幸せだった。手を伸ばせば触れられる距離に、一番大切な人がいてくれる。
 それまでだってそれなりに幸せだったし、自分の心には隙間などないと思っていた。けれど灯という存在に出会って初めて心が在るべき形になったような、そんな感覚を得た。灯を知らなかった自分を、もう思い出すことはできない。

 けれど同じ高校に入学し、初めて迎えた冬、灯のお父さんが突然家を出て行った。家事と希ちゃんの育児を灯がひとりで引き受ける形になり、大好きだったお父さんがいなくなったことを悲しむ暇もなく、慣れない家事と希ちゃんの育児に追われる日々が始まった。
 私もできる限り放課後は灯に家を訪れ、家事や希ちゃんのお世話を手伝うようにした。希ちゃんのことは可愛くて仕方なかったし、家事の手伝いも全然苦ではなかったけれど、灯の顔には少しずつ疲労の色が滲むようになっていった。大好きなサッカー部にもあまり顔を出せなくなったのが大きかったのだと思う。

 いつかの昼休み、私の肩にもたれてうつらうつらとしながら、灯がぽつりとこぼしたことがある。

『父さんがいなくなって心が折れそうにもなったけど、希がいるからまだまだ生きていなくちゃって、頑張らなきゃって思えた。それになにより、僕には宵がいるもんな』

 ふうっと強く息を吹けば飛んで行ってしまいそうなほどか細いその声は、ひどく脳内に焼きついた。



 ――そして、あの日がやってきた。
 あの日は、希ちゃんがお泊り保育のため不在で、高校の定期テストの初日だった。
 高校で授業前に一緒に勉強しないかと提案したのは私だった。定期テストの勉強をする時間がなかったようだったため、テストの前に少しでも灯のサポートできたらと思ったのだ。
 私の提案に、灯は助かると言ってほどけたように笑ってくれた。

『同じ元素からできた単体で、化学的性質が異なる物質同士をなんと言うでしょう』
『えーっと、同素体?』
『正解!』

 バスの後方の二人乗りのシートに肩を寄せ合って並び、問題集から例題を出す。
 通学バスは一緒だ。同じバス停から高校まで向かう。いつもはおじいちゃんやおばあちゃんが乗っているけれど、始発のバスには私たちの他には乗客がいなかった。

 一問一答を続けていると、5問連続で正解したところで灯がふと囁いた。

『ありがとな、宵』
『ん?』
『今日も、僕のために一緒に勉強しようって言ってくれたんだろ。いつもうちのサポートばっかりさせてごめんな』
『いいんだよ。私がやりたくてやってるんだから』

 その言葉に嘘はない。灯のためにする手間なんて、なんの負担でもなかった。
 すると灯は柔く淡く微笑を滲ませた。

『いつかまた、宵と一緒にまたいろんな場所に出かけたいな』
『デート?』
『うん。宵と同じ景色をたくさん見たい。宵と世界を共有したい』

 まだ見ぬ未来に思いを馳せ、私も、と返そうとしたとき。
 それは突然のことだった。
 そのときのことをあまりよく覚えていない。記憶にあるのは、砂嵐が起こって映像がぶつ切れになり断片的になっている光景だけだ。
 まるで地球が爆発したのじゃないかと思うほどの激しい衝撃に襲われ、体が投げ出されたのだと自覚した直後、鈍い音と共に意識が断絶された。



『ん……』

 どこかから強い力で意識を引っ張られるようにして目を覚ますと、自分がコンクリートの上に横たわっていることに気づく。
 刹那、事故の光景がフラッシュバックして、反射的に痛みに身構えて体を強張らせる……けれど痛みがない。体中のどこにも血がついていない。それどころかセーラー服には汚れや傷のひとつもない。

『どういうこと……?』

 たしかにバスに乗っていて事故に遭ったはずなのに。
 訳が分からず、上体を起こしてあたりを見回し……さらに深い困惑に陥る。まわりの世界の景色が止まっていた。人も車も空を飛ぶ鳥さえも、まるでこの世の時が止まっているかのように。

