◇
「ああ、なんか緊張してきた。どうしよう、会うなり拳が飛んできたら」
「うちの可愛い娘を誑かせて!って?」
「そう、それ。よくドラマで見るやつ」
「ふふ、その可能性はちょっと否定できないかもなあ」
「やめてくれよ」
宵と軽口を叩きながら、僕は宵の家の玄関の前に立っていた。
家の窓のカーテンの向こうには明かりが灯っているから、家族が在宅であることは間違いない。
僕はひとつ深呼吸をすると、インターホンを押した。自分は宵の恋人なのだと自己暗示をかけながら。
「はーい」
間もなく、ドアの向こうから駆け寄ってくる足音が聞こえてきて、ドアが開いた。
「どちら様ですか?」
ドアから顔を覗かせたのは、4,50代と思われる女性だった。
「お母さん……」
宵のささやかな声が耳を打つ。
この人が宵の母親――弥生さんだ。そう思うと自然と背筋が伸びる。
ここに来るまで宵と練習した台詞を、息を継ぐ間も表情を作る余裕もなく、一息で告げる。
「初めまして。僕は宵さんと同じ高校に通う佐々木灯といいます。宵さんとお付き合いをさせていただいていました」
「え?」
宵のお母さんの目が、驚きに見開かれる。
「あの、宵さんにご挨拶させていただけないでしょうか」
まるで大根役者が台本をそのまま読んでいるかのように、かちこちになってしまった。
けれどなんとか不審には思われなかったようだ。
弥生さんは慌てた様子で「ちょっと、待ってね」と僕に向かって告げると、「浩一さん!」と家の中に向かって叫ぶ。
いよいよお父さんの登場だ。そう身構える間もなく、廊下の奥からひょっこり顔を覗かせる男性。お風呂あがりなのか、首にタオルを巻いている。
「なに? どうしたの、弥生さん」
「お父さん……」
背後から宵の声。
やっぱり、この人が浩一さんだ。
「ねえ、大変! 宵の彼氏さんですって……!」
「ええ!? 宵に彼氏……!?」
僕の訪問によって、高槻家でちょっとした騒ぎが起こっている。
「すいません、急に……」
恐縮しきりで首を竦めていると、弥生さんがこちらに向かって苦笑してくる。
「ごめんなさいね。あの子に彼氏がいるなんて聞いたことがなかったから、ちょっと驚いちゃって」
それから弥生さんはドアを深く開け、僕を家の中へと招いた。
「さ、そんなところに立ってないで、あがってあがって」
「はい……」
宵の方をちらりと振り返る。
「行こう」
宵が僕と目を合わせ、微笑む。僕は小さく頷くと、家の中へと足を踏み入れた。
「1年も来られなくて……遅くなってごめんなさい」
「いいのよ。事情もあるでしょうし。来てくれただけで嬉しいし、あの子も喜んでるはずだわ」
弥生さんに連れられ、廊下を抜けて茶の間に通される。
すると先に茶の間で待っていた浩一さんが声をかけてきた。
「佐々木くん、だっけ」
「はい」
「君、背が高いね。スポーツかなにかしてるの?」
「はい、サッカーを」
「わあ、似合うなあ。僕も昔はこれでもスポーツ少年だったんだよ」
「ちょっと、浩一さんたら。そんなに話しかけたら、佐々木くんも緊張しちゃうでしょう」
弥生さんが浩一さんに突っ込む。
けれど僕としては、こんなに温かく迎え入れられたことに驚いている。正直、拳のひとつやふたつは覚悟していたのだ。
でもやっぱり宵の言葉どおり、とてもいい人たちだ。この人たちが宵を生み育てた人たちなのだなと、そんなたしかな実感が心を満たす。こんな温かい人たちに育てられたからこそ、今の宵がいるのだ。
「ふふ、お父さんもお母さんも変わらないんだから……」
宵が隣で笑っている。
在りし日も、こんな優しく穏やかな時間が流れていたのだなと、そう思う。
「……宵もいたらよかったんだけどね」
ふと、しんみりとした声で弥生さんが呟く。
……でもきっと見えないなにかは変わってしまったのだ、宵が亡くなってから。
僕はそこにひっそり佇む仏壇を見た。――宵の仏壇だ。
「お線香、あげてもいいですか」
