そのまま少し歩くと、突然道がなくなった。地形の影響で、進む方向は崖になっていたのだ。
「コタロー、オマエは見たところ、ここから飛び降りる気概は持ち合わせていなさそうだな」
馬鹿にされているのか、心配されているのか、真意は読み取れなかったけれど、ガークは静かにそう言った。だが、彼に言われたことはその通りだとしか言いようがなかったので、俺は素直にこくりと頷いてみせた。
「やむを得んことだ。案ずるな。ロイメンは我々と違って、体が脆いことも知っている。ここを滑落してしまえば、大怪我をするだけでは済まないだろう」
我に捕まれと、ガークは言った。
「えっ!?」
「え、ではない。なにをそんなに驚愕しているのだ。我がオマエひとり担いでここを降りられぬとでも思っているのか?」
成人の男を一人かついで、崖を飛び降りる。普通そんなことできるわけないだろうと思ったが、ガークは竜族なのだ。人間とのハーフとはいえ、彼にも竜の血が流れている。そのため俺たちと比べると、頑丈な体をしているのだろう。
「ちょっと照れくさいな」
「何を恥じることがある。オマエが飛び降りるのに失敗して、脳髄をぶちまけるほうが余程面倒で屈辱的なことだろう」
ここはおとなしくガークに従ったほうが良さそうだ。いまも風に圧されて足を踏ん張っていないと、バランスを崩して倒れてしまいそうになるのだ。最悪の想像をして身震いしながら、俺はガークの背中に身を預けることにした。
さっきぶつかった時も思ったが、ガークの体は熱を帯びていて、暖かい。竜族は体温が高いのだろうか。干したての布団のように心地よくて、油断すればこのまま眠ってしまいそうだ。
「絶対に腕を緩めるなよ」
ガークはそう言って、躊躇うことなく地面を蹴った。俺の心の準備をしている間はなかった。
「うわああああ!!!!」
ガークの背中に唾を飛ばしながら、俺は素っ頓狂な声で叫んだ。ガークの首が締まるんじゃないかと思うほどにきつく、彼の体にしがみつく。内臓がふわりと宙に浮くような感覚。それなのに体は垂直に落ちていく。時間にすればほんの数秒のことだっただろうに、俺には五分にも十分にも感じられた。
「うるさい小僧だ」
ガークは平然としている。上を見れば空が遠くなっていくし、ガークの背中越しに下を見れば、ぐんぐんと地面が近づいてくる。地面が見えているだけましか。体感何十メートルも落下した俺たちはやがて、ドーン! とけたたましい音を立てながら着地した。
ガークの体重がいくらかは知らないけれど、ギチギチに筋肉の詰まった逞しい体は、おそらく俺よりも重いはずだ。それに俺の体重も加わって、ガークが着地した地点は、彼の足の形に沈み込んでいた。接地したときの衝撃は相殺できなかったようで、俺の腕がびりびりと大きく痺れて、やがて全身へと伝わっていった。
(ぐおおおおおおっ……)
俺は心の中で苦悶の叫びをあげる。それを声に出してしまえば、着地の衝撃程度で体にダメージを負ったことがばれて、恥ずかしいからだ。
全身の痺れは脳天を突き抜けて、体の中を往復する。俺はガークにしがみついたまま、ぎゅっと目を閉じて衝撃を堪えていた。
「どうした、コタロー」
もろに衝撃を喰らったはずのガークは、平然としている。彼にとっては、まるでちょっとした段差からぴょんと飛び降りた後のような感覚なのだろう。
「おまえ、なかなか凄えな……」
「この程度、何ということはない」
言ってみてえ! そのセリフ、平然と言ってみてえ!
