宵に会いたかった。けれど夜がくるのが怖かった。

 そんな僕にお構いもせず粛々と日は暮れ――そして別れの夜がやってきた。

 22時半。寝室のドアから中をこっそり覗けば、明かりもなくしんとしている。
 母さんはいつも自分のベッドで希を寝かしつけ、そのまま眠ってしまうのだ。

 ふたりが眠ったことを確認すると、僕は静かに外に出る準備を始める。
 今日まで一か月、このルーティンを繰り返したおかげで準備は慣れたものだ。パジャマから予め準備しておいた私服に着替え、財布とスマホをポケットにしまい込む。
 余計なことはなにも考えないように。あくまでいつもどおりに、事務的に。

 そしてリビングの電気を消そうとしたとき。

「灯」

 当然背後から聞こえてきた声に、僕は驚いて振り返る。

「え、母さん?」

 そこには寝たと思っていたはずのパジャマ姿の母さんが立っていた。腕を組み、壁にもたれかかっている。

 ……見つかった。怒られる。引き留められる。今日が最後なのに。
 次から次に込み上げる焦燥感に、思わず立ち尽くしていると。

「今日も出かけるの?」

 てっきり怒声を浴びるかと思いきや、代わりに想像もしていなかった言葉を投げかけられ、いっそう目を見開く。

「知ってたの?」
「まあね」

 母さんが鼻で笑いながら頷く。まるですべてをお見通しだというように。
 気づかれているなんて知らなかった。いつからバレていたのだろう。

「知ってて、なんで止めなかったの?」

 すると母さんは穏やかな眼差しで微笑んだ。

「だって灯のことを信じてるから。私の息子は意味もなく夜遊びする子じゃないでしょう?」

 私の息子――その言葉が、妙に嬉しい。
 信じてくれている、認められている。胸がじんわり温かくなる。
 母さんはばりばり働く経営者で、いつも子どもには厳しく、きっと一生認められないのだと思っていた。

 ずっと大人になるのが怖かった。でもなんだか少しだけ、怖くなくなった気がした。
 信じてもらえるって最強の魔法なのだ、きっと。

『大人だからってだれかに寄りかかっちゃだめなんて、そんなことはないんだよ。最初からそんなに完璧な大人になろうとしなくていいの。失敗して遠回りして、そうやって一歩ずつ大人になっていけばいい。だれもひとりでは生きていけないんだから』

 宵の言葉が鼓膜の奥で蘇る。
 自分ひとりで頑張ってきたつもりだけど、こうして認めてもらったり支えてもらったりしながら一歩ずつ大人になっていけばいいのだ。

 そんなことをぼうっと思っていると、母さんが焦れったいというようにしっしっと手を振った。

「ほら、行ってらっしゃい。あまり遅くならないで帰ってくるのよ」
「うん、行ってきます」

 母さんに向かって右手を挙げ、玄関を開ける。
 そうして僕は夜の中に飛び込んだ。




 公園に、その姿はある。昨日までと同じように、いつでも変わらず僕を待ってくれているというように。

「宵」
「灯くん」

 僕たちはなんでもない顔をして落ち合う。

「じゃあ、今夜はよろしくお願いします、灯くん」
「こちらこそ」

 お辞儀をし、顔を上げたところで目を合わせて笑い合う。
 切なくも、愛おしく尊い最後の夜だった。

「ちょっと、そこら辺でも歩く?」
「うん」

 まるで初めてのデートに誘うみたいな風合いで提案すると、宵もまたくすぐったそうに綻んだ。
 そうして僕たちは、夜風を浴びながら散歩をすることにした。

 公園のまわりをぐるりと遠回りをしながら歩く。
 田舎道には、面白い建物や景色はなにもない。行っても行っても、住宅街の閑散とした味気ない景色が続くだけ。
 けれど宵が隣にいてくれるだけで、僕の世界は満たされる。

 この1か月の間に、すっかり夜に居心地の良さを感じるようになった。夜の匂いがすっかり体に馴染んだ気がする。
 と、僕が思ったのとちょうど同じタイミングで、隣の宵が言う。

「なんか、夜の匂いっていいよね」
「わかる。僕もちょうどそう思ってた」

 心が重なった実感。それは体温が重なる充実感と同じくらいか、あるいはそれ以上だ。
 宵が嬉しそうに笑う。なんだか今日の笑顔はいつにも増して眩しく、同じくらいに儚い。そして僕はその笑顔に、何度だって見惚れてしまうのだ。

