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朝いちばんに目覚めたのは、ばあちゃんだった。隣でごそごそと蠢く気配がしたので、俺も目を覚ます。
ぼうっとした頭のまま、あれ? 俺はなんで職場で寝ているんだ? と一瞬考えたが、昨日のことを一気に思い出した途端、意識は覚醒した。
「なにやってんだよばあちゃん」
俺の呼びかけに、ばあちゃんはびくりと動きを止めた。
「誰かがここにおしっこをしていったんですよ」
悪びれもなくばあちゃんはそう言った。見ると、ばあちゃんが寝ていた布団に染みが出来ていて、履いているズボンの股も濡れている。
尿失禁。介護用語ではそう分類される症状だが、かわいくいえばおねしょだ。
「まったくまったく、御不浄の場所もわかっていないんですから。コタロウくん、気をつけないといけないわよ」
毅然としていうその態度。自分が漏らしたとは一寸も思っていないようだった。
「ばあちゃん、着替えるぞ」
俺は否定も肯定もせず、まだ寝ている(あるいは空気を読んで寝たふりをしている)筒原さんの側を通り抜けて、ばあちゃんをシャワールームに促した。
「そうですよお父さん、わたしはコタロウくんにおしっこをかけられたんですからね」
「はいはいそうですね」
俺はばあちゃんの言葉を聞き流しながら、シャワールームに入った。
「じゃあばあちゃん、ここがシャワー浴びるところだから」
「わかりましたわかりました」
ばあちゃんがシャワーを浴びているあいだ、俺は扉の外で待っていた。認知症の症状がましなときは、一人で風呂に入ることができるけれど、万が一のこともあるから、いつでも駆けつけられるようにそばにいることにしている。
それに今の俺は、どういうわけかばあちゃんにむかって放尿した非常識な孫として認識されてしまっているから、少し離れているほうがよさそうだ。
ガークがこもれびの杜に訪ねてきたころには、すでに俺たちの身支度は整っていた。社会人になってからずっと仕事が中心の日々だったから、なんだか手持ち無沙汰になっている。それに仕事をしているわけでもないのに、上司と一緒にいるというのも奇妙な気持ちになる。これからずっと続くのだ。早いうちに慣れないといけない。
「あらあ、ガークくん、おはよう! 今日も元気そうね」
「おはようございます」
ガークは筒原さんにはかしこまった口調で話すようだ。挨拶もそこそこに、ガークが俺に近づいてくる。なんだか眠そうな様子に見えるのは、俺の気のせいだろうか。
「コタロー、今日もじいちゃんの説得に行くのか」
「そうだな。今のところ、俺にはなにもやることがないし、介護職として、ガークの依頼にちゃんと答えないとな!」
「そうか。よろしく頼む」
ガークの表情がふわっと和らいだ。できることなら、一刻もはやく自分の肉親でもあるアヴァリュートの境遇をましなものにしてやりたいと願っているはずだ。今までは諦めていたぶん、可能性が示されれば期待もせり上がるだろう。
俺もできれば、その期待にはやく応えてやりたいと思っている。
晴天だった。ベリュージオンに地球のような四季が存在しているのかはわからないが、体感的には秋の気候のような、爽やかな空気が流れていた。
「じゃあ、昨日とおなじように頼んだぞ」
一人じゃ崖の急斜面を降りられない俺は、ガークと共に洞穴に向かった。
『しつこい童だ。二度とその面を見せるな、と言ったはずだが』
アヴァリュートは俺を見るなり、開口一番にそう言った。やっぱり歓迎されていない。俺がロイメンだからなのか。
「じいちゃん、オレが頼んだんだ!」
『ガーク、貴様もしつこい奴だ。貴様とて、一族の総意を覆そうとするのがどれほど困難なことか、分かっているだろう』
「わかってる。……だからオレは昨日集落に帰ったあと、みんなを集めてもう一度話し合いの場を設けたんだ」