まだドキドキしている心臓の鼓動を感じながら、俺はガークから離れて地面に立った。膝が震えている。
深呼吸をする。土の匂いが鼻腔をくすぐり、風に乗って消えていく。俺とガークが降り立ったのは、崖の中腹にある出っ張りだった。柵などで保護はされていないが、足場はしっかりとしていて、そう簡単には崩れそうもないことは救いだった。
後ろを振り返ると、崖の岩肌を削るようにして、空洞ができていた。中は暗く、奥は見えない。岩に染み込んだ雨水がちょろちょろと滲み出ており、地面は少し湿っていた。
「この洞穴の奥に、長老がいる」
そりゃあそうだろうと、俺は頷いた。ここまで降りてきていて、何も関係がないわけがないのだから。
「俺のあとについてくれ」
ガークはそう言って洞穴の中に足を踏み入れた。裸足の足でいろんなところを歩くのは、いくら体の作りが俺たちと違うとは言っても、ほんとうに痛くないのだろうか。
洞穴の奥に進むにつれて、暗闇はどんどん深まっていく。暗闇に順応していない俺の視野は狭まり、ほとんどガークにしがみつくようにして歩く羽目になった。
足元がぬかるんでいて、スニーカーに泥が跳ねている。日差しのない空間は、外と比べると随分ひんやりとしていた。
ガークはここに来慣れているのだろう。迷うことなく歩を進めている。入口から差し込んでいた光は、ついに見えなくなった。
「ここは昔、戦争で捕まえた捕虜を閉じ込めておくために使っていた場所でもある。オマエが思っているよりも広いだろう」
「そうだな」
てっきり、崖の途中に洞穴がちょこんとあって、長老はそこに身を潜めているのだと想像していた。実際は岩場に洞窟があって、見た目以上に地下の空間ができていた。これはもしかすると、竜族の集落があった場所まで延びているんじゃないだろうかと推察した。それをガークに言うと、一笑された。
「ならば我々がわざわざ遠回りをして崖を下らなくとも、集落の一角に入口を作ればよかろう」
長老の身柄は集落から遠ざけておく必要があるのだと、ガークは言った。
暗い通路を歩き続けると、やがて急に視界がひらけて、鍾乳洞のような空間が目の前に広がった。ぴちゃんぴちゃん。水が滴り落ちる音が聞こえてくる。おそらくは岩肌から滲み出たそれが地面に落ち、水溜まりを形成しているのだろう。
光が遮断された空間だというのに、ガークはまるで周りが鮮明に見えているかのようにキビキビと動いていた。俺はガークの元から離れたとしたら、たちまち迷子になってしまうだろう。
その時だった。視界の前方から、グルルルという唸り声が聞こえてきた。
「長老だ」
俺が僅かに慄いたのを感じたのか、ガークはそう言った。
暗闇に目が慣れてきたのか、ようやく俺にも周りの様子がぼんやりと見えてきた。基本的には、灰色の岩に埋め尽くされているが、よく観察すると岩陰などには僅かに雑草が生えている。さらに、所々に苔むした岩があった。
長老はその岩陰に造られた鉄格子の向こうに、巨体を横たえていた。体高は俺の身長と同じくらい。寝ている状態でそうなのだから、起き上がればもっと大きいだろう。頭から尻尾の先まではガークの身長の三倍くらい。なるほど、この竜があの集落で闇雲に暴れれば、被害は尋常ではないだろう。
長老はトカゲのような頭をしていて、俺のイメージ通りの竜そのものの姿だった。外殻は灰色でゴツゴツしている。随分と硬そうな鱗で覆われているなと、俺は思った。表面は乾燥しているようで、無数の皺が刻まれていた。
長老は俺たちを一瞥したかと思うと、すぐに興味をなくしたように目をつぶってしまった。どうやら、あまり歓迎されていないようだ。
俺はガークの後に続き、鉄格子の近くまで歩み寄った。ガークは長老の岩に片手を置き、もう一方の手で俺の方を指さしながら、何事かを長老に向かって喋った。すると、長老はゆっくりと瞼を上げ、俺とガークの顔を順々に見た。
どうやら俺を品定めしているらしい。しばらくすると、長老は頭を持ち上げた。そして、もたげた頭を地面に近づけると、また目を閉じた。
「大丈夫なのか?」
長老の姿をみとめた途端に漂い始めた緊張感に怖気付いて、俺は思わずガークに口走っていた。
「案ずるな。今の長老は落ち着いている。オマエが灰燼となることはないだろう」
「まあ、それはわかったよ。でも俺をこんなところに連れてきて、ガークは何がしたいんだよ」
「オマエが戯言ばかり言うから、長老の口からはっきりと、現状を受け入れているということを示してもらう。そして……」
ガークは言葉を切って呼吸をした。
「オマエたちがどこから来たのかは知らないが、行くあても戻る手立てもない今は、森に生えてきたあの奇妙な建物で過ごすことになるのだろう。あの一帯は我々の縄張りだ。故に、オマエたちが安全に滞在できるように、長老と顔を合わせる必要があったのだ」
