流石に洗濯機なんてものはこの世界には存在しないようで、オケとともに水廻りのある別室に入っていったサンスケは、風呂場でゴシゴシと布おむつをこすり洗いしていた。
「坊ちゃん、あまりお湯を飛ばしまくると濡れますでぃすよ」
「なんだよ、そのときはやつがれもまとめて乾かせばいいじゃないか」
「坊ちゃんの魔術呪文は強力でぃすから、ぼ木まで干からびないかと心配になりますでぃす」
「そのときは別の木桶に命を与えるさ」
「ぼ、ぼ木は嫌でぃすよ! そんなこと!」
「アハハハ!! 冗談だよ」
 サンスケの魔術で浴槽を運ぶのはいいが、お湯はどうやって調達するのだろうと思っていたが、洗い場にはホースが丸めて置いてある。独立した水栓があって蛇口が伸びているから、そこにホースを繋ぐのだろう。
 俺は台所に立って、なにを作ろうか思案していた。やはりこの世界にある食べ物は馴染みのあるものばかりだ。じゃがいも……おっとこの世界ではテイトウイモというんだったな。玉ねぎ、人参。それに冷蔵庫には、袋に入った肉が入っていた。調味料もひととおり揃っているな。ぱっと見た感じ、俺にも見覚えのあるものばかりだ。
 洗濯機はないのに冷蔵庫はあるんだなと思いながら、俺はその肉を取り出した。
「肉……」
 ガークが覗き込んできて、物欲しそうな顔をしている。
「ガーク、お前の分じゃないぞ」
「わ、わかっている!」
 ガークはそう言って、ぷいっとそっぽを向いた。
 俺は包丁でじゃがいもと人参の皮を剥き、乱切りにした。ついで玉ねぎの皮をむしり取り、くし切りにする。
「コタロー、なにを作っているんだ」
「拙者はわかりますよ」
 ぐいとカクスケが割り込んでくる。こんなときになんの対抗意識を燃やしているんだ。見ろ、ガークがムッとしているじゃないか。
「肉じゃがという料理で御座います」
「すげえなカクスケ、なんでわかったんだ?」
 同じ材料を使う料理なら他にもあるというのに、ピンポイントで当ててくるカクスケに、俺は素直に驚いた。
「拙者はコタロー殿の使い魔で御座いますから。主さまと一心同体になれるよう努めなければなりませぬ」
 そう言ったカクスケは、ちょっと得意げだった。
「コタロー殿が用意した調味料は、醤油、砂糖、みりん、酒で御座います。それに調理をはじめた食材と照らし合わせ、献立を判断させていただきました」
 アマドキアがロイメンだからなのか、それとも俺が元いた世界と、共通点がいくつもあるからなのかは分からないが、竜族の集落の炊事場を借りて料理をするときよりも、色々と馴染み深いものが多くあった。
 カクスケは、俺が具材を鍋に入れてことこと煮込んでいるあいだに、洗い物を片付けてくれた。曰く、「主さまばかりにお手間を取らせるわけにはいきませぬ」だそうだ。
 ガークとサティーには、竈で味噌汁を作ってもらった。具にタマネギとテイトウイモを入れたやつだ。ベリュージオンでも味噌があるのを見て嬉しくなる。
 家の外にあった薪をウェイドが運び入れてくれて、焚口に積み重ねると、ガークの息吹きで火を起こす。俺はガスコンロに頼ってばかりで、火起こしの経験なんてなかったから、竜族が火を扱う能力をもっているのは助かった。本来ならば戦いのときに使うことの多い能力なのだろうが、こうして平和なときにも応用できるというのはありがたい。
「アマドキアさんはきっとお金持ちなのね」と竈の横に米が入った容器を見て、サティーが言った。やはりベリュージオンでは、白米は高価な食材なんだろう。だからカクスケは塩むすびをあんなにありがたがっていたのか。
「オレたちも負けていないだろう。コタローなど、カクスケと共にたらふく食っているしな」
 俺はちょっとした入手ルートがあるんだよと言おうかと思ったがやめておいた。ホライゾンのことというか、こもれびの杜の建物の中にいるあいだは電気、ガス、水道とネット環境が使えるということを秘密にしておかねばならないような気がしたからだ。
「せ、拙者はそんなに食ってはおりませぬ! いえ、コタロー殿にはいつもありがたい程に贅沢な御食を頂戴しておりますが……」
 みおし……ってなんだろう……と思ったが、たぶん飯のことだろう。こいつのことだから、また古風な物言いをしているに違いない。
「ここは、アマドキア様の別邸なんですよ」
 ツヴァルザランだ。手持ち無沙汰なのか、どこからか取り出してきたらしい編み物をしていた。サティーが目を輝かせ、テーブルに置いてある籠に積まれている色鮮やかな毛糸を物珍しそうに眺めた。
 ツヴァルザランがアマドキアのことを軽く教えてくれた。
「アマドキア様は、王都マサゴリアムで貿易商をなさっておりました。一代で財を築き、平民からのし上がり、貴族の仲間入りを果たしたのです。王都には本邸があり、いまは事業を息子様に託し、ここで余生を送っておられるのです」
 おおかた、本業で忙しい身である息子には迷惑をかけたくないというわけか。あちらも、父親の顔を見に来る暇もないのだろうと察することができる。独居老人が増えているといわれていた元いた世界においても、ありふれた話だった。
「アマドキアさんはなぜ、寝たきりに?」
「いまから二年程前のことです。わたくしが留守にしているあいだに、主さまが倒れられてしまいました。医者によれば、脳の血管が切れたのだとか。幸いなことに一命は取り留めましたが、後遺症が残り、歩けなくなってしまわれたのです」
 リハビリだとか、車椅子だとかいう概念は、この世界には浸透していなさそうだ。医学もどこまで発達しているかはわからない。ツヴァルザランの言い分を悪いほうに解釈すると、倒れたアマドキアの発見が遅れてしまったともとることができる。俺たちは職業柄、最悪の場合の想像をしてしまうのだ。
「歩けない状態になってから、ずっとベッド上での生活が中心か?」
 俺の質問に、アマドキアは、ええと頷いた。
「わたくしに彼を再び歩かせるような技術などありませんから」
「やつがれが風呂の助けをするときに、少し起き上がるくらいだな」
