ガークのあとについて、俺は集落を離れた。
「おいおいどこに行くんだよ」
 てっきり集落にあるどこかの建物に長老がいて、そこに案内されるのかと思っていたが、違うようだった。
「長老のもとへ行く。いまは集落とは違う場所にいらっしゃるからな」
 どこに行くのかと思えば、俺がさっき歩いてきた道を戻っていっているようだった。
「ガーク、おまえ、裸足でこんなところを歩いて、痛くないのか?」
 俺の問いかけに、ガークは何を言っているんだと言いたげに、訝しげな表情でこちらを見てきた。
「我ら竜族は、オマエのような履き物は履かない。生まれてから死ぬまで、ずっとこのままだ」
 こいつは元来、親切な性格なのかもしれない。どうでもいいような俺の問いかけにも、きちんと答えてくれる。
「うわっぷ!」
 余所見をしていたから、ガークが急に立ち止まったことに気付くのが遅れて、彼の背中にまともにぶつかってしまった。剥き出しの皮膚は、ほんのり熱い。
「なんだあれは……」
 ガークの呟きが聞こえた。俺を庇うようにして、すぐに戦えるように構えている。そんな所作からも、彼の優しさが感じ取られた。
 敵の襲撃かと思って、俺はガークの背中越しに前方を確認した。ガークが身構えた理由がわかって胸を撫で下ろす。俺たちの前方には、「こもれびの杜」の建物があるだけだった。
 不釣り合いだ。誰がどう見ても、俺の職場は周りの景色に馴染んでいない。ガークからすれば、見たこともない奇妙な建物が突如森の中に現れたのだ。俺の立場に置き換えてみるなら、街にUFOが突如襲来して、未確認生物が現れたような感じだろう。警戒するのも無理はない。
「ガーク、心配ない。あれは俺の職場だ」
 職場という言葉がガークに通じるのだろうかと思いながら説明する。「さっきも説明したように、俺たちはあの建物ごと、この世界に来てしまったみたいなんだ」
 そう言って俺は、ガークの前に立った。
「長老に会う前に、俺のばあちゃんと筒原さんに事情を説明していいか?」
「ああ、構わない」
「ガークにもついてきてほしい」
 ガークはごくりと喉を鳴らした。俺が大丈夫だと言ったものの、まだ警戒心は解かれていないようだ。
 それでも彼は黙って俺の後についてきた。俺は事業所の扉を開く。見慣れた風景が目の前に広がり、奇妙な心地に囚われる。全く見知らぬ場所で、以前見たことのあるような気がする光景が広がっていることをデジャヴというが、今の状況は見知らぬ土地によく似た建物が建っているのではなく、見慣れた建物そのものが見知らぬ土地に建っているのだ。これを説明する言葉なんてあるのだろうか。
「あら、空野くん、戻ってきたの?」
 筒原さんとばあちゃんは、パーテーションの奥でお茶を飲んでくつろいでいるようだった。俺を外に行かせておいて、何を呑気に……という思いが湧き上がってこなくもないが、それよりも電気やガス、水道が使えていることに驚いた。
「……順応力が高いっすね」
「だって貴方、本で読むような出来事に直面しているんだもの。楽しまなきゃ損じゃない」
 人間、何十年も生きていると、何事にも動じなくなるのだろうか。
 そう思った直後、筒原さんは「きゃっ!」と、甲高い声で叫んだ。まるでその時だけ、少女の心を取り戻したかのような、そんな声色だった。
 筒原さんはガークを見たのだろう。僅かに頬を赤らめている。種族は違うとはいえ、ガークは人間に近い形をしている。筋骨隆々の若い男が、その筋肉を惜しげもなく披露しながら佇んでいるのだ。彼女の中に眠っていた乙女心がときめいたのかもしれない。
 もっと可笑しかったのはばあちゃんだった。筒原さんの驚嘆の声を聞いて、俺たちの気配をようやく察したのか、湯呑みを持ったままこちらに視線を向けてきた。
「あれまあ、若い旦那さん、ここは銭湯ではありませんよ」と、ケラケラ笑い始めたのだ。
「セントウ……?」
 ガークの声色に緊張の色が滲み出る。まさかこいつ銭湯を戦闘と間違えているんじゃないだろうな。発音が違うだろうに。
