俺たちの目の前には、森が広がっていた。事務所が建っていた場所は、住宅街の中だったはずなのに。
俺の記憶の中だと、その名の通り住宅が建ち並び、家々の垣根を縫うように、道路が整備されていた。いつもと同じ光景に飽き飽きしていたけれど、飽きるほどに馴染んでいた光景が、あるはずの場所に無いというのは、奇妙を通り越して不気味だった。
住宅街の代わりに現れた森は、空を覆い尽くすほどに背の高い針葉樹が集まってできたところらしい。葉の隙間から木漏れ日が降り注ぎ、ふかふかとした土の地面を照らしている。鳥の囀りが鮮明に聞こえてくる。『こもれびの杜』とは、まさにこの状況のことを言うんじゃないだろうかと思うほどにぴったりの光景だった。
「筒原さん」俺は、隣に立つ職場の上司に向かって呼びかけた。「これは一体、どういうことなんでしょうね」
「異世界転生よ」
断言するのか。それは、あなたの願望でしょう。
筒原さんの趣味は、読書だ。休日には駅前の大型書店に行って、何時間も本を物色するのが楽しみなのだという。小説が好きだと言っていたが、読むジャンルには隔たりがなく、俺にはよくわからない小難しそうな内容から、ライトノベルまで。目についた本を、手当たり次第に買って読んでいるらしい。ずっと独身を貫いてきたから出来ることよと、笑っていたことがあった。
そんな彼女の口から、「異世界転生」という言葉がするりと出てきたのには納得だ。だが、この状況に一番順応しているのが筒原さんだということには納得がいかない。
超常現象だ。本やアニメの中だけで起こるようなことが、実際に起こっている。それとも俺が知らないだけで、自分たちは本やアニメの中の住人なのだろうか。冗談はさておき、訝しげに筒原さんを見つめる。小説の読み過ぎで、現実と空想の区別がつかなくなったんだろうか。あるいは知識の積み重ねで、何が起こっても動じなくなったのだろうか。
後者はない。筒原さんは介護職をしているが、そんなことを気にするのか? と言いたくなるようなことで取り乱すことがある。普段の彼女の様子から鑑みても、この状況で一番取り乱しそうなのは(一番といっても、俺と筒原さんとばあちゃんの三人しかいないけど)筒原さんだと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「あれあれ、これはまた、素っ頓狂なことが起こりましたねえ」
とことこと小刻みな足音がして、ばあちゃんまでもがこちらにやってくる気配がした。ばあちゃんもまた、いつもと変わらない調子で今の状況を受け入れている。……と言いたいところだけれど、ばあちゃんは多分現状がわかっていない。
見当識という言葉がある。現在の年月や時刻、自分がどこにいるかなどの基本的な状況を把握する能力のことだけれど、ばあちゃんはそれがうまく機能していないことがある。
俺たちは「見当識障害」といっているけれど、自分はまだ二十代ですと言い張ったり、昼なのに夜だと勘違いしたり、自宅にいるのに「家に帰ります」と言って出て行こうとするような状態だ。
俺も見当識がおかしくなりそうだ。このあと何が待ち受けているのかなんて、全く見当がつかない。なんちゃって。
「コタロウくん、それとお姉さん。わたしたちは一体どこに来てしまったんですかねえ」
大丈夫。ばあちゃん、俺にもわからない。
筒原さんの言うとおり、俺たちが異世界に来てしまったのなら、もうそれを受け入れる以外には方法がなさそうだ。だったらさっさと周囲の様子を色々確かめるしかない。
自分よりも肝が据わっている筒原さんにそれを提案してみたら、「虎太朗くん、あなた男の子なんだから、勇気を出して色々調べてきなさい」と、業務命令が執行されてしまった。
何度目を擦っても、頬をつねってみても、周りの景色は変わらない。ならば受け入れるしかないだろう。なんたって前例は様々な書物に書かれているのだから。
区画が整備された町ではなく、ここは同じような景色がどこまでも続く森林地帯だ。当てずっぽうで歩き回れば、たちまち迷ってしまうだろう。
周囲をよく観察してみる。
———足跡があるぞ! ———