さっきガークがこもれびの杜をやってきたときに、眠そうにしていた理由がわかった。きっと彼らは夜遅くまで話し合っていたのだろう。俺が一度の話し合いで、うまく事を運べなかったせいで。
「今はまだ、じいちゃんを完全に集落に戻すのは、みんな躊躇している。……だけど、一時的になら、この洞穴から出てもいいんじゃないかって、言ってくれた」
『一時的?』
「オレの気持ちに配慮してくれたんだ。……竜族の中ではオレはまだ未熟者だ。じいちゃんの後継者としては頼りない。リアズをはじめとして、オレのことをよく思っていないヤツもいる。……だから、一族の総意じゃないけど、オレを不憫に思ってくれた者たちはじいちゃんをここから出すことに賛成してくれてる」
『話にならぬ』
吐き捨てるようにアヴァリュートは言った。『泣き落としで奴らの同情を誘ったとでも? 恥ずかしいとは思わんのか』
「泣いてなどいない!」
言葉を遮るように反論した。この状況でそれだけを否定するなんて、体裁を気にしすぎだぞ、ガーク。
だけど、このままだと今日も話はなにも進展しなさそうだ。ガークが体裁を気にするのと同じくらい、俺だってメンツを気にしている。ゆっくりやろうぜと促したとはいえ、それでもなにか成果をあげなければ、竜族のみんなに啖呵をきった自分が情けなくなる。
焦りは禁物だと自分に言い聞かせる一方で、それとは真逆の感情が生まれてくるのだから、人間はめんどくさい。
「アヴァリュートさん、俺からも提案があるんだ」
果たして俺の声には耳を傾けてくれるのか。たとえ今は嫌悪感をむき出しにされていても、気づかないふりをして話をすすめる強引さも必要だ。
「こういうのはどうかな。たとえば、日中はガークと一緒に洞穴の外に出る。集落に近づかなくとも、広い森や空の上で存分に体を動かす。日光を浴びるのは体にとってもいいんすよ」
空に浮かんでいる太陽に似ている物体は、こっちの世界でも太陽と呼ぶのだろうかと疑問に思ったが、言葉が通じているところを見るに、そんなに心配はしなくてよさそうだ。
太陽の光を浴びることは、体に良いといわれている。日光浴で分泌される、セロトニンという物質が脳を刺激して、ストレスを軽減したり、自律神経を整えたり、気持ちを明るくしてくれたりする。幸せホルモンといわれているものの正体だ。日光を浴びることによって、夜の睡眠の質も上がる。あとは光のあたった皮膚がビタミンDを作りだし、それがもの忘れの改善につながるのだというから、手軽にできる良質な健康法だ。
「アヴァリュートさん、どうせ最近はろくに日光を浴びてないんでしょ。ガークはこんなに健康的に日焼けをしてるってのに」
『口の利き方には気をつけよ』
アヴァリュートは唸ったが、昨日のように感情のままに攻撃してくることはなかった。認知症の症状のひとつに、自制心が利かなくなり、感情のままに行動してしまうというものがある。おそらく昨日は、アヴァリュートのなかで自制心のねじが外れてしまっていたのだろう。一概に認知症といっても、日によってあらわれる症状が違うことなんてザラにある。
「太陽のしたでろくに動きもせず、一日中、こんな辛気くさいところで寝ていたら、アヴァリュートさん、本当にダメになっちゃうっすよ。俺のみたところ、アヴァリュートさんの症状はまだ軽い。これからいくらでも、なんとでもなります!」
ふわっと抽象的に、悲観的になることはないと伝える。何せ相手はドラゴン。人間相手でも先のことは分からないのに、ドラゴンのことなんてもっとわからない。それでも、外に出るのは、今の状態がずっと続くより、彼の生活に彩りを与えるであろうことは明白だ。
「竜族の長老ともあろうものが、俺みたいな奴に煽られても、受け流せずにぶちギレてたじゃないっすか。きっとここでずっと寝てるから、ストレスマックスなんでしょ!」
「コタロー、なぜさっきからそんなに挑発的な態度になってるんだ。またじいちゃんの攻撃を食らいたいのか?」
ガークが小声で尋ねてきたので、俺はにやりと笑ってみせた。
