリボン使うの?」

 やっぱり宵は、興味津々だ。

 僕はそれには答えず、ベンチから立ち上がって宵の前に跪いた。

「え? 灯くん?」

 僕は夜風にさらされ、ひんやり冷たい宵の手をとると、その小指に赤いリボンを巻いていく。

「男子はこれを、幸せになってほしい相手をひとり選んで、小指に巻くんだ」
「え?」
「……だから僕は、これを宵に渡したいと思った」

 宵が大きな瞳で、自分の指に巻かれた赤いリボンを見つめる。

「私にくれるの?」
「うん。受け取ってくれる?」

 僕の問いかけに、宵は噛み締めるような呼吸をひとつ起き、そして。

「……はい、もちろんです」

 大切そうな響きでそう答え、観衆のいないふたりきりの後夜祭ごっこに破顔した。

「へへ。灯くんと高校生活を送れていたら、楽しかっただろうなあ」

 その瞳が泣きそうだったのは、多分見間違いじゃなくて。けれど宵の瞳が隠した本心に気づくには、僕にはまだ知らないことが多すぎたのだと思う。

 宵はしんみりした空気を散らすように、赤いリボンが巻かれた小指を、僕の小指に絡めてきた。

「じゃあ、指切り」
「なんの指切り?」
「なんだっていいの」
「なにそれ」
「指切りしたい気分だったの」

 よくわからなかったけど、宵が嬉しそうだからいっか、なんて考えてしまう僕は多分少し浮かれていた。
 小指と小指が触れ合っている、それだけで彼女の存在をすぐ近くに感じて心が満ちる。

 ──本当は、嘘をついた。
 高校に伝わるジンクスは、少し違う。このリボンは好きな相手の小指に巻くのだ。そうすると結ばれるというジンクスがある。

 気づいてしまった以上、この気持ちに抗う術はない。――僕は宵のことが好きだ。

 宵には幸せになってほしい、じゃなくて、僕が幸せにしたいとそう思ったんだ。