4
夕食が済んで落ち着くと、急に睡魔が襲ってきた。これはきっと血糖値スパイクなんかじゃない。昨晩からずっと起きている疲れが、いま一気に押し寄せてきたのだ。
こもれびの杜の壁にもたれてウトウトとしていると、「コタロー様、お疲れですか?」と、ウェイドに声をかけられた。
「ああ、まあな。昨日、寝ずに君たちの長老さんの様子を見守っていたから」
「それはいけません!」
ウェイドが声を張ったので、俺は急に目が覚めた。しょぼしょぼと瞬きをする俺に、「ただちに休んでください! 今日はぼくたちが代わりをつとめますから!」と意気込んでみせた。
「コタロウくん、まだ外で遊びますか? ばあちゃんはもう休ませていただきますよ」
腰をトントンと叩きながら、ばあちゃんはそう言って事務所の中に入っていった。自分の寝る場所を理解しているようだ。
「ばあちゃん、寝る前にちゃんとトイレにいくんだぞ」
「やれやれ、わたしはそこまで耄碌してませんよ」
あひゃひゃと笑うばあちゃん。普段は自分のことを耄碌ババアだのと卑下しているくせに、デリケートな部分を指摘されると、意地になってしまうらしい。ばあちゃんの背中を見送って、俺はウェイドに向き直った。
「ごめんな、話している最中に」
「いえ、ぼくのことはお気になさらず」
「じゃあ、お言葉に甘えて、今日は寝させてもらうよ」
ちらりとアヴァリュートの様子を確認すると、出来たての小屋の中にすでに身を潜めて、舟を漕いでいた。
「ちゃんと休んでくださいね。長老様のことは、ぼくたちが見守っていますから」
聞けば、ウェイドは、ガーク、ジロ、ライナ、サティーと話し合って、交代で休息をとりながらアヴァリュートが穏やかに過ごしているかを見ていることにしたそうだ。これだけの竜族の若者がいれば、もしなにかが起こっても大丈夫そうだと思わせてくれる。
ザンドラとジュヴァロンは今日は一旦集落に戻るらしい。宴もたけなわ。筒原さんが事務所の給湯室で一手に洗い物を担っているあいだに、各々それぞれの持ち場に散っていった。
俺は、事務所の床に敷いた布団に、ばあちゃんが横になっているのを確認したあと、その隣に布団を敷いて潜り込んだ。給湯室の方からは、まだ水が流れる音や、食器のふれあう音が聞こえてくる。扉の隙間から漏れてくる電灯の光に、なぜか無性に安心感をおぼえる。
ンゴッ……ゴゴゴッと、事務所内のどんな音をも突き破っているばあちゃんのいびきを聞きながら目を閉じる。瞼が重くなり、すぐに意識は薄れていった。
夢を見た。夢の中で、俺はこれが夢だとはっきり認識している。そのくせ、妙に現実感のある内容だった。
「どうしたんだい、コタロウ!」
俺の背後で、普段から聞き慣れているのに、やけに懐かしく感じる声がした。しっかりと芯のとおったばあちゃんの声だった。
驚いて振り向く。振り向きざまに視界に入ったのは、自分の服装。俺は学ランに身を包んでいた。——中学の頃の制服だった。
「またそんな泥んこになって帰ってきて! まったく洗濯をするこっちの身にもなりなさいな!」
言葉尻は厳しいが、ばあちゃんの顔は穏やかに笑っていた。
「ごめんって、ばあちゃん、友達と遊んでたら水たまりにはまったんだよ」
制服のズボンも靴も靴下も、泥にまみれている。ぐしょぐしょに濡れているような気もするが、感覚としてはよくわからなかった。
「コタロウが元気なのは、ばあちゃん嬉しいけどね。さあさあ、今日はコタロウの大好きな唐揚げをたくさん揚げたからね、早く着替えてきなさい。洗濯物はちゃんとカゴに入れておくんですよ!」
家の中に入ると、味噌汁と炊きたてのごはん、それに揚げ物を終えたばかりらしい香りが鼻腔をくすぐった。懐かしい。……あれ、俺はなんで懐かしいなんて思っているんだ? だって俺は中学生じゃないか。
脱衣所に入り、服を脱ぐ。壁にかかっているカレンダーの年号がおかしい。時代は先へと進んでいるのに、俺の成長は止まっている?