「あそこの駄菓子屋さんのおばあちゃん、可愛いよね」
「そうそう。いっつも笑顔でちんまりしてるっていうかね」

「この図書館、蔵書が多くて勉強もできて、居心地よかったなあ」
「本の匂い嗅ぐと落ち着くよね。僕もテスト前は毎週通ってた」

「あのもんじゃ屋さん、絶品だよね。灯くんは何味が好き?」
「僕はシーフードもんじゃが鉄板だったよ。塩味がうまいんだ」

 明かりが消え、すっかり眠ってしまった夜の道を歩きながら、何気ない会話を重ねていく。
 似た思い出を共有できることが嬉しくて楽しかった。

 そんな中、宵が青葉を茂らせる街路樹を見上げながらぽつりと呟いた。

「桜、散っちゃったね」
「あっという間だったな……。宵と出会ったときには咲いてたのにね」
「そうだよね。灯くんと見た夜桜綺麗だったなあ」
「うん、とっても」

 1か月前のことが、とても遠くに感じられる。
 出会ったとき、僕は宵が翌日も待ってくれているなんて信じられなくて、緊張しながら公園に来たっけ。

「絶対に、ずっと忘れない」

 切ない決意を口にする。僕自身に言い聞かせるように。
 僕は君を忘れない。

 するとそれまでずっと同じ方向を見ていた宵が、僕を見上げた。そして眼差しを柔くして笑う。

「忘れてもいいよ。いろいろな経験を通して、新しい記憶が増えて灯くんの心がますます豊かになって。灯くんはどんどん前に進んでいくの。だから忘れることは悪いことじゃない」
「でも……」
「それにね、貴方が私を忘れても、私が貴方の人生に存在したその事実は嘘にはならないから」

 胸を衝かれる。
 手を離すふりをして、背中を押してくれている。そういう子なのだ、宵は。
 なんでそんなに強く在れるのだろう。君はもう記憶の中にしか存在できないというのに。忘れられることはきっと怖いはずなのに。

 僕は君が日々を置いて前に進めるのだろうか。――わからない。でも宵はひとりでなんでも決めて譲らない頑固なところがある。だから多分僕が宵と過ごした日々に縋っていたら、そんな僕のことを許してくれないはずだ。

「宵って頑固だよな」
「よく言われる」

 宵がおどけたように言う。
 瞳が交わり、切なさを隠しながら小さく苦笑すれば、夜風がそれを攫っていった。
 ぽつんと小さな空白が生まれる。なんだかその空白にのまれそうになって、それを埋めるように今日の間ずっと宵に話そうとしていたことを切り出した。

「そうだ。今日、父さんから電話があったんだ」
「え? お父さんから?」
「来週、僕の誕生日で、毎年この時期になると電話がかかってくるんだよね」
「そっかそっか」
「それで、初めて父さんに言ったんだ。会いたいって。そしたら父さんも会いたいって言ってくれて……会うことになったんだ」

 電話越しには毎年話していたけれど、家を出て行って以来、父さんには会っていない。
 もうずっと自分の中から父さんを消そうとしていたけど、今なら父さんに歩み寄れる気がしたのだ。
 正直、ほんの少し怖い。だけど18歳になる僕の姿を父さんに見てほしいと思う。父さんがいなければ、今の僕はいないから。育ててもらった恩は嘘じゃないから。
 父さんに会って収穫があったとしても失望することになったとしても、きっとこの選択に意味があるのだ。

 すると宵は笑ってくれた。自分のことのように嬉しそうに。

「よかったね、頑張ったね」
「うん……。ありがとう」

 それから伸びをするように両手を上に伸ばしながら、感慨深そうに声を空に飛ばした。

「灯くんも18歳かあ」
「そう。18歳だよ、もう」
「おめでとう」
「ありがと」

 宵は自分の手をマイクをするようにして、僕の口元に差し出してくる。

「18歳の抱負はなんですか?」
「抱負かあ。考えてなかったけど……そうだな、サッカーも受験も家のことも全部両立したいな。いや、します」
「おお。いいね」
「体育学が学べる大学を志望しようと思ってるんだ」
「うん、合ってると思う。いいと思う」
「ありがとう……。それから、今から部活に所属するのは引退が近いから難しいけど、イチが知り合いが経営してる地元のサッカークラブを紹介してくれて。そこでサッカーをまたやれることになった」
「え! すごい。よかった!」
「頑張ってみる。全部ほしいから。欲張りに、わがままになって」

 自分の気持ちを押し殺して犠牲にするのは、もうやめた。

「だれかさんのおかげで、ずいぶん自分勝手になったよ」

 わざと茶化すように肩を竦めれば、宵はじんわり笑った。「灯くんはもう大丈夫だね」って。



「それでね、気づいたら希が母さんの口紅を口の周りに塗りたくってて。おけしょんしたのって僕に見せてくれて」
「なにそれ、かわいすぎる……!」
「ほんとそう。なんかもう可愛すぎて怒れなくて」

 僕の話に、宵が声をあげて笑う。
 ぐるりと公園の周りを歩いた僕たちは、それから時計台の下のベンチに並んで座り、他愛ない会話を交わした。そうしてまるでごく普通の日常を切り取ったような、そんな夜を過ごした。

「灯くんってほんと、希ちゃんのこと溺愛してるよね」
「それは……うん、否定できないな」
「立派な兄ばかだね」
「希が成人を迎えるまでは、どんなにうざがられようとお兄ちゃんをするって決めてるからね」