足元は土になっているが、よくよく目を凝らすと、うっすらと人の足の形をした跡があるのがわかった。結局ここがどこだかよくわからないけれど、俺たち以外にも誰かがいるということだ。森の中を、裸足で歩くようなやつが。
俺はその足跡を辿ってみることにした。なにか、ここはどういうところなのかという手がかりが掴めるかもしれないからだ。介護職を始めて、俺は随分と度胸がついたように思う。訪問したときに、利用者が急変していたり、死んでいたりと、不測の事態というものに、これまで何度も立ち会ってきたせいかもしれない。
俺はいま、謎の足跡を辿っている。森はどんどん奥まっていくが、景色はさほど変わらない。ただ、色々な人や動物が行き交っていることがわかる。森の中に、通り道ができているからだ。
体感時間にして十分ほど経過したとき、急に視界がひらけて、集落が現れた。とはいえ、俺が見たことのあるような家が並んでいるのではない。学生時代に歴史の教科書で見た、竪穴建物のような見た目の住居が、数棟建っていたのだ。
「すみませーん!」
俺は集落の近くにまで駆け寄って、大きな声を出してみた。こんな見た目の住居なのだから、原住民のような人々が暮らしている可能性がある。果たして言葉は通じるのだろうか。
俺の声に反応して、建物のひとつから、ひょっこり誰かが顔を出した。
「すみません、あの、ちょっといいですか」
俺は藁にもすがる想いで、その人のもとに駆け寄った。
「なんだ、オマエ」
少年だった。十代半ばといったところか。声は低かったが、まだどことなくあどけなさが残っている。鍛え上げられた小麦色の上半身を露出し、腰蓑からはよく引き締まった足が伸びていた。黒い髪を俺たちのヘアスタイルの名称でいうと、ソフトモヒカンのように短く刈り上げている。目は赤く、彼が口を開くと、牙のような歯が生えているのが見えた。
「突然すまない。俺、どうやら道に迷ってしまったみたいなんだ。ここが何処なのか、よければ教えてくれないか」
「この辺りでは見かけない顔だ。オマエ、何処から来たんだ」
質問を質問で返してきた。そりゃそうだろう。相手からすれば、俺はこの集落に襲撃に来た敵かもしれないのだ。警戒するのはわかる。だが、何の武器も持たず、丸腰のまま、しかも一人で乗りこんでくる襲撃者なんて稀なのではないだろうか。
「俺は空野虎太朗、介護職ってわかるかな。……お年寄りの生活を助ける仕事をしている」
警戒心を解いてもらうためにも、自分の情報を相手に教えることにした。第一、俺はこの少年の敵ではない。やましいことは何もないのだ。
それを皮切りに、俺は自分の身に降りかかったこれまでの状況を少年に開示した。もしかすると自分は、今いる世界とは別の場所から来た人間かもしれないこと。元いた場所で大きな揺れに襲われたあと、自分がいた建物ごとこの世界に来たであろうこと。自分が歩いてきた道を戻れば、その建物が森の中にそびえ建っているであろうこと。
話し終えると、少年は少し警戒心を解いてくれたようだった。険しかった表情が、幾分和らいでいる。
「ロイメン、大変だったな」
「ロイメン?」
「我々は、オマエたちのことをそう呼んでいる。我の名はガーク。ドラゴンとロイメンのハーフだ」
種族のことか、と理解する。いわゆる「人間」という種類の生き物を、この世界ではそう呼ぶらしい。とすると、ガークと名乗ったこの少年は、ドラゴンと人間のハーフという解釈でいいだろう。
「ガーク、どうしたの?」
先ほどガークが出てきた建物の中から、今度は少女が顔を出した。「だあれ?」
見た目はガークと同じくらいの年齢だろうか。その少女も軽装だったが、ガークとは違い、ベージュの布で胸と、腰回りを覆っていた。
「迷いロイメンだ。どうやらベリュージオンとは違う場所から来たらしい」
「外国の人ってこと?」
「分からない。だが安心しろ。おそらくこのロイメンに害意はない。万が一あったとしても、我一人で制圧できるだろう」
「ガークが言うなら、信じるよ」
少女はそう言って、ガークの隣に並び、俺の頭から足先まで視線を巡らせた。
「こんにちは、ロイメンさん。あたしはサティー」
「初めまして、サティーさん。俺は空野虎太朗。あ、コタローって呼んでくれ」
「よろしくね、コタローさん」