「いいか、ガーク。介護士が利用者さんに対しておこなう行動には、すべて根拠があるんだ」
「リヨウシャ?」
首をかしげるガーク。おっといけない、また専門用語を使ってしまった。蘇る筒原さんが俺に指摘する声。「ちょっと空野くん! あなた、介護をはじめる前、『端座位』なんて言葉、知ってたの?」
介護の現場では、医療や介護に関するいろいろな専門用語が日々飛び交っている。意味をわかっていて、職員同士で会話をするときに口にするのはいいけれど、それを家族とか、介護のことを知らない人たちに向かって使うのはやめなさいと、耳にタコができるくらい言われていた。家族に利用者さんのことを説明するときや、記録を書くときは、誰がみても意味が分かるようにしておきなさいと教えられた。
当時、俺は覚えたての言葉を早く使いたくて調子に乗っていたけれど、たしかに『端座位になっていた』なんて書いても、それまでの俺は意味がわかんなかっただろうし、ここは『ベッドの端に腰掛けていた』と書いてあったほうが、だれでもすんなりと文章が頭に入ってくるもんなと納得した。
「俺が、アヴァリュートさんに対してやってることは、ちゃんと理由があるってことだよ」
ふふんと威張りくさって俺はそう言ったが、心の中では不安だった。アヴァリュートに対しての言葉掛けは、たしかに昨日よりも強気になっている。わざとだ。アヴァリュートは態度も経歴も、威厳たっぷりの人……じゃなくてドラゴンだ。そんな彼とまともに……というか対等に渡り合うために考えた策だった。
どっかの大企業の社長であろうが、生涯真面目に企業に勤め上げたサラリーマンであろうが、路上生活を余儀なくされたホームレスであろうが、みんなみんな行く末はおなじ。人が誰かを支えるときは、互いに対等に尊重しあわなければならないと、俺は思っている。
「そうか。まあ、コタローなら、むちゃくちゃなことはしないと信じている」
ガークは静かに一歩引いた。それを皮切りに、俺はアヴァリュートさんに向き直る。
『竜族の長は何事にも動じず、常に堂々としていなければならぬ』
してなかったじゃねえかよっ!
俺は心の中で盛大にツッコミをいれる。もしかすると、長老の頭の中では、昨日の出来事が記憶から欠けているのかもしれない。
「堂々としていなきゃいけないのなら、こんな暗がりの中でこそこそ隠れてちゃだめなんじゃないっすか」
『貴様! さっきから黙ってきいていれば、儂の発言のあげ足を取るようなことばかり言いおって!』
ぐわんぐわんと、アヴァリュートの声が脳内に響く。こいつ、やっぱりすぐ感情的になるな……と分析する。それが認知症の症状なのか、元々の性格なのかはやっぱりまだ分からない。
今日も話は難航するか……と思いかけたときだった。
『ガーク』
アヴァリュートの声が穏やかになり、彼はそっと孫の名を呼んだ。
『おまえはこのロイメンを執拗にここに連れてくるが、儂にそんなに外に出てほしいのか』
「そうだよ、じいちゃん」
これは少し前進か? と、俺は身を乗り出した。
「オレ、コタローがいれば大丈夫な気がする。その……たとえじいちゃんがいつもと違うことになったとしてもちゃんとオレたちがなんとかするからさ!」
それは竜族の後継者としてではなく、完全なるアヴァリュートの孫としての、ガークの言葉だった。いつの間にかガークもその気になって、アヴァリュートの拘束を解くことを渋っていた様子は微塵も感じられない。
「ほら、お孫さんもこう言ってるんだし、受け入れてやりなよ」
これは決してアヴァリュートをけしかけているわけではない。家族が言っているから。協力してくれている事業所のスタッフも言っているから。お医者さんも言っているから。俺たちは時として、そういうふうに周りの人たちをダシにして、頑固な年寄りを説得することがある。これには一定の効果があり、それまで頑なに考えを変えなかったのに、突如として思考が柔軟になることがある。
