足取りが軽い。肺に入ってくる空気が新鮮だ。
 僕は暗闇の中、昼間訪れたばかりの公園に向かって歩いていた。

 公園に向かうのは、もう日課のようなものになっている。

「灯くん」

 僕は今夜もこの子に会いたくて、ここに通うのだ。

 今夜も宵は、先に来ていた。
 こんな暗がりの中にもかかわらず、目敏く僕を見つけると、座っていたベンチから立ち上がる。

「今日も来てくれたんだね」
「なに言ってるんだよ、」

 僕は君に会いたかったっていうのに。
 続くはずの言葉を、言うべきか言うまいか悩んでいると、そんな僕の気も知らない宵が後ろ手を組んでにこにこと朗らかに笑った。

「だって会えるのは当たり前のことじゃないでしょ?」
「うん、たしかに」

 スマホを持たない彼女と、こうして毎晩のようにいつもの場所で落ち合う。
 スマホがあればいつだってどこにいたって連絡をとりあえるこの時代に、スマホを介さない交流をしているからこそ、大切な人に会える、そんな当たり前に思えていたことがより尊く感じられる。

「嬉しいな、今夜も灯くんに会えて」

 宵は風に乗せるように軽やかに言って余計な含みを持たせず、あくまで僕に変に気負わせない。そんなところが宵らしいと思う。
 だから僕も自然体であるがままの本心を伝えることができるのだ。

「僕も。会えて嬉しい」

 すると宵は目をすうっと細め綺麗に口角を持ち上げて、それからその余韻を残したまま空を見上げた。

「新月だね」
「新月?」
「空に月が見えないでしょう? ちょうど満月と満月の間だよ」

 宵と同じように空を見上げれば、たしかに雲がなく晴れているのに月の姿がない。
 新月という言葉は、遠い昔の理科の授業でなんとなく聞いた気がするけれど、すっかり記憶の彼方に追いやられていた。

「灯くんに会って、もう2週間も経ったんだね」

 その声に、切実さという名の、ほんの少しの違和感を覚えた。
 隣を見れば、そこには街路灯に照らされた宵の色白な横顔がある。その横顔には憂いと、それから触れたら溶けてしまいそうな儚さが共存していた。

 ――いつか月に帰ってしまうんじゃないか。そうして僕の前から消えてしまうんじゃないか。
 ふと、そんな馬鹿げた妄想に憑りつかれる。

「宵……?」

 思わずその姿に向かって手を伸ばしかけた時。宵がくるりと身を翻して、僕の顔を覗き込んできた。柔らかそうな長い髪と制服のスカートがふわりと揺れる音が、なぜか聞こえた気がした。

「ね。それより灯くん、今日いいことあったでしょ」

 その声で、不意に現実へと意識を引き戻される。
 そういえば、と話すつもりだったことを思い出す。これから話そうと思っていたのに、まさか先に勘づかれてしまうなんて。

「なんでわかったの?」
「だって灯くん、すぐ顔に出るから」
「え? そう?」

 自分の頬を触ってみるけれど、その自覚はまったくなかった。
 でも宵は全部お見通しみたいだ。お手上げの僕は、話す準備を心の中で整え始める。

「なにがあったの?」
「……実は、今日友達に話したんだ。家庭の事情と、サッカーを辞めた理由を」
「友達に?」
「うん。その友達さ、僕のために泣いてくれて。力になりたいって言ってくれたんだ。……すごく、嬉しかった」

 言いながら、手探りをしていた自分の声が晴れやかなものになっていく。
 まるでずっと喉の奥につかえていたものがとれたような、そんな感覚だ。大切な人に嘘をつき続けるというのは、知らず知らずのうちに自分の心を摩耗していたのかもしれない。

「こんなふうに、分かり合えるなんて思ってなかった。宵のおかげだ」
「え?」

 宵の瞳をまっすぐに見つめた。
 最初から人と心を通わせ合うなんて不可能だと決めつけて変わることを拒んだ。けれど宵に出会って、僕の世界は変わり始めた。少しずつ色と温度を取り戻していくかのように。

「宵のおかげで母さんにも向き合うことができたし、友達とも和解できた」

 宵が目を見張る。その眼差しを一身に受けながら、僕は続けた。

「生まれてきた環境も過去も変えられないけど、未来は自分次第で変えられる。宵がそう言ってくれただろ」
「灯くん……」
「宵に出会って、なんだか生きやすくなった」

 ずっと背筋を伸ばして生きてきた僕は、立ち止まって伸びをすることを忘れていたのかもしれない。
 でも宵が僕の人生の道標になってくれた。こっちに来ればいいんだよって、光で指し示してくれた。

