介護の世界に関わるようになって痛感したのは、「その時」というのは突然やってくるものだということだった。
 俺たちはそれを「急変」と呼んでいる。健脚だった人がなにかのはずみで転倒してしまい、骨折したりすると、それをきっかけに歩けなくなったりすることもある。
 そんなもん、リハビリを頑張ればいいじゃないかと思う人もいるけれど、年寄りはなにかと悲観的になりやすい。体が衰えて思うように動かなくなって、自棄を起こして気分が塞ぎがちになったり、こんなことで落ち込む自分が情けないと思ったり、歩けなくなった自分は生きている価値がないと嘆きたくなったりすることもある。
 そうすると、再び自分の足で歩くという目標は崩れ、他のこともだんだんと疎かになっていき、出来なくなることが増えていく。体も心もぼろぼろになり、脳が衰えて認知症を発症してしまったり、寝たきりになってしまうこともあり得る。
 俺たちのような若者ではさほど気にしないような些末な体の変化でも、年をとればその後の人生に関わるような事態に繋がることがあるということだ。

 俺たちがベリュージオンにやって来てから、はや、ひと月が過ぎた。新鮮な肉を食いたいと思っていた俺のもとに、ガークたちはどこかで狩ってきたという動物の肉をもってきてくれたり、主にばあちゃんがすすんで世話をしている畑の野菜の苗が成長して花を咲かせたり、生活にはいろいろな変化があらわれた。
 筒原さんは元いた世界では休むことをしらない人のように働いていたから、暇を持て余すことの多い現状がちょっと不満らしい。
「ちょっと早い定年退職だと思えばいいんじゃないっすか」とからかってやると、その日の夜に出てきた俺のぶんの豚汁には、七味唐辛子が大量に入っていた。
 そんな平和な日々を過ごしていた俺たちだったが、穏やかに過ごしていたアヴァリュートが突如おかしくなった日、平和な日常は崩壊した。

 朝から雨が降ったりやんだりを繰り返していた。傘をさすという概念のない竜族たちは、全身を濡らすことには抵抗がないらしい。
「コタロー、助けてくれっ!」
 鬼気迫った様子で、ずぶ濡れのガークが事務所の中に飛び込んできたとき、俺は瞬時にアヴァリュートの身に何かがあったのだと察知した。
「じいちゃんがっ、じいちゃんがみんなを!」
 血が雨に流されていたのか、最初は気付かなかったが、ガークの胸元に何かで切り裂かれたような傷がはしっていた。見ているうちに皮膚に滲んできた真っ赤な鮮血は、水滴とともにガークの褐色の肌を滑り落ちていく。
「わかった。アヴァリュートさんはどこにいる?」
「……集落だ」
 心臓が鎖骨のあたりまで跳ね上がった気がした。「すまない、コタロー、オレのせいだ」
 声の調子を落とし、ガークは言葉を零す。いつもは冷静ぶっているガークだったが、アクシデントには弱いのかもしれない。
「様子を見に行くよ。何があったか、話してくれ」
 ガークが怪我をしているのだ。俺なんかが駆けつけても、なんの役にも立たないかもしれないが、それは考えないことにする。
「オレが早まった。じいちゃんが最近落ち着いているから、大丈夫かなと思ってしまったんだ。じいちゃんと一緒に散歩をしていて、集落に近寄ったら、突然暴れ出してみんなを襲いはじめた……」
 オレのせいだ……と、ガークは再び繰り返した。
「いまはウェイドたちがじいちゃんを抑えてくれている。それでもじいちゃんはまだ正気に戻っていなくて、よくわからない言葉をぶつぶつと呟きながら拘束を振りほどこうと暴れだそうとしている。じいちゃんを落ち着かせる方法がわからなくて、コタローなら知ってるかなと思って、オマエを呼びに来たんだ」
 集落までの道を走りながら状況を伝えてくるガークの声は震えていて、よほど焦っているのがありありと伝わってきた。
「みんな怪我をしている。じいちゃんを制止しようとして、攻撃されたんだ。じいちゃんは長老だから、下手にオレたちも仕返しはできないから、なんとか攻撃をかわしながら落ち着かせるしかなくて……」
「わかった、ありがとうな、ガーク。急ごう」
 ありがとうには、俺を頼ってくれてありがとうという意味と、アヴァリュートのことをなんとかしようとしてくれてありがとうという意味を込めたつもりだ。
 急ごうと言ったはいいが、ほんとうに急がれてしまったとき、俺の脚力でガークに追いつけるかどうか不安だったが、杞憂だった。
 集落に近づいていくにつれ、そこで起こっている緊急事態の様子が、少しずつ明らかになってくる。
 まずは喧騒が、耳に飛び込んできた。男たちの怒鳴り声、悲鳴、そして獣の咆哮。打撃音。そして俺の皮膚をなでる熱い風。雨が降っているのに、熱風が吹きつけてくるなんて!
「コタロー、オレの後ろについて離れるな!」
 雨音をかきわけるように、ガークの声が飛び込んでくる。「じいちゃんの息吹で辺りの温度が急激に上がっている! オレが盾になるから、なるべく当たらないようにしてくれ!」
「当たるとどうなるんだよ」
「いまは雨で威力がだいぶおさまっているが、ロイメンなら皮膚が溶けるかもしれない!」
 おいおいマジかよ……。なんで俺を連れてきた。それほど切羽詰まってたってわけか。