アヴァリュートも例外ではなかった。孫にほだされて、冷静になったタイミングで一晩考えたのかもしれない。ドラゴンの寿命がどれくらいなのかは知らないが、残された時間のなかで、孫と一緒に過ごす時間を大切にしたい。それなら、こんなところに閉じこもっているよりも、外に出てガークと同じ空間で過ごすことを望む。
アヴァリュートのなかに、生きる希望が芽生えたということか。いずれも俺の願望でしかないが、できることならそうであってほしい。
「コタロー、オレたちはどうしたらいい? 集落のみんなに迷惑をかけず、じいちゃんをここから出すには……。そもそもそんな方法があるのか?」
「ガーク、アヴァリュートさん。これだけは言わせてくれ」
俺は二人(正確にいえば、一人と一匹か)の顔を順に見る。「この場所から離れると迷惑をかける、なんて思うのはやめてほしい。集落のみんなにも、俺たちにも。生きている以上、迷惑をかけるってのはお互いさまだからさ。俺たちロイメンはそういう考え方で、心がしんどくならないように生きているよ」
沈黙。ガークとアヴァリュートは互いに顔を見合わせた。なんだか歯の浮くようなキモイことを言ってしまったか? と青ざめる。
「かたじけない」と、ガークが言った。急に武士みたいなしゃべり方をするものだから、俺は少し面食らった。
「ほらじいちゃん、コタローもこう言ってくれてる。ここはじいちゃんが譲歩しないといけないよ」
『ふむう……』
アヴァリュートが唸る。鼻から息を吐いたようで、洞穴を浮遊する埃がぶわっと舞い上がった。
そろそろ答えが出そうだ。長期戦を覚悟していたが、たった一晩時間をおいただけで、考え直してくれたようだ。
竜族の長という立場なら、これまでもいろんな決断を迫られてきただろう。自分の意思とは反することであっても、一族の安寧のためならば客観的に結論を導かねばならないこともあったはずだ。ということは、周りの状況に合わせて、柔軟に思考を考えられる一面もあったに違いない。そしていまのアヴァリュートにも、その能力は残っていると捉えることができる。
朝いちばんに目覚めたのは、ばあちゃんだった。隣でごそごそと蠢く気配がしたので、俺も目を覚ます。
ぼうっとした頭のまま、あれ? 俺はなんで職場で寝ているんだ? と一瞬考えたが、昨日のことを一気に思い出した途端、意識は覚醒した。
「なにやってんだよばあちゃん」
俺の呼びかけに、ばあちゃんはびくりと動きを止めた。
「誰かがここにおしっこをしていったんですよ」
悪びれもなくばあちゃんはそう言った。見ると、ばあちゃんが寝ていた布団に染みが出来ていて、履いているズボンの股も濡れている。
尿失禁。介護用語ではそう分類される症状だが、かわいくいえばおねしょだ。
「まったくまったく、御不浄の場所もわかっていないんですから。コタロウくん、気をつけないといけないわよ」
毅然としていうその態度。自分が漏らしたとは一寸も思っていないようだった。
「ばあちゃん、着替えるぞ」
俺は否定も肯定もせず、まだ寝ている(あるいは空気を読んで寝たふりをしている)筒原さんの側を通り抜けて、ばあちゃんをシャワールームに促した。
「そうですよお父さん、わたしはコタロウくんにおしっこをかけられたんですからね」
「はいはいそうですね」
俺はばあちゃんの言葉を聞き流しながら、シャワールームに入った。
「じゃあばあちゃん、ここがシャワー浴びるところだから」
「わかりましたわかりました」
ばあちゃんがシャワーを浴びているあいだ、俺は扉の外で待っていた。認知症の症状がましなときは、一人で風呂に入ることができるけれど、万が一のこともあるから、いつでも駆けつけられるようにそばにいることにしている。
それに今の俺は、どういうわけかばあちゃんにむかって放尿した非常識な孫として認識されてしまっているから、少し離れているほうがよさそうだ。