ジャージに着替えて、居間に戻る。ばあちゃんが味噌汁とごはんを器に盛って、ちゃぶ台の上に置いてくれる。
「冷めないうちに食べるんだよ」
「うん、いただきます!」
空腹。箸をとる。左手で茶碗を持つ。唐揚げをつかもうとした箸が、空中を彷徨う。
——あれ?
何度手を動かしてみても、箸はスカッと空中をきるだけだ。なぜだ。疑問符が頭のなかに無限にわいてくる。落ち着け、俺。落ち着くんだ。
茶碗と箸をちゃぶ台に戻したところで、ハッと気がついた。そうだ、これは夢だ。脱衣所のカレンダーは、今年の日付を表していたんだ。
それはもう二度と味わうことの出来ないかもしれない、ばあちゃんが作ったごはんの味。だから今、俺は食べることが出来ていないのだ。
ばあちゃんの認知症が酷くなってしまってから、食事の準備は俺が一手に引き受けるようになった。流石に何年も続くと、それは当たり前の日常のルーティーンに組み込まれるようになっていた。
食事の準備をすることに慣れるのはいい。だけど、それをなんでもないことのように自然におこなうなかで、ばあちゃんができることを奪ってしまっているような気がする。
残存能力を奪うようなことをしてはいけないというのは、介護の鉄則だ。病気や怪我で体や脳のはたらきが衰えても、出来ることは本人にしてもらう。たとえば、一人で料理をしようとすると、鍋を空焚きしてしまったり、調理の手順を間違えてしまうような人でも、野菜の皮むきはびっくりするほどに上手かったり、洗い物をとても綺麗にしてくれることがある。そんな人から、出来ることを奪ってしまえば、生きる意欲を失うきっかけとなり、認知症を発症してしまったり、あるいは進行してしまったりすることに繋がりかねない。
「食べられないのかい? コタロウ」
ばあちゃんが不思議そうな表情で近寄ってくる。ちがうんだ、ばあちゃん……。声が出ない。
「そりゃあそうだろうねえ、コタロウは、ばあちゃんのできることまでうばっちゃったんだからねえ。わたしはまだコタロウのごはんくらい作れたのに。ねえ、コタロウ、ばあちゃんがこうなったのは、あんたのせいじゃないのかい?」
——あ……。
ぽとりと箸を膝の上に取り落とし、ばあちゃんを見る。ばあちゃんは、どうしたんだいと、空虚な目つきで視線を返してくる。真っ黒な瞳に吸い込まれそうになる。
なにかがおかしい。ばあちゃん、なんでそんなこと言うんだよ。俺、ばあちゃんのためを思って……。
「なにがわたしのためだい? コタロウ、あんた、それを一度でもわたしに尋ねたことがあるのかい」
じりじりとばあちゃんが近寄ってくる。今までに見たこともないような目つきで、ばあちゃんは凄むように俺を睨め上げている。心が読めるのか……? なんでだ? ばあちゃん、俺は……俺は……。
「うわあっ!!」
俺は大きな声をあげて、飛び起きた。上半身を起こして、視界に飛び込んできたのは、隣で寝ているばあちゃんの姿と、見慣れたこもれびの杜の事務所だった。
——夢、か……。
最初のうちは、これが夢だということははっきりと分かっていた。だけど、場面がすすむにつれて、意識はどんどん夢の中の世界に沈んでいって、現実との区別が出来なくなっていった。
——そうだよな、ばあちゃんがあんなこと言うはずないもんな……。
そう思う反面、果たしてそうだろうかという疑念もわいてくる。夢の中のばあちゃんが言っていたことは、あながち間違いではないんじゃないか。俺が良かれと思ってばあちゃんのことを何もかもしていたから、ばあちゃんの認知症はどんどん進行してしまったんじゃないか……。
寝汗をかいていた。夢の中で抱いた感情が、現実にまで侵食してきて、どうにも寝覚めが悪い。
俺はずりずりと布団の中から這い出して、立ち上がった。ばあちゃんを起こさないようにそーっと立ち上がって、表に出る。夜風が気持ちいい。