 集落の入口が見えてくる。
「ガーク!!」
 怒号がとんでくる。俺はガークの背中におぶさりながら、肩のあたりから少し顔を出して前方を見据えた。
「ジュヴァロン!! 大丈夫か!?」
 ガークが叫び返す。雨がいつの間にか本降りになっている。頭上を覆っていた森の木々がなくなると、バケツをひっくり返したかのような強い雨が、俺とガークに打ちつけてきた。
「ああっ! 長老はさっきよりおとなしくなった! だが。怪我人が多数出ている。いまはウェイドが一人で長老の気を引いてくれている。そのあいだに、他のみんなを避難させている感じだ! ザンドラたちが誘導してくれているぞ!」
 ガークが走り、集落の中へ入っていく。そこまでくるとさすがに、アヴァリュートの大きな体が視界いっぱいに広がり、振り上げた彼の腕を、ウェイドが全身で受け止めている光景が飛び込んできた。
「ぐぅっ……、ちょ、長老様、お気を確かになさってくださいっ!!」
 ウェイドは甲高い声を張り上げてアヴァリュートを説得している。普段の穏やかな彼からはかけ離れた、必死の形相だ。むき出しの腕と体のところどころに血が滲んでいる。ガークよりも傷を負っていそうだ。
「じいちゃんっ!! やめろっ!!」
 ガークも声高に叫んだが、アヴァリュートには実の孫の声も届いていないようだった。
 咆哮をあげ、真っ赤に染まった目でひたすらにウェイドに向かって攻撃を繰り返している。自分が何者なのかも、牙を向けている相手が誰なのかも分かっていなさそうだった。
「どうしてこんなことに……」
 俺はそう言って慌てて口をつぐんだ。「……すまない」と、ガークが背中越しに詫びてくる。きっかけは、自分がアヴァリュートを連れ出したことにより、混乱を招いてしまったことだと、ガークは思っているだろうからだ。

 我に仇なすものを一網打尽に……。集落を。悪しき者の手には渡らせぬ……。

 聞こえた! アヴァリュートの声だ! でもどうしてだ? ガークとウェイドの様子から察するに、その声は俺にしか聞こえていないようだ。
 咆哮。
「長老様っ!!」
「じいちゃん!!」
 ガークとウェイドの声が重なる。音圧で地面が震えんばかりの唸りが、鼓膜を刺激する。
「コタロー、オレもウェイドに加勢する。じいちゃんを止めなきゃ、集落が潰れちまうっ!!」
 ウェイドが踏みしめている地面のぬかるみが抉れ、足場が不安定になっている。彼の裸足の足元は泥にまみれ、脛や大腿部にも茶色い飛沫が飛び散っていた。
「でもガーク、俺を背負ったままじゃあ、満足に動けないだろ、おろせ!」
「馬鹿にするな。オマエ程度のロイメン、足枷にもならん」
「ガーク様っ、加勢いただきありがとうございますっ!」
ガークの姿を一瞥し、ウェイドは早口で言った。近くで見ると、ウェイドの体のダメージが痛々しい。いくらこいつが強いといっても、一人でアヴァリュートを相手に防衛するのは、きつかっただろう。息が上がっている。

 なかなかくたばらんしぶとい者どもめ。雑魚が一匹増えたところで、儂には勝てぬわ!

