「ウイルス性の風邪でしょう。もう心配ありませんよ」

 救急外来の若い男性医師は、物腰柔らかな声音でそう告げた。

「よかった……」

 肩の力が抜け放心しそうになっていると、看護師さんに背後から肩に手を置かれた。

「大丈夫ですって。よかったですね」
「はい……」
「でも高熱が出ていますし、念のため点滴はしていきましょう」

 医師の診断のもと希は点滴をしていくことになり、それが終わるまでの間は待合室で待つことになった。
 保険証やらは慌てていて持ってくるのを忘れたので、母さんに連絡して持ってきてもらうことになった。職場からこちらに向かっているらしく、点滴が終わるまでには到着するだろう。

「――ありがとうございました」

 脱力した足取りで診察室を出ると、明かりの少ない待合室でひとり待っていてくれた宵が駆け寄ってくる。

「どうだった……?」
「ウイルス性の風邪だから心配ないって」
「そっかあ……よかったあ……」

 宵の表情に安堵の色が広がる。
 それを見たら、ああもう大丈夫なんだって、その実感が遅れてやってきて僕は泣きそうになる。
 そんな僕を見て、宵が声と眼差しを柔くした。

「ちょっとこっちで話そっか」



 宵と僕は、自販機の裏の一脚しかない長椅子に並んで腰かけた。
 トイレに続くその通路は電気がなく、ひっそり静まり返っている。

「大丈夫? 灯くん」
「ちょっと……大丈夫じゃない」

 僕を覗き込むその視線に見守られていると、空元気を作ろうとしたのも束の間、背中を押されるように本音がこぼれた。今にも破裂しそうな感情を隠すかのように弱々しい笑みが浮かび、声が震える。

「僕……希がいなければって思っちゃったんだ」

 あの時、一瞬でも希に対してマイナスな感情を持った自分が恐ろしい。自分の中にそんな自分がいたことが、怖くてたまらない。
 僕にとって希は、かけがえのない大切な存在なのに。

 僕は体を前傾し、膝に肘をついた。そうやって両手の指先をつけたり話したりしながら、その言葉を放つ勇気の出る瞬間を見計らう。そして。

「実はうち、父さんが家を出て行っちゃったんだ」

 宵に、そして他人に話すのは初めてなのに、ずっと躊躇っていたその言葉は呆気なくするりと出た。

「うん」

 今怖気づかないでいられるのはきっと、宵がくれた「うん」がこの世のなにより優しい響きだったからだろう。

「父さんのこと大好きで。父さんの存在はでかくて……。父さんだってそうだと思ってた。僕と同じように愛してくれているんだって……。でも突然捨てられて、そうじゃなかったんだって気づいて、僕思っちゃったんだ。ああ、消えちゃいたいって」

 信じていた存在から手を離されて、僕が知った感情は底のない絶望だった。 

「でも、僕には希がいた」
「……うん」
「希がいるから、生きなきゃって思った」

 僕をこの世に繋ぎ止めてくれたのは、希の存在だった。希を守らなきゃ、その思いだけで僕はこの地に踏ん張っていられたのだ。

 5年前、生まれたての希をこの手で抱いた時、真っ先にこみ上げたのは心を震わせるほどの愛おしさだった。僕の腕の中ですやすや眠るほわほわな命は、生まれる前からずっと僕の腕の中にあったかのような錯覚を起こさせたのだ。そして同時に、この小さくて尊い存在を、僕が守るのだと心に決めた。

「それなのに、僕が余裕ないせいで希に八つ当たりした……」
「そっか」

 宵の手が、僕の丸まった背を撫でた。小さいのに頼もしくて、ひんやりしているのに優しい手だった。

「ねえ、灯くん。灯くんの悪いところ、言ってもいい?」
「え?」

 突然のことに僕は目を瞬かせる。けれど宵は僕の答えを待たずに続けた。

「言うね。灯くんの悪いところは、自己肯定感が低いところ」
「自己、肯定感……」
「いっつも自分ひとりを悪者にして、ひとりで抱え込もうとして。灯くん、自分のこと全然大切にできてないよ……」