「あれ、コタロー、どうしたんだ?」
いまの寝ずの当番はガークとウェイドらしい。ガークの声に反応して、ウェイドも俺に向かってぺこりと会釈をしてきた。
「ああ、ちょっと目が覚めちまって……」
頭上をバサバサと蝙蝠のようないきものが飛び去っていった。空を見上げると、木々の隙間から青い月明かりが見える。
「アヴァリュートさんはちゃんと寝ているか?」
「ああ、今のところは大丈夫だ」
まあ、大丈夫じゃなかったら、今頃騒ぎになっているんだろうけど。
ガークの隣に腰を下ろす。ウェイドがちょっとだけ体を動かして、場所を空けてくれた。
「コタロー様は、別の世界からきたと、ガーク様から聞きました。それはいったいどういう原理なのですか?」
キラキラとした目で、好奇心を前面に押し出してくるものだから、俺はちょっと面食らった。原理、と問われても、俺に分かるわけがない。
「すまん、俺にもよく分からないんだ」
ウェイドが期待しているような返答はできない。それでも俺はベリュージオンに来るまでのいきさつなど、出来うる限りの説明をおこなった。
「随分と奇妙な出来事ですね」
元いた世界で地震に巻き込まれて死んだのなら、どうして何事もなかったかのように肉体ごとベリュージオンにやって来られたのだろう。加護だとか、魔法だとかいうような不思議な現象に助けられたのだろうとは思うが、なにもかも予想にしかすぎない。
「俺のことはいいからさ、おまえたちのことについても教えてくれよ」
これ以上、根掘り葉掘り尋ねられても、なにも答えられそうにないから、気まずくなるのも嫌なので、すぐさま話題を変えた。
「ぼくたち……ですか」
「ほら、ウェイドくんはさっき、自分の役割は護身や狩りだって言っていたけど、竜族の人たちにはそれぞれ役割が割り振られているのか?」
「はい! 厳密にいえば、誰が欠けても、一族としての統率が崩れないように、みんなが一定のレベル以上で竜族のすべてのことが出来るようにならなければいけません。そのなかで、より自分の得意なことを伸ばし、みんなの役に立てるように努めるのが、竜族の掟のひとつなのです」
どこぞのロイメンたちにも聞かせてやりたい掟だ。自分には関係ないからといって業務を放棄するやつも、一部の仕事しかできない、あるいは他のことを覚えようとしないやつも、みんなこの竜族の爪の垢を煎じて飲めばいいのに。
「ぼくは幼いころから武術を嗜んでおります。そうだ、ぼくに武術のイロハを教えてくれたのは、ロイメンの師匠なんですよ!」
嬉しそうに表情を輝かせてそう言ったウェイドの口から、次の瞬間、耳を疑うようなひとことが飛び出した。
「ぼくの師匠も、一度は死んだ身だって仰っておりました」
曰く、その師匠とやらはもう寿命を迎えてしまった。師匠とウェイドが出会ったのは、いまから百年ほど前の出来事だったという。
「多くを語らぬ方でしたが、あの方がベリュージオンの生まれではないことは明白でした」
勝手な想像ではあるが、師匠とやらも、転生者だったのではないかと勘ぐった。
「師匠がぼくに教えてくださった武術は、拳闘といいます。コタロー様はご存知ですか?」
ああ、よく知っている。ということは、やはり俺たちと同じ世界から、彼はここに転生してきたんだという線が俺の中で濃厚になった。
「今から百年前か……」
当たり前だけど、俺は生まれていない。筒原さんやばあちゃんも、まだ生まれる前の時代だ。あの世界の長い歴史の中で、俺たちと同じようにべリュージオンに転生してきた人が他にもいるかもしれないと思うと、会ったこともない相手に妙に親近感が湧いてしまった。
それからの数週間は、何事もなく日々が過ぎていった。ばあちゃんもアヴァリュートも落ち着いていた。変わったことといえば、ガークの計らいで竜族の集落にある風呂場を貸してもらえることになったくらいか。シャワーだけなのは嫌だと譲らなかった女性陣の言い分が通ったのだ。
