竜族の集落がある方向とは逆向きに歩くと、森を抜けて街に出るらしい。俺たちはずっとこもれびの杜と竜族の集落を行き来していたから、街に行く機会はなかったけれど、ガークの提案で俺は初めて森を出ることにした。
「拙者もお供いたします!」と胸を張って言うのは、使い魔のカクスケだ。魔物だというのに人型のカクスケは、少年の姿をしている。猫のような形の緑色の目と、坊主頭が特徴だ。さらにこいつは、赤いふんどしのみを身につけている。端からみればとても目立つ格好をしているが、当の本人は「拙者の本業は飛脚で御座います」とさほど気にしていないようだし、俺の周りのやつらもなにも言わないから、きっといちいち気にとめることでもないのだろう。多様性を重んじる文化は、ここベリュージオンでもちゃんと存在するようだ。
「おう、助かるよ」
 俺の返事に、カクスケは嬉しそうに微笑んだ。いつも気後れしたような、控えめな言動をとる彼が笑うと、俺もちょっと嬉しくなる。

「じゃあガーク、行ってくるから、留守番よろしくな」
「ああ、任せておけ」
 認知症を患っている竜族の長老、アヴァリュートは、ガークの祖父だ。今はこもれびの杜の隣の彼専用の小屋で、ガークやサティーたちと昔話をしている。長寿の種族である彼らは、俺が生まれる前からずっと、この世界で暮らしている。自分史を作るとしたら、きっとひとりひとりが広辞苑よりも分厚い書物になることだろう。
 こもれびの杜きっての武闘派である竜族のウェイドは、さっきからひたすらに巨大な木の幹に拳を打ち込んでいる。筒原さんとばあちゃんはそんなウェイドを見て、きゃあきゃあ騒いでいる。
 このところの、いつもの光景が広がっていた。

 街へ行くには理由があった。先立ってカクスケが配り歩いてくれたチラシの反響を確かめるためだ。
「カクスケは飛んだり瞬間移動をしたりは、出来ないのか?」
「拙者のような不束者には、まだそのような魔術を使える技量はありませぬ」
「まだ、ということはそのうち使えるようになるのか?」
「そればかりはなんとも。コタロー殿次第で御座います」
 カクスケは最初、俺のことを『ソラノ殿』と呼んでいたが、どうも呼ばれるたびにむず痒い心地がしたから、せめて『コタロー殿』にしてくれと頼むと、「承知致しました」と丁寧にお辞儀をし、直後から俺への呼称が変わった。もしもあのとき、コタローと呼べと命じていたら、その通りにしていたのだろうか。むず痒い気がしていたのは、名字で呼ばれるのではなく、殿と、敬称をつけられるせいだと気付いたときは、もう遅かった。
「えっ? 俺次第?」
「左様で御座います」
 カクスケはそう言って、ぴょんと背筋を伸ばしなおした。俺の顔を見上げ、言葉を続ける。
「コタロー殿は、マナという力を聞いたことはございますか?」
「ぼんやりとなら聞いたことがある。なんか、神秘的な力なんだろ」
 はい、とカクスケは頷いた。
「ベリュージオンでは、マナとは万物に宿る力のことだと定義されています。コタロー殿のようなロイメンの皆様にも、拙者共や竜族の皆様にも一様に。拙者共使い魔のマナは、主さまとの信頼関係を強固なものにすればするほど、強くなると言われています。使い魔はマナの力を使って、様々な魔術を使えるのです」
「ちょっと待て、でも前にお前は、『荷物を運ぶことしか能がありません』って言ってたよな」
「左様で御座います。いまの拙者は、荷物を運ぶことしか能がありません」
 かしこまりました、と口にしそうになってやめた。あまりふざけても、カクスケには通じなさそうだ。