「もちろんよ」
ふたりに向かってお辞儀をし、それから仏壇の前に正座をする。
そして仏壇に供えられた宵の写真を見た途端、心が鉛になったような感覚を覚えた。写真の中の宵は、制服姿で屈託なく笑っている。けれど宵がこの世にいた日々は過去のことなのだ。
覚悟していたはずなのに、何度も突きつけられたはずだったのに、僕はこの現実にいまだに慣れることができない。
「宵……」
不意に、肩になにかが触れる。宵の手だ。大丈夫だと、そう伝えてくれる、優しい手だ。
僕は気持ちを奮い立たせると、線香に火をつけ、それからリンを鳴らして手を合わせた。
そして数秒かけて目を開くのと同時に、背後から弥生さんの声がかかった。
「佐々木くん。宵はどんな子だった?」
「え?」
振り返れば、すぐそこに正座をする弥生さんと、その後ろに立つ浩一さんの姿があった。
「あ、ごめんなさいね……。これ、宵に会いに来てくれた子みんなに聞いてるの。宵の思い出を聞かせてほしくて」
ふたりとも、悲痛な顔をするまいとはしているけれど、切実な思いがそこには潜んでいた。ふたりにとってはもう、記憶の中にしか宵はいないのだ。
僕は居ずまいを正すと、ふたりに向き合った。
こうしてよく見ると、ふたり共宵に似ている。大きな目元は弥生さん、すっと通った鼻筋は浩一さん。ふたりの中に宵の面影を感じ、じんわり心が濡れる。
「宵は……宵さんは、直向きで聡明で眩しくて、僕にはもったいないくらいの自慢の彼女でした」
こんなやりとりのシュミレーションはしていないけれど、躊躇うことなく素直な思いが口からこぼれる。
「人の痛みがわかる、人に寄り添える、そんなところに惹かれていました」
僕は斜め前に立つ宵を見た。
じんわり目の縁を赤くする宵に視線で合図を送る。きっと宵ならわかってくれると信じ、もう一度弥生さんと浩一さんに向き直る。
「おふたりに、宵さんから言伝を預かっていたんですけど、お話してもいいですか」
「灯くん……」
「え、宵から……?」
今の僕にできるのは、宵の声となり、言葉をふたりに届けることだ。
だから宵の声を聞かせてほしい。
息をのみ、宵の声を待つ。すると間もなく宵の声が聞こえてきた。
「……ありがとう、灯くん」
そして宵が浩一さんの方を向く。
「お父さん、いつも家族第一でいてくれてありがとう。腰が弱いんだから、お仕事無理しすぎないでね」
「浩一さんへ。いつも家族第一でいてくれてありがとう。腰が弱いのだから、お仕事を無理しすぎないでね、と」
宵の言葉を声にして届けると、浩一さんが瞳を潤ませた。
「あの子らしいな……」
今度は弥生さんを見る。
「お母さん、たくさん喧嘩もしたけどお母さんのことが大好きだったよ。お酒は飲みすぎちゃだめだよ」
「弥生さんへ。たくさん喧嘩もしたけどお母さんのことが大好きだったよ。お酒は飲みすぎちゃだめだよ、と言ってました」
「まったくもう、あの子ったら……」
弥生さんは涙を流しながらも嬉しそうだ。
そんなふたりをお愛おしそうに見つめ、
「それから……」
そこで宵の声と感情が大きく震えたのがわかった。まるでこれまで抑えていた感情が限界点に達し、波紋を広げるようで。
頑張れ、宵。
そう心の中で語り掛ければ、宵は涙の波に飲み込まれながらも声を振り絞った。
「私、ふたりの娘で幸せだったよ」
「……ふたりの娘で幸せだったよって」
そこでもう僕は涙を禁じえなかったし、この場にいるだれもがそうだった。
弥生さんが鼻をすすりながら、仏壇の中の宵の遺影を見つめる。
「親より先に死んじゃう親不孝者だけど、あの子は私たちにかけがえのない幸せと宝物をくれたんです」
弥生さんの肩に手を置き、浩一さんが微笑む。
もう動かない遺影を見つめるふたりの眼差しは、子に向ける愛おしさ、そのものだった。
「あの子はこれからも、僕たちの心の中で生き続けます」
その言葉は僕の胸に深く突き刺さり、刻み込まれた。