集落の竜族たちは、全員が俺たちを手放しで歓迎してくれているわけではないが、それでも最初の頃に比べれば、だいぶ迎合してくれるようになったと思う。こもれびの杜からの距離を考えれば、ちょうど銭湯に通うようなものだった。
俺もそのおこぼれにあずかり、湯舟に浸かれることになった。ガークやウェイドに、一緒に入らないかと誘われたのだ。
俺が誰かと一緒に風呂に入るのは、学生の頃の修学旅行以来だった。そのせいか、俺は妙にテンションがあがっていた。
「あ〜、気持ちいいなあ!!」
ゆっくりと足を伸ばして湯舟に浸かったのはいつぶりだろうか。ばあちゃんと二人で暮らしていたときは、俺が風呂に入っているあいだに何かがあるといけないからと思って、烏の行水状態だった。
「コタローは風呂が好きなのか」
湯舟は広く、俺たち三人が余裕で入れる大きさだった。五右衛門風呂を巨大にしたような設備で、お湯は竜族の男たちが毎度沸かしてくれるという。
「俺たち日本人は、風呂とは切っても切れぬ関係でな。とくにこんなふうに湯舟に浸かって疲れを癒やすのが至福の時だっていう人も多いぞ。たぶん、ウェイドのお師匠さんも、同じような感じだったかもな」
ウェイドが懐かしそうに表情を緩ませた。
「そうですね。師匠は、ぼくとの稽古が終わると、真っ先に風呂に入るのがお好きでした。お湯に体を浸すだけで疲れがとれるというのは、ぼくにはよくわからない感覚でしたが、師匠のお背中を流したりすると、彼は非常に喜んでくれました」
「ニホンジンというのは、コタロー、オマエの身分なのか?」
ガークはちがうところに引っかかったようだ。俺がタオルを湯に浸して膨らませる遊びをしていたら、面白そうだと思ったのかそれを真似して遊びだしたが、話はちゃんと聞いていたらしい。
「身分……、というか、日本は俺が元の世界で住んでいた国の名前だよ。お前たちがウダイ国に住んでいるっていうのとおんなじだ」
身分なんて聞かれたら、俺はしがない平民さ、と答えるしかない。
「オマエの住んでいた世界にも、国があって、いろいろな種族の者たちが暮らしているということだな」
「まあ、そうだな。……でも、世界を牛耳っていたのはにんげ……いや、ロイメンだ。ガークたちのような竜族だとかは、俺たちの想像上の生きものだと思っていたよ」
ファンタジーっていうんだけどなと付け加えたが、聞き慣れない言葉だととっつきにくいようだ。ガークはそれをスルーした。その代わりに「ものごとは一辺倒に考えない方がいいと思うぞ」と、至極当たり前のことを指摘されてしまった。
「それよりコタロー、オマエはもっと体を鍛えたほうがいいな。それなりに筋肉はあるようだが、オレたちに比べると細っこい」
「そういわれても、おまえらみたいに誰かと戦うわけじゃないからな」
言い訳をしながらも、ガークとウェイドの体と、自分の体を比べてしまう。こいつらの体格の良さと分厚さを見てしまえば、自分が情けなくなってくる。男としては、やはり自分は誰よりも強くありたいと思うもんな。
「それともなんだ。ガークは俺にも戦えっていうのかよ」
「状況によっては、そういうこともあるかもしれないな」
半ばやけくそになって言った言葉を、マジのトーンで返されて俺は慄いた。ヒュッと体が少し飛び上がり、水面がゆらゆらと波打つ。そんな俺をみて、ガークはケラケラと笑った。
「大丈夫ですよ。万が一そうなっても、ぼくたちがいますからね」
ウェイドが真面目くさった顔で言った。たぶん、ガークは冗談のつもりで言ったのだろうが、ウェイドはそう思っていないようだった。ただ、戦うことに対してなんのよどみもなく、自分たちが先陣をきって驚異に立ち向かうという考えをもっているのは、頼もしくてちょっとだけ安心したのだった。
