「あら、灯。唐揚げ食べないの?」

 まるで水の中にいるようなくぐもった母さんの声が、ほんの少しのタイムラグののち耳に届いた。

「え……?」

 力なく顔を上げれば、テーブルの向かいに座った母さんが心配そうな表情で僕を見つめていた。

「帰ってきてからずっとぼーっとして。大丈夫?」
「にーちゃ! だいじょうぶ?」

 無邪気な希の声も聞こえてくるけれど、反応してやれるほどの気力はなかった。

 心を覆いつくすのは、昼に知った宵に関する事実だ。
 ……信じられない。信じたくない。
 いまだ頭の中を渦巻く混沌に、僕は成す術もなく飲み込まれていた。
 食欲なんてもちろんない。ここまでどうやって帰ってきて、どうして食卓についているのか、それもよくわからない。あれからずっと夢の中を彷徨っているようだ。

 ぼんやり靄のかかった思考をなんとか揺り動かし、僕は声を振り絞った。

「……ねえ、母さん」
「なに?」
「高槻宵って覚えてる?」
「ああ、高槻さん……。灯と同じバス事故に遭って……亡くなった子よね」

 母さんの言葉は、一番聞きたくなかった事実を肯定した。
 やっぱり、そうなんだ。

 去年の春のあの日、僕は学校で勉強をするために、始発のバスに乗ったのだ。そうして乗っていたバスが、逆走してきた車に衝突し、事故に遭った。
 授業が始まる時間よりもだいぶ早いバスに乗ったから、同じ学校の生徒は乗っていなかったと記憶していたはずだけど、まさか宵が乗っていたなんて。
 その事故で僕は全治2か月の重傷を負い、入院することにはなったものの一命は取り留めた。けれど宵は――助からなかったのだ。

 ……だとしたら、目の前にいた宵は何者なのだろう。
 幽霊なんて、そんな不確かで曖昧な類の存在を、僕はこれまで信じてこなかった。今だって否定するだけなら簡単なことだろう。でもそれをしてしまったら、宵と過ごした時間をすべて否定するようで、できなかった。

 僕はどうしてあの日、宵に出会ったのだろう。

 ──不意に、いつかの宵の声が耳の奥で蘇る。

『だって会えるのは当たり前のことじゃないでしょ?』

 暗い窓の外を見る。連日続く雨が、今夜も降りしきっていた。
 そして、なんとなく、思った。もしかしたら宵は雨の中だって、あの公園でいつものように僕を待ってくれていたんじゃないかって。ずっと、来ないはずの僕を待ち続けているんじゃないかって。

「宵……」

 なんの確証もないのに、胸に湧き出た思いつきはどんどん大きくなって僕を駆り立てる。いてもたってもいられなくて僕は食卓を立った。

「ごめん、母さん。ちょっと行かなきゃいけないところがある」
「え、夕食は」
「ごめん」

 スマホを乱雑に掴むと、傘も差さないまま家を駆け出る。
 矢のように降り注ぐ雨を顔面いっぱいに浴びながら、それでも懸命に走った。そして。

「宵……!」

 やっぱり――いた。
 公園の時計塔の前に立ち、ずぶ濡れになって立ち尽くす宵が、そこにはいた。

「灯くん」

 宵が僕に気づいて笑む。いつだって完璧ながら温もりのある笑顔で、君は僕を包み込んでくれるのだ。

「今日も雨だったね」

 宵の笑顔を一身に受けながら、胸の奥底から込み上げてくる感情を抱えきれなくなった。
 どうして、なんで宵が、だって宵はここに、たしかにいるのに。

「ごめん、ずっと来られなくて」
「ううん」
「……ねえ、宵」

 言葉を切り、雨かあるいは別の雫でぼやけた視界で宵を見つめる。
 その瞬間、宵の瞳がさざ波立つように揺れたのを見逃さなかった。宵は多分、続く言葉を察していた。

「君は……死んでいるの……?」

 僕のよれよれの声を、宵は逃げも隠れもせず真正面から受け止めた。
 その面持ちが、切なさと覚悟に研ぎ澄まされる。

 もうなにがなんでも否定してくれとは思わなかった。それは問いかけではなく、最後の確認だった。
 そして宵の答えは。

「そっか。知っちゃったんだね」

 やはり、肯定だった。

 なにかが崩れ落ちる音を耳の奥で聞きながら、弱々しい笑みを浮かべる宵に歩み寄り、小さなその肩を抱きしめる。だって宵が、僕なんかよりもっと寒そうで悲しそうで痛そうだったから。

「ごめんね。私から話すべきだったのに」
「ううん……」

 胸が軋むような絶望に苛まれ、やりきれなさに鼻の奥がつんとする。
 聳え立つ無慈悲な現実を前に、僕はどうしようもなく無力だった。