「まったく、オケはやつがれをなんだと思っているんだ?」
「坊ちゃんは坊ちゃんでぃすよ! それ以外の何者でもありませんでぃす。でもぼ木は、最近坊ちゃんのことがちょっと怖いでぃす!」
「どこがどう怖いのか、ちゃんとイチから説明してくれよ」
「そそそ、そういうところでぃす!」
 こもれびの杜は、あくまでも介護事業所だ。バトルアリーナではない。なのに俺は、さっきからサンスケとオケの口論を聞かされている。俺の顔の近くにオケが浮いていて、キンキンと喚いているので、ちょっとだけうんざりしている。
 カクスケは俺のそばに直立不動で佇んでいて、眉ひとつも動かさないが、きっと彼もこの状況に嫌気がさしていることだろう。立場上、口には出さないだろうから、俺の想像でしかないが。
「やつがれは、ただ聞いているだけじゃないか。オケは、なんで朝から機嫌が悪いんだって」
「ぼ、ぼ木は、朝に飲もうと思っていたココナッツジュースが、坊ちゃんに飲まれてしまっていたから、困ってただけでぃす!」
「でも、明らかに怒ってたよな。オケ」
「ひい! 怒ってないでぃす! だからぼ木を木屑に変えないでくだしい!」
 冷蔵庫に入っていたプリンを誰が食ったとか、そういうレベルのいざこざか……。俺はため息をつく。そういうのは、出来れば自分たちの家で話を終わらせておいて欲しいものだ。

 朝っぱらからこの二人が俺たちのところへ訪ねてきたのは、サンスケが「今日一日、オケを預かってほしい」と頼みにきたからだ。
「なにか用事でもあるのか?」と聞いた俺に、サンスケは「今日は三助のサンスケではなく、イルムとして対応しなければならないことがあるんだ」と言った。
 たしかに今日のサンスケの格好は、いつもの甚平のような服装ではなく、驚くほどにきっちりとした正装だった。パリッとした白いワイシャツに、紺色のジレを合わせている。ネクタイまで締めているが、膝小僧のみえる短パンが幼さを強調させている。ピカピカの黒い革靴は、爪先が丸い。オケが普段から言っている『坊ちゃん』という呼称が、非常にぴったりな見た目になっていた。
「じゃあ行ってくるよ。オケ、あまり皆を困らせちゃ駄目だぞ」
「坊ちゃんに言われなくとも、大丈夫でぃすよ。坊ちゃんこそ気をつけてくだしい!」
 オケは事務所の外に出て、サンスケの姿が見えなくなるまで見送っていた。
「なんだかんだ言って、お前もあいつのこと、心配なんだな」
「坊ちゃんは、ぼ木がいないとなにをしでかすかわかりませんでぃすからね」
 それは単なる照れ隠しの詭弁なのか、ほんとうにサンスケは危なっかしいやつなのか、俺には判別がつかなかった。

「朝飯にしようか。カクスケ。なにが食いたい?」
「はいっ! コタロー殿の仰せのままに、頂けるものであればなんでもいただきます」
 そうだ、カクスケに食べたいものを言っても、大体は俺の思ったとおりにしろと言うのだ。じゃあ、その辺の雑草でも食ってろと言ったら、こいつは本当に食いそうだ。さも当然のような顔をしたまま、森の植物を食うカクスケの姿を想像して心が痛んだ。
 事務所に戻ると、筒原さんとばあちゃんがコーヒーを淹れていた。
「あら、オケくん。今日は付き人の青年はいないのかしら」
「坊ちゃんは、野暮用で、今日一日お出かけでぃす。ぼ木はここでお留守番でぃす」
 どちらかというと、オケの方がサンスケの眷属だと思うが、朝からそんな議論はしたくなかったので黙っておいた。
 そろそろ『家』と呼べる空間が欲しくなってきている。いま以上の贅沢を望むのは、ベリュージオンでの生活に慣れてきた証拠か。ガークたちに頼めば、ワンルームの部屋ぐらいは作ってくれるだろうか。俺たちがいた世界の文化水準に似た住居の設備は、アマドキアの家にあったから、竜族が若干原始的なのであって、ダインズヴェルシュの住民たちが暮らしているような家を建てるにはどうしたらいいかが分かれば、俺たちのQOLもぐんと上がるはずだ。
 QOL——それは、クオリティーオブライフという言葉の略で、医療や福祉の現場で使われる用語のひとつだ。生活の質だとか、人生の質と言ったりもする。身体的・精神的・社会的な状況を含めた、人生における主観的な満足度を指し、人々が自分らしく納得のいく生活を送れることを目指す考え方で、最近では『QOL爆上がり!』などと言って、生活の質を上げる製品を紹介するときなどに使われていたりして、一般にも普及しつつある言葉だ。無論それは俺が元いた世界でのことであって、ベリュージオンで口にすると、不思議な顔をされるだろうが。
「ぼ木もお手伝いをしますでぃすよ! 筒原サン」
「あら、そう? じゃあ、出来上がった料理をテーブルに運んでもらいましょうか」
「合点でぃす!」
 オケの桶の中に、焼き上がったばかりのトーストが乗った皿が入れられる。ふよふよと空中を浮遊して、事務所の相談スペースにあるテーブルまで移動すると、オケは自分の頭の中に腕を伸ばして皿を器用に掴み、コトリと卓上に置いた。自動でちょっとしたものを運んでくれると思えば便利な役割だが、人間が運んだほうが早い気もする。場の空気を微妙にしてしまうのは忍びないので、俺は黙っておいた。朝食の準備は筒原さんたちに任せておいて、俺はばあちゃんをトイレに促した。
『こもれびの杜』のトイレは、ここを尋ねてきたお年寄りが使いやすいように、壁に手すりが付いている。ばあちゃんはそこをぎゅっと掴んで、えっちらおっちら用を足した。元いた世界では、便秘薬に頼らないと排便コントロールが難しかったが、ベリュージオンに来て、薬の手配が出来なくなった今のほうがむしろ、毎日快便らしい。朝、トイレから出てくるばあちゃんは大抵、すっきりした顔をしている。
「コタロウくんのおかげで、すっかりお通じが良くなりました。ありがたいありがたい」
 そう言ってお腹をさするばあちゃんを、食卓に促す。「いま出したばかりなのに、もうお食事が頂けるんですか? あらあらまあまあ、こんなに至れり尽くせりで、贅沢をしてもいいんですかねえ」
「さ、恭子さんも、焼きたてのトーストを召し上がってくださいね」
 筒原さんが言う。ばあちゃんはぺこぺこと頭を下げながら、椅子に座った。俺、ばあちゃん、筒原さん、カクスケが全員席に着き、食事がはじまった。ココナッツジュースが飲めなかったオケには、オレンジジュースをグラスについで渡してやった。ホライゾンで買った製品だ。美味しいでぃすといいながら、オケはごくごくとそれを飲んでいた。俺は目玉焼きと焼いたウインナーを同時に頬張る。カクスケがそれを見ていたらしく、真似をしてきた。
「美味いか? カクスケ」
「はい! 有難く頂戴しております。筒原殿も、拙者のために朝餉を作ってくださり、有難う御座います」
「あら〜、カクスケくんはいつも礼儀正しいわねえ。空野くんも見習ったらどうかしら」
 筒原さんも嬉しそうだ。和やかな雰囲気で事が進むのは、心地が良い。飯を食ったら、今日も一日のはじまりだ。