そう言ってサティーは、にっこりと微笑んだ。彼女は肩まで伸びた茶色の髪を、ゴムで一本にまとめていた。ガークと同じように褐色の肌を持ち合わせていて、緑色の目が特徴的だった。鼻筋は高く、目元はぱっちりとしている。
サティーはガークとは違って、俺を警戒する素振りをみせていない。既にガークがそんなものを手放しているからなのか、元々の気性のせいなのかは分からない。
「おい、コタロー」
サティーとの会話を終えたとき、ガークが俺の名前を呼んだ。直後に鳥のさえずりが呑気に耳に届く。「オマエ、年寄りの生活を助ける仕事をしていると、さっき言ったな」
「ああ」
俺が頷くと、ガークの口元が少し綻んだ。探していたものをついに見つけた時のような、そんな表情をしていた。
「頼まれてほしいことがある。どうせ何をしたらいいか、あてはないんだろう」
図星だったが、直接的に指摘されると、なぜかムッとするものだ。だけど俺ももう大人だ。歳下相手に、感情を乱すような真似はしない。
「言ってみろよ」
「我はこの世に生を受けて、五百年になるが、こんなことは初めてでな。……我ら集落の長老の様子が、ずっとおかしいのだ」
前言撤回。ガークは、歳下の少年ではなく、大先輩だった。ここは敬意をはらって、恭しく接するべきだろうか。
「ずっとおかしい……とは?」
「いろいろとあるんだが、たとえば記憶違い、といえばいいのだろうか。さっき飯を食ったのに、食っていないと言ったり、たまに我が誰だか分からなくなっている様子がみられるのだ」
「認知症じゃねえかっ!」
「ニンチショー?」
ガークの頭の上に、はてなマークが浮かんでいるのが見える気がする。初めて聞く言葉なのだろう。俺にとっては、もはや毎日のように聞く言葉だけれど。
それにしても、この世界———さっきガークは「ベリュージオン」と言っていた———にも、俺たちと同じように認知症のような症状に悩んでいる者たちがいるんだな。
どんな生き物も、不老不死ではない限り、いつまでも若いままではいられない。ガークたち竜族も例外ではなく、みんな平等に過ぎていく時間には逆らえず、老いは等しく生きものたちにふりかかってくるのだ。
「ガーク、安心しろ。大したことじゃない。俺たち人間……あー、ロイメンにもよくあることだ」
「よくある、こと……」
ガークは俺の言葉を反芻する。
「ああそうだ。それに俺は、ガークたちの長老さんみたいに困っている人たちを、たくさん相手に仕事をしてきた。だから役に立てるかもしれない。……よければ、長老さんに会わせてくれないか?」
俺がそう言ったとき、ガークの目が俄かに輝いたようにみえた。
「ガークは長老の孫なの。両親は戦争で死んでしまって、ガークはずっと長老に育てられてきた」
サティーがそう切り出して、ガークのことを教えてくれた。
今から四百年前、ベリュージオンの全土を舞台とした大戦争が勃発したらしい。異なる種族同士の領土争いがきっかけで、戦火はたちまち全土に広がっていったという。ガークの両親は、竜族の兵士としてその戦争に駆り出された。強力な能力をもつ竜族に、戦いの場において性別の隔たりはなく、無情にも二人は戦禍の中に散っていった。
竜族は長命の種族ゆえに、年齢が人間の平均寿命を超えていたとしても、百年ほどしか生きていないガークは彼らのなかではまだ子ども同然だった。親を喪ったガークを、長老は甲斐甲斐しく育ててきたという。
「あたしとガークは、あなたたちロイメンからすれば、とても長生きだと思われがちだけど、今のあたしたちはまだ竜族のなかでは子どもなのよ。そうね、ロイメンの年齢でいうと、十代後半といったところかな」
だったら、見た目と合致している。と、俺は納得した。彼ら竜族は、生きてきた年月より、見た目で精神年齢を把握したほうがいいのかもしれない。
「ガークも昔はこんなんじゃなかったのよ」と、サティーは笑った。両親は死んで、長老も(おそらく)認知症を発症した。そんな状況において、ガークは後継者としての意識が芽生えたのだという。
「我のことはいい。コタロー、長老の元に案内する。ついてきてくれ」
最初はエラそうな小僧だと思っていたけれど、彼が抱えている事情を垣間見ると、その所作には理由があるのだとわかる。相手のことをできる限り知るというのは、俺の仕事では基本だ。
