約束の火曜日。今日は、希がまだ寝たくないとぐずった。お気に入りの絵本を読み聞かせても、部屋を暗くしてとんとん体を叩いてやっても、まだ寝たくないとぐずりだす。
 20時に布団に入り、そうして22時半を過ぎた頃、まだ目をらんらんとさせている希の姿に僕は焦りだす。いつもなら家を抜け出していた時間だ。
 宵に連絡を入れたいところだけど、宵はスマホを持っていないらしく、連絡のとりようがない。今時スマホを持っていない女子高生なんて珍しすぎるけど、遠回しに連絡先を交換したくないという意思表示なのかと思うと怖くて突っ込めないのだ。
 ……と、話は逸れてしまったが、今は希が寝ないという大問題をいち早く解決しなきゃいけない。そうしなければこの寒空の下、宵を何十分も待たせることになる。

「希、早く寝よう」
「やーだー」
「どうしたの、希」
「だって全然眠くないんだもん」

 口を尖らせ、いやいやと首を横に振る希。

「だめだろ、もう真っ暗なんだから寝ないと。おばけさんが出るよ」
「んーんー」

 いらっ。自分の中に芽生える黒い靄の存在に気づいた瞬間、心が恐怖に震えた。怖かった。希に対してマイナスな感情を抱いてしまった自分が。世話をするのを面倒に思うなんて最低だ。
 その靄が立ち込める前に、僕は理性を振りかざす。
 希はまだ5歳。僕に心の余裕がないせいで、希に八つ当たりするのは違う。

 深呼吸をひとつすると、僕は希の頭をぽんぽんと叩く。

「さあ、寝ような、希。希はいい子さんだろ」
「うん……」

 ようやくしぶしぶではあるが寝ることに前向きになってくれた希も、さすがに体力の限界がきたのだろう。数分後、ようやく眠りについてくれた。

 僕は希を起こさないよう、枕と布団を動かさずにベッドから起きだすと、音をたてないように寝室を出る。そこまできたらもうこっちのものだ。僕は急いで夜遊びの準備を始める。
 スマホに財布、希が遠足の時に使うレジャーシートを持ち、そうしてまるで檻から羽ばたく鳥のように僕は脇目も降らず外に飛び出た。

 23時をまわってしまった。一刻も早く宵の元に行かなければ。
 今日は一段と冷え込んでいる。走るのに合わせて向かい風に煽られ、鼻と耳が氷でなぞられたように痛んでいく。こんな寒い中、宵が待っていると思うと、じりじりとした切なさと焦燥感に襲われる。

 でも宵は笑うのだ。「あ! 灯くん!」って。

 俺の姿を見つけるなり白い歯を控えめにこぼして笑う、邪気を知らないその笑顔を見た瞬間、知らぬ間に凝り固まっていた心がほどけていく。

「ごめん、待たせたよね」
「ううん。言ったでしょ? 夜は長いんだからねって」

 宵は決して相手に気を遣わせない。人の心の痛みがわかり、相手の心の機微に聡いのはきっと、宵の心がそれだけ優しさで豊かだからだろう。

「でも残念……。晴れなかったね」

 宵が夜空を見上げる。その視線を追うように頭上の空を見上げれば、たしかに空は暗雲に覆われ、星のひとつも見えなかった。これじゃ残念ながら流星群は見えないだろう。
 そういえば、ここに来るまで一度も空を見上げなかった。最初は月を見るために外に出たのに、いつの間にか宵のことで頭がいっぱいで空のことなんて忘れていた自分がなんだか笑えてくる。

「楽しみにしてたのにな……」

 空に向かって小さく唇を尖らせるその横顔は、世のままならない理不尽さに抗議する子どもみたいだ。
 僕だって、どれだけ今日という日が待ち遠しかったか。宵が同じ気持ちでいてくれたことが、僕は嬉しい。