夕食が済んで落ち着くと、急に睡魔が襲ってきた。これはきっと血糖値スパイクなんかじゃない。昨晩からずっと起きている疲れが、いま一気に押し寄せてきたのだ。
こもれびの杜の壁にもたれてウトウトとしていると、「コタロー様、お疲れですか?」と、ウェイドに声をかけられた。
「ああ、まあな。昨日、寝ずに君たちの長老さんの様子を見守っていたから」
「それはいけません!」
ウェイドが声を張ったので、俺は急に目が覚めた。しょぼしょぼと瞬きをする俺に、「ただちに休んでください! 今日はぼくたちが代わりをつとめますから!」と意気込んでみせた。
「コタロウくん、まだ外で遊びますか? ばあちゃんはもう休ませていただきますよ」
腰をトントンと叩きながら、ばあちゃんはそう言って事務所の中に入っていった。自分の寝る場所を理解しているようだ。
「ばあちゃん、寝る前にちゃんとトイレにいくんだぞ」
「やれやれ、わたしはそこまで耄碌してませんよ」
あひゃひゃと笑うばあちゃん。普段は自分のことを耄碌ババアだのと卑下しているくせに、デリケートな部分を指摘されると、意地になってしまうらしい。ばあちゃんの背中を見送って、俺はウェイドに向き直った。
「ごめんな、話している最中に」
「いえ、ぼくのことはお気になさらず」
「じゃあ、お言葉に甘えて、今日は寝させてもらうよ」
ちらりとアヴァリュートの様子を確認すると、出来たての小屋の中にすでに身を潜めて、舟を漕いでいた。
「ちゃんと休んでくださいね。長老様のことは、ぼくたちが見守っていますから」
聞けば、ウェイドは、ガーク、ジロ、ライナ、サティーと話し合って、交代で休息をとりながらアヴァリュートが穏やかに過ごしているかを見ていることにしたそうだ。これだけの竜族の若者がいれば、もしなにかが起こっても大丈夫そうだと思わせてくれる。
ザンドラとジュヴァロンは今日は一旦集落に戻るらしい。宴もたけなわ。筒原さんが事務所の給湯室で一手に洗い物を担っているあいだに、各々それぞれの持ち場に散っていった。
俺は、事務所の床に敷いた布団に、ばあちゃんが横になっているのを確認したあと、その隣に布団を敷いて潜り込んだ。給湯室の方からは、まだ水が流れる音や、食器のふれあう音が聞こえてくる。扉の隙間から漏れてくる電灯の光に、なぜか無性に安心感をおぼえる。
ンゴッ……ゴゴゴッと、事務所内のどんな音をも突き破っているばあちゃんのいびきを聞きながら目を閉じる。瞼が重くなり、すぐに意識は薄れていった。
夢を見た。夢の中で、俺はこれが夢だとはっきり認識している。そのくせ、妙に現実感のある内容だった。
「どうしたんだい、コタロウ!」
俺の背後で、普段から聞き慣れているのに、やけに懐かしく感じる声がした。しっかりと芯のとおったばあちゃんの声だった。
驚いて振り向く。振り向きざまに視界に入ったのは、自分の服装。俺は学ランに身を包んでいた。——中学の頃の制服だった。
「またそんな泥んこになって帰ってきて! まったく洗濯をするこっちの身にもなりなさいな!」
言葉尻は厳しいが、ばあちゃんの顔は穏やかに笑っていた。
「ごめんって、ばあちゃん、友達と遊んでたら水たまりにはまったんだよ」
制服のズボンも靴も靴下も、泥にまみれている。ぐしょぐしょに濡れているような気もするが、感覚としてはよくわからなかった。
「コタロウが元気なのは、ばあちゃん嬉しいけどね。さあさあ、今日はコタロウの大好きな唐揚げをたくさん揚げたからね、早く着替えてきなさい。洗濯物はちゃんとカゴに入れておくんですよ!」
家の中に入ると、味噌汁と炊きたてのごはん、それに揚げ物を終えたばかりらしい香りが鼻腔をくすぐった。懐かしい。……あれ、俺はなんで懐かしいなんて思っているんだ? だって俺は中学生じゃないか。
脱衣所に入り、服を脱ぐ。壁にかかっているカレンダーの年号がおかしい。時代は先へと進んでいるのに、俺の成長は止まっている?