 俺はまた、カクスケの過去を推察する。こいつは、かつて仕えていた主について、口にすることを禁じられているから、直接聞き出すことはかなわない。でも、カクスケが醸し出す態度とか雰囲気で、もしかするといままでにいい扱いを受けていなかったんじゃないかと察してしまう。当然のように地べたに座ったり、塩むすびを有り難がって食べたり、やたらと腰が低い言動なのは、カクスケの過ごしてきた境遇が劣悪だったからなのではないかと容易に想像がついてしまうからだ。おおよそ命ある者の尊厳が守られていなかった。あるいは、使い魔というのは、そういう扱いを受けることが普通だとされているのだろうか。そうだとしたら、マナの力を強めるための信頼関係など結べないだろうから、どの使い魔も魔術など使えないことになる。カクスケの話しぶりからすると、魔術を使いこなせる使い魔は存在しているようだから、やはり俺の推察は間違っていない可能性が濃厚だ。
 ふいに鼻の奥がツンとなる。カクスケを不憫に思うなど、驕り高ぶった考えだとは分かっている。それでも、どうしてこんなに良いやつが蔑ろに扱われていたのだと思うと、悔しくてしょうがなかった。
 俺は、カクスケを人並みに幸せにしてやりたいと思った。荷物を運ぶだけじゃなく、カクスケ本来の力を引き出してやることが、俺とカクスケの主従契約の中での最重要課題だ。

「コタロー殿、街が見えて参りました。あれがウダイ国の最南端に位置する街、ダインズヴェルシュです」
 カクスケが指差した方向を改めて見据える。俺たちが歩いてきた道が続く正面に、森の出口があった。吊り橋のようなものが見えて、その奥に建物が並んでいる様子が確認できた。
 歩みを進めると、吊り橋の下には川が流れていることがわかった。人がすれ違えるくらいの幅の橋だ。俺が吊り橋と聞いて連想するのは、今にも切れそうな植物の蔓で造られたおっかないものだったが、目の前にそびえ立っているのは、丈夫そうな橋だった。俺たち人間の感覚でいうと、近代的といえばいいのだろうか。
 ダインズヴェルシュという大仰な名前の街は、街のどんな建物よりも高い時計塔が中心に建っていて、それだけで風情を感じる、綺麗な街だった。
「ダインズヴェルシュは、あの時計塔を中心に、丸く街並みが整っております。居住区と商業区に分かれていて、拙者共が初めに立ち入るのは、南側の商業区になります」
 カクスケの指が差したほうを見る。なるほど、たしかに石造りの建物が建ち並ぶ中に、軒先や道路に品物を並べている店がいくつも見受けられた。それにしても、こういう世界の街並みというのは、どうして景観が整っているのだろうか。俺が元の世界で住んでいた町は、道路の大きさも建物の種類も、大抵ばらばらだった。そこに定住している人たちが結託して、景観を整えようと決めている場所以外は、結構雑多な光景が広がっていたりするのである。
「それはきっと、ウダイ国では公共事業で、建設をひとえに担っているからではないでしょうか」
 カクスケにその疑問をぶつけると、こう返事がかえってきた。公共事業という仕組みが、この世界にもあるのかと、びっくりする。別に馬鹿にしていたわけじゃない。
カクスケのいう公共事業というのは、主に国や自治体が主導となって行う事業のことだ。道路の整備だったり、河川の治水工事だったりと、公共の目的のために行われるものを指すらしい。その点は元いた世界と同じなんだな。
そういえば以前ガークが言っていた。ウダイ国は、他の国々に比べても治安がいいのだと。その要因のひとつとして、この公共事業があるのではないかと思う。いろいろな仕事を公共事業でひとえに担っているなら、街の美観が守られるのも納得だ。国が率先して事業をはじめれば、労働者も増える。経済も回る。そうすると生活に困窮する人は減り、犯罪率も低下するだろう。
