(俺も自主練だけでもしておくかな)

 そう思って一度寮まで大剣を取りに戻ろうと思った時だった。
 中庭を通った際に、白い何かがふわりと舞ったのが視界の片隅に入った。そちらに視線を向けると──そこには、白銀色の髪を持つ少女がいた。
 アーシャ王女だ。彼女は中庭の噴水の縁に腰掛け、ぼんやりと水面を眺めていた。
 本当は、そのまま見て見ぬふりをしようかと思った。これ以上踏み込んでも、きっとアデル自身が身分の差に傷付くだけだ。それは一か月前の競技会の流れを鑑みれば、明らかだ。頭ではそれを理解しつつも──アデルの足は、自然と彼女の方へと向かっていた。
 アーシャの横顔が、あまりにも悲し気な色で染まっていて、見て見ぬふりなどできなかったのだ。

「……アーシャ王女」

 アデルが声を掛けると、アーシャはハッとしてアデルの方を見た。
 すると、少女は少し気まずそうにぎこちなく微笑み、「こんばんは」と頭を下げた。
 アデルも同じくぎこちない笑みを浮かべると、少女に歩み寄った。

「こんな時間に中庭に出ていて良いのか?」

 アデルは少女の横に立って、同じく噴水を眺めた。
 月明りがほんのりと水面を照らして、その水面を噴水が打ち付ける。
 彼女は返事をせず、ただ水面を見つめるだけだった。

「アーシャ王女?」
「……すみません。ほんとはダメです。でも……不安で眠れなくて」
「不安?」
「はい。アデルも、ミュンゼル王国については知っているでしょう?」

 やはりその事か、とアデルは嘆息して、彼女の横に腰掛けた。

「ああ。でも、クルス王子は無事だって」
「でも、クルス様のお父上は亡くなってしまいました……」

 アーシャは声を沈めて、顔を上げた。
 近くまで寄って気付いたが、その浅葱色の瞳は涙が零れ落ちそうな程雫を留めていた。

「クルス様のお父様……アルセイム様も、昔クルス様と一緒にこの国に遊びに来て下さったんです」

 それは、おそらくクルス=アッカードに遊んでもらったという十年程前の時の事だろう。
 クルスの父と、ロレイン王は共に大陸六英雄と謂われており、先の邪教戦争では戦友であるとも言われている。その関係上、アルセイム=アッカードがヴェイユ王国を訪れてもおかしくはない。

「その時、私……遊んでもらったんです。クルス様にも、クルス様のお父様にも……頭を、撫でてもらったんです……ッ!」

 アーシャの瞳から涙がはらりと零れ落ちる。
 アーシャは人生で初めて戦争や戦いで知人を亡くす経験をしたのだ。大陸では誰かの死など日常茶飯事だが、この国で住んでいる限り滅多に起こるものではない。

「私、覚えてるんです。アルセイム様の御声も、手のひらの感触も……思い出せるんです。でも……もう、アルセイム様は……ッ」

 アーシャ程心優しい者の場合、人の死はつらいだろう。アデルにとっては死は常に隣り合わせだった。親も殺され、自分が死ぬ事も、仲間が死ぬ事も常に有り得た。
 無論、身近だったからと言って悲しくないわけではない。親に死なれた時は、悲しかった。仲間に死なれても悲しいのは間違いない。だからこそ、死なせない様に戦った。