俺の記憶の中だと、その名の通り住宅が建ち並び、家々の垣根を縫うように、道路が整備されていた。いつもと同じ光景に飽き飽きしていたけれど、飽きるほどに馴染んでいた光景が、あるはずの場所に無いというのは、奇妙を通り越して不気味だった。
住宅街の代わりに現れた森は、空を覆い尽くすほどに背の高い針葉樹が集まってできたところらしい。葉の隙間から木漏れ日が降り注ぎ、ふかふかとした土の地面を照らしている。鳥の囀りが鮮明に聞こえてくる。『こもれびの杜』とは、まさにこの状況のことを言うんじゃないだろうかと思うほどにぴったりの光景だった。
「筒原さん」俺は、隣に立つ職場の上司に向かって呼びかけた。「これは一体、どういうことなんでしょうね」
「異世界転生よ」
断言するのか。それは、あなたの願望でしょう。
筒原さんの趣味は、読書だ。休日には駅前の大型書店に行って、何時間も本を物色するのが楽しみなのだという。小説が好きだと言っていたが、読むジャンルには隔たりがなく、俺にはよくわからない小難しそうな内容から、ライトノベルまで。目についた本を、手当たり次第に買って読んでいるらしい。ずっと独身を貫いてきたから出来ることよと、笑っていたことがあった。
そんな彼女の口から、「異世界転生」という言葉がするりと出てきたのには納得だ。だが、この状況に一番順応しているのが筒原さんだということには納得がいかない。
超常現象だ。本やアニメの中だけで起こるようなことが、実際に起こっている。それとも俺が知らないだけで、自分たちは本やアニメの中の住人なのだろうか。冗談はさておき、訝しげに筒原さんを見つめる。小説の読み過ぎで、現実と空想の区別がつかなくなったんだろうか。あるいは知識の積み重ねで、何が起こっても動じなくなったのだろうか。
後者はない。筒原さんは介護職をしているが、そんなことを気にするのか? と言いたくなるようなことで取り乱すことがある。普段の彼女の様子から鑑みても、この状況で一番取り乱しそうなのは(一番といっても、俺と筒原さんとばあちゃんの三人しかいないけど)筒原さんだと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「あれあれ、これはまた、素っ頓狂なことが起こりましたねえ」
とことこと小刻みな足音がして、ばあちゃんまでもがこちらにやってくる気配がした。ばあちゃんもまた、いつもと変わらない調子で今の状況を受け入れている。……と言いたいところだけれど、ばあちゃんは多分現状がわかっていない。
見当識という言葉がある。現在の年月や時刻、自分がどこにいるかなどの基本的な状況を把握する能力のことだけれど、ばあちゃんはそれがうまく機能していないことがある。
俺たちは「見当識障害」といっているけれど、自分はまだ二十代ですと言い張ったり、昼なのに夜だと勘違いしたり、自宅にいるのに「家に帰ります」と言って出て行こうとするような状態だ。
俺も見当識がおかしくなりそうだ。このあと何が待ち受けているのかなんて、全く見当がつかない。なんちゃって。
「コタロウくん、それとお姉さん。わたしたちは一体どこに来てしまったんですかねえ」
大丈夫。ばあちゃん、俺にもわからない。
筒原さんの言うとおり、俺たちが異世界に来てしまったのなら、もうそれを受け入れる以外には方法がなさそうだ。だったらさっさと周囲の様子を色々確かめるしかない。
自分よりも肝が据わっている筒原さんにそれを提案してみたら、「虎太朗くん、あなた男の子なんだから、勇気を出して色々調べてきなさい」と、業務命令が執行されてしまった。
何度目を擦っても、頬をつねってみても、周りの景色は変わらない。ならば受け入れるしかないだろう。なんたって前例は様々な書物に書かれているのだから。
区画が整備された町ではなく、ここは同じような景色がどこまでも続く森林地帯だ。当てずっぽうで歩き回れば、たちまち迷ってしまうだろう。
周囲をよく観察してみる。
———足跡があるぞ! ———
足元は土になっているが、よくよく目を凝らすと、うっすらと人の足の形をした跡があるのがわかった。結局ここがどこだかよくわからないけれど、俺たち以外にも誰かがいるということだ。森の中を、裸足で歩くようなやつが。
