僕たちは一日一日を、大切に過ごした。一瞬を、瞬きする間さえも、惜しむように。
 夜になると、毎日宵の元に駆けつけた。そうして公園でふたりきり、密やかな時間を共有した。

 けれどどんなに足掻こうとも、時間は今に留まりたい僕たちを振り解くほどかのように粛々と進んでいく。
 ――そうして満月まで、1日となった。

「なんか寒いね」
「うん、今日はちょっと風が冷たいな。大丈夫?」
「大丈夫だよ。幽霊は風邪ひかないから」
「無敵だな」
「無敵だね」

 でも、満月が明日であることは意識的に頭の中から除外していた。なんでもない日を過ごすのだと、そう心に決めていた。

 夜道を宵と並んで歩く。
 今日は、宵が実家に帰る日。これから宵の家を訪問するのだ。

 好きな人の実家に行って両親に会うというのは、そこに深い意味はなくともなんだか緊張してしまって、昨日はあんまり寝られなかった。

「こんな夜に訪問しちゃってやっぱり迷惑じゃないかな」

 洋服はこれで正解だっただろうか。菓子折りとか準備すべきだったか……?
 緊張する僕に、宵は朗らかに笑う。

「大丈夫。うち、そういうところ緩いから」
「それならいいけど……。それにしても宵の家、僕の家から意外と近いんだな」

 僕の家が並ぶ道路から伸びる坂。その坂を上がった先に宵の家があるらしい。距離にするとだいたい歩いて10分くらいだろう。
 すると街灯の明かりの下、宵は頷いた。

「うん。中学の途中に、お父さんの転勤でこっちに引っ越してきたの」
「そうなの? 知らなかった……」
「まあ、言ってなかったからね」

 すると僕がなにか言おうとするより早く、宵がずいっと僕を見上げてきた。

「そうだ。灯くんにお願いがあるんだけど……」
「ん、なに?」

 何気ない仕草で宵を見下ろせば、宵はなんだかかしこまった風合いで僕を見つめていた。そして小さく息を吸うと、

「両親には、私の彼氏だってことにしてくれないかな」
「え?」

 一瞬ぽかんとしてしまった。多分間抜けな顔で。
 呆ける僕に、宵は懸命に言葉を繋ぐ。

「両親に彼氏がいたことを伝えて安心させてあげたくて。彼氏がいたって知ったら、きっと喜ぶはずだから」
「いいけど……僕にできるかな」

 もちろん宵のお願いならなんだって叶えてやりたいし、宵の両親を安心させたいという気持ちは胸打つものがあった。けれど宵の彼氏なんて大役、僕に務まるのだろうか。
 戸惑う僕に、宵は真剣な瞳で切願する。

「できるよ。灯くんにしかできないよ」

 そんなに言ってもらえるなら。偽りだとしても、好きな人の恋人になれるなら。

「……頑張って、みる」
「うん。ありがとう」

 ぎこちなくもイエスの意思と共に頷くと、宵がくすぐったそうにしながらもじんわり笑う。
 雪が解けるようなそんな笑顔に照れてしまった僕は、なんでもないふうを装って夜空に向かって声を飛ばす。
 
「僕たち、どこで出会ったことにしよっか」
「え?」
「ほら、聞かれるかもしれないだろ」

 なにかあった時のために口裏を合わせておいた方がいい。僕はあまりアドリブが効かない人間だ。
 それは本心からの提案に違いなかったけど、そのうちほんの少しは宵の恋人になれることに前のめりになってきたからだと思う。不謹慎だけどこの状況に少し浮かれている自分がいた。
 そんなちょっと邪な問いかけを、けれど宵は真剣に受け止めてくれたのだろう。少しの間ののちに答える。

「そうだなあ……図書室は?」
「いいね。でもどうして図書室がいいの?」
「私、本が好きだから」
「たしかに。そうしよう。あとは……そうだ、どこで告白したことにする?」