 サンスケとオケが風呂場から戻ってきたようだ。「ツヴァルザランさん、洗濯物はやつがれが乾かしておいたから、安心するといいぞ」
 オケの中に畳まれた布おむつが入っている。「あとで返しておきますでぃす」と、オケが言った。
「サンスケ、そのとき、アマドキアさんは立ち上がることが出来るのか?」
「そんなことを聞いて、どうするんでぃすか?」
 オケが口を挟んでくる。元々丸い目が余計に丸くなっていた。
「やつがれが支えていると、立ち上がれるっすねえ。よろよろしてますけど、少しなら支えていれば歩くこともできるっすよ」
「そうか」
 思案する。二年間、ほぼベッド上での生活を強いられてはいるが、誰かが支えていれば立つことも歩くことも出来る。アマドキアの下肢筋力は、まだ完全には死んでいないということがわかった。だったら……。
「方法次第では、アマドキアさんはまた立って歩けるかもしれねえ」
 俺の呟きに一番に反応したのは、やはりツヴァルザランだった。
「なんと……そんなことが……」
 たぶんこの人は、アマドキアが寝たきりになった時点で諦めていたのだ。もう歩けないと。人間は脆い生きものだ。一度壊れてしまったものは、二度と元には戻せないと。だが、それは違う。完全に元には戻らなくとも、方法さえ分かっていて本人にその気があれば、いつだって回復することが出来るのだ。

 そのとき、屋敷の外でラッパを吹き鳴らすような音が聞こえてきた。ツヴァルザランがその音に反応する。
「まあ、今日は、魚屋さんの来る日だったのね。コタローさん、申し訳ないけれど、外に出て呼び止めてもらえるかしら」
「……ああ、わかった」
 元いた世界では、夜鳴きそばとか、ラッパを吹きながらキャリーを引いて売りに来る豆腐屋なんてものが存在していたらしい。それと似たようなものだろうかと思いながら、俺は表に出た。
「あっ、あぶなーーーい!!!」
「え?」
 扉を開けて体が外気に触れた瞬間、俺の耳を甲高い声の叫び声がつんざいた。薄暗がりの中に、なにか球体のような黒い影が俺に向かってとんでくるのと、「ああ、外はもうこんなに暗くなっていたんだ」と思ったのは同時で、咄嗟にその球体を蹴り飛ばしてしまった。学生時代にサッカーをやっていたから、土壇場でその癖が出てしまったのかもしれない。
 ぐにょりと、思っていたよりも柔らかい感覚が土踏まずに伝わる。……ん? ぐにょり……?
「いでえっ!!」
 さっきの叫び声と同じトーンの声だ。暗がりの中から聞こえてくる。人影がその球体を受け止めたようだ。球体は俺の前方に跳ね返っていったが、誰かにぶつかってしまったのだろうか。それなら謝らなければならないと思って、人影に近づく。
「す、すみません! 怪我はないですか!」
 暗がりに視界も慣れてきて、相手の風貌がみえたとき、俺はおそらくダインズヴェルシュのに住む誰よりも大きな叫び声を上げていた。
「う、うわああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
「コタロー殿!」
 俺の声は屋敷の中まで聞こえたのだろう。カクスケが大慌てで飛び出してきた。ついでガークとウェイドも後ろにかまえている。俺の身になにかあったのかと警戒してくれたのだろう。だが、俺は無事だ。無事じゃないのは、俺の目の前に立っている青年だった。
「くっ、首っ、か、か、カクスケ、首がっ……」
 腰から下の力が抜けて、俺はへなへなと地面にへたり込んでしまった。カクスケが俺の前にずいっと出てきて、俺の上半身を支えるようにして抑えてくれた。
「いてえなあ、おめえいきなりなんなのさ!」
 当たり前のように首がしゃべった。俺が蹴ったせいか左の頬が少し腫れているが、それ以外は平気そうだ。すると首から下しかないのに立っている体は、自分の首を抱いているということか。
「ったく、オイラをみてそんな反応をするのは、おめえが久しぶりだよ」
 驚きのあまり言葉を発せなくなった俺をみてため息をつき、青年は腕を上げ、首を元の位置にはめ直した。
 体にはりつくような生地のタンクトップを着用し、魚のデフォルメイラストが大きく描かれた前掛けをつけている。この世界にいる若者は、みんな体格がいいのはどうしてだろうか。青年もカクスケとガークのちょうど中間くらいの体躯の持ち主だった。普段から太陽の下で仕事をしているのか、衣類に覆われていない顔と手足が真っ黒に日焼けをしている。
「なんだ、マルクじゃないか」
 背後でガークが言った。彼の姿をみとめた瞬間、青年の顔が少し強ばったのを、俺は見逃さなかった。
「ガ、ガーク様、なぜこんなところに……」
「ん? 我がここにいてはまずいのか?」
 ガークの一人称、「我」を久々にきいた。マルクが慄いていることに、不思議そうな顔をしている。
「コタロー、案ずることはない。コイツはマルクという名の、ただの魚売りだ」
 ガークがそう言うのなら、そうなんだろうけど。俺にとっては「ただの魚売り」ではない。こいつは、何の種族なんだ。
「オマエは分類するのが好きだな。マルクはデュラハンだぞ」
 ガークが呆れたようにそう言った。どうやら俺は無意識のうちに心の声を漏らしていたらしい。デュラハンだから首が取れるのか。
 当たり前のように異種族がでてくることに、俺ももっと慣れないといけない。
「はじめまして、マルクさん。俺はコタローです」
「コタローか。よろしくな! ……ところでおめえはガーク様の仲間、なのか?」
「コタローは我を使役することもあるぞ」
 俺の代わりにガークがこたえる。マルクの喉があからさまにごくりと鳴った。
「マルクは集落にも魚を売りにくるのだ。他の商人の相場と比べて、破格の値で売ってくれるから、我々も助かっている。……ふむ。今日はいつもより高いようだが」
 ガークがマルクの背後に置かれていた荷車に下げてある値札を覗き込んで言った。俺も彼が引いて歩いていたらしい二輪の鉄製の荷車を覗く。氷が敷き詰められた荷台の上に、木箱がいくつか置かれており、種類の違う様々な魚介類が入っていた。