商業区の通りはさすがに人が多くて、道幅も広かったけれど、それでも行き交う人に肩をぶつけないように注意して歩いた。カクスケはすごい。人が多いのに、一度もぶつかったりしないのだ。
商業区の大通りをしばらく歩くと、大きな広場に行き着いた。中央には、大きな噴水がある。噴水を囲うようにして、そこにもいくつもの屋台が連なっていた。焼き鳥や野菜炒め、パンに肉まんのようなものなど、食べ物の屋台が目についたけれど、俺が興味を持ったのは別のものだった。
 本だ。
 屋台とは少し離れた場所に本屋らしき店があって、軒先に様々な種類の本が並んでいたのだ。
 俺はカクスケに尋ねた。あの店はなんだ?と。
 カクスケは丁寧に教えてくれた。
 ダインズヴェルシュには、たくさんの本屋があるのだと。中でも古本を取り扱う店が多く、本棚の中から貴重な掘り出し物が見つかることもあるという。あの中でなにか一冊買ってみようかなと思い始めたときだった。
「コタロー殿、噴水のそばで、ご老人が倒れています」
「えっ、まじかよ」
 カクスケがとたとたと駆けていくあとを、俺もついていく。
「大丈夫っすか!?」
 尻餅をついたあとのような体勢で転んでいる老婆を見つけた。彼女の周りに、本が散らばっている。
「ツヴァルザラン御婦人ではないですか!」
 カクスケは老婆と顔見知りのようで、姿をみとめるなり、素っ頓狂な声をあげた。
「その声は……」
 ツヴァルザランと呼ばれた老婆が、ゆっくりと顔を上げる。チェーンのついている眼鏡がずれて、鼻の頭から垂れている。紫色の髪をきっちりと髷に結い上げ、とんがった耳には土星の輪っかのようなイヤリングをつけている。
「少し助けてくださるかしら、お兄さん」
「あっ、はい!」
 ツヴァルザランは俺と目が合うと、両腕を伸ばして助けを求めてきた。俺の腕の見せどころだ。
 転んでしまった人を助け起こす場合、自分たちも腰を痛めないように、重心を相手に近づける必要がある。本当は椅子なんかがあればいいんだけど……と、辺りを見渡したときに、すぐそばの噴水が視界に入った。
「ツヴァルザランさん……でいいのかな、四つん這いにはなれますか?」
「ええ、それくらいは」
 ツヴァルザランは体を動かし、横座りの状態になった。
「じゃあそのまま四つん這いになってください。すんませんけど、俺はちょっと腰を支えさせてもらいますよ」
「はいはい」
 理解力はあるようだ。俺の言うとおりに体を動かしてくれた。
「じゃあ次は、噴水の土台に手を置いてみてください。そうそう、そうです。しっかりと手を置いたら、どっちでもいいんで片足を前に出しましょう。……腰は俺が持っていますから、大丈夫っすよ」
 ツヴァルザランの動きに合わせて、俺はそっと彼女の重心を下げる。そうすることによって、足を前に繰り出しやすくなるのだ。
「あとは両手に体重をかけて、そっと立ち上がりましょう」
 ツヴァルザランがふうっと息を吐いて立ち上がろうとする。俺は骨盤を支え、立ち上がりを補助した。
「あら、こんなに簡単に立ち上がれちゃうのね」
 俺が腰と肩を支えながらふらつきがないか確かめているあいだ、ツヴァルザランは感心したように、今度はほうっと息を吐いた。
 俺が立ち上がりの介助をしているあいだに、カクスケが辺りに散らばっている書物を拾い集めていた。
「御婦人、お怪我は御座いませんでしたか?」
「カクスケ……、貴方カクスケね!」
「左様に御座います。拙者のことを覚えておいでですか?」
 やはり二人には面識があったようだ。「ええ、勿論」と、ツヴァルザランは頷く。
「コタロー殿、こちらはツヴァルザラン御婦人。拙者と同じ、使い魔のうちのお一人で御座います」
「はじめまして、俺は空野虎太朗といいます。訳あってカクスケと主従契約を結んでいるロイメンです」