 言ったあとで、慌てて付け足す。

「あ、ちなみに告白は、僕からってことで」

 すると宵は小さくふわりと笑って、それから呟いた。

「告白の場所は、綺麗なイルミネーションの杉並木でがいいな」
「うん、いい。ロマンチックだ」
「でしょ?」

 そんな会話を交わしながら、僕は心の中で失敗したなって思った。もし仮にあの日の僕がイルミネーションの前で告白していたらな、なんて。
 でもそんなことをしたところで、とすぐに思い直す。多分、いや絶対に宵は頷かなかったのだろう。僕に想いがあろうとなかろうと、いくら絆されかけようとも。
 僕たちのすぐ背後では、永遠の別れが口を開けて待っているのだ。

 やりきれなさに足を掬われそうになったとき、不意に宵が立ち止まった。
 それに気づくのが遅れた僕は、数歩先を行ったところで立ち止まり、振り返る。

「宵? どうした?」

 そこには、わずかに瞳を揺らしながら立ちすくむ宵がいた。

「ねえ、灯くん。大丈夫って私に言ってくれないかな」
「いいけど……どうして?」
「ちょっとね、今緊張してるかも。自分が死んだあとの両親に会うって、なんか少し怖くて」

 髪を耳にかけながら、宵が小さく苦笑する。
 どうして宵はこんなときにも笑うのだろう。本当は不安でいっぱいのはずなのに、そんな弱い自分を笑顔で覆い隠そうとするのだ。

 僕は宵に体ごと向き合う。そうして聞く体勢を作る。宵が僕に心の柔い部分を打ち明けてくれる、そんな息差しを察したからだ。
 宵はきゅっと下唇を噛みしめると、睫毛を伏せて語りだした。

「私は3人姉妹の末っ子でね、お姉ちゃんたちは早くに家を出て行っちゃって、残った私はすごく甘やかされてた。お父さんは目に入れても痛くないってくらいに溺愛してくれて、お母さんもなんでも気軽に話せる年が離れた親友みたいで。ふたり共、惜しみなく愛を注いで、私を育ててくれたの」
「うん」
「だから……私のせいでどれだけ両親のことを悲しませちゃったんだろうって。そんな現実を知るようで怖い。私はずっと、大切な人を置いていった事実から目を逸らしていたの」

 声を振り絞る宵は、夜闇に消えてしまいそうで、思わず抱きしめたくなった。
 けれどそれはしてはいけないことだから。僕は、僕がここにいる実感をしてほしくて、宵の肩に手を置く。

「大丈夫。僕がついてる」

 なんでこんなとき、大丈夫、しか言えないのだろう。もっと頭の回転が速い人なら気の利いた言葉が出てくるのだろうか。
 でも、大丈夫なんだよってそれだけは逸れることなく曲がることなく、宵に届いてほしかった。
 そして宵は、そんな僕の思いを両腕で受け取ってくれるのだ。

「そうだよね、灯くんがいてくれるんだもんね。頼もしいね」

 瞳をわずかに潤ませ、僕を見上げてくる宵。
 僕は宵の心を解してやりたくて、笑顔を凪にして問いかける。

「どんなご両親なの? 僕に教えてくれないかな」

 すると宵の表情にわずかな晴れ間が見えた。そして僕の数歩先をゆっくりと歩きながら、懐かしむような慈しむような、そんな響きで僕に語り掛けてくれる。

「お母さんは弥生っていうんだけど、太陽みたいに明るくてすごく楽しい人。だけど怒るとすごく怖い。お父さんの名前は浩一。繊細でいつもにこにこしてて、私に甘いの。激甘なの。お母さんに怒られるといつもお父さんの後ろに隠れてた。そしてふたりで怒られるの。私が3歳の時なんてね――」

 僕は耳を澄ませて、宵の過去語りに聞き入った。
 夜の風は、宵の心地いい声を攫うことなく、僕の耳へとそっと届けてくれた。