「オイラは魚売りである前に、漁師なんだ。自分で採った魚をこうやっていろいろなところで売らせてもらってる。も、もちろん、ガーク様の住まわれている集落にも行くことがあります」
 さっきからマルクはガークのことを話そうとするとどうも口調や態度がぎこちなくなる。互いの様子から察するに、おそらくマルクはガークのことを一方的に怖がっているのだろう。なぜだかは知らないが。まあ確かに、竜族の長老の孫で、態度も堂々としているから、あまりこいつのことを知らないと畏怖の念を抱くのも分かる気がする。
「今日も美味そうな魚がたくさん並んでいるな」
「ご、御入り用ですかっ!?」
「ふむ。我ではない。こちらの屋敷にいる、御婦人がご所望だ」
 ガークが屋敷を指差した。
「あ、ああ、ツヴァルザランさんか」
 幾分かマルクの表情が和らいだようだ。
「しかし、御婦人は動けぬゆえ、我らが代行しているのだ」
「ひっ、そうなんですね。いつもごひいきにありがとう、ございます」
 ガークがウェイドに目配せをすると、ウェイドはこくりと頷いて荷車に近寄った。マルクはその様子を心配そうに目で追っている。
「コタロー殿、我々も拝見いたしましょう」
 カクスケに腕を引っ張られて、俺もウェイドの背後を陣取り、あらためて荷車の中を覗き込む。
「俺、みてもわかんないんだけどな」
「なんだだらしない」
 ガークがケラケラと笑った。「コタロー、ここにある魚を全部買ったら、みんなで夕飯が食えるな」
「そうだな……。刺身や煮魚にすると美味いかもな」
「作ってくれるのか!」
 ガークの目が輝く。腹が減っているのだろうか。まあ、もう夕食の時間だもんな。たぶん。
「ぜ、全部買われるんですか!?」
 マルクが目を丸くする。なんだか嬉しくなさそうだ。
「なんだ、悪いか? これだけ売れ残ってるんだ。我らが買ってやったほうが、オマエも助かるだろう」
「……あ、ああ、いや、まあ……」
 マルクはバツが悪そうに頭をかいた。
「なんだ、不都合なのか?」
「い、いや……」
 俺と目が合う。助けを求めるような目でこちらを見ているが、申し訳ないが何もしてやれない。
「よし、決めた! マルク、この魚をすべて、我に売れ。いつもより高いが、まあよかろう」
「い、いや、もう店じまいですから、書いてある値段から八割引でいいっすよ」
 マルクの額をみると、汗をかいている。そんなに暑くないとは思うが。
「本当か!? なら、いつも通りの値段になるな」
 ガークは気付いていないのだろうか。マルクが竜族の集落に魚を売りに来るときは、なにかを恐れて値段を大幅に割り引きしてしているであろうことに。
 結局ガークは言葉どおり、マルクから魚を全部買っていた。竜族の懐事情は、ウェイドが管理しているようで、支払いをしているのは彼だった。
「あ、ありがとうございます」
 やはりあまり嬉しくなさそうにマルクは言った。それがあまりにも不憫にみえたので、俺はマルクに思わず声をかけた。
「もしよかったら、マルクも食っていかないか?」

「オイラが?」
 マルクの頭の上に、はてなマークが浮かんでいる様子がみえるような気がした。もしかすると彼は、この場から早く立ち去りたかったかもしれないな。
「あー、もし良かったら、なんだけどな」
 いちおう、マルクが気兼ねなく断れるように気を遣ったつもりだったが、それは徒労におわった。
「いいのか! オイラ誰かの家で飯をご馳走になるの、憧れてたんだ!」
 なんだかマルクはやたら嬉しそうにそう言った。ガークのことを恐れていそうにみえたのは、俺の思い過ごしだったのだろうか。
「じゃあ、オイラが魚を全部捌いてやるよ!」
 アマドキア邸の前に荷車を置き、マルクは俺たちのあとについて、屋敷の中に入った。
アマドキアとツヴァルザランに、ここでみんなで飯を食っていいかと聞いたところ、彼らは快諾してくれた。
「アマドキア殿もご一緒に召し上がりませんか」とカクスケが提案したので、俺は早速アマドキアを離床させようと促してみた。離床というのは、寝床から離れることだ。
 さっそく彼の歩行状態を確認できる良い機会だ。
「わ、わたしがきみたちと?」
「ええ、たまには大勢で食事を召し上がると気分転換になりますからね」
 アマドキアは若干戸惑っている様子だった。「しかし、わたしは歩けないよ」
「俺が支えてあげますよ」
 そうは言っても、アマドキアは不安げに眉をひそめていた。無理もないと思う。俺も逆の立場なら、気軽に相手を信じることもできないし、なによりも迷惑をかけてしまうとか、転んでしまったらどうしようという不安のほうが大きくなるだろう。
 俺たち介護をする側からすれば、そんな想いを微塵も抱いてほしくないのだけれど。相手に気を遣わせてしまっているのだと考えると、俺もまだまだだなと思う。
「アマドキアさん、ぼ木が言うのもなんでぃすが、コタローさんの言うことは聞いておいたほうがいいでぃすよ!」
 いつの間にかオケが俺の背後に浮かんでいたようで、耳のすぐそばで彼(彼というのはおかしいのか?)の声がけたたましく響いたものだから驚いた。
 台所のほうからは、マルクが魚捌きを披露しているのか、包丁を滑らせる音と、「ほう、なかなか上手いもんだな」というガークの感心したような声が聞こえてきた。
「あちらではなにをしているんだい」
「いつも魚を売りに来るらしい青年が、今日はみんなに魚料理を振る舞ってくれるんですよ」
 俺の言葉に、アマドキアは興味をもったようだった。魚が好きなのだろうか。だったらこれを口実に向こうの部屋まで歩いてもらうのがいい。
「一緒に見に行きましょう。気分は悪くないっすよね」
「あ、ああ。調子はすこぶる良いよ」
 俺はにっこりと笑ってみせると、アマドキアが被っている掛け布団を剥がし、起き上がりやすいように彼の膝を立てた。仰向けのまま、腕を体の前で組んでもらうように伝える。
「じゃあ、ちょっと体を横にするっすよ」
 アマドキアの肩と膝に手を当てて、くるりと体を横向きにする。そのあとすぐに、両足をベッドから降ろす。こうすると、上半身も起き上がりやすくなるのだ。