『タカツキヨイですね』

 不意に、脳内に声が滑り込んできた。それと同時に、視界に黒い革靴の先が映る。
 はっとして視線を上げれば、そこには黒いコートを着た黒づくめの人が立っていた。長い前髪に隠れて顔は見えないけれど、纏うオーラは背筋がぞっとするほど人並外れた迫力だった。

『あなたは……』
『死神です。あなたの命を回収しにきました』
『え? 死神? 私、死んだんですか……?』
『ええ。命は回収させていただきました。ほら、あなたの亡骸がそこに』

 つうっと、死神が青白く長い指を私の背後に向かって伸ばした。
 ふらふらと霞む頭で振り返り、悲鳴をあげそうになる。そこにはコンクリートに不自然な体勢で横たわる、血だらけの私の姿があった。
 くらっと眩暈を起こしかけた。コンクリートの地面に座ったまま愕然とする。
 だってさっきまで生きていたのだ。それなのに死んだ……?
 目の前にいる死神のことも自分が死んだことも、突然提示されて、はいそうですかと受け入れるにはあまりに唐突でリアリティがない。

『バスに乗ってて、それで……』
『あなたの乗っていたバスは、電柱にぶつかり横転しました。そして投げ出されたあなたは頭を強く打ち、亡くなりました。即死です』
『……』

 混乱で思考が絡まり、言葉が見つからない。
 不意に不鮮明だった意識にピントが合い、私は弾かれたように声を張り上げた。

『灯……? 灯は……っ?』

 まわりを見まわし、はっとする。数メートル先に、頭から血を流して倒れる灯の姿を見つけた。

『灯……!』

 悲鳴に似た声をあげ、灯に駆け寄り抱き起こす。けれど、いくら揺り動かしても灯の瞼はぴくりとも動かない。

 灯の名を呼び続けていると、この状況にはそぐわないほど抑揚のない声が耳から流し込まれる。

『その人間は17分後に命を回収されます。人間的医学用語で言う、心肺停止の重体です』
『え……』

 振り返れば、死神が私を見下ろしていた。背筋に氷を流し込まれたかのように、体の芯が震える。

『灯を助けてください、お願いします……!』

 気づけば割れんばかりに声を張り上げていた。
 私はもう死んでいるけれど、灯はまだ息をしている。間に合うかもしれない。どうにか助けてほしいと死神に縋る。

『方法がないわけではありませんが、その命を救うには代償をいただかなくてはいけません』
『代償?』
『はい。その人間にとって一番大切なものです』
『それは……なんですか?』
『彼にとっては、そうですね……"あなたと過ごした日々"のようです』
『え……』

 がくんと、心と体が同時に崩れ落ちたような感覚だった。
 まさか灯にとって、私と一緒に過ごした日々が一番大切なものだったなんて。

『なにそれ……そんなの聞いてないよ……』

 灯の青白い頬を撫でる。
 この手に余るほどの幸せを喜びたいのに、残酷なまでの切なさで息ができなくなる。

『彼の命を助ければ、この世からあなた方が一緒に過ごした日々そのものがなかったことになります』

 不意に、灯の声が鼓膜で蘇る。
 ――希がいるからまだまだ生きていなくちゃって、頑張らなきゃって思えた。それになにより、僕には宵がいるもんな。

 灯は希ちゃんのために生きようと、もがきながらも光を見出し前を向いていたのだ。それにサッカーだってある。灯の姿を一番近くで見てきたからこそ、その夢を諦めきれていないことを知っている。
 灯には未来が待っている。……そこに私はいないけれど。いてあげられなかったけれど。
 ごめんね、灯。

『……お願いします』

 震える唇が、弱々しい音を紡ぐ。
 すると無機質で血の通っていないようだった死神の声が、わずかに揺らいだような気がした。

『それでいいのですか。彼はあなたのことを忘れるのですよ。死んだあとも覚えていてほしいと、人間はそう願う生き物ではないのですか。死んだ人間は、人の記憶の中でしか存在することができないのに』