思うことはあったが、今はガークの言葉に従うのが得策だ。話が拗れるのは、その後でもいい。ガークが言い終えたのと同時に、俺の握り拳ほどの大きさの長老の目が、ゆっくりと開いた。
『童』
聞き慣れていない言葉に、俺は一瞬、自分が呼ばれているのだとは分からなかった。脳内に直接言葉が流れ込んでくる感覚だった。長老はこちらに向けた片方の目で俺の全身をとらえているようだ。わっぱ……。木でできたあの弁当箱のことだろうか。長老は腹が減っているのだろうか……と、本気で思った。
『何を惚けている。貴様も頭が耄碌しているのか?』
そう言われてやっと、長老の言葉の矛先が俺に向けられていることに気づいた。
「え? 俺?」
『貴様以外に、誰がいるというのだ』
長老の表情は変わらないが、嘲笑われたような気がした。
『ロイメンがここに何の用だ』
俺は再び、ガークに話したことと同じ内容を説明する羽目になった。流石に二度目ともなると、要領を得ていて、ほとんど言葉に詰まることなく話せた。俺たちがこのままべリュージオンで暮らし続けるとしたら、あと何回同じ話を口に出すことになるのだろう。
長老は俺が話しているあいだ、また目を閉じて声を聞いていた。その姿に、ばあちゃんを重ねてしまう。ばあちゃんも俺の話を聞くとき、よく目を閉じて頷いている。俺の話が理解できなくて聞いているふりをしているのかと思っていたが、そんなことはないとすぐにわかった。ばあちゃんが目を閉じているのは、集中して俺の話を聞いてくれていたからだ。
「コタロウくん、ばあちゃんみたいな年寄りになるとねえ、いろんな物事が周りにあると気が散っちゃって疲れちゃうもんなんだよ。だから、こうして目を閉じて、コタロウくんの声だけに集中するの。そうすると、すーっとあなたの言葉も頭に入ってくるのよ」
俺がまだ幼い頃、ばあちゃんはそう言っていた。確かに昔と比べて色々なものが豊かになたいま、五感を通して入ってくる情報量は凄まじい。俺だって時にはクラクラと目眩がしてきそうになるほどだ。若い頃と比べて、歳を取れば取るほど、脳のはたらきもゆっくりになってくる。そうなれば、ひとつのことに集中しないと、人の話もろくに聞けなくなりそうだ。
『我々の領地に突如現れた奇妙な石造りの建物か。……ガーク、この者共が、我々に危害を加えぬと断言できるのか』
長老がガークに向かって放った言葉は、俺の脳内にも流れ込んできた。とすると、俺との会話もガークは承知しているということか。
「おそらくは大丈夫かと。仮にこの者が我らに牙を向けたとしても、我が鎮圧する自信はあります」
「そんなことしねえよ」
俺は思わず口を挟んでしまった。言うなれば俺たちは土地を借りて住まわせてもらう立場。感謝こそすれど、ヴェリザを侵略する考えも力もない。
『童』
長老に再び呼ばれた。
『ガークから聞いたが、貴様は儂のとった選択に懸念を抱いているようだな』
自らここに幽閉されるのを望んだことを言っているのだ。だが、俺にそう聞いてくるということは、心のどこかでは自分がとった選択に疑問を抱いているのではないか。
「長老さん」名前を聞いていないので、そう呼ぶしかない。「あなたは時々、自分の記憶を無くしてしまったり、他の人たちとは違う世界を見ちゃっていたりするんですよね」
長老の目が開いた。
『左様。自分でもよく分からないのだが、そうなってしまうと、儂は途端に自我を失ってしまうようだ。散々、同族の者に迷惑をかけているというのに、我に返ったとしても、そのことを忘れるのだぞ。貴様には儂の歯痒い想いなど分からぬだろう』
分かるよ、とは言えなかった。俺はこの職に就いてから、何人もの認知症の年寄りに出会ってきたけれど、いまだに当事者が抱く苦しみや無念なんて分からない。きっとそれが分かるのは、自分も同じ立場に立ったときだ。
「長老さんの気持ちは、ごめん、分からない。でも、介護士の端くれとして、言わせてもらいたいことはあります」
俺は言葉を切ってガークを見た。彼はじっと俺と長老のやり取りを聞いている。
「長老さんが抱えている症状によく似たものと日々向き合っている人たちを、俺は今までに何人も見てきました。その経験をもとに助言をさせてもらうと、このままあなたがずっとここにいるのは良くない。状況はもっと悪くなっていく一方です」
認知症の年寄りは何をするか分からないから。勝手に外に出て、自分がどこにいるのか分からなくなって戻ってこられなくなるから。一人にしておくと家の中を徘徊して、しまい込んでいるものを全て出して散らかしてしまうから。そういう理由で認知症の人たちの行動を制限してしまうこともある。
『儂は皆に迷惑をかけぬよう、自衛しているのだ。それの何が悪い』