「俺が支えますから、一緒に起き上がるっすよ」
 向こうの部屋に俺の声が聞こえたのか、ウェイドとカクスケが顔を覗かせてきた。きっと手持ち無沙汰なのだろう。
「おう、お前たちも見ておいてくれ。今後、手伝ってもらうことがあるかもしれないからな」
 元いた世界では、教える相手にそう言うと、大抵尻込みをしてしまう人たちが多かったのだが、ウェイドとカクスケは同時に「かしこまりました」と言って、俺のやっていることをよく見ようとベッドの端に並んで覗き込んできた。
 俺はそのままアマドキアの腰と、ベッドに接地している右肩のほうに腕を回し込み、ぐいっと彼の上体を抱き起こした。このときに、なるべく俺と相手の体を近づけると、俺の体にも負担が減るのだ。
「ほう、なかなか上手いものだねえ」
 アマドキアが感心したように息を呑んだ。慣れてますからと、俺は返す。
「カクスケ、ウェイド、アマドキアさんはいま、ベッドの端に腰掛けている。この状態を、俺たちの言葉で、端座位と呼ぶんだ」
 ふたりは聞き慣れない言葉を聞いたようで、「タンザイ」とぼそぼそ呟いている。
「じゃあ、こっからは、アマドキアさんも頑張る番っすよ」
 見たところ、アマドキアは背もたれや俺の支えなしにベッドから足をおろして座れるようだ。予想していたより彼の身体状況は良好じゃないか。
「足をしっかり地面につけて、腕を伸ばしてください」
「こうかな?」
 アマドキアが伸ばした腕の下に俺の腕を添えて支える。手のひらで包み込むようにして、彼の上腕を掴んだ。
「いいですね、じゃあ、つぎは前屈みになりましょう」
「おっと」
 足は地面につけたままですよと言葉を添えながら、俺はそっとアマドキアの腕を引き上げた。
「……立てた」
 アマドキアは放心したように言った。いつもはほとんどツヴァルザランに力を借りて動いているんだろうということを察する。だが今回、俺はほとんど力を加えていない。ほとんどアマドキア自身の筋力を使って立てたのだ。
「立ってみて、ふらふらしてるとかはないっすか?」
「ああ、立ち上がった瞬間はちょっとフラッときたけれど、いまはどうともないよ」
「オッケーっす。じゃあ、ふらつきに気をつけて、ちょっとずつ居間まで歩きましょうか」
 いちに、いちにと掛け声をかけながら、俺はアマドキアの腕に手を添えたまま、後ろ向きに歩く。カクスケが心配そうに俺のそばについて誘導するかのようにゆっくり歩を進めている。しかしこの掛け声はベリュージオンでも通じるのだろうかと考えながら、それでも他に思いつかなかったため、そのまま声をかけ続ける。
「歩けてますよ、アマドキアさん」
「おお、そうかい」
 まるで他人事のようにそう言ったアマドキアは、驚きながらも、どこか嬉しそうに瞳を輝かせていた。

 アマドキアを居間に連れて行くと、ツヴァルザランが「まあ、主さま……」と感嘆の声を漏らした。
「坊ちゃん、坊ちゃん、アマドキアさんが立って歩いていますでぃすよ!」
 オケも嬉しそうにくるくると回っている。サンスケは「おー、そうだなー」と、間延びした声を出して返事をしている。アマドキアの入浴の手助けをしている彼なら、歩いている姿をみるのは珍しいことではないのかもな。
 キッチンでは、マルクが魚を捌き終わって、煮付けを作っているようだった。煮汁の良い匂いが部屋中に漂っている。マルクが調理している様子を、ガークが隣でじーっと見ているので、心なしか緊張しているようにみえる。
 俺はアマドキアをツヴァルザランの隣に座らせた。無言のまま顔を見合わせるふたり。安堵したようなツヴァルザランの微笑み。俺は、その顔を見られただけで、ここに来た甲斐があったなと思った。
「いやあ、コタローさん、あなたの誘導は素晴らしい。わたしも安心して、あなたに身を預けることが出来ましたよ」
「俺の力じゃありません。アマドキアさんの心の中に、まだ歩きたいって想いが残っていたからっす。俺はそれをちょこっと引き出して、表に出しただけっすよ」
 俺たち介護職が、いくら相手に向かって援助をしようとしても、本人にその意志がなければどうしようもない。
 廃用症候群ということばがある。病気や怪我などが原因で身体を動かせない状態が続いたり、運動量が減少したりするときに、本人の心身機能が低下する症状のことだ。体や心の機能が低下すると、筋力が低下したり、食欲がなくなったり、色々なものごとへの関心がなくなったり、鬱症状が出てきたり……。つまり、「なにもできないことによって、なにもしたくなくなる」状態に陥ってしまうのだ。
 アマドキアが寝たきり老人だと聞いたとき、俺はこの廃用症候群になっていやしないかと危惧していたが、すぐにその懸念は払拭することができた。
 アマドキアにはまだ意欲がある。自分の力で動き、生きようとする意欲が。これまではその手立てを見つけることが難しかっただろうが、そもそも食事は自分で摂れるし、誰かの手助けがあれば、離床して風呂にも入れる。
 もともと出来ることはかなりあったのだ。俺はアマドキアのなかに眠っていた意欲を、ちょっとだけ刺激してやっただけに過ぎない。

「さあ、できたっすよ」
 やがて、マルクが調理した魚料理の数々がアマドキア邸のダイニングテーブルに並べられた。オケがお盆代わりとなって、台所とテーブルの間を行き来して食器などを運んでいく。便利なやつだ。
 彼らはどうやって食事をするのだろうかと思っていたら、ガークが手づかみで焼き魚を取り、頭からかぶりついた。
「なんだコタロー」
 じっとその様子を見ていたから不思議がられたのか、ガークはぼりぼりと骨ごと咀嚼しながら俺を見つめ返してきた。
「いや、食い方がワイルドだなあと思ってな」
「わいるど? またお前は訳の分からない言葉を使う。もっと相手に分かりやすく話そうと心がけたらどうなんだ」
 がぶり。一匹の魚が、もう半分になっている。けっこう大きかったと思うが、俺たちのように可食部をほじほじとつつきながら食べるよりも美味そうに見えるのは、俺だけだろうか。……俺もやってみるか?