 俺はまるで二つの立場を取りなす仲介役のように、筒原さんたちとガークのあいだに入って、説明を行った。立ったままというのもあれだったから、ガークには事務所の椅子に座るように促したが、キャスターがついて自走する椅子を見るのは初めてだったらしく、「これはひとりでに動いたりしないのか」などと俺に聞きながら、おそるおそる座っていた。
 ばあちゃんは何も言葉を発しなかったが、ガークのことをじっと見つめている。どうしてこの若いお兄さんは、裸になってここにいるんでしょう、などと考えているのかもしれない。
「要約するとこうね。私たちが転生したのは『ベリュージオン』という世界。そこには人間以外に知能を持った種族の生き物たちも暮らしている。私たち人間はここではロイメンと呼ばれていて、ガークくんは竜族の少年ってことね」
 筒原さん、俺よりも理解力が高いような気がする。俺は読んだことがないから、異世界転生小説なんて、どんなものなのかよくわからないけれど、そういうのを読んでいれば、自然とこんな不可思議な出来事も受け入れやすくなるのだろうか。知識があると物事の理解がより深まるのと同じように。
「コタロー、オマエの仲間は随分と物分かりが良さそうだな。我が『少年』なのかどうかはさておき、おおかた、己の身に降りかかった禍患を理解している」
「まるで俺が馬鹿だと言いたげだな」
「そうは言っていない。なにもオマエのことを貶したりはしていないだろう。オマエがそう思案するということは、己でそう感じている節があるということであろう」
 どうなんだ? と言いたげに、ガークはほくそ笑んだ。俺はなにも言い返せなかった。ぐうの音も出ないというのはこういうことだろう。
「してコタロー、さっきから我のことを凝視している老女が、オマエの血縁の者か」
「そうだ」
「あらあらお兄さん、コタロウくんのお知り合いですか?」
 ばあちゃん、相変わらずマイペースだな。椅子から立ち上がり、ひょこひょこと歩きながら、ガークの前に立つ。しゃんと背筋を伸ばしても、彼の鳩尾ほどの身長しかないため、顔を見るには、ばあちゃんがガークを見上げることになる。
「いつも孫のコタロウがお世話になっています。不束者ですが優しい子なんです。どうぞこれからも仲良くしてやってくださいな」
 ばあちゃんは、俺とガークが昔からの知り合いなのだと誤解しているようだった。いや、誤解しているというよりは、思い込んでいると言ったほうが正しい。
 突然見知らぬ年寄りにペコペコと頭を下げられて、ガークは些か戸惑っている様子だった。俺のほうに目配せをしながら、どうしたらいいんだと言いたげな表情をしている。
「ばあちゃん、そんなにかしこまらなくても、ガークにはいつもよくしてもらっているから」
「まあ、坊ちゃんはガークさんと言うんですか! まるでメリケンさんのような名前ですねえ。あれ! よくみれば、目鼻立ちもすっきりしていて、随分と男前だこと」
 さっきから、ガークの見た目に、みんなが虜になっている気がする。ガークの反応を見るに、彼はあまり容姿を褒められることに慣れていないようであった。
「コタロー、そろそろ長老の元に行きたいのだが」と、あからさまにこの場から逃げ出そうとしている。
まあ、ここにとどまっていても、何も進まないのは確かだから、俺もガークの提案には賛成だ。
「じゃあ筒原さん、俺、ちょっと行ってきます。ばあちゃんをよろしくお願いします」
 着いてくる、と言ったらどうしようと思ったが、察しがいいのか、筒原さんは「気をつけてね」とだけ言って、俺たちを見送った。
「あれ! コタロウくん、また出かけるの? まあまあ、若人は元気ですねえ。気をつけて行くんだよ」
 ばあちゃんのやけに大きな声を背に受けながら、俺とガークは「こもれびの杜」を後にした。
 歩いていく先は、さっき俺が竜族の集落にたどり着いた方角とは逆の場所だった。流石に森の中を歩き慣れているのか、ガークは俺の前に立ってスタスタと歩いていく。その足取りに迷いはない。
 鳥の囀りや、虫の羽音が聞こえる。風が吹くたびに、木々がせせらいでさわさわと声をあげる。緑の葉が宙を舞い、やがて俺たちの足元に落ちていく。地に降り積もった葉の裏側から、毛虫がニョロニョロと顔を覗かせて、また隠れるように姿を消した。