 宵がこちらに手を伸ばしーーそして僕の体を両腕で抱きしめた。

「宵……」

 驚く。けれど動けない。頭のどこかで働く理性以上に、宵の腕の中が温かくて縋っていたくなってしまったのだ。

「今だって自分が悪いってひとりで自分を責めてる。でも兄と妹である前に人と人なんだもん、マイナスな感情を抱くことがあるのも当たり前だよ」

 凛としながらも柔らかいその声が、僕の心に付き纏っていた重力を解いていく。

「自分のことを追い詰めるより、たまには自分に頑張ったって言ってあげて」
「頑張った……?」
「うん。言ってみて?」
「僕、頑張った……」

 言葉にした途端、心の中の僕が泣き声をあげたのが聞こえた。
 みっともなく声が震える。

「頑張った、頑張った……」

 何度も自分に言い聞かせていると、徐々に感情のダムが崩れていき、やがて決壊した。大粒の涙が溢れ、宵の胸元を濡らしていく。
 ……そっか、僕は頑張っていたのか。

「ふ、う……」
「頑張った。灯くんは頑張ったよ」

 大きな僕の体を両腕いっぱいに抱きしめ、背中をさすってくれる宵。僕はその腕の中で、唇を真横に引き締め、声を押し殺して静かに涙を流し続けた。

 朝からどんなに頑張って家事をこなしたって、だれも褒めてくれない。
 もっとゆっくり寝ていたい日もある。放課後友達とぐだぐだ遊びたい日もある。水仕事ばかりでひび割れた指先は恥ずかしくて学校では隠している。
 見返りを求めるわけじゃない。でもただ、頑張ってるねって、その言葉だけがほしかった。

「つらいも疲れたも、恐れずに声に出して助けを求めていいんだよ」

 ……いつからだろう。辛いも逃げたいも疲れたも、相手に迷惑がかかると思って隠すようになったのは。
 そうしていつしか自分でも知らないうちに自分のキャパシティを超えていたのかもしれない。

「私は灯くんに言いたいよ。生きててくれてありがとうって。頑張ってくれてありがとうって」

 宵の言葉が、涙の波に拍車をかける。

「希ちゃんの命と同じように、灯くんの命にはかけがえのない価値があるんだよ」

 もう、無理だった。こらえきれなくなった嗚咽が漏れる。

「うう……」

 僕は縋るように宵のセーラー服を握りしめる。宵がそこにいてくれる、その実感だけでひどく安心することができた。
 かっこ悪いとわかっていながら、こうして体裁を気にせず泣くことができるのは、羽毛のような宵の包容力のせいだろう。宵の前ではどんな鎧も意味を成さない。無防備にまっさらな自分を曝け出すことが怖くなくなるのだ。

 それからどのくらい泣き続けただろう。
 僕は腕で目元を拭いながら、宵から離れるように体を起こした。

「……ごめん」
「ううん」
「ありがとう」
「もう大丈夫?」
「……うん」

 目元をごしごし擦っていると、不意に宵と目が合って、宵がくしゃりと笑った。だから僕もつられて苦笑してしまうんだ。

 と、その時。

「希! 灯!」

 ばたばたと走る足音と共に、悲鳴にも似た声が、こちらに近づいてくるのに気づいた。

「母さん……」

 母さんの声だ。背筋をぴくりと伸ばし、音のする方を見る。
 すると隣で宵が立ち上がった。

「じゃあ、私はそろそろ行くね」
「え?」
「灯くんはもう大丈夫。お母さんにもちゃんと向き合える」
「宵……」
「頑張れ」

 笑顔の余韻を残し、宵が踵を返して行ってしまう。

「待っ……」
「灯!」

 僕の声が宵を呼び止める前に、母さんの声が僕を捕まえた。
 振り返れば、息を切らした母さんが膝に手をつき息を整えるところで。けれどそれは一瞬のことだった。すぐさま体を起こすと、僕の肩を掴みかかる。