ガークがこもれびの杜に訪ねてきたころには、すでに俺たちの身支度は整っていた。社会人になってからずっと仕事が中心の日々だったから、なんだか手持ち無沙汰になっている。それに仕事をしているわけでもないのに、上司と一緒にいるというのも奇妙な気持ちになる。これからずっと続くのだ。早いうちに慣れないといけない。
「あらあ、ガークくん、おはよう! 今日も元気そうね」
「おはようございます」
ガークは筒原さんにはかしこまった口調で話すようだ。挨拶もそこそこに、ガークが俺に近づいてくる。なんだか眠そうな様子に見えるのは、俺の気のせいだろうか。
「コタロー、今日もじいちゃんの説得に行くのか」
「そうだな。今のところ、俺にはなにもやることがないし、介護職として、ガークの依頼にちゃんと答えないとな!」
「そうか。よろしく頼む」
ガークの表情がふわっと和らいだ。できることなら、一刻もはやく自分の肉親でもあるアヴァリュートの境遇をましなものにしてやりたいと願っているはずだ。今までは諦めていたぶん、可能性が示されれば期待もせり上がるだろう。
俺もできれば、その期待にはやく応えてやりたいと思っている。
晴天だった。ベリュージオンに地球のような四季が存在しているのかはわからないが、体感的には秋の気候のような、爽やかな空気が流れていた。
「じゃあ、昨日とおなじように頼んだぞ」
一人じゃ崖の急斜面を降りられない俺は、ガークと共に洞穴に向かった。
『しつこい童だ。二度とその面を見せるな、と言ったはずだが』
アヴァリュートは俺を見るなり、開口一番にそう言った。やっぱり歓迎されていない。俺がロイメンだからなのか。
「じいちゃん、オレが頼んだんだ!」
『ガーク、貴様もしつこい奴だ。貴様とて、一族の総意を覆そうとするのがどれほど困難なことか、分かっているだろう』
「わかってる。……だからオレは昨日集落に帰ったあと、みんなを集めてもう一度話し合いの場を設けたんだ」
さっきガークがこもれびの杜をやってきたときに、眠そうにしていた理由がわかった。きっと彼らは夜遅くまで話し合っていたのだろう。俺が一度の話し合いで、うまく事を運べなかったせいで。
「今はまだ、じいちゃんを完全に集落に戻すのは、みんな躊躇している。……だけど、一時的になら、この洞穴から出てもいいんじゃないかって、言ってくれた」
『一時的?』
「オレの気持ちに配慮してくれたんだ。……竜族の中ではオレはまだ未熟者だ。じいちゃんの後継者としては頼りない。リアズをはじめとして、オレのことをよく思っていないヤツもいる。……だから、一族の総意じゃないけど、オレを不憫に思ってくれた者たちはじいちゃんをここから出すことに賛成してくれてる」
『話にならぬ』
吐き捨てるようにアヴァリュートは言った。『泣き落としで奴らの同情を誘ったとでも? 恥ずかしいとは思わんのか』
「泣いてなどいない!」
言葉を遮るように反論した。この状況でそれだけを否定するなんて、体裁を気にしすぎだぞ、ガーク。
だけど、このままだと今日も話はなにも進展しなさそうだ。ガークが体裁を気にするのと同じくらい、俺だってメンツを気にしている。ゆっくりやろうぜと促したとはいえ、それでもなにか成果をあげなければ、竜族のみんなに啖呵をきった自分が情けなくなる。
焦りは禁物だと自分に言い聞かせる一方で、それとは真逆の感情が生まれてくるのだから、人間はめんどくさい。
「アヴァリュートさん、俺からも提案があるんだ」
果たして俺の声には耳を傾けてくれるのか。たとえ今は嫌悪感をむき出しにされていても、気づかないふりをして話をすすめる強引さも必要だ。
「こういうのはどうかな。たとえば、日中はガークと一緒に洞穴の外に出る。集落に近づかなくとも、広い森や空の上で存分に体を動かす。日光を浴びるのは体にとってもいいんすよ」
空に浮かんでいる太陽に似ている物体は、こっちの世界でも太陽と呼ぶのだろうかと疑問に思ったが、言葉が通じているところを見るに、そんなに心配はしなくてよさそうだ。
