浅黄はその頃、居間で祖父と父と一緒に居た。
「しかし十年以上前に一度だけ会ったお嬢さんのことを、お前は良く覚えて居ったな、浅黄」
父がからかうように言うのを、照れくさく聞く。
「桜をあげた時に僕を見た、丸い瞳と目じりのほくろが印象的だったのです。汚れた着物を着ていても、彼女の生来の輝きは消せなかった。一目で彼女だと分かりましたよ」
「ホッホ。初恋は実らぬものというが、お前は良く赤い糸を手繰り寄せたの」
「僕の、おじいさまを尊敬する気持ちを、幼い頃に分かち合ってくれた女の子だ。この名を戴く限り、僕はこの名に恥じないお嬢さんを迎えようと、心に決めていました。彼女を探し当てるのに、もっと難儀するかと思っていましたが、天が僕に味方してくれたようです」
自分に傘を差しだしてくれた八重との再会を思い出す。彼女は気づいていなかったようだったが、浅黄は直ぐに気が付いた。
「待ち合わせの為に持って行く本を、恋愛の本にしておいて、良かったじゃろ」
ホッホ、と祖父が髭を撫でながら言う。浅黄は頭を掻きながら、祖父に頭を下げた。
「まさか、饅頭を渋られるとは思いませんでした。女性なら甘いものが良いのだと思っていましたから……」
公園に赴く際、時間つぶしの為に持って行こうとしたのは、物理学の本だった。それを見た祖父が、女性好きのする本にしなさい、と助言してくれたのだ。
「ホッホ。浅黄もまだ若い。もっともっと、相手のことを考えてやりなさい」
「はい、おじいさま」
充足した様子の浅黄を、祖父と父が穏やかに見守っていた。