「長老さんは竜族だから、俺たちとは違うのかもしれないけど、人げ……ロイメンの場合、ボケちゃった人を閉じ込めちゃうと、余計に状態が悪くなるんです。ガークから話を聞いた様子だと、俺たちロイメンと長老さんの症状はよく似ているから、きっと対応方法も同じだと思います」
長老は鼻から大きく息を吐いた。それだけで周りの砂塵が舞い上がる。俺が着ているシャツも、ひらひらとはためいた。
『では、貴様ならどうする』
「それを考えて、年寄りの生活を支えるのが俺の仕事っす。……こういうことは早急に結論を出すんじゃなくて、ゆっくりと時間をかけて考えていくのがテッパンっすよ」
長老はそのとき初めて頭を上げた。俺の話にようやく興味が湧いたのだろうか。
「長老さんが、竜族のみんなに迷惑をかけたくないって気持ちはよくわかります。俺たちだってできれば、自分の不甲斐ない行動で他人に迷惑をかけずに生きていきたい。……若者も年寄りも、それは同じなんです。だけど俺たちが生きている以上、誰にも迷惑をかけずに過ごすってのは、不可能に近いです。だからどうせ迷惑をかけるなら、みんなにその『迷惑』に慣れてもらったほうがいいと、俺は思うっすよ」
「あ……」
ガークが言葉を落とした。俺と長老の視線が、彼に向く。
ガークは指先をわきわきと動かしながら、思いを紡ぐための言葉を探しているようだった。いや、きっと彼の中で言葉は見つかっている。それを口にするのを躊躇っているのだ。人は自分の立場を慮って、湧き出た感情に蓋をしようとすることがある。ガークのいまの状況は、おそらくそれと一緒だ。
「ガーク、言いたいことは言っておいたほうがいい。ここにはお前のじいちゃんと俺以外、誰もいないからさ」
助け舟を出す。ガークは長老のたった一人の孫として、いまはその座を継承するために生きている。ガークがこれまで俺に見せていた言動は、その立場を示すために、そして後継者としてしっかりしなければならないと自分に言い聞かせるために、敢えて荘厳な言葉遣いをしていたのだろう。
ガークは困ったように眉を潜め、ごくりと唾を飲み込んだ。俺と目が合い、その表情に緊張がはしる。大丈夫だぞ、ガーク。そう言って、俺は頷いてみせる。
「……オレはじいちゃんと、もっと一緒に過ごしたい」
長い沈黙のあと、喉から絞り出すような声でガークはそう言った。自分の中から竜族の長老の後継者という立場を剥いで、彼が紡いだ本音だった。
長老は目を丸くした。目は口ほどに物を言うという諺があるが、俺は長老の感情を目の動きだけでしか推しはかることが出来ない。それでもガークの言葉を聞いた彼の心が非常に揺れ動いたのを、目の当たりにしたような気がした。
「嫌なんだよ、じいちゃん。……オレたちで決めたことなんだけどさあ。じいちゃんが独りぼっちでずっとここに閉じ込められてるって考えたら、夜も眠れないんだ。今、どうしてるかな、寂しくないかな、またじいちゃんが混乱して困っていないかなって考えると、風の音がしただけで心がギュッと痛くなるんだ。ああ、なんでオレたちはこんな結論を出しちゃったんだろうって、毎日毎日悔やんでた。でも他に方法も思いつかないし、オレがころころと考えを変えたら、一族に示しがつかないし……。オレ、馬鹿だからさ、どうすればいいか分からなかったんだ……」
ガークの本音は、決壊したダムの水のようにどんどんと溢れ出てきた。肩書きが見え隠れしていない正直な言葉は、どんな刃物よりも深く、聞いた者の心に突き刺さるものだ。
『我儘を言うな、ガーク。貴様の一存のみで、一族がひとたび決めたことを覆すことはできない。それはわかっているだろう』
「一存じゃなかったらいいのか?」
ガークに助け舟を出す。ガークは今まで俺の存在を認知していなかったかのようにびくりと肩を震わせた。
「ガークの一存じゃなくって、一族の総意だったなら、この状況を覆せるってことでいいんだよな?」
長老は肯定も否定もしなかった。歳をとると頑固になるというのは人間も竜も同じのようだ。
『儂の頭がおかしくなることによって、今までどれだけ一族に迷惑をかけたと思っている』
やはりそこに引っ掛かりを感じているようだ。これまで一族の長として責任を持って生きて来たのに、自分がおかしくなったせいで、その立場や威厳すらも今は危ぶまれている。おそらく今こうして俺たちと会話できているのは、すこぶる調子がいいからであって、病気の程度によっては、あとになって俺たちと会ったことすら忘れてしまっているかもしれない。そんなふうには見えないが。
ただ、そんなふうに見えないのは、人間のじいちゃんばあちゃんも同じだ。その場ではちゃんと俺たちと会話が成立するし、洗濯物畳みひとつとっても、俺なんかよりもよっぽど手際がいいから、「この人は本当に認知症なのだろうか」と疑問に思うことも多々ある。彼らと長く関われば、いろいろな弊害が出てくるのは事実なのだけれど、いっときの関わりであれば、多分、認知症だと言われなければ気が付かないだろう。