 まただ。頭の中に直接流れ込んでくるアヴァリュートの声。どうして俺だけに聞こえる? 自我を失った獣のように、目の前にいるアヴァリュートは吠え続けているだけなのに。
 もしもこれが、アヴァリュートの心の声なのだとしたら、彼は目の前で自分に抵抗し続けている者が、おなじ竜族の仲間だということを理解していない。
「ウェイド! 攻撃をやめるんだっ!!」
 物事の経緯の良し悪しは、後になってからでないとわからないものだ。結果的に俺の声かけはこのとき、一番最悪のタイミングで放たれたのだった。
「えっ!?」
 ウェイドは驚きつつも、アヴァリュートに打ち込もうとしていた拳を引っ込めた。ガークの背中に張り付いている俺の姿をチラリと見やった。俺が言葉足らずすぎたかもしれない。そう思ったとき……。
「あぶねえっ!!!!」
 なにも出来ないくせに、ガークの背中越しに腕を伸ばした。同時にウェイドの視線はアヴァリュートに戻り、ガークが「ああっ」と悲痛な声を漏らした。
 ウェイドの目が見開かれる。体がくの字に折りたたまれ、やがてその背中が膨らんだかと思うと、ぐちょりと音がして、アヴァリュートの爪の先が皮膚を突き破って出てきたのだった。
「ウェイドオォォォッッ!!!」
 ガークが吠えた。感情が滾る彼の背にしがみついて、俺は顔面が蒼白になっていたかもしれない。背筋が凍りつく感覚。
 アヴァリュートの爪に串刺しにされたウェイドの体は、その爪にもたれかかるように弛緩していた。苦悶の表情を浮かべながら、必死で苦痛を耐えている。
「じいちゃん、なにやってんだよ! ウ、ウェイドは、仲間だぞ!!」
 俺がいけなかったのか? 俺があんなときに、ウェイドの気をそらせるようなことを口走ってしまったから……。ウェイドはアヴァリュートの攻撃を避けられなかったのか?
「ガ、ガーク……様……コタローさ、ま……お逃げくだ……さい」
 ごひゅっと、ウェイドの喉が鳴り、その瞬間にアヴァリュートの爪は彼の体から引き抜かれた。地面に頽れるウェイドの体が赤く染まっていく。竜族の血って、人間と同じ色をしているんだなと、今更ながらに思う。なにを呑気なことを言っているんだ。馬鹿か俺は!
「いくらじいちゃんでも許せねえ! ぶっ飛ばしてやる!!」
 ガークはそう言って、地面を蹴った。完全に頭に血が昇っている。ウェイドにとどめをさそうとしたのか、再び振り上げたアヴァリュートの腕を、ガークは空中に飛び上がって蹴り飛ばした。
 ふわりと俺の体はガークから離れ、あっと思った瞬間に地面に落下して尻餅をついていた。ウェイドがうずくまっているすぐそばだった。彼は刺された傷口を両手で必死で抑え、痛みを堪えている。
止血をしてやらないと……。
 俺はそう考えて、自分が着ているシャツを脱ぎ、力任せに縦に裂いて、ウェイドの体に巻きつけた。
「ぐあっ……」
 ウェイドが大きく身を捩ってうめく。ずぶ濡れの布地が傷口を余計に刺激してしまったのだ。
「ごめん、ウェイド。でも、止血しねえと……」
「うっ……ありがとう、ございま……す」
 果たして俺の行動に効果はあるのだろうか。シャツを巻きつけたはなから、布地は一瞬にして赤く染まっていく。ゼエゼエと大きく息をしながら、ウェイドは必死で意識を繋ぎ止めている。
 アヴァリュートとガークは、互いに牽制し合うかのように距離をとって睨み合っていた。これ以上、二人をやり合わせてはいけない。ガークは俺が自分の背中から振り落とされたことにすら気を配れないほどに余裕がない。……だったら。

