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公園に向かう間、ほんの少しだけ緊張していた。昨日、宵とあんな別れ方をしてしまったからだ。
気まずくなってしまったらどうしよう。そんな不安が足元に絡みついて、前に進む邪魔をする。
けれど、宵に会えば、そんな一抹の不安は消え去るのだ。
「灯くん!」
だって宵はいつも通りなのだから。いつもの曇りを知らない笑顔で、宵は僕を迎えるのだ。
「宵……」
「今日は早かったね」
「うん。母さんと希が早く寝たから」
「お母さんにはこのこと話してないんだね?」
「さすがに反対されるかもだし」
「そっか」
「母さんが早く寝る人で助かってるよ」
そんな会話を交わしながら、ベンチに並んで座り込む。
「希ちゃんは元気?」
「うん、もうすっかり」
「よかったあ。また会いたいな」
そんなやりとりをしながら、僕は会話の糸口を探していた。僕に課された課題、それは宵の恋愛観を知ることだ。
けれどそちらに意識が集中するあまり、宵とのやりとりに心ここに在らずになってしまっていた。いや、本当はそんなに大した変化ではなかったのかもしれない。けれど、他人の機微に敏い宵には案の定見透かされてしまった。
「灯くん?」
不意に、視界に宵の顔が映り込む。あまりに可愛い顔に至近距離から覗き込まれてしまい、どきんっと心臓が跳ね上がる。
「え、あっ」
「どうしたの? ぼーっとして」
焦った僕は、咄嗟に会話を手に掴んだ。
「あのさ、宵はどんな人を好きになってきたの?」
「え?」
……しまった。多分、いや絶対間違えた。
恋愛観を知るにしろ、宵のこれまでの好きな人を知れば、僕の心に傷がつくだけだ。
宵がふふっと可笑しそうに笑う。
「急にどうしたの?」
もう引き返せない。僕は数秒前の自分を心の中で責めながら、頬をかく。
「いや、たまにはこういう話もいいかなと思って」
すると宵は口をすぼめて何度か小さく頷き、そうだなあって空を見上げた。
「私の初恋は、前に話したとおりだよ」
「もしかして、小説を読んでくれた人?」
「うん」
やっぱりそうか。心の半分で落胆し、半分で納得する。
宵がその人のことを話してくれたとき、その眼差しに親しみ以上の温もりが宿っていることに気づいていた。
「初めての感情を私にくれたの。その人に出会わなければ、その感情はずっと知らないままだったんだろうなって、そう思う」
少し瞼を伏せ、一音一音を抱きしめるように言葉を紡ぐ宵。その表情は妙に大人びていて穏やかだ。
目の前にいるはずなのに、急に宵が遠く思えてくる。
心の奥をきゅうっと締め付けられながら、からからに乾いた口を開いた。
「今、その人とは……? 告白しないの?」
すると宵は微笑みながら、ふるふると首を横に振った。
「彼はもう違う人生を歩んでいるから」
なぜかその声の中に寂しさを感じなかった。そんな自分の感情よりももっと、相手の今進む人生を慈しむような響きだ。
それが余計に、宵の想いの深さを知らしめるようだった。
なあ、そんな眼差しで僕意外の男を想わないで。
込み上げるみっともない嫉妬と疎外感に、心がささくれだつ。
「すごいな、そんなふうに想えるなんて。僕には恋人なんていたことないから」
自棄になって放った声は、どんなふうに宵に届いたのだろう。
宵の顔は見られなかった。けれど宵がそつなく笑顔を作った気配は伝わってきた。
「きっとこれから出会えるよ、素敵な人に」
宵が立ち上がる。そうして僕に背を向け、月を見上げる。
「灯くんもね、自分の想いは伝えられるときにちゃんと伝えなきゃだめだよ。私みたいに突然手遅れになっちゃうんだから」
なにが君を手遅れにさせたのだろう。
そこに思いを馳せる間もなく、宵の言葉は耳を滑っていく。
「見てみたかったなあ、どんな人に出会って、どんなふうに幸せな家庭を築くのか」
……違う、そうじゃない。
なんでそんな突き放すことを言うんだよ。
気づけば僕は立ち上がり、そして心の声を大にしてぶつけていた。
「違う」
宵が振り返る。視線が合う。
『告白はちゃんとタイミングを見計らえよ。勢いにでも任せてみろ、それまで積み上げてきたもんも全部台無しになるからな』
頭の中でイチの声が警報として鳴り響く。
けれどもうブレーキを失ったかのように自分で自分を止めることができなかった。
「僕が好きなのは宵だ」
「え……?」
「好きです。君の未来に、僕をいさせてください」
一息でそう言った。
目の前の宵は――信じられないというように、こぼれんばかりに大きな瞳を揺らしていた。
一瞬浮かんだような気がした感激の色は、刹那で切なさと哀しみと怯えに塗りつぶされた。そして。
「……灯くんの気持ちには応えられない」
長い睫毛を伏せ、震える声でそう告げた。
ぱりんと、心が割れる音がした。
目の前の宵がどうして泣きそうなのか、痛みに打ち震えているようなのか、彼女に寄り添うことができるまでには至らなかった。僕はただ、告白を断られたショックで頭が真っ白になってしまっていた。
「どう、して……?」
よれよれの声をぶつければ、宵は僕の思いから目を逸らさずすべて受け止めるようにこちらを見据え、それから静かに喉を震わせた。
「初恋の人が忘れられないの」
ひゅっと冷たい風が喉を切る。
まっすぐに僕を見つめるその瞳に、迷いはなかった。
「……僕の気持ち、迷惑だったよな」
自嘲的な言葉が、口をついてこぼれた。
全部全部、宵の善意だったのだ。そこにつけ込んで、僕は現実も見ずに浮かれていたのだ。もしかしたら宵も同じ気持ちでいてくれるんじゃないかって。そんな空想に浸って。
すると不意に宵が僕の手を掴んだ。そして首を横に振りながら、僕に縋るように懸命に声を紡ぐ。
「それは違う。私、灯くんと過ごす夜が幸せだった」
なんだよ、それ。……ああ、そっか、君は優しいから。僕を慰めてくれているのか。
でも今は、傷口に塩を塗られるに等しかった。まだ傷口は鮮血を垂らしているのだ。
自分で勝手に告白して玉砕して、全部僕のせいで宵はなにも悪くないのに、僕はショックのあまり自制すべき自我をぶつけていた。
「……優しくされると今はちょっとつらいかも」
「……っ」
「ごめん」
息をのむ宵から背を向け、逃げるようにその場を立ち去る。
宵はもう追ってこなかった。
逃げたかった。宵から、そして浅ましい願いから。僕は宵の初恋を知り、願ってしまったのだ。どうかその恋が結ばれませんようにと。