自分の喉に魚の骨が刺さる想像をして寒気がした。
 俺は、ちまちまと自分に振る舞われた分の魚を食べながら、みんなの様子を観察していた。
 アマドキアはツヴァルザランに身をほぐしてもらって、それを黙々と食べている。ガークとウェイドは豪快に頭からかじりついていて、サティーは魚の頭と尾を持って、背中を囓っている。カクスケは俺のほうをチラチラと確認しながら、箸を動かしている。「主さま」がちゃんと自分と同じように食事をしているか、心配なのだろうか。サンスケは「美味い美味い」と言いながら、煮魚を食べていたが、面白かったのは、煮汁を別皿に取り分けていて、オケがそれをぺろぺろと舐めていたことだった。
「ぼ木はべつになにも食べなくてもいいんでぃすけどね、坊ちゃんが一緒に飯を食おうってうるさいもんでぃすから、いつも食事は一緒にしていますでぃす」
 俺の視線に気付いて、オケはそう言った。食べたものはいったいどこに蓄積されて、消化されているのだろうかと疑問に思ったが、ややこしくなるから、あまりそういうことは考えないようにしよう。
 食事の光景ひとつとってみても、みんなそれぞれ個性があらわれて面白い。安心したのは、アマドキアの食欲が旺盛だったことだ。刺身や煮物、焼き物など、マルクが作ってくれた魚料理はバラエティーに富んだものだったが、そのすべてを所望し、舌鼓を打っていた。
 自分がどんな目に遭っても、どんな状態にあっても、飯を食ってしっかりと眠る。それさえできていれば、いきものである俺たちは生きていける。なかには、色々な事情でそれが難しくなってくる者たちもいるけれど、根本的に生きる活力を得られるのは、きちんとした食事をしっかり摂ることだと、俺は思っている。
 人生の最期を急に迎える人たちは、たとえば病気になってしまい、自力で食事を摂ることができなくなり、体の中に満足に栄養が行き渡らなくなったり、認知症になって「食事を摂る」という行為そのもののやりかたを忘れてしまったり、自分はもう駄目だと落胆して、気分が塞ぎ込み、食欲が落ちてしまったりと、色々なことが理由となってどんどん弱っていってしまう。
 俺たち介護職がつかう言葉に、「短期記憶の欠如」というものがある。認知症の人が、飯を食ったあとに「今日の晩ご飯はなんですか」と言うやつだ。
 短期記憶とは、数秒前から数十分前におこった出来事や感情なんかを覚えておく能力だが、それが出来ない状態のことを指している。
 たとえば認知症の人が何かの理由で飯を食えなくなったとき、本人は「なぜ自分が食事を摂れないのか」ということが分からず、体がどんどん弱っていってしまうから、「なんだかわからないけど、しんどい」という不調に陥ってしまい、「しんどいから食欲がない」という悪循環に陥ってしまうことがある。そんなとき、誰か他の人から、「なんで食べないの」と指摘されても、「なんでっていわれても、食欲がないんだから仕方ないでしょう!」と思ってしまい、不穏になることがある。
じゃあ、どうすればいいのかというと、俺が簡単に思いつくのは、本人の好きなものを用意して、まずはそれを食ってもらって元気になるのを待つ……ということくらいだが、たとえば食事に集中できる静かな環境を整えてあげたり、献立の見た目や彩りをよくするとか、香りや味に工夫を加えてみるとか、そうすることで食欲が湧くこともある。
 食事量が減るのは、年齢を重ねたことによる自然の成り行きだと受け入れて、あまり気にしなくていいという見方もある。その場合は、水分補給をしっかりと行うよう心がけるといいけれど、何にせよ俺たちは、ひとつの事例について、決めつけを行わず、視野を狭くせずに、あらゆる方法を試してみて、本人がより良い余生を送れるように支援をおこなえるように考える必要があるということだ。

「コタロー殿、魚料理というものは、米が食べたくなりますね」
 俺があまり喋らないのを気にしてか、カクスケがこっそりと耳打ちをしてきた。まるで初めて魚料理を口にしたかのような物言いだと思ったが、まさかそんなことはないはずだ。それにしても、カクスケはいったいこれまでどんな生活を送ってきたのだろうか。
「カクスケは米……というか、塩むすびが好きな印象しかないぞ」
「うぅ……コタロー殿がくださったあのときのおむすびが、至極美味しゅう御座いましたから……」
 カクスケの顔が真っ赤になる。俺はそれを見て、ちょっと可愛いと思ってしまった。カクスケは個性的なやつだけれど、俺に弟がいたらこんな感じなんだろうか。
「カクスケさん、おむすび、召し上がりますか?」
 聞こえていたのか。ツヴァルザランの言葉に、カクスケはさらに顔を赤くした。茹で蛸のようだ。うう、ああ、と唸って返事にならないものだから、俺が代わりに「もし良かったらお願いできるかな」と答えた。
 ツヴァルザランはにっこりと微笑んで承諾の意思を表すと、よっこらしょといって立ち上がる。
「あ、場所だけ言ってくれれば、俺がやります!」
「そうじゃないのよ。さすがにここは、わたくしの能力が必要だと思うわよ」
「魔術っすか?」
 ええ、とツヴァルザランは頷いた。カクスケが物を運ぶのが得意なように、あるいはマルクが無機物に命を吹き込むことができるように、魔族という種族のうちの使い魔であるツヴァルザランにも、なにかに特化した力があるということだ。そういうファンタジックな話、男なら、心がときめかないわけがないよな。
 俺はツヴァルザランの指示を受けて、米を研いで水に浸した。米の入れ物は「ぼ木がやります!」と、オケがとんできたので、彼を水で綺麗に洗い、器代わりにつかうことにした。釜に入れなくていいのかと思っていたが、ツヴァルザランは「大丈夫です。わたくしの言うとおりにしてくださいな」と言ったので、オケの頭には、水に浸かった米が入っている状態になった。
 オケはシンクからふよふよと浮かび、ツヴァルザランの目の前に着地した。その頭上に、ツヴァルザランが手をかざす。
「おお、すげえ便利だ……」
 ツヴァルザランの能力を目の当たりにした俺は、一瞬にして炊き上がった米をみて、感心するほかなかった。
