「……糞ッ垂れめ。王宮がざわつくはずだ」

 アデルは額に手を当てて、舌打ちをした。
 アデルが住んでいたランカールは、ライトリー王国の領内にある田舎町だ。ライトリー王国の王都からは少し離れているが、それなりに過ごしやすい。
 ライトリー王国はアンゼルム大陸の極西に位置している。ミュンゼル王国やゲルアード帝国は大陸の東側で、ライトリー王国とはほぼほぼ対極に位置していた事もあってミュンゼル王国については詳しく知っているわけではない。直接的な国交はほぼないし、アデル自身も行った事はなかった。
 アンゼルム大陸には、ライトリー王国やミュンゼル王国、ゲルアード帝国の他にも大小様々な国がある。
 ライトリー王国は大陸最西部に位置し、海との繋がりがある。王都からイーザイツ港までは十日程の距離にあり、港がある事から、比較的栄えている国だ。ランカールとミュンゼルの間には、リーン王妃の故郷・ダリア公国や自由都市アイゼン、その他小さな部族国家等がちらほらとある。ランカールから北東にダリア公国、真東の海岸沿いを歩いて行けば自由都市アイゼンに辿り着く。自由都市アイゼンを東に行ったところに、ミュンゼル王国がある。ミュンゼル王国を南東に進み、イブライネ砂漠を抜けた先にあるのが海洋国家・バルムス王国だ。
 冒険者ギルドはその間にある小さな町々にあって、冒険者証があればどこでも仕事が引き受けられる事になっている。アデルはダリア公国や自由都市アイゼンの周囲にある小さな町でも依頼は受けた事はあるが、ライトリー王国で依頼を受ける事が多かった。自分が生まれた土地で、勝手がわかる事が大きい。それに、国が嫌いだと思った事はなかった。
 それぞれは小競り合いはあるものの、大きな戦争はなく、大陸の平和の均衡を保たれていた。
 だが、ゲルアード帝国がその均衡を崩しにかかった。アデル達にはほぼ関係なかった大陸の極東──ミュンゼル王国の北東の地域──では、エトムートの祖国・ラトニア公国を始めとして、周囲の小国を滅ぼし、吸収し始めていたのである。
 アデルにとっては、大陸の極東で起こっている小さな戦争くらいにしか思っていなかった。だが、小国を吸収して力をつけたゲルアード帝国は、遂に大国ミュンゼルですら滅ぼしてしまったのである。
 ミュンゼル王国は、アンゼルム大陸の真ん中からやや東に位置し、大小様々な国と国交を行っていた。そのミュンゼル王国が滅びたという事は即ち、ゲルアード帝国は大陸西側を侵略する道をも手に入れた、という事になる。そして、クルス王子が逃げたと言われるバルムス王国までもが滅ぼされてしまうと、帝国は海路も手に入れる事となる。

(良くない……良くないぞ、これは!)

 アデルは自らの胸の中に浮かび始めた嫌な予感を否定し切れずにいた。そして、王宮中が騒がしくなるのもよくわかる。これは──大陸全土を巻き込んだ戦火の予感である。誰もがその予感を胸のうちでひしひしと抱き始めているのだ。
 アデル達が生まれる前に、大きな戦争があった。
 現ヴェイユ国王のロレンスや王妃のリーンが六英雄として数えられる切っ掛けになった、大陸のあらゆる国家を巻き込んだ戦争だ。それは邪教戦争と呼ばれていた。
 当時邪教戦争が起こった切っ掛けは、ワグナード帝国が大陸中を統一せんとして侵略を開始した事だ。邪教ゾールを国教として崇め奉り、その教えに沿って異教国家を滅ぼし、改宗させた。
 しかし、そこで大陸中の諸侯・英雄達が立ち上がり、打倒ワグナードの連合同盟を結んだ。ワグナード帝国はその同盟の前に討ち滅ぼされたのである。
 その後に出来た国が今あるゲルアード帝国だ。ゲルアード帝国は建国初期、ワグナード王の末っ子を幼帝として担ぎ上げ、ミュンゼル王国の傀儡王朝にした。
 しかし、その幼帝は父王を殺された恨みを忘れていなかった。幼帝が老帝となり、ゲルアード王は前身の王ワグナードの意思を継いでいたのである。密かに力を蓄えて、周囲の小国を吸収し、今大陸に向けて再び戦ののろしを上げようというのだ。
 まずは自らの飼い主であったミュンゼル王国を滅ぼしたのはその始まりに過ぎない、と言わんばかりである。