 成人式に号泣している自分の姿は安易に想像がつく。
 そういえば3歳の七五三の時にすでに感無量でうるうるだったっけ。

「そうだ。見てほしい希の写真があるんだ」

 カメラフォルダの中に保存されている七五三のときの写真を見せようと、ポケットからスマホを取り出す。そしてスマホの画面を開いた瞬間、時計が目に飛び込んできた。
 時間は23:55。
 思わず固まる。突然現実を思い出した。
 今夜が終わってしまう。もうあまり時間が残っていない。

 僕が時間に気づいて我に返ったのを、隣の宵も見ていただろう。
 どうやってこの不自然な空気を繋ごう、そんなことを考えた時。

「――満月だね」

 空白を打ち破ったのは、宵の声だった。
 隣を見れば、宵が空を見上げていた。その透明な水面には、白い月が浮かんでいる。

 僕も空を見上げ、宵と同じ景色を目に移す。

「うん」

 憎らしくて、でも神秘的なほどに美しい満月だ。

「満月が宵を連れてきてくれたんだな」
「ふふ、それはロマンチックすぎるよ」

 宵は笑うけど、僕はうまく笑うことができなかった。
 それをきっかけに、心に生まれた負の感情が少しずつ膨らんで、感情を整理する手がまわりきらなくなる。手の間から溢れた感情が、思わずこぼれる。

「時間が過ぎるのが怖い……。このまま永遠に夜だったらいいのに」

 ずっと表面の下に隠していた感情がむき出しになる。

 すると宵が僕に横顔を向けたまま語り掛けてきた。あくまでいつものトーンで穏やかに。

「こういう夜を可惜夜って言うんだよ」
「あたら、よ?」
「うん、可惜夜。明けるのが惜しい夜のこと」
「そっか……。宵といる夜は、毎日が可惜夜だったんだ」

 これまでの記憶が、ぶわっと一気に蘇る。宵と一緒に笑って泣いて悩んで、いろいろな感情と思い出を重ねてきた。
 宵に出会わなければ、ただ朝を迎えるためだけに夜という時間を浪費する毎日だっただろう。
 けれど宵に出会って、何気ない時間を愛おしく思うことができた。一瞬一瞬に、意味があることを知った。

 僕は宵に向き合う。胸に募るこの思いを、今すぐ伝えなければいけないと思った。

「たしかに、別れは怖いよ。怖い、すごく。宵に出会わなければ、こんな心が千切れるような思いはしなかった。でも、出会わなければよかったとは思わないんだ」
「え……?」
「別れの悲しみと、それと同じくらい……いや、もっとたくさんの思い出をもらった。だからどんなにつらくても、僕は宵に出会えて幸せなんだ」

 宵の瞳が、水面が波紋を描くように揺らいだ。透明な熱い膜が瞳を潤ませていく。
 そんな彼女のことを、心の底から愛おしいと思う。

「僕と出会ってくれてありがとう」

 そして抱えきれないほどの思いをのせて声を奮えば、宵はそれを全身で受け止め、目の縁を赤く染めながらも幸せそうに微笑んだ。

「……ありがとう、灯くん。幸せだなあ」

 自分の中で僕の言葉を反芻するような間ののち、宵は鼻を啜って、覚悟を決めたみたいに笑みの余韻を残したまま唇をきゅっとする。

「そろそろいかなきゃだ」

 ……きてしまった、このときが。
 はっと小さく息をのんだきり、吐き出し方を忘れてしまう。心臓が不規則な音を奏でる。
 動揺でなにも言えずにいると、だらんとベンチの上に置いた手に、宵の手が重ねられる。

「優しい人が隣にいてくれますように。大切なものが見つかりますように。だれより幸せになって」

 直向きで優しい願いが、僕の涙腺を刺激する。
 いかないで、いかないで。そう喚きたいのを必死にこらえ、涙を流しながらも宵の声に耳を傾ける。 

 宵はその穏やかな瞳の中心に僕を映しながら、

「私はずっと貴方の味方だよ」

 世界で一番美しい響きで、僕を包み込んだ。
 淡い笑顔が涙で滲む。
 笑顔で見届けたいとそう思っていたのに、感情は呆気なく崩壊した。

「ふっ、」

 嗚咽が漏れ、大声をあげて泣きだす寸前の子どもみたいにぐしゃりと顔を歪めると。

「ごめん……、やっぱり好きだ」

 底を尽きることを知らない想いが口からこぼれた。

 すると宵は眼差しを緩め、切なく綺麗に笑んだ。そして。

「私の心は全部持っていっていいよ。私の全部、貴方にあげる」

 刹那、びゅうっと音をたてて夜風が巻き起こり、その笑顔を攫った。
 反射的に目を瞑り、風がやんで目を開けて――僕はいよいよ泣き崩れた。

 0:00。君がこの世から消えた。