太陽の光を浴びることは、体に良いといわれている。日光浴で分泌される、セロトニンという物質が脳を刺激して、ストレスを軽減したり、自律神経を整えたり、気持ちを明るくしてくれたりする。幸せホルモンといわれているものの正体だ。日光を浴びることによって、夜の睡眠の質も上がる。あとは光のあたった皮膚がビタミンDを作りだし、それがもの忘れの改善につながるのだというから、手軽にできる良質な健康法だ。
「アヴァリュートさん、どうせ最近はろくに日光を浴びてないんでしょ。ガークはこんなに健康的に日焼けをしてるってのに」
『口の利き方には気をつけよ』
アヴァリュートは唸ったが、昨日のように感情のままに攻撃してくることはなかった。認知症の症状のひとつに、自制心が利かなくなり、感情のままに行動してしまうというものがある。おそらく昨日は、アヴァリュートのなかで自制心のねじが外れてしまっていたのだろう。一概に認知症といっても、日によってあらわれる症状が違うことなんてザラにある。
「太陽のしたでろくに動きもせず、一日中、こんな辛気くさいところで寝ていたら、アヴァリュートさん、本当にダメになっちゃうっすよ。俺のみたところ、アヴァリュートさんの症状はまだ軽い。これからいくらでも、なんとでもなります!」
ふわっと抽象的に、悲観的になることはないと伝える。何せ相手はドラゴン。人間相手でも先のことは分からないのに、ドラゴンのことなんてもっとわからない。それでも、外に出るのは、今の状態がずっと続くより、彼の生活に彩りを与えるであろうことは明白だ。
「竜族の長老ともあろうものが、俺みたいな奴に煽られても、受け流せずにぶちギレてたじゃないっすか。きっとここでずっと寝てるから、ストレスマックスなんでしょ!」
「コタロー、なぜさっきからそんなに挑発的な態度になってるんだ。またじいちゃんの攻撃を食らいたいのか?」
ガークが小声で尋ねてきたので、俺はにやりと笑ってみせた。
「いいか、ガーク。介護士が利用者さんに対しておこなう行動には、すべて根拠があるんだ」
「リヨウシャ?」
首をかしげるガーク。おっといけない、また専門用語を使ってしまった。蘇る筒原さんが俺に指摘する声。「ちょっと空野くん! あなた、介護をはじめる前、『端座位』なんて言葉、知ってたの?」
介護の現場では、医療や介護に関するいろいろな専門用語が日々飛び交っている。意味をわかっていて、職員同士で会話をするときに口にするのはいいけれど、それを家族とか、介護のことを知らない人たちに向かって使うのはやめなさいと、耳にタコができるくらい言われていた。家族に利用者さんのことを説明するときや、記録を書くときは、誰がみても意味が分かるようにしておきなさいと教えられた。
当時、俺は覚えたての言葉を早く使いたくて調子に乗っていたけれど、たしかに『端座位になっていた』なんて書いても、それまでの俺は意味がわかんなかっただろうし、ここは『ベッドの端に腰掛けていた』と書いてあったほうが、だれでもすんなりと文章が頭に入ってくるもんなと納得した。
「俺が、アヴァリュートさんに対してやってることは、ちゃんと理由があるってことだよ」
ふふんと威張りくさって俺はそう言ったが、心の中では不安だった。アヴァリュートに対しての言葉掛けは、たしかに昨日よりも強気になっている。わざとだ。アヴァリュートは態度も経歴も、威厳たっぷりの人……じゃなくてドラゴンだ。そんな彼とまともに……というか対等に渡り合うために考えた策だった。
どっかの大企業の社長であろうが、生涯真面目に企業に勤め上げたサラリーマンであろうが、路上生活を余儀なくされたホームレスであろうが、みんなみんな行く末はおなじ。人が誰かを支えるときは、互いに対等に尊重しあわなければならないと、俺は思っている。
「そうか。まあ、コタローなら、むちゃくちゃなことはしないと信じている」
ガークは静かに一歩引いた。それを皮切りに、俺はアヴァリュートさんに向き直る。
『竜族の長は何事にも動じず、常に堂々としていなければならぬ』
してなかったじゃねえかよっ!