「空気がおいしい」という表現の意味するところは、俺にはよくわからないけれど、息を吸うたびに鼻腔に入ってくる空気は、冷たく、どこか澄んでいるような心地になる。だから、これがきっと「空気がおいしい」という感覚なんだろうなと、勝手に納得した。
「コタロー」
 歩きながら、ガークが俺の名を呼んだ。
「なんだ?」
 俺は、彼の日によく焼けた背中の筋肉が、体の動きに応じて、般若のように盛り上がるのを眺めながら答えた。
「ベリュージオンは、三つの大陸と大小様々な数の島から成り立つ世界だ。大陸や島ごとに国が存在していて、我らが暮らしているこの森は、べリュージオンの中でも南に位置する大陸のウダイ国の一角にある森だ。この辺りの一帯は、ヴェリザという名を冠している」
 何だかカタカナばかりで頭がおかしくなりそうだ。そもそも、言葉が通じているというのも不思議なのだ。考えるとキリがないから、受け入れるしかないけれど。
「ウダイ国ってのは、平和な国なのか?」
「ああ、そこは安心するといい。我ら竜族が治安をおさめている故、いまはほとんど争いの起きない平和な国だ」
「良かった。俺たち、戦争なんて経験したことないから、戦いに巻き込まれたらどうしようって思ってたんだ」
「ならば、ウダイ国を出ぬよう、心がけることだ。外の国では、いつ諍いが起きるとも予測がつかない」
「え……それって、他の国では戦争が起きてるってことか?」
「オマエたちの世界の仕組みはわからないが、ベリュージオンは様々な種族が暮らす世界。ゆえに、互いの主張が衝突し、ときに暴力が生まれることもある」
「うへえ……そんなのに巻き込まれるのは、嫌だなあ」
 俺がつぶやいた言葉は、木々の葉の隙間に消えていった。

 森を抜けると、一気に視界がひらけた。頭上を覆っていた木々がなくなり、青空が現れたからだ。異世界でも、空は青いんだなと思う。ベリュージオンに暮らすのは、俺たち人間(この世界にいるあいだは、ロイメンと言ったほうがいいのだろうか)とはちょっと違った人たちだったとしても、自然の造形は俺たちの世界とよく似ている。べリュージオンがいったい何処の世界なのかは、まだ見当もつかないけれど、生き物が暮らすことのできる世界というのは、地球と環境が似る必要があるのかもしれない。
「ここから少し進んだ先に、崖がある。眼下に広がる町を見下ろすことのできる絶景が広がる場所なのだが、長老はそこに幽閉されている」
「ゆ、幽閉?」
 おおよそ、俺が普通に生きていたら、日常生活の中で、なかなか聞くことのできない言葉だ。ユウヘイとはつまり、閉じ込められているということだろう。俺の感情がにわかにざわついた。
「長老……、我の祖父は、ときに昔を回顧するような発言や行動をすることがある。それだけならまだいいのだが、我々には見えぬものを見ていたり、とっくに戦争は終わっているのに、自分がまだ戦禍の中にいると勘違いをし、周りを憚らずに攻撃を仕掛けてきたりと、安寧な日々に火を注ぐような出来事が増えてきた。……だから我々は一族で話し合い、祖父の同意を得て、彼を崖の途中にある洞穴に幽閉することにしたのだ」
 俺の頭の中に、ある言葉が浮かぶ。———身体拘束。それは、徘徊などの問題行動と呼ばれる行為を繰り返す高齢者の行動を抑制するために行われるものだ。当事者の自由を奪い、人間としての尊厳をも失うことにつながりかねないので、俺たち介護職が簡単に行なってはならないことのひとつとして挙げられている。
 竜族の長老、ガークのじいちゃんは、洞穴に閉じ込められて、そこから出られなくなっている。それも身体拘束といえるんじゃないだろうか。
「ガーク、お前はそれでいいのか」
 ガークの背中に語りかける。彼はふと歩みを止めて、空を仰いだ。
「もう決まったことなのだ。それに祖父も、我々に迷惑をかけるくらいなら、幽閉されることを望んでいる」
 こいつは本心を言っていないと、俺は感じた。お前はそれでいいのかと問われたことの答えにはなっていない。自分の感情を殺して、それで何もかもがうまくいくのなら、不条理な現実も受け入れるしかないと思っているのだろうか。ガークも、ガークのじいちゃんも。