俺はその足跡を辿ってみることにした。なにか、ここはどういうところなのかという手がかりが掴めるかもしれないからだ。介護職を始めて、俺は随分と度胸がついたように思う。訪問したときに、利用者が急変していたり、死んでいたりと、不測の事態というものに、これまで何度も立ち会ってきたせいかもしれない。
俺はいま、謎の足跡を辿っている。森はどんどん奥まっていくが、景色はさほど変わらない。ただ、色々な人や動物が行き交っていることがわかる。森の中に、通り道ができているからだ。
体感時間にして十分ほど経過したとき、急に視界がひらけて、集落が現れた。とはいえ、俺が見たことのあるような家が並んでいるのではない。学生時代に歴史の教科書で見た、竪穴建物のような見た目の住居が、数棟建っていたのだ。
「すみませーん!」
俺は集落の近くにまで駆け寄って、大きな声を出してみた。こんな見た目の住居なのだから、原住民のような人々が暮らしている可能性がある。果たして言葉は通じるのだろうか。
俺の声に反応して、建物のひとつから、ひょっこり誰かが顔を出した。
「すみません、あの、ちょっといいですか」
俺は藁にもすがる想いで、その人のもとに駆け寄った。
「なんだ、オマエ」
少年だった。十代半ばといったところか。声は低かったが、まだどことなくあどけなさが残っている。鍛え上げられた小麦色の上半身を露出し、腰蓑からはよく引き締まった足が伸びていた。黒い髪を俺たちのヘアスタイルの名称でいうと、ソフトモヒカンのように短く刈り上げている。目は赤く、彼が口を開くと、牙のような歯が生えているのが見えた。
「突然すまない。俺、どうやら道に迷ってしまったみたいなんだ。ここが何処なのか、よければ教えてくれないか」
「この辺りでは見かけない顔だ。オマエ、何処から来たんだ」
質問を質問で返してきた。そりゃそうだろう。相手からすれば、俺はこの集落に襲撃に来た敵かもしれないのだ。警戒するのはわかる。だが、何の武器も持たず、丸腰のまま、しかも一人で乗りこんでくる襲撃者なんて稀なのではないだろうか。
「俺は空野虎太朗、介護職ってわかるかな。……お年寄りの生活を助ける仕事をしている」
警戒心を解いてもらうためにも、自分の情報を相手に教えることにした。第一、俺はこの少年の敵ではない。やましいことは何もないのだ。
それを皮切りに、俺は自分の身に降りかかったこれまでの状況を少年に開示した。もしかすると自分は、今いる世界とは別の場所から来た人間かもしれないこと。元いた場所で大きな揺れに襲われたあと、自分がいた建物ごとこの世界に来たであろうこと。自分が歩いてきた道を戻れば、その建物が森の中にそびえ建っているであろうこと。
話し終えると、少年は少し警戒心を解いてくれたようだった。険しかった表情が、幾分和らいでいる。
「ロイメン、大変だったな」
「ロイメン?」
「我々は、オマエたちのことをそう呼んでいる。我の名はガーク。ドラゴンとロイメンのハーフだ」
種族のことか、と理解する。いわゆる「人間」という種類の生き物を、この世界ではそう呼ぶらしい。とすると、ガークと名乗ったこの少年は、ドラゴンと人間のハーフという解釈でいいだろう。
「ガーク、どうしたの?」
先ほどガークが出てきた建物の中から、今度は少女が顔を出した。「だあれ?」
見た目はガークと同じくらいの年齢だろうか。その少女も軽装だったが、ガークとは違い、ベージュの布で胸と、腰回りを覆っていた。
「迷いロイメンだ。どうやらベリュージオンとは違う場所から来たらしい」
「外国の人ってこと?」
「分からない。だが安心しろ。おそらくこのロイメンに害意はない。万が一あったとしても、我一人で制圧できるだろう」
「ガークが言うなら、信じるよ」
少女はそう言って、ガークの隣に並び、俺の頭から足先まで視線を巡らせた。
「こんにちは、ロイメンさん。あたしはサティー」
「初めまして、サティーさん。俺は空野虎太朗。あ、コタローって呼んでくれ」
「よろしくね、コタローさん」