 涙がぽつりぽつりと灯の頬に落ちて、つーっと滑る。涙もろい私が泣いていると、灯はいつだって音のない落涙に気づいて「また泣いてるの?」って笑って涙を拭ってくれた。その甘く緩む笑顔がたまらなく大好きだった。
 もう一度貴方が目を覚ましてくれるなら、この世のどこかに貴方の笑顔があるなら、私にはそれ以上の願いはない。
 貴方から私が永遠に消えても、一緒に過ごした時間は嘘にはならないから。私だけが覚えていればいい。

 私は涙に濡れた睫毛を閉じ、願いを両腕に抱きしめた。

『いいんです。だからどうか、灯のことを助けてください』



 それから一年が経ったというけれど、概念のない世界では月日の流れは曖昧だ。
 成仏する前にこの世に再び降りることが許され、私には満月と満月の間という時間が与えられた。

 灯が夢や家のことで悩み、もがいていることはわかっていた。
 別れが必然とされた結末が待っているのに、再会することが果たして正解なのかわからない。
 けれどどんな形でもいいから、立ち竦んでいる灯が一歩を踏み出す糧になれたら。彼が進む道のりの一瞬の通過点になれたら――。

 そうして待宵を越え、私は灯と再び出会った。
 灯と過ごす夜は幸せで愛おしくて、けれど会えば必ずやってくるさよならには慣れることができずにいる。

 そして今、灯に告白されて、私の心は大きく揺り動かされていた。

「好きだ。君の未来に、僕をいさせてください」

 鋭利なほどに真っ直ぐな灯の告白が胸を貫く。
 だめ、なのに。これじゃ、だめだったのに。それなのに喜びに打ち震える心もまた、私の本心だった。

 ――好きです。君の未来に、僕をいさせてください。
 ――それじゃプロポーズだよ。
 ――あ、そっか。……って、はは、泣いてる。
 ――だって嬉しくて。
 ――宵は泣き虫だなあ。

 幸せに満ちたあの日の笑い声が、鼓膜で蘇る。
 一緒に過ごした日々が消えても、貴方はもう一度私を好きになってくれたんだね。

 私も好きだよ。ずっと好きだったよ。そう答えられたら、それはどんなに幸せなことだろうか。
 何度も口からこぼれそうになっては飲み込んできた"愛してる"を必死に喉の奥で押し殺し、正反対の言葉を紡ぐ。

「……灯くんの気持ちには応えられない」
「どう、して……?」

 灯の瞳の芯がぶれる。
 ……ああ、灯にこんな顔をさせたくなかったのに。
 けれど、灯の気持ちから目を逸らしてはいけないのだ。私にはすべてを受け止める義務がある。
 懸命に自分の心を奮い立たせ、そして灯の想いを断ち切る。

「初恋の人が忘れられないの」

 恋人のだった日々を知らない灯にとって、その言葉が拒絶の意味になることはわかっていた。
 その瞬間どこかで心がぱりんと割れた音が聞こえた気がしたけれど、それが私のものだったのか灯のものだったのかはわからない。

「──ごめん」

 やがて目も心も通わないまま、灯がそれだけ残して足早に去っていく。
 その背中が見えなくなると、ついにこらえきれなくなってその場に膝から崩れ落ちた。唇の隙間から嗚咽が洩れ、だれに聞こえるはずもないのに口を手の甲で押さえる。

「っふ、う……」

 ごめん、ごめん。傷つけることしかできなくてごめんなさい。まだこんなにも好きでごめんなさい。
 でも私との日々がまた、灯にとって一番大切なものになってしまってはいけないの。だって私には貴方と歩める未来がないから。

「灯……、灯……。う、ぅう……」

 この想いは私の胸の中に鍵をかけて閉じ込めるから。

 だから今度は、どうか
 この恋が結ばれませんように。





▫Fin