「灯! 希は!?」

 額に汗の粒を浮かばせ、ボブの髪もぼさぼさで、高そうなスーツはしわくちゃで。いつもきっちりロボットのように整えられた母さんが、こんなにぼろぼろなのは初めて見た。
 この人はまだ、僕たち子どものためにこんなに必死になれるんだ。場違いかもしれないけど、そんなことをぼんやり頭の端っこで思った。

「大丈夫。ウイルス性の風邪だって。今点滴してる」

 なるべく穏やかな声を作ってそう伝えれば、母さんはがくんと肩の力を落とし、大きな息を吐きだした。

「よかった……」
「仕事、抜け出してきたの?」
「当たり前でしょう?」

 そうして母さんは、長椅子のさっきまで僕が座っていた場所に座り込む。
 僕は宵が授けてくれた小さな勇気の芽を奮い立たせながら、まだ荒い息を繰り返す母さんの前に立つ。

「母さん」
「なに?」

 母さんが僕を見上げる。同じ屋根の下で生活しながら、こうして面と向かって向き合うのはひどく久々な気がした。

『つらいも疲れたも、恐れずに声に出して助けを求めていいんだよ』

 宵の言葉が鼓膜に蘇る。
 息を吸って、吐いて、そして。

「……僕、疲れたよ」

 もっとちゃんと伝えたいことはあったはずなのに、真っ先にこぼれた言葉はそれだった。

「え?」

 僕に遺伝した、きりっとした目元が見開かれる。

「毎日家事して、希の面倒もみて……。もういっぱいいっぱいなんだ。母さんの仕事が忙しいのはわかってる。でも家のことにも目を向けてほしい。希が倒れて、不安で胸が押し潰されそうだった。母さんにそばにいてほしかった」
「灯……」
「希もまだ母さんに甘えていたい年頃なんだよ。僕だって、まだサッカーがしたい……」

 その声は、情けないほどによれよれだった。

「大学も行きたい。まだまだやりたいこと、たくさんある」

 ぎゅうっと拳を握り締め俯いていると、不意に母さんが立ち上がった気配がした。そして両肩に手を置かれたかと思うと。

「ごめんね」

 予想していなかった言葉に、僕は目を見張って顔を上げた。
 家族のために仕事をしてるんだから仕方ないでしょと、そう切り捨てられることを覚悟していたからだ。
 母さんの顔は、近くで見れば小さな皺がたくさん刻み込まれていた。記憶の中の母さんよりも、年と苦労を重ねていたことがわかる。

「正直、灯がなにを考えてるかわからなかった。サッカー辞めたのも、灯の意思だと思ってた」

 母さんの言葉に胸を衝かれる。
 僕は本音で母さんにぶつかろうとしなかった。そんなことをしても端から無駄だと決めつけていたからだ。
 でもいくら家族だとしても、言葉にしなければ伝わらないこともある。相手が汲み取ってくれるだろうといつまでも受け身でいたって、なにも変わらない。

「でもそんなに無理させてたなんて……。全部灯に押しつけて、母さん、家族から目を逸らし続けてた。仕事をしてるんだからって勝手に許された気になって……、奢りだったね。本当にごめんなさい」

 母さんの声が、胸にすっと馴染んで僕の心をほぐしていく。
 言葉にすれば、思いを通じ合わせることは、こんなにも簡単なことだったのだ。
 俯く。そうしなければ、緩んでいる涙腺が再び壊れそうだったからだ。

「これからは一緒に頑張っていこう。母さんも頑張るから」
「うん……」

 そうして家族の思いを再確認したとき。

「佐々木さん、先生がお呼びです」

 診察室の方から、看護師さんが呼ぶ声が聞こえてきた。
 鼻を啜った僕は母さんを促す。

「行こう。希が待ってるはずだから」
「うん」

 母さんと共に診察室に入れば、起きた希がベッドに座っていて、母さんを見るなり顔をくしゃくしゃにさせた。

「まま~っ!」
「希、ごめんね……!」

 抱きしめ合うふたりの姿を、じんわり笑みを浮かべながら見つめていると。

「にーちゃんっ」

 今度は希が僕に向かって両手を伸ばしてきた。
 自分を兄にしてくれた愛おしいその存在を、そこにいてくれる幸せを実感しながら両手で強く抱きしめた。