「ガーク、おまえの気持ちはよく分かった。……きっと悪いようにはしないからさ、今回の件は、俺たちにも協力させてくれないか? 介護のスペシャリストとして、役に立って見せるから」
ガークは俺が介護士だと知って、興味を持って俺をここに連れてきたのだということは、もはや明確だ。俺も自分が役に立てるのなら、彼らの問題を解決するために尽力したいと思っている。
「いいのか、コタロー」
ガークが問うてきた。俺よりも長い年月を生きてきたはずなのに、今の彼は見た目どおり、年端もいかぬ少年のようにしか見えない。切れ長の目を丸くして、涙まで浮かべている始末だ。それだけ、彼は自分の祖父を大切に思っているのだろう。
「勿論だ。その代わり、おまえたちの領地に俺の職場が建っていること、許してくれよ」
ガークは長老を見る。長老は顎を地面につけて、再び目を閉じていた。どれほどの年月を、長老が生きてきたのかは知らないが、何事にも動じなさそうなこの竜にも分からないことはある。それは明日の自分がどうなっているのかということ。たとえ今日生まれた赤子であっても、幾千もの日々を渡り歩いてきた老人であっても、『現在』を超えた先にいる自分の姿なんて分からないのだ。
自分が死ぬときまでこの洞穴に幽閉されることを望んだ老竜は、昨日までは見えていなかった未来に歩み出そうとしている。彼はいま、心に芽生えた一抹の希望をじっと噛み締めているのかもしれない。
「コタロー、オマエは見たところ、ここから飛び降りる気概は持ち合わせていなさそうだな」
馬鹿にされているのか、心配されているのか、真意は読み取れなかったけれど、ガークは静かにそう言った。だが、彼に言われたことはその通りだとしか言いようがなかったので、俺は素直にこくりと頷いてみせた。
「やむを得んことだ。案ずるな。ロイメンは我々と違って、体が脆いことも知っている。ここを滑落してしまえば、大怪我をするだけでは済まないだろう」
我に捕まれと、ガークは言った。
「えっ!?」
「え、ではない。なにをそんなに驚愕しているのだ。我がオマエひとり担いでここを降りられぬとでも思っているのか?」
成人の男を一人かついで、崖を飛び降りる。普通そんなことできるわけないだろうと思ったが、ガークは竜族なのだ。人間とのハーフとはいえ、彼にも竜の血が流れている。そのため俺たちと比べると、頑丈な体をしているのだろう。
「ちょっと照れくさいな」
「何を恥じることがある。オマエが飛び降りるのに失敗して、脳髄をぶちまけるほうが余程面倒で屈辱的なことだろう」
ここはおとなしくガークに従ったほうが良さそうだ。いまも風に圧されて足を踏ん張っていないと、バランスを崩して倒れてしまいそうになるのだ。最悪の想像をして身震いしながら、俺はガークの背中に身を預けることにした。
さっきぶつかった時も思ったが、ガークの体は熱を帯びていて、暖かい。竜族は体温が高いのだろうか。干したての布団のように心地よくて、油断すればこのまま眠ってしまいそうだ。
「絶対に腕を緩めるなよ」
ガークはそう言って、躊躇うことなく地面を蹴った。俺の心の準備をしている間はなかった。
「うわああああ!!!!」
ガークの背中に唾を飛ばしながら、俺は素っ頓狂な声で叫んだ。ガークの首が締まるんじゃないかと思うほどにきつく、彼の体にしがみつく。内臓がふわりと宙に浮くような感覚。それなのに体は垂直に落ちていく。時間にすればほんの数秒のことだっただろうに、俺には五分にも十分にも感じられた。
「うるさい小僧だ」
ガークは平然としている。上を見れば空が遠くなっていくし、ガークの背中越しに下を見れば、ぐんぐんと地面が近づいてくる。地面が見えているだけましか。体感何十メートルも落下した俺たちはやがて、ドーン! とけたたましい音を立てながら着地した。
ガークの体重がいくらかは知らないけれど、ギチギチに筋肉の詰まった逞しい体は、おそらく俺よりも重いはずだ。それに俺の体重も加わって、ガークが着地した地点は、彼の足の形に沈み込んでいた。接地したときの衝撃は相殺できなかったようで、俺の腕がびりびりと大きく痺れて、やがて全身へと伝わっていった。
(ぐおおおおおおっ……)
俺は心の中で苦悶の叫びをあげる。それを声に出してしまえば、着地の衝撃程度で体にダメージを負ったことがばれて、恥ずかしいからだ。
全身の痺れは脳天を突き抜けて、体の中を往復する。俺はガークにしがみついたまま、ぎゅっと目を閉じて衝撃を堪えていた。
「どうした、コタロー」
もろに衝撃を喰らったはずのガークは、平然としている。彼にとっては、まるでちょっとした段差からぴょんと飛び降りた後のような感覚なのだろう。
「おまえ、なかなか凄えな……」
「この程度、何ということはない」
言ってみてえ! そのセリフ、平然と言ってみてえ!