ジャージに着替えて、居間に戻る。ばあちゃんが味噌汁とごはんを器に盛って、ちゃぶ台の上に置いてくれる。
「冷めないうちに食べるんだよ」
「うん、いただきます!」
空腹。箸をとる。左手で茶碗を持つ。唐揚げをつかもうとした箸が、空中を彷徨う。
——あれ?
何度手を動かしてみても、箸はスカッと空中をきるだけだ。なぜだ。疑問符が頭のなかに無限にわいてくる。落ち着け、俺。落ち着くんだ。
茶碗と箸をちゃぶ台に戻したところで、ハッと気がついた。そうだ、これは夢だ。脱衣所のカレンダーは、今年の日付を表していたんだ。
それはもう二度と味わうことの出来ないかもしれない、ばあちゃんが作ったごはんの味。だから今、俺は食べることが出来ていないのだ。
ばあちゃんの認知症が酷くなってしまってから、食事の準備は俺が一手に引き受けるようになった。流石に何年も続くと、それは当たり前の日常のルーティーンに組み込まれるようになっていた。
食事の準備をすることに慣れるのはいい。だけど、それをなんでもないことのように自然におこなうなかで、ばあちゃんができることを奪ってしまっているような気がする。
残存能力を奪うようなことをしてはいけないというのは、介護の鉄則だ。病気や怪我で体や脳のはたらきが衰えても、出来ることは本人にしてもらう。たとえば、一人で料理をしようとすると、鍋を空焚きしてしまったり、調理の手順を間違えてしまうような人でも、野菜の皮むきはびっくりするほどに上手かったり、洗い物をとても綺麗にしてくれることがある。そんな人から、出来ることを奪ってしまえば、生きる意欲を失うきっかけとなり、認知症を発症してしまったり、あるいは進行してしまったりすることに繋がりかねない。
「食べられないのかい? コタロウ」
ばあちゃんが不思議そうな表情で近寄ってくる。ちがうんだ、ばあちゃん……。声が出ない。
「そりゃあそうだろうねえ、コタロウは、ばあちゃんのできることまでうばっちゃったんだからねえ。わたしはまだコタロウのごはんくらい作れたのに。ねえ、コタロウ、ばあちゃんがこうなったのは、あんたのせいじゃないのかい?」
——あ……。
ぽとりと箸を膝の上に取り落とし、ばあちゃんを見る。ばあちゃんは、どうしたんだいと、空虚な目つきで視線を返してくる。真っ黒な瞳に吸い込まれそうになる。
なにかがおかしい。ばあちゃん、なんでそんなこと言うんだよ。俺、ばあちゃんのためを思って……。
「なにがわたしのためだい? コタロウ、あんた、それを一度でもわたしに尋ねたことがあるのかい」
じりじりとばあちゃんが近寄ってくる。今までに見たこともないような目つきで、ばあちゃんは凄むように俺を睨め上げている。心が読めるのか……? なんでだ? ばあちゃん、俺は……俺は……。
「うわあっ!!」
俺は大きな声をあげて、飛び起きた。上半身を起こして、視界に飛び込んできたのは、隣で寝ているばあちゃんの姿と、見慣れたこもれびの杜の事務所だった。
——夢、か……。
最初のうちは、これが夢だということははっきりと分かっていた。だけど、場面がすすむにつれて、意識はどんどん夢の中の世界に沈んでいって、現実との区別が出来なくなっていった。
——そうだよな、ばあちゃんがあんなこと言うはずないもんな……。
そう思う反面、果たしてそうだろうかという疑念もわいてくる。夢の中のばあちゃんが言っていたことは、あながち間違いではないんじゃないか。俺が良かれと思ってばあちゃんのことを何もかもしていたから、ばあちゃんの認知症はどんどん進行してしまったんじゃないか……。
寝汗をかいていた。夢の中で抱いた感情が、現実にまで侵食してきて、どうにも寝覚めが悪い。
俺はずりずりと布団の中から這い出して、立ち上がった。ばあちゃんを起こさないようにそーっと立ち上がって、表に出る。夜風が気持ちいい。