俺は心の中で盛大にツッコミをいれる。もしかすると、長老の頭の中では、昨日の出来事が記憶から欠けているのかもしれない。
「堂々としていなきゃいけないのなら、こんな暗がりの中でこそこそ隠れてちゃだめなんじゃないっすか」
『貴様! さっきから黙ってきいていれば、儂の発言のあげ足を取るようなことばかり言いおって!』
ぐわんぐわんと、アヴァリュートの声が脳内に響く。こいつ、やっぱりすぐ感情的になるな……と分析する。それが認知症の症状なのか、元々の性格なのかはやっぱりまだ分からない。
今日も話は難航するか……と思いかけたときだった。
『ガーク』
アヴァリュートの声が穏やかになり、彼はそっと孫の名を呼んだ。
『おまえはこのロイメンを執拗にここに連れてくるが、儂にそんなに外に出てほしいのか』
「そうだよ、じいちゃん」
これは少し前進か? と、俺は身を乗り出した。
「オレ、コタローがいれば大丈夫な気がする。その……たとえじいちゃんがいつもと違うことになったとしてもちゃんとオレたちがなんとかするからさ!」
それは竜族の後継者としてではなく、完全なるアヴァリュートの孫としての、ガークの言葉だった。いつの間にかガークもその気になって、アヴァリュートの拘束を解くことを渋っていた様子は微塵も感じられない。
「ほら、お孫さんもこう言ってるんだし、受け入れてやりなよ」
これは決してアヴァリュートをけしかけているわけではない。家族が言っているから。協力してくれている事業所のスタッフも言っているから。お医者さんも言っているから。俺たちは時として、そういうふうに周りの人たちをダシにして、頑固な年寄りを説得することがある。これには一定の効果があり、それまで頑なに考えを変えなかったのに、突如として思考が柔軟になることがある。
アヴァリュートも例外ではなかった。孫にほだされて、冷静になったタイミングで一晩考えたのかもしれない。ドラゴンの寿命がどれくらいなのかは知らないが、残された時間のなかで、孫と一緒に過ごす時間を大切にしたい。それなら、こんなところに閉じこもっているよりも、外に出てガークと同じ空間で過ごすことを望む。
アヴァリュートのなかに、生きる希望が芽生えたということか。いずれも俺の願望でしかないが、できることならそうであってほしい。
「コタロー、オレたちはどうしたらいい? 集落のみんなに迷惑をかけず、じいちゃんをここから出すには……。そもそもそんな方法があるのか?」
「ガーク、アヴァリュートさん。これだけは言わせてくれ」
俺は二人(正確にいえば、一人と一匹か)の顔を順に見る。「この場所から離れると迷惑をかける、なんて思うのはやめてほしい。集落のみんなにも、俺たちにも。生きている以上、迷惑をかけるってのはお互いさまだからさ。俺たちロイメンはそういう考え方で、心がしんどくならないように生きているよ」
沈黙。ガークとアヴァリュートは互いに顔を見合わせた。なんだか歯の浮くようなキモイことを言ってしまったか? と青ざめる。
「かたじけない」と、ガークが言った。急に武士みたいなしゃべり方をするものだから、俺は少し面食らった。
「ほらじいちゃん、コタローもこう言ってくれてる。ここはじいちゃんが譲歩しないといけないよ」
『ふむう……』
アヴァリュートが唸る。鼻から息を吐いたようで、洞穴を浮遊する埃がぶわっと舞い上がった。
そろそろ答えが出そうだ。長期戦を覚悟していたが、たった一晩時間をおいただけで、考え直してくれたようだ。
竜族の長という立場なら、これまでもいろんな決断を迫られてきただろう。自分の意思とは反することであっても、一族の安寧のためならば客観的に結論を導かねばならないこともあったはずだ。ということは、周りの状況に合わせて、柔軟に思考を考えられる一面もあったに違いない。そしていまのアヴァリュートにも、その能力は残っていると捉えることができる。