まだドキドキしている心臓の鼓動を感じながら、俺はガークから離れて地面に立った。膝が震えている。
深呼吸をする。土の匂いが鼻腔をくすぐり、風に乗って消えていく。俺とガークが降り立ったのは、崖の中腹にある出っ張りだった。柵などで保護はされていないが、足場はしっかりとしていて、そう簡単には崩れそうもないことは救いだった。
後ろを振り返ると、崖の岩肌を削るようにして、空洞ができていた。中は暗く、奥は見えない。岩に染み込んだ雨水がちょろちょろと滲み出ており、地面は少し湿っていた。
「この洞穴の奥に、長老がいる」
そりゃあそうだろうと、俺は頷いた。ここまで降りてきていて、何も関係がないわけがないのだから。
「俺のあとについてくれ」
ガークはそう言って洞穴の中に足を踏み入れた。裸足の足でいろんなところを歩くのは、いくら体の作りが俺たちと違うとは言っても、ほんとうに痛くないのだろうか。
洞穴の奥に進むにつれて、暗闇はどんどん深まっていく。暗闇に順応していない俺の視野は狭まり、ほとんどガークにしがみつくようにして歩く羽目になった。
足元がぬかるんでいて、スニーカーに泥が跳ねている。日差しのない空間は、外と比べると随分ひんやりとしていた。
ガークはここに来慣れているのだろう。迷うことなく歩を進めている。入口から差し込んでいた光は、ついに見えなくなった。
「ここは昔、戦争で捕まえた捕虜を閉じ込めておくために使っていた場所でもある。オマエが思っているよりも広いだろう」
「そうだな」
てっきり、崖の途中に洞穴がちょこんとあって、長老はそこに身を潜めているのだと想像していた。実際は岩場に洞窟があって、見た目以上に地下の空間ができていた。これはもしかすると、竜族の集落があった場所まで延びているんじゃないだろうかと推察した。それをガークに言うと、一笑された。
「ならば我々がわざわざ遠回りをして崖を下らなくとも、集落の一角に入口を作ればよかろう」
長老の身柄は集落から遠ざけておく必要があるのだと、ガークは言った。
暗い通路を歩き続けると、やがて急に視界がひらけて、鍾乳洞のような空間が目の前に広がった。ぴちゃんぴちゃん。水が滴り落ちる音が聞こえてくる。おそらくは岩肌から滲み出たそれが地面に落ち、水溜まりを形成しているのだろう。
光が遮断された空間だというのに、ガークはまるで周りが鮮明に見えているかのようにキビキビと動いていた。俺はガークの元から離れたとしたら、たちまち迷子になってしまうだろう。
その時だった。視界の前方から、グルルルという唸り声が聞こえてきた。
「長老だ」
俺が僅かに慄いたのを感じたのか、ガークはそう言った。
暗闇に目が慣れてきたのか、ようやく俺にも周りの様子がぼんやりと見えてきた。基本的には、灰色の岩に埋め尽くされているが、よく観察すると岩陰などには僅かに雑草が生えている。さらに、所々に苔むした岩があった。
長老はその岩陰に造られた鉄格子の向こうに、巨体を横たえていた。体高は俺の身長と同じくらい。寝ている状態でそうなのだから、起き上がればもっと大きいだろう。頭から尻尾の先まではガークの身長の三倍くらい。なるほど、この竜があの集落で闇雲に暴れれば、被害は尋常ではないだろう。
長老はトカゲのような頭をしていて、俺のイメージ通りの竜そのものの姿だった。外殻は灰色でゴツゴツしている。随分と硬そうな鱗で覆われているなと、俺は思った。表面は乾燥しているようで、無数の皺が刻まれていた。
長老は俺たちを一瞥したかと思うと、すぐに興味をなくしたように目をつぶってしまった。どうやら、あまり歓迎されていないようだ。
俺はガークの後に続き、鉄格子の近くまで歩み寄った。ガークは長老の岩に片手を置き、もう一方の手で俺の方を指さしながら、何事かを長老に向かって喋った。すると、長老はゆっくりと瞼を上げ、俺とガークの顔を順々に見た。
どうやら俺を品定めしているらしい。しばらくすると、長老は頭を持ち上げた。そして、もたげた頭を地面に近づけると、また目を閉じた。
「大丈夫なのか?」
長老の姿をみとめた途端に漂い始めた緊張感に怖気付いて、俺は思わずガークに口走っていた。
「案ずるな。今の長老は落ち着いている。オマエが灰燼となることはないだろう」
「まあ、それはわかったよ。でも俺をこんなところに連れてきて、ガークは何がしたいんだよ」
「オマエが戯言ばかり言うから、長老の口からはっきりと、現状を受け入れているということを示してもらう。そして……」
ガークは言葉を切って呼吸をした。
「オマエたちがどこから来たのかは知らないが、行くあても戻る手立てもない今は、森に生えてきたあの奇妙な建物で過ごすことになるのだろう。あの一帯は我々の縄張りだ。故に、オマエたちが安全に滞在できるように、長老と顔を合わせる必要があったのだ」
思うことはあったが、今はガークの言葉に従うのが得策だ。話が拗れるのは、その後でもいい。ガークが言い終えたのと同時に、俺の握り拳ほどの大きさの長老の目が、ゆっくりと開いた。
『童』
聞き慣れていない言葉に、俺は一瞬、自分が呼ばれているのだとは分からなかった。脳内に直接言葉が流れ込んでくる感覚だった。長老はこちらに向けた片方の目で俺の全身をとらえているようだ。わっぱ……。木でできたあの弁当箱のことだろうか。長老は腹が減っているのだろうか……と、本気で思った。