 俺がアヴァリュートの気を引いて、時間を稼ぐしかない。

 履いているスニーカーは泥だらけだ。靴の中に雨が入ってきて、靴下も足もぐしょぐしょに濡れている。だが、そんなことは関係ない。
「アヴァリュートッ!!! てめえの相手は、俺だあっ!!!」
 出せる限りの大声で、俺は叫んだ。頭の血管が切れそうになる感覚がした。雨音を超えて、喧騒をかき消して、俺の声がアヴァリュートに届くように。そして俺の企みの第一歩は、確実にその足を前へと進めることに成功した。
『ロイメン、この竜族の集落に危害を及ぼそうとしている首謀者は、貴様か』
 やった。これでアヴァリュートの矛先が、少なくともウェイドやガークからは離れた。
「ああそうだ。残念ながら、俺の手下共ではてめえの相手にはならなかったみたいだからな。俺が直々に馳せ参じてやったぜ」
『貴様。愚かで下等な種族であるロイメン如きが。竜族の長であるこの儂に、勝てるとでも思うておるのか!!!』
「へへーん、しらねえよそんなこと。なあ、竜族のじいさん、もーっと広いところでやり合おうぜ。こんなチンケな集落、てめえの墓場にするにはちょっと場所が悪すぎるなあ」
「コ、コタロー……?」
 ガークがぽかんとした表情で俺をみている。俺はちらりと彼をみて、そっとそばに近寄った。
「おい、ガーク、なにも言わず俺の芝居に付き合え。まずは人質にとらわれたふりをしてくれ」
 ガークの耳元でささやいたあと、俺は返事も待たずにアヴァリュートに向き直った。
「てめえの可愛い孫を殺されたくなかったら、おとなしく俺についてくるんだな」
『どこまでも卑劣極まりない下衆め……』
 アヴァリュートは本気で怒っているようだ。だが、混乱している思考の中でも、とりあえずはガークを『自分の孫』だと再認識することができたようだ。
「ぐだぐだ言ってねえで、さっさとこっち来いよ。あっ、言っておくけど、すこしでも攻撃をする素振りを見せてみろ。すぐにコイツの首を搔き切ってやるからな」
 ガークの首を切るような武器は持っていない。すべてはったりだ。言葉の強さとは裏腹に、俺の心臓はバクバクいっていた。物わかりのいいガークはおとなしく俺に従ってくれている。
 ウェイドは傷口を抑えたまま、ことの成り行きを心配そうに見守っている。つまりはまだ死んではいないということだ。はやくしないと。うまくいくといいが……。

 俺はあとずさりをするように少しずつ、集落から離れていった。引き摺られるようにして、ガークもそれについてくる。一定の距離を保って、アヴァリュートもじりじりと同じ方向を進んでくる。
 雨は止む気配がない。激しい雨音は、集中力も削がれるが、ガークに内緒の話をしても、アヴァリュートには気付かれにくいという利点もあった。
 集落を離れるときに気付いたことがある。それはアヴァリュートが一切、集落の建物に危害を加えていなかったこと。集落にいた竜族の仲間たちが敵だと見なされてしまったのかもしれないが、彼が自分の総べる領地を守ろうとしたことだけは本当だったようだ。
 集落の入口にいたジュヴァロンの姿はない。他のみんなと合流しているといいが。
 アヴァリュートが完全に集落を出て少し歩いたあと、俺は再びガークにささやいた。
「俺を思いっきりぶん殴れ。お前が『竜族の集落を脅かそうとしたロイメン』を一撃で仕留めたという芝居をうつんだ」
「しかしコタロー……それでは……」
「アヴァリュートさんがおかしくなったといって、お前は俺を頼ってくれた。これは俺が精一杯考えた、その対応策なんだ」
「わ、わかった……じゃあ、いくぞ……」
「おい、敵にいくぞ、なんていうやつはいねえよ………ふごおっ!?」
 思いっきりとはいったが、自分の腹に穴が空いたかと思った。ガークの拳は、文字通り一撃で俺を仕留めたのだ。ぬかるみの上をのたうち回る俺は決して芝居で苦しんでいたわけではなかった。全身から脂汗が吹き出して、一瞬、本当に意識が飛びかけた。
「じいちゃん! 隙をついてロイメンを仕留めた! 脅威は去った。もう、戦わなくていい!」
 高らかに宣言したガーク。やはり彼は、アヴァリュートの孫なのだ。
『おお、ガーク……。ほんとうによくやった。いたわしい我が孫よ……無事で……無事でなによりだ……』
 さっきまでの怒りはどこへやら。アヴァリュートはそのとき、たしかに祖父としてガークのことを褒めていた。