「まあ、カクスケ、新しい主さまは誠実そうな方じゃない! 貴方のことはどうなることかと思ったけれど、良かったわね」
「拙者には勿体のう処遇で御座います」
 猫目をぱちくりとさせて、カクスケははにかんだ。
「ツヴァルザランさん、どこか体で痛むところはないですか? ちゃんと歩けますか?」
「ええ、いまはちょっとお尻が痛いけれど、深刻な状態ではなさそう。助けてくれてありがとう」
 ツヴァルザランは、腰をトントンと手で叩き、その場で足踏みをしてみせた。
「コタロー殿は、カイゴ、という術に長けているロイメン殿であります。先ほど御婦人を立ち上がらせたときに用いた方法も、その術の一環でありますか?」
 カクスケは俺の素性をツヴァルザランに説明する傍らで、目をキラキラと輝かせながら俺に聞いてきた。
「転んでしまった人を助け起こすのに有効な方法だ。重いものを持つときは、腰に負担がかかるだろ? コツさえ把握していれば、その負担を和らげられるんだ」
 術というほど大したものじゃないと思ったが、「介護技術」というからには、術のうちのひとつと考えてもいいのだろうか。
「ツヴァルザランさんは、なんで転んじゃったんっすか」
 カクスケが俺のことを褒めちぎって恥ずかしくなる展開がみえたので、さっさと話題を変えた。「この本たちを運んでいたんですか?」
 いまカクスケが抱えている本は、数えてみると七冊あった。ひとつひとつの重さは大したことはなくても、何冊も積み重なるとそれなりの重さになる。老婦人が持って歩くには、大変かもしれない。
「わたくしの主さまから遣いを頼まれてね。このあたりにある書肆から、いくつか主さまの嗜好に合いそうな本を買ってくるようにと。店を巡っていたら、思いのほかいい本がたくさんあってねえ。買ったものを運んでたら石畳に躓いて転んでしまったのよ」
 なるほど、綺麗に舗装された石畳は、ところどころに突起がある。俺はとくに気にならなかったが、足の上がりにくい年寄りだと、躓いてもおかしくはない。カクスケは裸足だけど、逆に痛くないのだろうか。
「御婦人ももう歳なんですから、お気をつけください」
 何気に失礼なことを言うカクスケ。まあ、言っていることは間違っていないが。
「拙者がお運びしますよ」
 ああ、すまないねえと、ツヴァルザランは言った。裸のままで本を運んでいたのだろうかと思ったが、噴水の池の中に紙袋が浮かんでいた。濡れてしまってもう使えないが、ツヴァルザランが転んだときに中身を全部ぶちまけて、袋だけが噴水にはまってしまったのだと思われる。
「コタロー殿、よろしいですよね」
 俺のほうを振り返って許可をもとめるカクスケ。却下する理由もないが、そもそも首を横に振らせはしないと言いたげな眼差しをしていた。
「わかった。俺もついていくよ」
「当然です」
 ふんとカクスケは得意げに鼻をならした。
 ツヴァルザランの「主さま」が住んでいるのは、ダインズヴェルシュの居住区にある屋敷だった。
 時計塔のある広場を通り抜け、街の北側まで歩いていく。元いた世界には、ヨーロッパという地域があったが、ダインズヴェルシュは、その中世の街並みを具現化したような建物が並んでいる。三角屋根の建物は縦に長く、観音開きの窓がいくつも並んでいる。
 屋根裏部屋でもあるのだろうか、屋根の部分にも窓がついている。あれはたしか、「ドーマー」とよばれる設備だったか。ドーマーは採光、通気などの目的から設置されるもので、雨水の侵入を防ぐために、窓部分は地面と垂直に作られることが多く、屋根の一部を拡張したような見た目になると、本で読んだことがある。
「ありがとう、ここよ」