『何を惚けている。貴様も頭が耄碌しているのか?』
そう言われてやっと、長老の言葉の矛先が俺に向けられていることに気づいた。
「え? 俺?」
『貴様以外に、誰がいるというのだ』
長老の表情は変わらないが、嘲笑われたような気がした。
『ロイメンがここに何の用だ』
俺は再び、ガークに話したことと同じ内容を説明する羽目になった。流石に二度目ともなると、要領を得ていて、ほとんど言葉に詰まることなく話せた。俺たちがこのままべリュージオンで暮らし続けるとしたら、あと何回同じ話を口に出すことになるのだろう。
長老は俺が話しているあいだ、また目を閉じて声を聞いていた。その姿に、ばあちゃんを重ねてしまう。ばあちゃんも俺の話を聞くとき、よく目を閉じて頷いている。俺の話が理解できなくて聞いているふりをしているのかと思っていたが、そんなことはないとすぐにわかった。ばあちゃんが目を閉じているのは、集中して俺の話を聞いてくれていたからだ。
「コタロウくん、ばあちゃんみたいな年寄りになるとねえ、いろんな物事が周りにあると気が散っちゃって疲れちゃうもんなんだよ。だから、こうして目を閉じて、コタロウくんの声だけに集中するの。そうすると、すーっとあなたの言葉も頭に入ってくるのよ」
俺がまだ幼い頃、ばあちゃんはそう言っていた。確かに昔と比べて色々なものが豊かになたいま、五感を通して入ってくる情報量は凄まじい。俺だって時にはクラクラと目眩がしてきそうになるほどだ。若い頃と比べて、歳を取れば取るほど、脳のはたらきもゆっくりになってくる。そうなれば、ひとつのことに集中しないと、人の話もろくに聞けなくなりそうだ。
『我々の領地に突如現れた奇妙な石造りの建物か。……ガーク、この者共が、我々に危害を加えぬと断言できるのか』
長老がガークに向かって放った言葉は、俺の脳内にも流れ込んできた。とすると、俺との会話もガークは承知しているということか。
「おそらくは大丈夫かと。仮にこの者が我らに牙を向けたとしても、我が鎮圧する自信はあります」
「そんなことしねえよ」
俺は思わず口を挟んでしまった。言うなれば俺たちは土地を借りて住まわせてもらう立場。感謝こそすれど、ヴェリザを侵略する考えも力もない。
『童』
長老に再び呼ばれた。
『ガークから聞いたが、貴様は儂のとった選択に懸念を抱いているようだな』
自らここに幽閉されるのを望んだことを言っているのだ。だが、俺にそう聞いてくるということは、心のどこかでは自分がとった選択に疑問を抱いているのではないか。
「長老さん」名前を聞いていないので、そう呼ぶしかない。「あなたは時々、自分の記憶を無くしてしまったり、他の人たちとは違う世界を見ちゃっていたりするんですよね」
長老の目が開いた。
『左様。自分でもよく分からないのだが、そうなってしまうと、儂は途端に自我を失ってしまうようだ。散々、同族の者に迷惑をかけているというのに、我に返ったとしても、そのことを忘れるのだぞ。貴様には儂の歯痒い想いなど分からぬだろう』
分かるよ、とは言えなかった。俺はこの職に就いてから、何人もの認知症の年寄りに出会ってきたけれど、いまだに当事者が抱く苦しみや無念なんて分からない。きっとそれが分かるのは、自分も同じ立場に立ったときだ。
「長老さんの気持ちは、ごめん、分からない。でも、介護士の端くれとして、言わせてもらいたいことはあります」
俺は言葉を切ってガークを見た。彼はじっと俺と長老のやり取りを聞いている。
「長老さんが抱えている症状によく似たものと日々向き合っている人たちを、俺は今までに何人も見てきました。その経験をもとに助言をさせてもらうと、このままあなたがずっとここにいるのは良くない。状況はもっと悪くなっていく一方です」
認知症の年寄りは何をするか分からないから。勝手に外に出て、自分がどこにいるのか分からなくなって戻ってこられなくなるから。一人にしておくと家の中を徘徊して、しまい込んでいるものを全て出して散らかしてしまうから。そういう理由で認知症の人たちの行動を制限してしまうこともある。
『儂は皆に迷惑をかけぬよう、自衛しているのだ。それの何が悪い』
「長老さんは竜族だから、俺たちとは違うのかもしれないけど、人げ……ロイメンの場合、ボケちゃった人を閉じ込めちゃうと、余計に状態が悪くなるんです。ガークから話を聞いた様子だと、俺たちロイメンと長老さんの症状はよく似ているから、きっと対応方法も同じだと思います」
長老は鼻から大きく息を吐いた。それだけで周りの砂塵が舞い上がる。俺が着ているシャツも、ひらひらとはためいた。
『では、貴様ならどうする』
「それを考えて、年寄りの生活を支えるのが俺の仕事っす。……こういうことは早急に結論を出すんじゃなくて、ゆっくりと時間をかけて考えていくのがテッパンっすよ」
長老はそのとき初めて頭を上げた。俺の話にようやく興味が湧いたのだろうか。
「長老さんが、竜族のみんなに迷惑をかけたくないって気持ちはよくわかります。俺たちだってできれば、自分の不甲斐ない行動で他人に迷惑をかけずに生きていきたい。……若者も年寄りも、それは同じなんです。だけど俺たちが生きている以上、誰にも迷惑をかけずに過ごすってのは、不可能に近いです。だからどうせ迷惑をかけるなら、みんなにその『迷惑』に慣れてもらったほうがいいと、俺は思うっすよ」