そう言ってサティーは、にっこりと微笑んだ。彼女は肩まで伸びた茶色の髪を、ゴムで一本にまとめていた。ガークと同じように褐色の肌を持ち合わせていて、緑色の目が特徴的だった。鼻筋は高く、目元はぱっちりとしている。
サティーはガークとは違って、俺を警戒する素振りをみせていない。既にガークがそんなものを手放しているからなのか、元々の気性のせいなのかは分からない。
「おい、コタロー」
サティーとの会話を終えたとき、ガークが俺の名前を呼んだ。直後に鳥のさえずりが呑気に耳に届く。「オマエ、年寄りの生活を助ける仕事をしていると、さっき言ったな」
「ああ」
俺が頷くと、ガークの口元が少し綻んだ。探していたものをついに見つけた時のような、そんな表情をしていた。
「頼まれてほしいことがある。どうせ何をしたらいいか、あてはないんだろう」
図星だったが、直接的に指摘されると、なぜかムッとするものだ。だけど俺ももう大人だ。歳下相手に、感情を乱すような真似はしない。
「言ってみろよ」
「我はこの世に生を受けて、五百年になるが、こんなことは初めてでな。……我ら集落の長老の様子が、ずっとおかしいのだ」
前言撤回。ガークは、歳下の少年ではなく、大先輩だった。ここは敬意をはらって、恭しく接するべきだろうか。
「ずっとおかしい……とは?」
「いろいろとあるんだが、たとえば記憶違い、といえばいいのだろうか。さっき飯を食ったのに、食っていないと言ったり、たまに我が誰だか分からなくなっている様子がみられるのだ」
「認知症じゃねえかっ!」
「ニンチショー?」
ガークの頭の上に、はてなマークが浮かんでいるのが見える気がする。初めて聞く言葉なのだろう。俺にとっては、もはや毎日のように聞く言葉だけれど。
それにしても、この世界———さっきガークは「ベリュージオン」と言っていた———にも、俺たちと同じように認知症のような症状に悩んでいる者たちがいるんだな。
どんな生き物も、不老不死ではない限り、いつまでも若いままではいられない。ガークたち竜族も例外ではなく、みんな平等に過ぎていく時間には逆らえず、老いは等しく生きものたちにふりかかってくるのだ。
「ガーク、安心しろ。大したことじゃない。俺たち人間……あー、ロイメンにもよくあることだ」
「よくある、こと……」
ガークは俺の言葉を反芻する。
「ああそうだ。それに俺は、ガークたちの長老さんみたいに困っている人たちを、たくさん相手に仕事をしてきた。だから役に立てるかもしれない。……よければ、長老さんに会わせてくれないか?」
俺がそう言ったとき、ガークの目が俄かに輝いたようにみえた。
「ガークは長老の孫なの。両親は戦争で死んでしまって、ガークはずっと長老に育てられてきた」
サティーがそう切り出して、ガークのことを教えてくれた。
今から四百年前、ベリュージオンの全土を舞台とした大戦争が勃発したらしい。異なる種族同士の領土争いがきっかけで、戦火はたちまち全土に広がっていったという。ガークの両親は、竜族の兵士としてその戦争に駆り出された。強力な能力をもつ竜族に、戦いの場において性別の隔たりはなく、無情にも二人は戦禍の中に散っていった。
竜族は長命の種族ゆえに、年齢が人間の平均寿命を超えていたとしても、百年ほどしか生きていないガークは彼らのなかではまだ子ども同然だった。親を喪ったガークを、長老は甲斐甲斐しく育ててきたという。
「あたしとガークは、あなたたちロイメンからすれば、とても長生きだと思われがちだけど、今のあたしたちはまだ竜族のなかでは子どもなのよ。そうね、ロイメンの年齢でいうと、十代後半といったところかな」
だったら、見た目と合致している。と、俺は納得した。彼ら竜族は、生きてきた年月より、見た目で精神年齢を把握したほうがいいのかもしれない。
「ガークも昔はこんなんじゃなかったのよ」と、サティーは笑った。両親は死んで、長老も(おそらく)認知症を発症した。そんな状況において、ガークは後継者としての意識が芽生えたのだという。
「我のことはいい。コタロー、長老の元に案内する。ついてきてくれ」
最初はエラそうな小僧だと思っていたけれど、彼が抱えている事情を垣間見ると、その所作には理由があるのだとわかる。相手のことをできる限り知るというのは、俺の仕事では基本だ。