 ツヴァルザランは一件の屋敷の前に立ち止まった。水色の壁、白い屋根。窓枠も白く、他の建物よりも太陽の光を浴びて輝いているようにみえる。
「うわあ! 綺麗な家ですね!」
 カクスケは、建物を見上げて声をあげた。色彩的に、カモメと海を連想させるような屋敷の扉には「アマドキア」と表札が掲げられていた。
「よろしければ、御礼にお茶をご馳走いたしますわ」
 ツヴァルザランが言った。この世界でも、なにかをしてもらった御礼に軽食を出すという習慣が根付いているのだと思うと、ちょっとおかしかった。
「かたじけない。ありがとうございます。コタロー殿、お言葉に甘えましょう」
「あ、ああ、そうだな」
 俺たちはツヴァルザランに屋敷の中に招き入れられた。部屋の真ん中あたりにあった、テーブルに案内される。カクスケは本をテーブルの上に置き、俺のために椅子を引いてくれた。
 テーブルは広く、椅子も八脚ある。それなのに、屋敷の中には人の気配が感じられない。なのに——。
「ツヴァルザランさん」
 俺はキッチンに立ち、茶器を台の上に並べているツヴァルザランに呼びかけた。
「なにかしら」
「あなたの主さま……は、お年寄りですか?」
 ツヴァルザランの手が止まる。不思議そうな顔をする。「ええ、それがなにか?」
 さっきから屋敷内に漂っている臭い。——それは、尿臭だった。

 聞けば、ツヴァルザランが仕える主、アマドキアは、寝たきりの老人だという。この屋敷はアマドキアのもので、彼の幼い頃から、ツヴァルザランはここに仕えていたらしい。
「主さまは普段から奥の部屋でお過ごしです」
 俺の言葉でいえば、今いる場所はこの屋敷のリビングにあたる場所だろう。ここには靴を脱ぐ習慣というものはなさそうだから、上がり框はない。玄関扉から段差のない床が続いていて、奥にキッチン、そしてその隣の壁に扉がついている。ツヴァルザランの言った、奥の部屋とは、あの扉の向こうのことを指しているのだろう。
「さあ、お茶がはいりましたよ。お菓子もありますから、召し上がっていってくださいな」
 コトリと食器とテーブルの触れ合う音がする。俺とカクスケの前に出されたのは、紅茶によく似た飲み物だった。
「いただきます」
 俺とカクスケは、茶を飲んだ。温かい。ちょうどいい温度だ。カクスケは皿に並べられたクッキーに手を伸ばした。
「これは、ツヴァルザランさんがお作りに?」
 クッキーは美味かった。ありがちな表現だが、外はサクサク、中はしっとりとしていて、口の中で甘さがほぐれていくようだ。
「ええ、主さまのおやつに……と思ってね。でも、たくさん作り過ぎちゃって、どうしたものかと思っていたけれど、良かったわ」
「御婦人、料理の腕が一段と上がりましたね」
「あら、そうかしら」
 ツヴァルザランはまんざらでもない笑みを浮かべている。
「ええ、拙者も、コタロー殿に食事を作って差し上げたいのですが……、如何せん拙者にはそのような技量はなく……」
 カクスケ……そんなことを考えていたのか。最近は筒原さんやばあちゃんが飯を作ってくれているし、俺も料理は出来るから、正直あまり必要としてはいないのだけれど、カクスケの気持ちが嬉しかった。

「ツヴァルザランさん、ごちそうさまでした」
 お茶を飲み終えると、カクスケがせっせと食器を下膳してくれた。一息ついたところで、俺は立ち上がる。
「アマドキアさんに会うことはできますか? 折角ですから挨拶をしたいなと思って」
 ツヴァルザランは食器を洗う手を止め、そうねと呟いた。
「主さまに確認を取って参ります」
 ツヴァルザランが奥の部屋に引っ込んだあと、俺はカクスケに耳打ちをした。
「なあ、なんか匂わないか?」
「……それは、事件の匂いと仰りたいのですか?」