「あ……」
ガークが言葉を落とした。俺と長老の視線が、彼に向く。
ガークは指先をわきわきと動かしながら、思いを紡ぐための言葉を探しているようだった。いや、きっと彼の中で言葉は見つかっている。それを口にするのを躊躇っているのだ。人は自分の立場を慮って、湧き出た感情に蓋をしようとすることがある。ガークのいまの状況は、おそらくそれと一緒だ。
「ガーク、言いたいことは言っておいたほうがいい。ここにはお前のじいちゃんと俺以外、誰もいないからさ」
助け舟を出す。ガークは長老のたった一人の孫として、いまはその座を継承するために生きている。ガークがこれまで俺に見せていた言動は、その立場を示すために、そして後継者としてしっかりしなければならないと自分に言い聞かせるために、敢えて荘厳な言葉遣いをしていたのだろう。
ガークは困ったように眉を潜め、ごくりと唾を飲み込んだ。俺と目が合い、その表情に緊張がはしる。大丈夫だぞ、ガーク。そう言って、俺は頷いてみせる。
「……オレはじいちゃんと、もっと一緒に過ごしたい」
長い沈黙のあと、喉から絞り出すような声でガークはそう言った。自分の中から竜族の長老の後継者という立場を剥いで、彼が紡いだ本音だった。
長老は目を丸くした。目は口ほどに物を言うという諺があるが、俺は長老の感情を目の動きだけでしか推しはかることが出来ない。それでもガークの言葉を聞いた彼の心が非常に揺れ動いたのを、目の当たりにしたような気がした。
「嫌なんだよ、じいちゃん。……オレたちで決めたことなんだけどさあ。じいちゃんが独りぼっちでずっとここに閉じ込められてるって考えたら、夜も眠れないんだ。今、どうしてるかな、寂しくないかな、またじいちゃんが混乱して困っていないかなって考えると、風の音がしただけで心がギュッと痛くなるんだ。ああ、なんでオレたちはこんな結論を出しちゃったんだろうって、毎日毎日悔やんでた。でも他に方法も思いつかないし、オレがころころと考えを変えたら、一族に示しがつかないし……。オレ、馬鹿だからさ、どうすればいいか分からなかったんだ……」
ガークの本音は、決壊したダムの水のようにどんどんと溢れ出てきた。肩書きが見え隠れしていない正直な言葉は、どんな刃物よりも深く、聞いた者の心に突き刺さるものだ。
『我儘を言うな、ガーク。貴様の一存のみで、一族がひとたび決めたことを覆すことはできない。それはわかっているだろう』
「一存じゃなかったらいいのか?」
ガークに助け舟を出す。ガークは今まで俺の存在を認知していなかったかのようにびくりと肩を震わせた。
「ガークの一存じゃなくって、一族の総意だったなら、この状況を覆せるってことでいいんだよな?」
長老は肯定も否定もしなかった。歳をとると頑固になるというのは人間も竜も同じのようだ。
『儂の頭がおかしくなることによって、今までどれだけ一族に迷惑をかけたと思っている』
やはりそこに引っ掛かりを感じているようだ。これまで一族の長として責任を持って生きて来たのに、自分がおかしくなったせいで、その立場や威厳すらも今は危ぶまれている。おそらく今こうして俺たちと会話できているのは、すこぶる調子がいいからであって、病気の程度によっては、あとになって俺たちと会ったことすら忘れてしまっているかもしれない。そんなふうには見えないが。
ただ、そんなふうに見えないのは、人間のじいちゃんばあちゃんも同じだ。その場ではちゃんと俺たちと会話が成立するし、洗濯物畳みひとつとっても、俺なんかよりもよっぽど手際がいいから、「この人は本当に認知症なのだろうか」と疑問に思うことも多々ある。彼らと長く関われば、いろいろな弊害が出てくるのは事実なのだけれど、いっときの関わりであれば、多分、認知症だと言われなければ気が付かないだろう。
「ガーク、おまえの気持ちはよく分かった。……きっと悪いようにはしないからさ、今回の件は、俺たちにも協力させてくれないか? 介護のスペシャリストとして、役に立って見せるから」
ガークは俺が介護士だと知って、興味を持って俺をここに連れてきたのだということは、もはや明確だ。俺も自分が役に立てるのなら、彼らの問題を解決するために尽力したいと思っている。
「いいのか、コタロー」
ガークが問うてきた。俺よりも長い年月を生きてきたはずなのに、今の彼は見た目どおり、年端もいかぬ少年のようにしか見えない。切れ長の目を丸くして、涙まで浮かべている始末だ。それだけ、彼は自分の祖父を大切に思っているのだろう。
「勿論だ。その代わり、おまえたちの領地に俺の職場が建っていること、許してくれよ」
ガークは長老を見る。長老は顎を地面につけて、再び目を閉じていた。どれほどの年月を、長老が生きてきたのかは知らないが、何事にも動じなさそうなこの竜にも分からないことはある。それは明日の自分がどうなっているのかということ。たとえ今日生まれた赤子であっても、幾千もの日々を渡り歩いてきた老人であっても、『現在』を超えた先にいる自分の姿なんて分からないのだ。
自分が死ぬときまでこの洞穴に幽閉されることを望んだ老竜は、昨日までは見えていなかった未来に歩み出そうとしている。彼はいま、心に芽生えた一抹の希望をじっと噛み締めているのかもしれない。