「あれ、コタロー、どうしたんだ?」
いまの寝ずの当番はガークとウェイドらしい。ガークの声に反応して、ウェイドも俺に向かってぺこりと会釈をしてきた。
「ああ、ちょっと目が覚めちまって……」
頭上をバサバサと蝙蝠のようないきものが飛び去っていった。空を見上げると、木々の隙間から青い月明かりが見える。
「アヴァリュートさんはちゃんと寝ているか?」
「ああ、今のところは大丈夫だ」
まあ、大丈夫じゃなかったら、今頃騒ぎになっているんだろうけど。
ガークの隣に腰を下ろす。ウェイドがちょっとだけ体を動かして、場所を空けてくれた。
「コタロー様は、別の世界からきたと、ガーク様から聞きました。それはいったいどういう原理なのですか?」
キラキラとした目で、好奇心を前面に押し出してくるものだから、俺はちょっと面食らった。原理、と問われても、俺に分かるわけがない。
「すまん、俺にもよく分からないんだ」
ウェイドが期待しているような返答はできない。それでも俺はベリュージオンに来るまでのいきさつなど、出来うる限りの説明をおこなった。
「随分と奇妙な出来事ですね」
元いた世界で地震に巻き込まれて死んだのなら、どうして何事もなかったかのように肉体ごとベリュージオンにやって来られたのだろう。加護だとか、魔法だとかいうような不思議な現象に助けられたのだろうとは思うが、なにもかも予想にしかすぎない。
「俺のことはいいからさ、おまえたちのことについても教えてくれよ」
これ以上、根掘り葉掘り尋ねられても、なにも答えられそうにないから、気まずくなるのも嫌なので、すぐさま話題を変えた。
「ぼくたち……ですか」
「ほら、ウェイドくんはさっき、自分の役割は護身や狩りだって言っていたけど、竜族の人たちにはそれぞれ役割が割り振られているのか?」
「はい! 厳密にいえば、誰が欠けても、一族としての統率が崩れないように、みんなが一定のレベル以上で竜族のすべてのことが出来るようにならなければいけません。そのなかで、より自分の得意なことを伸ばし、みんなの役に立てるように努めるのが、竜族の掟のひとつなのです」
どこぞのロイメンたちにも聞かせてやりたい掟だ。自分には関係ないからといって業務を放棄するやつも、一部の仕事しかできない、あるいは他のことを覚えようとしないやつも、みんなこの竜族の爪の垢を煎じて飲めばいいのに。
「ぼくは幼いころから武術を嗜んでおります。そうだ、ぼくに武術のイロハを教えてくれたのは、ロイメンの師匠なんですよ!」
嬉しそうに表情を輝かせてそう言ったウェイドの口から、次の瞬間、耳を疑うようなひとことが飛び出した。
「ぼくの師匠も、一度は死んだ身だって仰っておりました」
曰く、その師匠とやらはもう寿命を迎えてしまった。師匠とウェイドが出会ったのは、いまから百年ほど前の出来事だったという。
「多くを語らぬ方でしたが、あの方がベリュージオンの生まれではないことは明白でした」
勝手な想像ではあるが、師匠とやらも、転生者だったのではないかと勘ぐった。
「師匠がぼくに教えてくださった武術は、拳闘といいます。コタロー様はご存知ですか?」
ああ、よく知っている。ということは、やはり俺たちと同じ世界から、彼はここに転生してきたんだという線が俺の中で濃厚になった。
「今から百年前か……」
当たり前だけど、俺は生まれていない。筒原さんやばあちゃんも、まだ生まれる前の時代だ。あの世界の長い歴史の中で、俺たちと同じようにべリュージオンに転生してきた人が他にもいるかもしれないと思うと、会ったこともない相手に妙に親近感が湧いてしまった。
それからの数週間は、何事もなく日々が過ぎていった。ばあちゃんもアヴァリュートも落ち着いていた。変わったことといえば、ガークの計らいで竜族の集落にある風呂場を貸してもらえることになったくらいか。シャワーだけなのは嫌だと譲らなかった女性陣の言い分が通ったのだ。