 ……けれど僕は宵に助けてもらってばかりで。
 僕は宵にすべてを打ち明けているけれど、逆は違う。宵が時折見せる寂しそうな眼差しの理由も、学校に行けていない理由も、僕はなにも知らない。
 もちろん僕だって宵の力になりたい。できるものなら、彼女がそうしてくれたように宵を引っ張り上げてやりたい。
 でも踏み込んでいいのかわからない。宵が抱えるものがどれほど大きくて深いのか、それを知らないから。もし無自覚に彼女を傷つけてしまったら、それが怖くて、どうするべきか思いあぐねているのだ。

「ねえ、宵」
「ん?」
「あのさ」
「うん」
「その、宵は大丈夫?」
「ふふ、どうしたの? 急に」
「いや、だから……不安になったり怖くなったり……生きづらいなって、そう思うことはない?」
「え?」

 宵の目が二度瞬く。

「無理に話してほしいわけじゃない。でももし……」

 決して急かされているわけでもないのに、僕はなにかに追い立てられているかのように焦って舌を動かす。
 その時、宵の肩越しに懐中電灯の明かりを見つけた。

「まったく、参っちゃいますよね~。いきなり見回りしろなんて」
「本当ですよ。結局見回りするのは我々なんですからね」

 聞き覚えのある声。僕は思考が円を描くより早く、宵の手を掴んでいた。
 
 懐中電灯の光がまるで視線のように公園を彷徨い照らす。ざりざり……というふたつの足音が踏み込んでくる。

 僕たちはベンチの裏に隠れ、息を潜めていた。でも――急いでいたあまり、僕は思わず宵を自分の胸に抱き寄せていてしまったんだ。

「……っ」

 胸の中で宵が息をのむ音。忙しなく鳴る僕の鼓動。
 静かにしなきゃいけないはずなのに、僕の耳は敏感にまわりの音を拾い取ってしまう。
 宵の気配が近すぎて、吸って吐くだけのはずの息ができない。

「まあ、うちの生徒もこの辺はいないでしょう。いるとしても駅前とかじゃないですか?」
「ですなあ」

 補導のために見回りをしているらしい先生たちは、公園には人がいないと判断し引き返していく。
 先生たちの足音が消え、再び静寂が降り立つ公園。
 もう宵を抱きしめている必要はないのに、僕はなんでか腕の力を緩めることができなくて。

「灯、くん……?」

 行き場を失い宙を彷徨っていた手のひらが、宵の背中に触れる。
 このまま時が止まってしまえばいいと思った。

「……なあ、宵」

 その先になにを言おうと思ったか自分でもわからない。けれど、それを遮るように僕から身を離すと、宵は立ち上がっていた。

「あ~、びっくりした。危なかったね、見つかったら補導されてたかもだよね」
「……宵」
「っていうか早く帰らなきゃ。私のせいで灯くんが本当の不良少年になっちゃう」
「宵」

 立ち上がる。
 なにをそんなに焦ってるの、ねえ、宵。
 僕は宵の腕を強い力で掴んだ。否応なしに視線がかち合う。

「灯くん? どうしたの……?」

 戸惑ったような双眸が僕を見上げる。瞳の水面が不安げに揺れる、その原因が僕であることは明白だった。
 宵のことを困らせたくない。怖がらせたくない。それなのに込み上げる思いを自分の中に押し戻す術を、僕は知らなかった。

「……帰したくない」

 がちがちに強張った声が、自分の唇からこぼれた。

「え?」

 なんでこんなに必死になっているのかわからない。でも今、どうしようもなく宵のことを離したくなかった。

 宵が戸惑っているのがわかって、慌てて僕は声のトーンをあげる。

「そうだ、一緒に朝日を見に行こうよ」

 焦った手つきでポケットを探り、スマホを取り出す。そして予め調べていた検索ページを表示する。

「この川辺、朝日が綺麗に見えるんだって。ここから歩いて20分くらいだし、どうかな」

 宵と会えるのが嬉しくて、いつも夜が待ち遠しかった。でも宵といられるのは夜の間だけ。日付を跨ぐ前にはなんとなく帰る雰囲気になって別れる。
 ずっと夜の中にいたいと何度思っただろう。だから朝日を一緒に見るというのは、一秒でも長く宵といるための口実なのだ。
 朝が来ても、僕は宵と一緒にいたい。

 けれど宵は俯き、そしてふるふると首を横に振った。

「宵……?」
「……だめなの……」

 消え入りそうな声が、凪いだ空気を微かに震わせる。

「え?」
「私は、世界が目を覚ます前に帰らなきゃいけないの」

 宵の言葉を理解することができなかった。
 けれど理解するまでもないことだったのかもしれない。体よく断られただけなのだから。

 ショックのままがくんと腕を落とす。離れる宵の手。

「……だから、ばいばい」

 切なげな笑みが、僕の待ってを許さなかった。
 君はさよならに慣れているんだなって、そんなことを思った。