「わたくしの得意とする魔術は、『時間付与』。いきもの以外のあらゆる物体に対しての時間を操ることが出来ます。これを応用すれば、瞬時にお湯を沸かしたり、このようにお米もすぐに炊き上げることが可能です」
 ツヴァルザランによれば、時間を進めるだけではなく、戻すことも出来るそうだ。たとえば何かを壊してしまったとき、わざわざ修理をしようとしなくとも、この能力を使えば、一瞬にして元の状態に戻すことが出来るらしい。
「その代償に、わたくしの体力が枯渇するほどに奪われてしまいますから、歳を重ねた今となっては、無闇やたらとは使えなくなってしまいましたわ」
「え……大丈夫っすか?」
「まあ、米を炊き上がった状態にするくらいなら、大したことはありません。お気になさらないで」
 俺はマルクが渡してくれたしゃもじを受け取って、何個もおにぎりを握った。ガークが手を伸ばして、握っているそばから食らいついていくものだから、いっこうに数が溜まらない。
「ガーク、お前、もうちょっとみんなに気を配れよ」
「なんだ、オマエが握り飯を作るのが遅いんじゃないのか」と開き直る始末だ。俺はガークにとられる前に一個だけカクスケに渡してやった。
「かたじけのうございます」
 うやうやしく頭を下げながら、丁重に受け取るカクスケがちょっと可笑しかった。
 結局ガークも、周りの雰囲気を察知したのか、両手におにぎりを持ったまま、それ以上はなにも取らないことにしたようだ。
 食事が終わってみんなで片付けをしたあと、アマドキアをベッドに連れて行き、横になってもらった。
「じゃあ、明日また来ますから、今日はゆっくり休んでくださいね」
「今日は久々にたくさんの若者たちの顔を見られて楽しかったよ。ありがとうね、コタローくん」
 アマドキアやツヴァルザランに見送られて、俺たちは彼らの屋敷を後にする。
「いやあ、なんだか逆に俺たちがもてなされちゃったな。マルクくん、ありがとうな」
「ぎゃっ!」礼を言われると思っていなかったのか、マルクは途端に叫んで顔を赤らめた。驚いた拍子に首が浮いたように見えたのは、気のせいではないだろう。「大丈夫ッス! オイラのことは気にしないでいいから」
「じゃあ、オイラは明日も早いから、これでお暇させてもらうよ」
 そう言ってマルクはそそくさと荷台を引いて立ち去っていった。なんだか悪いことをしたかな……と罪悪感に囚われたが、たぶん、あいつはガークから早く距離を置きたかったのだろうと気付いた。
「今日はみんなにアマドキアさんのことを知ってもらうために全員で押しかけちゃったけど、明日からは当番を組んで、交代で訪問しよう。ローテーションを今日中に決めておくから、また明日からもよろしくな」
 俺の言葉に頷いた竜族の若者たちの顔は、キラキラと輝いてみえた。ああ、元いた世界でも、こうして仕事に意欲的な若者ばかりなら、俺のいた業界も、もっと活気が溢れていたのかもしれないな……。
 
 竜族の集落に戻った俺たちは、ガークたちの厚意で大浴場を使わせてもらうことになった。張り切りだしたのはサンスケとオケだ。
 俺はカクスケと一緒に、一旦こもれびの杜に戻って着替えなどを準備してから集落に戻った。そのときに、一応筒原さんやばあちゃんも誘ってみたが、二人とも遠慮しているのか、「貴方たちだけで行ってきなさい」とのことだった。
 集落にもどったときは、すでに男たちは浴場に入っていた。サティーはさすがに一緒に入らないようで、「ゆっくりしていってね」と、すれ違いざまに微笑んできた。
「ガーク様のお背中も、ウェイドくんのお背中も、逞しくて洗い甲斐があるでぃすよ! ぼ木がもうひとり、欲しくなりますでぃす」
 オケがガークたちの頭の上をふよふとと浮かびながら、きゃんきゃんと喚いている。
「僕もガーク様も、心身を鍛えるための鍛錬を欠かしませんからね。筋肉がつくのも致し方ありません」
 いかにも真面目な口調で、オケに答えているのはウェイドだった。
「オマエの住んでいる石造りの建物に、妙な灌水装置があったが、そちらでも体の汚れが落とせるだろうに、オマエたちロイメンは大袈裟な風呂が好きなのか?」
「か、かんすい……そうち?」
 聞き慣れない言葉に、俺は首をかしげる。その隙にカクスケがオケの頭から手拭いをとって俺の背中を擦ってきたため、「あっ、ぼ木がやりますから、カクスケくんはコタローくんの横で座っていてください!」と言われていた。
「コタローくんも、カクスケくんも、ぼ木がお背中を流しますからね! ああ、忙しい忙しいでぃす!」
 多忙を嘆きながらも、オケは随分と嬉しそうだ。
「妙な形の管から、水が飛び出てくる部屋があるだろう」
「ああ、あれか」 
 事務所のシャワールームのことかと合点する。「たしかに俺たちの事務所には、簡単な『カンスイ装置』はあるけれど、やっぱり風呂は大きい方がいいからな。ガークたちのこの大浴場は、温泉みたいですげえ気持ちいいし、出来れば毎日入りたいくらいだよ」
俺が手放しに褒めるので、ガークは気を良くしたようだ。満足げにニヤニヤと笑いながら、「そんなに大したものではないが、オマエがそういうのなら、毎日入ってもいいぞ」と胸を張った。
「ところでコタロー、イルムはなんで自分のことを名乗るときに、『サンスケのサンスケ』などと、同じ言葉を二回も繰り返して言っているのだ? アイツと知り合ってから、ずっと疑問に思っていたのだが」
 ぶはっと笑ってしまった。いまはウェイドの体をごしごしと洗っているサンスケのほうを見ると余計に笑ってしまいそうなので極力視界に入れないようにする。
「まあ、分かりづらいよな。あいつはイルムという名前だけど、自分の職業を仮の名前として名乗っているんだ。理由は知らないけどな。ガークが、たとえば名前を知られたくないとかの理由で、『竜族のドラゴンだ』と言うのと似たようなものだと思ってやればいい」
『サンスケのサンスケ』ことイルムは、さすがにそれを商いとしているだけあって、体を洗うのが上手かった。汚れや垢をそぎ落とすかのように、丁寧にごしごしと洗ってくれる。あまりにも気持ちよすぎて、体を洗われた者はそのまま寝そうになっていることがある。
「そうだガーク、さっきアヴァリュートさんに食事をもっていったからな。今日も穏やかに過ごしていたぞ」