集落の竜族たちは、全員が俺たちを手放しで歓迎してくれているわけではないが、それでも最初の頃に比べれば、だいぶ迎合してくれるようになったと思う。こもれびの杜からの距離を考えれば、ちょうど銭湯に通うようなものだった。
俺もそのおこぼれにあずかり、湯舟に浸かれることになった。ガークやウェイドに、一緒に入らないかと誘われたのだ。
俺が誰かと一緒に風呂に入るのは、学生の頃の修学旅行以来だった。そのせいか、俺は妙にテンションがあがっていた。
「あ〜、気持ちいいなあ!!」
ゆっくりと足を伸ばして湯舟に浸かったのはいつぶりだろうか。ばあちゃんと二人で暮らしていたときは、俺が風呂に入っているあいだに何かがあるといけないからと思って、烏の行水状態だった。
「コタローは風呂が好きなのか」
湯舟は広く、俺たち三人が余裕で入れる大きさだった。五右衛門風呂を巨大にしたような設備で、お湯は竜族の男たちが毎度沸かしてくれるという。
「俺たち日本人は、風呂とは切っても切れぬ関係でな。とくにこんなふうに湯舟に浸かって疲れを癒やすのが至福の時だっていう人も多いぞ。たぶん、ウェイドのお師匠さんも、同じような感じだったかもな」
ウェイドが懐かしそうに表情を緩ませた。
「そうですね。師匠は、ぼくとの稽古が終わると、真っ先に風呂に入るのがお好きでした。お湯に体を浸すだけで疲れがとれるというのは、ぼくにはよくわからない感覚でしたが、師匠のお背中を流したりすると、彼は非常に喜んでくれました」
「ニホンジンというのは、コタロー、オマエの身分なのか?」
ガークはちがうところに引っかかったようだ。俺がタオルを湯に浸して膨らませる遊びをしていたら、面白そうだと思ったのかそれを真似して遊びだしたが、話はちゃんと聞いていたらしい。
「身分……、というか、日本は俺が元の世界で住んでいた国の名前だよ。お前たちがウダイ国に住んでいるっていうのとおんなじだ」
身分なんて聞かれたら、俺はしがない平民さ、と答えるしかない。
「オマエの住んでいた世界にも、国があって、いろいろな種族の者たちが暮らしているということだな」
「まあ、そうだな。……でも、世界を牛耳っていたのはにんげ……いや、ロイメンだ。ガークたちのような竜族だとかは、俺たちの想像上の生きものだと思っていたよ」
ファンタジーっていうんだけどなと付け加えたが、聞き慣れない言葉だととっつきにくいようだ。ガークはそれをスルーした。その代わりに「ものごとは一辺倒に考えない方がいいと思うぞ」と、至極当たり前のことを指摘されてしまった。
「それよりコタロー、オマエはもっと体を鍛えたほうがいいな。それなりに筋肉はあるようだが、オレたちに比べると細っこい」
「そういわれても、おまえらみたいに誰かと戦うわけじゃないからな」
言い訳をしながらも、ガークとウェイドの体と、自分の体を比べてしまう。こいつらの体格の良さと分厚さを見てしまえば、自分が情けなくなってくる。男としては、やはり自分は誰よりも強くありたいと思うもんな。
「それともなんだ。ガークは俺にも戦えっていうのかよ」
「状況によっては、そういうこともあるかもしれないな」
半ばやけくそになって言った言葉を、マジのトーンで返されて俺は慄いた。ヒュッと体が少し飛び上がり、水面がゆらゆらと波打つ。そんな俺をみて、ガークはケラケラと笑った。
「大丈夫ですよ。万が一そうなっても、ぼくたちがいますからね」
ウェイドが真面目くさった顔で言った。たぶん、ガークは冗談のつもりで言ったのだろうが、ウェイドはそう思っていないようだった。ただ、戦うことに対してなんのよどみもなく、自分たちが先陣をきって驚異に立ち向かうという考えをもっているのは、頼もしくてちょっとだけ安心したのだった。