「ちげえよ! もっと現実的な匂いだよっ!」
「ハッ、たいへん失礼致しましたっ!」
 ツヴァルザランたちに聞こえないようにと小声で囁いたのに、カクスケが大きな声で言うものだから、たぶん、奥の部屋にまで丸聞こえだ。
「変な匂い……というか……うーん」
「ロイメンの尿の匂いでしょうか」
「おい、けっこうはっきり言うんだな」
「言葉を濁していては、伝えたいことも伝わりませぬ」
 それはそうだが。
「この屋敷に入ったときから、拙者の鼻には、尿の匂いが漂っていました。……しかし、拙者共使い魔が人様の家のことを自分から口にするのは禁じられておりまする」
 カクスケは剥き出しの腿のうえに握りこぶしを作り、背筋を伸ばしたまま気まずそうに顔を伏せた。
 ツヴァルザランが戻ってきたのは、そのときだった。
「皆様、主さまが、ぜひお目にかかりたいと」
 こちらですと、ツヴァルザランが手招きをしたほうへカクスケと共に歩いていった。

「おお、ようこそおいでくださいましたな」
 ベッドの上に仰向けになっているのは、爺さんだった。白髪頭で、顔中皺だらけ。ずっと寝たきりだからなのか、枯れ木のように痩せ細っている。体には布団をかけられていたが、手の先と足の先が隙間から覗いていた。
 やはり部屋には、尿臭が漂っていた。それもけっこう鼻につく。それよりも壁一面の本棚が、まず目についた。読書が好きなのだろう。枕元にも何冊もの本が積まれている。
「わたしがアマドキアです」
 アマドキアは、好々爺という言葉がぴったりの雰囲気だった。寝たきりでなければ、上質なジャケットを着て、ハットを被り、杖をついて街中を歩いていそうな、そんな幻覚がみえたような気がした。
「アマドキア殿、拙者は使い魔のカクスケです。こちらは拙者の主さま、コタロー殿であります」
 カクスケが俺の代わりに自己紹介をしてくれたので、俺はアマドキアに向かってぺこりと頭を下げるだけにとどまった。
「ご主人さま、この方々はわたくしが噴水広場で転倒してしまったときに助けてくださったんですよ」
「そうですか、そうですか。いやあ、それなら、ツヴァルザランの命の恩人、というわけですな」
「そんな大袈裟なもんじゃないっすよ」
「大袈裟なもんですよ。コタローさんがあそこを通りがからなければ、わたくしはいまもあそこに尻餅をついたままだったかもしれませんからね」
 たしかに、立ち上がるのもままならない状態であったから、俺たちが駆けつけなければ、しばらくはあのままの状態で放置されていたかもしれない。
「まあなんにせよ良かったよ。怪我もないようで」
「それがねえ」
 ツヴァルザランはそう言って、腰のあたりをさすり始めた。「なんだか少し腰が痛いのよ」
「それいけませんっ!」
 俺よりもはやく反応したのは、カクスケだった。
「最初はなんともないと思っていたんだけどねえ、時間が経つにつれて、段々と痛みはじめたんだよ」
「立っていてはだめです、すぐに横になってください!」
 慌てふためくカクスケに気圧されて、ツヴァルザランはすとんと椅子に座った。
「最初は大丈夫だと思っていても、症状があとからでてくることもある。結果的になにもなかったとしても、いまはしばらく安静にしておくにこしたことはない」
 ツヴァルザランは転倒したとき、あの体勢をみるに尻餅をついたに違いない。地面は硬い石畳だ。もしかすると、折れてはいなくとも腰の骨にヒビが入っているかもしれない。
「でも、わたくし……主さまのお世話もあります……」
 途端にしおしおとしぼんでしまったように元気がなくなるツヴァルザランに、俺はひとつの提案をする。
「ツヴァルザランさんが療養しているあいだ、俺たちが代わりにその役割を担うというのはどうでしょうか」