 アヴァリュートの餌付け(と言ったら怒られるだろうか)は、俺と筒原さんが交代で行っている日課だ。ザンドラやジュヴァロン親子が集落から持ってきてくれる食事を、時間になれば俺たちがアヴァリュートのもとへ届けるのだ。焼いた肉や果物など、その日ごとにメニューは違っていて、俺もたまに食べたくなったりする。
「いつもすまないな、コタロー」
 ガークの頭は、泡だらけになっている。俺がシャンプーを貸してやったのだ。
以前、「しゃんぷーとはなんだ」と問うてきたガークの頭につけてごしごし洗ってやると、その泡立ちに感動したらしく、それ以来一緒に風呂に入ると、毎回所望してくるようになったのだ。そんなにお気に召したのなら、ホライゾンでまとめて買って、ガークにプレゼントしてやろう。
「さあさあ、お次はガークさんの番っすよっ!!」
 サンスケがこちらにやってきて、おどけて言った。さっきまで俺たちがこそこそと彼の噂をしていたことには、気付いていない様子だった。
体を洗い終えたウェイドは、オケに頭からお湯をかけられている。
「ガークとウェイドは、昔から、その、戦友みたいな関係だったのか?」
「気になるか?」
 にやりと笑ったガークの頬を、お湯の雫が流れ落ちていく。俺が頷くと、ガークは「しょうがないな」と呟き、昔の彼らのことをぽつりぽつりと話してくれた。



 オレとウェイドは、いわゆる幼馴染みというやつだ。オレたちがこの世に生を受けたとき、ベリュージオンはまだ戦禍のさなかにあった。いまの平和など、まるで想像もつかない、血で血を洗うような争いが、ベリュージオンの全土で勃発していたのだ。
 オレたちは子供のうちから戦争にかり出された。オマエが言うには、ロイメンは何年も親の庇護や寵愛を受けながら、慎重に育てられる場合が多いそうだが、竜族の子供として生まれたオレたちは、生まれて間もなく自立を強要される。とくに当時は、オレたちの集落でも一族総動員で戦っていたから、悠々と子育てをしている場合ではなかったのだろう。
 ウェイドはいまでこそ立派な戦士であるが、子供の頃は、そうではなかった。

「ガークさま。僕、ぜったいにガークさまが傷つくような目には遭わせませんからね!」と、そのくせ、口だけは立派だった。膝をガクガクと震わせながら、賢明に勇気を振り絞ってオレを守ろうとしてくれていた。戦士としての片鱗をみせていたといえば聞こえはいいが、当時のオレは「弱虫が。粋がってんじゃねえよ」と思っていたな。
 竜族の長として威厳を奮っていたじいちゃんは、自ら戦場に君臨するドラゴンとして他の種族からは恐れられていた。魔術をもってしても、剣や槍、大砲などをもってしても、全身を覆う鱗は剥がせず、呼吸をするかのように吐くブレスが、敵を圧倒した。
 じいちゃんがいれば、竜族の戦況は安泰だと思えたが、それでも戦いの規模が大きくなっていくにつれて、じいちゃんだけでは到底まかないきれぬ戦禍が、オレたちを襲っていた。だからこそ、オレたちも戦場に立たなければならなかったのだ。

「お、竜族のガキじゃねえか。こいつらの首をとれば、あのドラゴンも、ちっとはおとなしくなるんじゃねえのかあ?」
 やまない戦いに疲弊し、オレとウェイドが森の茂みの中に身を潜めていたときだった。うまく隠れられていたと思っていたが、むしろそこは誰かに見つかりやすいところだったのかもしれない。野盗のような男たちに、オレたちは捕まりそうになった。
「ガークさまっ!!!」
 ウェイドはオレを守ろうと、あいだに立ちはだかったが、声は震え、いかんせん、頼りなさげに腰が引けていた。「こ、ここは僕がっ!!! お、お逃げくださいっ!!!」
「おうおう、随分と勇敢な坊ちゃんじゃねえか。付き従う主君を守り抜き、盾となるってわけかあ? だが、貫禄が足りねえ。そんなんじゃあ、大切なご主人様は守れねえぜ!!」
 ウェイドには悪いが、野盗の言うとおりだと思った。そもそも最初から、オレはウェイドに守られるだけの存在ではないと自分で心得ていた。
 ウェイドは、腰に着けている鞘から短刀を抜きだし、両手で持って身構える。アイツがごくりと唾を飲み込んだ音が、オレにも聞こえた。
 はなからウェイドをおいて逃げるつもりはなかった。たしかにオレは長老の孫であり、一族の中では立場は上の方かもしれない。しかし、ウェイドとのあいだに、そのような上下関係は作りたくない。幼馴染みとして、対等に付き合いたいだけだ
「ウェイド、オレも戦う。一緒にコイツらを倒そう!」
「ガークさま……」
 ウェイドは放心したように呟いた。しかし、その先の言葉は、剣と剣のぶつかり合う音にかき消された。野盗がウェイドに刃を振り下ろしてきたのだ。
 ウェイドは必死の形相で、攻撃に応じた。野盗は魔族の端くれであろうことは分かったが、ヤツらがどんな魔術を使ってくるのか、まだわからない。 オレは自らの拳を武器として戦うことを信念においている。武器をとって戦うのは苦手だ。そんなに頭は良くないし、隙をついて武器を奪われたとき、おろおろと狼狽えそうな気しかしないから、ならば最初から自分の肉体を武器として使えば、本能のままに戦えると思ったのだ。
 オレのほうに向かってくる野盗を牽制し、相手の脇腹に拳を打ち込んだとき、背後でキィン! と、刃が弾かれた音がした。
 オレは瞬時に振り返った。ウェイドが持っていた短刀が、宙に舞い、くるくると回転しているのが見えた。
「あっ……」
 驚愕に息をもらすウェイドの声が聞こえた瞬間、野盗が振り下ろした刀の切っ先が、ウェイドの上半身を切り裂いたのが、スローモーションで見えた。
「ぐっ……ああっっ……」
「ウェイドッ!!」
 今度は焦燥が声になった。ウェイドの顔面が、天を仰ぎ、目を見開いているのが見える。ウェイドの体から噴き出た鮮血が、オレの視界を染めあげた。
 隙が出来てしまった。前のめりにくずおれたウェイドを守るように、オレは二人の野盗のあいだに立ち塞がり、ひとりひとりを倒すことに専念した。

 野盗を倒しても、目の前で仲間が傷ついたことで、オレは自分が思っている以上に動揺していた。地面に力なく倒れているウェイドの半身を起こして、自分の手についたウェイドの血糊を見て、余計に焦った。……まさか、こんなところで死んだりしないよな……?