「でもさ、流星群は見えないけど、せっかくだから雰囲気を味わおうよ」

 畳んでしまえばコートのポケットに収まるほどの、小さなレジャーシートを取り出す。

「え? なにこれ」
「家から持ってきたんだ。一緒に寝転んで流星群見ようかなって。流星群は見えないけどさ、少しだけ空を見ていこうよ」

 すると宵は目を輝かせて笑った。さっきまでのしょんぼり顔は跡形もなく消え、腕をぶんぶんと上下に振り、わかりやすくはしゃぐ。

「とってもいい……! そうそう、そういうのが大事なの!」
「はは」

 はしゃいでいると僕まで気分が高揚してきて、人が来ないのをいいことに、さっそく公園のど真ん中にレジャーシートを敷く。動物が描かれたピンク色のレジャーシートは、たちまち魔法の絨毯に様変わりだ。
 子どもふたりぶんのレジャーシートに身を寄せ合って並んで座り、そして示し合わせるでもなく、同時に寝転ぶ。腕を頭の下に差し込み空を見上げる。
 薄いレジャーシート一枚を挟んだ地面は固いけれど、そんなのは気にならなかった。空は真っ暗でなにも見えないけれど、それも気にならなかった。隣にいる、その人のことだけで、心は満たされ余分な隙間はもうなかった。

「ふふ、見事になにも見えないねえ」
「だね」
「でもいいなあ。こういうの」

 レジャーシートからはみ出ないようにしていると、自然と腕が触れ合う。宵をすぐそこに感じてしまう。

「ねえねえ」
「ん?」
「灯くんは、流れ星が見えたらなにをお願いするつもりだった?」

 隣から宵の視線を感じる。
 僕はその問いかけに向き合い、空を見上げながら思いを巡らせた。
 願いがひとつ叶うなら、なにを望むだろう。その自問に真っ先に思い浮かんだ答えの輪郭に、僕は小さく息をのみ殺す。それは僕が願ってはいけない夢だから。……サッカー選手になる夢なんて、家族のために第一に切り捨てなくてはいけない選択肢だ。

「なんだろうな……人の役に立てる人間になること、かな」
「ふぅん」

 どうやら、宵の期待するような答えを導き出せなかったらしい。宵の声の行き先は、空に向かっている。

「じゃあ、宵は? 宵の願いごとは?」

 隣を見て問いかける。すると宵が突然くるりと首を倒してこちらを見た。至近距離で視線が絡んだかと思うと、その瞳はアーチ形を描く。

「ふふ、内緒」
「なんで」
「願いごとは人に言ったら叶わなくなっちゃうから」

 いたずらっ子な笑顔に、僕は翻弄されるばかりだ。

「え、ずるい」
「ふふふ」

 宵の笑顔を見ていると、笑顔のパワーが伝染して僕まで表情筋が緩んでしまう。
 こつんと手の甲がぶつかった。少しでも手を翻せば、その小さな手は僕の手に収まるだろう。ひんやりとした肌の冷たさを感じながら、僕はもう一度空を見上げた。そうしてほんの少しの勇気を奮って、声に思いを乗せる。

「次の流星群も一緒に見よう。……次は、晴れるかもしれないから」

 ……返事がない。不意に隣を見れば、宵がじんわりとした瞳で僕を見つめていた。そして小さな声を絞り出す。

「それは難しいよ。だって私、曇り女だから」
「え?」
「今日だって曇らせたのはきっと私なんだ」
「曇り女って、あるの?」
「もちろんあるよ」
「そうなの? 晴れ女とか雨女とかは聞いたことあるけど、曇り女なんて聞いたことないよ」
「いやいや、ほんとに私、曇り女なんだってば。大切な日はいつも曇りなの。大切な日なのに曇りじゃなかったのは、出会った日くらいだよ」

 宵が説得力をのせるように、声に力を込めている。それからなにかを整えるように一瞬笑みを置くと、凪いだ眼差しでそっと僕の瞳の奥に触れてくる。

「だからね、今日灯くんと一緒にこの空を見られてよかった。私ひとりじゃただの曇り空だったのに、灯くんが真っ黒な空を特別にしてくれたんだよ」

 その一言で僕の心を大きく揺り動かし、それから宵は空を抱きしめるように見上げた。

「今、この空は私たちのものだね」
「……うん」

 世界の喧騒が遠ざかっていく。地球の上に僕たちはふたりきり、そんな錯覚さえ覚える。

「なんか……世界がちっちゃく思えてくる」

 こうしていると、忙しなく過ぎていき、僕なんかを振り落とそうとするこの世界が、なんだかとてもちっぽけなものに思えた。

 すると宵が空に向かって手を伸ばし、それから空をその手の中に収めるように手を握った。

「そう思うと、なんだかこの世界が愛おしいね」
「わかる」

 ビー玉のように澄んだ彼女の瞳は、世界をどんなふうに見ているのだろう。彼女が見る世界は、きっと残酷なほどに美しい。僕もいつか、君と同じ純度で世界を見つめることができるだろうか。

 僕は宵の言葉を取りこぼさないよう大切に抱きしめ、そうっと目を閉じた。