「くそっ、ウェイドッ、死ぬなっ、死ぬなっ!!!」
 森の中に響き渡るオレの声。人目も憚らずに、感情を吐露していた。
「ガークさま……僕たちは竜族ですよ……」
 オレよりも怪我をした張本人のほうが冷静だった。ハッと我に返る。そうだ。他種族の生きものたちより、体のつくりが丈夫な俺たちは、致命傷を負わないかぎりはまず、死ぬことはない。
 周りで気絶している野盗が、しばらくは動かないことを確認して、オレはウェイドを起こして背負った。
「おやめください、ガークさま。僕は自分で歩けますから」
「うるさい、怪我人は黙っていろ」
 それでも、傷口が塞がるまでは万全の状態でいられるわけではない。出来ることなら安静にしておいたほうがいいのだ。

 あのとき、オレたちはそれぞれで理由の違ったおなじ感情を抱いていた。
 オレは、友が傷つくような戦いを繰り広げてしまったということを、ウェイドは、満足にオレを守ることが出来ず、また無駄に負傷してしまい、迷惑をかけてしまったとそれぞれで悔悟していた。

 ベリュージオン全土で起こっていた戦争の規模からすれば、オレたちが正対した戦いなど、その辺の路上で起こった些末な小競り合い程度のものだっただろう。
 だが、オレたちにとってはそれが世界のすべてだった。小さな争いですらも、生死をかけた戦いで、そこで首をかかれれば、オレのすべてが終わってしまう。こんなところで、終わるわけにはいかないのに。きっと誰もがそう思っているだろう。戦争に参加する者たちは、一様に必死なのだ。
 だからオレたちは、二度と悔しい想いをしないようにと心に誓った。これからも戦いの中に身を投じる運命ならば、周りの誰よりも強くあろうと腹を括った。月並みな言い方だが、血の滲むような鍛錬も、強くなればこそ耐えられるものだ。



 ガークの口から語られた彼らの過去の話は、俺が思っていたよりも凄惨だった。どの世界においても、生きもの同士が争い、殺し合う「戦争」は、そこに住む者たちの自由と生きる権利をことごとく奪っていくものだ。幼い子供であったこの二人が乗り越えなければならなかった生死の境を彷徨うような日常は、一体なにがきっかけで勃発したのだろう。ベリュージオンで何十年、あるいは何百年も続いた争いの火種は、そもそも後世に至るまで、言い伝えられたのか。さもなくば、彼らはなにも分からずに戦っていた……いや、戦わされていたことにならないか。
 膨大な時間の中で、俺の想像もつかないような量の血が流れたこの世界の歴史を垣間見たような気がして、俺はぶるぶると身震いをした。

「ガーク、お前でも他人を思いやることが出来るんだな」
 俺は、ガークが話したことを、所詮は過去の出来事だとはうまく昇華できなくて、わざとおどけてみせた。
「うるさいぞ!!!! コタロー!!!!」
 ガークはムキになって、俺の顔に向かって、オケの中に入っているお湯をかける。
「ひえっ! いきなりなにをするんでぃすか!!!」
 一番びっくりしたのは、オケだったようだ。目を白黒させて、空中でバウンドしながら怒りを表現している。
「すまない、手近にオマエがいたものでな」
「一声かけてください! 次はありませんでぃすよ!」
 そんなに怒るようなことなのだろうか。他人の怒りの沸点は、よくわからないものだ。オケがそもそも他人とカウントされるのかは、個人の判断によってちがうだろうが。
「ふう〜、さすがサンスケは三助なだけあって、やっぱ体を洗うのが上手いな」
 ガークと二人で騒いでいるうちに、洗身の番が俺に回ってきたようだ。
「そうっすか? まあ、やつがれはこれくらいしか得意なことはありませんからね! ひとつでも取り柄をもっていないと、やっていけません」
「コ、コタロー殿もすごいですよ! お年寄りの扱いにかけては、右に出る者はいません!」
 カクスケは、俺の功績を称えるために必死に力説している。サンスケに、なにやら対抗意識をもっているようにもみえた。よくわからない。そこまで俺をアゲたいのか?
「うむ。コタローは凄い。竜族のしきたりをぶち壊し、オレたちにじいちゃんと余生を過ごせるよう、取り計らってくれたからな。……感謝しているぞ、コタロー」 
「いっ、いきなりなんだよ、ガーク!」
 自分の声が震えたのが分かった。
「コタローが困っているとき、オレが一番の理解者になってやりたいと、烏滸がましいかもしれないが、オレはいつもそう思っている」
そう言ってガークは語り始めた。
「強さとは、なにも腕っ節が強いということを指すばかりではない。その定義は曖昧だ。たとえ戦いとは無縁の者であったとしても、『心が強い』と、評されたりする者がいる。オレにはさっぱり分からない理論だったが、最近はコタローが、それに当てはまるんじゃないかと思ったりする。オマエはオレが思いっきり拳を打ち込めば、臓物をぶちまけて即座にくたばりそうな柔な体をしているが、きっと、精神的な強さは、オレの何倍も強いのだろうな」
「さあさあ、体を洗い終えたら、ちゃんと温まるんでぃすよ!!!」
 オケの声が頭上から降ってきた瞬間、大量のお湯が全身にかけられる。ナイスタイミングだ。だって、嬉しいのか、驚いたのか、よくわからずに俺の目から溢れ出てきた涙が、誰にも見られることなく済んだからな。